まだまだ続くし~付点の足音~

2005/10/10(月)21:29

アオキ・ワインセラー便り

つれづれ(71)

 今年は 敗戦後六十年になります  先の戦争を語り継ぐことが困難になってきた今 一少年の見た昭和二十年の冬から秋までを書き残しておきたいと思います  戦前から長崎の思案橋で料亭だった私の家は 戦中には海軍に接収され臨時の水交社になりました  白い軍服に短剣をつった若者が旅立つ時 母はなぜか私を抱いて見送るのが常でした  昭和二十年の正月は 憲兵隊の荒々しい軍靴の音で明けました  海軍首脳が風呂場で話したことを父が釜の焚口で聞いて口外したという スパイの名目での逮捕でした  それから 寒風の中 春が来るまで 母と私は父への差し入れの日々が続きました  四月八日は 私の幼稚園の入園式の日でした  なぜか私は母の死を予感していたらしく 朝から母の着物の袂を握り締めて離しませんでした  母は 便所の中で私にかぶさるように倒れましたので 女中達が病院へ運びましたが 手術が失敗して亡くなりました  布団に寝かされて白い布をかけられた母と共に 私一人が病室に何時間も残されました  その後父は海軍司令部の要請で憲兵隊から釈放され病室に飛び込んできて 絶句したままでした  八月九日の朝 庭で弟とチャンバラごっこをしていましたら 空襲警戒警報が鳴って 青いはるかな上空を銀色の飛行機がゆき 白い落下傘を落としました  「きれいかねぇ」といったとたん 強烈な光と 体で受け止めるような衝撃がきて 家中のガラスがこなごなになりました  すぐに山腹の防空壕へ逃げましたが 街が燃える熱で寝苦しい夜が続きました  長崎の旧市街は幸いにも焼失をまぬがれました  思案橋は市電の終点だったのと空き地があったため 数十メートルの穴が掘られ 死体が運ばれてきてうずたかく積み上げられ 重油をかけて焼かれました  再び子供達には普通の日々が戻ってきて チャンバラをしていると 「坊や達 親戚の者ば探してくれんね  金歯が目印たい」とおばさん達に言われて 棒でしゃれこうべの山をつつきました  本当に親戚を探していたのか 金を集めていたのか 子供達には知る由もありませんでした  私の家が進駐軍の将校クラブとして接収されると 家の蔵は一夜にして 米俵と味噌と酒樽が メリケン粉と牛肉とウィスキーやワインに変わりました    平成十七年秋                      石 橋 正 敏 -------------*** 石橋正敏さんは私の高校の先輩です。 長野県は小県郡青木村という所にワインセラーをお持ちでドイツワインの販売をされています。また銀座にはローゼンタールというワインのお店も開いておられます。 アオキ・ワインセラーからは春と秋にワインのカタログが送られてきます。 年に一度利用するかしないか…くらいの私にもとても格調高いカタログを送ってくださるのです。 そのカタログと一緒にアオキ・ワインセラー便りがいつも同封されています。 今回はメール便を使って今朝届いていました。 石橋さんの文章はお読みになって分かるように、余計な甘みや雑味がなく簡潔かつ深さがあります。 さながらアオキ・ワインセラーのワインのような味わいです。 この数日間、故郷長崎の事を強く思っていた私のもとに今朝届いたこのアオキ・ワインセラー便りをどうしても皆さんにご紹介したくなりました。 まるで映画のストーリーにもあるような出来事を淡々と綴っておられ、朝から涙を流してしまいました。 私は原爆の体験もなく語り継ぐべき材を持たない世代ではありますが、ネットを使ってご紹介は出来ます。 長崎に生まれ育った者の小さな役割が少しでも果たせれば…そういう思いから早速石橋さんへメールをしました。 石橋さんとは在京の同窓会でもお会いした事はありませんが、その控えめなお人柄は電話で数回お話しただけでも伝わってきます。 ですから、もしかしたこのような形でのご紹介は本意ではないかもしれない…と午後からは幾分重たい気持ちで過していました。 ところが快いお返事をいただくことができました。 嬉しさと共に感謝の気持ちで一杯です。 おくんちも終わった今日、こうやって原文のままご紹介することができました。 石橋さん、本当にありがとうございました。 -------------*** 石橋さんのアオキ・ワインセラーにはこちらからどうぞ。 しばしドイツを旅しているようなHPです。

続きを読む

総合記事ランキング

もっと見る