またまた「云ってたのってあの娘のこと?」 雨の重みで煙った九月の墨色の空に、 白い納骨堂が、影のように浮かんでいる。 山がすっかり姿を奪われてしまったせいだ。 ぼんやり考えこんでいた僕に、君がつぶやく。 初めて訪れる店を、住所だけ伝えて、 あとはドライバーに任せっきりだったことに、 僕は少し後悔し始めていた、ちょうどその時だった。 君の質問に、僕はうなずくのも曖昧に、また、 窓の外の風景に眼を流す。 雨の色に滲んだ窓ガラスに、 君の栗色にカールした髪がぼやけて映るのを少し思って、 でもやっぱり今の問題は、その店へ辿り着けるかどうか。 君は、その言葉の先を無責任にも、タクシードライバーにあずけたまま、 君は君で、反対側の住宅街をみつめ始める。 艶やかに光った唇が、雨に染まって、僕の記憶が戻る。 晴れて、夏の暑さがしみこんだコンクリートの壁の中で出逢ったときの、 君と僕を。 「この辺だけど」 ドライバーの声がして、 「あ」と、僕は、考え事を隠せなかった声で返す。 「十七丁目の四って、どの辺りですかね」 「え、わかんないの?」 知ってると思ってたんだけど、と云わんばかりの、 少し苛立った声で、ドライバーは言葉を喉奥に押し込めた。 土砂降りにまいっているこっちにとって、 その響きは、拍車をかける。 「あ、いいですよ、この辺で。歩いて探してみるから」 そんな気は毛頭ないというトーンで云い放つ。 感情を抑えなくてもいい他人との会話は、かんたんで、 自分の気持ちを左右するのに十分な勢いを持っているのだと、 初めて気づかされる。 昼から続いている雨音の中、歩くのも面倒で乗ったはずのタクシーが、 一瞬のうちに敵に変わった。 「回ってみるかい」 十七丁目近辺を、ドライバーは回ると云い出した。 どんでもないだろ、と僕は内心思うけれど、 メーターは上がり続けるままに、 うんともすんとも云わずに任せている。 君は、突然に僕らの間に現れて、 「その車のとこ」 とつぶやいた。 沢山に止まった車の側に、 ひろく光を放つ大きな窓が、雨の中で不自然に際立っていた。 「あ、そう。そこです」 僕は、どうでもいいような声で、またつぶやいていた。 本当は嬉しいのだけれど。 不満を表すのは素直なわりに、 喜びはさり気なさ過ぎて、 いつも君の機嫌を損ねていたことを思い出す。 君のその横顔に浮かんだ表情で。 どうってことなく縁どられたマスカラが、 僕のことを追いつめてることに、 君はきっと別離の瞬間まで気づかないんだと思うよ。 抱えた花束とか、 部屋の足元に転がってるぬいぐるみが、 どうしようもなく、僕に君の想いを理解させないモノたちだってことが。 限りなく理解の範囲を超えていることも。 でも、僕は君の眼にみつめられているよりも、 その俯いて、優しさを讃えた唇もとの方に、 愛情とか思いやりを感じてしまう。 それは、嬉しくもあるけれど、憤りさえ抱かせる。 だから、というわけじゃないけど、君に、 僕と似た色を描けないのはどうしてなんだろう。 水に浸ってよれた画用紙のような、 ただのイメージでしかない僕の中の君は抽象的すぎて、 こうして隣にいても、いっこうに、僕と、混ざらない。 「私のどこが好き?」 訊かれたとき、本当に焦ったんだよ。 知らないと思うけどね。 声。顔。表情。仕草、足の爪。声。声、声。 どれでもよかったんだと、今では思うけど、 なぜ応えられなかったのか、僕自身もよくわからない。 何でもいいなら、適当な言葉を撰ぶべきだったんだろうけど。 全部。 そう云うのも嘘くさくて、黙り込んでた。 だって、全部を、君の全てを好きで、 そのまま受け入れられるなんて思ってないし、実際そうじゃない。 傍にいること。 それだけで僕の気持ちは満たされてるんだから、 それ以上の言葉がみつからない。 あとは、君がその言葉とか、僕の気持ちを理解してくれるかどうかなんだ。 責任なんてない。 この先、同じ想いがあるなんてのも、よくわかりはしない。 ただ、満たされるというだけだから。 そう云っても、君の表情は動かない。 雨が、硬い音を立てて、窓を打つのと同じように。 「550円ね」 ドライバーの声に、僕は 「千円でいいですか」と云って、無理やりに紙幣をさし出す。 傘をさすのも面倒くさげに、君は、 自動で開いたドアとは反対の扉から出て行く。 僕は、やっぱり何も云わず、悪びれもせずに釣銭を手にして、 同じように降りた。 「どうも」 ドライバーの声が、雨の音に消されるように僕の頭に残る。 君の白いドレスが、 どんどん濡れて透明になっていくのを、 僕は、道を渡れずに、 またぼんやりみつめている。 ジャンル別一覧
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