第5回 大いなる情報誌ういずy

相澤嘉久治さんに学ぶ「主体的創造的に生きること」
第5回 大いなる情報誌ういずy

 その頃の私は相澤嘉久治さんの劇作家、放送作家、そして「ういずy」や「場」などの発行人としての偉業について、徐々にではあるが理解できるようになってきていた。当時の米沢市長長俊英さんは、私と相澤さんが親しくお付き合いしていること知っており、市長とお会いするたびに「相澤君は元気にやっとるかね」と声を掛けてくる。市長だった長さんと相澤さんは早稲田大学の年が離れた先輩後輩の間柄だった。その関係で相澤さんが日本テレビの「お昼のワイドショー」の脚本を書いている時に、米沢から春の上杉まつり川中島合戦生中継の企画をしたこともあった。相澤さんは山梨放送でも仕事をしていた関係から、山梨の武田信玄を祭る「信玄公まつり」と「上杉まつり」を題材に長米沢市長と望月幸明山梨県知事の対談を企画したこともあった。

長さんに限らず、いろいろの方面の人たちから相澤嘉久治の名前が知れ渡ってきた。相澤さんは米沢に来ると「若い友人のひとり」として私の名前をいろいろな方に告げることが多くなり、それに合わせるようにいろいろな方々から「相澤嘉久治さんとお友だちだそうで…」と言われる機会が増えてきた。だが、この時期には私は仕事の関係で(1979年からの方針転換のために)相澤さんとの連絡も年に数回だけで、相澤さんはサカイ写真館の洒井隆さん、悦子さんご夫婦とのお付き合いが深くなっていた。洒井さんのネットワークやお力もあり、ういずyの米沢分室を置くまでに発展を遂げていた。

私の周りでは「相澤嘉久治」と「ういずy」発行の意義を巡っていろいろな情報や話が飛び交うようになっていた。その代表的なコメントは次のようなことだった。
「あの山形で数年間にわたってういずyという情報誌を出し続ける相澤っていうのはたいしたもんだ。山形新聞の足元の山形市でこんなに広告集めて、しかもこんなに長持ちしているなんて異例だぞ」

相澤さ嘉久治さんは会うたびに「ういずyを潰してはいけない」と口癖のように言っていたことが、私にはようやく理解できるようになってきた。
 そして私にとっては単なる情報誌ういずyが大いなる情報誌ういずyになっていくのだった。

 1981年7月のこと。朝刊の2枚のチラシが目を引いた。1枚はあの相澤嘉久治さんの肖像写真がド~ンの載ったチラシであった。もう1枚は元米沢新報社の社長だった高橋一生さんの発行する月刊誌のチラシだった。この2枚共に白黒であり、一目見て社会的告発内容と分かる書籍と雑誌の紹介チラシであった。相澤さんと高橋さんが一緒に手を組んだのかと一瞬思うほど、そのチラシの構成は似ていた。  
しかし事実は違っていた。偶然の出来事だった。

 相澤さんのチラシは「服部敬雄山形新聞社長・山形放送社長・山形テレビ相談役に問う!?」という書籍の紹介だった。私の頭は殴られるような衝撃に襲われた。「とんでもないことが起きる」と予感が走った。
 私は相澤さんに電話をした。

 11月24日記




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