065035 ランダム
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ネオリアヤの言葉

ネオリアヤの言葉

スクランブルエッグ

スクランブルエッグ


その朝、マサコは自分の嗚咽で眼が覚めた。
あまりに悲しすぎて、
夢の中では泪が出てこなかったのを、ボンヤリと覚えている。

カーテンの隙間から入り込んでくる朝陽で、
夢が夢だったとわかった時、
マサコは初めて泪を流すことができた。
隣のベッドはすでに空で、少しだけ、声を出して泣いた。

呼吸ができるようになるまで、被った布団の内側で丸くなる。
両腕を躰と両膝のあいだに押し込めて、
自分の姿が消えてしまうほどにギュッと硬く瞼をとじると、
ようやっと少し息を吐くことができるようになった。
オフホワイトの壁紙が淡く照らされ、
すっと浮かび上がる白い唐草模様。
壁に直に打ち付けられた、こげ茶色した細長い三本の天板。
その上に並んでいる本。床に置かれた大きな土焼きの壷の中で、
昨日生けたばかりのネコヤナギが、
銀色の柔らかな光を静かに放ちはじめる。

ゆっくりと視界に入ってくるモノたちが、
自分の部屋にいることをわからせてくれる。

「裕二…?」

リビングにつながる扉を開けると、
顔の周りにパァッと、卵の焼ける匂いがひろがった。

「早いね」
「あ、おはよう」
「スクランブルエッグ?」
「たまにはね」
「…いい匂い」
「顔洗ってこいよ。もうすぐできるから」

手首を使って、上手にフライパンを反しながら云う。
特にこちらを見ようとはしない。
泣いたこと、裕二は知ってるだろうか。

その姿を横眼に、バスルームの洗面台へと向かう。
鏡の前に現れたバスローブ姿のマサコは、
赤い眼が光って凄くブスだ。
しかも部屋の暖かさで、瞼がヒリヒリしてる。
せっかくの休みなのに、コンディションとしては最悪。

「バーカ」

呟いて、冷水を指ですくい、息をとめた。
冷たさが、眼の裏側の、もっと奥の方まで沁みてくる。

夢のフラッシュバックが起こる。

それを打ち消すようにあてた水は、
どんどん冷たくなっていくように感じた。
再び覗いた鏡には、真っ白い顔をした蝋人形が立っている。
眼が腫れて、鼻の先が赤くて、
まぶしそうに起きてきた私を見ても、裕二は何も云わない。
知らないふりをしてくれる。

敷きつめた薄い水色のタイルの上で、
見下ろしたつま先は冷たそうな色をしていた。
浴室のガラス戸を開けてバスタブに腰かけ、シャワーで温水をあてる。
温度差のせいで、ふくらはぎが沁みてやけに痛む。
キュッという音をたてて、シャワーを止めた。
……それでも、まだなんとなく、
裕二のいるリビングへ入っていく準備ができないでいた。

深呼吸をしながら小窓を開け、
流れ込んできた春の匂いと一緒に、バスルームを出る。

ガウンのポケットの中でティッシュを強く握りしめ、
リビングのソファに飛び上がって両足ごと躰を預けると、
足の方に置かれていた新聞が、
その勢いでカサカサと鳴りながら舞った。
スポーツ面に大きく載っている白黒の野球選手が、
ふわりと宙に浮いて見える。

「牛乳でいいんだろ?」
「うん。あったかいのがいい」
「おう」

裕二と一緒にいて良かったなと感じるのは、こういう朝。
どんな夢を見ても、眼覚めの横に愛する人がいるというのは、
嬉しい。
安心して呼吸できる。
赤色を帯びた両足を指で撫でながら、
キッチンを身軽に行き来している裕二を眼で追う。
鼻唄が訊こえてきそうな、色で例えるなら、
淡い黄色やピンクの画像にシャボン玉が浮いているような、
ほとんど絵のような光景。
まだ腫れ感のひかない顔で、マサコは一人微笑んでみた。
幸せが躰中に拡がっていく。

裕二とマサコは月に一度、平日の同じ日を休みにする。
忙しくて、普段は互いの起きている顔を見ることさえ少ない毎日の中で、
二人が決めた約束のひとつだ。

「今日って、まだ『シェルタリング・スカイ』やってたよね?」
「シネマスイッチのだろ? やってるよ。確か…月曜までだったはず」
「そっか」

新聞の映画上映欄を探す。

「マサコ好きだな、その映画」
「景色の綺麗さと壮大がいいじゃない。それにあの刹那さや、言動も凄くわかるし」
「わかんの? それヤバくないか?」

裕二の笑い声が訊こえて顔を上げると、初めて二人の眼が合った。

「夕方の行ってみる?」

優しい音がする。

「昼ころのは?」

テーブルに運ばれてきた、白い陶器に盛り付けられた黄色い卵。
そこから上る湯気に、心がホッとする。

「その顔を連れて歩けっちゅうの?」

フライ反しで、指揮を執るように、
マサコの顔をキッチンからなぞってみせる。
裕二の眼は、いたずら坊主のように愉しそうだ。

「そんなにヒドイ?」
「そういう問題じゃなくてさ」
「大丈夫だよ、私は」

そう云ってしまってから、胸が痛む。

なんであんな夢を見たのか、自分でもよくわからない。
だから、本当に大丈夫と云い切れるのかさえ、
はっきりとはしていない。
スクランブルエッグをつまみ食いするふりをして、
裕二から眼を反らした。
でも、裕二と一緒に居たい。
それだけはわかる。

「夕方の回見て、晩御飯でも喰って帰ってこよう。いい店見つけたんだ」
「なんて店?」
「…俺に訊くわけ? 店の名を」
「…だよね」

苦笑いを返す。

「だろ? でもな、場所は大丈夫。NFビルと駐車場の間の中道、わかる?」
「工事してたとこ?」
「そう、そこにあるんだ。フランス料理の屋台でさ」

裕二は、店の名前を一回で覚えたためしがない。
数回通って初めて、店名が出てくる。
大切なのは味や雰囲気だと云って、悪びれもしない。
料理の材料や味、椅子やインテリアのデザイナーが誰、店の香り、
どの従業員が可愛いだのと、
酔っていながらよくもま~というほど覚えて帰ってくる。
驚くほどに五感を使って物事を感じているのだ。

その裕二が、死んでしまう夢を見た。
マサコが自分をわかってくれないからと云って、
泣きながらマサコを殺し、その寂しさと罪悪感から彼が自殺してしまう夢。
その光景を一部始終、上から見ているもう一人のマサコ。
助けることも、逃げることもできない。
嗚咽をこぼして泣いても、
その場を傍観することしかできなかった。

眼が覚めてからも、寂しくて、切なくて、
苦しくて…現実と夢の区別がつかなかった。
こんなにも、自分が裕二を傷つけているのかと悲しくなった。
たかが夢なのに。
凄くやりきれない。

「こうでもしないと、お前は俺のことをわかってくれないんだ。でも、ごめんな。ごめんね。こうするしかなくて。かわいそうなことしちゃったね…淋しいよ、マサコ」。

そう云いながら、裕二は喉の奥にタオルをつめて、
泣きながら死んでしまった。

マサコは、夢の中でもう死んでしまっているはずなのに、
裕二においてけぼりを喰らったような、
一人取り残される淋しさを覚えた。
裕二を助けてあげられなかった。
何もできず、わかってあげられることもできなかったことに、
躰が、細い糸で縛られていくような痛みを感じた。

夢から覚めても、裕二が本当に死んでしまうような気がして、
怖くて泣いたこと。
そんなことを云ったら、彼は笑うだろうか。
それとも、真面目な顔をしてマサコを抱きしめる? 
……悲しい眼をして黙り込んでしまうだろうか。
怒ってくれたら気持ちがラクになるんだろうか。

わかってあげられなくてごめんね。
あんなことさせてごめんね。
そして、一人で勝手にこんな夢をみて、ごめんね。

どれも謝ってばかりの、切なく哀しい想いが、
マサコの躰の中に拡がっていた。
楽しそうに朝食の用意をしている彼の姿さえ、
幻想なのかもしれないと思う。
席について、パンにバターを塗っている、
裕二の骨ばって乾いた手を見つめる。

「裕二…」

焼いたフランスパンをかじる裕二を見た。

「しょっぱい?」
「?」
「塩入れすぎた気もするんだ、今日の卵」
「大丈夫、おいしいよ」
「おいしいのはわかってるけどさ」

納得のいかない表情で、唇を少し尖らせているのが、
たまらなく愛しく感じられる。

「ありがと」
「?」
「ありがとね、裕二」
「何が? 朝飯?」
「ぜんぶ」
「…」

まだ腫れのひかない眼で笑うマサコを見て、
裕二は冗談を云うのをやめてしまった。

「そんなことないさ」

パンをちぎった手元から、
まるで雪みたいに、白いクズがテーブルへと落ちていく。

「結婚しようか」

パンクズを眼で追いながら、マサコは身を乗り出して云った。

「こういう場合さ、それって俺のセリフじゃないの?」
「いや?」
「…本当云うと、今同じこと思った。いいね。マサコ、結婚しよう」
「いいの?」
「マサコと俺がそう感じたんだから、いいに決まってるよ」
「…昨日みたく喧嘩するかもよ」
「仕方ないな。でも…」

言葉の合間にバターを塗る。

「俺が出てくる夢で泣かないでくれよな」

今朝のスクランブルエッグは、
やっぱりちょっと、しょっぱかった。



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