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2020年8月8日(土)
日本の天皇は単なる象徴ではない。 国民の幸せを常に神に祈りながら、その為に全てを捧げていることが分かります。 世界中を探してもそんな皇室はないのではないでしょうか。 <朝日新聞デジタル<> 陛下「東北は私が行きます」 震災直後、石原知事は絶句 翌12年に心臓手術をする陛下の健康状態を知り「陛下もお疲れでしょう。被災地は若い男宮の皇太子、秋篠宮両殿下を名代に差し向けてはいかがでしょう」と進言した。 陛下は黙って聞いていたが、被災者見舞いを終えて武道館を出るとき、石原氏に歩み寄り、こう告げた。 「石原さん。東北は、私が自分で行きます」 東日本大震災で被災した大津漁港を視察する天皇、皇后両陛下=2011年4月22日、茨城県北茨城市 被災者お見舞(南三陸町立歌津中学校(南三陸町)) 平成23年4月27日(水) 被災者の方々を励まされる天皇陛下(南三陸町立歌津中学校(南三陸町))(写真:宮城県) 被災者の方々を励まされる天皇陛下(南三陸町立歌津中学校(南三陸町))(写真:宮城県) 3月15日、福島第一原発は危機的状況にありました。 チェルノブイリの10倍以上の事故になることが予想され、職員の9割650人が吉田昌郎所長の指示に反して10キロ離れた福島第二原発へ逃げてしまいました。 ニュースでは「福島第二原発から職員撤退」として伝えられ、東京は人の住めない町になる危険性が予測されたのです。 皇室関係者の方から漏れ伝えられた処によると、天皇陛下も京都に避難するように強く勧められたが、頑として拒否なさったということです。 吉田所長の「俺が責任を持つから海水注入を絶対止めてはならんぞ」という大英断のお陰で、奇跡的に危機を脱したのでした。 自ら身を挺して危険な作業に携わった彼は、被曝による発がんで命を落としたのです。 私たちが今このようにして東京に住んでいられるのは、実に吉田昌郎所長のお陰だと私は思います。 「所員の9割が離脱していた」 「吉田調書」が教える「東電撤退事件」 https://webronza.asahi.com/science/articles/2014053000006.html 吉田所長は、作家の門田隆将氏のインタビューで「最悪の事態としてチェルノブイリの10倍の汚染を考えた」と話している。そして、原子力安全委員長だった班目春樹氏は、やはり門田氏に「汚染によって住めなくなった地域と、それ以外の北海道や西日本に日本が分かれる」可能性まで考えていたと話している。「日本3分割」である。間近で見ていた人はそこまで認識していたのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.08.08 17:14:53
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