タンタンの部屋 第二写真館

2015/12/31(木)04:51

父との5か月の巻。

今年も終わりですね~父と友人とまた大切な人があっちの世界に逝ってしまうお別れの年になってしまいました。自分自身、今年を振り返る意味で記録に残しておきたいので、父との5か月をだらだらと書きます。元旦にインフルエンザで叔母と父が時間差で倒れ入院し、大変な1年の始まりになりました。叔母は2週間で退院したけれども、父は一度も家に戻れませんでしたね・・・救急病院なので肺炎が良くなった20日後に、即退院してと言われた時に連れて帰る事も出来たのですが、入院生活で歩けなくなった父の介護を誰も出来ないので、リハビリ施設のある病院に転院したのですが、今思うと暴れて拘束されるほどまだ父は元気で帰りたがっていたので、家に連れて来ていたら状況が変わっていたかな~と思ったり、1日だけでも家に戻らせてあげれば良かったな・・と少し後悔しています。この時期どこの病院もインフルエンザ患者で空き部屋がなく、最初の病院と転院した所でも一番高い特別室に入院させられて兄は頭を抱えていましたが、結果的には自由に出来る事が多かったのでよかったです。いいホテル並みの料金を出してくれた兄と義姉に感謝!!2月中は、父も元気で少しづつ歩ける様になって来て退院も近いかな?と思って居たところ、姉が主治医に呼び出され定期健診の結果、肺がんが大きくなっていて余命1か月持って3か月と宣告され、父が動揺を隠せない姉を観て変に勘ぐってしまい、それに加えてインフルエンザの院内感染予防で2週間見舞いに行けない状況になり、父は気落ちして随分痩せてしまいました。その間に母が腸閉塞で入院してしまい、毎日叔母と二人で来ていた母が来ない事で益々父は幻覚や妄想をみる様になり、暴れたりして姉を手こずらせ、限界に来ていた姉からSOSの電話が来て、毎週父に会いに帰る様にしました。問題児ヒロキチの看護で要領は得ていたので、父の気持ちを第一に考えて接しましたよ。周りが心配しても食べたい物は何でも食べさせたし、酸素マスクを外せなくなるまでは、誤飲しないように注意して周りに隠れてゆっくりと食べさせました。おでんの大根とはんぺんはリクエストが多く、近くのローソンによく買いに走って見つからないようにたべさせましたね~。個室で良かった(笑)看護婦さんに気づかれない様にこっそりとドアを閉めて「買って来たよ!」と言った時にいたずらっ子の様にニヤッと笑う父の顔が好きだったなぁ・・・思い出します。酸素マスクを付けて話が出来ない時には、最終的に手に文字をなぞって貰っていたのですが、アイスと分かった時「よし!待ってて」と売店に走りましたね~、2口食べて満足してくれるので絶食になった頃も内緒で口に含ませましたよ。痰を吸引する時にばれない様にバニラか氷に限定して(笑)こういう事はヒロキチに散々させられましたからね、慣れっこです誤飲しないように飲み物もダメになってからは、アトマイザーに色んな飲み物を入れて口にシュッと吹きかけるだけでも随分違いました、これは亡くなった親友の時に覚えました。文字も怖いお姉さんに作ってもらい活用しましたが、手に書いてもらう事の方が多かったです。 動けなくなって話す事が出来なくなってからは、意思疎通が出来ない事が大変でした。寝た父にこんなメッセージを貼って残して来たり、看護婦さんに見られるのが恥ずかしかったのか床に丸めて落ちてました。 父は最後まで意識がしっかりしていたので辛かっただろうな・・・そんな時はCDで父の好きな洋楽を聞かせて、拘束されている手でリズムと取る仕草をしてくれて、私達を笑顔にさせてくれましたよ♪聴力は最後まで残るそうなので息を引き取る時は父が一番好きな「道」のテーマ曲を流してました。個室だから出来た事ですが、今までの経験と反省も含めて父の気持ちを考えてやれる事をしたので後悔は少ないです。病室には毎日誰かが父の傍にいたので、3度の危篤も乗り越えてくれたのでしょう。一番の思い出は、3月の父の誕生日を皆揃ってお祝いした事です。ふざけて「一杯やりたいねぇ」と目で合図した父のリクエストに応えて、ノンアルチューハイで乾杯!!めんこい孫達に囲まれていいね♪家族が揃って賑やかな一時でしたが、入院中の母は居なかったので、「お母さんも居たらなぁ」と小声で私に言った父の顔が少し寂しそうでした。母の事を気にかけていた父は、母が来れる様になった頃には、動く事もままならない状態でしたがさすってくれる母の手を握って離しませんでしたね。両親の歩んできた時の永さと深さを握った手から感じとれました。お母さんに会うまで逝ってられるか!と頑張ったもんねお父さん 一番兄弟で悩んだのは父に余命を告知するかしないか。私は告知をして元気でいるうちに心残りがないようにと思っていたのですが、気落ちする事を心配して言わなかった事が今となっては良かったと思いました。そして母には、父が2度目の危篤を脱した時に話しましたが、普段通り気丈に振る舞っていた母でしたが、父が亡くなった後にその反動が来て最近少しづつ前の様に穏やかな母に戻って来てくれています。大切な人が居なくなるのは辛い事ですが、救いは父が家族みんなに見守られた中で息を引き取って幸せな最後を迎えた事ですね。亡くなる直前まで意識がしっかりしていて、最後にお願いしてマスクを外して貰い、アイスを一さじ口に含ませて、母を見つめながらスーっと息を引き取りました。最高の終わり方だよね?お父さん父には病室から桜を見せられたし、綿あめも舐めさせたし良かったかな・・・危篤の夜は3度私が付いていて、意識が戻って握っていた手を握り返してくれる時が一番嬉しかったですね!たまに手のひらを指でコチョコチョしたりして、ヒロキチと同じようなユーモアがある憎めない父でした。誰の手か直ぐ解ってましたね。父の握った手の感触は今も残っています。二つの病院から眺めた岩手山が疲れた私の癒しでした。それとヒロキチの分身もかな?^^ 誰も病気は嫌ですが、辛い事だけではないですね!病気になって初めて気付く事もある。私は亡くなった人の傍に居て教えられた事が多いです。こうやって新しい年を迎えられる事があたり前ではない事もそのひとつ。なので、来年は元気で好きな事が出来るように、心と体のメンテナンスの年にしたいと思って居ます!まずは、2月のメタボ検診をクリアしなくちゃ^m^長々と下手な文章にお付き合いありがとうございました。よいお年を~♪

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