2008/10/04(土)14:40
勝手な因縁
~僕と馬場さんの勝手な連帯~
第5回 勝手な因縁
第1037回 2008年10月4日
祖父長吉の永眠
僕の祖父長吉が最後に観たテレビが、全日本プロレス中継・チャンピオンカーニバル「馬場対鶴田戦」だった。
「鶴田は将来プロレス界を背負って立つ奴だ」
長吉の最後のメッセージとなった。
そして翌朝容態が悪化して舟山病院へ入院した。
1977年6月19日、祖父長吉が病死する。享年73歳だった。
お棺には発売直後の月刊プロレスを入れる。あのがチャンピオンカーニバル「馬場対鶴田戦」が掲載されていたからだ。
それから全日本旗上げ興行の時もらったカレンダーも入れた。
みちのくはじめとの因縁?
1978年、トーアカマタが国際プロレスから全日本プロレスに移籍した初のシリーズが米沢で行われた。
5月13日のことである。
翌日秋田では馬場さんが持つPWFヘビー級タイトルに、いきなりカマタが挑戦する異例のタイトルマッチだ。
カマタの試合を、ドアの向こうから観ている馬場さんが印象的だった。
カマタは巨体に似合わぬドロップキックを放す。
会場はウァーと歓喜がおこる。
すると馬場さんはドアを閉めた。
ジャイアント馬場は、D・マラビアとシングルマッチで対戦し快勝した。
この時の馬場さんは頭髪を伸ばし、パーマをかけていた。
動きがよくない。
会場からは、
「社長は疲れているから本気で攻めるなよ~」
と、野次が飛ぶ。
確かにこの時の馬場さんは腰痛がひどい時期だった。秋田では馬場さんは王座をカマタに譲ることになる。
僕もまた、この時ギックリ腰に悩んでいた。
「馬場さんと同じだ!」
密かに思った。
また、僕は結膜炎で目医者にもかかっていた。
一方、外人選手の一人マリオ・ミラノが結膜炎にかかっていたため、ジャンボ鶴田をはじめ多くの選手が結膜炎にかかってしまった。
「全日本のみんなと同じだ!?」
ふたつの病に僕は何か浅からぬ因縁を感じた。
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(イラスト・ジャイアント馬場の横顔)
~僕と馬場さんの勝手な連帯~
第5回 勝手な因縁
僕の大好きなジャイアント馬場さんの思い出です
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