065036 ランダム
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ネオリアヤの言葉

ネオリアヤの言葉

テツジ

テツジ


午前六時四十分過ぎ。

犬に引かれて走る若い女性の姿を、
遠くに眺めながら歩く、日曜の明け方。
甘栗の店の窓がいっぱいに開かれている。
器械を手入れする鉄のぶつかる音と、
その店にしみついた焼き栗の香ばしい匂いが、
路地に流れ出ていた。

その窓の瓦の上で、二頭の鳩が、雨に湿った、
ぶっくりとした躰に首を深くうずめて、
銅像のように眠っている。
静かな風景画から流れてくる、匂いと音に、
知らない町の生活に紛れ込んだ自分を知った。
駅のホームから、冬の風に染まった町並みを視界に捉え、
たった今あとにしてきた、
あなたの部屋を想う。

「テツジ…」

 〝I LEFT THE HEART〟が静かに流れる小さなスピーカー。
ソファの上で、毛布にくるまったあなたがうつ寝返りは、
私の声に反応していた。

「おはよう。鍵、開けたままでいい?」
「うん」

その瞳に私が映っているのかどうか、確認はしない。
愛しい人と過ごした一夜のあと、
甘くにがい響き――その名前――を残して、
あなたの元を去る。
このまま、ずっと寄り添って眠り、
昼の太陽が二人の手を照らすのを感じていたい。

けれど、できない。
私たちは、互いの存在が必要なのに、
そのことを言葉にしたりしないから。
昨夜だって、
もしかしたら抱き合うことさえ、
起こりえなかったかもしれない。

そう考えると、二人の関係は不思議。
こうなることを、きっと二人とも望んでいたに違いない。
それなのに、それ以上交わす言葉がないのは、
どこかで恐れているからだろうか。
いつか訪れるであろう終わりを。

男と女の関係になると、
失うことが多いとあなたはいつだったか云った。

私は、
あなたとの距離をうまくとれなくなることが怖かった。
同じように接することはできないくせに、
何かが変わることも、何も変わらないことも厭でたまらない。

「気持ちいい…?」

ベッドとあなたの間で、
不規則な呼吸を繰り返している私を、
優しく見下ろしながらテツジは訊いた。
左腕で体重を支え、右手で私の前髪をかき上げる。

霞んで見えるあなたが、
輪郭、顔、鼻、まつげ、瞳へと、
だんだんに形を帯びてくる。

「こっちみて」

あなたの瞳は、そう云っていた。
あなたと自分が、
裸で抱き合っていることすら現実のこととは信じ難く、
夢をみているような気がしていた。
眼をあけたら、その夢が覚めてしまう。
あなたの温もりが消えてしまう、と。

キスをしたときから、ずっと不安だった。
だから、抱かれながら眼を見つめることに、
とても臆病になっていた。

「どこが気持ちいいの?」

言葉がうまく出てこない。でも、全部にきまってる。

「どこがいいのか云ってくれないと、やめちゃうよ」

テツジの声は、低く穏やかに響くけれど、
心なしか高揚しているようにも感じられた。

「ユキ…」

掠れるような声で、
あなたが初めて私の名前を呼んだ。

私の躰は敏感にその声に反応する。
深海に水の流れる音が訊こえる。

「強情だね…」
「そんなこと、ないよ」
「やっと喋った…これは?」

心臓がよじれるような快感と刹那さが、
躰の奥を駆け抜けた。

こんなふうになって、
私たちは一体どうなっていくんだろう。
愛しさが嫉妬に変わったりするんだろうか。
優しさが窮屈に感じられたりするんだろうか。
ちょっとした視線が、
わずかな言葉遊びが、
心に影を落とすこともあるのだろうか。

躰は欲望のままにあなたを求め、
快感に再び視力を奪われる。
けれど、
頭の中は、妙にはっきりとしていた。
一夜だけ。
今晩だけの目眩で終わり、また、もとの関係に戻るの? 
それとも、もう戻れはしないところまでいくの?

どちらも怖くて、
でもなるようにしかならないとわかっているのに。
私は、あなたの首すじにおそるおそる触れながら、
引き裂かれていく心と躰を
止められなくなるだけだった。

「テツジ」

あなたの名前を呟きながら、きつく瞼を閉じる。
あなたと私が、
脳細胞のずっと奥の方に確かな記憶として、
いつまでも残るように。
幸せな悦びと、泣けそうなくらいに哀しい刹那さを、
グッと押し殺した。

「好き…」
「…知ってるよ」

耳元に唇を近づけて、空気を震わすほどの優しい声がする。

自分の言葉に後悔はしていないけれど、
少しだけ、淋しかった。
私は、いったい何を期待していたのだろう。
同じ言葉を、テツジの口から訊ける気がしていた?
 
愚かしい心が、今は、あきらめの微笑みに変わった朝の電車の中。
窓の外に流れる景色は、
もうすぐ来そうな春一番を匂わせて、
うす曇り色に染まっている。

「知ってるよ…」

喉の奥で繰り返しながら、自分の気持ちを閉じ込めていく。

これでよかったんだよね、きっと。
これで、また新しい笑顔で、あなたに会える気がする。
どんなにテツジを想ってみても、
私はこういうふうにしか、愛せない。
愛しさのかたちが変わっても、
私たちが交わした会話や、
一緒に過ごした時間に、
嘘はない。

好きになってよかったと想うよ。
出逢えてよかったと。




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