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STUDIO di KOICHI

STUDIO di KOICHI

ヤマト乗艦手記


*父方の祖父がなくなった時に遺品のような形でもらったコピーより。
会報に掲載されたものらしいです。
人名、誤字と思われるもの、読み難いものなどは修正してある箇所もあります。
著作権とかは分からずに公開してますが、問題がある場合削除します。 人名などの訂正を求められれば修正します。
(*)はkoichiによる注です。

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平成5年11月26日 小坂校友会報 第23号
大阪市在住 林 進(旧姓 西村)


1---

昭和十五年六月一日、海軍々楽隊を志願した私は横須賀海兵団に入団しました。

全国から集まった軍楽兵(十五志)は五十八名「七ッ釦」の軍服を着て「四等軍楽兵」になりました。
十月十五日新兵教育も終わり「三等軍楽兵」に この間厳しい教育の為か三名の兵役免除者が出て五十五名となっていました。
同日付で「第二十二期軍楽術補習生」となり一年間の教育に入り、十六年十月一日「二等軍楽兵」に進級し十四日補習生を卒業、五十五名は各海兵団軍楽隊勤務を命じられました。
私は久内君、西川君、辻山君の三名と「連合艦隊司令部付」となり十七日、山口県下松市より「山本連合艦隊司令長官」の下旗艦「長門」に乗り組みました。
舷門には岩田軍楽長、先任下士官と十四志の人達四名に迎えられ、私達は岩田軍楽長に連れられ、連合艦隊副官と軍楽隊が所属する運用科分隊長に着任の申告をし隊員には夕食時挨拶する事になりました。

四人並んで頭を下げると、誰かが「オイ、一人づつ名を言え」と言いました。 久内君が「海軍二等軍楽兵久内・・」と言いかけると「声が小さい、大きな声出せんのか」。  大きな声を出すと「何言ってるか分からん、分かるように言え」。
こうやって四人共何回もやり直しさせられこの調子なら今晩「巡検後整列」でどんな事があるのかと思うとゾーとします。

巡検後整列とは私的制裁を意味し海軍では一番恐ろしい言葉です。
十四日の夜に、横須賀残留となった同年兵達はこの整列で顔を腫らし、「軍人精神注入棒」で尻を殴られ痛々しそうに尻をさすり悲しそうな顔をして帰ってきたのを思い出し、今夜は我が身かと思うとどの先輩達も皆同じ洗礼を受けており避けて通れない儀礼のようなものです。

同夜の整列は思ったより軽く、顔も腫れず、尻も二、三発殴られただけで済みました。

2---

翌十八日、「長門」は出航し大分県佐伯湾に入港しました。
軍楽隊の日課は総員起こしから朝食までは乗組員と同じですが「軍艦旗」掲揚の為、八時五分前衛兵と共に船尾に整列し八時になると「君が代」を奏楽。
午前中は「昼奏楽」の合奏訓練、昼奏楽とは長官の昼食時、毎日約四十分位演奏を行います。
午後は翌日の曲目の練習、日没時には「軍艦旗」降下で「君が代」奏楽。  以後は乗組員と同じですが艦を挙げての「戦斗訓練」があれば軍楽隊員「応急員」と言う戦斗配置があり参加します。
但し私達は戦斗配置が無くどんな訓練だったのか知りません。

何日頃か、「総員見送りの位置に付け」ち艦内放送があり上甲板に出ると潜水艦が数隻、後部に何か大きな物を積み出航するところで、山本艦長以下乗組員は帽子を振り見送り、潜水艦も乗組員は帽子を振り出航していきました。
後で知ったことですが「特殊潜航艇」が真珠湾に向けての出撃で帽子を振っていたのは「九軍神」(十名)だったのでしょう。

十一月中旬、「長門」は岩国沖に入港、この時真珠湾攻撃最後の打ち合わせが岩国航空隊に於いてあり、そうとは知らぬ乗組員は岩国に上陸し喜んでおりました。

3---

十一月中旬、「長門」は柱島沖の旗艦ブイに係留されました。
何日だったか私達四人は岩田軍楽長と、福崎連合艦隊副官に呼び出され戦斗配置を命じられました。
「電話取次員」
「お前達は今から作戦室の電話取次員をやってもらう。 電話は作戦室の入り口にある。 呉鎮守府の交換を通じて軍令部と話ができる。 参謀から軍令部の部員(参謀)を呼んでくれ、又、軍令部から参謀を呼んでくれと言われたら取り次いでほしい。 参謀の話は他言しないように」
岩田軍楽長は「軍楽隊員が山本長官の側近く作戦室に勤務する事は非常に名誉である。 服装態度には十分気を付け失礼の無いよう勤務してくれ」 と注意を受け、私達は交代で勤務が始まりました。
電話は作戦室の入口の小さな机に置かれ取次員は椅子に掛け電話を待ちます。
ただじっと待つだけでついうとうとし、人が通る気配でハッとすると山本長官で慌てて敬礼する事もあり冷汗をかくこともありました。

十二月三日頃と思いますが渡辺参謀が軍令部と通話中、「気付かれずに行っているし二、三日もすればポンポンやるだろう・・・」の話を聞きいよいよ戦争が始まると感じました。
夜間作戦室の入口で寒そうにしていると、当直参謀が「オイ軍楽兵、電話を作戦室に持って入れよ」と言われ夜間は作戦室内で勤務しました。
有馬水雷参謀は「軍楽兵、眠いのう コーヒーでも飲まんか」と言われたり固くならずに勤務することができました。
持ち込んだ電話の向かいに、「尽忠報国 海軍大尉岩佐直治」、「七生報国」、「至誠」とか仕官下士官十名ほどの人の書かれた書が置いてあり、何故この様な物が持ち込まれているのか、私達に分かるはずも無く毎夜眠気ざましに眺めていました。
これが真珠湾攻撃特殊潜航艇の九軍神の遺書と知ったのは後の事でした。

4---

十二月七日午後、「総員集合」があり、艦長の横に宇垣参謀長がおられたので戦争がはじまるなと感じました。

艦長は「明朝八日午前0時を期し帝国は米英に対し開戦すべく大命が発せられた」 と告げ、
「明八日、一二〇〇本艦は機動部隊支援のため出撃する」と訓示があり、
「機動部隊はハワイに近づきつつある」と言われました。

いよいよ戦争
艦内は異様な興奮に巻き込まれ、何処に行っても戦争の話。 明日から戦争だと思うと皆寝付かれません。
同夜作戦室には早くから参謀が集まって来ましたが私は当直交代で「トラトラトラ」真珠湾攻撃の戦果に沸いた作戦室の様子は知りません。

八日正午、「長門」は「陸奥」以下第一艦隊、戦艦四隻、空母1隻、水雷戦隊をひきいて柱島沖を出撃。
軍楽隊は後甲板に岩田軍楽長を中心に円陣を作り「出港奏楽」。  スクリューが廻り、軍艦旗が艦尾より降ろされマストに掲げられると同時に「軍艦マーチ」を演奏し、威風堂々の出撃。
艦が出入港する時の演奏を出入港奏楽と言います。
行き交う漁船はニュースで開戦、大戦果を知り、日の丸を打ち振り送ってくれました。

出港すると電話取次員は艦橋作戦室の暗号取次員となります。
作戦室と暗号室間には圧搾空気による伝送管があり、皮製の筒に電報を入れ送ってきます。  受け取った電報の折り目を延ばしながら読み、参謀に届けます。
狭い作戦室なので話も聞こえます。
機動部隊の戦は刻々と電報を受信するから分かりますが気掛かりなのが「特殊潜航艇」、「無事真珠湾に侵入できたか」、「機動部隊の大戦果の中に潜航艇の戦果も含まれているのでは」等の話も出ており、又生存者が一名いるらしいとの話もありました。

戦果について山本長官と三和作戦参謀がビールの賭をしたと言われますが、事実です。  西川君が当直中で「あの時長官と三和参謀がかけしよったよ」と言っていたので間違いありません。

真珠湾攻撃も大成功に終り、「長門」以下も柱島沖に帰港、又同じ日課の日々となりました。

5---

十七年二月十二日、連合艦隊司令部は新造の戦艦「大和」に旗艦変更。

軍楽隊は「長門」で山本長官を「将官礼式」で送り、急ぎ退艦。  「大和」に先行し乗組員が見守る中、舷門に整列し、山本長官の乗艦を待ちます。
長官の姿が舷門に現れると再び「将官礼式」を奏楽。

終って、改めて「大和」を見る。  その巨大さに圧倒されました。

私達軍楽隊員はこの日より戦斗配置が変更、下士官と古い兵は暗号員に、十三志から十五志は暗号取次員と作戦室電話取次員となり、所属する分隊も通信科となりました。
暗号取次員は暗号室で翻訳された翻訳された電報を艦隊暗号長がサインし、それを作戦室に届けます。
電話取次員は前と同じですが、電話室は作戦室の奥にあり当直交替も参謀の後を通ります。  私は呉に上陸した時買ってきた手相の本を電話室に持込み、参謀に見つからぬ様にそっと読んでいました。

乗艦して二、三日目、同じ福居(*兵庫県出石町の一地域で、祖父の出身地)の坂本さんが訪ねて来られました。  坂本さんは補習生の時、砲術学校高等科に入校中で同じ外出日には下宿でご馳走になったりしました。  この事は、辺見じゅん著「男たちの大和」にも書いてあり、もう一人綿谷清志も書かれています。
新田次郎文学賞受賞の戦記物に福居出身三名が書かれています。


(*)はkoichiによる注です。
6---

四月十八日朝、監視艇「第二十三日東丸」より空母二隻を中心とする敵艦隊発見の緊急電報を受信。

柱島在泊の艦隊は直ちに「戦斗配置」
司令部は艦橋作戦室にて「第二十三日東丸」の第二報を待つ
宇垣参謀長は「オイ、通信参謀、第二報は未だか電報を打ってみろ」

しかし、「第二十三日東丸」はアメリカの巡洋艦により撃沈されていました。

作戦室では敵空母の出現について、「南方作戦に対する陽動作戦」か「本土空襲」かで意見が分かれていました。
山本長官は黙って座ったまま、最後に「航空参謀、本土空襲となると何時頃か」。
答えは聞きましたが忘れました。
敵は監視艇に発見され本土空襲は無いだろうと意見も出され、「警戒を厳重にせよ」と電報を発し、第二配備(二交替)となりました。

午後一時過ぎ、「東京空襲」の電報と、軍令部に出張中の渡辺参謀からも電話が入る。
再び「戦斗配置」

作戦室では「敵機は何処から飛来したか」 「今朝の空母から・・」 「いやミッドウェーから・・」 と議論が続きます。
山本長官は「航空参謀はどう思う、大型機のB-25だそうだが陸上機が空母より発進できるか」
「ハイ、訓練すれば発艦はできると思いますが着艦はできません。 恐らくハワイよりミッドウェーに飛び、空母に積まれたものと思います」
長官は「よし」と頷かれ、空襲は空母からと断定されました。
私はこの話を聞きながら電報を待ちました。

7---

五月一日より四日迄、「大和」でミッドウェー作戦の図上演習が行われ、参加各艦隊の長官司令官参謀等が集合。  前甲板のテントの中は参謀懸賞の偉い人ばかり、青軍赤軍に分かれて図上演習開始。

軍楽兵も取次員としてこの会場に入りました。  私は機動部隊の近くにおり、あの参謀この参謀にとメモを渡され、知らぬ参謀間を右往左往。  草鹿参謀長にとメモを頼まれた時は席に見えず、機動部隊席におられる人の後ろから「草加参謀長」と呼ぶも知らぬ顔。  よく見れば南雲長官でした。

演習で、敵の命中弾で沈んだはずの「赤城」が宇垣参謀長の一声で命中弾が減らされて浮上。  さすが宇垣参謀長、日本海軍は強いと感じました。(*図上演習で、米軍の弾は3分の1しか当らないと言う設定にしたそうです)
四日間の図上演習も終り、出撃を待つのみとなりました。

この作戦は呉の市民も知っていたらしい。
乗組員は今度の作戦は艦隊の決戦で、これが最後の上陸だと言い、二回上陸があったので家族に面会に来る様電報を打ち合い、私も十四志の人に電報を頼み、駆けつけた父母と呉海軍工蔽におられた綿谷さんのお宅で面会する事ができました。

出撃が近づいた頃「大和」で、「敵信班はミッドウェー島の蒸留装置が壊れ飲料水に困っている」と米軍の電報(平文)を傍受。  作戦室に届けた覚えがあります。


五月二十九日、山本長官は「大和」以下艦隊をひきいて柱島沖を出撃。
軍楽隊は「軍艦マーチ」で出港演奏し威風堂々。

六月五日、攻撃開始の時刻、艦橋作戦室では戦果を待ちます。


(*)はkoichiによる注です。

8---

ミッドウェー攻撃機より「敵空母発見」の報。

機動部隊では爆弾の積み替え中とは知らず、「敵空母はやっぱりいたか」、もう勝つものと思っていると、八戦隊司令官より「赤城、加賀、蒼龍火災」と電報が入り、届ける。
「何故八戦隊からだ、何があったんだ」と騒然となる。
この時の状況は色々な本に書かれているがどれが本当なのか。

一、
[凡将山本五十六]、[四人の連合艦隊司令長官]、などには司令部従兵長近江兵曹の手記を引用し、--- 連合艦隊付通信長が青ざめた顔をして空母の悲報を次々と報告に来ると、その時長官は渡辺戦務参謀と将棋を指しており、「ホウ、又やられたか」と言って将棋を止めなかった ---と書かれている。

二、
[海軍散華の美学]の中に渡辺参謀が戦後語られた事がありますが、---「私はその時当直で艦橋にいたが通信室より新宮暗号長が伝声管で知らせてきたので急ぎ作戦室に降りたが未だ誰も知らず、私は長官に報告申し上げました。」--- とあります。

三、
この時私は艦橋作戦室で暗号取次員をしていました。 長官が将棋を指していた記憶は無く、あの電報は読んで参謀に届けています。
渡辺参謀より伝送管の電報の方が早かったはずだと或る本に手記を書きました。
司令部付通信長の職名は知らず、暗号室と作戦室はビルなら六、七階位の高さで、急ぎの電報を一枚一枚届けに来ませんし私にはそんな記憶はありません。
若し渡辺参謀の方が早かったとするとその原因は暗号室の混乱にあったと思います。 その時、暗号室で取次員だった西川君が次の様に語っています。 「あの時、暗号長が慌ててしまい、軍令部にスパイがいるのではと盛んに言っていたよ」。
慌てた暗号長は電報を取次員に渡すのが遅れてしまい、渡辺参謀と相前後したのかもしれません。


渡辺参謀の忘れられない一言、「機動部隊は予定の線より出すぎたのでは、、、」。
次々と入る敗戦の報に作戦室の空気も沈み、悲壮な電報に長官、参謀の顔を見るのも憚られました。
又、どの母艦の飛行機か、「母艦の位置知らせ」「我れ燃料切れる」、、、しかし応答する艦も無し。
「我れ突入す」
この電報を覚えているのは私だけかもしれません。


未だ沈まずにいる「赤城」をどうするか。
駆逐艦で曳航するか、魚雷で処分するか、議論は続くが結論は出ず、黙って聞いておられた山本長官は「処分しよう。 水雷参謀、駆逐艦に処分するよう電報を打ってくれ」。
私は水雷参謀より電文を受取り、暗号室に送りました。 これで当直交替となり、赤城処分は後で聞きました。

この日より山本長官の姿は作戦室に見られませんでした。

ミッドウェーからの帰路、渡辺参謀は軍楽隊員を集め、「四空母が沈んだ事は暗号員と軍楽隊員他は知らないから他言しないように。  我が方には未だ建造中の空母を合わせ九隻ある、心配しないように」。 と異例な申し渡しを受けました。

9---

柱島沖に帰港。
何事も無かったように前と変わらぬ日課の繰り返し。

その内米軍がガダルカナルに上陸。  山本長官は南洋トラック島に進出を決定。

八月十七日、柱島沖を出撃。   二十八日トラック島着。

ガダルカナルの戦況は一進一退。

十月三十一日、我々は一等軍楽兵に進級。  翌日十一月一日、階級が変更され軍楽兵長となりました。


戦況は悪化の一途を辿り、食糧弾薬の補給も駆逐艦より潜水艦と四苦八苦。  連日の会議。

その内、戦艦「金剛」「榛名」で飛行場を艦砲射撃し、陸軍が総攻撃を行う事となりました。
斥候が出て、その報告には「アメリカ軍は明日の総攻撃も知らず、上半身裸でテニスをしている」とありました。  最前線でテニスをして楽しんでいるとは思いもよらぬことでした。

艦砲射撃で使用不能と思った飛行場ですが、「アメリカ軍は戦車のような物の前に鉄板を付け整地している」との報告があり、ブルドーザーの名も知らず、ツルハシとモッコが主の日本、機械力の差負けるのも当たり前です。

或る日、西川君か久内君が、明日「大和」がガダルカナルを艦砲射撃の為に出撃すると作戦室より聞き込んできましたがなぜか中止となりました。  これは我々より知らぬことでした。

ガダルカナルの撤収も終り、十八年二月十二日、旗艦を「武蔵」に変更、一年間住み馴れた「大和」。  坂本さんや親しかった人達に別れを告げました。

10---

四月三日、山本長官は参謀長以下を連れ、ラバウルに将旗を移し前線指揮。

十八日、山本長官の乗った一式陸攻は米軍のP38により撃墜され戦死。
トラック島の「武蔵」では山本長官が帰艦される予定の日、残留の参謀、艦長以下乗組員は迎えるため上甲板に整列。  軍楽隊も夏服に着替え「将官礼式」で迎える為に舷門に整列して待ちました。
しかし、幾ら待っても帰艦されず、参謀はあたふたと艦内に。  やがて乗組員は解散、軍楽隊は別命あるまで待機となりました。

山本長官はついに帰艦されず解散。
その後艦内では、長官は怪我で入院、いや戦死らしいと噂が流れていました。

作戦室に通じる通路には番兵が立ち、通るのは司令部従兵と電話、暗号取次員だけとなりました。
電話室の奥に参謀休憩室があり、誰か忘れましたが「オイ、参謀休憩室覗いたら白い布の箱が五、六個あるが遺骨と違うか。 参謀がいない時ちょっと見ろよ」と言うので恐る恐るドアを少し開いてみると、それらしきものが見えました。
夜間、シーンとした電話室。 隣の部屋に遺骨があると思うと背筋が寒くなるのを覚えました。

やがて、見知らぬ大将(古賀長官)が作戦室や軍艦旗掲揚降下時に姿を見せられる様になり、山本長官は戦死と確信しました。

五月十七日、山本長官以下の遺骨を乗せた「武蔵」はトラック沖を出航、内地に。  途中、山本長官の戦死を発表し「古賀大将が連合艦隊司令長官として指揮をとっている」、と艦内放送がありました。

航海中、柱島沖で「陸奥」が爆発沈没の電報も入る。

五月二十一日、「武蔵」は木更津沖着。
遺骨は駆逐艦にて東京へ。  この時、「命を捨てて」の奏楽で遺骨を送っている写真がありますが、私は二列目にいたので写っていません。

昭和天皇の武蔵行幸の後、呉に廻港し、再びトラック島へ。

・・・

九月下旬、私は佐世保海軍軍楽隊に転勤。  空母「準鷹」に便乗し内海に向かいました。

・・・

連合艦隊司令部付軍楽隊員として旗艦「長門」「大和」「武蔵」に乗組み、山本、古賀両長官の下で作戦室に勤務した事は、若き日の思い出の一項です。


--終--



その後、終戦を迎え祖父は警察の音楽隊を定年まで勤めました。
いつも、自分が大和に乗っていた事を誇りにしていたのを思い出します。
もっと色々な話を聞いておけばよかったなと思います。

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