テーマ:心のかたち、人のかたち(951)
カテゴリ:カテゴリ未分類
その人は愚痴が多い。切り出しは普通の会話であっても、話の舞台に当人から見ていけ好かない人が関係してくると、その人がいかに無神経でひどい人間かを、ねちねちと何年来してきたのと同じように繰り返すのだ。
聞いてあげればストレス解消になるだろうから、と最初は頷いて聞いていたが、どうもストレス解消になっていない。愚痴を重ねるほどに神経は昂って批判はエスカレートし、そうなると新たな考察はなくなり、何年も前の古い行いをあげつらって叩くのだ。愚痴を吐きながら興奮して。 ストレスをよけい溜めているように思われる。たとえ唾棄すべきことであっても、毒づいて、毒にあたるのは毒づく本人だ、と思った。 なぜ愚痴るのか。 他者の思慮に欠ける言動を指摘することで、少なくとも自分は、さげすみたい相手よりは思慮に富んだ人間であるとアピールできるからか。 「不平をこぼす人間に与えられるものは一般に憐れみよりむしろ軽蔑である」――サミュエル・ジョンソンの警句。相手を嗤うにしても独り心のうちに留めておきたい。 なぜ愚痴るのか。 不平・不満があるのは期待があるからだという。他人の言動に対して、こうあるべき、こうしてくれて当たり前、と知らず期待を抱いていて、それにそぐわないと、あの人はダメだ、となる。何の期待も抱いていない対象には、称賛もなければ不満もない。 食べログという飲食店の口コミ情報を集めているサイトがあり、外食するとき、私はこのサイトの情報を参照している。ここに集められた口コミ情報を読んでいていつも思うのは、店員の愛想が良いか悪いかを結構多くの人が気にしているのだなということだ。「料理はそこそこ美味しかったけど、店員のサービスが最悪。リピートはないでしょう」とか「店員さんの接客が気持ち良かったので、点数はその分甘めです」とか、ざっと見て、料理7割・接客サービス3割ぐらいで、その飲食店を評価している。で、なにが言いたいかというと、私は店員の愛想になんの期待も抱いていないから、それで飯が美味くなったり不味くなったりすることはない。注文したのに忘れられていたとかは論外だけど、厨房で私語びしばしであっても、メニューについて質問したらしどろもどろで時間の無駄に終わっても、オーダーの取り方が仏頂面で横柄に感じられても、いい感じはしないが、あまり気にならない。 期待ないところには不満もない。確かに。 愚痴る対象の人が、軽蔑したいほどの相手なら、もうなにも期待しなければいいのに、と思う。そうすれば、どんな応対をされても、さして気にならなくなり、相も変わらず同じような愚痴を、いつまでも繰り返すことはなくなるだろうに。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.05.13 02:07:46
コメント(0) | コメントを書く |
|