テーマ:絵が好きな人!?(4302)
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そうだ。 五坪の書斎のまんなかに三尺の机をぽつんと置き、『古事記伝』(本居宣長)の一冊のせて座ったのが女性史学の創まりとなった。それは高群逸枝(たかむれ いつえ)の徹底した学究生活の始まりでもあり、かつ国内未墾の学問分野『女性史』に最初の一鍬が下ろされた時でもあった。昭和六年、高群逸枝三十七歳のとき。 母系制の研究・招婿婚の研究・通史(古代・近代・現代)の五巻を著すことを目標とした。期間は十年を目安に置いた。分野に先覚者なく、自身において歴史学は門外漢で、貧困のため資料は事欠いた。頼めるものは、一意専心に努める不退転の決意と、伴侶慶三の支えのみであった。玄関に面会謝絶の札を掲げ、全てのグループ活動から離れた。六時起床、八時朝食、昼食抜きで夕四時まで書斎で勉強。六時に夕食を取り、再び勉強と原稿執筆ののち十時に就寝。時間励行は星霜重ねて厳酷な方向に弛められ、後に睡眠は二時間にまで切り詰められた。 武蔵野の片辺、隠逸の居に籠もり、辺幅頓着せず寸陰惜しんで考究に勤しむも、厖大な史料から婚姻制度の淵源を探り出す作業は、巡る日月との根競べとなり、目標とした五巻が並ぶまで実に三十年を要した。僅かの例外を除いてその間、門戸を出ることなし。常人の域を遥かに超越した刻苦勉励の長年月に半生を没我させた。 入学と退学、就職と離職、遍路と恋路を繰り返した流転のそれまでの半生、十五年戦争往時の家父長制度の中に撓められた女性の権限の解放を希い世論の矢面に立って活動した陽動のそれまでの半生からすると、引き篭もって一心に静思する姿は、社会的活動の視点から見れば大反転に違いないが、根底においては透徹した一の思想から成っていて何ら揺るいでいないのは、詩に顕然と詠われている。 よってそこに忍耐の姿勢は感じられない。むしろ想見されうるのは、そこ以外に生を進める選択の余地のない求道の奥地、その最果てを歩む孤高の後姿である。向学の動機が、凡そ在りがちな斯界の最高権威たらんと務めた故でなき故とおけば分かりよいであろうか。 在野の学者としての主たる業績というべき女性史に関する著書を読んではいないが、今の女性は強くなったと漏らすことすら、極めてぞんざい、忌まわしく浅薄に過ぎるとの慎みを覚えるに到った。 詩は詩のために詠まれたものでなく、とこしなえに真理を渇仰する願の吐露といった趣を感じた。想えば一節は、魂より流露する血涙に震えさえられ、耳を澄ませば一節は、自らを慰める鎮魂歌や自らを鼓舞する行進曲に聞かれ、瞳を閉じれば一節は、清かな月影が瞼に空々漠々と照る。全節を束ねたならば、暗雲際限なく重なる今宵の闇夜にしも、今生の夢魔を忽ちに祓って、寂滅の月光皓々と身の上に降り敷かれてありしかと。 誓い夫、慶三と固めた「誓い」は、早二年後から幽明を隔てることになった。一九六四年六月七日、高群逸枝、逝去。癌性腹膜炎と発表された。享年七十歳。 慶三は、絶筆となった自伝『火の国の女の日記』を補筆して仕上げ、全集を纏め、故郷熊本で奥津城を営み、十二年近く立ち待ち尽くしたであろう彼女のもとへ誓いを守って書を携えて逝った。 「私の銘 人の一生は知れたものだ 花のさかりも一時だ 花のさかりさえ無い者もある 真理に生きよう 千の名よりも一の真理に 高群逸枝」 卓抜した識見と純一無雑の思念に貫かれた言葉が、遺された詩と日記のなか、寂として冴え返る。妙なる哀切な調べを湛えて。 ~『火の国の女の日記』、 高群逸枝全集第八巻『全詩集・日月の上に』、 堀場清子氏による数冊の伝記 を渉猟して、バラの絵手紙を描く~ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.05.03 20:10:08
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