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2019.02.25
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カテゴリ:カテゴリ未分類

カワセミ(カワセミ科)
目次:オルダス・ハックスリーとは誰なのか?/「何度でも同じ話をする」ことが、「治療」だからですね(笑)/どうして、そんなことが判るのだ?、西加奈子「ふくわらい」を読む/ここにもジャマイカのサトウキビ・プランテーション/オーウェル、エンツェンスベルガーとスペイン/釣鐘型の瓶、・・・、シルビア・プラス/ハマースミス橋を探す/アカアシシギとジョージ・オーウェル/ヴィクトル・セルジュ「スターリンの肖像」/「まっさきに考えるべきこと」、ロンドン、イースト・エンドへ/「ボージャングルを待ちながら」/レヴィ=ストロースとヴィクトル・セルジュを乗せた船/Nothingと答えたことを後悔するマルコムX/シモン・ボリバル、フンボルト博士とランタナ/ジョージ・オーウェルとともにロンドンを「放浪」する/ウンベルト・エーコ「永遠のファシズム」の「記号学」/続編、ジョージ・オーウェル「パリ・ロンドン放浪記」/「スペインの短い夏」のドゥルティ



















二羽で行動を共にしていたのだから(笑)、きっと「夫婦者」なんだと思う。左は左、右は右で、同一個体を追跡したはずだが、どうだろう?カワセミは「雌雄同体」のようで、区別がつきそうもないな。


カワセミ(カワセミ科)


ミナミトビハゼ(ハゼ科)


いや、繰り返すが(笑)、これは「言わずもがな」なことである(笑)。繰り返し「言うべきでない」と「言う」という矛盾した振る舞いによってしか、表示できない、と感じられるなにものか、である。
オルダス・ハックスリーという作家の名前が、何度か、いろんなところで耳にして、気がかりではあった。「素晴らしい新世界」(講談社文庫)を読み始めた。ハックスリー一族も、そうね、たとえば、数学、物理学のベルヌーイ一族、などのように、代々著名人を多々輩出しているようで、主に生物学者が多く、たしか、その方面から名前に聞き覚えがあったのかとは思う。この際、整理しておく(笑)。どうして、こんなに、数多の学者が、同じ「家系」から輩出するのか?「天才」の血筋ではないのか?というのは、たぶん話が逆で(笑)、ごく限られた「家系」のみが、 「知識階級」を独占していたからだ、と答えるのが正当であろう。有島武郎「或る女」を読んでいるときに思ったんだけど、この小説は、今日的な「プライバシー」感覚からすると、如何なものか?と首をかしげてもおかしくないような、文壇、社交界の実在の人物を、露骨にわかるような形でモデルにしているそうなのだが、これがまた、いわゆる熱海の別荘で、新橋のステーションで、それらの著名人同士が、実にしばしば「出会う」のだな。まんざら作り話でもなさそうな情景がそんなに頻々とあり得たとしたら、それはやはり、「熱海の別荘」を持ちうる階層、新橋ステーションの「一等待合室」に立ち入ることのできる階層、が、極めて限られていたからだ、と読むべきなのだ、と今更ながら気が付いた次第である。「特権階級」にとっては、「世界」は「狭い」ものだったのである、それは、きっと、知らないけど(笑)、今も、同じだろう。
Thomas Henry Huxley (1825–1895), British biologist known as "Darwin's Bulldog"
Aldous Huxley (1894-1963), British writer, author of Brave New World, grandson of Thomas Huxley
Julian Huxley (1887-1975), British biologist, brother of Aldous Huxley
Andrew Huxley (1917-2012), British biologist, brother of Aldous Huxley
Anthony Huxley (1920-1992), British botanist, son of Julian Huxley
Francis Huxley (1923-2016), British botanist, anthropologist and author, son of Julian Huxley
英語版某ペディアによればこうだが(笑)、なおわかりにくい。
Aldous Huxley
トーマス・ハックスリーというダーウィン(1809-1882)より少し若輩の生物学者がいて、その孫に上から順に、他にもいらっしゃたのかもしれないが、ジュリアン、オルダス、アンドリューがいて、兄と弟は生物学者になったが、真ん中だけは作家になった、一番年長の兄のジュリアンには、アンソニー、フランシスなる二人の息子がいて、いずれも植物学者になった、フランシスのほうは人類学者でもあった、彼らは叔父のアンドリューとそんなに年が違わない、同時代人であった。
Julian Huxley
ジュリアン・ハックスリーは、UNESCOの初代理事長、WWFの創設メンバー、「進化と精神」などの著書がある。バード・ウォッチャーであった(笑)。
そのオルダス・ハックスリー「素晴らしき新世界」、まだ読み始めたばかりだが、これは、近未来SFなのだが、「最近の日本の震災の後では・・・」という記述があり、この作品「Brave New World」が書かれたのが1932年、なるほど、関東大震災1923年の記憶が参照されているのだろう。
リリアン・ヘルマンの「眠れない時代」に、ウィリアム・ワイラーWilliam Wylerという映画監督が、友人として登場、ヘルマンと同じくHUACの喚問を受け、筋を通して抵抗をしたらしいことを知り、その監督作品「嵐が丘Wuthering Heights (1939)」、廉価版DVDを買おうとして隣の棚に、「ジェーン・エアJane Eyre (1944)、Robert Stevenson監督」を発見、ロチェスター卿を演じるのがオーソン・ウェルズであることもさることながら、脚本の担当が、オルダス・ハックスリーなのである。彼は、映画「高慢と偏見Pride and Prejudice(1940)、Robert Z. Leonard監督」の脚本も手掛けているようである。三作とも、ブロンテ姉妹、と、ジェーン・オースティンの原作は、去年あたりだったか、立て続けに読んだはずだ、内容は忘れている、というか、互いに混同して、よく覚えていないが(笑)。ロバート・スティーブンソンという人は、元来イギリスの映画監督で、1940年代にヒッチコックとともにハリウッドに渡ったらしい。後にディズニーで著名になるようだが、たとえばマッカーシズムとの関係などの記述がないことから、「偏向」した読者である私の触手はそそらなかったので放置しておく(笑)。ロバート・レナードという監督についても、某ペディアで見る限り(笑)、残念ながら、特に興味は惹かれなかった。
そういえば、テリー・イーグルトンの「ブロンテ姉妹」も放置してある。事実として(笑)「死ぬまでに」(笑)読み切れないかも知れない書物が山積みしてきて、やや負担に感じ始めている今日この頃である。「ジェーン・エア(1848)」が、「家庭教師」として住み込む貴族の「屋敷」の不気味な出来事、というプロットは、半世紀後にアメリカ人、ヘンリー・ジェイムスによって書かれた「ねじの回転The Turn of the Screw(1898)」に、素人目から見て「似ている」と思えるし、更に、幼少期の孤児院生活の独白は、カズオ・イシグロ「私を離さないでNever Let Me Go」の文体にさえ、影を落としているのでは?、と、やはり素人は考えてしまうので、これまた、読み返してみる必要があるのである。いったいあなたは、この齢になってから(笑)、「文芸批評」でもやりたいのか?(笑)、ああ、こういうときだけは、もうちょっと「長生き」したい、と、うっかり、思ってしまう(笑)。


早朝「雷雨注意報」下の「桟橋」(笑)、クロサギ(サギ科)・白色型。

「磯」のサンゴ由来石灰岩を好むはずのこの鳥が、こんな足の滑りそうなつるつるの場所に長時間とまっているのが解せない。イソヒヨドリ(ツグミ科)・オス。

王朝時代の「城(ぐすく)跡」公園、ずっと入場料支払い「免脱」していたのが、今日に限って追跡(笑)、徴収された。早朝、桟橋の辺りで「低速走行」とかで違反切符切られたりする(笑)こと思えば幸運じゃないかと「建設的」に考える。シリケンイモリ(イモリ科)にも会えたから、モトは取れたし。雨上がりの道路を、「彼ら」は、「渡ろう」とする。いや、そうではない。何かの事情で、移動しなければならない経路の只中に、それを横切って、「我々の」道路が、残・念・な・こ・と・に・、あってしまった、ということだ。ここは幸い、園内の遊歩道だから、時おり往き来する観光客を乗せた電動のカートしか交通はない。だから、「両生類」なのだから、こんな乾いたアスファルトに適応していなくても、「彼ら」の咎ではないのは言うまでもないが(笑)、そんな「覚束ない」足取りで「渡り切る」のを、じっくり「見守る」ことも出来た訳である。





芝生の間に咲くこの、ごく小さい花の名が分からない。牧野富太郎がカノコユリ(ユリ科)について、その「基数」は3で、6枚の花弁に見えるもののうち、後ろ側の3枚は咢(がく)だ、と言っていた。そんな感じじゃないか?

旧暦一月九日の月、夜半、西の空に傾きかけたところだから、うさぎさんのお耳が下で、そちら側半分が明るいのである、「上弦」の名にもかかわらず。

「言わずもがな」なことを付け加えておくならば(笑)、はじめにイソヒヨドリ(ツグミ科)・オス、が駐車場の乗用車の屋根で、「歌って」いる場面、後の方の同様の場面も、同じ場所、車は移動があったみたいで異なるが、私が「公園」を、入場料まで支払った上(笑)散策し、シリケンイモリ(イモリ科)、やシジュウカラ(シジュウカラ科)、に出会って出てきたときにもやはりいたイソヒヨドリ・オス、が、同じ個体かどうかわからないが、それはともかく、その最初のイソヒヨドリの歌のバックに、次第に高まる回転音として記録されているのは、米海兵隊普天間飛行場所属攻撃用ヘリコプターAH1Z、シリケンイモリ君が、その真っ赤な喉をふくらませて、しかしこれは「歌った」のではないかもしれないが、そこにオーバーラップされるのは、カメラを構えているのだから見上げることはしなかったが、数分前に通過したものと同じと推認するならば、同、輸送ヘリコプターCH53、そして翌日、束の間の快晴、近所の公園はにわかにメジロ(メジロ科)、の声で騒がしい、そのせっかくの歌を「マスキング」してしまったのは、これも「目視確認」出来なかったが(笑)、嘉手納空軍基地所属の戦闘機F某、であろう。いや、繰り返すが(笑)、これは「言わずもがな」なことである(笑)。繰り返し「言うべきでない」と「言う」という矛盾した振る舞いによってしか、表示できない、と感じられるなにものか、である。「怒り」や「不満」として表示したら、その大部分が流れ落ちてしまう、と思えるから、そんなもって回った態度を採用するのだ、と診断できるだろう。さよう、言うまでもなく(笑)、ほらまた、「言うまでもない」と「言って」いるよ、これは「診断」の対象となる「症状」だ。その「音」を聴くことが、既に「外傷的体験」なのだから、当然だろう?


おや、今日は、「お一人様」ですか?
ごめん、眠ってた。これは、やっぱり齢のせい(笑)だと思うが、一日に何度も何度も、居ても立っても居られないくらい眠くなったり、疲れ切ってベッドに倒れこむ以外何もできないことがあるのです。
そうですね。私も、あなたたちに会いたいです。でも、そう考えてみて、では、あなたたちの顔を思い浮かべようとすると、うまくいかない(笑)。もともと人の特徴を記憶するのが得意ではなくて、おかしいな?猫なら何匹でもちゃんと区別できるのに(笑)?、それは子供の頃から、人と喋るのが怖くて(笑)、いつも相手と目も合わさず、下を向いていたからかも知れませんが、むしろ、声や「雰囲気」といったものの記憶の方がはっきりしているのに、なんだか、顔だけはシルエットのように「黒塗り」になっています。
今、記憶をたどろうとしているのだが、私が初めて精神病院に行って躁うつ病の診断を受けるのが2002年の6月、それから2年間、通院・薬物療法を受けるのですが、その最初の2002年の夏に、あの会社で働いていたことは間違いないのだが、いったい、何時から何時まで、あそこにいたのか、全然思い出せない。症状が一番重かったし、薬で朦朧としてもいただろうし、発病するほどのストレスがあったのだから、記憶に検閲がかかってもいるだろう、その前後数年の記憶が、ほとんど抜け落ちているのです。
あなたのことだけは辛うじて覚えているのは、その後も、それこそ三年に一度くらいですが、メールのやり取りがあったからで、そもそもあなたからメールアドレスを聞き出したりしたのは、「下心」があったから(笑)でしょうね。
しばらく「夏」を思わせる暖かさ、どころか暑さ、が続いていたのに、昨日の午後から、また冷え込み始めました。こんなに温度が上下するのは、老人の身体には、負担です(笑)。ではまた!
いや、それはおたがいさま、ですよ。私も、たくさん「救われて」います。会話が成立するというのは、なかなか稀有な幸運で、普通は一方が喋りすぎ、相手はひたすら「聞き役」に回されてしまう。「私たち」はどちらも、他人様の顔色ばかり窺ってきた人間だから(笑)、喋りすぎて相手が「聞いてない」ことに気付くのを物凄く恐れていて(笑)、だから、ちゃんと抑制が効いて、どこかで自分の話を止めて、相手の言葉を聞こうと出来るようになっているのでしょう。考えてみれば、可哀想な生い立ちですけど(笑)、おかげさまで、その頃合いがちょうど同じくらいなので、こうしていつまでも「語り合う」ことが出来るのですよ。喋ることで、「中」にあるものを「外」に「出す」、そうして「患者」は回復するのですが、ひょっとしたら、一方的に「喋られて」しまった「聞き役」の方は、相手が放出した、何か「よくないもの」(笑)を全身で受け止めてしまうので、かえって症状が悪化するかもしれない。たまに出掛けて「健康な」人と喋って帰って来ると、へとへとに疲れて何日も寝込んでしまったりするのは、そんな理由かもしれないと思っています。だから「私たち」は「外」から入って来そうな言葉を制限するために、「引きこもって」いるのかも知れないじゃないですか?私があなたといつまでも喋っていられるのは、それが私にとっても「治療」になってるからなんだ、と思います。あなたにとっても、そうなならば、身に余る光栄(笑)と言わなければなりません!でも、そう言えば、電話を切る直前の声の調子が、かかって来た直後より、張りのあるものになっているようにも聞こえるから、きっと、役に立っているんだろう、と喜ぶことにしています。私たちは「グループ・セラピー」をやっているようなものですね。カウンセラー相手なら、何千円もするのでしょう?電話代はかかるけど「安上がり」(笑)じゃないですか?次回のセッションを(笑)楽しみに待つことにします。「ソウルメイト」という「大袈裟」な褒め言葉は、ありがたくちょうだいしておきます。
「喋る」ことで、「中」にあるものを「外」に出すことが、「治療」になる、とか、ならば、「喋りかけられる」者として、少なくとも一人の「聞き手」が必要である、とか、でも、その「聞き手」は、決して「真面目」、「真剣」である必要はない、むしろ、話し手の勢いを削いでしまうしまうほどの「存在感」があってはならない、ただ淡々と、時宜にかなった相槌だけを打ち、話の腰を折るような口出しをせず、ほとんど黙ったままでもよいから、肝心なことは、どんなに長くても、最後まで、「聞く」こと、・・・、そんなことを学んだのは、これはちょっと自慢ですが(笑)、「机上の空論」ではなくて、ある一つの、稀有な経験に根差しています。ずっと後になってから、フロイトを読み、フロイト主義者となり(笑)、実は、上に挙げたようなものが、ほかならぬ精神分析医の資質であることを知ることにもなりましたが、それはむしろそれらの紙の上に書かれた言葉が、ひょっとしたら、自分の身体がすでに学びとっていたかもしれない何か名付け得ぬものに、名を与えてくれた、ということなのでしょう、でも、それを「発見」と呼ぶのです(笑)。
何度でも同じ話をしますが、それもまた、「何度でも同じ話をする」ことが、「治療」だからですね(笑)、24年前の今頃の季節になりますね、神戸の震災の後、もう、特に手になんの専門的な「技」のない者には「ボランティア」などの需要もなくなっていましたが、「神戸」という「故郷」が離れがたい気がして、週に一度ばかりは、まだ不通区間のあった電車やバスを乗り継いで、ただ、少しずつ、あるいは急速に、変貌しつつある街並みを眺めて歩いたものでした。以前、ピ●ースボートのボランティアで、「引っ越し」といっても、倒壊したアパートから多少は金目のものを引き上げる、ということですが、のお手伝いをした縁で、多少の知り合いになった、北野のクラブのママさん、私より一回りほど上の世代のひとだったろうから、その頃でも「おばさん」(笑)、でいいですよね、その人が、○○中学のグランドにテント暮らしをされていた。校舎の中、それぞれの教室も当時は、「避難所」として開放されていたのですが、もちろん想像がつきますが、集団生活に伴うもろもろの軋轢もあるでしょう、吹きっさらしの厳冬を焚火で我慢してでも、テントの一人暮らしの方が気が楽、ということだったんだと思う。元町辺りの既に営業再開したデパートの地下で、たしか「おはぎ」を買ったから、そう、やっぱり「お彼岸」、ちょうど今頃だったのかもしれない、それを手土産に「慰問」したわけです。「慰問」?、人の気持ちを引き立てる、などということが、最も不得意な(笑)人間であることは既に承知していたから、そんな「役に立つ」わけがない、むしろ、相手は客商売、水商売のベテラン、人をそらさぬ巧みな話術で、こちらの方が「慰藉」されることになるだろうことも。でも、そんないつでも「明るい」はずのおばさんも、仮にYさんとでも名付けておこう、実はもうその人の本名は忘れているのだけれど、焚火に向かって背を丸めている後姿は、声をかけるのもはばかられるほど寂しそうではあったけどね。勿論身に染み付いた「営業」的な身のこなしでもあったろう、Yさんは大いに歓待してくださった。ほとんど、共通の話題なんかなかったから、じきに言葉は途切れたけれど、そうして話題がなくなれば、どうしても、話は、「あの朝」のことに向かうしかない。アパートは二階だったのだが、階段が崩れていたのだろう、その窓から脱出し、娘さんと二人で声を掛け合いながら、火の海のなかを、走った。あのね、その時気付いたんだ、もともと「お喋り」な人だったかもしれないが、あの時の「語り」は、まるで、何者かが「憑依」して、代わりに喋り続けているみたい、とめどなく、とめどなく、言葉が「流出」してくる、もちろん、途中から、事情の分からない私には、何が話されているのかも、辿ることができなくなっていたけれども、頷・き・な・が・ら・聞・き・続・け・る・、以外のことを決してしてはならないことだけは、ほとんど本能的に(笑)、わかった。「◇◇ちゃん」、「例の△△」とか、知らない名前や地名も散りばめられているから、あるいは、聞き手の私を誰かと混同しているようでもあったけれど、それは記憶の混濁、というより、そもそも、聞き手の「私」の存在、などというものを、端から度外視しているような、ある種の「トランス」状態にも思えたから、少しも気にならなかった。そういうときの時間の長さというのは、わからないものだが、十五分も経っただろうか?「あら、私一人で喋ってばかり、ごめんなさいね!」みたいな感じで、彼女が「我に返る」ことになる。でも、迂闊な観察者である私にもはっきりとわかったんだ、Yさんの表情が、話し出す前に比べて余程、「すっきり」していることをね。美しくない喩で申し訳ないが、悪酔いでむかむかしているときに、いっそ「吐いて」しまった方がすっきりする、それにも似て、なにか「憑き物が落ちた」みたいな感じかな。私は期せずして、むしろ私が、他人様の「話し相手」などになる能力を欠く、面白みのない(笑)人間であったか・ら・こそ、ただ、余分な言葉を差し挟むことなく、最後まで聞き終えることができ、いわば彼女自身の、「自己治癒」の現場に、ただ「目撃者」として、「立ち会う」ことができたことを知った。もちろん、そんな風に「解釈」するようになったのは、ずっと後年、奇しくも(笑)、おそらく、Yさんを含む多くの被災者が罹患していたであろう、PTSD(PostTraumaticStrssDisorder精神的外傷後ストレス疾患)とある部分共通する症候を示す「双極性気分障害(躁鬱病)」という病を、私自身が負うことになってからだが。(続く)


おや、今日は、「お一人様」ですか?「愛人」(笑)の方が一人で現れた。うしろに、顔のでっかい(笑)半茶とらが、のっそりと(笑)座っているでしょう?こいつが、多分、人間には馴れ馴れしいが(笑)、他のオス猫には「非情」な(笑)、「ボス猫」のようで、だから、「彼女」、頭と尻尾の三毛以外真っ白のこいつです、の「ボーイフレンド」は、近づけないんだと、思われる。
「愛」の関係を生きるのは、どこでも、なかなか、難しいに違いない。そんなものと「無関係」に生きてきた筈だが(笑)、「愛の対象」を「持つ」や否や、今度は、今にもそれが「失われる」のではないかと、常時「心配」する、それのみが「生きる」内実になってしまうほどのストレスを、引き入れなければならない、ということは、「隠喩的」にではあるが(笑)、知っている。







何らの実利的な目的を欠いた、ただただ、「喜び」の感情の横溢を交感し合う、「社会的」行動。
(承前)「会話」の「目的」が、「理解」しあうことだとか、それ以前に、その「機能」が、何事かの「情報」を「交換」するものだとかいう見解を、申し訳ないが(笑)、鼻で笑って(笑)しまうのは、そんな経験に根差している。とんでもない、人は、相手がいようがいまいが、切羽詰まった「話す」必・要・があるから話すのだ、相手はいなくてはならないが、た・だ・し・、誰でもよい、またまた汚い喩だが、げろげろ吐いている酔っ払いの背中をさすってくれた人が誰だったか、翌朝、酔っぱらいは覚えていないものだ、それでよい、私たちは、「他者」の「発話」の、「目撃者」であり得、ただ、それで、必要にして十分である。
だから、ちょっと反省している(笑)。この間、あなたがまだ、睡眠薬とお酒で朦朧としたまま電話をくれた時、全然わからない話を聞かされることになったから、自分のことを誰かと勘違いしてるんだろうと、「嫉妬」して(笑)、不機嫌なまま電話を切ってしまった。まだまだ「修養が足りない」(笑)と言わざるを得ない。人は彫像に対してだって、星に対してだって、もちろん猫に向かっても(笑)、話しかけることができるくせに、自分が、「彫像」や「星」や「猫」や、その他もろもろの「木偶の棒」にされてしまうと、「プライド」とやらが傷ついてしまうのだね、自分が相手を「デクノボウ」にするのなら、自分もまた「デクノボウ」にされることを「受け入れる」なければならない、それが、「会話」の、真の(笑)、「互酬性」というものだ。


朝はまばゆいほどの快晴だったのに、午後から急に冷え込んだ。twilight=two lightsであろうから、これは月明かりと太陽の光で「二つ」なのだろうか、陽が昇るとき、また、陽が沈むとき、いつでも月があるわけでもなかろうが(笑)、日没後、または、日の出前の薄明を表す言葉、とすれば、鳥たちの「トワイライト・ソング」は、その二つの時間帯、もしくは、夜が明けた、のにも似た経験ととらえられるからだろうか、雨が晴れた直後に、歌われるようである。「なわばりの宣言」とか「配偶者の誘因」とかの、何らの実利的な目的を欠く、ただただ、「わー、夜が明けたよ」とか「わー、雨が晴れたよ」とか、「もう、寝る時間だよ」とか、異種の間ですら、「喜び」の感情の横溢を交感し合っているかのようにしか思えない、行動のようである。今朝は近所の公園のメジロ(メジロ科)が、騒がしいほどだったし、今、夕刻の街中であるが、ほら、街灯の支柱のワイヤーに沿って、器用に這い登ったり、滑り降りたりしながら、ヒヨドリ(ヒヨドリ科)が、盛んに歌っている。ポケットカメラしか持ち合わせがなかったから、鮮明ではないが、ただ「待って」いるのが寒かったし(笑)、撮影することにした。背後の建物は、この島のランドマークだから、ここがどこであるかは、誰が見てもわかる(笑)、したがって、わたしが何を「待って」いるかも(笑)、ことになっている。
今しも右●翼の街宣車がやってきて、ただ「軍●艦マーチ」を大音量で流し続ける。右折信号で、まだ曲がれるのに、わざと曲がらずに、信号一回分、とどまり続けるのを見て、あ、私が、かの「桟橋」あたりでやっているのと同じだ、と文字通り笑った(笑)。それは、自らの存在そのものを、不快なもの、見たくないもの、おぞましいものとして際立たせ、自虐的に強調することで、それを取り巻く状況を相対化しようとする試みである点で、正確に「同じ」である。自らをあえて「貶める」ことを躊躇しない「潔さ」に、むしろ(笑)、「共感を禁じ得ない」と、言ってもいいくらいだ(笑)。自らを貶めることで、相手もまた「貶められるべきもの」の地位に引きずり降ろそうとしている、それは卑劣、ともいえようが、同時に、もし、相手を貶めるのならば、少なくとも自分も同じ程度には貶めなければならない、と強迫されているのだとしたら、それはある種の「倫理性」と呼んでもかまわないではないか?「己を貶める行為をすることで」、「彼らと同じ地平に立」ち、「『そんなこと、してはいけないことだ』『人間として下劣だ』、そう糾弾されるやり方で」、「叫んだ」、「サラバ」西加奈子(小学館)の、「母」のように、ね。


辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う県民投票



言葉を、きちんと文章にしなくていいんだ。体がそれをやってくれるから。
僕は目が見えない。小暮さんのように目の見える人には分からないでしょうが、人が、人を知る、と言うとき、見る、という行為がとても大きいんです。僕も、10年ほど前まで見えていたから、分かるんです。あの人知ってる、と言うとき、僕は、はっきりその人の姿を思い浮かべていた。どんな髪型だったか、どんな目をしていたか。でも、その情報が絶たれると、『知る』ということが、どういうことなのか、改めて考えざるを得なくなるんです。知るって何だろう。今も分かりません。だから僕は、自分で自分の『知る』を決めるしかないと思った。僕には定さんの姿が見えない。でも僕の知ってるすべての定さんは、見えている人よりも、もしかしたら小さな世界かもしれないけれど、とても美人で、優しくて、それが大切なんです。
「ふくわらい」西加奈子(朝日文庫)
諸々の精神疾患に「摂食障害」の症状が伴うことは知られている。それらの「障害」が、「他者」、「外部」の「世界」との「関係」にかかわるものである以上、「外」のものを「中」に取り込む、「食べる」という行為が、象徴的、隠喩的に、読み替えられたとしても不思議はなかろう、と素人としては、簡単に理解できるじゃないか?と思っている。いつの頃からか、はっきりと記憶にはないが、「うつ病」の診断を受けてから、だいぶ経った後だったかもしれない、全然食べものの味がしていないことに気が付いた。うつ病は脳内情報伝達物質セロトニンの分泌不全を特徴とし、身体というものは、進化の過程で、とりあえずの「器用仕事(ブリコラージュ)」をしてきたようで、一つの化学物質が、全然無関係の二つ以上の機能に関与していることがしばしばみられるようで、当のセロトニンは、満腹中枢の管理をもつかさどっているそうだから、そういう「味覚障害」の症状が現れることも不思議ではないと言われていた。もともと、食べることも、自分で料理することも、好きだったから、びっくりした。あれが食べたいと思い、料理をこしらえる、身体はぼろぼろだから、手は抜くものの、「コツ」などというものはちゃんと身についているものだから、そんなに「失敗」した筈はないのに(笑)、できた料理が、ちっともおいしくないのだから。でも、その頃思いついて、なかなか気に入っている考えは、そんな歴史上の偉人の事跡を、そんなつまらない自分の経験に引き寄せるのは「僭越」の誹りを免れないが(笑)、あの、ベートーヴェンという人は、耳が聞こえなくなってから、いくつもの交響曲を書いたのだろう?音楽の素養のない人間には想像を絶することだが、昔、音楽学校に通っている知り合いがいて、たまたま手元にあった楽譜を、しばらく眺めた後、あら、いい曲ね、とかおっしゃったので、仰天したことがあるが、「楽譜が読める」というのは、それに従って楽器を運用できる、ということにとどまらず、楽譜を「見る」だけで、「頭の中に」、音を鳴らすことができるのでしょう?ベートーヴェンという人は、そうやって、「頭の中」に既に存在している「音」を、紙の上に記号として書き留め、ふたたび、その記号を「鳴らす」ことで、推敲することさえできた、そう納得した。あるいは、ゲオルグ・カントールという数学者は、晩年、盲目になった後、何冊もの難解な理論書を、口述筆記によって残した、といわれている。車の運転中に渋滞に巻き込まれたりすると、私も「数学者」のはしくれだから(笑)、暇つぶしに、前の車のナンバープレートを眺め、「素因数分解」を試みたりする(笑)。如何なる素因数分解の方法も存・在・し・な・い・ことが、当該整数が「素数」であることの証明であるのだから、四桁の整数について、これを検討するのにはなかなか時間がかかり、格好な暇つぶしになるのだ。だが、凡人の悲しさか(笑)、その程度の計算でも、「頭の中」だけで遂行するのは困難で、どうしても紙の上にメモをする、という「視覚」の助けを要することを知っているから、これも想像を絶する難事業だと思う。やはりカントール氏の「頭の中」には、はっきりと、整然と、何行もの、あるいは何ページにもわたるほどの、数式がすでに並んでいて、一つ一つのそれが、ある種の変形によって、たちどころに別の姿を現す過程さえ、それこそ「手に取るように」思い浮かんだに違いない。とすれば、それは、ここでの引用文の話者が言うように、ベートーベンなら、かつて、聴くことができた、カントールならば、かつて、見ることができたからこそ、その能力が失われてもなお、「記号」の手助けを借りて、「頭の中」に、音や数式を組み立てなおすことができたのだろう?同じように(笑)、私もまた、「おいしい」食べものがどんなものなのかが、「記憶」のなかに何かの形でとどめられているから、どうしたらその「おいしい」ものに、近いものを、作ることができるか、それがうまくいかなかったとして、何がいけなかったか、が、ちゃんと「理解」できたとして、不思議はないように思う。繰り返し「僭越」ではあるが(笑)。


プロレスのせいで鬱になったのに、鬱を忘れられるのは、プロレスやっているときだけだった。人と会うのが怖くて、だって人に会うと、キャラを作らなきゃなんねぇって思うんだもの。怖い、怖かった。でもリングに立つと、飛ぶんだ、そういうことが、全部。相手の目をまっすぐに見れる。なあ、プロレスは言葉を使わない。言葉を、きちんと文章にしなくていいんだ。体がそれをやってくれるから。何万語駆使して話すより、一回関節決められたほうが伝わることがあるんだ。俺は相手を体験するんだ。体が体験するんだ、わかるんだ。おいらの体が。おいらの、この、おいらの体がだぞ?ひとつしかねぇんだ。わかるか。それが、どれほどすげぇことか。
「ふくわらい」西加奈子(朝日文庫)
これも何度も書いたが、何度も書いたことばかりだ(笑)、重要なことだから何度も書く、とは限らない、人が喋り続けるのは、どれだけ喋っても喋り尽くした気にならない、言い換えると、まだ、言い足りないことがある、からだろう?、・・・、小説を読んでいて、「どうして、そんなこと、わかるんですか?」と、膝を打ちたくなることが何度もある。初めて精神科医の問診を受けて、「症状がひどいときはどうですか?トイレに行くのも億劫なくらい?」と言い当てられた(笑)時のような衝撃だ。「うつ病」の典型症例として、「トイレに行くのが億劫」がDSMなどの診断マニュアルに例示されていることはありそうだから、精神科医がそれを「引用」したとも考えられる、仕事熱心な作家は、そんな「調査」をするのかもしれない、とは言えようが、あまりにも頻々と起こるから疑ってしまう、つまり、この作家自身が、「うつ病」患者ではないのか、と。だとしたら、私の手にする書物の著作者の大半が、患者ってことになるぜ、いや、そうなのかもしれないよ、十人に一人、といわれるくらいの「平凡な」(笑)病なんだからね、もう一つは、標本抽出の際のバイアスの存在、つまり、私が、好き好んで、無意識ではあれ、そんなことを書きそうな(笑)作家ばかりを選んでいるってことだな。傲慢な言い方で申し訳ないが、本屋の店先で、三行読めば(笑)、その書物が、読むに値・す・る・か・(笑)、たちどころに判定できる、自分よりずっと若いような、それまで名前も知らなかったような作家の数々とは、そうやって出会ったのだからね、ね、だから、それこそ、そういう判断を「体がやってくれる」のだから、もちろん、私が、既にして、そんな「出会い」を、「欲望」していたのである、とフロイト主義者ならば(笑)、言うのである。


この間、電話した時、話したでしょ?もう三年前になるかしら、自殺した、大手広告代理店、「新人OL23歳」さん、のこと。月間残業時間が百を超え、一日中頭朦朧として、「次はいつ眠れるだろうか?」ってことだけ考えている、憤りとか、不満、とか、そういう段階じゃない、というか、そういう感情さえ既にとっくの昔にかさかさに枯渇していて遠いことに思える、正・確・に・、同じ年齢の頃に、正・確・に・、同じ経験を持っていたから、不必要なくらいに感情移入してしまったんだな。予備校の先生として最後に教えていた生徒さんたちと、同じ年齢だったしな。「午前四時、今から帰宅なんですけど、笑えません?」とか、ツィッターに書いてたんだって、あのさ、そうやって自分を「笑い者」にすることができる間は、人は、ま・だ・、生きていける、だって、その時彼女は、生きていたんだぜ。この人は、やっと帰宅しても疲れすぎて、ネットで、猫の動画探し出して、それ見ないと眠れなかったんだって、そんなことならお安い御用だったのに、って思った。今でも、だから、猫の動画作り続けるのは、「鎮魂」の身振りなんだ。


満月じゃないと足元が悪くて帰れないだろう?と想像している(笑)。
上の方の、オルダス・ハックスリーから「ジェーン・エア」談義の続きなのだが、そう、もう一つ「備忘」(笑)、「ジェーン・エア」、ロチェスター卿の屋敷に幽閉されている妻の故郷が、ジャマイカに設定されている、たしか、おぼろな記憶によれば、ロチェスター氏自身、もしくはその縁者が、その地にサトウキビプランテーションを経営していたのではなかったろうか?ハイチ革命の二度目の蜂起の指導者ブックマンは、ジャマイカ人であった。時代は、ブロンテ姉妹の少し前である。
ジャマイカJamaica(wikipedia)
Under British colonial rule Jamaica became a leading sugar exporter, with its plantation economy highly dependent on African slaves. The British fully emancipated all slaves in 1838, and many freedmen chose to have subsistence farms rather than to work on plantations. Beginning in the 1840s, the British utilized Chinese and Indian indentured labour to work on plantations. The island achieved independence from the United Kingdom on 6 August 1962.
英国植民地下のジャマイカは、アフリカ人奴隷に大きく依存したプランテーション経営による、砂糖の主要な産地であった。イギリスは1838年に奴隷解放を決定するが、解放奴隷の多くは、プランテーション労働者であり続けるよりは、兼業農家としての道を選んだ。1840年代から、イギリスは、プランテーション労働者の補填に、中国やインドから、「債務奴隷」を移入させ始める。1962年8月、ジャマイカはイギリスからの独立を達成。
The population in 1834 was 371,070, of whom 15,000 were white, 5,000 free black; 40,000 'coloured' or free people of color (mixed race); and 311,070 were slaves.
1834年の人口統計によると、総数37万のうち、1万5千が白人、5千が解放された黒人奴隷、4万が「有色人種」もしくは、「有色」自由民、すなわち、(黒人との、また、先住民との)「混血」、そして、31万人が、奴隷であった、とのことである。
“And did you ever hear that my father was an avaricious, grasping man?” “I have understood something to that effect.” “Well, Jane, being so, it was his resolution to keep the property together; he could not bear the idea of dividing his estate and leaving me a fair portion: all, he resolved, should go to my brother, Rowland. Yet as little could he endure that a son of his should be a poor man. I must be provided for by a wealthy marriage. He sought me a partner betimes. Mr. Mason, a West India planter and merchant, was his old acquaintance. He was certain his possessions were real and vast: he made inquiries. Mr. Mason, he found, had a son and daughter; and he learned from him that he could and would give the latter a fortune of thirty thousand pounds: that sufficed. When I left college, I was sent out to Jamaica, to espouse a bride already courted for me. My father said nothing about her money; but he told me Miss Mason was the boast of Spanish Town for her beauty: and this was no lie.
Jane Eyre/Charlotte Bronte(kindle)
「そしてわたしの父が強欲で貪婪な人間であることも聞いたかね?」
「そのように伺いました」
「そうか、ジェイン、そんなわけなので、父は財産を分散させないよう決心した。自分の土地が分割され、わたしに応分なものが遺されるという考えが我慢ならなかった。全財産を兄のローランドに相続させる肚づもりだった。そうはいっても息子が貧乏人であっては困る。わたしは、金持ちの娘と結婚することによって生活の資を得なければならない。折よくわたしの相手が見つかった。西インド諸島の農園主であり商人であったメイスン氏は、父の旧知のひとだった。彼の資産は莫大なものだと父は確信したので、調査を行った。メイスン氏には、息子と娘が一人ずついた。娘に三万ポンドの財産をあたえることができ、あたえようと考えていることを、父は彼の口から聞き出した。それで充分だった。大学を卒業すると、わたしはジャマイカにやられた。親がすでにきめていた花嫁と結婚するためにね。父は相手の持参金については触れなかったが、ミス・メイスンは、スパニッシュ・タウンの名うての美人だと言った。それは嘘ではなかった。
「ジェーン・エア」C・ブロンテ(光文社古典新訳文庫)

「I have understood something to that effect./そのように伺いました」というのは、肯定の答えを出しにくい場面なのに、失礼でなく率直で、なかなかいいお返事(笑)だね。
スパニッシュ・タウンは、スペイン領時代、英領時代を通して1534年から1872年まで、ジャマイカの首都であった。この花嫁が、後に発狂し、屋敷の塔に幽閉されることになるグレース・プール。さて、三万ポンドとは如何ほどの財産なのか(笑)?ずっと下の方で、ジョージ・オーウェル「パリ・ロンドン放浪記」精読(笑)の際に、1930年代の貨幣価値として、1ポンド≒1万5千円、という想定をしてみた。これはそれより一世紀前の話だが、それより高いのか低いのかすら、見当もつかないので、同じ値を採用すると、30,000×15,000=450,000,000、「よんおくごせんまんえん」、ね、だから、貧乏人には、どんなレートで計算してみても、想像がつかないくらい「たくさん」としか言いようがないの(笑)。映画版のなかでは、ロチェスター卿が、彼の財産目当てに群がってくる貴婦人たちを揶揄しつつ、自分の年収を「8千ポンド」というくだりがあったので、この「計算」を思いついたのだが、原作ではeight thousand poundsなどで「検索」してみても見つからない、あるいは、それこそ、脚本家オルダス・ハックスリーの創意かもしれない。8,000×15,000=120,000,000、なるほど、年収1憶2千万円か、同じく「たくさん」であっても(笑)、これなら、少なくとも「比較」ができる。私は、23歳の時に、ある銀行系列の「大型電子計算機」センターに就職して、何度も恨みがましく書いたが(笑)、1年目の夏にいきなり月間残業200時間を超え、歯ぐきから血を噴き出して倒れる(笑)ことになる。その時の初任給手取り十万足らず、残業手当を加えれば、それなりの額にはなったが、そんな暮らしが長続きするわけなく、年収は百五十万前後だったんだろうな、そこを辞めて、いわゆる(笑)お決まりの(笑)「転々と」することになるわけだが、「バブル」時代に多少「いかさま」っぽい会社で「○○長」とかいう名刺ひけらかして、銀座の高級クラブなどというところで他人様の金でレミー・マルタンだかをがぶ飲みできる(笑)という、いかがわしい(笑)暮らしができたごく短い期間を除いて、還暦を迎える少し前、倒産によって、給料遅配の末放り出されるまで(笑)、その同じ金額、すなわち年収百五十万、を超えることがなかった。私が一生涯のうちに(笑)、「稼いだ」金額はしたがって、1,500,000×(57-22)=52,500,000、五千万ちょい、だったんだね(笑)、ほら比較ができた。ロチェスター卿が一年に得る金額の半分を、私は一生をかけて得たのである。書物を「精読」する、というのはこういうことを言うのだと思うのだが、間違っているだろうか(笑)?


旧暦一月十四日「待つ宵」だが、月は見えそうにない。朝方はこんなに晴れていたのに。ヒヨドリ(ヒヨドリ科)、シジュウカラ(シジュウカラ科)、そして「花鳥図」、ヒカンザクラ(バラ科)にメジロ(メジロ科)。

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

シジュウカラ(シジュウカラ科)

メジロ(メジロ科)
旧正月の次の満月が「後生(ぐそう)の正月」なのだそうで、旧盆と同じく、海の彼方ニライカナイの「死者」への祭礼なのだな。満月じゃないと足元が悪くて「死者」が帰れないだろう?と想像している(笑)。朝、開いたばかり、リュウキュウコザクラソウ(サクラソウ科)。



障壁を立てる「愚かな」人間、「自由」に飛び交う鳥たち、などという誤った擬人法は、好みではないが、・・・。
ここはPOUMとアナキストの地域だから、理論上は集団所有になったものとぼくは想像している。とにかく地主はいなくなった。畑は耕作され、民衆は満足そうにみえる。農民はぼくらにたいして友好的であり、その友好ぶりがいつまでもぼくを驚かせてやまない。比較的年とった農民には、彼らのすべてではないにしても、戦争は無意味なものに思われたにちがいない。あらゆる物資が目に見えて足りなくなり、陰鬱な、単調な生活がすべての人を待ちうけ、そのうえ、どんなにましなときでも、農民は軍隊の宿舎割当を嫌うものである。それでもここの人はみな一様に親切だった。たぶん、ぼくらが、ほかの点では我慢ならなくても、彼らと彼らのかつての地主とのあいだで彼らを守っていることに思いを馳せているのだろう。内戦とはおかしなものだ。ウエスカは五マイル先にあり、ここの人たちの市場町である。彼らはみな町に親戚を持ち、今まで毎週ウエスカへ行って鳥や野菜を売ったものだ。それなのにここ八か月間、有刺鉄線や機関銃という越えられない障壁ができてしまった。ときどきそのことを忘れてしまう。あるときぼくは老女に話しかけていた。彼女は、スペインで人びとがオリーヴ・オイルを燃やす小さな鉄製のランプをひとつ提げていた。「そうしたランプはどこで買えるの?」とぼくはたずねた。「ウエスカだよ」ととっさに老女は答え、それから二人とも笑い出した。
「カタロニア賛歌」ジョージ・オーウェル(岩波文庫)



覚え書き、スペイン、「内戦」に至るまでの略史。
1917年、ゼネスト、1923年まで、バルセロナを舞台に都市ゲリラ戦。
1921年、モロッコ、リフRifの山岳地帯で、ベルベル人の反乱、リフ共和国の設立、Annualの戦闘で、スペイン軍大敗。
Morocco(Wikipedia)
モロッコのリフ地方の活動家のインタビュー(アル・ジャジーラ)28Aug2017
1923年、プリモ・デ・リベラの独裁政権成立。
1931年、アルフォンソ13世退位、共和制誕生
1933年の選挙、アナキストが棄権したため、右翼が政権掌握、以後1935年まで、「暗黒の二年間」。
1934年10月、アストゥリアス「10月革命」
この状況でスペインの社会民主主義者は、自己が存亡の危機に立たされているのを感じた。従来からの協力政策は破綻していた。・・・改良主義的な党の上層部に対する下部の圧力は、増大した。社会党指導者ラルゴ・カバリェロは、こういう事情の下で、にわかな方向転換を決意する。彼はリベラル派ブルジョワジーの共和主義政党との同盟を解消して、自派に武装抵抗への準備をさせる。社会党指導下の労働組合UGTのなかに、とつぜんレーニン主義的なスローガンが湧いて出る。1934年10月、UGTの牙城のアストゥリアスで、アナーキストの武装行動を顔色なからしめるほどの蜂起が起こる。このアストゥリアスの「10月革命」は、現在、不当にも忘れられているけれども、パリ・コミューン以後の西ヨーロッパでは、ほかに比類を見ないものである。
「スペインの短い夏」H.M.エンツェンスベルガー(晶文社)
UGT:Union General de Trabajadores労働者総連合
北西部アストゥリアスの蜂起は、カタロニアのアナキストが社会党への不信感のために十分に協力的でなかったことから孤立し、その弾圧に名を挙げたのが、フランシス・フランコという将軍であった。
1936年二月の選挙、社会党、共和主義諸派、共産党からなる「人民戦線」、大勝。これは、アナキストCNTが、選挙ボイコットをスローガンから降ろしたことが大きく寄与したと言われている。
1936年7月、スペイン領モロッコでフランコが武装反乱を開始、全土の三分の一を制圧、こうして「内戦」が開始された。


「憎悪」を全身に浴びるのが「楽しい」訳がないでしょう?「正義」の言葉はあまり助けにはならない。交通警官には言い寄られた(笑)ものの、何とか無事に過ぎた本日、私は「逮捕」二周年(笑)。帰路、まもなく去るサシバ(タカ科)

サシバ(タカ科)
旧暦一月十六日「後生の正月」、この干潟でも重箱を開く家族連れ、「死者」との「共食」儀礼、ほら、正午過ぎ「大潮」干潮、これなら「ニライカナイ」から歩いてでも(笑)来れる。まもなく去る冬鳥ダイシャクシギ(シギ科)、ダイゼン(チドリ科)

ダイシャクシギ(シギ科)

ダイゼン(チドリ科)
障壁を立てる「愚かな」人間、「自由」に飛び交う鳥たち、などという誤った擬人法は、好みではないが、イソヒヨドリ(ツグミ科)余程ここが好きらしく、意味ありげな(笑)写真が撮れてしまう。刺は避けて片足立ち、やはりコンクリート、人造石灰岩が好きなだけ?

イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス


どうせ私もうじき死ぬんですから、と得意そうに繰り返す「老人」に眉を顰めていたものだ。「若者」はしかし愚かだ(笑)。死への禁忌により深く囚われているのが自分の方かも知れないことすら気付かないのだから。
I felt very still and very empty, the way the eye of a tornado must feel, moving dully along in the middle of the surrounding hullabaloo.
The Bell Jar/Sylvia Plath
私はとても静かな気持ちで、かつ空虚だった、竜巻の目ならばそう感じるだろうように、周りの喧騒のまん中をだらだらと進んでいくみたいに。
「ベル・ジャー」シルビア・プラス
「ベル・ジャー」と言うのは、ベルつまり釣鐘、の形をした、ジャー、瓶(ビン)、伏せて立てれば気密性がある、生物学の実験に用いるようなもののことだ。リリアン・ヘルマン「未完の女」(平凡社ライブラリー)の解説で触れられていた。おぼろげな記憶によれば、1980年代、フェミニスト批評の文脈で、共に「女」の「自伝」として、この「鬱病」で自殺した早世の詩人のことが、いわば「セット」で言及されていたものだった。これは冒頭の一節だが、それはローゼンバーク夫妻の死刑執行の報に始まる。ソ連に原子力に関する機密を洩らした罪、「冷戦」パラノイアの象徴ともなるこの事件が1953、シルビア・プラス(1932-1963)は本文に19歳と書いているが、その前年1952年リリアン・ヘルマンは、下院非米委員会HUACの喚問を受けている。
Sylvia Plathシルビア・プラス



下の方で、ジョージ・オーウェル「パリ・ロンドン放浪記」をガイドブックとして(笑)、1930年代のロンドン、イースト・エンド探訪を試みることになるが、それより半世紀ほど前になるが、ウィリアム・モリスが「ユートピアだより」(岩波文庫)、News from Nowhere(1890)で、これは空想のなかではあるが、やはりロンドンの町を描いていたはずなので、探してみることにした。
William Morris(1834-1896)
There was a young moon halfway up the sky, and as the home-farer caught sight of it, tangled in the branches of a tall old elm, he could scarce bring to his mind the shabby London suburb where he was, ... He came right down to the river-side, and lingered a little, looking over the low wall to note the moonlit river, near upon high water, go swirling and glittering up to Chiswick Eyot: as for the ugly bridge below, he did not notice it or think of it, ...
News from Nowhere/William Morris(kindle)
中空には新月がかかって、高い楡の老樹の枝の間に垣間見えるその月を家路をたどりつつ目にしたとき、彼は今自分のいるみすぼらしいロンドン郊外をほとんど心に思いうかべることもできぬほどだった。・・・
彼はまっすぐ川べりに下りて、そこにしばらくたたずんで、満潮にほどない、月光に映える川を低い岸壁越しにのぞき込んだ。水が、チジック島(エイト)の方へと渦巻きつつきらめいて流れていた。下手のあの醜悪な橋のことなんか、ほとんど目にもとめず、考えてもみなかったが、・・・
「ユートピアだより」ウィリアム・モリス(岩波文庫)
「エイトeyot」は、川の中の小島、の意で、少し前の部分に、地下鉄で西の郊外に向かい、テムズ川のそばの駅で降りる、とあったところから見当を付けた場所に、ちゃんと(笑)Chiswick Eyotを発見できた。
チジックChiswick(googlemap)
とすれば、この社会主義者である以上にデザイナーとして名高い人のお眼鏡にかなわなかったのだろうか(笑)、「醜悪」と罵倒されているのは、少し下流、つまり東のハマースミス・ブリッジHammersmith Bridgeではなかろうか?
Hammersmith Bridge(googlemap)
夜明けに出て、日没とともに沈む「新月」が木立の枝にかかっている 、この日「彼」はLeague、「社会主義者同盟」の会議で激論を交わした帰路、だから、夕方あたりでよかろう、月の出、月の入りが、「満潮」にあたるのだから、それも合致している(笑)、さすがである(笑)。



人間以外の哺乳類も鳥類も、「爪先立ち」をしている。膝が逆に曲がると思えるのは人間『中心主義』的錯覚、そこはくるぶし、くれぐれも直立二足歩行という苦し紛れを採用した人間が例外なのだ。サシバ(タカ科)は今しも、左足の人間でいうなら「踵」をつけ、爪でとらえた獲物のバッタを口に運ぶ。





サシバ(タカ科)

水面に映る鏡像と影、旧暦一月十七日大潮、干潮は午後2時頃、太陽が南南西なら影は北北東、鳥はそれとほぼ直角に東を向く、カメラはその右後方南西から撮っていることまでわかる(笑)、南東→北西に流下する川の左岸から。画面右手が上流、左に汽水域の干潟。まもなく去る冬鳥キアシシギ(シギ科)



キアシシギ(シギ科)

どうせ私もうじき死ぬんですから、と得意そうに繰り返す「老人」に眉を顰めていたものだ。「若者」はしかし愚かだ(笑)。死への禁忌により深く囚われているのが自分の方かも知れないことすら気付かないのだから。今季「見納め」クロツラヘラサギ(トキ科)






まもなく去る冬鳥たち、だから(笑)、来年まで生きてるかわからないから「もののあはれ」なんだよ!そろそろ「婚姻色」の筈だが、まだ胸は黒くないムナグロ(チドリ科)、そしてチュウシャクシギ(シギ科)



ムナグロ(チドリ科)


チュウシャクシギ(シギ科)

「疑う所もなく熱帯樹林の天然から、小さき一断片の飛散とびちってここにある」と柳田國男「野鳥雑記」の言う通り、一面灰白色の干潟ではいやがうえにも目立つカワセミ(カワセミ科)、背中が「翡翠」、腹がオレンジ。裏・裏、表・裏、表・表、大潮干潮、流木の下の細い流れの獲物を狙っている。






赤あししぎがヒューッと鳴くように流れだまが頭上高く飛ぶ暗い谷間、そこをさまようもの面白くもあった。
「カタロニア賛歌」ジョージ・オーウェル(岩波文庫)
アカアシシギ(シギ科)の英名はRedshank、アオアシシギGreenshank、shankは脛、脚とのことだから、日本語名と目の付け所は同じだ。ところがキアシシギはGrey-taled Tattler、脚が黄色いのは鳥類では普通のことでもあり(笑)、確かにしっぽが黒い方が目立つ、tattleはおしゃべりをする、秘密を漏らす、の意、だが、私が見る限り(笑)、この鳥は「寡黙」のように思える。以上シギ科クサシギ属。肝心のクサシギは、Green Sandpiperであり、別属のイソシギ属イソシギのCommon Sandpiperと同類と思われていたらしい、確かに、とても似ている。piperは笛を吹く者の意だから、砂地にいて笛のような声でなく、ことからの命名と思われる。「いそしぎ」という映画があって、観たことはないが奇妙な題名だと思っていた、調べてみると1965年ヴィンセント・ミネリ監督「The Sandpiper」であった、舞台がカリフォルニアの海岸地帯なので、そりゃイソシギが出てくることもあろう(笑)。ジョージ・オーウェルは「1984」でも、確か、森の中での密会のシーンで、クロウタドリだったか、クロツグミだったか、ウタツグミだったかの声を描写していたから、アカアシシギの声を聴き分けられたとしても、不思議ではないが、原文がどう記されていたのか、興味があるところである。クロツグミはGray ThrushまたはJapanese Thrush、ウタツグミはSong Thrush、クロウタドリBlack Bird、これら三種はいずれもツグミ科、ツグミはDusky Thrush、duskは黄昏で、duskyは浅黒いの意、シロハラはPale Thrush、アカハラがBrown Thrush、イソヒヨドリは、Blue Rockthrush、ほらやっぱり、rock岩が好きなんだ。ビートルズに「ブラックバード」というのがあり、中学一年生の夏休み新聞配達のアルバイトでためたお金で購入した8千円の一番安いヤマハのフォーク・ギターで、初めて弾けるようになった曲だから覚えている。
Black Bird's singing in the dead of night.
「dead of night」という英語表現も、ここで覚えた(笑)。エミリー・ブロンテ「嵐が丘」の、二つの屋敷の間に「鶫(つぐみ)が辻」とかいう地名が出てきた記憶があるが、それがthrushに関係のある言葉なのか調べてみようとしたが、不明(笑)。キアシシギも、アオアシシギも、おそらく、アカアシシギも、というのは、当地への渡来数が少ないのか、あまり見かけない、今年もまだ見ていない、どれも、同じく「ひゅー」と鳴くとしか言いようがないと思う。何年か前に、道路脇の別の干潟で、歩行者信号の警告音に負けないほどの大声で泣き続けていたアカアシシギの映像を撮った記憶があるので、後で探し出してみたいと思う。


とても「偶然」とは思えない「出会い」なので、・・・。
「スペインの短い夏」H.M.エンツェンスベルガー(晶文社)で、ヴィクトール・セルジュ(1890-1947)という名に出会う。「人民の意思」派アナキストの流れを汲むベルギーに亡命していたロシア人の家族に生まれる。ヨーロッパで活動していたボルシェビキたちと親交を結び、革命のロシアへ、スターリン時代の迫害により再びヨーロッパへ、スペイン内戦ではPOUMを支持、そのヨーロッパ特派員の役割を果たしていたらしい。ナチの弾圧が強まるなかでマルセイユを出航する最後の船でマルチニックに向けて脱出する、なんと、その同船客に、アンドレ・ブルトンとレヴィ=ストロースがいたのである。メキシコに到着したのは、トロツキー暗殺後数ヵ月であったという。トロツキーとは共に「左翼反対派」を構成する同志であったが「第四インターナショナル」には加入せず、死の直前のトロツキーとは若干の齟齬があったことが窺われる。トロツキーとセルジュを、「ファシスト」呼ばわりした者として、コミンテルンのオットー・カッツの名が、ここにも登場する。
とても「偶然」とは思えない出会いなので、「スターリンの肖像」(新人物往来社、1971)を取り寄せ、読み始めることになった。中断していたドイッチャーのトロツキー伝も、読み直さなければ。
ヴィクトール・セルジュVictor Serge
だが十三名の被告はまったくペテンにかかったのだ。彼らはスターリンをよく知っており、彼の政策を理解することもできたので、はかないのぞみを抱いていた。絶望の時がやって来て、彼らははじめて自分たちが確実に処刑台に登るのだということを知った。スターリン親衛隊所属のある幹部が私に、こういったことがある。
「もし彼らを処刑しなかったなら、裁判は茶番だったことになる。なんのためにやったのかわからないじゃないか!」と。そして入れかわりに次に殉教者たちが、牢獄の底で自分の出番を待っていた・・・・・・。
「スターリンの肖像」ヴィクトール・セルジュ(新人物往来社)
ヴィクトル・セルジュは、アナキストの陰謀に加担したとして1913年、フランスで投獄され、翌1914年、第一次大戦でドイツの捕虜となる。この辺りの事情が明らかでないが、1917年にフランスを追放され、第一次大戦の中立国であったスペインにやってくる。そこでバルセロナのアナキストの蜂起を目撃する。1928年、反対派の追放に抗議したため共産党除名、逮捕、二か月の拘留、1933年にも再逮捕、三年間にわたるOrenburgへの流刑。アンドレ・ジッド、ロマン・ロランらの嘆願が功を奏し、1936年釈放、ベルギーのヴァンデヴェルデがヴィザを発給したので、同国へ向け出国。ベルギーでは、トロツキーを含む反スターリン派と交流、また、スペイン内戦期には、POUMのパリ特派員として働く、とある。フランスのトロツキスト運動の重鎮ズボロウスキーは、後にGPUのエージェントであることが発覚するのだが、トロツキーとセルジュの意見の相違を利用して、運動に分裂を持ち込もうとした。二人の意見が大きく食い違ったのは、二点、スペイン革命におけるPOUMの評価と、1921年のクロンシュタット暴動に対するボルシェビキの弾圧の評価、であったという。ナチスのフランス占領が1940年、ゲシュタポとGPUの双方から追われる身で、やっと最後の船でマルセイユから脱出、メキシコに到着したのが、トロツキー暗殺後数か月、というから、1941年ということになろうか。この船旅については、また、レヴィ=ストロース「悲しき熱帯」冒頭を読み直す必要があろう。トロツキーは、1929年にコンスタンチノープルへと「追放」、プリンキポ島(プリンスィズ諸島 )へ、その後四年間滞在。1933年にフランスRoyan、1934年にはバルビゾン、1935年仏ソ間の条約締結に伴いフランスを追放されることになる。ノルウェーが受け入れる。スターリンと、ノルウェーのファシストの圧力が強まり、1936年暮れ、ノルウェーのタンカーが、トロツキーとその家族をメキシコに運ぶことになる。
プリンスィズPrince's Islands諸島
プリンスィズ諸島(googlemap)
トロツキーのフランス滞在時の記事に、シモーヌ・ヴェイユが登場するが、これについては、また稿を改めることにする(笑)。



「もそも彼らが何故そこへ行かなければならなかったかを考えてみることに誰も関心をもっていないみたいですね、私に言わせてもらうなら、もし本当にそれを止めたいのなら、まっさきに考えるべきことなのは明らかなんですけど。」
これ(↑)は、シリア内戦にIS●ILの兵士として従軍した、バングラデシュ系イギリス人少女の「送還」問題について記されたアル・ジャジーラ記事なのだが、その出身地であるロンドンの「イースト・エンド」地域の説明に用いられているのは、どうも英語版wikipediaの記事であるらしい。
East End of London
同地域は、歴史的に数々の移民の流入する貧困地帯であると同時に、そうであるがゆえに、さまざまな「社会改良」、「革命運動」の「温床」でもあったようで、ロシア革命前夜は、社会民主労働者党の亡命者による大会が同地域のHoxton教会で行われた、とか、ジョージ・オーウェル「パリ・ロンドン放浪記」(岩波文庫)にも、1930年代の情景が描かれている、とか、興味深いことが書かれているようなので、いずれ、「精読」してみたいと思う。
The area was notorious for its deep poverty, overcrowding and associated social problems. This led to the East End's history of intense political activism and association with some of the country's most influential social reformers. Another major theme of East End history has been migration, both inward and outward. The area had a strong pull on the rural poor from other parts of England, and attracted waves of migration from further afield, notably Huguenot refugees, who created a new extramural suburb in Spitalfields in the 17th century, Irish weavers, Ashkenazi Jews, and, in the 20th century, Sylheti Bangladeshis.
この地域は深刻な貧困、人口過密、及びそれに関連する社会問題で悪名が高い。このことが、イースト・エンドに政治的アクティヴィズムが集中し、この国の最も影響力のあった社会改良運動家たちとの深い関係を持つ、という歴史を帰結した。イースト・エンドの歴史のもう一つの重要なテーマは、流入流出ともに、移民の問題である。イングランドの他の地方からの貧困者を強く引き付けてきたし、さらにそれよりも遠くからの移住の波があった。そのうち著名なものとしては、まず、ユグノーの避難民たちが17世紀にスピッタルフィールズの場外に新たな集落を形成したし、それに続いて、アイルランドの織物工たち、アシュケナジー・ユダヤ人、そして20世紀には、シルヘット地方のバングラディッシュ人などである。
・・・
Amongst the Russians was fellow anarchist Peter Kropotkin who helped found the Freedom Press in Whitechapel. Afanasy Matushenko, one of the leaders of the Potemkin mutiny, fled the failure of the Russian Revolution of 1905 to seek sanctuary in Stepney Green. Leon Trotsky and Vladimir Lenin attended meetings of the newspaper Iskra in 1903. in Whitechapel; and in 1907 Lenin and Joseph Stalin attended the Fifth Congress of the Russian Social Democratic Labour Party held in a Hoxton church. That congress consolidated the leadership of Lenin's Bolshevik faction and debated strategy for the communist revolution in Russia. Trotsky noted, in his memoires, meeting Maxim Gorky and Rosa Luxemburg at the conference.
ロシア人の中には、アナキストの同僚でありホワイトチャペルで「自由新聞」の設立を手伝ったピョートル・クロポトキンがいた。ポチョムキン反乱のリーダーの一人、アファナシー・マツシェンコも1905年のロシア革命の失敗の後「ステファニー・グリーン」に逃げ込んできた。レオン・トロツキーとウラジミール・レーニンは1903年にホワイトチャペルで行われた機関紙「イスクラ」の会議に出席している。1907年には、レーニンとジョゼフ・スターリンがホクストン教会で開かれたロシア社会民主労働者党の第五回大会に出席している。同大会では、レーニンの率いるボルシェビキ派の主導権が確立され、ロシアにおける共産主義革命の戦略が討議された。トロツキーが回想録に記しているところによると、その大会では、マキシム・ゴーリキーとローザ・ルクセンブルクにあったとのことである。・・・
「East End of London」(Wikipedia)
これまでになく深く意気消沈していた運動は、突如として驚くべき飛躍をとげるのだ。第一次革命後、ロシア社会民主党員は一万五千人を数えた。一九〇六年のストックホルム大会は二派合同の大会であった。この大会にスターリンはイヴァノヴィッチという名で登場しているが、注目されるような言動を示していない。彼は再び一九〇七年のロンドン大会にも出席している。この大会では、彼の代表としての資格に異議が申し立てられたが結局レーニンに救われた・・・・・・。
「スターリンの肖像」ヴィクトール・セルジュ(新人物往来社)
ホワイトチャペルWhitechapel(GoogleMap)
ホクストンHoxton(GoogleMap)


喩え話を「真に受け」れば、「笑い」の対象にしてくれることもあれば、しかし、「狂●気」と認定される場合もあるのだ。
あるお客が夕食のときなにかを断言するたびに「俺のパンツを賭ける」と何度も言っていたところ、ぼくらの見ている前でママが立ちあがり、スカートをたくしあげてショーツを脱ぐと、その賭けの主の顔へ、鼻めがけて投げつけた。ショーツは宙を飛び、音もなくテーブル上空を通過し、鼻に命中した。夕食の最中にそんなことが起きたのだ。短い沈黙があってから、お客の女性が叫んだ。
「まあ、正気を失ってる!」
ママはカクテルを一息に飲みほしてから、こう言い返した。
「いいえ、正気は失ってません。せいぜい、ショーツを失ったくらいです!」
「ボージャングルを待ちながら」オリヴィエ・ブルドー(集英社)
「私のパンツに賭けて」、にあたる表現が、フランス語では、「間違いなく」と請け負うときの慣用句であるらしく、それがわからなければ、この部分を笑うことができないので(笑)、フランス語の辞書を引っ張り出して、調査してみたが、まだ発見には至っていない。「ママ」は、その「慣用句」を、「真に受けた」振る舞いをしているのである。だからそれは、言語のコードを侵犯するものなので、「正気を失っている」と判断されることもあれば、このシーンの直後、友人が馬鹿笑いをして凍り付いたその場を救ってくれるのだが、笑い飛ばす対象ともなるのである。
ヒステリー、双極性障害、統合失調症といった専門用語をありったけ、医師たちは彼女に浴びせた。彼女を陰気な建物に閉じこめて、大量の薬で化学的に束縛し、ヘルメスの杖の印が押された一枚の強制入院令状に、精神錯乱を理由にして縛りつけた。私たちから彼女を引き離して、患者たちの中に放りこんだ。
「ボージャングルを待ちながら」オリヴィエ・ブルドー(集英社)
1980年生まれの、フランスの、若手の、作家の、ベストセラー、普通ならば(笑)手に取るはずもない小説だが、もちろん、タイトルに惹かれたのである。「ママ」は、いつも、レコード・プレーヤーに、ニーナ・シモンの「ミスター・ボージャングル」を大音量でかけて、踊るのだ。それにしても不可解なのは、Amaz●n社が、この書籍の広告を、唐突に送り付けてきたのは、どうしてだろう?「マルコムX自伝」に、ビル・”ボージャングル”・ロビンソンのことが、次いで西加奈子「サラバ」にニーナ・シモンの別の曲のことが繰り返し出てきて、そんなわけで、某ペディアや某Tubeで、ニーナ・シモンや「ミスター・ボージャングル」を検索したりしたのは確かだが、その履歴を、流用できたりするのだろうか?凄い時代ではある、筆者の若い頃は(笑)、「公安警察」が監視対象の個人の、たとえば図書館利用記録などを保管している、そうして「思想チェック」をしているのだ、などとまことしやかにささやかれたものだ。それは大方、自分は「国家権力」に「マーク」されるような大物の(笑)「反体制派」だと言いたいが故の誇大妄想であろうが、実際、往時の爆●弾事件などでは、図書館で借りた書物の返還を怠ったことをもって「窃盗罪」の別件逮捕、などの事例は確かにあった。「時代」は、そんな「牧歌的」な情景を一気に吹き飛ばしてしまったね。「私」が、インターネット上で何を「検索」しようとしたか、すべて、そ・の・気・に・な・れ・ば・、調べはつくはずなのだ、問題は、ほとんどの場合、「その気になる」までのメリットがない、ということだろう。「情報」は、多すぎると、「冗長化」して「価値」を減殺するのであるからね。
この奇妙な家族は、アフリカに旅行した折に、怪我をしていたアネハヅルを助け、それを連れて帰り、「マドモァゼル・ツケタシ」と呼んで、部屋で「飼って」いる。フィクションなのだから、文句をつけても仕方ないが(笑)、いくらお金持ちでもそんなことができるだろうか?メジロを捕まえてきて鳥かごに入れて飼っているのを見かけたことがあるが、それも日本の法令上は、違法行為である。それはさておき(笑)、ツル科アネハヅル属アネハヅルAnthropoide virgoは、チベット高原などで繁殖、インド亜大陸、北東アフリカ、中東などで越冬、とのこと、翼は白いが首が黒く、顔も黒いが、オレンジ色の目玉と嘴、白い「過眼線」がくっきり、なかなか愛らしいのである。
アネハヅルAnthropoide virgo/Demoiselle crane(wikipedia)
そして、その英語名が「Demoiselle crane」、demoiselleはフランス語で「少女」、語頭に一人称単数所有格女性形maを付して、mademoiselleが、「マドモァゼル」という未・婚・女性への呼びかけ語になった訳だ、だとすると、翻訳者が「マドモァゼル・ツケタシ」とおそらくは苦労して命名したその元のフランス語は何だったのかが、気になるところである。さらに、この鳥の学名Anthropoides virgoは、1758年リンネによるもの、とのことだが、anthropo-は「人間の」を表す接頭辞、anrhropology人類学、philanthropy博愛主義、misanthropy人間嫌い、など、語尾の-oidは、「~である者」、paranoia偏執狂、paranoiac偏執的な、paranoid偏執狂患者、など、であるから、字義どおりに訳したら(笑)「人間的な者」ってことになるぜ?さらにvirgoは、語頭が大文字なら「乙女座」、なるほどvirginityと同根なのである。英語名が「少女」なのも、日本語名が「姉・羽・鶴」なのも、確かにその立ち姿が、「麗人」を彷彿とさせることからきているのかもしれないが、ならばこの作家は、フランス語での呼び名もdemoiselleなんだとしたら、その名前の喚起するイメージだけで、登場人物に採用したのでは、と疑われる(笑)所である。


まるで「お花畑」のようで 、とてもそんな、「刺々しい」場所とは思えない、もちろんわざわざそれを言うために(笑)写真を撮っているのだけれど。
「賤民たち」―憲兵はそう呼んでいたが―のなかには、アンドレ・ブルトンやヴィクトール・セルジュも含まれていた。この徒刑囚の船をひどくいごこちわるく感じていたアンドレ・ブルトンは、甲板のきわめてわずかのあいている部分を、縦や横に歩き回っていた。けばだったビロードの服を着た彼は、一頭の青いクマのようにみえた。・・・
ヴィクトール・セルジュは、かつてレーニンの同志であったので、私はなんとなく彼がこわかった。同時に、そうした彼の過去と彼の人柄―むしろ、一人の志操堅固な老嬢を思い起こさせる―とを一つにして考えるのは、私にはたいへんむずかしく思われた。
「悲しき熱帯」クロード・レヴィ=ストロース(中央公論社・世界の名著)
André Breton(1896-1966)
Claude Lévi-Strauss(1908-2009)
Victor Serge(1890-1947)
マルセイユからマルチニックへの「脱出」の船旅、ヴィシー政権の「憲兵」が「賤民」と呼ぶ彼ら、レヴィ=ストロースの口ぶりを借りれば、「ユダヤ人、外国人、無政府主義者のいずれ」か、のなかにこれらの三人が含まれていた。以前、講談社学術文庫版「悲しき亜熱帯」で読んだときは、ヴィクトル・セルジュと言われても誰かわからなかったから気に留めていなかったのだろう、ちゃんと記述があった。この船上のシーンは、そのすぐ後、フランス「海外領」マルチニックから、ニューヨークの大学がヨーロッパのユダヤ系知識人の救援のために招請した紹介状によって何とかアメリカ合衆国への入国が認められ、プエルト・リコでFBIの審問を受けることになるのが1941年5月、とあるから、その少し前、ということになるのだろう。年号だけで概算すれば、レヴィ=ストロース33歳、アンドレ・ブルトン45歳、ヴィクトル・セルジュ51歳、「若造」に過ぎない(笑)レヴィ=ストロースの口吻では、アンドレ・ブルトンは、まるで同年代の親友の如き、これに対してヴィクトル・セルジュは「老人」みたいだが、年はそんなに変わらないのだ。ヴィクトル・セルジュの形容は、若干の「セクシスト」的ポリティカリー・インコレクトな部分も含めて(笑)、この人の凝りに凝った文体に少しは慣れれば(笑)、これが十分な「誉め言葉」であることが、わかってくる。「こわかった」などと、何をおっしゃるレヴィ=ストロースさん(笑)、彼もまた、学生時代は、社会主義青年同盟の、バリバリの(笑)活動家だったはずだ。
この船は船室が4つしかない貨客船であるが、そこに350人の避難民が殺到した。アンドレ・ブルトンが「いごこちわるく」感じるのも当然なのである。レヴィ=ストロース自身は、この同じ船が、かつてブラジルへ学術調査に出掛ける時に何度も用いていたものだったので、今は海軍の司令官となっている元・一等運転士と知己であったため、特別扱いを受けたのだ。マルチニック島の首都は、フォール・ド・フランス、fortは、英語のfortressと同根なのだろう、「要塞」、町の広場には、ジョゼフィーヌの像が立っているらしい、ただ、レヴィ=ストロースは、それを、決してナポレオン夫人などとくどくど説明してくれないので、やはり、前回は読み飛ばしてしまったみたいだ。特別扱いを受けたレヴィ=ストロースともう一人の「謎の」チュニジア人は、ホテルに投宿したが、他の船客は、現地警察が、「親・ナチ派」に凝り固まっているようで、収容所に入れられてしまう。それが「入り江の向こう側にあるル・ラザレ」とあるのだが、それらしき地名は見つけられなかった。後に移動させられた収容所が、「プレー山のふもと」とある、たしかに、島の北端にそんな名の山がある。ちなみに、ジョゼフィーヌ・ボナパルトの生家のあるLe Trois-Ilets、ileは英語ならisland、スペイン語ならisla、「島」だろう、フランス語の辞書には、「ilet」が載っていないのだが、英語では、isletが「小島」、つまり語尾の-etが「縮小辞」であることから類推すれば、やはり「小さな島」ではないかと想像している。地形から見て、どこにも「三つの、小さな、島」らしきものは見つからないのだが(笑)。

小アンティーユ諸島マルチニック島
古ぼけたフォードは、凹凸のはげしい道を、トップ・ギアでよじ登っていき、私はアマゾン地方以来、私にとってなじみの深い植物の種(しゅ)を、これほど多くここにも見つけたことに恍惚となっていた。ただここでは、私はそれらをさすのに、新しい名前を覚えることになった。フルータ・ド・コンド(公爵の果実)の代わりにカイミト―ナシのなかに朝鮮アザミのイメージが含まれている―であり、ここではグラヴィオラではなくてコロッソルであり、マムマウンの代わりにパパイヤ、マンガベイラの代わりにアカテツ(サポティーユ)であった。
「悲しき熱帯」クロード・レヴィ=ストロース(中央公論社・世界の名著)
朝鮮アザミ、アーティチョークArtichoke、キク科チョウセンアザミ属。カイミートLes Cayemitesは元来、ハイチ南西部の小島の名称、それが、カリブ産の別名「スターアップル」なる「トロピカル・フルーツ」の名称に転用されたのかもしれない。しかし、アカテツ科のこの植物の学名はChrysophyllum cainito、日本語で読めば、「カイニート」なのだ、どこで、誰が、「間違った」のか?「ナシのなかに朝鮮アザミのイメージ」、翻訳者はこれでも大変苦労されたのだろう、ネットの写真で見る限り、「スターアップル/カイミート」は紫色の光沢のある球形の果実で、断面にたしかに星形の模様が現れる、一方、「アーティチョーク」の方は、やはり球形のアザミ状花の緑色の蕾を食用にするようで、言われれば(笑)、似ていなくもない。
カイミート/スターアップル/cainito
アーティチョーク/Artichoke
ポルトガル語の辞書には、conde伯爵とある、英語ならcountなんだろうな、frutaが英語のfruit、果物、だから、性の一致とか間違ってるかもしれないが(笑)、fruta do conde。
ポルトガル語graviolaはトゲバンレイシ、別名サワーソップ(soursop)、バンレイシ科。植物の命名にはしばしば生じることだが、「蕃茘枝」は、「茘枝」、ライチ、ムクロジ科、とは無関係。「蔓茘枝」なら、ご当地(笑)ゴーヤー(ウリ科)の別名、「蕃」は「中華思想」に由来する言葉ではないかと想像するが、植民地時代の台湾の先住民に、その字が宛てられていたはずだ、たとえば、「蕃石榴」と書いてバンジローと読み、沖縄方言ではこれが「ばんしるー」となる果物は、フトモモ科のグアバ、これも「石榴」、ミソハギ科、とは、植物分類上は、やはり無関係。素人にも想像がつくが(笑)、violaはポルトガル語でも楽器のヴィオラであり、あるいは果実の形状からの命名なのかとも思う。
コロッソルCorossolはマルチニックと同じく小アンティーユ諸島にあるフランス「海外領overseas collectivity」、サン・バーテルミー島Saint Barthélemyの一街区の名、語源はノルマンディー語、とのこと。転じてフランス語ではトゲバンレイシにあたる果物の名となった。
トゲバンレイシ/graviola/soursop
アカテツ(アカテツ科)という植物なら、当地にもあって、知っている、とは言っても、形態がさして近縁でもないハマビワ(クスノキ科)と酷似しているので、例えば近所の遊水地に生えているのが、そのどちらなのかいまだにわからない、という始末なのだが。「サポティーユ」はその語感からしてフランス語風(笑)、アカテツ科の学名がSapotaceae、「マンガベイラ」らしきポルトガル語は見つからなかったものの、mangueが「マングローブ」で、たしかにアカテツは海岸植物、マングローブ林のなかにも発見できるものなので、関係があるかもしれない。そして、これもご当地ではおなじみの、果物であるよりは、もっぱら野菜であるパパイヤ科パパイヤだが、ポルトガル語辞書に、papaia/papayaの他に、mamão発見、おぼろげな記憶では、これは「マミャウン」と読めるのではないだろうか?思えば、最初に「悲しき亜熱帯」を読んだとき、何よりもこの一節に引き付けられたのである。「私事」としては(笑)ちょうど、最悪の鬱病期、何度も言ったが(笑)、ただただ「人間」を避けるために、鳥よ蝶よ花よ、とにわか「ナチュラリスト」になろうとしていた頃だ、背後にナチスの影が迫っているこんな逃避行のさなかに、熱帯の植生をつぶさに「見る」ことができるこの著者に圧倒されたのだ。もっとも、今、冷静に(笑)読み直してみると、レンタカーの同乗者の「怪しい」チュニジア人(笑)が、植物に造詣が深かったようには見えないし、これらの蘊蓄は、ずっと後に、記憶を再構成したものであろう、そもそも、レンタカーを借りだした「動機」は、収容所に閉じ込められてしまった同船客のドイツ人の「ご婦人方」に、会いに行くためだったのだし(笑)。

大アンティーユ諸島、イスパニョーラ島、ハイチ/ドミニカ共和国


明け方南中する旧暦一月二十二日の月。「下弦」だから左手が東。




ダイサギ(サギ科)の左側がやはり東で、日が昇ったばかり。

ルリハコベ(サクラソウ科)の雄蕊の長い影からも、早朝であることが判る。

沖縄本島北部は南部と異なり隆起サンゴ礁由来の地形ではないので、ここに石灰岩の大山塊があるのは例外的。セメント工場前は「お花畑」のよう、そんな「刺々しい」場所とはとても思えない(笑)。ノゲシ(キク科)、

コマツヨイグサ(アカバナ科)、

リュウキュウコスミレ(スミレ科)

収穫の終わったサトウキビ畑。これは農業用スプリンクラーの先端、イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス。



セッカ(ウグイス科)の声が聞こえ始めたら、当地はもう「夏」の筈。



そして、シジュウカラ(シジュウカラ科)も。
シソ科をかつて「唇形科」と呼んだのがよくわかる、トウバナとホトケノザ、「口」を大きく開けて媒介昆虫を誘っているのだな。

トウバナ(シソ科)


ホトケノザ(シソ科)
どの植物図鑑にも「万葉に詠まれた」とあるから受け売りしてしまうが、どんな歌かは知らない、ヤエムグラ(アカネ科)。これらもサトウキビ畑の畔。



沖縄県民投票結果と、その後の日本政府の対応を伝えるロイター通信記事

余談だが(笑)、この記事(↑)の中に、at loggerheads with ~というのがあって、それは「~と角突き合わす」という意味だが、日本語訳が鹿か牛の振る舞いを模しているのと同様、何かの比喩のはずで、ではloggerheadとは何だろう?棒(log)の先端(head)に鉄球が付いていて、鉄球を火で加熱してタールなどを溶かすのに用いる道具、とのこと。ドラえもんの「手」の様なものだろうか?そのような形状を備えた動植物の命名にいくつも用いられているようで、loggerhead turtleまたはloggerhead sea turtleでウミガメ科アカウミガメ属アカウミガメ、頭の形がそうだとでもいうのだろうか?ご当地、南西諸島で見られる、といっても私はまだ見たことがないな、孵化した小亀を放流する場面を見せてもらったことはある、の方はウミガメ科アオウミガメ属アオウミガメらしく、こちらの英語名は平凡で(笑)green sea turtle、その他、ヤグルマギクに近い種のようで、アザミ状花をたとえたらしきもの、フォークランド島固有種のカモ、北米大陸にしかいないモズ、それからkingbird、タイランチョウ科(大蘭鳥)と言うのはこれまた科そのものが南北アメリカ大陸にしか産しない、こちらでいうならツグミ科のヒタキ類に似た性質らしく、「適応放散」であったか、同様なニッチを占めているのであろう、そこにも一つloggerheadがあった、勢い込んで調べた割には(笑)、「死ぬまでに」(笑)見ることが出来そうなものはなく、またしても「オチ」のない話になった。


私の人生のことごとくが、「変化change」の「年代記chronology」みたいなものだったじゃないか?
I knre that when my letter became public knowledge back in America, many would be astounded-loved ones, friends, and enemies alike. And no less astounded would be millions whom I did not know-who had gained during my twelve years wiith Elija Muhammad a "hate" image of Malcolm X.
Even I was myself astounded. But there was precedent in my life for this letter. My whole life had been a chronology of-chages.
The Autobiography of Malcolm X as told to Alex Haley(www.ballantinebooks.com)
この手紙がアメリカに届き、人々の目にするところになったとき、多くの人が、愛する者も友人も敵も同様に、仰天するであろうことは知っていた。同様に、何百万という未知の人々、私がイライジャ・ムハマッドの使徒であった十二年間の間に培われたであろう、マルコムXと言えば「憎悪」のイメージを持っている人々にとっても、驚きであろう。
私自身さえも、驚いているのだ。しかし、この手紙のような事柄は、既に前例がある。私の人生ことごとくが、「変化」の年代記のようなものだったではないか。
「マルコムX自伝―アレックス・ヘイリーの聞き書きによる」
これは、1964年教団内部の不祥事をめぐって、マルコムXが「ネイション・オブ・イスラムNation of Islam」を除名された年、彼はメッカへの巡礼を実行し、かの地で「真のイスラム」に接したいういわば「啓示」の如きものを受け取り、大きく政治的なスタイルを変容させていくことになるのだが、その経過を綴った公開書簡についての一節である。
そのメッカへの巡礼の帰途、レバノンのベイルート、ナイジェリアのラゴス、ガーナのアクラを訪れている。アクラのアフリカン・アメリカン・コミュニティの中に、Maya Angelou Makeの名が挙がっている。Maya Angelou(1928-2014)は詩人、公民権運動の活動家、Makeの名は当時既に離婚していたが、南アフリカの反アパルトヘイト活動家の夫のファミリーネーム。
Maya Angelou
アクラ・コミュニティのリーダー格が、Julian Mayfield(1928-1984)、劇作家、活動家、共産党CPUSAシンパサイザーと言われ、ガーナに来る以前には革命直後のキューバを訪れている。
Julian Mayfield
アクラでの政府要人主催のマルコム歓迎が、Dr.W.E.B.Du Bois(1868-1963)以来のものだった、との記述がある。1910年代、NAACPの創設に立ち会い、社会党のメンバーでもあった。彼がエンクルマの招きによってガーナを訪れるのがようやく1960年、ガーナ独立の1957年には、アメリカ政府がマッカーシズムの時代以来、パスポート発給を拒否していたからだ。1960年、ガーナの市民となり、三年後にそこで没することになる。
W.E.B. Du Bois

I don't trust the kind of whites who love having Negroes always hanging around them. I don't know-this feeling may be a throwback to the years when I was hustling in Harlem and all of those red-faced, drunk whites in the afterhours clubs were always grabbing hold of some Negroes and talking about "I just want you to know you're just as good as I am-" And when they got back in their taxicabs and black limousines and went back downtown to the places where they lived and worked, where no blacks except servants had better get caught.
The Autobiography of Malcolm X as told to Alex Haley
私は、いつも自分の周りにネグロを何人か取り巻きとして従えていたがるようなタイプの白人を信用しない。なぜだろう?この感覚は、きっとハーレムで危ない仕事をしていた頃の、あの、赤ら顔の、酔っぱらった白人たちのイメージが残っているからだろうな。営業の終わったクラブで何人かのネグロを捕まえて、「お前、俺たちと同じくらいいい奴なんだよ、それをわかって欲しいな」とかなんとか嘯いて見せる白人たち、そうして彼らは、タクシーか黒いリムジンに乗り込んで、彼らが住み、働くダウンタウンへと帰っていく、召使い以外の黒人の姿を見かけることさえないような街へ。
「マルコムX自伝―アレックス・ヘイリーの聞き書きによる」
メッカ巡礼の後、「ネイション・オブ・イスラム」と袂を分かち、Muslim Mosque Inc.さらに、Organization of Afirican-American Unity(OAAU)という組織を設立することになるのだが、それらの組織をall-black、黒人のみに加入を認める、という方針について述べた部分だ。もちろん、こんな一節に私が「反応」するのは、ここでの「白人―ネグロ」関係を、「『内地人(ないちゃー)』-沖縄人(うちなーんちゅ)」関係に、平行移動して投影してみるのはごくごく容易いことで、自分自身が、「沖縄人の『肩を持つ』」ような振る舞いをした瞬間に、その、酔っぱらった(笑)醜悪な赤ら顔の如きものが目に浮かび、羞恥を禁じ得ない、という経験を、ちゃんと持っているからヒットしただけのことで、誰かに当てこすりをしているわけでは、毛頭、ない、もちろん、そんな風に急いで否定して見せるのは、現に、「当てこする」つもりが、「無意識的」には、あったからに違いないのだが(笑)。一方で、「聖地」メッカにおいて、中東からアフリカ、アジアの様々なcomplexion、肌の色のムスリムたちの、ホスピタリティーに接した経験から、彼は、「白人」に対する認識を変え、「憎悪」の扇動家、としてのイメージを投げ捨てようとしている。すべての「白人」が「悪魔devil」な訳ではない、歴史において集合的にcollectively、白人が黒人に対して行ってきた事柄が、悪魔的devilishなのだ、と力点を変えようとしていく。そこで、以前にも引用したが、南部出身らしい白人の女子学生に、「私たちに何ができるでしょう?」と問われ、にべもなく「何もありませんNothing」と答えてしまったことを、ずっと後年になって、悔やんでいるのである。
When I say that here now, it makes me think about that little co-ed I told you about, the one who flew from her New England college down to New York and came up to me in the Nation of Islam's restaurant in Harlem, and I told her that there was "nothing" she couls do. I regret that I told her that. I widh that now I knew her name, or where I could telephone her, or write to her, and tell her what I tell white people now when they present themselves as being sincere, and ask me, on way or another the same thing that she asked.
The Autobiography of Malcolm X as told to Alex Haley
今こうして書いているとき、あのニュー・イングランドの大学からはるばるニュー・ヨークのネイション・オブ・イスラムのレストランに、私に会うためにやって来てくれた小さな女子学生のことを思い出すのだ。私は彼女に対して、あなたにできることは「何もない」と答えてしまった。そんなことを言ってしまったことを、今は後悔している。彼女の名前、あるいは、どこに電話したらいいのか、どこに手紙を出したらいいのか、がわかればいいのだが、とどれほど思ったことか。彼女に告げなければならない、今の私が、ちょうど彼女が尋ねてくれたのと同じ質問を、真剣に提起してくれる白人たちに答えている事柄を。
「マルコムX自伝―アレックス・ヘイリーの聞き書きによる」


もちろん、くどいが(笑)、そんなことに今・更・「興味」をもって、どうするのだ、とも言う(笑)。

「では、何がいけなかったのか?」
これ(↑)は、現下のベネズエラの情勢を伝えるアル・ジャジーラ記事なのだが、フーゴ・チャベスがその率いる政治運動の名称にも掲げている「ボリバル主義Bolivarista」とは、如何なるものなのか?以前から、気がかりであった。ガルシア・マルケスの「迷宮の将軍」(新潮社)は、この、ラテン・アメリカ統一の夢半ばにして倒れた革命家の、不遇の死の直前数か月を描いたものだ、と言うので、ちょうど読み始めていた。ハイチ革命に遅れること30年ばかりであろうか、それとのつながりも興味深かったことであるし。もちろん、くどいが(笑)、そんなことに今・更・「興味」をもって、どうするのだ、とも言う(笑)。
その後将軍はハイチ自由共和国の大統領アレキサンドル・ペティオン将軍の支援を受けて、はだしのリャネーロのゲリラ部隊を率いてアンデス山脈を越え、ボヤカー橋で王党派の軍隊を敗走させ、ふたたび、そして永遠にヌエバ・グラナダを、次いで生地のベネズエラを、さらに南部のブラジル帝国と国境を接している険しい山岳地帯を解放した。
・・・
あの土地に残っているものは貧窮にあえいでいた。中には生き延びるために新しい戦場を求めて去っていったものもいたし、全土にちらばっている数知れぬ解放軍の除隊兵にならって、追い剥ぎを働いているものもいた。将軍のもとにやってきたうちの一人がみんなの気持を代弁してこう言った。「将軍、われわれは独立を達成しました。次はなにをすればいいのですか?」以前誰もが勝利の美酒に酔っているときに、将軍は人々に自分の思っていることを正直に話すよう教えた。けれども今では、言われなくても彼らのほうから真実を語るようになっていた。
「戦いに勝ちさえすれば独立は達成できる」と将軍は言った。「しかし、これらの国々をひとつの国家にするためには、これからも大きな犠牲が必要になるだろう」
「犠牲なら、もういやというほど払ってきました、将軍」と彼らは言った。
将軍は一歩も譲らなかった。
「まだ足りない」と将軍は言った。「統一を実現するためには、気の遠くなるほど高い代償が必要なのだ」
「迷宮の将軍」ガルシア・マルケス(新潮社)
Simón Bolívar(1783-1830)
小説に登場するいくつかの地名を地図で(↓)。
マグダレナ川(コロンビア)
オンダ(コロンビア)


挨拶をそこそこに済ませると、さっそくきれいなスペイン語で百科全書的な博識をもとに講義をはじめた。グルノーブルの初等学校で同級だった友人が十四年間不眠不休の研究の末にエジプトの象形文字を解読したとか、トウモロコシはメキシコ原産だと言われているが、コロンブスがアンティーリャス諸島に着くよりも古い時代にトウモロコシの化石がメソポタミアで見つかっているので、本当はあのあたりが原産地だとか、またアッシリア人は天体が人間の病気に及ぼす影響に関する実験結果をすでに得ていた、あるいは新しく刊行されたある百科事典の記述は間違いで、ギリシア人は紀元前四百年前まで猫を知らなかった、といったことをとうとうとまくし立てた。
「迷宮の将軍」ガルシア・マルケス(新潮社)
物語は、「史実」とすれば、1830年4月27日、ということになるのだが、大統領を辞任、ヨーロッパへと「亡命」の旅に出発、しかし、同年12月17日、出国以前に結核で没することになる、その時期を描いていることになる。オンダ(Honda)という、現・首都ボゴタに近い町から、マグダレーナ川を船で下り、出港する予定であったカルタヘーナへ向かう。途上の街々で、元大統領にして独立英雄なのだから、住民の中にはもろもろのネガティブな感情もあるものの、どこでも歓迎の宴が催される。その情景に、既に死が近いことを悟っている将軍の、若き日の様々な回想を織り交ぜる形で進んでいく。これは、そんな宴の一つで同席したフランス人。「エジプトの象形文字」と言えば、そう、世界史の教科書にも載っていた、「ロゼッタ・ストーン」ではなかろうか?1822年フランス人ジャン=フランソワ・シャンポリオン(Jean-Francois Champollion,1790-1832)等によって解読された、ということだから、しかも、そのシャンポリオンを調べてみると(笑)、確かにグルノーブルの高等学校を出ていることが判った(笑)、もちろんガルシア・マルケスが某pediaを「ワンクリック」で済ませた(笑)はずがなく、膨大な資料を渉猟して、こんな風にちゃんと史実に合致した、「本当らしい」物語に仕立て上げていることに、改めて驚くのである。トウモロコシ(イネ科)は、メキシコ、グアテマラに自生する近縁種から選抜育種されたとされる。ブラジルのキャッサバ(トウダイグサ科)を除けば、古代南北アメリカ大陸の主要穀類であった。クリストファー・コロン(コロンブス)がカリブ海の島から持ち帰ったことから、ヨーロッパへ伝搬した。これ以前に、ユーラシア大陸にも原種があったとする研究はいくつかあるようであるが、某ペディアによる限り、現時点では、メソポタミア説はなさそうである。コロンブスが最初に上陸した島は、バハマのサン・サルバドル島と言われていて、キューバ、ハイチ、ドミニカ共和国、プエルト・リコ、ジャマイカなどとともに「大アンティール諸島」を構成している。プエルト・リコより東側、南米大陸に向かって並んでいるのが「小アンティール諸島」。Antillesの綴りは英語読みすれば「アンティーレス」となるはずだが、日本語はこれを「アンティール」にしているのだろう。フランス語なら「アンティーユ」、スペイン語ではAntillasと綴るようであるから、確かにガルシア・マルケスの翻訳としては、「アンティーリャス」で相応しいのである。こんなに何か国語もの読み分けが必要なのは、この地域が、独立国である場合も依然として植民地である場合も、先住民、ヨーロッパ植民者、ヨーロッパ植民者がアフリカから連行してきたアフリカ人奴隷、それぞれの末裔が様々な割合で、居住し、したがって公用語とされる言語もほとんど島・ご・と・に・区々、と言ってもいいほどだからなのだろう。アッシリア人と天体に関する話には、何の蘊蓄も思い浮かばないので(笑)パス、もちろん最初にこの部分に目が留まったのは、「古代ギリシア人は猫を知らない」の部分である。前にも、「十二支」に猫がいない理由、「釈迦入滅図」に猫が描かれない理由、について考察(笑)したときに書いたが、エジプトで、リビヤヤマネコかもしれない原種が穀物倉庫の番人として「家畜化」されたのが今から四千年前、と言われるから、その習慣とともに、イエネコそのものが「伝播」するには、それぐらいの時間がかかることもあり得よう。

大アンティール諸島

小アンティール諸島
「そういうわけですから、なにもあなた方から自分たちの取るべき行動についてお教えいただく必要はないのです」と結んだ。「いかに生きるべきかを教えていただかなくても結構です。それにわれわれも同じ人間だと認めていただく必要もなければ、自分たちが二千年もかかってまずいやり方でなしとげたことを、われわれがわずか二十年でやってのけたとお褒めいただく必要もありません」
将軍は料理皿の上にナイフとフォークを交錯させておくと、そのときはじめて燃えるような目でフランス人をじっと見つめた。
「われわれは今、自分たちの中世を生きています。ですからそっとしておいてください」
「迷宮の将軍」ガルシア・マルケス(新潮社)
食卓で、その博識なフランス人が、調子に乗って、植民地主義者に典型的な、アロガントでパターナリステックな評言を口にしたのに対して、当然にも(笑)、将軍は「キレた」のである。
カリキアート風呂というのは、暗紫色のランタナの花を風呂に入れ、それで悪運を払おうというもので、当時ベネズエラで流行していたが、将軍は二度目にパリを訪れるまで、そのようなものがあることを知らなかった。科学者らしく聞く者を不安におとしいれるほど真剣な口調で、効験あらたかなあの花のことを話したのは、フンボルトの共同研究者エメ・ボンプラン博士だった。
「迷宮の将軍」ガルシア・マルケス(新潮社)
アレクサンダー・フォン・フンボルト(Alexander von Humboldt,1769-1859)、ドイツの博物学者、地理学者、探検家、チリ北部及びペルーに住むフンボルトペンギン、別名ペルー海流、南アメリカ大陸西岸を北上するフンボルト海流、はこの人に由来する命名である、確かに、パリ滞在中のシモン・ボリバルと親交があった、との記述が、某ペディアには(笑)、ある。ランタナは、クマツヅラ科の栽培植物で、さまざまな色合いに改良されたものが、道路わきなどに植栽されているし、多くは逸出して野生化し、当地でも、どこの草叢でも発見できるほどだ。有毒植物のようで、だからこそ、「薬効」もありそうな気もするが、やはり某ペディアを瞥見する限り(笑)、風呂に入れる、という用法は見つからなかった。クマツヅラ科は、verbenaと呼ばれ、確か、水村美苗「母の遺産」で主人公がパリ留学中、カフェで「くまつづらのお茶・バーベナ」を好んで飲んだ、という一節があったな。


不注意な散歩者には見つけられないだろう、もっとも、普通は、見つける「必要」がないのだが(笑)。
イギリスの通貨単位「ポンド・スターリンpound sterling」wikipedia英語/wikipedia日本語
Before decimalisation, the pound was divided into 20 shillings and each shilling into 12 pence, making 240 pence to the pound. The symbol for the shilling was "s."—not from the first letter of the word, but from the Latin solidus. The symbol for the penny was "d.", from the French denier, from the Latin denarius (the solidus and denarius were Roman coins). A mixed sum of shillings and pence, such as 3 shillings and 6 pence, was written as "3/6" or "3s. 6d." and spoken as "three and six" or "three and sixpence" except for "1/1," "2/1" etc., which were spoken as "one and a penny", "two and a penny", etc.). 5 shillings, for example, was written as "5s." or, more commonly, "5/–". Various coin denominations had, and in some cases continue to have, special names—such as crown, farthing, sovereign and guinea.
(1971年に)十進化される前は、1ポンドは、20シリング、1シリングは12ペンス、都合1ポンド240ペンス、となっていた。シリングの記号は「s.」-その言葉の語頭の字によるのではなく、ラテン語の「solidus」、ペニーの記号は「d.」、フランス語の「denier」、または、ラテン語の「denarius」にそれぞれ由来する。これらは、ローマ時代の硬貨の名称である。シリングとペンスの混合表記は、たとえば3シリング6ペンスなら、「3/6」と書き、「three and six」または「three and sixpence」と発音される。ただし、「1/1」、「2/1」等はそれぞれ「one and a penny」、「two and a penny」等と読む。例えば5シリングは、「5s.」と書かれ、または、より一般には、「5/-」と書く。様々な価額の貨幣がかつて存在し、今もいくつかは残っており、それぞれ特別な名称を持っている、たとえば、「クラウン」、「ファーシング」、「ソブリン」、「ギニー」など。

「不思議の国のアリス」の帽子屋の帽子には10/6と書いてある。10シリング6ペンスと読むことになり、1ポンドが20シリング、1シリングが12ペンスであるからポンドを基準に10進法化すると0.55ポンド、と言うことになる。よし(笑)、準備は出来た。ではご一緒に(笑)ジョージ・オーウェル「パリ・ロンドン放浪記Down and Out in Paris and London」ロンドン・イースト・エンド編、をたどろう。
... and I had exactly nineteen and sixpence in hand.
...I went to a ‘family’ hotel, where the charge was seven and sixpence. After paying the bill I had ten and twopence in hand.
Down and Out in Paris and London/Goerge Orwell(kindle)
・・・ポケットにはきっちり十九シリング六ペンスしかないのだ。
・・・一泊七シリング六ペンスの民宿に泊まった。その料金を払うと、手元には十シリング二ペンスしか残らなかった。
「パリ・ロンドン放浪記」ジョージ・オーウェル(岩波文庫)
ロンドン到着時の所持金が19/6、ホテルの支払が7/6、ならば残高は12シリングちょうどと思いきや、10/2とあるから、1シリング10ペンス減っている、貨幣価値が想像つかないが、これは最初の日、当てにしていた就職先が、一月後でないと駄目と言われ、呆然として、このときはまだ貧窮者用の宿泊施設など知らないから、「普通の」ホテルに泊まった、というニュアンスと思われるから、今の日本の感覚で、あ、私には既にそれもないか(笑)、ビジネスホテル一泊5000円位なのか?当時の7.5シリングがそれに当たるとして、
5000×(1+10/12)÷7.5=5000×(11/6)×(2/15)=1000×(11/3)×(1/3)=1000×(11/9)
、減少分は1200円と言うところか?ベビースモーカーのようだから、タバコを買ったのか、イギリス人だし(笑)、二時間に一度の紅茶とバタ付きパンは欠かせない、とも書いていたし、カフェで使ったのだろうか、なるほどともかく、1シリングが約700円、ならば1ポンドは約一万五千円という見当で読み進もう。つまりこの人は、手元に一万五千円弱で路頭に放り出され、あと一月をなんとか生きなければならない、以前読んだときは、数字の部分は読み飛ばしていた、調べてみるものだな(笑)、「切迫」さが全然違う。「無年金者」(笑)の私は、あと数年、不幸にも生き延びてしまったなら、間違いなく「路頭に迷う」のである(笑)、「共感を持って」書物を読む、とは、そういうことだ、「貧しさ」の「身体感覚」を得るには、正確な「計算」を要するのである。
放浪生活開始に当たって、彼はまず、荷物を駅に預け、一番上等のスーツだけはとっておいて、これはいつかチャンスが舞い込んだときに、「就職面接」に必要だからだ、二番目以降の衣類を古着屋rag shopに売って、安物の衣類に替えた上で、現金を作ろうとした。貧しくてそんな店が多いと、選んだのがランベスLambeth、以下に地図を掲げるが、早速「イースト・エンド」かと想像していたが、はずれ、南ロンドンのようである。
ランベスLambeth(googlemap)
そんなに悪くないスーツだったので、ぼろ切れのような古着に替えても1ポンド位のお釣りはあるだろうと踏んでいたが、店主は「安物だな」と値切り、1シリングしか出さなかった。英語版ではA SHILLING、と、大文字で(笑)書かれている。その晩、ウォター・ルー通りに立っていた「土工」風の男に教えてもらった「独身者向き」宿泊所の料金は1シリング、なるほど、これは飛躍的に安くなった。
Waterloo Rd(googlemap)
その宿、ずいぶん不潔で居心地が悪いと文句をつけているが、後には、そういう宿屋としては平均的なものだと知ることになる、その宿屋を出て翌朝、
I crossed the river and walked a long way eastward, finally going into a coffee-shop on Tower Hill.
Down and Out in Paris and London/Goerge Orwell(kindle)
わたしはテムズ川を渡って延々と東へ歩き、さいごにはロンドン塔のあるタワーヒルのコーヒー・ショップに入った。
「パリ・ロンドン放浪記」ジョージ・オーウェル(岩波文庫)
彼は東に向かって歩き始める。ロンドン塔の東側が「イースト・エンド」の筈だから、まもなく(笑)である。
Tower Hill(googlemap)
The tea-and-two-slices cost threepence halfpenny, leaving me with eight and twopence.
タワー・ヒルのコーヒーショップで、紅茶とバタ付きパンと注文してウェイトレスの小さな女の子に、バターはない、マーガリンしか、と訝しがられ、それが3ペンス半ペニー、そう言えば中学の英語の授業で習った(笑)、penceはpennyの複数形なのだ、とすればシリング基準でいうと、3.5÷12≒0.3、二百円位、なるほど妥当ではないか?さて初日、ホテル支払い後10/2、古着屋で1シリング得て、その晩の宿泊にちょうど1シリング、そしてこのコーヒーショップの出費で残高8/2とは、またしても使途不明金(笑)が1.7シリングばかり生ずるが、まあ、よしとしよう。その8ペンスはthree days and four nights三日と四晩、もった、とある。「ウォター・ルーの苦い経験から」もっと東のPennyfieldsに「typical lodging-house典型的な安宿」、を求める。確かにずいぶん東だ、ホワイトチャペル等も過ぎてしまった、と言うことは、彼はこの日「イースト・エンド」を横切った訳である。
Pennyfields(googlemap)
料金はベッドとベッドの間の距離の広狭にしたがって1シリングまたは9ペンス、9÷12=0.75シリングということだ、の二種類、階下には宿泊者が交代で掃除などをすることになっている共同炊事場があり、筆者はこれを「気に入った」と書いている。テムズ川の北側、「左岸」になるだろうか、という場所柄か、客は港湾労働者stevedoreが多いようである。この宿舎には老人も多く、週1シリングの老齢年金で暮らす者の支出の内訳を尋ねたりしている。私事だが(笑)、私の場合、年金保険料支払い期間が満額支給となる場合の25年よりはるかに短いのだが、それでも確か(笑)、年間一万円位は貰える話だった記憶がある、52週で割り算すれば、二百円弱、あれ、そんなに変わらんじゃないか。前世紀初頭の、鳴り物入りの「福祉国家」のお話である。この日、彼は、「東はワッピング、西はホワイトチャペル」まで、歩き回っている。地図で見る限り、二つの街は南と北に並んでいるように思えるが、いずれにしても、いよいよ「イースト・エンド」のようである。
St Katharine's & Wapping(googlemap)
(「イースト・エンド」放浪の旅は、まだまだ続く…)




薄青紫の花が、朝開き、昼頃には萎れて白く色が抜け、そして落ちる。寝過ごしたのでもうそうなっているけれど、今季初めての、タチイヌノフグリ(ゴマノハグサ科)。直径二ミリくらい、不注意な(笑)散歩者には見つけられないだろう、もっとも、普通は、見つける「必要」がないのだが(笑)。



タチイヌノフグリ(ゴマノハグサ科)
老眼でなくても、撮っているときは決して見えていないもの、ウシハコベ(ナデシコ科)の葉裏に密生する毛、アメリカフウロ(フウロウソウ科)の咢の先端の紅、マツバゼリ(セリ科)の果実の皺、オオバコ(オオバコ科)の雌蕊の先。

ウシハコベ(ナデシコ科)

アメリカフウロ(フウロウソウ科)

マツバゼリ(セリ科)

オオバコ(オオバコ科)
下を向くのは頭が重過・ぎ・る・のだろう、と人は考える、とんでもない、下を向くことが「進化的」に「選択」され、生き延びてきたのだ。住宅地の道路わきに仰向きに寝転んで仰角撮影、「不審者」もしくは「行き倒れ」として通報される前に素早く立ちあがって退散。ベニバナボロギク(キク科)



ベニバナボロギク(キク科)


要領を得た説明、かどうかは知らないが、こういう物言いは、私は(笑)、好きだ。
「ファシズム」の根本原理に、ウィトゲンシュタインに倣って、「遊戯」の根本原理に生じる事象を重ねてみましょう。遊技は、競争の有無、競技者の数、特殊技能の要不要、賭け金の有無によって左右されるものです。どんな遊戯も、何らかの「同族の類似性」のみを示す一連の多様な行動なのです。
1・・・・・・a b c
2・・・・・・b c d
3・・・・・・c d e
4・・・・・・d e f
一連の政治集団が存在すると仮定しましょう。集団1は要素abcを特徴とし、集団2は要素bcd、以下同様に三つの要素を特徴に持つとします。2は二要素が共通する点で1と似ています。3は2に、4は3に、同じ理由で似ています。さて3が(要素cを共有するため)1にも似ていることに注目してください。最も興味深い例は4によって提示されています。4が3と2に似ていることは明らかですが、1とは共通する特徴はまったくありません。ところが1から4にいたるまで連続して類似性が減少していくために、一種の段階的移行が起きているような錯覚が生じ、1と4が同族であるかのように思えてくるのです。
「ファシズム」という用語は、ファシズム体制から一つもしくは複数の要素を除外しても、その体制をファシスト的であると認める支障は生じないために、あらゆる場合に適用可能なのです。ファシズムから帝国主義を除けば、フランコかサラザールになるでしょうし、植民地主義を除けばバルカン諸国のファシズムになるでしょう。イタリア・ファシズムに(一度たりともムッソリーニが魅力を感じたことのない)急進的反資本主義を加えれば、エズラ・パウンドになるでしょう。・・・
「永遠のファシズム」ウンベルト・エーコ(岩波現代文庫)
さすが記号学者、エーコ、要領を得た説明、かどうかは知らないが(笑)、こういう物言いは、私は(笑)、好きだ。確かに、「ファシズム」という言葉は不思議だとは思っていた。第二次世界大戦は、場合によると「反ファシズム戦争」と性格づけられた。「本家」イタリアは、最も早く1943年に敗北、「枢軸」から「連合」に鞍替えしていたにもかかわらず、あたかも、イタリア・ファシズム、ドイツ・ナチズム、日本・軍国主義、・・・等を「統合」する上位概念であるかの如くである。スペインのファランヘ党に対しても、上に挙げてあるもので言えば「バルカン諸国のファシズム」の一つとしては、クロアチアのウスタシヤが思い浮かぶが、それから、ポルトガルのサラザールの国家連合党(National Union)にしても、とりわけそれを罵倒するときには、「ファシスト」という。さらには、トロツキストのことを、左翼反対派のことを、「ファシストの手先」と、スターリニストが名指し、スターリニストに向かって今度は、お前たちこそファシストだ、と言い返す、つまり、中身がはっきりしていない、あいまいで広い概念だから、こんな「便利」な使われ方がされてしまう。
アントニオ・サラザール(1889-1970)、1926年のクーデターで政権掌握、カトリック教会と協定を結び、ナチスなどの他の「ファシスト」政権は、「異教的」として距離を取った。彼の死後、1974年、青年将校らによる「カーネーション革命」により、独裁体制が終結、新政権の多分に「理想主義的」政策により、直ちに独立したアンゴラ、モザンビーク、東チモールなどの植民地は、その後多年にわたる「内戦」を経験することになる。
Antonio Salazar
スペインのファランヘ党(Falange Española de las Juntas de Ofensiva Nacional Sindicalista/Spanish Phalanx of the Councils of the National Syndicalist Offensive)、1934年にプリモ・デ・リベラを党首として結成、以下のwiki記事によれば、1:王党派の保守主義、2:権威主義的カトリシズム、3:「急進的・国家・労働組合主義」、及び、4:プリモ・デ・リベラのエリート主義的「regenerationarism」、「刷新主義」とでも呼ぼうか、の四つを源流としている、とのこと。1936年の選挙で、人民戦線が勝利、これに対するクーデターとして「内戦」が始まると、共和国の獄中にあったリベラに代わってフランコ(1892-1975)が、ブルボン王朝派伝統主義者Carlistを統合して、広範なナショナリスト戦線を構築。1977年解散。
スペイン語のfalangeは多分、英語のphalanxにあたるのだろう、「密集部隊」のような意味で、ファランヘ党のエンブレムは、毛利元就ではないが、五本の束ねた矢をあしらっている、「束ねると、強い」の含意で、これはイタリア語のfascio、「束」と同じ意味だから、語源はどうかわからないが、ファシストもファランジストもともに「結束党」みたいな訳語になってもおかしくはなかった。この長い党名を日本語訳してみると、「国家組合主義者の行動委員会・スペインの結束」とでもなろうか、それにしてもナチスが「国家社会主義労働者党」であったように、この党が、「国家・サンジカリスト」を名乗っていることを初めて知り、奇異の感に打たれる、「内戦」における当の「敵」の主要部分が、アナルコ・サンジカリスト(無政府主義的労働組合主義者)であっただけに。
Falange Española de las Juntas de Ofensiva Nacional Sindicalista
ムッソリーニ(1883-1945)、1912年イタリア社会党(Italian Socialist Party/PSI)の要職にあったが、第一次世界大戦への参戦を主張して除名、1922年、前年に、創立された国家ファシスト党(Partito Nazionale Fascista,PNF/National Fascist Party)を率いて首相に選出される。秘密警察の活動、労働組合のストライキ権剥奪等を通じて一党独裁体制を構築、以降1943年まで続く。1929年ラテらの条約でカトリック教会と和解、ヴァチカン市の独立を認める、1935‐1936年第二次イタリア・エチオピア戦争、ナチス・ドイツのみがこの侵略戦争を支持したことから、ヒットラーに接近、1936年オーストリアをドイツの影響圏に譲り、ベルリン―ローマ枢軸を構築、1936年から1939年のスペイン内戦においては、大量の軍事援助をフランコ派に与えた。1939年、ナチス・ドイツ、ポーランド侵攻、フランス、イギリス、宣戦布告、第二次世界大戦開始、1940年、イタリア、枢軸側で参戦、同年ギリシャへ侵入、しかし反撃を受けアルバニアまで撤退、北アフリカでもイギリスに敗北、1941年ソ連に侵攻、1943年アメリカ合衆国に宣戦布告、赤軍による反撃、北アフリカ戦線での枢軸側の崩壊、1943年7月、連合国シチリア上陸、これを見てファシスト協議会(Grand Council of Fascism)、ムッソリーニへの不信任決議、これを受けてイタリア王はムッソリーニを国家主席から解任、収監される。同年9月イタリア王は連合国と休戦協定を結ぶ。ムッソリーニは、侵入したナチス親衛隊のコマンドにより救出され、北部イタリアのナチ傀儡政権「イタリア社会共和国Itarilian Social Republic/サロ共和国Salo Republic」の代表に据えられる。1945年4月、スイスへ向かって逃亡を図ったが、共産党パルチザンにより逮捕、処刑される。
エーコの「永遠のファシズム」の最終章は、ローマでユダヤ人を虐殺した容疑の、82歳の老人への裁判を話題にしている。とすれば、これは、イタリアが既に「枢軸」側でない状態にあるときに、不法に他国に侵入した「私兵」としてのナチ親衛隊SSの指令下の行動ということになり、なるほど、法律的にも複雑な問題を提供することになるのだろう、もとより、エーコが問題にしているのは、既に「連合国」側に「鞍替え」していた時期であったことを理由に、ファシスト国家としての自らの戦争責任を不問に付してしまいかねない傾向に対する「倫理上」の問題なのであるが。
Benito Mussolini
そして、エズラ・パウンド(Ezra Pound,1885-1972)、アメリカ生まれの詩人、ロンドン、パリ、を経て、1924年イタリア移住、ムッソリーニのファシズムを熱烈に礼賛、ヒットラー支持を表明、戦争中は、反米、反ルーズベルト、反ユダヤ主義のラジオ放送を担当し、1945年アメリカ占領軍に逮捕され送還、国家反逆罪で起訴されるも、精神錯乱を理由に無期刑を免れ、精神病院に収監される。近年の精神科医の見解によれば、自己愛性人格障害の特徴は見られるものの、責任無能力の段階とは言えなかった、とも言われる。数多の支持者の嘆願により、大幅に自由を認められた病室でサロンの如きものを運営、クー・クラックス・クラン(KKK)や、ネオ・ナチ、白人優越主義者の訪問を受けた、と言われている。
Ezra Pound


私たち「も」また「世界」の何処にでもある、そんな「前線」にいるのだと思えば、少しは気も晴れる(笑)。
(承前)It was interesting to watch the crowds. The East London women are pretty (it is the mixture of blood, perhaps), and Limehouse was sprinkled with Orientals — Chinamen, Ghittagonian lascars, Dravidians selling silk scarves, even a few Sikhs, come goodness knows how.
Down and Out in Paris and London/Goerge Orwell(kindle)
行きかう人を見ているのは、おもしろかった。イースト・エンドの女たちはきれいだし(混血のせいかもしれない)、ライムハウス辺りでは東洋人の姿まで混じっている―中国人、バングラデシュの港町チッタゴンの水夫、絹のスカーフを売っているインドのドラヴィダ人、それどころか、どうやって来たのか、少数ながらシク教徒までいた。
「パリ・ロンドン放浪記」ジョージ・オーウェル(岩波文庫)
いよいよイースト・エンドの「移民の街」らしさが描かれる。Ghittagonianは誤植ではないかと思う、語頭がCなら、現バングラデシュのチタゴン地方、岩波文庫の訳文もそうなっている。lascarsは「東インドの船員」とのこと。シーク教徒について、特に「どうやって来たのか」と疑問を呈している理由は、興味深いが、わからない。
Limehouse(googlemap)
Chittagon/Bangladesh(googlemap)
ジョージ・オーウェルは1922年から1927年まで警察官として当時英領インドの一部だった、ビルマに滞在したことがあり、あとの方でもインド系らしい浮浪者仲間にウルドゥ語で話しかける場面があるから、ここでも、チタゴン人、ドラビタ人、シーク教徒を見分けられたとしても不思議はないかも。
In the East India Dock Road the Salvation Army were holding a service.
Down and Out in Paris and London/Goerge Orwell(kindle)
東インド・ドック・ロードでは救世軍のお祈りの最中で、
「パリ・ロンドン放浪記」ジョージ・オーウェル(岩波文庫)
E India Dock Rd(googlemap)
Tower Hill(googlemap)
イースト・インド・ドック・ロードでは救世軍が施しをしていて、タワー・ヒルでは無神論者らしき男が二人連れのモルモン教徒に喰ってかかっている。救世軍は、イースト・エンドで発祥した慈善団体なのである。
William Booth began his Christian Revival Society in 1865, preaching the gospel in a tent erected in the Friends Burial Ground, Thomas Street, Whitechapel. Others joined his Christian Mission, and on 7 August 1878 the Salvation Army was formed at a meeting held at 272 Whitechapel Road.(Wikipedia)
ウィリアム・ブースト、彼の率いるキリスト教再生教会は1865年に、フレンズ・ベリアル・グラウンド、トーマス街、そしてホワイトチャペルに建てたテントで福音を説き始めた。他にも協力者が現れて、1878年8月7日、ホワイトチャペル街272での会合で、「救世軍」が発足することになった。
フレンズ・ベリアル・グラウンドは「友の埋葬地」の意だが、そのような名称の墓所はいくつもあり、特定できない。「救世軍」The Salvation Armyはメソジスト派に由来するプロテスタント、とのこと、例の某ペディアによれば(笑)。
Whitechapel(googlemap)
When my money was down to one and fourpence I went for a night to a lodging-house in Bow, where the charge was only eightpence.
Down and Out in Paris and London/Goerge Orwell(kindle)
持ち金が1シリング4ペンスまで落ちた私は、ボウ街で一夜の宿を求めた。そこの料金はたった8ペンスだった。
「パリ・ロンドン放浪記」ジョージ・オーウェル(岩波文庫)
ボウ街は、上の地図でいうとライムハウス、ペニーフィールズの字の上のほうに四角い緑の辺り。上で想定した「換算レート」(笑)に従う限り8ペンスとは、700÷12×8≒400、確かに、安い。
ボーBow(googlemap)
In the morning after paying for the usual tea-and-two-slices and buying half an ounce of tobacco, I had a halfpenny left.
...
I had very little idea how to set about this, but I knew that there was a casual ward at Romton, so I walked out there, arriving at three or four in the afternoon.
Down and Out in Paris and London/Goerge Orwell(kindle)
朝になって定食の紅茶とパン二切れの代金を払い、タバコを2オンス買うと、あとは半ペニーしか残らなかった。
・・・
手がかりはないにひとしかったけれども、ロムトンに浮浪者臨時宿泊所があることは知っていたので、そっちへ歩き出すと、午後の三時か四時には着いた。
「パリ・ロンドン放浪記」ジョージ・オーウェル(岩波文庫)
casual wardは後に出てくるspikeと同義のようで、岩波文庫の訳文では「浮浪者臨時収容所」。ロムトンという地名は発見出来なかったが、ボー外の宿を出て、朝からずっと歩いたのだとしたら、相当遠く、もうロンドンを離れてしまったかもしれない。
‘By God,’ he said, ‘dere’s sixpennorth o’ good baccy here! Where de hell d’you get hold o’ dat? YOU ain’t been on de road long.’
Down and Out in Paris and London/Goerge Orwell(kindle)
これはそこ、ロムトンのスパイクで知り合ったアイルランド人の老人の台詞、baccyは辞書にものっていて、タバコ、
There is six pennce worth of good baccy here.
ということなんだろうな。岩波文庫の訳文はこんな感じ、・・・。
「すげえ、こりゃ六ペンスもするタバコじゃねえか!おめえさん、こんなもん、どこで手に入れなすった?まだ旅に出てからいくらもたっちゃいめいに」
「パリ・ロンドン放浪記」ジョージ・オーウェル(岩波文庫)
ちなみにこの老人は、タバコは常に吸い殻を拾うのであり、決して買わない。ロムトンの「スパイク」を出て、そこで支給された翌日の昼食の食券がIlfordのコーヒーショップを指定している。「スパイク」には一泊しか許されないので、浮浪者たちは延々と徒歩で旅をする。もうロンドンをだいぶ離れてしまった。イルフォードは、上の地図の右上橋をすでにはみ出し、そこから目算5キロばかり東北東の町。
イルフォードIlford(googlemap)
We tried two churches and found them locked. Then we tried a public library, but there were no seats in it. As a last hope Paddy suggested trying a Rowton House; by the rules they would not let us in before seven, but we might slip in unnoticed. We walked up to the magnificent doorway...
Down and Out in Paris and London/Goerge Orwell(kindle)
教会を二つ当たってみたが、どちらも鍵がかかっている。そこで公立図書館へ行ってみても、ここにも座席はなかった。最後の希望として、ロウトン・ハウスへ行ってみたらどうだろうとパディが言う。規則では七時まで入れないけれども、こっそりしのびこめるかもしれない、というのだった。われわれは堂々たる入り口まで歩いていくと・・・
「パリ・ロンドン放浪記」ジョージ・オーウェル(岩波文庫)
パディというのは、ロムトンのスパイクで知り合い、後に旅に「同行」することになる失業家具職人の一人。ロウトン・ハウスは、「ヴィクトリア朝時代の博愛主義者ロウトン卿Victorian philanthropist Lord Rowton」がロンドン各所に運営した慈善宿泊施設。では「ビクトリア朝時代」とは、いつか?ヴィクトリア女王の治世は、1837年から、1901年、とのこと、なるほど。
ジョージ・オーウェルは、ビルマ、現ミャンマーでの植民地警察官を辞して1928年パリ、続いて1929年暮れ、イギリスに帰ってくる。「パリ・ロンドン放浪記」が出版されるのが1933年、そして、1936年の暮れに内戦のスペインに向かい、1937年初めにアラゴン戦線、同年4月にバルセロナに戻って「バルセロナ・メイデー事件」と呼ばれることになる親ソ派共産党PSUCと、アナキストCNT/「トロツキスト」POUM間の武装党派闘争を目撃することになる。
May Days
ふたたびアラゴン戦線に戻るや否や、のどに貫通銃創を受け、レリダの病院で奇跡的に回復、既に「トロツキスト」として、逮捕の恐れがあったため、1937年7月スペインを脱出、イギリスに帰ってくる。
George Orwell
だが、その話は、また「カタロニア賛歌」を読み直してからにしよう。



早朝大雨、じゃあ「そんなこと」しなくても早く帰れる?残念、九時頃からみるみる晴れ。「道路滑るから気を付けて!わかってるでしょ?」刑事ものドラマの「ジーパン」とかあだ名付いてそうな若い警官。にこやかにお返事(笑)。帰路「田芋」水田、





カルガモ(カモ科)



アオアシシギ(シギ科)



タカブシギ(シギ科)

ハシブトガラス(カラス科)
どんな「戦争」でも「敵」との「対話」が成立する。そうでなければ「戦争」を「終わらせる」ことが原理的にできないからね。私たち「も」また「世界」の何処にでもある、そんな「前線」にいるのだと思えば、少しは気も晴れる(笑)。同じく「田芋」水田、



アマサギ(サギ科)、翼の先のほうが、少し「亜麻色」のようだから。


こちらは、ダイサギ(サギ科)と、カルガモ(カモ科)

コサギ(サギ科)と、カルガモ(カモ科)

ダイサギ(サギ科)と、コサギ(サギ科)

ハクセキレイ(セキレイ科)、珍しく、電線に群れを成してとまっていた。一斉に畑に降りてエサを探す、あるいは、北への渡りの準備なのかと思う。これはたぶんメスと思うが、曇り空のせいもあるが、こうして下から見上げると、黄色っぽく見える。
「田芋(たーんむ)」、水耕サトイモ(サトイモ科)を当地ではそう呼ぶが、水豊かな河口デルタは水鳥の楽園であり、また畔には「雑草」が恣(ほしいまま)にはびこる。春の七草の一つ、ホウコグサ(キク科)、きっと此処にはある、とやって来たら、やっぱり咲いていた。



ホウコグサ(キク科)

もう一つ七草、セリ(セリ科)

イヌタデ(タデ科)、別名「赤まんま」

ダンダラテントウ(テントウムシ科)、ノゲシ(キク科)

ノゲシ(キク科)

ほら、やっぱり、イソヒヨドリ(ツグミ科)には、「有刺鉄線」がよく似合う(笑)、のだ。今度はオス。

見逃したら来年まで見られない、来年まで生きてるかわからない(笑)、と心配になるのだった。
It was interesting to see the subtle way in which he disassociated himself from ‘these here tramps’. He had been on the road six months, but in the sight of God, he seemed to imply, he was not a tramp. I imagine there are quite a lot of tramps who thank God they are not tramps. They are like the trippers who say such cutting things about trippers.
Down and Out in Paris and London/Goerge Orwell(kindle)
彼が自分と「こういう滓」とを微妙に差別するやり方を見るのは、興味深かった。すでに半年放浪生活を送っているというのに、神の目から見れば自分は浮浪者ではない、と言いたいらしいのである。おそらく、自分が放浪者ではないのを神に感謝している放浪者はかなり大勢いるのだろう。自分も同じことをしていながら、日帰りで行楽に行く人間を辛辣に嘲笑する手合いみたいなものである。
「パリ・ロンドン放浪記」ジョージ・オーウェル(岩波文庫)



ジョージ・オーウェル「パリ・ロンドン放浪記」を読み直し始めたのは、IS●IL兵士の帰還問題を伝えるアル・ジャジーラ記事が、そのバングラディッシュ系イギリス人少女の育った地域として、イースト・エンドに注目していたからだった。同じくオーウェルの「カタロニア賛歌」を読み直すことになったのは、古本屋で「ジュリア」(フレッド・ジンネマンFred Zinnemann監督、1977)を安く手に入れたのがきっかけで、リリアン・ヘルマンの自伝三部作を読み、ヘミングウェイらとともに、内戦時のスペインに滞在していることを知ったからだった。そこで、ついでに、ということで、「スペインの短い夏」H.M.エンツェンスベルガーHans Magnus Enzensberger(晶文社)、これは一年ほど前、何がきっかけで注文していたものか忘れたが、読まずに放っておかれていたものを、読み始めた。ブエナヴェントゥーラ・ドゥルティという伝説的なアナーキスト指導者の事跡を膨大な資料の再構成で綴ったものだが、私はこれを大学生の頃に、一度、もちろん斜め読みではあるが、読んでいる。「ニュー・レフト」系のメディア論の論者として、エンツェンスベルガーは当時、70年代末、「鳴り物入り」だったのだ。「斜め読み」しかできなかったのも無理はない、と今にして思う。引用されている数多の人物が、何者、ありていに言えば、どのような政治的潮流に属しているか、をある程度つかんでいなければ、何が語られているのか、一向に読めなかったとしても仕方がない、こればかりは、「いい時代」になったもので(笑)、今や、スマホ片手に、人名が出てくるたびに某ペディア、特に英語版を手繰ってみれば、七割がたは調べがつくのだからね。そんな訳で、またしても、おびただしい「出会い」があったので、まず、その紹介から始めよう。

ときどきぼくは耳を疑うことがある。社会主義統一党PSUCの代表者たちがきょう、スペインに革命などはない、とぼくに明言したのだ。きょうぼくはそのひとびととかなり長く議論したのだが、かれらは昔からのカタロニアの社会党員・・・ではなくて、外国から来た共産党員である。・・・コミュニストは最近十五年間、世界のいたるところで、現実には革命情勢が少しもありえないところに革命情勢を発見してきた・・・のに―それなのに、ここのコミュニストたちは、一九一七年のロシア革命以来ヨーロッパで初めて革命が爆発した場所にいながら、生起したことを知覚していないのである。
フランツ・ボルケナウ
PSUC:Partido Socialista Unificado Catalunaカタロニア統一社会党
フランツ・ボルケナウFranz Borkenau(1900-1957)
ウィーン生まれ、1921年、ドイツ共産党入党、以降1929年まで、コミンテルンのエージェントとして活動。1929年脱党。フランクフルト社会科学研究所Institute for Social Research in Frankfurtの研究者。1936年12月から、二か月間にわたって内戦下のスペイン、マドリッド、バルセロナ、バレンシアを訪れる。ソ連秘密警察NKVD、スペイン共産党の振る舞いに幻滅を覚えた、とある。翌1937年1月再びスペインに滞在した際、警察に逮捕され拷問を受ける。その経験がThe Spanish Cockpit (1937)に結実、日本語訳は三一新書から、「スペインの戦場(1966)」。

その後にも幾度か、ぼくはドゥルティのところへ出かけた。かれの軍団は一万人を数えていた。ドゥルティは一貫してかれの理念をかたく信じていたが、教条主義者ではなかったし、毎日のように現実にたいして多少の譲歩をせざるをえなかった。規律抜きでは戦争ができないことを理解したアナーキストは、かれが最初だった。「戦争はいやらしいものだな」、とかれは切実にいった、「戦争は家々をぶちこわすだけでなく、最高の原則までも破壊する」むろんこういった考えを、かれは部下たちには洩らさなかった。
イリヤ・エレンブルク
イリヤ・エレンブルクIlya Ehrenburg(1891-1967)
キエフ生まれ、リトアニア系ユダヤ人の家族に。学校時代の二年先輩にブハーリンがいて、1908年頃から、ともにボルシェビキの地下活動に加わる。ブハーリンとは彼が1938年にスターリンの大粛清によって斃れるまで友人であった、とある。ツァーリの警察に逮捕され、パリに亡命、レーニンらと親交を結ぶが、まもなく政治的サークルを離れ、パブロ・ピカソ、モディリアーニ、ディエゴ・リベラ等、芸術家たちとともに、モンパルナス界隈で、ボヘミアン的な暮らしを送る。革命後のモスクワに戻り、 Chekaに短期間逮捕された経験もあるなど、正統派のボルシェビキではなかったにもかかわらず、ヨーロッパ左翼との人脈があったことから、スターリンの文化使節のような役割で、パージを免れたらしい。1936年から1939年、従軍記者としてのみならず、共和派の軍事顧問団の一員としてスペインに滞在。

アナーキスト大衆をそこまでもってくるのは、たしかにらくではないけれども、かれオリベルと彼らの同志たちは全力を挙げて、アナーキスト労働者に規律をもたせ、彼らを人民戦線総体の指導部に服させようと努力しているし、この努力は成功するだろう。そう、かれオリベルは大衆集会の場で、妥協を非難され、アナーキズム原理への裏切りを指弾されたことさえある。コミュニストのほうもこういったことを考慮に入れて、あまりピリピリせずにいてほしい。コミュニストは権力を欲しがりすぎる。そんな調子だと、CNTとFAIは結果に責任をもてなくなる。
ミハイル・コリツォフ、1936年8月10日の日記
CNT:Conederacion Nacional del Trabajo全国労働連盟
FAI:Federacion Anarquista Ibericaイベリア・アナキスト連盟
ミハイル・コリツォフMikhail Koltsov(1898-1940)
キエフのユダヤ人家庭に生まれる。1917年ロシア革命に参加、1918年ボルシェビキ入党。プラウダ特派員としてスペイン内戦を取材、同時にNKVDのエージェントとしても、「忠誠派Loyalist forces」、すなわち共和派、の軍事顧問としても活動。オーウェルは「カタロニア賛歌」の中で、ソ連に都合の良い虚偽の報道をしているとして、コリツォフらを批判しているという、まだその部分は見つけられないが。また、ヘミングウェイErnest Hemingway「誰がために鐘は鳴るFor Whom the Bell Tolls」の登場人物Karkovのモデルはコリツォフであるとのこと。1937年11月にソ連に帰り、スターリンの粛清を批判する記事を書いたために、1938年12月逮捕、イギリスのためのスパイ活動の容疑で、1940年2月、銃殺。

フランツ・ボルケナウ「スペインの戦場」(三一新書)、注文していたのが到着した、「希少価値」があるのか、二束三文、とは言えない値段だったけれども。早速序文から。
この闘いに巻き込まれている政党は、右翼も左翼も、私の叙述が気に入らないと思う。私の叙述はこれらすべてを批判している。正しいか間違っているかの判断をするという意味ではなく―客観的で絶対的な判断の基準など誰が提供できようか―これらすべてが、私見では、自分の公式の目的と実際の発展傾向との間に深刻な矛盾を持ち、そして、そのどれもが勝つ見込みがないという意味である。勿論、軍事的な意味では、結局、勝者と敗者に分かれよう。しかし政治的意味では結局敗者だけで、地上には勝利者は残らないのではないかと私は思う。自分の目的を達せられないだろうと云われれば、誰も喜ばない。しかしながら、舞台には政治的党派よりも偉大な役者がいる。スペインの民衆自身である。そして民衆は、今日四分五裂しているどの党派とも同一ではない。闘争におけるこの最大の役者は恐らく、打ち砕かれずに現れるであろう。スペインの民衆だけが、派閥とも政党とも新聞とも、そしてまた外国の同盟者や敵とも違っており、しかも言葉には表されていないのである。・・・社会科学者は政治家から一様に非難される立場にある。つまり、もしすべての党が彼を不公平だと云って非難するならば、彼はそれらすべてに対して公平だったと云えるかも知れない。・・・
「スペインの戦場」フランツ・ボルケナウ(三一新書)


曇りだと咲かない、晴れでも午後には閉じる、三日目にしてやっと写真撮れた、タチイヌノフグリ(ゴマノハグサ科)。当地には珍しく(笑)「季節」を選ぶ花なので、見逃したら来年まで見られない、来年まで生きてるかわからない(笑)、と心配になるのだった。





タチイヌノフグリ(ゴマノハグサ科)

タチイヌノフグリ(ゴマノハグサ科)、その、犬の陰嚢のような、とされる果実。



ギンネム(マメ科)上の、メジロ(メジロ科)
































リュウキュウコスミレ(スミレ科)


ウシハコベ(ナデシコ科)


リュウキュウコザクラソウ(サクラソウ科)





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Last updated  2020.01.14 19:41:18



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