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ネオリアヤの言葉

ネオリアヤの言葉

休日のなかを

休日のなかを


午後二時を二時間ほど回った土曜。
私は久々の休暇を使って、昨日の夜から東京に来ている。
金曜、仕事を早めに切り上げ、馴染みの本屋で立ち読みをしていたとき、
なんだか無償に家に帰りたくなくなったのだ。
 
家に帰りたくないというより、
あのまままっすぐ家に帰ることがイヤになった。
だから、ちょっと遠回りをして家に帰る。
そのくらいの意識で、気づいたら新千歳空港行きの列車に乗っていた。
物事は、深く考えて躊躇いさえしなければ、
イメージしたことを現実のものにするのは、とてもシンプルなことだと思う。
 
十九時二十五分。
恐ろしいほどの定刻時間に、
飛行機は、滑走路をゆっくりとその機体で走行し始める。
そろそろゴールデンウィークも近いというのに、日中には積雪があった。
週末にかけて気温が真冬並みに低下するとは訊いていたけれど、
何も雪まで降らなくてもいいと思うのだ。
そのおかげで夕方までは、多少発着時間の遅れが出たらしかったが、
私が空港に到着した頃には、
テレビのニュースで速報扱いされたそんな混乱など、
まるで嘘のように、テキパキとした様相だった。
予定通り離陸した飛行機は、順調に南下し、
予定よりも若干早めに羽田空港に着いた。

仕事用の資料と化粧ポーチ、分厚い手帳、筆記用具、携帯電話と歯磨きセット。
あとはハンカチとちりかみしか入っていない鞄を肩から提げて、
私はぼんやりと二十一時二分発のモノレールに乗った。
 
地上に上がりきった窓から見える光景は、
いつ来ても何の代わり映えもしない光と水の色を浮かび上がらせている。
唯一の救いと云えば、夜なので、雑多な景色が眼に映らないことくらい。
モノレールで東京湾の景色を見るたびに、
私はいつも東京に来たことを半ば後悔する。
そして一刻も速く浜松町に着いて欲しいと懇願するのだ。
それなのに、年に数回、同じことを繰り返す。

見たくない東京と身を置きたい東京と、
同じ東京なのに、私はその両方の存在を知りながら、
都合のいいほうだけを東京の顔と決めつけ、上京を繰り返していた。
 
旧い高層マンションすれすれに、車体は斜めにカーヴを描いて行き過ぎる。
厚手のカーテンの端から、なかの暖かさがこぼれてくる。
同じ風景を想像しても、蛍光灯と白熱灯とでは、ずいぶんと印象が異なる。

「はい」
着信画面に出た、『非通知設定』という文字で、家からの電話だとわかって出た。
「よかった、何度かけても出ないし、さっきは電波がつながらないしで」
母の、いつもの声がする。
トーンが小気味よく上がったり下がったりして、鼻唄を訊いているみたいだった。
「ユウ? 訊いてる?」
「あ、うん大丈夫だよ」
「遅くなるなら云ってくれればいいのに」
時刻は、まもなく二十二時になろうとしていた。
あとちょっとで泊まる予定のホテルにたどり着く。

納豆と牛乳は買って帰れないわよ、と内心私は呟いた。
帰宅途中で電話が鳴る場合のほとんどは、そんな用事だから。

「…いまどこにいるの?」
別にどうってことない質問だったが、
どんなに遅くなってもいつも訊くわけでもない言葉に、私は、
母には敵わないなあと思うのだった。
「日比谷」
クイズのつもりで答えた。
「…ヒビヤ? 東京の?」
若い頃から年に何度も、
それも一度に十日間ほど東京に滞在していた母にしてみれば、
年に数回、しかも二泊くらいが長期滞在となる私など、
足元にも及ばない存在である。
私は母の出方を待った。

「…そうならそうと云ってよね。ユウの好きな煮物作って待ってたんだから」
まるで、恋人に文句を云うようなニュアンスだった。
「ごめんね。…なんかまっすぐ帰るの、イヤになっちゃって」
「それでどこに泊まるの」
「帝国」
「帝国? ホテル? お金大丈夫なの?」
「うん、給料出たばっかりだし」
「そう…なかなかやるわね」
笑っているのがわかる。
「まぁお母さんの子だしね」
「あははは、云うねー。いつ帰ってくるの?」
「日曜の夜には」
「そう。気をつけてね」
ホッとしているような、心配しているような複雑な声色だった。
「あ、そうそう。ちょっと、代官山に有名なオープンカフェがあるじゃない?」
「? 知らない」
「え、知らないの?」
本気で信じられない、という感じで声を上げる。
「札幌の南三条通りにある、コンクリートの打ちっぱなしのホテルあるでしょう、日本人デザイナーの店がある…まあいいわ。ゆっくりしてらっしゃい」
「うん、ありがと」
 
私がここ数日、元気がないのを母は知っていた。
その発端であった四日前の夜、私は堪えきれずに一人、
布団の中で夜中に泣いていた。
声を押し殺していたけれど、その空気はたぶん、
母のところにまで届いていたのだろう。
翌朝、まんまと寝過ごした。
ガーゼに氷を包んで瞼に当てながら、朝に眼が腫れないようにして泣いたのだけれど、
やっぱり少し晴れた瞼で飛び起きた。

「あらおはよう」
居間で老眼鏡を鼻の位置で止めて新聞を読んでいた母が、
床から視線を上げて私を見た。
片手は、捲った新聞のページの端っこをつまんだまま。
もう片方の手は、眼鏡に届き損ねて、
「加トちゃんペ」のように鼻の下で止まっていた。
「なんで起こしてくれなかったの?」
いつもなら寝坊をしても、七時半には気を利かせて起こしにきてくれる。
顔を合わせないようにして、何気ない会話を装った。
「え、行くの? 休むのかと思ってたわ」
語尾を下げながら、それならお汁でも温めようか?
という具合に腰を上げて台所へ向かう。
「…」
 
前夜、大好きだった人と、別れたことを思い出す。
大好き、それだけだった。
気分が重たくて、本当のところ会社に出る気はちっともなかった。
しかし、出勤することが当たり前だと、なんとなく思ってもいたのだ。
仕事で気分が紛れるような。

「…いいや、休む」
「最近、風邪が流行ってるみたいよ。今朝の新聞でも学級閉鎖の記事が載ってたから」
それは、風邪を理由にして休んだらってことだろうか。
私は、パジャマのまま食卓の椅子をひいたものの、
坐る気が起きなくて、そのままソファへと移動して躰をドサッと預けた。
新聞が音を立てて舞う。
我が家では、新聞を三紙とっている。
日経新聞、朝日新聞、そして北海道新聞。
母が今まで読んでいたのは朝日新聞。
ソファの上で跳ね上がったのは、北海道新聞だった。
日経新聞は、父が読んだ形跡だけを残し、食卓のうえで無残な畳まれ方をしている。

その日は、会社に風邪で休む旨の電話をして、
十一時には映画を観に外出していた。
札幌市内にある、小さな単館の映画館で、
上質な映画や古典映画などをきちんと選んで上映している。
それでも平日はかなり席が埋まる。

十六世紀のベネチアを舞台にした作品だった。
庶民階級の女性が教育や教養、富を手に入れるには
高級娼婦になるしかなかった時代に生まれた主人公が、
結婚するまで高級娼婦だった母親
(高級娼婦であることは、その時点まで母親だけの秘密だった)に
その道の手ほどきを受け、自立し様々な体験を経ていくストーリー。
実在の人物を描いた映画で、
衣装や舞台、ベネチア、そして登場人物たちの美しさと豪華絢爛さに、
しばし現実を忘れ、まるで自分が主人公のような気分になる。
けれど、今この時代に生まれてよかったとも痛感した。
煌びやかな余韻に浸りきることができなかったのは、
主人公の愛する人が、身分違いの貴族の息子で、
高級娼婦でなければ彼に近づくことも、世界を共有することさえ
できないという設定だから。

昨日まで、恋人関係にあった人と自分の立場は、現代のそれに近いものがあった。
もちろん、私は娼婦になったわけでもないし、
風俗に身をおいたわけでもないから、そこまで逼迫した状況ではないにろ…。
どのみち、設定が似すぎていて、別の意味で映画に没頭し、
主人公に自分を重ね、再び独りで苦しんでいた。
複雑な休日。
けれど、思ったよりも、街の風景も人の流れも表情も冷静に眺めることができた。
翌日は会社に出た。
その翌日も普通に出勤した。
仕事以外、考えることなど寸分も与えないスピードで働いた。
そして金曜も出勤した。
午前中は打ち合わせをしてからの出勤だったけれど、
午後の夕方にはもう精神的にいっぱいいっぱいになっていた。
 
寄った本屋さんは、札幌の四丁目にあるファッションビルの六階にある売り場で、
フロア全部が本屋さんになっている。
専門的な雑誌がバックナンバーまで揃えてあり、
海外のペーパーブックや写真集も充実していて、
私はよくその店に通っていた。
たまたま手にとった雑誌は、メンズファッション誌で、
毎号立ち読みする雑誌だった。
気に入れば購入していたけれど、
それでも自分の本棚にはまだ三冊しか積んでいない。
隔週発行で、今週の特集は東京デザインとファッションデザインだった。
でも眼がいったのは、そのどちらでもなくて、
最後のほうのページに載っていたギネスビールのおいしい店
という記事広告で掲載されている、麻布十番の洋風居酒屋だった。
 
カウンターに腰掛け、片手にギネスの入ったグラスを持ち、
レンズに向かって笑顔をきめている男女数人の写真の背景に、
神のデザインしたポスターが貼られてあった。
それは、もう三年ほど前に制作されたもの。
男女の笑顔は、どう見てもサクラだと感じるので、あまりちゃんと見ていない。
茶色だらけの店内の木の壁に貼られている白と緑の鮮やかなポスター。
本物のポスターだって、それが完成する前のデザイン画の状態のものだって、
私は見たことがある。
神の作品のなかで一番印象に残っているものだった。
出会ったころに、彼が手懸けていたから。
でも、それが見たくて東京に来たほどの衝撃を、
そのページから受けた覚えはない。

「さきほど、電話で予約を入れたヤマシタと申しますが」
ホテルの正面入り口から入り、柔らかな絨緞の上をまっすぐ受付まで進んだ。
外国人たちが行き交い、二十二時を過ぎているのにも関わらず、
このホテルの中だけは賑やかだった。
「はい、失礼ですが、下のお名前も頂戴してよろしいでしょうか」
「はい。ヤマシタユウです」
すでに私の名前をコンピューターの画面上で発見し終えてはいたのだろう。
念のためのフルネーム確認だったことが、その素早い笑顔でわかる。
「…お待ちいたしておりました。お部屋のご用意はできておりますので、すぐにご案内申し上げます。その前に、お手数ですが、こちらの用紙にお客様のお名前等のご記入をお願いできますでしょうか」
「はい…」
名前、住所、電話番号などを書き込む用紙に、
長くて細い受付用のペンで綴っていく。
「お荷物はほかにございますか?」
いつのまにか、ドアボーイらしき青年が横に立っていた。
私と同じくらいの背丈。
「あ、いえ…これだけです」
「さようでございますか、失礼致しました」
スマートな手さばきで、私のたったひとつの鞄――仕事用の肩掛け鞄――は
その男性の手のなかに納まってしまった。
なにか、特別なサービスを受けたようで恐縮しそうになるが、
こういう場所に馴れていないと思われるのも腑に落ちなくて、
私も穏やかな微笑みを湛え、
「ありがとうございます」
とだけ告げた。

「ありがとうございます」
受付内にいる男性が、記入用紙を両手で受け取り、
にこやかにボーイの男性に合図を送る。
部屋へ通されるのだ。
妙に厳かな気分になってきた。
笑いがこみ上げそうになるのを必死にお腹のあたりで押さえる。
一階の中央に位置する幅の広い階段を見上げながら、
そのまま視線を受付とは反対側にあるラウンジへと移した。
人はまばらなになっているが、談笑の柔らかさがここまで音もなく伝わってくる。
歴史が長いのに、絨緞は足がとられそうなくらいにふかふかとしていた。

「札幌からは本日、ご到着になったのですか?」
想像よりも高めの声が訊こえて、
顔を向けると荷物を片手に持ったその人が笑っていた。
「ええ、まっすぐこちらに来ました」
「それはお疲れですね。私も、一度だけ札幌に行ったことがありますが、ステキなところですよね」
「ありがとうございます。そうですね、住みやすい土地です」
「私なんかは、もうずっと食べてばかりでしたが」
必要以上の敬語を使わない、柔らかい言葉でゆったりと、
心地よく耳に響いてくる。
このままBGMか何かのように訊き流してしまっても、
怒ることなんてないのだろう。
極端な例だがそのくらい、自然な会話だった。
エレベーターを待つ間に、宿泊のフロアと部屋番号を口頭で一応伝えられた。
カード式のドアなので、
部屋を出るときはカードを忘れないようにとの言葉もあった。
どのくらいの会話を私が覚えていたのか、もう定かではない。
「では、ごゆっくりお休みください」
最後に、これ以上ないくらいの笑顔を残して、彼はドアをしめて去っていった。
ひと通り、部屋の空調や電気の場所や使用方法を説明してくれたあとで。

「ふう…」
これといって不満はなかったけれど、やっと一人になれた気がして、
私はカーテンを閉めるよりも先に、その広いベッドの端っこに躰を投げ出した。
きちんと四隅が整えられてピンと張ったベッドカヴァーの、
真ん中に飛び込めない自分が、おかしかった。
ヒールのパンプスを、伸ばした足の勢いで脱ぎ捨てる。
絨毯に吸収された靴の落ちる音が、頭のなかで想像された。
思ったよりも天井が高く、眼の焦点が合うまで数コンマ。
当日の急な予約だったため、たぶん急いで用意してくれたのだろうと思う。
部屋だって、週末なのだから、そんなに空室が多いわけではない。
なんと、部屋はダブルベッドほどの大きさのベッドが二つ並んだツインだった。
サイドテーブルに置かれてあるパンフレットを捲ってみる限り、
この部屋はスーペリアやスタンダードではない。
どうみても、ワンランク上のデラックスルームだ。
「ちょっと得したのかなー」

足を踏み入れたときは、あまりの広さに驚いてよく回りが見えていなかったけれど、
こうしてベッドの上から、悠々と眺めていると、
豪華な作りがよく見えてきた。
天井まで届くこげ茶色のクローゼット、ゆったりとしたベッドに、
暖かい灯りをこぼしている間接照明と、ベッドサイドのランプ。
そして天井から床まである大きな窓ガラスを微かに覆う、レースのカーテン。
その向こうには、静かに煌めく東京の夜が広がっていた。
カーテンの中央に立って、レース生地の両端をつかみ、
その間から顔を覗かせると、
遠くのタワーやところどころ不均等に輝くたくさんの光のネックレスが、
これでもかというほどに繋がっている。
けれど、月の回りには明日の雨予報が見える。
「東京かあ…」
今更なんだというツッコミが訊こえてきそうな独り言だった。
その東京に、それも老舗ホテルの上階に私は、今夜一人きりで泊まろうとしている。
失恋の痛手を癒すには、かなり豪勢な休暇の始まりだった。
洗面所の扉を開けると、そこには真っ白な浴槽に真っ白なシャワーカーテン、
そしておそらく真鍮でできているのであろう、
蛇口や金属が厳かな光を反射していた。
 
少し、心が幸せになる。
ひとまず無事にホテルに着いたことを母に伝えるため、小さな受話器を握った。
バスタブに溜めたお湯のなかに躰を沈め、顎まで浸す。
眼は、申し訳ないほどの謙虚さで室内を眺め続ける。
目的があったわけではないので、夜に予定は入っていない。
知り合いはたくさんいるけれど、誰にも連絡していない。
朝までは、あと五時間もない。
本でも持ち込めばよかった。
 
眼が覚めて、ゆっくりと天井を見つめながら、
自分が今どこにいるのかを思い出す。
寝てしまえば、どんなに豪華なベッドで、
どんなに豪華な部屋であってもすっかり意識の水面下に押し遣られてしまう。

地下の和食店で朝食を摂る。
ちょっと味が濃く、期待していただけに残念な気がした。

天気は、やっぱり雨だった。
小糠雨というのだろうか…小さな雨が、
スケルトンボードに描かれた点線のように、規則正しく、地上に斜めに降っている。
寒くはなかった。
一泊だけの宿に終わった帝国ホテルの正面玄関を出た。
乗車場を覆う屋根の終わりのところで、
初めて視界に目前の日比谷公園が入ってきた。
灰色の空から落ちてくる細かい雨を吸い込むように茂った新緑。
東京はもう春のど真ん中だ。逃げるように置いてきた札幌の景色が蘇る。
膨らみかけた桜と梅の蕾が、降る雪の冷たさに再び硬さを帯び、
ライラックだけが冷え冷えと花を咲かせていた大通公園。
底冷えに顔を青白くさせながら、気温よりもひと足早く、
軽やかで薄着になった女性たちの服装。
ウインドウのトルソーたちは、揃ってノースリーヴの肩に、
夏色のカーディガンを羽織っていた。
雨のゴールデンウィークまで、あと一週間あまり。
 
札幌に降る春の雨は、冷たくて重い。
ボタボタと、不器用そうに降ってくる。
札幌の雨空を見上げるとき、私はいつも恨めしそうな眼をするらしい。
神が云っていた。
 
今日はどうだろうか。
 
でも。
どんなに待っても教えてくれる人は、隣にいない。
それでも、柔らかい温度と見慣れない景色に、
少しだけボンヤリと佇む余裕はあるのかもしれなかった。

「よろしければ、傘をお使いになりますか?」
「?」
 
声がする左を見ると、ホテルのドアボーイが、
透明なビニール傘を両手で持っていた。
左手のほうに柄があり、傘の先端を持つ右手は、左手よりも少しだけ下がっている。
向き合ったとき、ちょうど右手に、傘の柄がくる。
私は右利きだった。

「あ、いえ…大丈夫です。近くのコンビニで買いますから」
「よろしければどうぞお使い下さい。東京では、そろそろ梅雨の準備が始まる天気ですので、多めに用意してございますので」
「…いいんですか?」
「どうぞお持ち下さい」
 
押し付けがましくない笑顔で差し出された傘を、
私は同じように丁寧に受け取った。

真上の空を眺めながらの散歩。

嫌いだった地下鉄に乗る。
東京の地下道も地下鉄も、人のどんよりとした表情と地下深い空気のせいで、
薄汚れた感じがして嫌いだ。
壁の色のせいもあるのかもしれないが、
どこからか真っ黒い影が忍び寄ってきて、
走りこんでくる地下鉄に引き込まれそうになる。
圧迫感がある。
電気も薄暗い。
 
坐った向かいの席に、
濃紺の細身のスーツに、黒くて大きく膨らんだ鞄を膝に乗せた男性がいた。
感情の籠もらない眼でゆったりと中吊り広告を見上げる顔に、
思わず視線を逸らしそうになる。
ハリウッド俳優に似ていた。
勇気を出して、足元まで落ちた視線をその表情にまで戻した。
映画、『シザーハンズ』のロボット役の俳優だが、名前が出てこない。
高い鼻に、切れのいい酷薄な眼元。
眉と眼が近く、彫りが深いせいで、
その表情は何気ないことでも刹那さと哀愁を帯びてみえる。
グレーに近い眼の色。
少し長めの黒い髪を、後ろへ流しているが、
前髪が数本だけ、俯くたびに、骨ばって滑らかな額にかかる。
唇は、口角が少し上がっていて、日本人男性には少ない容をしているけれど、
薄く均整のとれたそれは、決して開くことはなさそうにみえる。
それが一層、美しい酷薄さに拍車をかけている。
スーツの袖から伸びる手首には、白いワイシャツの袖が絡まっていて、
浅黒い手がある。
関節が太く、そのあいだの皮膚は適度な皺を刻まれ、
骨と筋肉を覆うように薄い弧を描いていた。

自分の眼が、遠く、懐かしむような色になるのを感じる。
年齢にして、三十代後半から四十代半ばくらいの人だった。
それ以上であれば、かなり仕事も遊びも楽しく生きているのだろうけれど、
坐った姿勢と表情から見受ける疲労感は、
それが束の間のものではなく、
彼がいつも漂わせている独特のものであることを窺わせた。
 
こう云ってはなんだが、札幌にはセクシーな男性が少ない。
洒落てスマートな男性も少ないので、
いればすぐに職業が知れるのだけれど、
セクシーに至るとその人数はぐっと減ってしまう。
女性が強いせいなのか、それとも過ごし易い環境のために、
その必要性が意識の中から奪われてしまうからなのか。
そこのところはよくわからない。
とにかく、今眼の前に坐っているような、
外見も俳優並みに洗練され、服装もスマートで、
加えて刹那さと悲壮感が漂う表情を持つセクシーな男性に、
札幌でお目にかかることは皆無に等しい。
 
神だって、セクシーとは云い難い。
あえて形容するなら、言動や仕草が母性本能をくすぐる程度だ。
 
この人も、間違いなく母性本能をくすぐる。
冷たさと悲壮感、そして対極にある弱さと時折みせる優しさによって、
女性はこの人には自分しかいないと一時的にでも錯覚し、
心と躰が満たされることを知るだろう。
感情のこもらない眼に見つめられることへの、
軽い屈辱感と不安は、
心臓の音を自分の耳にまで引き上げるのに十分すぎるほどの
精神的高揚感を与えてくる。
その瞳のどこに自分が映っているのか。
心のどのあたりに自分が存在し、
どんな想いが今その人を支配しているのか、
わかりたくてわかれない、わかりそうでわかりたくない。
そういう微妙な心理を、くすぐってくれる。
想像という孤独な脳内マスターベーションと、
現実のささくれ立つほどに堕落していく皮膚感覚がなければ、
愛だの恋だの云っても、悦びも苦しみも味わうことはできない。

私は神に逢いたいのだろうか。
それとも、セックスのようなことがしたいのだろうか。

自分の視線と意識に、心が大きく乱れた。
どちらも嘘ではないということに。
どちらも本当だし、両方が組み合わさっていればなおさらいい。
…二つでひとつ、だけが答えではないのは、強がりなのか本音なのか。
 
神とつき合うようになってから、
私はだんだんと「何も予定のない休日」を持たないようになった。
平日は夜遅くまで仕事があり、週末だってたまに仕事が入ったりもする。
それでも、休みの日を、神と会うためだけに空けておくことはしなかった。
そう期待しても、彼が忙しくて会えないことのほうが多いからだ。
運良く会えればいいけれど、九割方はまず会えない。
会えるかもしれないと期待して、
ひがな一日そわそわと時計や携帯電話を気にして過ごすことは、
仕事以上に私の身体を疲労させる。
神と会えないことの理由に、神だけを充てるのはかなり不本意だった。
私自身も忙しいから会うのもままならない。
私だって予定が入っていたから仕方がない。
そういう云い訳を自ら欲したのは、この中途半端に自尊心が高いせい。
 
会って、何を話したか…。
記憶にあるのは、仕事、家のこと、最近の出来事。
この三つばかり。
そのなかに彼自身のことも私自身のことも、あまり含まれない。
いつも行くカフェに、神の車で乗りつけ、一時間ほど喋って食事をして、
ホテルへ行って。
そして眠りにつくまでまた喋って。 
けれど、泊まることはなかった。
 
午前二時。
私は神を起こす。
窓から差し込む街灯と、天気がよければ星空の薄灯りで照らされる無機質な部屋に、
デジタル時計のオレンジ色の文字が浮かんでいる。
「神…」
「…」
躰を右に倒して、顎から首が直線になるほどの姿勢で眠っている神の格好。
柔らかくしなやかな肩に、躊躇いを払拭させて触れる。
「二時だよ…」
私も、ベッドの上で両腕を天井に向け、背筋を伸ばしながら
、躰と意識を覚醒させた。
「起きたの?」
「起きてるよ…」
私は、内容に意味のない、半ば寝言のような神の言葉に、肯定で答える。
「眠い…ユウえらいね」
「仕方ないでしょ。神だって起きるんだよ」
「俺、まだあと少し寝てく」
「はいはい…神、起きないと遅刻するよー」
頭からシーツを被って丸くなる神。
その肢体が、滑らかな月明かりに影を作る。
このまま、朝まで眺めていたい。それほどに完成度の高い空間が、
そこにはいつもあった。
神と会えるのは、ひと月半かふた月に一度くらいで、
その半分は仕事が終わってから。
そういう日は、私も神も少しだけ仕事を早めに切り上げる。
そして夜中の二時に目覚め、私は家へ、神は職場へとそれぞれ戻っていく。
可哀相だなあと思う。
こうして緩慢としてシーツに包まり、ひっそりと眠っている神の姿は、
もしかして呼吸を忘れているのではないかと疑るほど、
ひたすら全ての機能が睡眠下にある。
仕事も家族も恋も、セックスも食事も運転も、全てを感覚の外に捨て去り、
眠ることだけを許されているような感じだった。
「めんどくさいなぁ…」
普段は決して口にしない言葉を、眠りの淵で神はよく呟く。
中学生が、職員室に呼び出しをくらって、
「めんどくせーなー」
と悪ぶってみせるときの、あの声に似ている。
起きるのも、職場へ向かうのも、仕事をするのも、
この眠りのそばにあっては、生活の全てが神にとってめんどくさいことになる。
神が、ひどく小さく、可愛らしい存在になる。
「じゃあ今日は泊まってく?」
「…無理だよぉそんなの…」
シーツの下で躰の向きを変え、私の腕をそっと引きながら文句を云う。
「めんどくさいんでしょ?」
「わかったよもう…あー眠い」
こうして上半身だけベッドに起こして、
まだ後味悪そうに眼を閉じたままの神を見つけるにつけ、
私は自分が悪者になったような気がして、哀しくなる。
別に起こしたいわけじゃないし、もっとゆっくり神と一緒にいたいのに…。
なんでこんなこと…。
私だって好きでやってるんじゃないのに。
「ユウ?」
「?」
眼を閉じて、首から上だけ私に向けながら、神は私を探す。
「…いた」
「なに?」
「…今日さ…今日は家まで送ってくから」
「…いいの? 時間大丈夫なの?」
「時間なんてさ、あってないような…そうなんだよ。時間を「ある」と解釈するから「なく」なるんだよ。時間があるとかないとか、そういうのを超えて、もっと、時間は時間、みたいな宇宙的な視野で扱ってもらいたいもんだな」
「…なに云ってるの?」
はねあがった髪のまま、たいそうもっともらしい発言をしている
――ただわがままに、勝手な希望を述べているだけなのだけれど――、
いっぱしの哲学者のような風貌の神を見て、私は笑った。
「で、その宇宙的な視野で云うと、ユウを家まで送り届ける時間をですね、俺は今日、創り出すのである。以上。あと三分」
「…」
勢いよくシーツを被りなおし、再び横になってしまった神を、
愛しく想う。
このまま抱きしめて、眠りの奥深くまで連れて行ってあげたい。
神を引き戻そうとする現実世界から、彼が自身の力で目覚めるまで、
守っていこう。
そう願いながら、私はその柔らかな髪を撫でつつ、
デジタル時計を気にしなくてはならないという矛盾と、戦うのだ。
 
いつのまにか俯いて放心していた意識を、
自分の存在のある地下鉄の中にようやく戻し終えたとき、
そこにはもうその男性の姿はなかった。
ゆっくりと助走を始めた車体の向こうに、降りていったのだろうか。
その後ろ姿はどんなだったろう。
座高から想像するよりも、背が高く、その硬質の手に抱えられた鞄の重さは、
重力に逆らわずにいたかもしれない。
足取りは…帰途へ向けて軽かったか、
それともこれから社に戻るために鎮痛なスピードで運ばれただろうか。
 
雑誌に載っていた店、場所を確認するの忘れてたな…。

適当に降りた駅の改札を出てみて気づく。
時間はいっぱいあるはずなのに、何も考えることがない。
考えたくもない。
地上で見上げた空に、もう雨の雫はなかった。

「ユウのこと、俺、幸せにしてやれない」
「なにそれ…」
「俺と一緒にいたら、ユウは幸せになれないよ」
「…」
「…」
「一緒にいて幸せかどうかなんて、私が決めることよ」
 
言葉の背後にある別れの意味を敏感に感じ取った私は、強気の発言をした。

「そうなんだけど…でも俺は幸せにしてあげられない」
「…そばにいて、好きでいるだけで幸せな私の気持ちをそうやって否定しておいて、私にとって何が幸せかなんて、神にわかるの?」
「…幸せにしてやれないことはわかる」
「…」
 
あまりに頑なな、そして譲歩する余地さえない言葉が返ってきた。

「なによ…ずるいよ」
「…」
「…そうやって…キレイに終わろうなんて…好きじゃなくなったって…云ってくれたほうが…いいのに」
 
そんなわけはないのに、流れ出した私の心はもう止めようがなかった。

「なんでそんなこと云うの…」
「ごめん」
「ごめんて…謝るくらいなら…云わないでよ」
「ごめんな、ユウ」
 
神の大きくて乾いた手が、私の肩に触れる。
心臓まで突き抜ける痛みが肩に走る。

「…」
 
好きな人ができたんじゃないの?
そう想う心には、言葉を与えない。
それだけが私にできる強がりだった。

「…だから、もう会うのはよそう」
「だからって…私、何も納得できないよ。だからって何?」
「ユウには幸せになって欲しいんだよ」
「…」
 
嘘つき。

「俺はさ、こんなやつだから…ユウのこと、幸せにはしてやれないし…」
 
何回、そんな言葉を云うつもりなの。

「ごめんね」
「…馬鹿にしないでよ」
「…ユウ…」
「神が本当のことを云ったら、私が嫌がらせでもすると思ってるの? すんなり別れてくれないと思ってそんな誤魔化し方するわけ?」
「…やめろよ」
「じゃあなによ」
「やめろって…ちがうよ」
「云ってよ」
「…ユウ」
「ユウなんて呼ばないでよ…」
 
ユウと呼ばれるたびに、大好きで幸せな気持ちが蘇る。

「…」
「…こんなに、好きなのに…なんで、そんな理由で納得できると思ってるのよ…」
 
本当は、どんな理由だって納得などできない。

「ごめん」
「ごめんて…ごめんと幸せにできないと、二つしか云ってないじゃない、神」
「…」
 
神は、
なにを思ったのか、強く私を抱きしめた。
必死でもがいている私のことを、
こんな力があったのかと驚くほどの強さで抱きしめた。
両腕で、私は神の胸をおし、離れようと躍起になるけれど、
神の強さは男性の力そのものだった。
 
わけわからなくなるほど、
なんでこんなに必死でもがいて神の腕から離れようとしているのかも
わからなくなるほどに、私は抵抗し続けた。
神はその間中、凛として、私を抱きしめ続けた。
そのうち、私は力尽きておとなしくなった。
そして、代わりに涙がこぼれてきた。
しゃくりあげながら、嗚咽をこらえる。
自分のなかで、認めたくはないけれど、
二人が終わったことを認識した心が静かに生まれつつあった。
 
神の手が、私の髪をなでる。
癇癪を起こした子どもを、あやし寝かしつけるときのように、
ゆっくりと優しく。
この全てが最後なのだと、感じる暇もなかった。
 
私はなにをやってるんだろう。
なにかがぷつんと切れてしまったのだろうか、何も浮かんでこなかった。
神の腕のなかで、私はぼんやりと部屋の景色を眺めていた。
神の顔が、近づいてくるのがわかる。

「…キスしないで…」
 
神のこと、忘れられなくなるから。

「…」
 
神は、私の、濡れた瞼に唇を重ねた。
私はもう何に抵抗することもなく、ゆっくりと鞄を抱えて、
神の部屋を出て行った。
 
いまさら。
神にあんな強さがあったなんて、私は知らなかった。
眠りのそばでいつも見せる、心の弱さが彼なのだと思ってばかりいた。
いつも強がってばかりいて、
本当は臆病で小さな子どものような人なのだと、思っていた。
それが、重荷だったのか、
それとも単にほかに好きな女性ができたのか…
今となっては、もう知ることもない。
 
明日、札幌に帰るまでにはまだまだ一日以上ある。
それまでに、私は新しい自分を見つけることができるだろうか。




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