聖徳太子みろくのひびき

2020/04/29(水)17:03

柿本人麻呂は天武天皇の長男だった-5

2020年4月29日(水) 隠岐の島の人麻呂伝承によって、人麻呂が持統皇太后によって流罪に処されたことが分かります。 柿本人麻呂が天武天皇の長男高市皇子であるのですから、持統皇太后は壬申の乱の英雄である高市皇子を流罪にするほどの権力を身に着けていたことになりますね。 壬申の乱終結後十五年間にして、陰謀術策に長けた持統・不比等コンビによって政治が独裁されるようになったのです。 天理市の石上神宮(いそのかみじんぐう)から大神神社までの山野辺の道があります。 この道に38基の万葉歌碑が建てられています。 この歌碑を第一番にして、大神神社まで続く山野辺の道に、三十八の万葉歌碑が立てられていて、まさにここは「万葉の道」と呼ぶにふさわしい領域なのでした。 石上神宮は物部氏の本拠地であり、スサノオ尊の第三男・大歳尊、後に改名して饒速日(にぎはやひ)を祖神としています。 そして大神神社は、饒速日を山頂の磐座に祀る三輪山を御神体とした神社です。 このことは、万葉集と物部氏との関係性の深さを如実に表しているといえるでしょう。 38の万葉歌碑のうち、34パーセントにあたる13個所が柿本人麻呂の歌碑で占められています。 これは謎の人物にされたてしまった柿本人麻呂が、饒速日・物部氏との関係性が極めて深い人であるということを連想させます。 第一の歌碑は人麻呂が流罪とされたときに詠んだ歌だと考えられます。 「みじかかるひと世と思へ布留宮の神杉のほのそらに遊べる」 「布留宮」とは石上神宮のことですが、「布留」とは饒速日尊の名前であり、地名ともなっています。 流罪の地にあって、幼少のころより親しんできた石上神宮の大きく伸びた大木の杉の穂の上の空を自由に羽ばたきたいと感慨しているのです。 この歌とそっくりの高市皇子の歌があります。 柿本人麻呂が流罪となったその時を同じくして高市皇子も流罪となっていることの証しだと考えられます。 柿本人麻呂は高市皇子の別名だったことの証拠ではないでしょうか。 巻2-156番高市皇子の歌 「見諸の神の神杉夢のみに見得つつ共に寝ねぬ夜ぞ多き」 【飛鳥探真意訳と解説】 大和朝廷の始祖王であるニギハヤヒが、山頂の磐座に葬られている三輪山、その三輪山の神杉、すなわちニギハヤヒばかりが夢に出てきて、眠られない日が多いのだ。 これは近流となっている高市皇子が流罪先の地で、三輪山のニギハヤヒを思って詠んだ歌だと考えられます。 この歌から「石見国風土記」を出典とする、「詞林采葉抄」の「人麿は持統天皇のとき一度四国の地に流され、文武天皇のとき再び東海の畔に左遷されたという伝承が思いだされます。 『詞林采葉抄』は、「四国の地」のいう文字の横に小さな字で、「土佐打山里」とあり、「東海畔」という文字のよこに「上総山辺」と書かれている」というのです。 この伝承からして、高市皇子=人麿の最初の流罪地先が、四国の「土佐打山田」であったのではないかと考えさせられるのです。 巻2-157番 高市皇子の歌 「神山の山辺真麻木綿短木綿(まそゆふみじかゆふ)かくのみ故に長くと思ひき」 【飛鳥探真意訳と解説】 天武天皇が亡くなってニギハヤヒの眠る三輪山の磐座に、麻の幣を奉納して国家安泰を祈ったばかりなのに、一っか月も経たないうちに私は流罪の身となっている。末永くと思った思いは何としたことだったのだろう。 巻2-158番 高市皇子の歌 「山振(やまぶき)の立ち儀(よそ)ひたる山清水酌みに行かめど道の知らなく」 【飛鳥探真意訳と解説】 山吹が咲いている、生命復活の霊泉「泣沢の泉」の水を酌んで、今の運命を変えようと思うのだが、そこへ行く道が分からないのだ。 「泣沢の霊泉」は天の香久山から湧き出す生命復活の言い伝えのある岩清水です。 そこへ行く道を飛鳥で育った高市皇子が知らないわけはないのです。 遠い流罪の地にあって、そこへ行く術がないと詠っていると考えられるのです。

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