065034 ランダム
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ネオリアヤの言葉

ネオリアヤの言葉

雪の匂い

雪の匂い


「ユミさ、冬の日本海って訊いたことある?」

俊哉が唐突に云った。

「演歌?」
「ばか、海の音のことだよ」
「そこ、静かに」

先生のお叱りがとぶ。
さっきから授業も訊かずに、
ずっと外ばかり眺めていた俊哉は、私に向かってチョロッと舌を出すと、
再び窓の外へ意識を移してしまった。
先生さえ見逃してくれれば、もっと会話が続いたかもしれないのに。
 
私は唇を尖らせたまま、彼の視線の行方を探す。
葉のすっかり落ちてしまった、
こげ茶色した裸の木々が並ぶ教室の外の脇道。
全ての輪郭が張りつめていて、その寒さが伝わってくる。
薄い霧のような風がサラサラ流れて、
今にも雪が降りてきそうな空。
 
あと何日寝たら、初雪を見られるんだろう…。

顎を乗せた左肘の軟骨が、ビリリと痛んで机上から外れ、
落ちた。
バランスを失った態勢は見事なまでに傾き、
恥ずかしさを隠すために咳払いをひとつ。

「もうすぐくるよ」
 
小さな声が耳に届く。

「え…」
「雪。もうすぐ降る」
「ほんと?」
 
身を乗り出した瞬間、また、先生と眼が合う。

「うん、雪のにおいがする」
「…におい」
 
春に東京から越してきて、初めて迎える北海道の冬。
そんなユミにとって、雪の匂いなど感じたことはなかった。
まして、雪に匂いがあることさえ、
今初めて知った。

「乾いたにおいでさ、ちょっと甘いんだ」
「甘いの?」

声をひそめて訊き返す。

「なんとなくね」

俊哉は照れたように微笑した。
高校生の男の子にしては大人びた笑い方で。
思わず、鼻に神経を集中させるけれど、
ストーブの焼けた石炭と教室の空気とが混ざり合った匂いしかしない。
時折、熱に暖められた木の匂いがかすかに漂うだけ。

この高校は、札幌ではもう希有となった石炭ストーブを使用している。
ほかには手稲にある小学校だけなのだと、最初に訊かされた。
十月の末に各教室に据えつけられたストーブの周りは、
まだそんなに寒くもない気温でも、
休み時間になると生徒が大勢集まってくる。
暖をとるというより、お喋りのためにやってくる。
十代中ごろの生徒たちが、
狭い場所にみんなで集まって本当に仲良くしている光景を、
東京ではあまり眼にしたことがなかった。
同じ高校生でも、こうも違うものかと驚く。

そして、石炭ストーブがこんなに熱を放出するものだと知ったのは、
十一月に入ってすぐの、席替えの後だ。
くじ引きで決まったユミの場所は、教室の一番左前。
つまり、ストーブの眼の前だった。

お昼を過ぎる頃になると、顔が火照って赤くなり、
眼も頭もボーっとしてくるほどに、よく燃える。
意地の悪い男子生徒が、時々私を見やっては、

「先生っ、萩野がまたボーっとしてます」

などと、
この苦しみを知ってか知らずか大きな声を張り上げる。
その度に、赤い顔を全生徒に確認される恥ずかしさは、
多分しばらく消えない。
この地域で育った生徒たちにとって、
その言葉がちゃかしであることくらいわかっているだろう。
どんなにその場所が熱いかということも。

けれど、やっぱり指をさされている方を見てしまうのが人情である。
転校生は、そんな惨めな洗礼を受けて、仲間としての素質を問われる。
悲しいけれど。

でも俊哉は違っていた。

特段の関心も抱かないかわりに、
これといって他人行儀な素振りもしない。
クラスの中、というより同年齢層の雰囲気とは明らかに違う、
大人びた冷静な表情を持っている生徒だった。

日本語の語彙の多さと表現の豊かさ、
そしてひんやりとした手。

ノートを手渡す時にかすかに触れた、
耳たぶの冷たさほどの手がとても印象的だった。
誰にも興味を持たないような眼差しは、どんなに暑い太陽の下でも、
プールのように澄んでみえた。
札幌という見知らぬ土地にいながら、
東京の程よい関係がいつも存在しているようなそんな距離に、
ユミは親近感とか安心感を覚えていた。
俊哉は、東京の友達に少しだけ似ていた。

その彼が、何故かユミを名前で呼ぶ。
他の同級生の名は苗字でしか呼ばないのに。

嬉しかった。
友達がすぐにできた気がしたから。
けれど、やっぱり特に仲良くもならなかった。
言葉も、隣席なのに少ない。
思うような会話は成立してこなかった。

だから、この会話は大切にしたい、
このまま続くようにと心から願った。

――放課後ジャンプ台に行かない?

俊哉は鉛筆を走らせ、私の方へノートをずらすと、視線を合わせた。
何かが通じ合うような、不思議な一瞬だった。
そして再び彼の左手が動く。

――いいもの見せてあげるよ。

バスを降りると、ジャンプ台が近い山にしては、
思っていたより家が多かった。
喫茶店やマンション、多くの一軒家がバス通り沿いに等間隔に立ち並び、
物静かな生活感が漂っている。
そして、山の涼しい風が頬をなでて吹き過ぎる。

「こっちだよ」
 
俊哉は私を眼でうながし、信号のない車道を渡った。
バス停の二十メートル程前方で、道が左へ大きく蛇行しているため、
いつ車が出てくるともわからず、
しかも見知らぬ土地なのも手伝って、ひどく緊張する。

「大丈夫だよ、そんな怖い顔しなくても」
「どうして信号つけないんだろ」
「こんなアップダウンの激しい坂道で信号つけたら、冬が大変だよ」
「そっか…雪積もるから滑っちゃうか」
「ロードヒーティングしてるから雪は大丈夫だけど。ドライバーにとっちゃ迷惑な話だよ」
 
彼は、まるで住人のように笑うと、
手にしていたザックを背負い直した。
どうやら、まだしばらくは歩き続けそうなかんじだ。
 
街燈にあかりが灯り、午後五時を回った山の空は、
眼下の街よりも早く暮れる。
ここから見ていると、空が西の海へ向かって、群青色に染まっていくのが、
はっきりとわかった。
 
ため息がこぼれて、初めて、
自分が放心していたことに気づいた。
ジャンプ台を背にして、
ちょうど視界がひらけている駐車場の白いガードレールに腰かける。
上手くバランスをとらないと、吸い込まれそうだ。
オフィスビルや工事中の駅舎のクレーン、
空へ向かって弧を描いて放たれる光が、少しずつ、
その存在を主張し始める。
時間の流れは、ユミが思っていたよりも速い。

「俺さ、妹がいたんだ」
「妹?」
「ユミっていう名前で、三歳(みっつ)下なんだ」
「おんなじだ、名前」
「妹のほうが少し、髪が長かったかな。それに、寂しがり屋の裏返しで、すごく気が強くて、わがままなんだよね。だから、ユミとはあんまり似てないかも。同じ名前だけど」
「私も気が強いかもしれないじゃない」
「だとしても、妹にはかなわないよ」
 
苦笑いをして街をみつめる。
夜気のせいで、白く光る横顔。
 
ちりちりと音が訊こえるように瞬いている街の灯かりが、
俊哉と自分の眼に映っているのがわかる。
同じ景色を見ているのだ。

「去年死んじゃったけどね」
 
ポツリ、静寂を破る言葉が響く。

「え…」
 
言葉が呑みこまれて、消える。

「事件に巻き込まれて、流れ弾にあたっちゃったんだ」
「…銃? どこで」
 
外国の名が頭を過った。

「うち」
 
俊哉は、
途方もなく感情のこもらない眼をして、ほんの一瞬だけ笑った。
ふと和らいでみえる口元。

「親父が事業やっててね。その関係で悪い奴に逆恨みされて」
 
脅しのつもりで家へ発砲された弾のうち、一発は窓に命中。
二発目。
運悪く窓際に居合わせた妹の腹部に中ったのだという。
留学先から帰省していた間の事件だったらしい。

「犯人は勿論つかまったけどね」
 
まるで他人事のように淡々と、
小説の頁を捲るように言葉が流れていく。
ユミは、どこか遠い国の話を訊いている気がしていた。
少なくとも、眼の前の、友人の肉親の死が語られているとは、
信じられなかった。
 
何て云ったらいいのだろう。
何でこんな話をするんだろう。
 
ちょっと楽しくて、
幸せだったらそれでいい毎日しか送って来なかった自分の世界は、
俊哉の住んでいるそれとは、
全然比べ物にもならないほど違っているのだと感じられた。
家族が集まって笑っていられる環境とも異なるのだ…。
 
その大人びた表情や冷静な物腰の理由(ワケ)はこれなのかもしれない。
ユミの知らない世界が、確かに身のまわりに存在している。
近づけると思っていた、俊哉との距離は、
より一層広がってしまった。
 
彼のいる場所は、どんな色をし、
どんな温度に包まれているのだろう。
 
でも、知らないほうが幸せなこともあるって、
きっと、こういうことなのかもしれないと、おなかの中でつぶやいた。
決して、俊哉には訊こえないように。

「ほら」
 
不自然なほど温かい声で、俊哉が空を仰いだ。
 
つられて頭を上げてしまった自分の幼さに、後悔する。
彼がどんな表情(かお)をして眼を開いているのか、
確かめもしなかった。
いや、できなかった。
…怖くて。
 
そのとき。乾いた空気が、鼻の奥と喉のあたりで混ざった。
 
眼の中に、白いまるい浮遊物が現れる。
それは、睫毛のうえで起きた小さな風に吹かれて、ユミの唇に落ちた。
そして溶けた。

「雪…?」
「云っただろ?」
 
笑う俊哉の鼻にまたひとつ、白くて、淡くうすい雪が消えた。

「冷たくないんだ…」
 
もっと、ひとつひとつが冷たさを持っていると思っていた。

「こんな嘘みたいなのが、海の音を閉じこめちゃうんだ」
「海の音を?」
「雪の中で海が蠢いて、躰の底に、冬の海の雪にくぐもった音が響くんだ。全身が鼓膜になったみたいな…自分も雪の中に閉じこめられてるような、凄いんだ」
 
にわかに冷静さを失った口調で、
俊哉はガードレールから地面へと体重を移す。

「ユミはきっと、立ってられなくなるよ」
 
その笑顔を確認して、ユミはもう一度、鼻で呼吸をした。
ひんやりとした空気が鼻腔を通って、喉に到達する。
再び喉と鼻がくすぐったくなる。

これが、甘いというカンジだろうか…。

「よく来るの? ここ」
「家が近くなんだ。ジョギングしながら通りすぎることが多いから」
「朝?」
「まぁね。夜はお袋が心配するから来ないよ」
「そっか…」
 
俊哉はどんな思いでここを走るんだろう。

「ユミさ」
「?」
「ユミは死んじゃだめだよ」

真面目な顔をした俊哉が、
まだガードレールに腰掛けたままの私の前に立ちはだかる。
 
「お母さんやお父さんが心配するようなことはしちゃ駄目だからね」
 
しっかりと私の眼を観て、私自身に話かけてくる。
その眼は怖いほどにまっすぐで、
何か大切なことを伝えたあと、
私を置いて消えてしまいそうな雰囲気だった。

「…俊哉もだよ。どこにも行っちゃだめなんだから」
 
必要以上に神妙にならないようにするほど、
冗談っぽく響く自分の声。

「大丈夫だよ。俺はどこにも行ったりしないよ」
「本当に?」
「行かないよ。馬鹿だねユミは」
 
眼を細めて、顔いっぱいで笑う俊哉。
左手で私の髪をくしゃくしゃにする。
泣きたいワケでもないのに、涙が出そうになった。
冷たい空気と雪が息を白く透き通らせる。

睫毛のうえに舞い降りた白いそれは、瞬きすると一緒に動いて、
まだそこにいた。
眼に映る影が、睫毛に乗った雪洞(ぼんぼり)のせいでゆがむ。

「年が明けたら、海に連れてってあげるよ」
「いつ?」
「一月頃かな。ユミがいい子にしてたらね」
 
足元が岸壁になったような気がして、ユミの躰がかすかに揺れる。
俊哉の言葉は多分、私を通り越して、
妹を見つめているんだろう。
私が妹でないことをわかっていながら、どこかで接点を探している。
 
誰も知らない二人だけの秘密を抱きしめているような、
躰の奥が疼く感覚を覚えた。

「帰ろう…」

俊哉の左手にそっと触れる。
心臓をつかみとられるような苦しさと刹那さで、口の中が渇いた。
その空気は、少しだけ甘かった。




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