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(前半からのつづき)
鼻筋の通った理知的なマスクは早くからスポーツ英才教育を受けてきた過去が似合いそうだ。ところが、陸上を始めたのは高校からで、それまでは、ただ走るだけという運動はつまらないものにしか映らなかったと、五輪健闘の裏話に続いて自らの競技生活の軌跡を語ってくれた。 草野球、草サッカーにはじまり、小学生のころはいろんな遊びをした。中学ではサッカーをしたかったが、学校にサッカー部がなかったため、ハンドボール部に入った。球技に惹かれていたので、陸上は眼中になかった。高校で念願のサッカー部に仮入部するが、陸上に誘われて試しに走幅跳を跳んでみる。見よう見まねの無茶苦茶なフォームで6m50cmを超える。サッカーでは難しいが陸上なら全国大会に出られる。そうして陸上部で走幅跳をメインに、100m、4x100mリレーをやっていくことになる。(1998年、踏切の足首を骨折して以降は100mに専念する。1993年に出した8m13cmの記録は今も日本歴代4位) 中学のときと打って変わって、この陸上の顧問は放任主義だった。仕方なく自分で強くなる方法を模索することになる。 どうすれば遠くまで跳べるのか、どうすれば速く走れるのか、誰でも答えを知りたい。その答えは自分のなかにある。それを自分で見つけ出すことが大切だ。自分自身に耳を傾けて、自ら考える選手となること。そういう競技者になってほしい。(講演談)氏は現在「NOBY TRACK & FIELD CLUB」という陸上競技者を育てるプロジェクトに取り組み中。小学生を対象に底辺を広げ、陸上経験のあるアスリートを対象に専門的なコーチングで頂点を伸ばす。この新しいアスリートのためのクラブで、培ってきたノウハウを活かし後進の育成に尽力する準備を進められている。ちなみに"NOBY ノビー"は氏の愛称である。 燃え尽きると終わってしまう。去る2009.10.12の体育の日には、「神戸キッズスプリントチャンレンジ!」というイベントに参加された。イベント主催側の「いつでも走れると思われる勘違い」に応えるため、引退して一年過ぎる現在も、体調管理には努めているという。またそれは、子供たちに走れる姿を見せて夢を与えるためにも。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.10.27 14:03:20
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