065045 ランダム
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ネオリアヤの言葉

ネオリアヤの言葉

その動かない映像を

その動かない映像を


「で、今晩は一人の部屋にちゃんと帰るわけ?」

豊の唇が、アルコールで滑らかに動く。
言葉の途中から、私はビールグラス片手に、勝手に記憶を辿り始めていた。
沈黙の長さに痺れを切らした豊は、少しだけ鼻で笑うようにして私を見た。

「帰るわよ、そりゃ」
「俺とこんなガード下の居酒屋で飲んでてか?」
「飲んでたって帰れます。大体、明日だって仕事あるんだから、帰りたくなくても帰らなくっちゃいけないのです」
 
今日は、時間の流れがとても速くて、私は勤務の終了時間が近づくことがイヤでイヤでたまらなかった。
そういう日に限って、恐ろしくあっというまに一番厭な時間になってしまう。
しなくてもいい仕事をして、大して頭にも入ってこないのに何度も資料の見直しをしたり、
同僚と立ち話をしたりして、私は会社を出て家に帰る時間を遅らせようとした。

「何時に仕事終わってた?」
「六時半には完全に」
 
私は笑って答える。

「九時までよくまあそんなに時間潰せるよな、会社で」
「是が非でもと思ったら何でもできるってこと」
「で、いよいよ焦って俺に電話してきたってわけか」
「まあね」
 
豊は格別に厭な表情もせずに、あいかわらず少し困ったような眉を寄せて、
「どうしようもないな。でもナギらしいよ」と笑った。
以前から、使いもしないのに置いたままになっている電子レンジを、
豊にあげると云っていたのだけど、互いに時間が合わず、その話をしてから一年近くたつ。
それを引き上げることを提案しながら、私は一人になること、
そして一人の家に帰ることを少しでも先延ばしにしようとして豊に声をかけた。

「そろそろ出るか」
「…」
 
避けていた言葉を訊かされて、私は躰を強張らせる。

「何も泥棒がいるわけじゃなし。どのみち帰るんだろ? 同じことだよ」
「そうなんだけどね…なんかさ」
 
そう。
独り暮らしの部屋に帰るなんて、もうずっと毎日毎日繰り返してきたことだった。
それがたった、たったこの三日間で、独りであの部屋に帰ることが当たり前でなくなってしまった。
 タケシがいた三日間の記憶。
そして、タケシの香りが残っているだろう部屋に、
独りだけで戻っていく勇気が、今朝部屋を出たときの私には、すでになかった。
まだ眠っているタケシを起こさないようにして鍵をしめ、
いつもどおり私はこの東京での生活を始めた。
電車の吊り革につかまり、窓に映る自分の姿の向こう側に、
布団にくるまって静かに寝息を立てているタケシの寝顔が浮かぶ。
今日の昼すぎには東京からいなくなってしまうとわかっているのだから、
どうせならば起こして声を訊いて、見送ってもらえばよかったのに。
そうしたら最後のキスだってちゃんとできたかもしれないのに。
 
ちょっとだけ、後悔に似たような想いを抱えて片足に重心をかけた。
私のカバンが隣の人の手提げ鞄に乗っかり、露骨に厭な顔を投げかけられた。
窓越しに、じろりと動く視線。
咽喉の奥に押し込められている言葉が、口にする以上に伝わってくる。
その緊張感から逃れるために、私はわざと声に出して、左隣の人の顔を見上げて云った。

「あ、ごめんなさい」
 
その男性は、視線を動かさずに、咳払いをひとつして、鞄を左手に持ち替えた。

「でも俺だったら起きて見送るけどなあ」
 
豊は電車を降りてからの道程でつぶやいた。

「その人、朝弱いから」
「またしばらく会えないんだろ?」
「それでいいんじゃない? お互いにいつもの自分らしくいられる関係でいいと私は思ってるから」
 
そう云いながら、心のどこかでは、
本当にその思いが百パーセントなのかとも感じている自分がいる。
でも、最初からそうやってタケシとやってきたのだから、
それが結局は私もラクなんだろうと思ってもいた。

冬になりつつある夜の風が、黄色い銀杏の葉を押し流す。
蛍光灯の光をうけて、銀杏の葉は、昼間見るよりも、もっともっと鮮やかに黄金色をして輝いていた。
からからと軽やかな寂しい音を立てて、私たちをたくさんの葉が追い越していく。
アスファルトを踏みしめるヒールの裏側に、一日が漂い、その足取りは重かった。

「そんなにゆっくり歩いてると、俺、最終電車に間に合わないんだけど」
「泊まってけば」
「…」
 
心にもないことを。
 
豊の声が訊こえる気がした。
私だって望んでるわけじゃない。
でもやっぱり、独りで眠るには、あまりに心の空洞は大き過ぎる。
三日前、仕事が終わったあとすぐに飛行場へと、タケシを迎えに行った。
そして私の部屋へと。
いろいろな話をして、アルコールを飲んで、また喋って。
私の仕事が終わると会い、夕食をとって、コーヒーを飲んで部屋に帰る。
そういう時間が三日間だけ、私の一人だった東京の生活のなかに入り込んだ。
もちろん、これまでだって、独りじゃない時間を過ごしたことだってある。
けれど、タケシは特別だった。
それが、今更のようにわかる。
わかってしまう。それが嬉しくもあり、悔しくもあった。

「どこが好きなの?」
「…いつでも互いに飛び立ってしまいそうな感じかな」
「なんじゃそりゃ」
「ま、でもさ…好きになったら特にこれと云って理由もないし、どれも理由になるでしょ。理由なんてどうだっていいのよ、本当は。好きだっていう気持ちはその人と自分のあいだだけの問題なんだから」
「そういう刹那的な恋愛好きだよな、お前」
「だってそうなんだもん」
 
少しだけ沈黙ができる。

「それなのに、俺に泊まってけばって云えるナギもいるの?」
「時々自分でもビックリよ」
 
私は笑い話にしようと思ったけれど、あまり成功したとは云えなかった。
互いに二人は沈黙を守りながら、少しずつ近づいてくる私の部屋へと、
歩みを進めていった。

部屋の鍵をあけたら、どうなっているんだろう。
私は想像する。
自分の部屋なのに、今日タケシが最後にこの部屋を後にしたというだけで、
まるで知らないところへでも入っていくような気分になる。
タケシが坐っていた椅子やコーヒーカップは、朝と位置が変わっているだろうか。
何か置いていったものはあったりするんだろうか。
いや、それはないかな…。
忘れ物はしていないだろうか。
あったらいいのに、などと想いながら、苦笑する余裕ができる。

「この上」
 
私はそれだけ云うと、豊を従えて階段を上り始めた。
昨夜までは、豊のいる位置にタケシがいて、
お互いに開きも縮まりもしない距離がおかしかった。
後ろを上ってくる靴音は、タケシのではなく、紛れもなく別の音だった。
コンクリートの響きを吸収するスニーカーのゴムが、
階段の縁に滑り止めとしてついている銀色の部分で、きゅっきゅと鳴っている。
鍵を差し込む瞬間、私は息を止めた。
これから感じる最初の全てのことをもらさず感知するために。

私のつっかけ用の黒い靴がまず眼に入る玄関先。
心のなかで、訊こえないように
「ただいま」とつぶやいた。
電気をつけ、勇気を出して平静を装い、部屋に大またで入り込んだ。
その態度とは裏腹に、視線はどんな些細な変化も見逃さないようにと、
四方八方に走り、センサーを張り巡らせた赤外線のように全てを模っていく。
けれど。
想像を超えるような劇的な変化も、あんなに怯えていた孤独を感じるほどのタケシの形跡もなく、
私は不本意にもがっかりした。
ちょっとだけめくれたままの布団。それだけが、唯一、
タケシの存在を残していた。

「適当に坐ってていいよ。レンジの準備するから」
「ああ…」
 
私はホッとしたような寂しいような気持ちを抱えて、バスルームへと足を踏み入れた。
その瞬間、タケシの匂いが私の頭からつま先までを包んだ。
タケシがつけている香水の香りが、胸がしめつけられるほどに残っていた。
一瞬だけ、私は眼をとじる。

「タケシの意地悪」

私は、手を洗いながら、不意をついて訪れた淋しさに力が抜けそうだった。
街で、同じ匂いに出会うと、違うのをわかっていても、つい振り返ってしまう。
でも、タケシがつけることで、タケシだけの匂いになることも、私は感じていた。
鏡で自分の顔を確認してから、元気よくバスルームを出る。
豊は、落ち着かなさそうな表情を隠して、変に堂々と椅子に腰かけていた。
腕時計と指輪をはずし、私は机のアクセサリー入れに戻す。
そのとき、机上に自分のではない文字を見つけた。

『お帰りなさい』。
 
タケシの字だった。呼吸も視線も時間も、全てが止まってみえた。
そして私の視線が何かを感じて動いたあと、物凄い速さで私は豊に云っていた。

「ごめん、やっぱり帰ってもらえる」
 
豊は、もう少しで私の腕に触れそうだった。
そして空しくその動きが止まるのを私も感じた。
けれど、私はもう振り返ることさえせずに、ただ、
豊が黙って出て行った扉の閉まる音を訊いていることしかしなかった。
心から申し訳ないと思ってはいたけれど、それ以上の注意力を払うことはなかった。

一度だけ、天井を見上げてから、私は再び視線を戻す。
そこには、タケシの吸った吸殻と、私の吸殻が、小さな灰皿のなかに納まっていた。
一本ずつ。
それぞれが吸う、異なる銘柄の煙草が。
出掛けに、自分の吸った分は捨ててきたはずだった。
そして、タケシが起床からこの部屋を出るまでの間に一本だけしかタバコを吸わないということも、
考えられなかった。
フィルターぎりぎりまで短くなった二つの吸殻は、長針と短針が、
ちょうど午後十二時半を差しているよう。
私は黙って突っ立ったまま、ぼんやりとその動かない映像を見つめていた。

「ほんとに、もう、タケシなんだから…」
 
私は泣き出しそうな心に満ちていく幸せな想いに、苦笑いをこぼす。
心残りが全くないと云えば、それは嘘になる。
どうしてもっと違う言葉をかけられなかったんだろうと、
自分の言葉の幼さと優しさの少なさに反省もした。
そして、どうしてもっと抱きしめたり、その手に触れておかなかったのかと瞼を伏せたこと。
けれど、もうそんなことは大した問題ではないと感じられる。
きっと、もう十分すぎるほどに、私の想いはタケシに伝わっているんだろう。
だからこれ以上、今は何の言葉も要求も必要はないのだと知る。
伝えることも、伝えられてくることも。

私が独りで感じていた心残りを、タケシは知ってか知らずか、
その分だけ、私の吸殻のほうが、
タケシのそれよりも、ほんの少しだけ長めに残っていた。




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