スクランブルエッグスクランブルエッグその朝、マサコは自分の嗚咽で眼が覚めた。 あまりに悲しすぎて、 夢の中では泪が出てこなかったのを、ボンヤリと覚えている。 カーテンの隙間から入り込んでくる朝陽で、 夢が夢だったとわかった時、 マサコは初めて泪を流すことができた。 隣のベッドはすでに空で、少しだけ、声を出して泣いた。 呼吸ができるようになるまで、被った布団の内側で丸くなる。 両腕を躰と両膝のあいだに押し込めて、 自分の姿が消えてしまうほどにギュッと硬く瞼をとじると、 ようやっと少し息を吐くことができるようになった。 オフホワイトの壁紙が淡く照らされ、 すっと浮かび上がる白い唐草模様。 壁に直に打ち付けられた、こげ茶色した細長い三本の天板。 その上に並んでいる本。床に置かれた大きな土焼きの壷の中で、 昨日生けたばかりのネコヤナギが、 銀色の柔らかな光を静かに放ちはじめる。 ゆっくりと視界に入ってくるモノたちが、 自分の部屋にいることをわからせてくれる。 「裕二…?」 リビングにつながる扉を開けると、 顔の周りにパァッと、卵の焼ける匂いがひろがった。 「早いね」 「あ、おはよう」 「スクランブルエッグ?」 「たまにはね」 「…いい匂い」 「顔洗ってこいよ。もうすぐできるから」 手首を使って、上手にフライパンを反しながら云う。 特にこちらを見ようとはしない。 泣いたこと、裕二は知ってるだろうか。 その姿を横眼に、バスルームの洗面台へと向かう。 鏡の前に現れたバスローブ姿のマサコは、 赤い眼が光って凄くブスだ。 しかも部屋の暖かさで、瞼がヒリヒリしてる。 せっかくの休みなのに、コンディションとしては最悪。 「バーカ」 呟いて、冷水を指ですくい、息をとめた。 冷たさが、眼の裏側の、もっと奥の方まで沁みてくる。 夢のフラッシュバックが起こる。 それを打ち消すようにあてた水は、 どんどん冷たくなっていくように感じた。 再び覗いた鏡には、真っ白い顔をした蝋人形が立っている。 眼が腫れて、鼻の先が赤くて、 まぶしそうに起きてきた私を見ても、裕二は何も云わない。 知らないふりをしてくれる。 敷きつめた薄い水色のタイルの上で、 見下ろしたつま先は冷たそうな色をしていた。 浴室のガラス戸を開けてバスタブに腰かけ、シャワーで温水をあてる。 温度差のせいで、ふくらはぎが沁みてやけに痛む。 キュッという音をたてて、シャワーを止めた。 ……それでも、まだなんとなく、 裕二のいるリビングへ入っていく準備ができないでいた。 深呼吸をしながら小窓を開け、 流れ込んできた春の匂いと一緒に、バスルームを出る。 ガウンのポケットの中でティッシュを強く握りしめ、 リビングのソファに飛び上がって両足ごと躰を預けると、 足の方に置かれていた新聞が、 その勢いでカサカサと鳴りながら舞った。 スポーツ面に大きく載っている白黒の野球選手が、 ふわりと宙に浮いて見える。 「牛乳でいいんだろ?」 「うん。あったかいのがいい」 「おう」 裕二と一緒にいて良かったなと感じるのは、こういう朝。 どんな夢を見ても、眼覚めの横に愛する人がいるというのは、 嬉しい。 安心して呼吸できる。 赤色を帯びた両足を指で撫でながら、 キッチンを身軽に行き来している裕二を眼で追う。 鼻唄が訊こえてきそうな、色で例えるなら、 淡い黄色やピンクの画像にシャボン玉が浮いているような、 ほとんど絵のような光景。 まだ腫れ感のひかない顔で、マサコは一人微笑んでみた。 幸せが躰中に拡がっていく。 裕二とマサコは月に一度、平日の同じ日を休みにする。 忙しくて、普段は互いの起きている顔を見ることさえ少ない毎日の中で、 二人が決めた約束のひとつだ。 「今日って、まだ『シェルタリング・スカイ』やってたよね?」 「シネマスイッチのだろ? やってるよ。確か…月曜までだったはず」 「そっか」 新聞の映画上映欄を探す。 「マサコ好きだな、その映画」 「景色の綺麗さと壮大がいいじゃない。それにあの刹那さや、言動も凄くわかるし」 「わかんの? それヤバくないか?」 裕二の笑い声が訊こえて顔を上げると、初めて二人の眼が合った。 「夕方の行ってみる?」 優しい音がする。 「昼ころのは?」 テーブルに運ばれてきた、白い陶器に盛り付けられた黄色い卵。 そこから上る湯気に、心がホッとする。 「その顔を連れて歩けっちゅうの?」 フライ反しで、指揮を執るように、 マサコの顔をキッチンからなぞってみせる。 裕二の眼は、いたずら坊主のように愉しそうだ。 「そんなにヒドイ?」 「そういう問題じゃなくてさ」 「大丈夫だよ、私は」 そう云ってしまってから、胸が痛む。 なんであんな夢を見たのか、自分でもよくわからない。 だから、本当に大丈夫と云い切れるのかさえ、 はっきりとはしていない。 スクランブルエッグをつまみ食いするふりをして、 裕二から眼を反らした。 でも、裕二と一緒に居たい。 それだけはわかる。 「夕方の回見て、晩御飯でも喰って帰ってこよう。いい店見つけたんだ」 「なんて店?」 「…俺に訊くわけ? 店の名を」 「…だよね」 苦笑いを返す。 「だろ? でもな、場所は大丈夫。NFビルと駐車場の間の中道、わかる?」 「工事してたとこ?」 「そう、そこにあるんだ。フランス料理の屋台でさ」 裕二は、店の名前を一回で覚えたためしがない。 数回通って初めて、店名が出てくる。 大切なのは味や雰囲気だと云って、悪びれもしない。 料理の材料や味、椅子やインテリアのデザイナーが誰、店の香り、 どの従業員が可愛いだのと、 酔っていながらよくもま~というほど覚えて帰ってくる。 驚くほどに五感を使って物事を感じているのだ。 その裕二が、死んでしまう夢を見た。 マサコが自分をわかってくれないからと云って、 泣きながらマサコを殺し、その寂しさと罪悪感から彼が自殺してしまう夢。 その光景を一部始終、上から見ているもう一人のマサコ。 助けることも、逃げることもできない。 嗚咽をこぼして泣いても、 その場を傍観することしかできなかった。 眼が覚めてからも、寂しくて、切なくて、 苦しくて…現実と夢の区別がつかなかった。 こんなにも、自分が裕二を傷つけているのかと悲しくなった。 たかが夢なのに。 凄くやりきれない。 「こうでもしないと、お前は俺のことをわかってくれないんだ。でも、ごめんな。ごめんね。こうするしかなくて。かわいそうなことしちゃったね…淋しいよ、マサコ」。 そう云いながら、裕二は喉の奥にタオルをつめて、 泣きながら死んでしまった。 マサコは、夢の中でもう死んでしまっているはずなのに、 裕二においてけぼりを喰らったような、 一人取り残される淋しさを覚えた。 裕二を助けてあげられなかった。 何もできず、わかってあげられることもできなかったことに、 躰が、細い糸で縛られていくような痛みを感じた。 夢から覚めても、裕二が本当に死んでしまうような気がして、 怖くて泣いたこと。 そんなことを云ったら、彼は笑うだろうか。 それとも、真面目な顔をしてマサコを抱きしめる? ……悲しい眼をして黙り込んでしまうだろうか。 怒ってくれたら気持ちがラクになるんだろうか。 わかってあげられなくてごめんね。 あんなことさせてごめんね。 そして、一人で勝手にこんな夢をみて、ごめんね。 どれも謝ってばかりの、切なく哀しい想いが、 マサコの躰の中に拡がっていた。 楽しそうに朝食の用意をしている彼の姿さえ、 幻想なのかもしれないと思う。 席について、パンにバターを塗っている、 裕二の骨ばって乾いた手を見つめる。 「裕二…」 焼いたフランスパンをかじる裕二を見た。 「しょっぱい?」 「?」 「塩入れすぎた気もするんだ、今日の卵」 「大丈夫、おいしいよ」 「おいしいのはわかってるけどさ」 納得のいかない表情で、唇を少し尖らせているのが、 たまらなく愛しく感じられる。 「ありがと」 「?」 「ありがとね、裕二」 「何が? 朝飯?」 「ぜんぶ」 「…」 まだ腫れのひかない眼で笑うマサコを見て、 裕二は冗談を云うのをやめてしまった。 「そんなことないさ」 パンをちぎった手元から、 まるで雪みたいに、白いクズがテーブルへと落ちていく。 「結婚しようか」 パンクズを眼で追いながら、マサコは身を乗り出して云った。 「こういう場合さ、それって俺のセリフじゃないの?」 「いや?」 「…本当云うと、今同じこと思った。いいね。マサコ、結婚しよう」 「いいの?」 「マサコと俺がそう感じたんだから、いいに決まってるよ」 「…昨日みたく喧嘩するかもよ」 「仕方ないな。でも…」 言葉の合間にバターを塗る。 「俺が出てくる夢で泣かないでくれよな」 今朝のスクランブルエッグは、 やっぱりちょっと、しょっぱかった。 ジャンル別一覧
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