黒い教皇アルバート・パイクの第三次世界大戦のシナリオ
2020年8月18日(火)第二次世界大戦は人類史上最大の不幸な出来事でした。日本はグアム・サイパンから飛来するB29の大空襲によって焼土と化しました。そして、広島と長崎には、人類史上初めて原爆が投下されました。この戦争でイルミナティー・ロスチャイルド他の世界支配勢力は巨万の富を手にしたのです。戦場とならなかったアメリカ合衆国は兵器産業並びに全ての生活物資の供給元となり、世界中の富をかき集めたのです。世界が保有する金・ゴールドは支配勢力の手元にかき集められたのでした。アメリカ国民の多くが彼らの仕組んだ戦争に狩りだされ犠牲になったのです。闇の支配勢力は、彼らの世界支配戦略として第一次世界大戦・第二次世界大戦・第三次世界大戦の三つの戦争が必要だとしていたのです。イルミナティーの黒い教皇と呼ばれるアルバート・パイクが三つの戦争について次のように記していたのです。フリーメイソンの正装を着たパイク(1865-1880年頃)。世界を統一するためには、今後3回の世界大戦が必要である。1回目は、ロシアを倒すために。2回目はドイツを倒すために。3回目はシオニスト(ユダヤの世界支配主義者)とイスラム教徒が最終戦争をする。・1回目の世界大戦は、ツァーリズム(帝政ロシア)を破壊し、広大な土地をイルミナティの代理人の直接管理課に置くために仕組まれることになる。そしてロシアは、イルミナティの目的を世界に促進させるための「お化け役」として利用されるだろう。・2回目の世界大戦は、ドイツの国家主義者(ナチ)と、政治的シオニスト(パレスチナにユダヤ人国家を建設することを目的とする)の間の、激しい意見の相違の上に実現されることになる。結果、ロシアの影響拡大と、イスラエル国家の建設がなされるべきである。・3回目の世界大戦は、シオニストとイスラム教徒との間に、イルミナティ代理人が引き起こす。これも意見の相違によって起こるべきである。世界的な紛争の拡大が計画されることになる。キリストの教会と無神論を破壊した後、ルシファー(悪魔)の宇宙的啓示により、真の光を迎える。アルバート・パイクはイルミナティの最高幹部にまで登り詰め、「黒い教皇」と異名をとった人物であり、しかも、黒人迫害組織「KKK(クー・クラックス・クラン)の創始者でもあるのです。これは彼が1871年に、統一イタリアの父であるジュゼッペ・マッチーニに送った書簡の内容だが、第一次世界大戦も第二次世界大戦もまだ起きる前なのです。私たちは過去の経験から学び、彼らの意図する「ニューワールドオーダー」をしっかりと見抜くことが必要だと思われます。新型コロナウイルスもそのシナリオの延長線上にあるからです。日本が宣戦布告なしに行った真珠湾攻撃はイルミナティーの書いたシナリオ通りに行われたのです。日本における真珠湾攻撃の作案者は司令長官の山本五十六です。https://www.sankei.com/west/news/150417/wst1504170005-n1.html<産経ウエスト>航空機で真珠湾を 山本が航空機による真珠湾攻撃を初めて口にしたのは昭和15年3月の合同訓練のとき。航空機隊による対艦魚雷攻撃の見事な成果に上機嫌の山本は「あれでハワイはやれないか」と、連合艦隊参謀長の福留繁少将に話しかけると、福留少将は不思議そうな表情を見せたという。 日本が描いていた対米戦は日露戦争の日本海海戦のように、真珠湾から出てきた艦隊を度重なる潜水艦と航空機による攻撃で疲弊させた後、日本近海で迎え撃つというものだった。 だが、留学や海軍武官としてアメリカに赴任した経験を持つ山本は底知れないアメリカの力を見ていただけに、思いも寄らない攻撃でハワイの太平洋艦隊を一気にたたくしか勝機はないとみていた。時のアメリカ大統領ルーズベルトは事前に真珠湾攻撃をしっかり察知していたことが知られており、にもかかわらず、艦船4隻の沈没と2334名の戦死者を黙殺したのです。真珠湾攻撃を契機にアメリカの世論が「日本の山猿がふざけたことをしやがって」と沸騰し、第二次世界大戦に参戦するきっかけを作ったのです。あの巨大な国土と経済力を持つアメリカに対して、太平洋にポツンと浮かぶハワイ湾を攻撃するなど、蚊に刺されたほどの痛手にもならないのに、何故にこのような作戦を山本五十六・南雲忠一はごり押ししたのでしょうか。彼らは日本に巣食うイルミナティーの手先であったと考えられるのです。その後のミッドウエイ海戦でも山本五十六と南雲忠一により意図的に負けるための作戦を取ったことが知られているのです。また、1994年6月11日、アメリカ軍艦載機1,100機によるサイパン島に対する奇襲的な空襲を前にして、「あ号作戦」を5月20に発令し、海軍第一航空艦隊(650機)の大部分をビアク島周辺へ移動、合わせて大和、武蔵の戦艦部隊を送ってアメリカ上陸支援艦隊を撃退しようとしたのです。この作戦によってサイパン島は空の防御不能となり、戦死者約30,000人 捕虜 921人 民間人死者8,000〜10,000を出して簡単に玉砕されたのです。この作戦も山本五十六の忠実な部下南雲忠一のもとで行われたのです。南雲忠一はサイパンの司令本部で自殺したとされているのですが真相は闇の中であるのです。そして、山本五十六の戦死についてもぬぐい切れない疑惑が隠されているのです。https://ameblo.jp/worldforumnet/entry-10145748533.html<転載>6 山本五十六は戦死していなかった疑問だらけの死体検案書 こうして昭和18年4月18日、ブーゲンビル島ブインの航空基地視察の為と称して山本長官は午前6時ラバウル東飛行場を一式陸攻で離陸した。宇垣参謀長等を乗せた2番機も粗同時に離陸したが、此れを護衛するのは第204航空隊の零戦僅か6機だけであった。 此の日山本長官は何故か正式な連合艦隊司令長官の軍服では無く、生まれて初めて着る草色の略装である第三種軍装を身に纏い、護衛機の数を増やす事にも強く反対したと云う。 山本長官の前線基地視察日程(スケジュール)の情報は事前に暗号電報で前線基地に予報された。連合艦隊司令長官の詳細な行動予定が、視察の5日も前に前線基地に伝えられるのは異例の事だった。 ショートランド第11航空戦隊の城島少将は不用心な暗号に憤慨したと云われるが、御丁寧にも此の暗号電報を受け取った現地指揮官一人は、態々儀礼的に低水準(レベル)暗号の無電で関係先に知らせたとも云う。 米軍は此の暗号を解読して山本長官搭載機撃墜計画を練ったとされるが、寧ろ真相は山本長官自身及至は其の側近が事前に何等かの方法で米軍に詳細な行動予定を知らせていたと云うのが本当だろう。山本長官は全ての役目を終了し、ルーズヴェルト大統領との約束に基づいて姿を消す事にしたのである。 山本長官を乗せた一式陸攻は高度2千5百mでゆっくりと飛行、6機の護衛戦闘機は其の500m上空を飛行していたが、ブーゲンビル島南端のブイン基地上空に差し掛かった所、ガダルカナル島ヘンダーソン基地を飛び立ったミッチェル少佐の指揮するPー38米攻撃機16機が午前7時33分、正確に山本長官機と出合チた。ミッチェル隊はP38の航続距離からして僅か10分間と云う許容時間で攻撃を開始、山本長官を撃墜したのであった。 右エンジンに弾丸を受けた長官機は火災を発し、黒煙を吐きながらジャングルの中に落下していった。2番機はモイラ岬沖の海上に不時着、宇垣参謀長等3名は助かったが、長官機は翌19日午後2時あ陸軍の捜索隊に依って発見された。 山本長官の遺体は機外に投げ出された座席に腰掛け、軍刀を握り締めた儘であったとされているが、其の死には深い謎が付き纒う。 大本営海軍発表の「死体検案書」(死亡診断書)と「死体検案記録」(死亡明細書)に依れば死亡日時は「昭和18年4月18日午前7時40分」である。傷病名は「顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創」であり、末尾には「右証明ス昭和18年4月20日海軍軍医少佐田淵義三郎」として著名捺印がある。 ところが墜落現場を最初に発見した砂浜陸軍少尉は次の様に証言している。 「長官は宛も遂先(さっき)迄生きていたかの様な風貌で、機外に抛出 された座席上に端然として死亡していた・・・其の顔面には創は無かっ たし、出血の痕も無かった。其の発見は墜落後実に30時間前後も経っ たあである」 同様の証言は陸軍軍医蜷川親博中尉は長官機遭難現場近くの歩兵第23連隊の次級軍医として勤務していた。此の為、中尉は救難捜索行動に参加し、長官死体の検視も行っている。 にも係わらず山本長官の秘あっ子と言われた渡辺中佐参謀は事故の後19日、ラバウルより現地に急行、20日夕刻掃海艇上に運び込まれた長官の遺骸を検視して大本営(海軍)と全く同一内容の証言している。渡辺参謀の証言内容とは「20日夕の時点で顔面貫通機銃創と背部盲貫機銃創は共にあった。4月18日、0740機上での戦死は間違いない」と云う物である。 前出の田淵軍医は「私が検死した時点では顔面に創はあった」「蛆の侵蝕とは考えられぬ」とし、更に重要な証言「死後の作為が加えられたかどうか判らない」と言いながらも其の可能性を強く示唆している。戦死が狂言であった此れだけの証拠 山本長官の「死」は明らかに狂言であろう。其の隠された真相は次の如くであると推測される。1、山本長官は太平洋戦争前半に於ける帝国海軍崩壊の為の全ての役割を完了した。2、其の為急遽姿を隠す必要が生じ、側近の宇垣纒中将(連合艦隊参謀長)や渡辺中佐(参謀)と共謀し、予め暗号を米国側に漏洩した上で長官機撃墜の一大ペテン劇を演出した。3、当日、山本長官は態々草色の第三種軍装を身に纏いジャングルを逃亡の際目立たぬ様略装にした。4、米軍機攻撃の際、一早くパラシュートで脱出、地上より兼ねて打合わせの場所からガダルカナル島米軍基地へと逃亡した。5、捜索班が事故機を発見した時、長官の身替わりとされた男(恐らくは風貌の似た人物)を座席に縛り付け毒殺した。6、従って発見時には顔面の創も背部盲貫機銃創も存在しなかった。7、其の後、山本長官を「機上死」であると捏造する為、遺体に拳銃か鋭利な刃物で人工的な死後損傷を加えた。7、山本五十六が生存した証人 1994年6月、私はソロモン諸島ガダルカナルで、深夜土砂降りの雨をついて一人の地元民と出会った。男は山本機が撃墜されたブーゲンビル島ブインの密林の地主の後継者で41歳。ブイン周辺は独立戦争(パプア・ニューギニア政府と、ブーゲンヒル島の分離独立を求めるブーゲンヒル革命軍の戦い)の真っ只中にあった(1994年9月3日に和平交渉が成立した)。男の兄弟三人は最近、革命軍兵士に射殺され、彼は小舟を漕いで対岸のソロモン領ショートランド島に逃げ延びてガダルカナルにいるブイン出身の友人宅に身を隠していた。「祖父と父から固く口止めされていた。撃墜機の山本は生きていた。祖父が彼を助け出した」 男は私にそう語った。内戦の実相はブーゲンヒル島の地下資源からあがる利益配分を争うもので、その背後には旧植民地支配国の英国、ドイツ、オランダなどの世界資本家群が控えているという。 事実、田淵軍医が検死をしていた最中長官のワイシャツを脱がせようとしたが、渡辺連合艦隊参謀から突然大声一喝され、「脱がすな、此れ以上触れてはならぬ!」と怒鳴られ制止されているのである。人工的な死後損傷であったとする証言も数多く存在するが、此れ等の全ては黙殺され、渡辺中佐の命令下、虚偽の「死体検案書」と「死体検案記録」は作成され、「機上壮烈なる戦死」と云う大本営(海軍!忍)発表となるのである。●「運良く」助かった宇垣纒中将とは何者か 此処で「運良く」助かった宇垣纒中将とは何者かを知らなければならない。 宇垣は明治23年2月、岡山県赤磐郡潟瀬村と云う地に生まれた。岡山一中を経て明治45年7月、海軍兵学校40期を卒業、大正7年、海軍大尉。11年12月~13年11月、海軍大学校甲種学生、13年12月、少佐、14年12月、軍令部一班二課、昭和4年1月、独国駐在、6年12月第二艦隊参謀。7年11月、海軍大学校教官兼陸軍大学校教官。10年10月、連合艦隊参謀兼第一艦隊参謀。11年12月海防艦八雲艦長。12年12月、戦艦日向艦長。13年11月、少将。13年12月、軍令部第一部長、16年8月連合艦隊参謀。 以上がインド洋作戦辺り迄の略歴である。宇垣の態度がデッカク、傲岸不遜、唯我独尊であった事はつとに有名であり、独国駐在の折りにはヒットラーのナチス・独国共直接接する機会を得、日独伊3国同盟時は軍令部第一部長と云う要職にあった。 3国同盟締結の折は賛成派に回った為山本長官に疎んじられている共言われたが、どう云う訳か昭和16年8月、連合艦隊参謀長に任命され、山本五十六大将を直接補佐する事になる。以後、連合艦隊の旗艦「大和」上の司令部内で山本長官の影武者に徹して常に其の意向を尊重し、補佐して来た。 彼れ程傲岸不遜な宇垣が何故山本長官に寄り添い続けたのか。其の訳は宇垣がユダヤ・フリーメーソンに入信した事であろう。 山本・宇垣の組合せ(コンビ)は真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル、ソロモンと呼吸を合わせ、日本海軍の崩壊に尽力した。 ブーゲンビル上空で山本長官逃亡の手筈を整えたのも宇垣である。宇垣もしっかりと生き延びており、昭和17年11月には中将に進級、昭和20年8月15日の終戦詔勅渙発を知るや沖縄の沖合に蝟集する米艦隊目がけて突入すると称して部下の操縦する飛行機に搭乗、其の儘行方を絶った。日本の敗戦を見届けて姿を消したと云うべきか。 戦後山本長官の姿を何処やら見かけたと証言する人も居り、太平洋戦争を敗北に導いた功労者の多くは「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン陣営に依って手厚く保護されたのである。●ルーズヴェルトの命令を忠実に守ったから 此処で山本長官の果たした役割に就いてもう一度纒めて見よう。 真珠湾攻撃の計画は元々「世界支配層」及び米国其れに山本長官の深慮遠謀から生まれた計画である。 日本人フリーメーソン山本五十六は連合艦隊司令長官にあるずっと以前、恐らくは海軍次官のあから米国側と連絡を取り、若し日米が開戦になった時は先ず真珠湾を奇襲し、米国の対独戦を合理化させると同時に日本への米国国民の参戦気分を一気に高揚させると云う計画を練り上げたに違いない。 米国側で此の計画を推進したのは勿論フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領であった。そして此の計画にはヘンリー・スチムソン陸軍長官、フランク・ノックス海軍長官、ジョージ・マーシャル陸軍参謀長、ハロルド・スターク海軍作戦部長、そしてコーデル・ハル国務長官が加わっていた。 日本側で此の計画を知っていたのは山本五十六以外にはほんの一握りの人間であろう。其れは元首相や海軍大臣、そして外務省の高官達等最高度の機密を保てる者に限られていた。 山本長官は此の計画を実現させる為に色々な手を打った。開戦の年昭和16(1941)年夏の時点では真珠湾攻撃で使用する予定の軽魚雷は未だ開発中であったし、9月初旬に於ても攻撃用の直接部隊は不足していた。山本長官は画策の末、こうした戦術面での問題を11月の末には全て解決した。 ところが肝心の永野修身軍令部総長等海軍首脳部はこぞって反対であった。海軍上層部には尚未だ日米開戦への躊躇と真珠湾攻撃が実際に何れだけ効果を上げられるか疑問を持っていたのである日本が米国を仮装敵国としたのは明治40(1907)年4月に「帝国国防方針」が制定されてからであるが、日本の陸海軍が立案した正式な計画の中にはハワイ攻略は含まれていない。攻略の対象はせいぜいグアム島止まりだったのである。 昭和15(1940)年ルーズヴェルト大統領は米海軍首脳の反対を押し切って、其れ迄西海岸カリフォルニア州のサンディアゴ軍港にあった太平洋艦隊を年次演習の目的でハワイの真珠湾に進出させた。第二次大戦が勃発し、山本五十六が連合艦隊司令長官として対米戦を計画している最中であった。ルーズヴェルトは山本長官と共謀して、日本側に格好の攻撃目標を提供したのである<以下略>全文読みたい方はURLをブラウザにコピペしてお読みください。https://ameblo.jp/worldforumnet/entry-10145748533.html