ミスプロの競馬三昧

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ブリーダーズカップとドバイワールドカップ

ミスプロの競馬三昧


 ブリーダーズカップ・クラシックとドバイ・ワールドカップ


~シガー(Cigar)号はブリーダーズカップ(BC)・クラシックとドバイ・ワールドカップの両方に勝って、この2競走の間に永続的なつながりをもたらした。 この2競走制覇は多くの競走馬によって試みられたが、(シガー号以外で)達成できたのはプレザントリーパーフェクト(Pleasantly Perfect)号だけである。~


 「誰が最も速い馬の所有者かを証明する」試みは、実際に有史時代(の始まり)と同じくらい古いものであった。 ドバイの皇太子で、自慢のゴドルフィン(Godolphin)帝国の支配者、モハメド・ビン・ラシド・アル・マクトゥーム殿下(Sheikh Mohammed bin Rashid al Maktoum)は、この企てを世界で最も高額な賞金が交付されるスピードとスタミナを競う競走として実現するために、400万ドル(約4億4,000万円)を投じてドバイ・ワールドカップを創設し、同競走はたちまち名声を獲得した。

故アレン・ポールソン(Allen Paulson)氏は、地球半周ほど離れた所での競走にチャンピオン馬シガー号を出走させるため、年間予定表の1996年3月27日という日付に印をつけた。 ポールソン氏は世界で最高の競走馬であると信じたシガー号を生産し、所有していた。 そして、アラビアの砂漠の中で行われる競走がどんなものか、よく知りもしなかったが、この挑戦を試みることに熱心だった。

「アレン・ポールソン氏は大変肝のすわった男で立派なスポーツマンでした。 同氏は報酬が大きければ危険もそれだけ大きいと常に私に言っていました。 最終的に素晴らしい見返りがあると信じたら、自らが言い出したことから手を引くような人ではなく、敗れることを恐れたりしませんでした。 勝つことは大好きでしたが、惨敗してもうろたえたりは決してしませんでした」とシガー号の調教師ビル・モット(Bill Mott)氏は語った。

シガー号は歯を食いしばって、一歩一歩、しっかりとした走りぶりで、ドバイのナドアルシバ競馬場(Nad al Shiba Racecourse)の長い砂走路の最後の直線を、他馬の先着を許さずに駆け抜け、ポールソン氏とモハメド殿下に十分に報いた。 ピラミッド型のトラックを周回する2,000m(1-1/4マイル)の競走で2分3秒84というタイムで優勝したパレスミュージック(Palace Music)号のこの牡駒は、当時の最高賞金である240万ドル(2億6,400万円)の賞金を獲得した。 そして、この馬は競馬の景観を変え、ドバイの将来を形成するのに貢献した。

すぐさま、シガー号の勝利はドバイ・ワールドカップとBCクラシックとの結びつきを強めることになった。 ドバイ・ワールドカップは現在、総賞金600万ドル(約6億6,000万円)、優勝賞金360万ドル(約3億9,600万円)で、世界一の高額賞金競走であり、BCクラシックは総賞金400万ドル(約4億4,000万円)で世界第2位の高額賞金ダート競走となっている。 1995年のBCクラシック勝馬となったシガー号はドバイでその気性を発揮したばかりでなく、BCクラシックの時のように、ドバイでもソウルオブザマター(Soul of the Matter)号やエルカリエール(L’Carriere)号というアメリカ馬たちを後に従えてゴールインした。 長年施行されているダート競走の中で最も国際的な2,000m競走において、アメリカ馬の成績がヨーロッパ、日本、オーストラリアを本拠地とする競走馬に負けることはあり得なかった。

この勝利をまのあたりにした全ての競争相手や来場者は、素晴らしい瞬間に感動し、ペルシャ湾のキラキラ光る青い海に接する小さなアラブ首長国連邦の荒涼とした砂の中から、鋼鉄の光が立ち上がり始めている光景にも魅了された。 人々はそれぞれの国に戻り、この魅力的な土地について他の人々に語り、豪華なホテルの新しい眺望や四方に広がるショッピングモールや、曲がりくねったハイウェイを見聞するように勧めたことであろう。

ドバイ・レーシングクラブ(Dubai Racing Club)の国際部長で、1996年にドバイに移住して以来、競馬と観光が相乗効果をもたらした様子を見てきたマーチン・タルティ(Martin Talty)氏は、「シガー号の優勝は絶対的に重要な役割を果たしました。 アレン・ポールソン氏とビル・モット調教師は競馬と観光を結びつけることが可能だということを証明しました。 アメリカ人やその他の国の人々がドバイを旅行することについて抱いたかもしれない一種の恐怖心を取り去りました」と述べた。

そしてタルティ氏は、「これこそドバイ・ワールドカップが企図したことです。 ドバイは成長が世界で最も速い都市です。 ドバイのあらゆるブームが過去9年か10年のうちに起こりました。 毎年、外国からドバイを何度も訪れる人々は、1年かそこらで成し遂げた急激な変貌ぶりが信じられないと言っています」と語った。

シガー号は裂蹄からの回復途中で、最高のコンディションではなかったにもかかわらず、レース出走を決行したポールソン氏の勇気ある行為のお陰で、それまでアメリカ人とアメリカ最高のサラブレッドが訪れたことのなかった土地へ遠征させるという道を開いた。

「これは、従来よりも、確かにアメリカの調教師にドバイまで遠征する気持ちを駆り立てるものとなりました」と、BC社の業務担当上席副社長のパム・ブラッツ=マーフ(Pam Blatz-Murff)女史は語る。同女史は香港、シンガポール、日本で施行される国際競走には現在ほとんど定期的にアメリカ馬が参戦しており、またヨーロッパにも時々遠征していると指摘した。

しかし恐らく、どの国際競走も、BCクラシックとドバイ・ワールドカップの間に築き上げられたような結びつきは持っていない。 毎年、タルティ氏とブラッツ=マーフ女史は他のレースの結果を注意深く観察し、タルティ氏はしばしばBCクラシックの勝馬かその2着馬に対して、全費用主催者負担によるドバイ・ワールドカップへの招待状を即座に送付する。

「ドバイ・ワールドカップの招待馬について考える時、BCクラシックは参考になる抜群のレースです。このレースからレベルの低い勝馬が出たことはありません。 常にアメリカで最高の競走馬を輩出しています」とタルティ氏は語った。

一方で、BCワールド・サラブレッド・チャンピオンシップについてその名前にふさわしくあるために、ブラッツ=マーフ女史は、常に最高の国際的競走能力を持つ出走馬を集めたいと望んでいると語った。 ドバイ・ワールドカップの番組は現在、総額1,500万ドル(16億5,000万円)で6つのサラブレッド競走が組まれており、BCにとって最も重要な供給源となっている。


 重要な要素

 10戦10勝という完璧なシーズンを修め、2度の年度代表馬に輝き、トム・ダーキン(Tom Durkin、訳注:アメリカの競馬の著名な実況中継コメンテーター)氏から「比類なく、無敵で不敗」のハンサムな鹿毛馬の最高馬と言われ、不滅の名声を与えられたシガー号がBCクラシックで優勝した10周年記念式典が2005年にベルモント競馬場で行われた。 BCクラシックとドバイ・ワールドカップの両方を制覇するという偉業をなした馬は、シガー号のほかには大きな体のプレザントリーパーフェクト号しかいない。 両馬はまたBCクラシックに再度挑戦して共に3着であったという共通の競走歴も持っている。 シガー号は1996年、ウッドバイン(Woodbine)競馬場で写真判定の結果、数インチ差で破れ、プレザントリーパーフェクト号は2004年のローンスターパーク(Lone Star Park)競馬場で発馬機を蹴って後肢の球節に痛みを発症し、優勝できなかった。

ポールソン氏がモハメド殿下の要請に応じて以来、合計21頭が両レースの制覇を試みた。 ほとんどの馬は非常に堅実な成績をあげている。 事実、プレザントリーパーフェクト号とメダグリアドーロ(Medaglia d’Oro)号は2003年のサンタアニタパーク(Santa Anita Park)競馬場で行われたBCクラシックで1、2着となり、2004年のドバイ・ワールドカップにおいても、さらに激しい一騎打ちを再現し、BCクラシックと同じ結果となった。

そもそも最初の年に、シガー号は片道20時間近くかかる輸送によって生じる馬体への疲労から回復できることを証明し、2ヵ月少々で元気を取り戻して、マサチューセッツ・ハンデキャップ(Massachusetts Handicap)競走に出走し、連勝記録を15まで伸ばした。 さらに6週間後に行われたアーリントン・サイテーション・チャレンジ・インビテーショナル・ステークス(Arlington Citation Challenge Invitational Stakes)で16連勝目をあげた。

モット調教師は「シガー号はドバイ・ワールドカップに出走後、大変疲れていましたが、とても上手に回復しました。私達は同馬をドバイからニューヨークに輸送しましたが、気候が涼しくて、同馬は元気を取り戻しました。 30日後のシガー号を見ただけでは、同馬が大変な遠征を経てきたことなど全く感じられませんでした」と述べた。

BCクラシックとドバイ・ワールドカップのダブル制覇を狙おうとするほとんどすべての調教師は、この試みにはいくつかの要素が不可欠だと信じている。 出走馬は丈夫で、順応性があり、ドバイでは薬物治療が認められていないので、激しい体内出血を起こさない馬であることだ。 出走馬の調教師は最高のコンディションで両競走に出走できるように馬を内的にも外的にも知っていなければならない。

「馬が絶好調であればドバイに行ってもよいが、そうでなければこの遠征はやり遂げられないので行かない方がよいでしょう」とボブ・バファート(Bob Baffert)調教師は言う。 彼は1998年のドバイ・ワールドカップで、ゴドルフィン厩舎の最高の芝馬スウェイン(Swain)号を鼻差で押えて、眩いばかりの優勝をもたらしたシルバーチャーム(Silver Charm)号の調教師である。 この2頭の馬はその年、チャーチルダウンズ(Churchill Downs)競馬場で行われたBCクラシックで再びあいまみえた。 しかしながら、両馬は共に最後の直線をかなり走った地点で勝馬のオーサムアゲイン(Awesome Again)号に抜き去られた。 フランキー・デットーリ(Frankie Dettori)騎乗のスウェイン号は外柵の方向によれてしまった。

シルバーチャーム号は明らかに卓越した能力を持っていたが、バファート調教師は、ドバイ遠征から馬を元の状態まで回復させるために管理することがいかに難しいかが分かったと言い、「私はシルバーチャーム号を休ませすぎたので、同馬は体重がかなり増えてしまいました。 ”ザ・レフリジレイター(冷蔵庫)”(元全米アメリカン・フットボールの選手でディフェンスタックルのウィリアム・ペリー(William Perry)氏のニックネーム)のようになってしまいました。 軽く150ポンド(約68kg)は体重が増えていたに違いありません。 同馬を元の体に戻すのに苦労しました」と述べた。 シルバーチャーム号は1999年、ドバイ・ワールドカップに再挑戦したが、ダート初戦で自らの戦歴を飾る素晴らしいレースをしたゴドルフィンのアルムタワケル(Almutawakel)号の後塵を拝して6着どまりとなった。 その後、アルムタワケル号は、ウッドワード(Woodward)ステークス2着、ジョッキークラブ・ゴールドカップ(Jockey Club Gold Cup)3着の後、1999年のBCクラシック出走のためにガルフストリームパーク(Gulfstream Park)競馬場に送られ、穴馬ばかりが上位を占めたこのレースで称賛に値する5着となった。

バファート調教師はキャプテンスティーヴ(Captain Steve)号で2001年のドバイ・ワールドカップにも優勝した。 キャプテンスティーヴ号はチャーチルダウンズ競馬場で施行された2000年のBCクラシックに出走し、ティズナウ(Tiznow)号、ジャイアンツコーズウェイ(Giant’s Causeway)号に続いて3着となり、アルバートザグレート(Albert the Great)号、レモンドロップキッド(Lemon Drop Kid)号、フサイチぺガサス(Fusaichi Pegasus)号に先着してその能力を示した。


 報酬と休息

 リチャード・マンデラ(Richard Mandella)調教師は、ソウルオブザマター号とプレザントリーパーフェクト号のほかにも、6頭のドバイ・ワールドカップ出走馬を調教し、全ての馬が4着以内に入った。 そしてBCクラシックには延べ9頭を出走させている。 同調教師は、ドバイで出走後、帰国してからBCクラシックを目指すまでに通常数ヵ月間馬を休ませていると語った。

マンデラ調教師は次のように言う。 「馬はしばしば人を欺きます。 調子を崩したような様子で帰ってはきません。 安物の馬は疲れると調子が悪そうに見えますが、良い馬は疲れても、時には相当に疲れるまでそれを見せようとしないくらい強いものです。 だからドバイに遠征するレベルの馬については簡単にそういったミスを犯しやすいのです。 こうしたクラスの馬は、時々疲労したのかどうかを見極めることが非常に難しい場合があります。」

マンデラ氏はドバイで出走すると、馬は決して元の状態に戻らないという俗説を正面から否定する。 同調教師は、ケンタッキーダービーに出走した多くの馬がその後は活躍を見せないが、このことは、すべてにあてはまるものではない、と指摘し、「私はドバイについてそういった俗説を聞かされることにうんざりします。 ドバイ・ワールドカップはダービーやBC競走と全く同じようにハードな競走の1つであり、むしろ長距離を移動しなければならないだけに、それらの大レース(に遠征なしで出走するよりも)よりも厳しいです。 だからドバイ遠征については、馬にそれだけ配慮してやる心構えがあった方がよいと思います」と述べた。

ドバイ・ワールドカップを制した年にパシフィック・クラシック(Pacific Classic)で勝ったプレザントリーパーフェクト号には、なかなか治らない時差ぼけよりもドバイで出走した後の突然の様子の変化が大きな影響を及ぼした。

「同馬は生産牧場で新しい仕事を耳にして、大変に興味を示した様子でした。 6ヵ月前まではかつてご覧になったとおり、くつろいだ様子で、静かなおとなしい馬でしたが、その後少し慎重になり、気分が変わりました。 それが同馬のレースに影響を及ぼしたと私は考えます」とマンデラ調教師は冗談めかして言った。

メダグリアドーロ号はドバイ・ワールドカップ後出走しなかったが、ボビー・フランケル(Bobby Frankel)調教師は、当時5歳だった同馬を長く悩ませた球節の故障が原因で、遠征とは何ら関係がないと語った。

「ドバイ遠征のせいにはできません」とフランケル調教師は言い、2001年のアプティチュード(Aptitude)号のようにふさわしい馬がいれば、再度BCクラシックとドバイ・ワールドカップの両競走制覇に挑戦するつもりだと付け加えた。

あいにく馬主のフランク・ストロナク(Frank Stronach)氏はフランケル調教師が調教した2004年のBCクラシックの覇者、ゴーストザッパー(Ghostzapper)号の遠征には反対だった。 ストロナーク氏のこの決定によって、BCクラシック2着馬のロージイズインメイ(Roses in May)号が2005年のドバイ・ワールドカップの勝利をさらい、馬主ケネス・ラムセイ、サラ・ラムセイ(Kenneth & Sarah Ramsey)夫妻とデール・ローマンズ(Dale Romans) 調教師、ジョン・ヴェラスケス(John Velazquez) 騎手に生涯で最高の勝利をもたらした。 しかしながら約5ヵ月後、ケネス・ラムセイ氏はこの5歳馬を引退させた。 原因は同馬がアメリカの競馬に復帰するための調教中に、2003年に初めて診断された腱の故障が再発したことによるものだった。

1995年のBCクラシックにおいてオッズ52倍でシガー号に次ぐ2着となったエルキャリエール(L’Carriere)号は、両レース(BCクラシックとドバイ・ワールドカップ)に挑戦する馬の最善の管理方法を、すぐにH. ジェームズ・ボンド(H.James Bond)調教師に会得させた。

「再度両レースに挑戦しなければならないとしたら、私は絶対に遠征馬と共にもう1週間ドバイに滞在して、馬に一休みさせてやります」とボンド調教師は語り、後に、自己の管理馬で「鉄の馬」というニックネームで呼ばれたベーレンズ(Behrens)号をすぐにドバイから引き上げずにこの方法を用いたと述べた。

プレザントリーパーフェクト号同様、プレザントコロニー(Pleasant Colony)号の牡駒であるベーレンズ号は1997年のBCクラシック(3歳馬として出走し、7着)、1998年のドバイ・ワールドカップ(5着)、1999年のBCクラシック(7着)、そして2000年のドバイ・ワールドカップに出走するという並外れた出走記録を残した。 特に2000年のドバイ・ワールドカップではボンド調教師によれば「同馬の生涯で最高のレースの1つとなった走り」を見せ、ゴドルフィンの気まぐれな優勝馬、ドバイミレニアム(Dubai Millennium)号に次ぐ2着となった。 「ベーレンズ号はそのレースを競馬らしい競馬にした唯一の馬でした」とボンド調教師は語った。

ボンド調教師は1着以外は勝ちだと認めていないのだが、ドバイへの遠征を価値のあるものにするだけでなく、ドバイについて知ってもらい人々を惹きつけようとするモハメド殿下の試みの一環として、2着で終わったベーレンズ号は120万ドル(約1億3,200万円)を賞金として得た。 両レースに出走した21頭の馬の多くが、その成績によって通算収得賞金の大半を獲得した。 例えばローゼズインメイ号はこれら2競走で440万ドル(約4億8,400万円)を収得している。

そして、タルティ氏が指摘したように、とりわけ、ドバイ・ワールドカップは国際的な生産者や投資家にとって馬の展示場となっている。 ドバイで優勝後、キャプテンスティーヴ号の馬主、ラムセイ氏とマイク・ペグラム(Mike Pegram)氏は、所有する馬の種付けの権利を日本の関係者に売却(訳注:2002年に同馬をJRAが購買)した。


 勇気あるスポーツマン精神

 ドバイ・ワールドカップが10年以上前に創設されて以来、BCクラシックと両方に出走した馬たちは、どちらの競走にも勝てなかった馬であっても、競馬に深い蹄跡を残した。

2001年、ベルモント競馬場で施行されたBCクラシックにおいて、サキー(Sakhee)号がティズナウ号に対してたたきつけたスリル満点の挑戦をだれも忘れることはできないだろう。 このレースは、凱旋門賞の勝馬サキー号にとってダート初戦であったが、勝馬ティズナウ号に僅かに鼻差及ばず優勝を譲った。 サキー号は翌年に再度ドバイ・ワールドカップに出走し、同じゴドルフィン厩舎のストリートシティ(Street City)号の後位で3着となった。

ヨーロッパの卓越した競走馬でいくつかのGIレースでの優勝歴を持つホーリング(Halling)号は、両競走出走馬の中で唯一、両競走とも最下位だったという芳しくない特徴を持つ馬である。 同馬の出走した1995年のBCクラシックは馬場状態は重、優勝馬はシガー号だった。 ドバイ・ワールドカップは第1回目で、こちらもシガー号が優勝した。 しかしこの記録はホーリング号の競走能力を証明する以上にモハメド殿下の勇気あるスポーツマン精神を物語っている。

石油埋蔵量の減少を凌駕する勢いでドバイがその経済を成長させるにつれて、この国を広報するのにふさわしいイベントとしてドバイ・ワールドカップをつくりあげるために献身するモハメド殿下は、しばしば、一族が所有する最高馬をこのレースに出走させた。 また、スウェイン号やサキー号がそうであったように、芝競走馬としての定評を得た馬であってもいくつものG1勝馬を時々BCクラシックにも出走させた。

この大胆な戦術は、シングスピール(Singspiel)号が1996年BCターフで2着になった後、1997年のドバイ・ワールドカップで優勝したことで報われた。 たとえ事がそううまくいかない時でもモハメド殿下は、アメリカのクラシック競走の勝馬シルバーチャーム号やヴィクトリーギャロップ号(Victory Gallop、 他の3頭に先着して3着となった)の出走が呼び物となった1999年のドバイ・ワールドカップに、さらにエプソム・ダービー(Epsom Derby)の勝馬ハイライズ(High-Rise)号や芝のチャンピオン、デイラミ(Daylami)号を投入し、かつてない豪華メンバーの対戦を実現してレースの価値を高めた。 デイミラ号は、その後BCターフに出走して優勝した。 モハメド殿下の競馬への本格的関与は、アラブ首長国連邦の国営航空会社であるエミレイツ(Emirates)社がドバイ・ワールドカップの継続的なスポンサーとなっていることで示されている。 エミレイツ社は世界で最も速く成長している航空会社であり、主要な国際競走のスポンサーシップを拡大している。 2005年は、BCクラシックのスポンサーとなっているダッジ(Dodge)社と共に、ベルモントパークから数マイルのところにあるJFK国際空港とドバイ間の新ノンストップ・サービスが注目される中、ディスタフ(Distaff)とフィリー・アンド・メア・ターフ(Filly & Mare Turf)の2競走のスポンサーに加わった。 「私達はエミレイツ社を仲間に迎えることができて大変嬉しく思います。 競馬の存続に必要なスポンサーとして同社の支援を得られるのは私達全員にとって大変重要なことです。 ドバイで起きたこと、(モハメド殿下が)どのようにそれを発展させたかということは、何もなかったところから、突然、中東の香港のような国になるには何をすればよいか、について書かれた歴史の書物になるでしょう」とブラッツ=マーフ女史は語った。

ドバイでは非常に多くの変化が急速に進んだので、それを見るための唯一実際的な方法は写真を熟視することであるとタルティ氏は言った。

「ドバイは砂漠の中にいくらかの快適で小さな都市計画を持つしゃれた小さな町としてスタートしました。 私は2004年にドバイに戻った時に、以前初めて私達が宿泊したホテルを探しましたが見つけることができませんでした。 それは町の真中に埋もれていました。 町がどれだけ成長したかを想像することはできません。実際に見て信じるしかありません」とマンデラ調教師は語った。

 (1ドル = 約110円)

『Breeders’ Cup 誌 10月29日 「The Classic and The Cup」』



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