065059 ランダム
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ネオリアヤの言葉

ネオリアヤの言葉

あの子のこと

あの子のこと


「今の子」
「?」
正は店の扉を押しながら、私を先に通した。
「正のこと、好きなんでしょう?」
「どの子?」
「…わかるもん」
わかってるくせに。
私は、夜の空気を纏いながら、夏の風のなかに心を解き放つ。
一緒に外に出ようとした店内のちょっと効きすぎの冷房が、
一瞬にして湿気を帯びた空気に押し戻されるのを、はっきりと感じながら。
途中から、正の知り合いのグループが同席していた。
そのなかにいた一人の女の子の視線が、あまりに普通すぎて、
私にはそれが却って苦しかった。
痛いほどの平静ぶりが、その子の強さと弱さを露呈していた。

私を見つめる眼には、興味と好奇の色が宿り、
時折正と私を見比べながら、自分の心をひた隠して納得しようとしているのが、
伝わってくる。
彼女と私の立場に、何か違いあるとすれば、
今日どっちが先に、正と逢っていたか。
どっちが正と約束をしていたか。
そのくらいのことだった。
私のタイミングが悪ければ、
彼女と正が一緒の場面に、私が遭遇する偶然だってある。
そのときはきっと、
今日と反対のことが互いの胸のうちに展開されるのだろうというだけ。

「デートするんでしょ?」
「彼女と?」
「うん」
「…」
正は、空を見上げた視線をそのままビルの灯りの群れに流し、
少しだけ考えるように間を作った。
今さら、そんなポーズ、つけなくたっていいのに。
私の心が、さっきまでとは違う痛みを伴う。
「そうね…二人で会うこともあるよ」
「かわいいね」
「そうだね」
正の眼が私を優しく見つめる。
やきもちなんていう、チープな感情じゃない。
どっちかがもしか、正にとってより大切な存在だということがはっきりしていれば、
私もやきもちを妬いたかもしれない。
もしかしたら、反対に優越感を抱いて微笑むこともできた。
でも、私も彼女も、同じだけ、違うやり方で、正を好きだということ。
そして正にとっては私も彼女も同じ、それぞれの価値を有した存在ということ。
それだけが横たわっている。
 
それって…すごく残酷なのにと、ふと想うことがある。
どっちかが重く、より深く愛されているのならば、
もっと自分の気持ちを素直に受け止めることができるのに。
どちらも報われない。
それもチープな想いなのだけど。

人間的に優れていて、仕事もできて…
そんな褒め言葉、正からいくらもらったって、嬉しくなんかちっともない。
哀しいくらい。
どんなに人間的に偏っていて、手がつけられないくらいに気性が激しくて、
多少仕事ができなくても。
バランスなんかとれてなくていい。
ただ、正に一番想われていたい。
女性として、愛しく想われていたい。
それだけあればいい。

正の手のなかで気持ちよくなって、唇に触れて、
躰がかすかに触れあって心が電気を帯びたり、
何も云わずに気づいたら見つめてくれてたりするほうが、
ずっとずっと私は幸せになる。
心が優しくなって、満たされて、自信が溢れてくる。
正のことが全部欲しい。
 
そう云ったら、正はどんな顔をするだろうか。
困ったように、目尻を下げて、刹那そうに唇を歪めてから、ひと言、
「わかってるだろ…」と云うだろうか。

わかってるけど。
それは私の頭が理解してるだけで、心も胸も、わかりたくない。
「どうする?」
「…明日は仕事?」
「…午後から」
「そうなんだ…正の部屋に行ってもいい?」
「いいよ」
「…ありがと」
私の心は、まるで子どもみたいに安心する。
私といるとき、正の心はちゃんと私を見つめていてくれている。
それがわかっているのに、それでも言葉や態度にされて初めて実感する。
想いは言葉なんかじゃないと知っていても、やっぱり時々、欲しくなる。
「なんでなのかな…」
「何が?」
正の歩く歩幅は、私よりも広くて早い。
少し遅れて私は正の後に続いていく。

「正のこと、好きな女の子と会うと、私、なんだかその子のことを想って胸が切なくなる…」
「どうして?」
「…どうしてだろうね…別に、自分に自信があるわけじゃないのに、その子の想いが伝わってくるたびに、凄く申し訳ない気分になるんだ」
「…かわってるね」
「ほんとだよね」
 
本当にかわってる。
自分でもそう思う。
自嘲気味に俯いて、私は正の腕に軽く触れた。

「この子も、私とおんなじくらいに正のこと好きなんだなあと思うと、おかしいんだけど、今日は私ばっかりが正と一緒にいてごめんねという気持ちになる」
「…ますますかわってるね」
「…正のせいなんだから」
「え、俺?」
「そうだよ。だって」
「?」
正は私の手を振り払うこともせずに、
腕に手が絡まるのを自然のことのようにして歩を進めている。
「だってさあ…誰か一人だけの存在にならないで、みんなで共有される存在が自然みたいに恋愛してるでしょ、正。望まれるがままに、決して自発的にではなく…」
「誰でもいいわけでもないけど」
「…とにかく…誰のものにならないという点で、誰をも選択しないということにおいて、正は…ある意味、みんなのものなのよ」
「…俺は俺のものだけど」
「…もう」
「ミズキだって自由恋愛だろ」
「…でも、…誰が今とても大切かっていうと、やっぱり正よ」
「…俺も、ミズキのこと大切だよ」
「…」
嬉しいけれど、上手くかわされたような気分になる。
私を大切だと云うのと、私が一番大切だというのは異なる。
やっぱり違う。
一番になりたいわけじゃないのに、どこかで正にとって、
特別な存在でありたいと想う。
強く願ってしまう。
どんな関係になっても、
他の人と同等に扱われることに、快感を覚えることもあるけれど、
たまには、ちょっと特別に扱われたい。
それは、乱暴にだったり、ちょっと言葉足らずだったり…。

「正」
「?」
「…私のこと、どうしてミズキって呼ぶの?」
「…? おかしなこと訊くね」
正の笑い声が響く。
近くの人がこちらを見た。
「二人のときだけ、そう呼ぶでしょ」
「…まあね」
「別にいいんだけど、セックスしてから、私をミズキって名前で呼ぶようになったでしょ? どうして?」
「…」
正の眼が、私の眼の奥を見つめる。
何かを探してるように。
答えなんかないのに…。
私たちの間に、答えなんか見つかるわけがない。
互いに、想ったようにしか生きていないのだから。

「いや?」
「…全然、嬉しいけど…みんなの前ではクラタって呼ぶままなのに…関係を隠すつもりもなく、大っぴらにするわけでもなく。それなのに使い分けるのはどうしてかなって」
「もっともと云えばもっともな疑問だわな」
「でしょ」
「…はっきりさせるのが好きじゃないのかな」
「…そうなんだろうねえ」
「なんだ、わかってんじゃん」
それに馴れさせてるのは誰よ。
「でもさ…それならミズキじゃなくて、ずっとクラタのままでもいいのに…何も私に気を遣って、下の名前で、呼び捨てにして恋人感というか、特別感出さなくても…」
何を云ってるのか、自分でも舵取りができなくなってくる。
本当は、もっとどこでもかしこでも呼び捨てにして欲しいのに。
強がりの心が、素直にさせてくれない。
「…どっちがいい?」
「どっちって?」
「このままと、クラタで通すのと、ミズキっていうの」
「…選べるの?」
「…うん」

正の腕に、湿度が浸透し、私の手にじんわりと体温が拡がっていく。
沈黙が、街角の空に吸い込まれて、私は空を見上げた。

「…このままでいいよ」

最後の「よ」は、できれば正が決めて欲しいという願いが込められている。
それも、できれば、ミズキと呼ぶことを。

「…」
「…」
「…ミズキ」
「…」
横目で正を見た。
「ミズキって呼んでいい?」
「…?」
「…なんかさ…みんなの前でそう呼んだら、ミズキに悪いかなっていう気持ちもあったんだ。…もしミズキの恋愛対象がほかにいて、その人の前で俺が不用意にミズキの名前を呼んだらさ…相手も、あれ? って想うだろうし」
「…」
優しい判断だけど、それは反対に、
正が実は呼び捨てにされたくないという気持ちの現われじゃないかと勘繰ってしまう。
「俺は…呼び捨てにされるのはかまわないし、みんなそう呼んでるからさ」
「…」
「で、いいの?」
「?」
「ずっとミズキって呼んでもさ」
「…しかたないな」
私の口元がだらしなく緩む。
「はいはい」
「…ありがと」


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