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まだまだ続くし~付点の足音~

2004.12.23
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カテゴリ:こんな事もあった
2004 12/23(木)
昨日は次女の作文から短い文章を紹介した。
長女は昨年の夏休みの「自分史を書く」宿題にshinの事をテーマに選んだ。

「ちょっと自分史とはずれてない?」と私が尋ねると「先生に相談したらお父さんの病気の事もOKって言われたから大丈夫」と言う。

それなら記録の一つにもなるし書いてみたら…と言っておいたのだが。
結構長いものなので途中少し削った部分もあるが、ほぼ原文のままである。


 6月14日。自宅の1階でテレビを見ていると、2階から奇妙な声が聞こえてきた。上がってみると、午前中授業参観に来ていた父が床に座り込み訳の分からぬ事を口走っていた。ただ事ではないと思ったが、どうして良いか分からずに立ち尽くしていると、祖母が様子を見に来た。そして、父を一目見るなり「救急車をよんで!」と叫んだのである。

救急車?なんで?どうして?そんな思いや不安が頭の中を交錯したが、私は弾かれた様に電話に飛びつき119番通報した。
その後、父の手を握り「もうすぐ救急車がくるからね。大丈夫だからね」と励ましたが、相変わらず妙な事ばかりを口走っており、よく見ると右手右足がぐにゃりとしていた。

数分後、救急車が到着した。救急隊員の人が部屋に入り父に話しかけたりするのを私はぼんやりと見ていた。
まもなく父は救急車に運ばれ、私も祖父も乗った。受け入れてくれる病院が中々見つからなかったが、ようやく見つかったのか、走りだした。

 父が運ばれた病院はH病院であった。この病院は、最先端の医療機器などが備えてあり、カルテは全てコンピュータ化されているのだと言う。

治療の間、先程連絡した母が来るのを待っていた。時間がどんどん経つのに比例して私の不安も増していった。
その不安も最高潮に達しかけた時、妹と外出していた母が来た。「大丈夫だった?よく頑張ったね」この言葉に思わず涙が出た。

暫くすると先生の説明があった。
診断の結果、父の病名は脳出血だった。左脳の視床と言う部分の血管が切れていたらしい。
左脳は言葉や記号を使った論理的機能や言語能力、時間の観念、計算などを司っている。
そこにある髪の毛一本分の血管が切れたのだと言う。

この説明を聞き、私は父が死んでしまうのではないかという不安に襲われた。
意識はしっかりとしているらしいので少し安心したが、「24時間以内に再出血すれば命の保障は出来ないし、体の麻痺や言語障害などの後遺症が残るかもしれない」と言われた。

場合によっては手術をしますと宣言され、母はその後、手術に対する同意書を書いて提出した。

3階のICU(集中治療室)にいる父との面会を許された。ICUは重症患者を収容しているので出入りは厳しく、入るのに3つのドアを抜けなければいけない。
さらに手の消毒は必須である。

父は奥のベッドにいたが顔を合わせた瞬間その場から逃げたい衝動に駆られた。私を見つめていた目が普通ではなかった。まるで科学者を見つめる実験用の動物の様な目だったのだ。  
 
仕方がないと解っていても、父をまともに見ることが出来なかった。
それでも母は「絶対大丈夫だから。諦めないで、頑張って闘おう!」と父に言った。
後遺症の事などで頭が一杯で混乱していた私に比べ、こんな時にもいつもの気持ちを保ち続けている母は強いと思った。

 その後、病院に母を残して私は祖父と家に帰った。祖母と妹に病状の説明を簡単にした後、部活の先輩と友達に明日の予定のキャンセルを連絡した。
そしてテレビを見ながら帰りを待った。
待たずに寝ていなさいと言われていたが、何かせずにはいられなかった。

11時頃に母から電話があった。「今夜中に手術をする」と言う内容であった。結局その電話の後、私はベッドに入って無理矢理寝ようとしたが、意外とあっさり眠れてしまった。

次の日、起きてすぐに母に様子を聞いた。手術は長時間におよび、帰宅したのは日付が変わってから。手術後、父の頭には髄液を出す為の管を2本差し込んであると言う。

「今は落ち着いているから。お父さんは悪運が強いから大丈夫。これからは母さんもお見舞いとかであんまり家にいないけれど、そこは分かってね」母の言葉は最強のお守りだ。
この時ほどそう思った事は無かった。

「明日から1週間は念のため部活を休んで欲しい」と母から言われていた。何となく学校へ行くのが恐かった。

月曜日、私はいつもどおりに登校した。毎朝学校へ一緒に行く友達が、普通に話をしてくれるのが嬉しかった。その後、担任の先生と部活の顧問の先生に事情を話した。
担任はすでに知っていたので励ましてくれた。顧問の先生も快く部活を休む事を承諾してくれた。

それからの一週間は大変だった。生徒呼び出しの校内放送を聞くたびにヒヤッとする。
部活がとても恋しかった。

何より辛かったのは駅や街中で親子連れを見かける時で会った。今まで存在自体が当たり前だった家族が欠けている、当たり前だった人がいないと感じてしまうのだ。親に叱られた時にはよく「親なんてウザいだけだ!」と思っていた。
それなのに、その叱ってくれた人がいなくなると、あの笑い声が懐かしくまた聞きたくてたまらないのだ。
人間ってこんなものなのだろう。ウザいと思っていても、結局心のどこかではその人の事が大切だと感じているものなのだ。

父が入院してから1週間後、私は母と妹と3人で病院へ行った。私にとっては2度目、妹にとっては初めての面会であった。

ICUに入るときは1週間前の事もあってか、少し緊張した。しかし父は1週間前とは明らかに違っていた。私や妹が話しかけると何かしら反応を示し、時々照れたように顔を背けるのだ。

何より自分から話しかけてくれる。意味不明な事ばかりだったが、それでもこれは驚くべき変化である。
帰り際に握手をしてもらった。私の手を握る父の手から「負けるものか」と言う気持ちがヒシヒシをと伝わった。

 父が入院していからちょうど10日目の6月24日。母から、父が一般病棟に移ったと聞かされた。久々に聞く明るいニュースであった。母の話では、これから本格的なリハビリに移るようだ。父はとても負けず嫌いな性格なので、きっと頑張れると私も母も信じていた。

その次の日からリハビリが始まった。父の場合は作業療法(OT)理学療法(PT)が用意されていた。
作業療法では手の訓練、理学療法では足の訓練を行っていた。
ある程度調子が出てきたら、リハビリ専門病院へ移る予定だと言う。

それからの20日間、父のリハビリは進んだ。そして7月16日、更なるリハビリのためF病院に転院した。ここでは作業、理学に加えてH病院ではなかった言語療法も加えられた。

転院後、夏休みになった事もあり私はちょくちょく面会に行った。面会に行くと父はその日の出来事や同室のKさんの事などをよく話した。
一つ私が気に入らない事は叔父の名前と私の名前を取り違える事であった。

家族4人の会話の時間が以前より増えたかもしれない。転院後2ヶ月目からは、言語療法の宿題に加えて右手のリハビリも兼ねて母が買った算数や国語の文章問題のドリルを解くようになった。

8月の後半になると、父は理学療法の一環として外歩きを理学の先生と始めた。わずかな段差、階段、坂道、人ごみ、健康な時には何でもなかったものが、父をひどく緊張させる。
しかし、最後に3階の病室まで階段を上り終えた時は疲労と共に大きな充足感が得られたようだ。

母はその事を聞いて、散髪を兼ねた初外出を計画している。
発病当日、授業参観の帰りに散髪したきりだったので、父の額には管を差し込んだ時の傷口が二つあったが、傷もきれいになり部分的にカットされた髪も傷口を隠すまでに伸びている。

リハビリ科のドクターをはじめ、理学の先生や、担当の看護師さん達は大賛成だ。
患者さんたちに対して、いい刺激はどんどん与えるのが病院の方針らしい。
父は外出に備えてステッキを1本借りる事にした。

そのステッキは当分返さなくてもよくなった。
今まで車イスの移動が主だったが次週からはステッキ歩行となったからだ。
勿論誰かと一緒であるのが条件だが、これは大きな進歩である。

この話を聞いた時、私はH病院で歩行訓練を受けていた父の姿を思い出した。その頃の父は、極度に緊張した顔で最初の一一歩を踏み出していた。
それと比較すると、今、父に少し出てきた余裕の表情を私は嬉しく思い、父の頑張る姿を誇りに思った。

今年は天候も不順で冷夏と言われたが私にとってもいつもと違う夏休みだった。
以前は夕食の配膳ぐらいしか手伝わなかった。最近は母が用意してくれた夕食を温め、私が作った味噌汁を出せるようになった。味にムラがあったり具の大きさがマチマチだったりしたが、今では私の自慢料理である。ちなみに好きな具は茄子である。

 父の突然の病気により、本人はもとより家族全員がパニックに陥った。
特に70代、80代の祖父母は気丈に振る舞っていたものの、息子が命に関わるような病気になり大きなショックであっただろう。

母は父の病状に加えて祖父母の事も注意深く見ていた。
頑なに面会を断っていた祖父母も先日、発病後70日ぶりに父と会った。
二人の肩の力が少し抜けたように見えるのは気のせいだろうか。

さて私達はどうだったか。
妹と相談し、家事の分担を決めた。とりあえず出来る事は母の負担をなるたけ減らす事だと気づいたからだ。
しかしいつも出来ていた訳でもなく、反省する事もしばしばだが、以前よりは家事全般に多く関わるようになり、母からも感謝されている。

 9月の連休には父の初の外泊も予定されている。車の乗り降りをはじめ、2階への13段の階段、狭いトイレや風呂など、課題は沢山ある。でも父は外泊を楽しみにリハビリを頑張っている。私も茄子の味噌汁を味わってもらいたい。

その後さらに1ヶ月、父の入院は予定されている。リハビリの内容は、益々ハードなものになっていくだろう。
しかし私達は希望を失わず父をサポートしていきたい。
来年の6月14日、この話を笑いながら出来るようになるために。

以上が長女の文章である。
夏休みに書いたので9月10月についての記載はないが、長女もこんな風に感じていたのかと思うと改めて子供達へ与えてしまったものの大きさを感じずにはいられない。
さて、明日は…。







Last updated  2004.12.30 22:34:08
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