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2019.09.20
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カテゴリ:カテゴリ未分類



ハマフエフキ(フエフキダイ科)、方言名「たまん」
目次:「一の酉」と「ユリウス日」/その名も「はじめての」、アラビア語アルファベット/ティグリス・ユーフラテス水系/「算法少女」と「ピタゴラス数」/織田作之助、太座衛門橋を「渡る」ということ/アラビア語アルファベット一覧表

月の「サクラ」、になったみたいで、少し、誇らしい(笑)。


オビブダイ(ブダイ科)・メス

スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)、と、ミスジリュウキュウスズメダイ(スズメダイ科)

長さ50cm、猫か小犬くらいですよ(笑)、こんな奇抜な衣装のが眼前を凄い勢いで通り過ぎる、当然、当初は、「恐かった」訳です。それが次第に「愛らしく」見えてくる。「主体」の「感覚」というものがそれほどあ・て・に・な・ら・な・い・ことこそ、新しい発見。ゴマモンガラ(モンガラカワハギ科)

レモンスズメダイ(スズメダイ科)

デバスズメダイ(スズメダイ科)

ヒレグロコショウダイ(イサキ科)・幼魚

おでこのところがやや盛り上がっている気がする、もっと出っ張ればテングハギ(ニザダイ科)、では「子供」?今までテングハギと思っていたもっと大きいのはテングハギモドキかも知れない、「悩み」は尽きない、いつまでも悩んで「長生き」でもしな、じじぃ(笑)



用心深いようで、すぐにサンゴの下に平たい身体で、魚は大抵「平たい」が(笑)、を滑り込ませて隠れるので、二三年に一度しか見れない。那覇空港到着ロビーの水槽ではお目にかかったけどね。サザナミヤッコ(キンチャクダイ科)、白ストライプが残っているのは「子供」のしるし

アオアシシギ(シギ科)

キョウジョシギ(シギ科)

キアシシギ(シギ科)、この三種が既に到来していることは知っていた、これに加えて、

セイタカシギ(セイタカシギ科)

ヒバリシギ(シギ科)

タカブシギ(シギ科)、が、今回の「新規」到着者。







以前、樋口一葉「たけくらべ」にも出てきたので調べたことがあるが(↓)、おそらく吉原の近傍になるのだろう、鷲(おおとり)神社、「鷲」の訓読みは「わし」であって、鳳(おおとり)、とはおそらく別種の鳥を表すはずであるが、地名なのだから仕方がない(笑)、そこの「酉の市」は、毎年、元来は旧暦であったかもしれないが、現在は、もちろん「明治維新」後の樋口一葉の時代も、新暦となっていたであろう、11月の「酉」の日に祭礼が催される。「酉」は十二支の一つであるから、それに割り当てられた日付は、12日ごとに現れる。11月は30日あるから、
30÷12=2あまり6
であるから、例えば11月6日が「酉」であれば、18日、30日もそうなり、それぞれ「一の酉」、「二の酉」、「三の酉」と呼ばれる。「一の酉」が11月7日以降11月12日まで(笑)、ならば、「二の酉」までしかありえない。ちょっと、今は、確認をとる手間を惜しむが、確か、「たけくらべ」には「今年は『三の酉』まであるから」みたいな台詞があって、そこから、描かれたのが、何年のことなのかが、ある程度の範囲で確定できるのであった。
「かゝる界(さかい)に身を置きて、あけくれに見る人の一人も友といえるもなく、我をしるもの空しきをおもへば、あやしう一人この世に生まれし心地ぞする。」
今日、武田麟太郎(1904-1946)「一の酉」を読んでいて、これは、織田作之助つながりで読み始めたもので、それについてはまた書くこともあろうが、やはり浅草辺りを舞台にしているこの小説に、「四日が『一の酉』だから」という一節が出てきて、また、調べてみたくなった。この小説の発表は、「昭和十年十二月」とある、西暦、グレゴリオ暦では、1935年、ということになろう、その前何年間かのカレンダーを参照して、「干支」を調べればよい。
「一の酉」武田麟太郎(青空文庫)
「旧暦・月齢・干支」付きカレンダー
なかなか該当するものに出会わないので、自力で「計算」出来ないか?と考えたわけで(笑)、1900年1月1日、という「基準日」以降なら、エクセル互換表計算ソフトに問い合わせれば、日付「シリアル値」が判明しよう、その数値の「10」の剰余から「十干」が、「12」の剰余から「十二支」が算出できることは、言を俟たない(笑)。例えば、本日、2019年9月24日、「秋分」の翌日であるが、は、奇しくも「甲子」なのであるが、その「シリアル値」は、「43732」、10の剰余が「2」、12の剰余が「4」、これとの対応関係をメモしておけば、基準日以降なら、任意の日付について「干支」が算出できる。結論は、1926年11月4日が「一の酉」で、ということは、作品の「構想」から「発表」まで、十年近い歳月が経過しているのか、などと、意地悪い想像もできてしまうのである(笑)。
グレゴリオ暦では、
1.「4」の倍数なら「閏年」
2.「4」の倍数でも「100」の倍数なら、「閏年」にしない
3.「100」の倍数でも「400」の倍数なら、「閏年」にする
というルールによって、
365+1/4-1/100+1/400=365+0.25-0.01+0.0025=365.2425
「365.24218944」という「太陽年」への限界までに正確な近似を行っているのであるが、「2.3.」のルールを除外すれば、四年間で365×4+1=1461日、その「12」の剰余は、「9」だから、四年たてば、「十二支」は「九」先に進む、逆にいえば「三」戻る、ならば、十六年たてば、「十二」戻って元に戻る計算になろう。なるほど、ここでの16年前、1910年11月4日は確かに「酉」である。世紀の変わり目を挟むと、「2.」のルールがかかわって来るからまた一つずれる、でも、20世紀と21世紀との間では、ルール「3.」によって、ずれないことになる。1926+16×2=1958、私の生まれた年であるが(笑)、その年の11月4日も「酉」、そこから更に、世紀をまたいで、1958+16×3=2006、も同じく、再来年、2022年もまた、・・・、そんな生きてるかわからないのに(笑)、そんなことわかってもちっとも嬉しくもないが(笑)。
そんなことをして「時間を潰して」いたところ、「ユリウス日」、なる概念に行き当たった。なんでも、
1.日付と七曜が同じになる年が現れるのは、28年周期、・・・、なるほど、365≡1(mod 7)、すなわち、365×7≡1×7≡7≡0(mod 7)、だから、「閏年」を考慮しなければ、7年ごとに「日付と七曜が同じ」になる。「閏年」「1.」のルールを加味すると、365×4+1≡1×4+1≡5(mod 7)、四年たてば、七曜は5ずれる、逆にいうと(笑)、2ずれる、じゃあこの四年のかたまりを7つ繰り返すと、
(365×4+1)×7≡5×7≡0(mod 7)
なるほど、28年ごとに「日付と七曜が同じ」になるだろう、もとより、これは「閏年」ルール「2.3.」を無視している、なるほど、だから、「ユリウス暦」なのだな?
2.月齢と日付が同じになる年が現れるのが、19年周期、・・・、なるほど、太陰太陽暦で「閏月」を挿入するのが、「19年に7回」であった、
3.ローマ帝国における徴税額査定更新の周期、「インディクティオ」が、15年周期、・・・、ヨーロッパの古代史の考察には、重要な概念なのであろう、
これら三つの数字、「28,19,15」は、「互いに素」であるから、その最小公倍数は、三数の積となり、28×19×15=7980、という巨大な数になる。で、それら三周期の起点が重なるのが、紀元前4713年、その年の1月1日、もちろん「当時」は(笑)ユリウス暦もグレゴリオ暦もないだろうけれど、を起算日として、表計算ソフトの「シリアル値」と同様、順序数を割り当てて行ったもののようである。これだけの長期間をスパンとすれば、上のルール「1.2.3.」すべての適用場面があるから、算出は錯綜したものとなろう。以下のサービスがある。
「国立天文台暦計算室/『ユリウス日』の算出」
同じく本日、2019年9月24日の「ユリウス日」は、2458750で、ということは、エクセル互換表計算ソフトの「日付シリアル値」43732との差、2415018、では、この数値をメモっておけば、1900年一月一日以降ならば、その「ユリウス日」も計算できることがわかった、「わかって」も、そんなに嬉しくないかもしれないが(笑)。

そうなってくると、以前(↓)、鴨長明が、鎌倉に旅して源実朝と面談している、その様が、太宰治「右大臣実朝」に、おそらく「東鑑」からの引用として、掲載されている、その中に、いくつかの日付とその「干支」が現れる。上に掲げた「干支付きカレンダー」サイトに問い合わせた結果、どうも、それが合致しない、では、「ユリウス日」を調べて、そこから算定してみてはどうだろう、と、如何にも「閑人」が「閑つぶし」を唯一の目的として考えつくようなこと(笑)を考え付いた。
「がうなはちひさき貝をこのむ、これよく身をしるによりてなり。みさごは荒磯に居る、則ち人をおそるゝが故なり。我またかくのごとし。」
同年。十月大。十三日、辛卯、鴨社の氏人菊大夫長明入道、雅経朝臣の挙に依りて、此間下向し、将軍家に謁し奉ること度々に及ぶと云々、而るに今日幕下将軍の御忌日に当り、彼の法花堂に参り、念誦読経の間、懐旧の涙頻りに相催し、一首の和歌を堂の柱に注す、草モ木モ靡シ秋ノ霜消テ空キ苔ヲ払フ山風
同年。十一月大。廿日、戊辰、・・・
同年。十二月大。十日、戊午、・・・
「右大臣実朝」太宰治(青空文庫)
鴨長明が鎌倉を訪れたのは、建歴元年、その、10月13日、11月20日、12月10日、これらはもとより「旧暦」であるが、その対応するグレゴリオ暦、及び、「ユリウス日」は、
建歴元年十月十三日(グレゴリオ暦1211年11月26日)、「ユリウス日」2163704.89750、は「戊戌」
建歴元年十一月廿日(グレゴリオ暦1212年1月2日)、「ユリウス日」2163741.89750、は「乙亥」
建歴元年十二月十日(グレゴリオ暦1212年1月22日)、「ユリウス日」2163761.89750、は「乙未」
「ユリウス日」に端数がついているのは、時刻をも表示しているからである。整数部分だけ取り出してみると、このようになり、以前調べたのと同じ結果となり、それは、グレゴリオ暦への換算を、同じカレンダーサイトのデータを用いているのだから、当然とも言え、改めて「ユリウス日」による「干支」算出の信頼性が確認できた(笑)とは言え、「東鑑」ないし太宰治の記述への「疑念」は、未解決、となった、と言うオチのない話。



ま、先方には先方のお考えがあってのことでしょうから(笑)、・・・。
何事もなく台風が去ってくれたので、胸をなでおろしていたところ、そういうことはしばしばあるので、ま、おかあさんにはおかあさんのお考えがあってのことでしょうから(笑)、・・・、と「諦めて」、「受け入れる」しかないことは知っていましたが、また、「お引越し」をされてしまったようで、淋しく思い、また、要らぬ「心配」もいたしておったところでしたが、今朝、なんだか、茶碗がひっくり返るような騒々しい物音がして(笑)、この汚く曇った窓から覗いてみると、おや、お帰りではないですか!1、2、3、・・・、ちゃんと、三匹、全員ご無事で、さっそく、缶詰の蓋を切り、ご馳走を振舞おうとドアを開けると、もちろん、「彼ら」は、「蜘蛛の子を散らしたように」(笑)、逃げ隠れてしまいますが、こうして、ガラス越しに観察しておりますと、子供のことなんか知らんぷりで(笑)一心に頬張っておられるおかあさんのまわりに、一人、また、一人、と集まってきて、ほれ、こうして、めでたく、一家そろってお食事会、と相成ったわけ。

ほとんど茶色の茶とら

中ぐらい茶とら

ほとんど真っ白茶とら

ほとんど茶色の茶とら、は、早々に物陰に隠れてしまったので、そろって「集合写真」とはならず。こんな風にまだまだ「逃げ腰」状態だけれども(笑)、私がベランダに出てきても、いきなり走り出す前に、まず、じっと、見る、その余裕は、出てきたよう。もう少し、「経験」が積まれてくれば、「コノ巨大ナ生キ物ハ、ドウモ、危険デハナイラシイ」と、な・め・て・くれるようになるのだろう。



その名も「はじめてのアラビア語」宮本雅行(講談社現代新書)、というのを注文して、「はじめての」(笑)にして、既に、全然、歯が立たない、当然でしょう?「外国語」というものを一つも習得したことがないままにまもなく終えられる(笑)「人生」であったが、いや、自慢すれば、英語、読むならできるよ(笑)、スペイン語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、・・・、みんなテレビやラジオの語学講座ひと月か二月くらいは、ちゃんと観たり聴いたりしたよ、・・・、でも、それ、みんなローマ字アルファベットだものね、ヨーロッパ旅行、当時はまだ「冷戦」時代だから、安いツアーで回るのは「西側」だけさ、行く先々で、カフェでビールを注文することだ・け・は、出来る、のが自慢だったな。それ以外では、えっと、中国語、これもテレビで、一年くらいはつづけた(笑)、陳凱歌「子供たちの王様/孩子王」(1987)、で、文革期「下放」青年が教師として着任した小学校、子供が作文を書く、その冒頭、
我家没有票/うぉーちゃぁーめぃよぅぴゃぁお/「僕のうちには時計がない」
が、テレビのスキットの例文とそっくりだったので、奇跡的に聞き取れ(笑)、感動し、言葉を学ぶことの喜びをかみしめたが、そこまでだったな。1995年、神戸の震災のすぐ後だ、「天安門」の余燼も冷めた、とばかりに、北京を訪れ、やはり、ビールを注文する、ことぐらいしかできなかったけれども(笑)、中国語なら、だいぶ異なってはいるけれど、用いる文字にはなじみがあるだろう?文字からして全然異なるシステムを持った言語を、学ぼうとすることなんか、一度もしたことがなかったじゃないか。関川夏央「ソウルの練習問題」、1984年に出ているようだな、というとても刺激的な書物を読んで、さっそく、ハングルの練習を始めたが、多分、三日ともたなかったのだろう(笑)。という訳で、ともかく、まず、文字だけでも、「練習」してみよう。28個あるそうである。ノートに写し取ろうとして、右から左に向かうんだろうけれど、「書き順」すらわからない、と、ちゃんと便利なものがあるんだな(↓)
「Arabic Alphabet Stroke Order/アラビア文字の筆順」
そのビデオにもあるように、右側と左側に、どんな文字があるかによって、形が変わってしまうから、単純に見積もっても、其の28個の三倍、覚えなければならなくなる計算だが、とりあえずは、「単独形」というものだけを取り出してみよう。

後でコピー・ペーストなどに利用できるように、Unicodeっていうのか?その字体を貼り付けておこう。これだけでも一仕事だったんだ、というのは、ワープロソフトによって異なるようだが、アラビア文字を入力すると、自動的に「段落書式」が、そのモードになるようで、すると、もう、カーソルキーすら左右が逆になる、ここでは、通常『アラビア語のアルファベット』といわれている順序に並べてみようとしたのだが、当然、本・当・の・アラビア語なら、逆順になるべきものなのである。


ص ش س ز ر ذ د خ ح ج ث ت ب ا


ي و ه ن م ل ك ق ف غ ع ظ ط ض


実際にノートに書き写そうとして見ると、28個も、全く未知なものが並んでいるとはいえ、そうして「手を動かす」ことで、多少は「分節化」ができ、例えば、上の表に付した仮の番号で呼ぶが、5と6と7、8と9、10と11、16と17、18と19、なんかは、同じ形の上とか下とかに、「点」みたいのを付加すればよい訳だから、なんとか覚えられるかも、という気にもなってくる(笑)。
ちなみに、14番saad、15番daad、16番taa'、17番zaa'、のそれぞれ「s」「d」「t」「z」の下には、ドットのようなものがついていて、おそらく発音上のきまりを表しているんだろうが、「環境依存文字」なので省略した。
今日のところは、ここまで、いや、あるいは、「ここまで」で終わってしまうかも知れないけれど(笑)。



「ウヤマッテ」、くれ、とは言わないが(笑)、・・・。
へぇ?今日は、「敬老の日」なんだってね。まだ、外に出てないけど、というのは、昨日から、ほとんど真っ白三毛おかあさん、がベランダに子供たちを連れてこられて御逗留中だから、私がドアを開けて顔を出すと、慌てて隠れようとして、なおかつそこそこ身体大きくなってきてるから、なかなか隠れ場所も以前よりは見つけにくい、そんな「気苦労」(笑)かけるの申し訳ないから、これさいわいと(笑)、また「引きこもり」に退行してるわけで、でも近所からそこはかとなく聞こえてくる物音が、「平日」らしくないので、訝ってはいたのだ。
◯◯は、(例えば、)「保護」されねばならない、
という言論は、もちろん多くの◯◯にとっては、ありがたいものであり、それが世間に常識として共有されれば、その◯◯にとって生きやすい世の中になるだろうことは疑いない、ものの(笑)、かならず、その「保護」から漏れ出てしまう◯◯が存在せざるを得ないこともまた、統計学の示す「事実」であって、今度は、そうなると、
およそすべての◯◯は「保護」を受けている筈である、受けるべ・き・である
という常識の蔓延した世界は、そのこぼれ落ちてしまった◯◯にとっては、ますます、生きにくいものになってしまうこともまた、想像に固くない背理なのである。え?だから(笑)、別に、敬ってくれ、とは言ってないってば!
拾い上げてみたら、ずいぶん重たくなっていた、ずっとそばにいると、「成長」というものは、気づかないものだ、ということは、「無繁殖個体」も、知っている、この頃の、べび。

旧暦八月十七日の月、「立待」、

と、その「有明」。昨日一日中の雨が夜半には上がって、明け方少し西に傾いた中天、蜜柑の「へた」みたいなの、今度は、左にある。月が常に同じ「顔」を見せているのは、公転と自転の周期が正確に同じって、ほとんど奇跡的なことを表してんだろ?さて、これは、そのつねに地球に向けられた面内での回転の問題だ。二日前の「望」、東の空に昇るとき、「へた」は右下、x軸基準「反時計回り」で言うなら、マイナス70°くらい、それが西に沈む直前には、真左よりちょっと上、プラス170°あたり、360-{17-(-70)}=120、「時計回り」に120°ばかり回転したことになる。それはあたかも「芝居」の「書き割り」みたいに、そんなもの見たことないけど(笑)、紙に描かれた月が、舞台上方に半円形に張られた針金に沿って、そのまま向きを変えないで動いた、ってことになるんだろう?不思議だ、考えれば考えるほど(笑)、考えれば考えるほど「考える」ことがあるのは、ありがたいことだ。


その、「芝居の書き割り」モデル(笑)概念図。緑の矢印が、「月」を描いた「紙」と思いねぇ、東の空に昇ったばかりの、矢印の付け根の右下に「へた」がある、これがそのまんま、移動して、西に沈む少し前は、原点Oに立つ撮影者から見て、矢印は上下逆さに、そして、付け根の左上に「へた」があることになろう?まさに、このままのことが起こっているのである(笑)。昇るときの月が、「真上」ではなく少し右、つまり少し「南」に向・か・っ・て・、沈むときが、やはり「真下」ではなく少し右、つまり(笑)少し「北」に向かって、ということは(笑)、少し「南」の方・か・ら・、という風にずれているのは、地軸が公転面から23.4°傾いている、という事実と関係があるのだろう、もっとも、それは、太陽の動きの話であるが、今度は、太陽と月が全く同じように動くよ・う・に・見・え・る・、ということは、月の地球に対する公転面と、地球の太陽に対する公転面が、重なっている、という、これまた奇跡のような事柄に基づくのではないか?正確かどうかはそ・れ・ほ・ど・自信はないが、ということは、少しは(笑)自信がありそうだが、ま、ともかく、朝っぱらから、こんなことを考え、表計算ソフトやグラフツールを前にして、「考え」込んだりしていると、ちゃんと頭が働いたことで、若干の「躁転」が生じ(笑)、機嫌がよくなっていることに気付く(笑)。



旧暦八月十八日の月、「居待」。月の出が、19:59、月の入りが8:34、とすれば「南中」は午前0:20頃、ということになろう。撮ったのは午前1時過ぎ、だから、その少し後、考えてみれば(笑)、考えてみてはじめて気づいたが、人は月を見上げるとき、その仰角が最も小さくなるような方向を向くはずだ、だから、ごくわずか西に傾いた南に向かって立っていたに違いない。困った(笑)、蜜柑の「へた」のようなものが、ほぼ真下にある。先日の「望」が東の空に昇ったばかりのときと同じ図柄ではないか?「へた」は、餅搗き、いや、米搗き、脱穀うさぎの、臼のその先にあるから、うさぎの耳は右上だ。毎・日・同じ向きの「書き割り」が昇って沈んでいくわけではないのだろうか?それが、「困った」理由。
上の、「書き割り」モデル概念図、をご覧いただきたい(笑)、うさぎさんの左右のお耳のちょうど間を緑の矢印がつらぬいている。カメラを支える手が、到底水平とは言えないから、不正確ではあろうが、おおよそ、その矢印が、月の「進行方向」と考えられたのである。しかるにどうだ?その「理屈」を敷衍すれば、今日のこの月は、これからまだ右上へ、進むことになるぞ?ほぼ「南中」ならば、この月は、この先右ないし、むしろ右下へ、進まなければな・ら・な・い・のに?
「月の進行、芝居の『書き割り』モデル」の研究
地球の自転軸をz軸、緯度をθ、経度については特に決めない、時刻t、これは0≦t<24の整数値をとることにする、として、t=0のときに、観測者の立つ場所が、x軸を含む大円上にあることにする。すると、観測者の立つ場所を表すベクトルをrは、地球の半径をRとして、

長さ|r|=Rで割って「正規化」しておくと、こうなる。
こんどは、その観測者の立つ場所を原点として、「北」すなわちz軸方向をのぞむ方向をX、そこから中天をのぞむ方向をZとして、これらと直交し、「右手系に合致するようYを定めることにする。すると、この新たな座標系XYZの、それぞれの単位ベクトルを、eX,eY,eZとすると、

そして、eZは、r/|r|そのものであるから、
とならないであろうか?あまり自信はない(笑)。今日のところはここまで、これだけでも、午前中いっぱいを費やした(笑)、「費やす」のが目的だから、もちろん「本望」であるが。



「キュオリアス・ジョージ」という絵本があったでしょ?
ほら、だんだん、一・目・散・に・は・、逃げなくなってきた。どきどき、不安
そうな表情で、でも、遠慮なく(笑)、こっちを見つめているよ。子供の頃絵本で読んだ、「ひとまねこざる」、何にでも好奇心を示すサーカス団のおさるさんだが、中身はあまり覚えていないから、猫たちのこんな仕草を見るたびに、それを思い出すのは、ずっと後年、その原題が、Curious Georgeであることを知ったからだな。「好奇心が強い」というその形容詞が、人、この場合は擬人化されたおさるさんだが、の性格を記述する形容的用法として、上にかぶせることができる、というのが既にして、ちょっと意外だったのかも。日本語には、そんなのにふさわしい一言がなくて、確かに、「好奇心の強いジョージ」では、売れなかったろう(笑)、だからこそ「ひとまねこざる」みたいな「意訳」になったんだろうな。日本語版が登場したのが1954年、フランスで最初に出版されたのは1939年、とのこと。作者はユダヤ人の夫婦で、ナチの迫害を逃れて、1940年にパリを逃れる際、このCurious Georgeの原画を携えていた、との逸話が残っているようである。
Curious George
岩波書店から出版されていたようだが、記憶では、B5版くらいの正方形に近い版型で、同じシリーズに「ぞうのババール」もあったように思うのだが、確かではないな。こちらは、Histoire de Babar、1931年にフランスで出版されている。
Babar the Elephant
念のために(笑)、カメラをぶら下げてベランダに、ドアをそーっと開けて、出る。「好奇心」の強さ、大胆さ、は、三人とも甲乙つけがたいみたいで(笑)、今回は、ほとんど真っ白茶とら、がまっさきに、ごちゃごちゃした「ごみ屋敷」の段ボールやらなんやらが折り重なった、従って、「彼ら」には(笑)格好の隠れ場所に、逃げ込んだ。「逃げ遅れ」た二人は、私と「目を合わす」ことになり、そうなると、いっそ「度胸が据わった」みたいな感じで、じっとこっちを見ている様子が写っているね。中ぐらい茶とら、が、一番大胆のようで、もう、全身をさらすのにそんなに躊躇しないようにも見える。いったん隠れた物陰から、その「大胆さ」につられて(笑)、ほとんど茶色の茶とら、が、顔だけ出して、こちらを窺っている、一目で「不安そう」とわかるのは、なかなか近い哺乳類として、感情表出に対応する表情の作り方が、似ているからなんだろうな。そうなってくると、当初から「上手」に隠れてしまった、ほとんど真っ白茶とら、も、「外」の様子が気になるようで(笑)、なにかごそごそ物音がするので、カメラの先端突っ込んで撮ってみたら、こんなのが写ってた、って訳だ。

中ぐらい茶とら

ほとんど茶色の茶とら

ほとんど真っ白茶とら

旧暦八月十九日、「臥待」の「有明」。本当は(笑)、まわりはもう少し明るい、まもなく、画面右下方向の西の地平に沈むだろう。うさぎさんの両お耳の間が「進行方向」なのだとしたら、合ってるじゃないか。蜜柑の「へた」状クレーターは、見えにくいが、左上の端。ファインダーをのぞきながらも、それらの手掛かりを探すようになった。元来(笑)、方・向・性・の・な・い・筈の「円」が、このようにして、「構造化」されたのである。ね、おじいさんは、いつも、話が、くどい。


「っていうか、そもそもチグリスってなんでチグリスになったんだっけ」わたしはふと思いついてたずねた。
「それはあれだよ、チグリスの頭のうしろのわけめ、今はすっと一本、まっすぐに走っているけれど、昔はもっとうねうねして、河みたいだったから。上達したんだね」麦くんは感心したように肯いた。
「あこがれ」川上未映子(新潮文庫)
小学六年生のクラスメート、「チグリス」という女の子は、「ツインテール」って言うんですか?髪の毛を真ん中で二つに分けて両側に垂らしている。その「わけめ」の話をしている。その子の高校生のお姉さんが美人だということで、小学生の「男子」の間で評判になり、「ユーフラさん」と呼ばれている。もちろん、チグリスの姉だからユーフラテスなのである(笑)。「旧約聖書」で、「肥沃三日月地帯」も出てきたことだし、さて、実際、どれほど「うねうねして」いるものか、することのない、やる気のない(笑)老人の暇つぶしに、実に相応しいお仕事であった。
真ん中のグラフが一番わかりやすかろう、両河川とも、その源は、トルコ北東部のElazigという町に近い山中にあるらしい。そして、最終的に海に注ぐのは、いずれもペルシャ湾、イラン国境にほど近いイラクの町、バスラのあたり。いわば、この二地点を結ぶのに、少し東側に湾曲させたのがチグリス、西側がユーフラテス、ということになるのだ、初めて知ったけれど。サマラからバクダッドはチグリス、ラマディからファルージャはユーフラテスであるが、この、ちょうど図の中央辺りで、二つの河川は、著しく接近しているのだ。なるほど、それで、二つの大河川に挟まれた地域が、上流側と、下流側に、あたかも二つの「島」の如くになって、それぞれ、上メソポタミアUpper Mesopotamia、下メソポタミアLower Mesopotamia、と呼ばれることになったのが頷ける、というものだ。「下」の方の呼び名は、いくつもあって複雑そうだが、「上」の方が、「アル・ジャジーラal-Jazira」、「島」と呼ばれることは、前に述べた。
もちろん、これらの地名のリストは、ここ数年来の、戦乱を報じるニュースの中で、たびたび耳にしたものを含んでいる。もっと以前に、知っていたら、それらのニュースの「聞こえ方」もまた、違ったはずだろうとは思うが、同時に、それは例えば、ここ「沖縄」についてだって同じなのだが、人の住んでいる土地、人が故郷としている土地について、「○○、ああ、あの、戦争のあったとこ?」という風に、思い浮かべる、こと自体、十分に失礼で、「侵襲的」な振舞だと思うから、ここは、敢えて、「ニュートラル」を装い、知らない振りをしておくことにする。
地図でたどってみると、確かに、著しく「蛇行」、つまり「うねうね」していることがよく分かった。支流の算入の仕方など、むずかしい問題はあろうが、上に掲げたwikipediaの記事によれば、総延長は、チグリス川1850km、ユーフラテス川2800kmとのこと。流域にある都市を拾い上げてそれらの間の直線距離を積算した値の、1.5~2倍くらい、それで「うねうね」の程度も推し量れよう、というものだ。それから、「旧約聖書」のはなしに戻すと、アブラハムの故地ハランに比定されていたのは、上メソポタミアの現・トルコ、GaziantepとDyarbakirの中間あたり、Sanliurfaであった。
Tigris–Euphrates river system
Tigris
Euphrates



地図を眺めていて見つけたので、バグダッドBaghdadのアラビア語表記は、以下の通り、
بغداد
いつになったら、読めるでしょうか(笑)?アラビア語は、右から左へ書かれるので、ワープロソフトが「これはアラビア語だ」と判断すると(笑)、カーソルの動きまで逆になる。それは当然の便宜なのだろうが、慣れないと混乱の極致であるし、他にも諸々の問題があるようで、「アルファベット」にあたるのは28文字であるが、それが、右側、つまり「先行」する文字、左側、つまりそれに「続く」文字、との関係で、「右接形」、「両接形」、「左接形」という文字の形状のマイナーチェンジを生ずる。日本語で言えば「続け字」みたいなものなのだろうな。だから、同じ文字に対して、これに加えて「単独形」、原則4種類のバージョンがあることになるのだが、その辺が、「文字コード」の上でどういう処理になっているのか?フォントにもよる、ファイルの「エンコード」の指定にもよる、といった問題なんだろうが、困ってしまったのは、上で拵えた文字の一覧表にそれを加えようとして、例えば、ある文字の右接形ــبをコピー・ペーストしても、表計算ソフトの画面では、「単独形」بに戻ってしまうというような現象に悩まされた。だから下の表は、苦し紛れに、wikipediaのページのスクリーンショットを加工して、貼り付けたものなのである。さてやってみましょう(笑)、左端の方、つながっていな文字が二つ、これは、一番左が、「8」番「daa」د、その右隣りが、「1」番「'alif」اではなかろうか?その右側の、つながっているかたまりに行きます、当然、右から順に見るべきです。下に「・」がくっついている「左接形」を探すと、お、「2」番「baa'」بـ、ではないか?嘘々(笑)、だって、これ「バクダッド」って読むこと、もう知ってるんだから、・・・、次の、頭に「・」がのっかった、くるりと丸のようなのは?これは「両接形」から探すことになりましょう、「19」番「ghayn」ــغــが怪しいですね。そして次のは、一番左端の文字に似てますね、「8」番「daa」の「右接形」ـدで、どうでしょう?出来ました(笑)、文字の呼び名を並べて棒読みしてみると、「baa'」、「ghayn」「daa」、「'alif」、「daa」、ね(笑)、「Baghdad」に、聞こえなくはないでしょう?

「html」ファイルの表なら、「右接形」、「左接形」、表示できるようなんで、作ってみた(↓)んだが、これまた、どういう訳か、「表示→エンコード→Unicode UTF-8」って、し直さないと文字化けしてしまう。ま、もともと、「月間残業200時間」の(笑)プログラマ、だからね、機械相手に訳の分からんことがおこるのには、それなりに「耐性」は(笑)あるのだ。
「アラビア語の練習問題」
もう少し続けましょうか、
شمس
「13」番「shiin」の「左接形」شــ
「24」番「miim」の「両接形」ــمــ
「12」番「siin」の「右接形」ــس
でどうだ?「太陽」なんだそうです。
これに定冠詞ال、「'al」が付くと、
الشمس
「ある・しゃむす」が発音しにくいので、「あっしゃむす」となる、語頭に置かれた時にそのような現象の生じる文字を、この語に因んで「太陽文字」と呼び、14文字あるらしい。その他14文字は、「月文字」で、なるほど、風雅な命名である。ならば「月」は?
قمر
「21」番「qaaf」の「左接形」قــ
「24」番「miim」の「両接形」ــمــ
「10」番「raa'」の「右接形」ــر
قمر
ほら、そっくりになった(笑)!読み方を想像すると、「qaaf」、「miim」、「raa'」、だから、「かみら」、みたいな感じだろうか?ネット上の辞書(↓)は、便利なもんで、各単語の発音の音声ファイルが付属している、で、聴いてみると、何度聴いても、「あま」と聞こえる。それこそ、これは語頭が「月文字」だから、定冠詞がついても「ある」そのままになる、だから「ある・かみら」がそう聞こえたんだろうか?などと素人考えしてしまうが(笑)、ま、字を解読できただけでも、よしとしよう。
調子に乗って、もう少し続けましょうか(笑)、件の「はじめてのアラビア語」では、文字の説明が済むと、文法で、もう、その辺りから、全然ついていけませんが(笑)、最初の例文が、「その学生は学校へ行く」なので、「学校」、「学生」を、探してみましょう。もちろん、若干の「底意」がある訳で、前者が「マドラーサ」、後者が「タ●ーリバン」、アフガニスタンのその武装組織は、イスラム教の「教会学校」の学僧、の中から生じたことは、知られた事実でしょうから。「伏字」にしなければならないようなその言葉が、ごくありふれた普通名詞であることは、記憶にとどめておいてもよいでしょう。
مدرسة
「24」番「miimf」の「左接形」مــ
「8」番「daa」の「右接形」ــد
「10」番「raa'」の「単独形」ر
「12」番「siin」の「左接形」ســ
あれ?一番右の字が見つからんぞ?
「3」番「taa'」の「右接形」ــتは、名刺、形容詞の語尾についてそれを「女性化」するときには、ــة、と、書かれる、とのこと。
مدرسة
出来上がり。「学校」、読み方は?「miimf」、「daa」、「raa'」、「siin」、「taa'」、ですが、語尾の女性化の「taa'」は、発音されないきまりらしく、音声ファイルも、「まどらーさ」と聴こえた。
طالب
「16」番「taa'」の「左接形」طــ
「1」番「'alif」の「単独形」ا
「23」番「laam」の「左接形」لــ
「2」番「baa'」の「右接形」ــب
طالب
出来上がり。「学生」、「taa'」、「'alif」、「laam」、「baa'」、これには音声ファイルが付いていなかったのだが、「はじめての・・・」には、ローマ字表記として、文の中での語尾変化がありそうではっきりしないが、taalibunとかtaalibanとかが見える。
アラビア語→日本語辞書/日本語→アラビア語辞書
こんなことを続けても、それこそ「死ぬまでに」(笑)、アラビア語が「話せる」様になったりは決してしないよ、とお笑いになるでしょう(笑)。ええ、私、どんな「外国語」も、「話せる」様には、なりませんでした。偉そうですが(笑)、英語は、読むのにそんなに不自由は感じないくらいと豪語しますが、例えば、そこら辺の道端で(笑)、「ガイジン」さんに、道を聞かれても、・・・、当地には、土地柄、台湾、中国、香港からの観光客の皆さんが数多訪れるようですが、そういえば、うちの近所、首里城へ歩いて十五分くらいだから、十分「観光地」です、香港人とおぼしき方から、流麗な英語、と思われるもので、道を尋ねられたことがございますな、そんなときでも、浅ましく、見事なほどに狼狽えて、身振り手まねでしどろもどろを言ったりしかできない(笑)。若い頃(笑)、は悩みました、どうしてこんなに「喋れ」ないんだろう?当たり前じゃん、あんた、日本語だってまともに、「人と」喋れない、それは語学力とかの問題じゃなくて、およそ「人」と「言葉」を交わす、というもっと基層の能力に欠陥があるのだ、とある日納得し(笑)、今日に至ります。海外旅行で知り合った○○人の「友達」が、・・・、などと言う何気ない人々の言葉に、「傷つき」ましたが、そうなんです、私も、少しは「海外旅行」しましたが、振り返ってみれば、道を聞かなくても地図を読めばわかる、地下鉄の路線図とか読むのは「病的」に得意(笑)、カフェや食堂に入っても、そう、ビールを注文する言い回しだけは、ちゃんと知っているのだ(笑)、だから、日本にいる時と同じ、「人」と喋る機会なんか、なかったんだね、「人」と喋らないようにして、ちゃんと、「旅」を済ませて、帰って来たんだね。そんな訳だから、もちろん、「アラビア語」に関しても、何ら、高望みは、しない(笑)。それでも、こうして、それこそチグリス川のように(笑)、「うねうね」としたインクの染みのつながりが、ここからここまでは、この字、そして、ここからここまではこれ、と、「分節化」出来た途端に、それが、文字通り、「人」が「人」に、何事かを伝えようとした痕跡、として、一斉に「意味」に満ちたものとして、「開かれ/啓かれ」てくるのは、やはり、投げやりな「うつ病」患者にとってさえ(笑)、十分に「感動的」なものなのでした。
アル・ジャジーラのニュースを見ていたら、バグダッドにも「タハリール広場」があるらしい。地図では発見できなかったが、では、その「タハリール」という言葉、なにか、普遍的な意味を担った言葉でありうる、実は、うろ覚えで「知って」いるのだが(笑)、次なる「練習問題」として、閑つぶしのネタが見つかったと、喜んでいるところである。まず、地図でエジプト・カイロの「タハリール広場」を探す。西加奈子「サラバ」(小学館)、のときに調べたから、場所は知っている。これ(↓)がそのアラビア語表記
ميدان التحرير
右側の、単語をweb上のアラビア語辞書に問い合わせると、「広場」、ところが左側は、「見つかりません」と言われる。語頭に「1」番「'alif」の「単独形」、「23」番「laam」の「両接形」が並んでいる、これは、定冠詞「'al」ではないか?と、小生意気な(笑)ことを思いつき、それを取・り・外・し・て・み・よ・う・、次の字は、もちろん「タハリール」の「た」に違いない、とカンニングしている訳だが、「3」番「taa'」の「両接形」
ــتــ
ならば、これを、その「左接形」
تــ
に差し替えて、そのうえで、辞書を引けばよかろう。
続く文字を解読しておこう、
「6」番「haa'」の「両接形」ــحــ
「10」番「raa'」の「右接形」ــر
「28」番「yaa'」の「左接形」يــ
再び、「10」番「raa'」の「右接形」ــر
تحزيز
さて、わくわくしながら、自信たっぷりに(笑)、辞書に入力すると、「条線」、と来たもんだ。ひねくれた人間は、物事が「思い通り」に進まないと、むしろ自虐的に微笑んだりするものだ(笑)。おぼろげな記憶に残っていた「タハリール」の意味は、「解放」、「第三世界」の都市には、植民地主義からの解放、独立を記念した、「解放広場」、「独立広場」が、どこにでもあっておかしくない、だから、バグダッドにだってあるかも知れないのだ。そこで、今度は、「日本語→アラビア語」に、「解放」と入力すると、
تَحْرِير
一番右の字の頭に横棒、次の字の上に○、その次の脚に横棒、それを除けば、同じ並び方ではないか?つまり、これが「母音記号」なのだろう。アラビア語を字で書く時、普通は、子音しか表記しない、文脈を判断しないと発音がわからないところが難しい、と言われるのは、知っていた。なるほど、「条線」と「解放」、子音だけ拾い上げれば同じだからこそ、「解放」の方には、「母音記号」が付させたのであろう、と素人は想像することになる。あまりにも煩雑そうなので、避けていたのだが(笑)、ならば、行きがかり上(笑)、「母音記号」について、学んでみよう、よかったじゃないか?もっと「時間が潰せる」、ことになって(笑)。
アラビア語には、三つの短母音(a、i、u)、三つの長母音(aa、ii、uu)、および二つの二重母音(ai/ay、au/aw)があり、これらは子音文字の上か下かに補助的な記号をつけて表わされます。
「はじめてのアラビア語」宮本雅行(講談社現代新書)
他にもあるようだが、さしあたり必要そうなものだけピックアップすると、
母音除去記号
َُِْ

なるほど、子音だけ拾えば、「taa'」、「haa'」、「raa'」、「yaa'」、「raa'」、だが、「taa'」には「ア」をくっつけ、「haa'」からは母音を取り除き、はじめの「raa'」には「イ」をくっつけ、次の「yaa'」はそのまま、最後の「raa'」もそのまま、ということだな、なるほど「タハリール」と聞こえなくもない。ところで、「タハリール広場」の、英語表記は、Tahrir Square、各子音には、ローマ字アルファベットに「転写」する際の対応関係が定まっていて、それはほとんど「文字名」と同じ、になっているように見える、だから、tの後にはaが続き、hの後には母音がなく、はじめのrにはiが付されあとのrには母音なし、とルール通り、と納得できる訳だ、「yaa'」はどうなったのだ?という疑問は残るが(笑)。ちなみに、上の「条線」問題(笑)、よく見たら、「10」番「raa'」とすべき二つの文字、どちらも、「11」番「zaay」にしちゃってるよ、そりゃ、違うわな(笑)、そんな初心者らしい間違いも、ご愛嬌、ということで、そのままにしておくことにする。
تحرير
と、改めて正しい綴りにして、「アラビア語→日本語」辞書に問い合わせると、ちゃんと、「解放、自由化」と出た。「日本語→アラビア語」モードだから、親切に、「母音記号」をつけてくれていたんだね、ま、おかげで、「母音記号」まで学べて、一層多くの「時間を潰せ」たのだから、「災いを転じて」ってやつだな(笑)。「時間を潰せ」たことを「福」と呼ぶのも、なかなかの、老人らしい「シニシズム」ではあるが(笑)。
西加奈子「サラバ」と、「タハリール広場」についての記事は、こちら(↓)、
「受け入れられる」というのは、同じ矛盾を「生きて」いる、ことを知られる、ことであるかもしれないじゃないか?

「サラバ」の語り手、「僕」が、日本企業のエジプト駐在員の父と、母、姉と住んでいたのが、ケズィーラ島北部、ザマレクという街区、そこから「7月26日通り」を歩いて、ナイル川を渡って、今度は川に沿って南、ということは上流に向かい、エジプト考古学博物館を経て、その南に、「カイロ」の「イ」の字の辺りの丸い区画が、「タハリール広場」だが、そこまで歩いた、という記述があった。一緒に歩いたのが、ただ一人の「エジプシャン」の友人ヤコブ、彼はコプト教徒であった。「旧約聖書」を読んでいるところだから、乏しい知識を得意そうにひけらかさせてもらうと、ヤコブは、旧約聖書の登場人物だから、キリスト教徒にも、イスラム教徒にも、あるいはユダヤ教徒にも、有り得るファーストネームなんだろうと思われる。この三大一神教が大きな影響力を持つ、「世界」の広い広い地域で、名前を聞いただけで、そのような「判断」を即座に行う、という思考習慣が、組み込まれているのだろうな、少しは想像できるような気も、やっと、してきた。


ということは、「この世」の、見納め(笑)であるかも知れないので、・・・。




シノビハゼ(ハゼ科)、と、モンツキテッポウエビ(テッポウエビ科)。宮古島の南方海上で、今まさに台風が発生した、とのニュースを観たのは、海辺に着いてからだった。確かに雲の流れは速く、リーフに打ち付ける波も、やや、高い。今年最後になるかもしれないから、ということは、「一生」最後になるかもしれず(笑)、「この世」の見納め(笑)であるかも知れないので、せっかく来たのだから、ほんの少し、岸の近くだけでも、漂ってみることにした。いつもながら驚くのは、海面が多少あれていても、海の中は、ごくごく「静か」に感じられることだな。「水」という溶媒の強力な粘性のなせる技なんだろう。前回同様、やはり、近づく嵐については、こちらの「当事者」たちは(笑)先刻ご承知のようで、既に、各所で、対策が立てられている。お、ここでは、見張りのシノビハゼ(ハゼ科)が、二人いるぞ?おそらく、たくさんすべき「仕事」があるから、「閑人」が観察に来た、くらいでは、いちいち警戒している暇はないのだ、とでも言うように、モンツキテッポウエビ(テッポウエビ科)君の方も、穴の外の全身をあらわに晒しながら没頭しておられる。



ハマフエフキ(フエフキダイ科)、方言名「たまん」
もちろん、異なる屈折率に「幻惑」されている分を差し引かねばなるまいが、印象としては、長さ70cmばかりの生き物が、ほんの1m先にいて、並・ん・で・泳いでくれている、いや、こちらが無理に追いかけるのを、相手は既にこちらの遊泳能力の貧しさを見抜いているので、そんなに「真面目に」は、逃げない、というだけのことだが、そうね、「陸上」での経験に例えるとすれば、・・・、中型犬の(笑)、「犬のお散歩」、というところかな。

ムラサメモンガラ(モンガラカワハギ科)・幼魚、水深20cmばかりの、波打ち際、サンゴ由来の石灰岩には、多数の空隙が開いているから、そうした穴は、小さな魚の格好の隠れ場所となる。特に、ひ弱な「子供」にとっては。成魚は、20cmほどの大きさで、なかなか不愛想な(笑)表情でもあるし派手な衣装にもかかわらず、それほど「フォトジェニック」に思えないのは、あまりにもたくさんいるからだろうか?しかし、「子供」は、ご覧のように、まあ、「不愛想」さの「兆し」はなくもないが(笑)、愛らしい。



クロサギ(サギ科)・白色型

シロチドリ(チドリ科)

アンダソンハエトリ(ハエトリグモ科)、アンダソンというのは、その名から想像する限り英語圏の人でしょうが、博物学者だそうで、この人が実際に発見したのか、それとも、別の人の発見が、その偉人に敬意を表して捧げられた、のか、その辺の事情は不明だが、で、こんな名前になった。当地の秋、おお、今頃だ、先日通りすがりに聞こえた気がしたが、セミの一種に、クロイワツクツク、というのがあるが、それも、黒岩さんという人なのかな、それに因む命名なのだから、そういうことはよくあるのだけれど、「アンダソンハエトリ」などと言われると、ハエトリグモという蜘蛛のグループがあることを知らなければ、およそ生き物の名前なのか、それとも例えば殺虫剤かなんかの商標なのか?と悩みそう。大量の犬猫とともにある「我が家」は、当然にも、彼らの糞尿、げろ、その他、ふけ、蚤等寄生虫の死骸、などなど、およそ「不潔」なものに事欠かず、それらを餌とするショウジョウバエなど小昆虫も、年中数多発生し、「うつ病」にかこつけて、住人の老人が、そんなに真面目に几帳面に「駆除」しようともしないから(笑)、勢い、そのような小昆虫の捕食者、その名の通り「蠅取り」を生業とするこのクモも、しばしば見つけられる。長さ数ミリだから、雲といってもそんなに「恐く」なく(笑)、むしろ、掃除をしようとして物陰に箒を突っ込んだりすると、慌てて逃げ出す様が、この頃では「愛らしく」さえ思えるようになってきた。このクモは、巣、つまり網、web、をかけず、しかしその足には強力な跳躍力があるらしく、数センチ、いや十センチくらいを、跳びながら移動する。背後は、デニム生地のシャツ、すぐ目と鼻の先のハンガーにかけてあったものに、こうしてしがみついていたから、すかさずカメラを近づけてみたわけ。

旧暦八月二十一日の月





台風は、通過とともにがらりと風向きが変わる、もちろん、そんなことは先刻ご承知(笑)、だったんだね、なるほどここなら南から吹き込む雨風をしのぐことができる。

手前、ほとんど真っ白三毛おかあさん、うしろ左、ほとんど茶色の茶とら、右、ほとんど真っ白茶とら、あれ、もう一人は、かげに隠れてるみたい、こっちもずぶぬれだしね、あまり「注文」は付けないことにするよ(笑)。

まるで「記念撮影」みたいに、ちゃんと並んでくれているね、まだ雨風がきついから、カメラのレンズにも水滴がついたみたいだし、手も震えるし、上から順に、ほとんど茶色の茶とら、中くらい茶とら、ほとんど真っ白茶とら
台風というのは低気圧だからね、空気の密度が局所的に小さくなっている、だから、風は、そこに向かって吹き込む、等圧線に直行するわけではなく、ちょいと、進行方向向かって右に偏るのだけれど、それは確か地球の自転に基づく「コリオリ力」の影響を受ける、って話じゃなかったかな?ベクトルの外積を含むむつかしい運動方程式を、そんな小難しいことを知っている小賢しい(笑)生徒さんがいらしたので、内心冷や汗たらたらで、しかし偉そうに(笑)、ご説明差し上げた記憶がある。もちろん、今は、もう、出来ないけどな(笑)。当地に住むことになるまでは、そんな理屈は、もちろん「知って」はいたけれど、こんな大洋の上の小さな島、よくも狙いすましたように、「直撃」したり「上陸」したり出来るもんだな、と感心するが、ともかく、毎年、二つや三つの台風で、暴風雨圏内に入らないことはないくらいだから、すっかり「風を読む」、ことを覚えた。例えば、今回、2019年第17号、Tapahは、中心気圧980hPだから、そんなに強くはない、宮古島の北東海上から、北北西に向かって進路をとり、夜半辺り、沖縄本島、の当地那覇市に最接近、その後、久米島西方海上に抜けた。つまり、ほぼ真南から近づいてきて、西側を通過、北西に去る、のであるから、まず、北からの風が強くなり、少しずつ北東に傾いていく、そして真東を過ぎて今度は、南東から吹き付けることになるのだ。うちの建物は、ほぼ東西に長く、西側に入り口があってそこに広いベランダがあり、ほぼ「ごみ屋敷」状態のそこが(笑)、猫達の格好の隠れ場所なのであるが、だから、はじめ北東から風が吹きつけているときは、建物が遮蔽物になってくれるだろうから、やや安心だった。ドアのすぐそばのところに親子で固まっているらしいから、慌てさせてはいけないので、覗きに行くことも控えた。明け方、少し雨風が弱まった気配に、出てみると、ほれ、こんな感じ、一番南の端に、以前、犬が二匹いた時、今はもう、一匹しかいないし、室内にいるが、南の壁面に沿って犬小屋を二つ並べていたのがそのままになっていて、見ると、ちゃんと、そこに「雁首揃えて」(笑)いる。なるほど、ここなら南から吹き込む雨をしのぐことができるのだ、おかあさんが誘導してくれたのかい?賢いねぇ、あたしなんか、風向きが変わることを忘れて眠りこけ、開けたままの窓から吹き込んで床が水浸しさぁ(笑)。風の音がすごくて、さぞかし怖かったろう、お疲れさまだったね、さぁ、缶詰を出してあげよう!





旧暦八月二十六日の月、夜半をかなり過ぎた頃、東の空に昇ったばかり、今は上に「弦」下に「弧」、この形で右に少し偏った上方に進んで行き、従って沈むときには、下が「弦」で上が「弧」になるはず。近くにオリオン座がくっきりと見えて、星座はオリオン座しか知らないのだけれど(笑)、なるほど、このくらい痩せた月の光量なら、星も隠されはしないんだ、ということがわかった。




「算法少女」遠藤寛子(ちくま学芸文庫)、が古本屋で100円で売られていたので(笑)、買い求め、一気に読み終えた。「和算」には多少の興味はあった、島崎藤村「夜明け前」にも、「御一新」後、学制の確立に際して、「洋算」を採用するか、「和算」を採用するか、もとより「明治政府」は、欧米「モデル」の近代化、以外のオプションなど念頭になかろう、半蔵ら「国学」派がわずかに抵抗を示した形跡は窺われた。関孝和をはじめとする、江戸時代の数学が、想像を超えるほど高度な発展を遂げ、「町民」の中にも「算法」ブームが巻き起こっていた、そのような「鎖国」下の高度な「文化国家」も、「開国」によっていったん灰燼に帰さねばならなかったのであった。「ばったもん」とはいえ(笑)、「数学」とは職業上多少のかかわりのあった身としての「プライド」も少しはあるから(笑)、「和算」、少しはかじってみたい、と思い、入門書的なものを流し読みしてみたのだが、どうも、数学の専門家が「素人」向けに書く「数学」の書物というものは、一般に、「あんたたちにはどうせわからないだろうから、説明はこのくらいにしておく、(もちろん私は、わかっているんだけどね)」という態度が鼻につき(笑)、とりわけ、ずぶの「素人」よりは、ちょっと頭一つ分くらい(笑)、「数学」を知っているつ・も・り・の、私のような「素人」には、不満の残るものが多かった、書名は挙げないけれども(笑)。町医者で、趣味で上方の、ということは、関孝和派、とは別の系統の、「算法」を学んだ父と、その娘の共著の形で、「算法少女」という書物が実在するらしい。1775年、安永四年、に出版されている。何か聞き覚えのある元号だと思ったら、そう、上田秋成が「雨月物語」を出版するのが、その翌年なのである。この本の著者は、子供の頃から、「算法少女」なる書名にも魅せられて、多くの文献を渉猟した後、この、町医者の父とその娘の物語を、子供向けの小説として書き上げた、という事情のようである。子供向けであるし、著者もまた数学畑の人ではないので、数式が並んだりはしないのだが、最初に、生意気な武家の少年が奉納した「算額」、絵馬のようなもので、数学の問題とその解が書かれており、解けたことを感謝する、と同時に、「自慢」する(笑)、ある種の「メディア」となっていたらしい、の、誤りを、この少女が指摘するシーン。
「今、半円ノ内ニ、図ノ如キ勾股形(直角三角形)ト二円アリ・・・・・・」
それは、半円に直角三角形を内接させ、この直角三角形の内接円と、弓形内にえがいた最大の円があいひとしいときの外接円と小円の半径の関係を問う問題である。
三之介は小円の半径を四寸として、外接円の半径を一尺二寸という答えをだしていた。
あきは、この問題を前に父からだされて解いていた。そして、この場合、小円の半径の十三倍が、外接円の半径の四倍に等しいという関係がなりたつことをたしかめている。
小円の半径が四寸ならば、外接円の半径は、一尺三寸でなければならない。・・・
「算法少女」遠藤寛子(ちくま学芸文庫)

「プライドが」などとおっしゃるなら(笑)、解いてみないわけにはいくまい?
円周角は中心角の半分で、従って、直径に対する円周角は直角である。だから、このように、半円の直径の両端ACと、弧上の任意の一点Bとを結べば、かならず直角三角形が得られる。「弓形内にえがいた最大の円」の中心をO1、その半径をr1、「直角三角形の内接円」の中心をO2、その半径をr2、∠ACBをθとしよう。
円と直線が接するとき、接点における接線と半径は直交する。円と円が接するとは、接点における接線を共有することを言う。
だから、OO1とABは直交、∠ABCも直角だから、∠O1OA=θ、OO1の延長と外接円の交点とOとの距離は、外接円の半径、決めるの忘れてたな(笑)Rとしよう、だから、ABとOO1との交点と、Oとの距離は、それから2r1を引いたものになろう、これがAOCosθすなわち、RCosθに等しい。
R-2r1=RCosθ
r1=R(1-Cosθ)/2
次に、BC=ACCosθ=2RCosθ、同様に、
AB=ACSinθ=2Rsinθ
O2にから、AB、BC、CAに垂線をおろし、その足をそれぞれ、H1、H2、H3と名付けよう、図には描いてないけど(笑)、O2H1BH2は正方形を成す。
また、△O2H1B≡△O2H2B
△O2H2C≡△O2H3C
△O2H3A≡△O2H1A
であることは容易に証明できるから省略するが(笑)、ならば、
AH3+H3C=2R
AH1+H2C=2R
(AB-r2)+(BC-r2)=2R
r2=R(Cosθ+Sinθ-1)
このr1r2がちょうどひとしくなる時の、θを求めることに帰着するのである。
R(1-Cosθ)/2=R(Cosθ+Sinθ-1)
1-Cosθ=2(Cosθ+Sinθ-1)
3Cosθ+2Sinθ-3=0
Sinθ=3(1-Cosθ)/2
これを、三平方の定理、Sin2θ+Cos2θ=1
と連立して、解くことになる。
{3(1-Cosθ)/2}2+Cos2θ=1
9(1-Cosθ)/2}2+4Cos2θ=4
13Cos2θ-18Cosθ+5=0
(13Cosθ-5)(Cosθ-1)=0
ここで、明らかにCosθ≠1であるから、
Cosθ=5/13従って、Sinθ=12/13、を得る。
「三平方の定理」を満たす、つまり直角三角形の三辺をなす三整数の組を「ピタゴラス数」と呼ぶが、もっとも小さいのが、(3,4,5)、その次が、この(5,12,13)なのである。十年以上前、まだ「数学」の「先生」だった頃、同僚の一人、この人は地元の国立大学の数学科の修士だから、「本物」の(笑)、数学の先生であるが、沖縄県の教員採用試験に出題された問題を教えてもらって、その解が、どうやら「ピタゴラス数」に関連しているらしいことを「発見」したときは、ちょっと、嬉しかった、裸で浴場を飛び出してきたのは、「アルキメデスの原理」を発見した時のアルキメデス、なのだが(笑)、それに因んで「エウレカ、エウレカ」、ギリシャ語で、「私は発見した」の意らしい、と題した文章が、まだ、ちゃんと、残っている(↓)。
エウレカ!エウレカ!
話を戻すと、確かに、小円の半径r1ないしr2と、外接円の半径Rとの比は、
r1/R=(1-Cosθ)/2=(1-5/13)/2=4/13
なのであった!エウレカ!、エウレカ!(笑)
せっかくグラフまで拵えたのだから、もう少し、楽しみましょう(笑)。上で、cosθとsinθの関係式を得て、「三平方の定理」と連立して2次方程式になるところ、なんだか、綺麗に因数分解できるところが、怪・し・い・、と感じました。そこで、問題を、少し「一般化」してみます。「直角三角形の内接円」の半径r2、と、「弓形内にえがいた最大の円」の半径r1、との「比」、として、k=r2/r1、というものを導入する。
k=r2/r1=2(cosθ+sinθ-1)/(1-cosθ)
∴sinθ=(k+2)(1-cosθ)/2
これを、sin2θ+cos2θ=1、に代入、
(k+2)2(1-cosθ)2-4(1-cos2θ)=0
ほら、この段階で、共通因数が現れる、
(1-cosθ){(k+2)2(1-cosθ)-4(1+cosθ)}=0
やはりCosθ≠1であるから、
(k+2)2(1-cosθ)-4(1+cosθ)=0
∴cosθ={(k+2)2-4}/{(k+2)2+4}
という、なんだか、意味ありげ、なんだかどうだかよくわからない(笑)、形になった。
k=1、のとき、もとよりこれが本題であるが、r1:r2:R=4:4:13
k=2、のとき、r1:r2:R=1:2:5
k=3、のとき、r1:r2:R=4:12:29
k=4、のとき、r1:r2:R=1:4:10
・・・
差し当たり、k=1、のとき、と、k=2、k=4、のとき、の図を掲げておく。∠ACB=θは、度数法で表すと、それぞれ、67.38、53.13、36.87、である。

k=1、のとき

k=2、のとき

k=4、のとき
因みにk=2のとき、AC=2R、AB=ACsinθ=4/5AC=8/5R、BC=ACcosθ=3/5AC=6/5R、であるから、
AC:AB:BC=5:4:3
ほら、これは、もっとも小さな、「ピタゴラス数」の組だ!

さらに「一般化」して、kを「有理数化」、整数と整数の比、で表す、例えば、
r2:r1=2:3
r2:r1=3:5
・・・
の如く、以下の表だが、
r2:r1=2:3、のとき、r1:r2:R=9:6:25
r2:r1=3:5、のとき、r1:r2:R=100:60:269
など、興味深い(笑)、素数らしきものも散見され、あるいは、これらの中にも、もっと大きな「ピタゴラス数」が隠されているのかもしれないが、それは、また、「老後」の楽しみに、とっておくことにする(笑)。

もちろん既に「老後」であることは知っていましたが(笑)、気がかりなので、他にすることも、ないし(笑)、続けます。「ピタゴラス数」、ピタゴラスの三つ組み数、ということで、Pythagorean tripleと言うらしいね、それとの関連を明らかにしたい、と思い、だとすると、半径の比や辺の比を、「自然数」で表すのがよかろう、という訳で、r1:r2=m:nとしたら、と言うところから出発することにする。何年振りかで(笑)、ノートに、鉛筆を使って、数式の変形を書き付けていく、ちょっと、切なく(笑)懐かしい手ごたえであった。「数式エディタ―MathType」、以前は重宝していたのに、この頃は手に入りにくいようで、以前は一応職業上の必需品だったけれども、今は老人の手すさびなので、お金をかけるつもりはなく(笑)、「30日間試用版」をダウンロードしてみた。以下の数式、HTMLで作るのは、あまりにも煩雑に思えたので(笑)。



こうして、「弓形内にえがいた最大の円」の半径r1、「直角三角形の内接円」の半径r2、そして外接円の半径Rの比を、整数比として表すことが、出来た。では、mnに、さしあたり、1から7までの自然数で、互いに素な組み合わせを、選んで、これを計算してみる。一つ悩ましいのは、この式の形から想像されるように、数が相当大きくなる、nが偶数であれば、この三数は、少なくとも4を公約数に持つことになろう、そんな風に、互いに素でない組み合わせが当然いっぱい出てくる。これを「既約化」したいのだが、表計算ソフトの関数表現では、それを自動判断するなど、ちょっと方法が思いつかないので、これは「手動」でやった。だから、まだ足りないものが含まれているかも。黄色い色と施した、右側の欄は、直角三角形の三辺なのだから、当然に、「ピタゴラス数」となっている筈である。それはそれで「へーぇ?」ってもんで、終わりだが(笑)、なかなか出鱈目な並び方に見えるので、今度は早くも飽きて(笑)、ならば、そもそも「ピタゴラス数」というのは、どのくらいあるのか、が、気になり始めた。上で、十年以上前に書いた、「エウレカ、エウレカ」をご紹介したが、その頁の末尾には、その頃は出来たんだな(笑)、JavaScriptのプログラムが組み込んであって、簡単な自然数二つの組から、「ピタゴラス数」を生成させることはできるのだが、逆・に・、「ピタゴラス数」は、こ・れ・し・か・な・い・、ということは、少しも教えてくれないのである。そこで、調子に乗って、今度は、TinyBasicというプログラムを、引っ張り出して来て、思い出しながら、コーディングしてみた。たっぷり半日、「時間を潰す」(笑)ことが出来た。
x2+y2=z2
を満たす三つの自然数、xyz、の組が「ピタゴラス数」であるが、当然、xyは入れ替え可能である、だから、その重複を避けたいのと、ここでも、上と同じく、「既約化」の問題が、なかなか難解であったが、錆びついた頭を、少しずつほぐして、多分、なんとか間違いのないものが出来たと思う、もちろん、いまさら、「ピタゴラス数」を書き出すBasicプログラムが書けたからと言って、おまえの人生に、なんか、変化、あんのけ?という声が響いてくるものの(笑)、それなりの達成感、「エウレカ、エウレカ」感は(笑)、否定できないのである。あまり賢くない、むやみとループをぐるぐる回す、要領の悪いプログラムだからだろう、数が大きくなると演算時間が、果てしなくなるようなので、さしあたり、xyがそれぞれ100までの「ピタゴラス数」を、ご覧いただこう(笑)。

「ピタゴラス数」

「算法少女・円周率の近似式の謎」
「算法少女」遠藤寛子(ちくま学芸文庫)には、あきがオランダの数学書を見せてもらう場面があって、この書物でただ一か所、横書きになった数式が登場します。これがそれなんだが、このままでは、やや法則性がつかみにくいので、項の番号を、最初から、0,1,2,3,・・・、と振ることにしてその五番目、つまりa4を取り出してみましょう。
1・3・5・7は、奇数ばかりを取り出した掛け算ですが、これを「階乗!」の記号を使ってどう表記するか、と言うと、穿った見方ですが(笑)、これは、1から8までの自然数を全部掛けたのち、偶数の2・4・6・8で割ったのだ、と言えばよろしい。
2・4・6・8=24・1・2・3・4=24・4!と、階乗と累乗の記号で書けますから、こうして、一般項の表記ができる。もちろん、きっと、のちに述べる、既に準備した、逆正弦関数の級数展開と関連付けられて欲しい(笑)、と願いつつ変形すると、あらら、確かに、辻褄が合った訳です。

sin(π/6)=1/2、ということは、aracsin(1/2)=π/6、ならば、aracsinxの級数展開式のxには、1/2を代入したうえ、それを6倍すれば、πになる、という仕掛けでした。
では、話は前後しますが、逆正弦関数arcsinxの「べき級数展開」が、どうしてそんな形になるのか、説明させていただきましょう(笑)、いや誰も聞いていないのは知っているが、説明し・た・い・のです。「素人」らしい愚直な計算をして、なおかつ、それを間違え、そんなこんなでほぼ丸一日、「時間を潰す」ことが出来ましたから、「自慢」したいのでしょう(笑)。そもそも、こんな「時間の潰し方」を思いついたのは、「数式エディタ―MathType」、ダウンロード無料なのは、「30日間試用版」だけなので、ならば、30日たったら消・え・て・し・ま・う・(笑)、それまでに何か「有意義な」(笑)ことをしなくては、と、まさに、来年は生きていないかもしれない、が「口癖」の老人らしい、浅はかさなのでした。

三角関数は周期関数ですから、同じyの値をとるxは無数に存在するが、定義域を区切れば、一つのxを指定することが出来るので、逆関数を考えることが出来る。その微分は、元の関数の微分dy/dxの逆数になることが知られている、証明どうやるんだったっけ?ともかく高校の教科書にも載っている。そこから、上のように、その導関数が、1/√(1-x2)という形になることがわかる。ならば、元のarcsinxは、それを積分すればよかろう。多項式として「級数展開」出来るのならば、多項式の積分は可能、かつ、簡便であるから、その積分もまた、多項式として表現できるだろう、という段取りだ。
で、私は、正直に(笑)、とりかかったのだよ、ずっと以前も、同じ過ちをした記憶がある、「オイラーの贈り物・人類の至宝e=-1を学ぶ」吉田武(ちくま学芸文庫)、という非常に優れた書物を、引っ張り出して来て、思い出した。ちなみに、テイラー級数展開、というのは、次のような仕組みである。

すべての関数が、無限項の多項式で表現できる、として(笑)、だったら有限項で終えたらそれは「近似値」にはなる、第n項の係数anは、上のように、n階微分係数と、階乗の記号を用いて表記できる。だから、これを得るには、繰り返し繰り返し、微分をしなければならないのであるが、周期性を持って単純な変化をしてくれるものならばよいが、そうでなければ、まことに、収拾がつかなくなる。その収拾がつかなくなって投げ出したものも、とってあるので、そのうち、訂正が出来たらここに並べてみたいとは、思う。そこで、この「オイラーの贈り物」に紹介されていた、数学の「プロ」なら、誰でも知っているべきことなんだろうが、もちろん、私は知らなかった(笑)、実に鮮やかな方法、これとは似て非なる関数、1/√(1+x)を、唐突に(笑)「思いつく」のである。なぜなら、こちらは、繰り返しの微分に優れて周期性があり、実に簡便に「展開」出来るからだ。そのうえで、多項式に展開できてしまったうえで、え、この関数って、このxのところに、-x2「代入」すればいいんでしょ?、と、しれっと(笑)、言うのである。やってみよう。

ここでも、奇数ばかりが順に並んだ掛け算を、階乗の記号を用いた分数で表現する手管を使う。

出来上がり、ですが、これは、まだ、arcsinxの導関数だから、これを、今度は、項別積分する必要がある。

そして、最後に、上でも述べたように、sin(π/6)=1/2の関係を用いて、ほら、上の「算法少女」の式と、同じになった。
ついでに、元数学の「先生」ですから(笑)、得意そうにひけらかしますが、(2k)!/(k!)2の部分、「組み合わせcombination」、n個の異なるものから、k個取り出す方法の場合の数、nCkの定義からわかるように、これは、2n個の異なるものからn個取り出す方法の数を表しています。何か意味ありげ(笑)なのですが、意味ありげであることしかわからないので(笑)、本当はさして「得意そう」でもないのでした。

表計算ソフトで計算した結果を見てみましょう、なかなか収束が速いですね、もう8項目くらいから、3.141592、ぐらいまで合ってるじゃないですか。他に、逆正接関数arctanの級数展開を用いた、πの近似式もあって、ライプニッツの名が冠されていて、形がものすごくシンプルなので有名、私も知っていたくらい、だが、これは、収束が遅くて実用に適さない、と言われている、そういわれると、どのくらい「適さない」か知りたくなるのも人情なので、そのうち、そう、数式エディタ―の「30日試用期間」が切れないうちに(笑)、やってみる。

その、「正直に」微分してはい・け・な・か・っ・た・話、「出来なかったのが悔しかったので」などと言う「うつ病」患者らしからぬ感情の昂ぶりがあって(笑)、夜半までかかって、晴れ晴れと(笑)、完成。奇数項と偶数項で、共通因数にxを持つか否かが異なってくる、そんな「感じ」を、手にしてしまえば、計算間違いをしたときには、ああ、今まさに、計算間違いしていそうだな、ってわかる、森毅先生も、確かどこかでそんなことをおっしゃってました、数学というのは、特に、長い長い式を変形する、などという作業は、まことに「身体的」な作用なのであって、そう、それは、「労働に似ている」(笑)、のです。えっと、ゴダールの「パッション」に出てきた台詞です(笑)。


では、お約束の(笑)、「ライプニッツの公式」、とも呼ばれる、ライプニッツが編み出した公式は、無数にあるだろうし、命名の「先取権」という問題もあるのだろうが、それはさておき、いそいそと早起きをして(笑)、取り掛かった。
arctanxの級数展開から、πの近似値を求める話、今度も、「正直」に微分をしてはいけない(笑)のであって、また、巧妙な「すり替え」が行われます。一番下に得られたのが、一名「ライプニッツの公式」とも呼ばれるものです。どのくらい「収束が遅い」のかも、調べてみましょう。

プラスとマイナスの項が交互に出てくるのだから、振動しながら近づくのであろうことは想像されます。それにしても、確かに、「遅い」ですね、100項目くらいから3.13と3.15のあいだを行き来して、その幅が、250項目くらいまで来ても、あまり縮まりません、確かに、これでは、「実用」にはならないでしょう、「円周率」に、どんな「実用」があるかは、さておき。


x2+y2=z2を満たす自然数xyz、の組み、すなわち「ピタゴラス数」、表を眺めていて気付いたんだが、もとより、xyとは、「入れ替え可能」なんであるが、このプログラムでは、xyという前提を盛り込んで、重複を避けるようにしたのだが、すると、不思議な事に(笑)、xyのうち、どちらか一方は奇数で、他方は、かならず、偶数、それも、4の倍数になっている、ではないか?

「ODD」は「奇数」、「EVEN」は「偶数」である。xyの「偶奇性」のあらゆる組み合わせは、上の(i)~(iv)になるが、このうち(iv)は、xyzすべてが「2」という共通因数を持つことになるので、それで割り、「既約化」出来るところまですれば、(i)~(iii)のどれかに帰着することになろう。で、どうも、得られた結果を、言わば「カンニング」して、あとから理屈をつけるわけだが、(i)もまた、決して有り得ず、かつ、(ii)、(iii)においても、xyいずれかが、単に「偶数」であるばかりでなく、それは「4の倍数」である、らしいのである。ならば、それを「証明」しな・け・れ・ば・ならない。いや、別に、しな・く・て・も・、いいんだけどな(笑)、振り返ってみると、数学を教えることを「業として」(笑)いた頃、授業の中である「定理」を用いなければならない事態になったとき、直ちに、それ、証明できるのか?と「不安」になったのは、きっと、教室の中に、自分よりずっと頭のいい(笑)、しかも意地悪な(笑)生徒がいて、黒板に向かって必死で(笑)数式を書き連ねている私の背後から、せんせい、でも、それ、どうやって証明するんですか?とか、問われたらどうしよう?という「被害妄想」的な「恐怖」に根差していたことは否定しないが、いや、それだけでもなかったんだな、ここが「仕事」というものの厄介なところで、単に受け取る賃金に見合った労働を提供すればよいのだろう、と、自分を戒めて(笑)見ても、思わず、より「品質」の良い、「商品」を作りたい、という気持ちに引き込まれてしまうのだな。だからこそ、いまや、そんな怖い「生徒」さんなんて、もう、どこにもいないのに(笑)、私は依然として、「証明」しな・け・れ・ば・ならない、と急き立てられるのだ。
まず、こんなことを考える、
x2=z2-y2
x2=(z-y)(z+y)
上の、二番目の表に見るように、z-yz+yの「偶奇性」は、かならず、一致する、ならば、それらの積すなわちx2は、
1.奇数であるか、または、
2.偶数であるとしたら、かならず、4の倍数である
従って、xそのものもまた、
1.奇数であるか、または、
2.偶数であるとしたら、かならず、4の倍数である
「せんせい、どうしてそう言えるんですか?」(笑)
背理法(帰謬法)によります。
1.xが偶数であり、かつ、x2が奇数であると仮定したら、偶数を二回掛けたら奇数になったっておかしなことになりますね、
2.xが4の倍数でなく、かつ、x2が4の倍数であると仮定したら、
(4m+k)2=16m2+8mk+k2
ここで第一項と第二項は4で割り切れますから、全体が4の倍数であるなら、第三項も4の倍数でなきゃいけない、ところが、仮定から、kは、1、2。3のどれかだった筈、これは「矛盾」です、なんか「循環」してる気もするけどな(笑)。
次にしなければならないのは、上の表の(i)の場合が、決して有り得ないこと、つまり、xyのうちどちらか一方は、か・な・ら・ず・奇数で、他方は、か・な・ら・ず・、4の倍数であること、を示さなければならない。
では、xyがともに奇数であってはい・け・な・い・ことを、これも「帰謬法」で示す。
ちなみに復習しておくと(笑)、そもそもどうして「帰謬法」で、証明したこと、になっているのか?
命題A→Bが「真」であるとは、A⊂Bであることに等しい、ちょっと論理学と集合論の用語を混用しているようで、そういうところは「素人」臭いだろうが、「素人」なのだから仕方ない、として、ならば、それは、
A∩BC
Aと「Bの補集合」が共通部分を持たない、ということと等しい、だから、A∧¬Bを仮定すれば、そんなことはあり得ないのだから、どこかで矛盾をきたす、矛盾をきたすこと自体が、A→Bを証明したことになっている。
xyがともに奇数であると仮定する。このとき、zは、当然、偶数になる。自然数、lmnを導入し、・・・、以下は、あと三週間ほどしか使えない(笑)MathTypeで書きましょう、・・・

第一項は偶数、第二項は奇数、右辺は偶数、このような式を満たす自然数、lmnを見つけることは、出来ません、Q.E.D.、証明終わり、
Quod Erat Demonstrandum、これこそが示さるべきことであった、
という意味のラテン語なんだそうです。よって、
x2+y2=z2を満たす自然数xyz、の組み、すなわち「ピタゴラス数」、にあっては、
xyのうちいずれか一方は、かならず奇数、他方は必ず、4の倍数、従って、残るzは奇数、であることがわかった。そうなってみれば、ちょっとプログラムを改変して、この新たな「知見」を援用して(笑)、もう少し筋道立った「ピタゴラス数」発見ができるのではないか?

前回のは、xyという「設定」にして、重複を避けようとしたんだが、今度は、xを4の倍数に固定して、それに対応するyは、xとの大小にかかわらず、もう、絶対に奇数とわかっているのだから、小さい方から順に探していく、すると、例えば、同じ4の倍数12に対して、(12,5,13)、(12,35,37)が並んではじき出されてくる、見たところ、同じ4の倍数に対して、「相方」となるべき奇数が、複数個見つかるものもあれば、そうでないものもある、更に悩ましいのは、プログラム上、扱うべき数の上限を切ってあるのだけれど、これでは、ひょっとしたら、一つの4の倍数xに対して、奇数yzを、非常に大きくして、どこまでも探し求めれば、いくらでも見つかる、ということになるのだろうか?恐ろしい「無限」を垣間見ることになりそうだから、気がかりだが深入りはしないでおくことにして(笑)、とりあえず、x≦300、に対して、yは、y≦600、と限定してみたのだけれど、それでも、あんまり賢いプログラムでない(笑)せいだろう、そもそもこんなにだらだら文章を書き連ねているのは、まだ、計算が、終わらないからなのだ(笑)。
やっと終わったようです(↓)。左の方が、前回用いたプログラム、xy≦200という制限付き。念のため確認したのだけれど、緑の数字が旧版のデータのシリアルナンバー、赤色の数字が新版のもの、新プログラムで、もれなく計算しているようでしょう?新版にあって旧版にないのは、yzが200を超えているものです。

で、これで一段落、と思いきや、大変なこと(笑)を発見してしまった。(60,11,61)とか(84,13,85)、(112,15,113)とかが目に入ったので、おや、すべての奇数yに対して、4の倍数xと、それに1を加えたz、なる「ピタゴラス数」の組が、発見できる、みたいなことが言えるのだろうかと考え、じゃあ、もう一歩「一般化」して、z-xという奇数になんか法則性あるんだろうか?とやってみたら、あれま!、ご覧のように、それは、ことごとく、奇数の平方数、だったのです。ついでに、では、z-yという偶数はどうか?、と見てみると、これまた、それを2で割ると、ことごとく平方数なのであった。なにかウラがある、やはり底知れない「魔術的」な、「ピタゴラス数」なのであった。

残念ながら、ここまでで力尽き(笑)、√(z-x)が奇数の平方数にことごとくなっているとはいえ、逆に、す・べ・て・の奇数の平方数に対して、xからzを生成できるか、というとそんなことは全然ない、でも、「1」だけがこれの例外をなすようだから、最後に、やってみた。つまり、自然数lmに対して、次のように定めると、ご覧のように、すべての奇数yに対して、4の倍数xと、それに1を加えたz、からなる「ピタゴラス数」を、発見できることは、わかったのである。





「失われた」ことを「嘆く」ことが出来るのは、当該「失われた」ものの存在の「外側」からでしかない、という当たり前の事柄を、・・・。
台風をなんとか無事にやり過ごすことが出来て、台風は過ぎ去った後の方が、荒れやすい、水面を、例えば模型の船のようなもの、お風呂に浮かべるあひるのおもちゃ、ラバー・ダッキーでもよい(笑)、理の当然として(笑)、航跡は、その「後ろ側」にしかできないだろう?これはまた、「時間の絶対的不遡及性」を表しているともいえるが、それはさておき(笑)、台風通過後の、その「吹き返し」の風のことを、当地では「けーしかじ」と呼んでいるようです。「返す風」のことです。で、それが、もう台風そのものは、遥か九州の西海上に去ってしまっているのに、丸一日くらいは、時おり劇雨風に見舞われた、それもようやく収まって、晴れ間が見え始めると、おかあさんも、子猫たちも、長らく、狭く、汚い(笑)ところに身を寄せ合っていたことからの「解放感」とでも言うのだろうか、さっそく、お隣の広々としたお庭に、遊びに出かけて行ってしまう。ようやく、自分の「目の届く場所」に、居付いてくれた、「目が届く」から「安心」なのである、ことに胸をなでおろし、むしろそれほど強くはないこの台風の到来を、「奇貨として」いたところさえあるのだが、こうして、また、不安な日々が始まってしまった。彼らは、時おりお腹がすくと、こちらにやって来て食べているようだが、この「住居」そのものには、さしたる「愛着」もなさそうなところも、「愛薄く育った」ことをほとんど「売り物」にしている(笑)、この老人にとっては、「嘆き」となりうるのだ。うんこをしてご近所に迷惑をかけ、それがために、邪険に扱われるのではないか?とか、車の往来の多いところに迷い出てしまうのではないか、などと、例によって、しても仕方のない、「心配」というのは大概、しても仕方のないことではあるが、心配に、居たたまれない小心な日々を送ることになる。彼らには彼らで、また、他にも立ち寄る場所があるのだろう、あるいは、ご馳走を出してくれる奇特な人がいるのかもしれない、それさえ、軽い「嫉妬」の心持をもたらすのだから、もとより、病的なのである。「他者」を「所有」することはできないので、「他者」の行く末を「心配」する、などと言うのも、畢竟、「こんなに心配している『優しい』私、どうして、『見返り』をよこしてくれないの?」というすぐれて「自己愛」的な欲望に根差していることも、実は、知っているのだけれどもね。
三日ばかり不在が続いて、戻って来た時、しばしばありうべきことで、これまでも、何度か経験済みではあるけれど、子猫が一人減っていて、胸つぶれる思いをさせられることになった。中ぐらい茶とら、見るからに身体も弱そう、食も細そうではあった、などと「因果」をつけて、納得してみようとするのは世の常だが、もとより、それで、時間を引き戻すことが出来るわけではない。長く生き延びることの出来なかった生き物を、「可哀想」と思うのは、どういう感情なんだろう?も・っ・と・、長く、生きることが出来た筈なのに、という、あらかじめ定められた生命の持続時間の「標準」の如きものが定められていて、そこからの大小をもって、しあわせ/ふしあわせ、を「判定」するなんて、僭越なことではないのか?もとより、「失われた」ことを「嘆く」ことが出来るのは、当該「失われた」ものの存在の「外側」からでしかない、という当たり前の事柄に、気付かされる。老人は、まもなく「死ぬ」ことが、「悲しい」と思っているのだろうが、実はその「悲しさ」は、「他者」を失ったときに、起動すべき「悲しさ」の感情とは、全然異なるものなのではないか?などということにも、思い至ったりする。



ほとんど真っ白茶とら

ほとんど茶色の茶とら



ようやく今度は、「自分の番」(笑)になって、その心持ちが、想像できる気がし始めた、という「困った」事態(笑)になったので、・・・。
母は死ぬ亡くなるちょっと前、連日、何十回も「イタ電」(笑)をかけてきた。「ワン切り」と言うのか?発信音が一回鳴ると直ちに受話器を置く、携帯の「着信履歴」に同じ名前がずらりと並ぶ、もちろん「気持ちのいい」ものである筈ないから(笑)、「いたずら」の効果は存分にあるのだ。やむなくかけ直すと、「私、電話なんかかけてない」などと、いわゆる「空っとぼけた」返答と、いや何度もかけたでしょう?などという「押し問答の末、やや、改まった口調で、「あのね、私、もうじき、死ぬの」、と始まった。「間髪を入れず」というのはああいうのを指すのだろうな(笑)、私は、「だったら、さっさと死ね」と返して、電話を切った。それが親子の「生き別れ」になった次第は、既にお話しした通り(↓)だ(笑)。さすがに後味が良いわけがなく(笑)、だからこそ、何年もたっているのに、こうして「言い訳」めいた「告白」を繰り返さずにはいられないのだろう。度しがたい「親不孝者」であろうが、反省はしない。「反省」というのは、過去のよくない振る舞いに対して、その原因を探り、もう一度同じ局面に立ち会ったら、別の振る舞いを採用すべきことを決意するという含みだろう?私は「反省」が出来ない。あのときまで時間を「巻き戻して」も、同じ言葉を吐いている自分しか、想像できない。「児戯に類する」嫌がらせと「売り言葉に買い言葉」、お・互・い・、大人げないことおびただしい、老人が「小児化」するのは知られた事実だから、せめて私の方が、もう少し「大人」であるべきだったのだが、残念なことに(笑)、私は、「大人」になるやり方を知らないままに、老人になってしまったようなので、そんな「不良品」に、出来ないことを要求しても仕方がない、ということでご寛恕願おう。
あのね、私、もうじき、死ぬの、と話し始めた母が、続けて、何を言うつもりだったか、ようやく今度は、「自分の番」(笑)になって、その心持ちが、想像できる気がし始めた、という困った事態に(笑)なったので、この話を蒸し返すことになったまでだ。いや、「続けて」言うことなんか、何もなかっただろう、言葉に出来る「言うこと」があったなら、そもそも「イタ電」はしない(笑)、とも言う。自分がもうじき死ぬこと、を、「自慢」、したかったのか?「同情」を引き出したかったのか?どちらでもあり、どちらでもない、自分でもわからなかったんだろうな、その、わからなさ加減が、今になって「よく分かる」。「世界」は、「死に行く」者に対して、物凄く「冷淡」だ。ほら、私、ここに、死にかかっているのよ?気がつかないの?気にならないの?そんなこと、こちらにわざわざ言わせないで、さっさと気づいて、何とか言ったらどうなの?、いやはや(笑)、今となっては、全く、「同感」である。生きている者は、死者に関心がない、むしろそれは隠蔽されている「非日常」を想起させてしまうから、はた迷惑なものだ。「死者に涙する『優しい』私」などという「自己愛」の「物語」に、「回収」できない限り「利用価値」がない。今になって(笑)、あの、児戯に類するイタ電を繰り返した母の、「世界」に対する「被害妄想」と、「逆恨み」を、完全に「共有」出来るとは(笑)、さすがに、予想外であった(笑)。今、回りに「人」がいたら、正・確・に・、同じことをするだろう。「家族」も「友達」も、持・た・な・か・っ・た・ことに、胸を撫で下ろしているところだ(笑)。気がついたらそうなっていただけだから、自慢すべき筋ではないが(笑)、私が、生涯、「家族」も、「友達」も、作・ら・な・か・っ・た・、のは、この「不良品」の「人生」にあっては、特筆すべき「快挙」(笑)だったと言えよう。ならば、「SNS」とかいうものを相手に、誰も読まない「投稿」を繰り返し(笑)、何か「相手」を「嫌な気持ち」にさせて(笑)、「打撃を与えた」などと思い込んでいるのは、「イタ電」と同じくらい、「児」も赤面する(笑)「児戯」であることが、わかろうというものだ。差し当たり、誰にも迷惑はかけてないじゃないか、と言い訳にして。おや?本当は、「迷惑」、かけたいくせに?
帰らないのですか?ああ、船が無くなってしまったからね、私もそんな風にカッコつけて答えるつもりなのだ、誰も問うてはくれないけれど(笑)。


クロスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚、右側のは相当大きいのだが、まだ、「大人」のデザイン、つまりその名の通りの「真っ黒」にはならないらしい。

左、クロスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚、中央、デバスズメダイかも知れない、違うかも知れない、いずれにしてもスズメダイ科、右、尾びれの黒い縁取りから、オキナワスズメダイ(スズメダイ科)、ということにしておくが、例によって、あてにならない(笑)。

薄いブルーが、デバスズメダイ、濃い青が、ルリスズメダイ、黄色が、ネッタイスズメダイ、いずれも、スズメダイ科、珊瑚は、ユビエダハマサンゴ(ハマサンゴ科)、ではないかと思っている。



最初、岩陰から、顔だけ見えた。この顔の大きさに相応しい(笑)巨大な胴体を想像して、恐怖におののきかけたが、やがてずんぐりとした胴体も出てきて、なんだ、おなじみの、コクテンフグ(フグ科)ではないか。

ニセカンランハギ(ニザダイ科)

キヘリモンガラ(モンガラカワハギ科)

ヒレナガハギ(ニザダイ科)・幼魚

やっと、名前、覚えた、きっと、これは、ヒブダイ(ブダイ科)、先日のとは異なり、これは、20cmぐらいの「小物」。

シノビハゼ(ハゼ科)、と、モンツキテッポウエビ(テッポウエビ科)

ナナホシキンカメムシ(キンカメムシ科)、防水仕様の小さなデジタルカメラ、「反復強迫」を症状とする病人だから、ひと夏の間に夥しい回数海水の中で使用するから、やむを得ないであろう、一年、二年ごとに、ガタが来て、買い替えざるを得ないから、もう何代目になるだろう、貧乏老人の数少ない「道楽」と自分を許してあげているが(笑)、その「初代」を買い求めたのは、動画を作って、誰も見ていない(笑)SNSサイトに「投稿」し始めたもちょうどその頃だから、もう七年前になるか、それ以前は、まだ廉価なポケットカメラが普及する以前でもあったから、いわゆる36枚撮りフィルム一缶がプラスチックの容器に梱包されたような「使い捨て防水カメラ」を、海に行く毎に、千円近くしたかな、一つ買い求めていたものだ、現像焼き付けにもまた千円二千円かかっただろうから、結構な出費で、それに比べれば、たとえ二年毎くらいに買い替えるにせよ、むしろデジカメの方が安上がりかもしれないのだから、ありがたい時代で、それはともかく、その最初のカメラ、嬉しくて(笑)、犬の散歩のときに持ち歩いて、遊水地の道路わきで見つけるものなんにでも向けてみたものだ、まさに、そんな風に「人間」以外の事物に「目を向ける」ことが、ちゃんと「リハビリ」になっていることが実感されたし、だから、くっきりと覚えている、この、実に鮮やかすぎるカメムシを見るのは、その時以来だったからね。



イソヒヨドリ(ツグミ科)・オス

ホオグロヤモリ(ヤモリ科)、おや、「自切性」で知られる尻尾が、切れたばかりのようですね、うちのベランダです、お手軽「コンポスト」のつもりで、台所の「生ごみ」、といってもベジタリアンですから、野菜くずのみ、をプランターの上に放置しているだけだが、当然にも、そこには、ハエなど小さな昆虫類が集まってくるだろう、通い猫たちの糞尿もあるしね、今度はそれら小動物の捕食者として、このヤモリも棲みついていて、夜間にドアを開けると、一斉に何匹も慌てて隠れたりするのが見えるから、きっとたくさんいるに違いない、だから、こんな「人」が見たらただの「ごみ屋敷」(笑)のここも、ちゃんと立派な一つの、「生態圏biosphere」を形成しているのですよ。





あるいは、人は、そのようにして「時間の連続性」を確認しあっているのでは?と思い至り、愕然とした次第、今さら「愕然」もないものですが(笑)。
昨日と今日の区別が、あまり、つかないんだ。そりゃそうだ(笑)、毎日同じ時間の電車に乗って、会社に行って、かわりばえのしない仕事をして、くたくたになって帰って来る、そんな日々のことは、もうあまり覚えてないけど、そのときは、ああ、今日は水曜日、やっと半分、あと三日、なんとかやり過ごしたら「週末」、と曜日や時刻、つまり時間の「切れ目」にはむしろ偏執的に拘っていただろうから、昨日と今日の区別がつかない、なんてことは、むしろなかったんじゃないか?ちなみに、当時は、「週休二日」の職場なんて珍しかった、もちろん「ウチの会社」も、違った。おなかがすいたらご飯をつくって食べ、眠くなったら眠る、嗚呼(笑)、「自由」とはかくも退屈なものであったか、ただひとつ、流れる「時間」に「棹差す」、「ルーチン」が犬猫にご飯を出す、その前に、トイレを片付けたり、掃除をする、でも時々、わからなくなるのだ(笑)、箒を持ったまま、呆然と立ちすくむ、あれ?此処はもう、掃いた筈、記憶がある、いや、あれは昨日のこと?「時間」を「分節化」するのは「他者」の存在なのだろうか?この半年間(笑)、私は、数回しか「人」と、言葉を交わしていない、えっと、それもスーパーのレジで、あ、袋は、いいです、くらいの「会話」(笑)だけど。いろんなところで「不義理」をして、逃げ出すように去って来たから、そのまま、多くの「人」と「音信不通」になってしまったから、それは、何度も言っているが、三浦雅士「漱石-母に愛されなかった子」の中で定式化されているところの、「メランコリー者」特有の、「だったら、消えてやるよ」戦術、そのものなのだが、こうして、私は、ただ一人の「友達」ももたないまま、そもそも「友達」のなんたるかをすら知らないまま、間もなく退場するが、それはいい、それはよかった筈だが(笑)、それは、誰とも、「過去」の「時間」を「共有」することがない、「ああ、あんなことがあったね」と語り合う「相手」もなければ、語る対象となる、共通の「時間」も、持ち合わせない、ということになる、あるいは、人は、そのようにして、互いの「時間」に言及することを通じて、時間の「連続性」を確認しているのではないか?、と、今日(笑)、ちょっとしたきっかけで、思い至り、愕然とした次第(笑)、今さら「愕然」もないが、だから「私」の「時間」は、こんなに、延びた素麺のように(笑)ぷちぷちとちぎれてしまう、「とりとめのない」ものになっているのだろうかね?
二日続けて同じことをしなければ「気が済まない」のも「反復強迫」という「病み」であろうが、だから、昨日と今日の区別がつかない、ことにもなる、クロスズメダイの、「子供」、にしては大き過ぎるの、昨日も会ったよね、ということは珍しく、同じサンゴの群体にたどり着けたらしい。今日のちょっとした「めっけもの」は、ツマジロモンガラの「子供」、全身濃い茶色の「親」と異なり、腹側が真っ白だから、目立つ。それから、同じく、モンガラカワハギ科のスジモンガラ、鉛筆で「迷路」の絵を描いたようなデザイン、こちらの気配にすぐ隠れてしまったから、きれいな写真は撮れなかったけど。




クロスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚、ユビエダハマサンゴ(ハマサンゴ科)

ダンダラトラギス(トラギス科)



ツマジロモンガラ(モンガラカワハギ科)・幼魚

ヒトスジギンポ(イソギンポ科)、ルリスズメダイ(スズメダイ科)

薄いブルーが、デバスズメダイ、濃い青が、ルリスズメダイ、黒くて尾びれだけ白いのが、シコクスズメダイ、いずれもスズメダイ科

ミスジチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)、と、ヒレグロコショウダイ(イサキ科)

デバスズメダイ(スズメダイ科)、ユビエダハマサンゴ(ハマサンゴ科)

コクテンサザナミハギ(ニザダイ科)

コバンヒメジ(ヒメジ科)、と思われる

マトフエフキ(フエフキダイ科)、ヨメヒメジ(ヒメジ科)





山中貞雄監督の「丹下左膳余話 百萬両の壺」(1935)を、とても楽しく見ることが出来たので、同じ廉価版DVD集の中の、マキノ雅弘「続丹下左膳」(1953)も観たことだし、原作はどうなっているんだろう、と閑人の考えそうなことを考え、その名前を見て驚いた。どんないきさつだったか、去年の今頃だったろう、森崎和江「からゆきさん」(朝日文庫)を読み、そこに、伊藤博文をハルビン駅構内で射殺した安重根の法廷での陳述が引用されていたのだったと思う。そこで、「安重根―十四の場面」谷譲二(青空文庫)を読んだ。この作家はいくつものペンネームを持っていて、林不忘、とも言う。本名は、長谷川梅太郎で、同じく作家の長谷川四郎の兄にあたる。そのつながりで、長谷川四郎の方は、満鉄調査部に勤務した後、かなり年配になってから終戦直前に応召、ソ連モンゴル国境付近であったか、捕虜となり、何年間かのシベリア抑留生活を送った、という経歴が、高杉一郎、石原吉郎、などのことも思い起こされ、興味を感じ、いくつかの作品を読んでみた。もともとドイツ文学畑の人なのだが、ブレヒトが、古代中国の不戦思想家墨子の研究をしていたことを突き止め、「中国服のブレヒト」(みすず書房)という、まだ中途で放り出したままだが、書物もあるほか、同じく墨子を題材にした魯迅の「非攻」をもとに、戯曲にしたりもしている。兄の林不忘の方は、それっきりであったが、なんと、「丹下左膳」シリーズの作者は、この人だったのである。ものすごく多作であったが、35歳という短い生涯で、多くのものが連載途中に終わったそうだから、このシリーズも、本来は、もっと続くものだったのかもしれない。
「丹下左膳/乾雲坤竜の巻」(青空文庫)東京日日新聞1927年10月から1928年5月
「丹下左膳/こけ猿の巻」(青空文庫)東京日日新聞・大阪毎日新聞1933年6月~11月
「丹下左膳/日光の巻」(青空文庫)読売新聞1934年1月~9月
この長い長い物語を、しかし予想外に(笑)、吸い込まれるように熱中して、ここ数日の間に読み通してしまった。当時の新聞小説の読者層というものが、どれくらいの広がりを持っていたものかは想像できないが、それよりもはるかに多くの人が、登場人物の名前やあらすじくらいは熟知しているという事情だったんだろう、最初に映画を観た時、もちろん、それなりに楽しめたのであるが、人物や背景の紹介がなかなか簡単に済まされているので、よくわからないところも多々あった。改めて映画も観直した上で、また何か書いてみたいと思う、いや、それっきりになるかもしれないけどね(笑)。長谷川四郎が、兄と「丹下左膳」について書いているものがあるので、引用しておく。
一人三人全集というのを出した林不忘・牧逸馬・谷譲次こと長谷川梅太郎は、ぼくより十歳年上の長兄だが、評判の『丹下左膳』をぼくは読んだことがないし、戦前の大河内傅次郎演ずるところの映画も見なかった。そして林不忘が死んでから二十年以上になる。ぼくは丹下左膳もその作者も世間から忘れ去られたものと思っていた。ところが、シベリアから帰ってきて、パンかせぎにあくせくしていたある日、新聞をひらいてみると、新版『丹下左膳』封切の広告がでかでかと出ていた。殺伐の気風流行の兆ありというわけで、眉をしかめた批評家もあったように思う。まことに名作の生命は長いというべきだろう。ぼくは女房とふたりで府中の映画館へ見に行ったが、サムライたちが百万両の壺をラグビーのボールみたいにパスするところがぼくには面白かったし、女房には坂東妻三郎の丹下左膳が「さすがはおれの女房だ」と淡島千景のお藤にいうところがすっかり気に入ってしまった。彼女は今でも時々、このセリフをぼくの代わりに言ってよろこんでいる。・・・
「随筆丹下左膳」長谷川四郎(ちくま日本文学全集「長谷川四郎」所収)
林不忘が亡くなって二十年とあるから、1950年代半ばであろう、その頃封切られた「丹下左膳」ならば、この手元のDVDのマキノ雅弘の「続丹下左膳」(1953)かと思ったのだが、配役が異なる。マキノ版は、丹下左膳/大河内傅次郎、お藤/水戸光子だからね。坂東妻三郎、淡島千景、なら、松田定次監督「丹下左膳」(1953)であるようだ。
上の年表を見ればわかる通り、林不忘、マキノ雅弘、山中貞雄は、ほぼ同時代人である。山中貞雄の作品の試写を観た林不忘は、この映画の中の丹下左膳は自分が作品の中に造形した人物とは違う、と言って、席を立ったと言われている。確かにこの作中の丹下左膳は、冷血無比な剣豪、というよりは、おっちょこちょいで子供好きの好々爺、だからね。タイトルが「余話」としなければならなかったのも、なるほどクレジットにも原作者名がないのも、そういう事情であるらしい。でもそれを言うなら、マキノ作品の左膳も、「南無妙法蓮華経」を唱えてみたりするところなんか、原作とは似ても似つかないとは言える。ここで言及されている松田定次作品についても、左膳がお藤に向かって「おれの女房」というわけがない(笑)、と、原作を読んだあとなら断言できる。なるほど、これら二つの作品は、林不忘が既に亡くなってから、ずいぶん後に精作されたから、原作者は、「文句」のつけようがなかったのだな。

林不忘(長谷川梅太郎、谷譲次、牧逸馬)(1900-1935)
山中貞雄(1909-1938)
1922京都市立第一商業学校入学
1935「丹下左膳余話 百萬両の壺」
1936「河内山宗俊」
1937「人情紙風船」
マキノ雅弘(正博)(1908-1993)
1921京都市立第一商業学校入学
1953「続丹下左膳」
長谷川四郎関連の記事は(↓)、
友情のために大地を、耕そうとした私たちだが、自らは友情的にはなり得なかった・・・。
鴫立沢(しぎたつさは)の夕暮に笻(つゑ)を停(とゞ)めて一人歎き、・・・。


上で、武田麟太郎「一の酉」、の話をしたが、きっかけは織田作之助「天衣無縫」(角川文庫)が古本屋で100円で投げ売りされていたこと(笑)、「青春の逆説」織田作之助(青空文庫)が「時局に合わない」、と発禁処分になったという話から、「四月馬鹿」織田作之助(青空文庫)に武田麟太郎に関する記述が見つかり、ともに大阪生まれで、「第三高等学校」出身、武田麟太郎は卒業しているが、織田作之助は中退、という、十歳ほど年齢は離れているものの、似た経歴も、親しみを感じた理由の一つであろうと想像された。私もまた、その「三高」の後身である、京都大学教養部に在籍していたことがあるから、時々、懐かしい記述に出会う、河原町三条の「リプトン」で食事をした、などと書いてある、あの紅茶の輸入商社であるリプトンが、今で言う「ファミリーレストラン」のようなものを経営していたのだが、「スパゲッティ・ミートソース」を食べたのち、コーヒーを注文して、いつまでも粘る、ということもできたそんなに高くつかない店だったから、私たちもまた、しばしば利用した、そんなに「歴史」のある店とは知らなかった(笑)。もう少し時代が下がるが、同じく「三高」出身、いや、中退だが、古山高麗雄、中退であるにもかかわらず、手続きの不備から、応召後士官候補生扱いを受け、かつ、試験に不合格、一兵卒としてビルマの戦線に従軍、「ゲリラ掃討」作戦で、逃げまどう母子への銃撃を命ぜられたが、正確に「目標の三メートル手前」に照準を合わせることで、ついにただ一人も殺害することなく帰還したこの人は、自ら述べるように、学生時代から、「反国家」、「反軍」の言辞を弄する「問題」児であった。武田麟太郎は、「ナップ」に作品を投稿していることからも、かなり深く、共産党にコミットしていたことが窺われるが、1936年、プロレタリア文学運動への弾圧を期に「転向」した、とされている。

彼は塾生の誰もが三高生であることを誇りとして、銭湯へ行くのにも制帽を脱がぬのをひそかに軽蔑していたのである。人一倍虚栄心の強い豹一がそんな制帽に未練をもたぬとは、彼も相当変ったのである。しかも京都では三高の生徒位、「もてる」人種はいないのではないか。彼は腰につるしていた手拭をとってしまった。
(これはなんのまじないだ! 三高生の特権のシンボルか)
つまり、彼はその特権が虫が好かないのだった。
・・・
豹一は吉田神社の長い石段を降りて、校門の前まで来た。
・・・
グラウンドの隅に建っている寄宿舎はわりに静かだった。皆んな夕食後の散歩に出掛けたらしかった。記念祭が近づいたので誰もそわそわして落ち着かず、新入生の歓迎コンパだと称して毎晩のように京極や円山公園へ出掛けて行くらしく、その自由さが豹一には羨しかった。
ふと振り向くと、東山から月がするすると登っていた。それが豹一の若い心を明るい町の方へ誘うようだった。その左手の叡山には、ケーブルの点々と続いた灯が大学の時計台の灯よりもキラキラと光って輝いていた。校庭の桜の木は既に花が散り尽し、若葉の匂いがした。
・・・
寄宿舎の横の小門を出て、電車道伝いに近衛通の方へ肩を並べて歩きながら、
・・・
荒神口の方へ道を折れて行った。
「青春の逆説」織田作之助(青空文庫)
ある部分は、「自伝的」作品なのであろう、高利貸しの後妻に入った母・お君に負担をかけぬよう、地元の篤志家の奨学金によって、三高へ進学、その奨学生の寮は、吉田山の中腹にあったのではないかと思われる。このあたりの記述は、読むだけで、さすがに風景が目に浮かんでしまうほどに、懐かしいので、思わず引用してみた(笑)。吉田山を降りて、「校門」の前に来たというが、左手が旧三高、京大教養部、今は、「総合人間学部」とかいうのかな、の門、右手が、京大本部、その頃は、京都帝国大学だったのか?の門、「グラウンドの隅に建っている寄宿舎」は、今はどうなっているのか知らないのだが(笑)、吉田寮のことなんだろう、そこから「電車道」、私が京都に住み始めてからまだ何年かは、東大路、または東山通、に「市電」、路面電車が走っていた、に沿って南下すれば、「近衛通」、「熊野神社」、そこを右折して、川端通に出る手前の丸太町通り南側に、私の住んでいた(笑)、京大熊野寮があるのだが、豹一君たちは、それより手前で、右折、荒神橋を渡るようである。河原町通荒神口には、その頃、私が住んでいた70年代後半の話だが、立命館大学が、まだ衣笠への移転を終えていなくて、広小路にもいくつか校舎が残っていた、その立命館広小路学舎の学生だった高野悦子「二十歳の原点」でいたく知られるようになった、ジャズおよびクラシック喫茶「しあんくれーる」。
赤井は先に立って、花遊小路の方へ折れて行き、
「この小路の玩具箱みたいな感じが好きなんだ。僕はいつも京極へ来ると、さくら井屋の中と花遊小路を通り抜けることにしているんだ」
と言いながら、四条通へ抜けると、薄暗い小路へはいって行った。
「青春の逆説」織田作之助(青空文庫)
「花遊小路」というのは、新京極を南下して、四条通に出る直前、ちょいと東に折れる狭い路地だったと思う。「さくら井屋」は三条通りにそんな土産物屋があったらしいことは、確認できるのだけれど、私が住んでいた頃にもそれがあったのかどうかはわからない、記憶の中にそんな風な店があったようにも思えるのだが、残念ながら、はっきりしない。
当もなく京極を歩いて、誰か知った顔に会えへんやろかと眼をきょろつかせた。この前一銭の金を借りるために、京極を空しく三往復したことを想い出したりした。その時十四銭もっていたのだが、腹は空っているし、珈琲ものみたかった。結局「スター」の喫茶店で十五銭のホットケーキを食べれば、珈琲がついているから、一挙両得だと思ったのであるが、それには一銭足りない、誰か知った奴に会わないかと歩きまわったのである。「スター」の前を六度通ったが、そのたびに、陳列窓のなかにあるホットケーキの見本が眼にちらついてならなかった。三条の「リプトン」で十銭の珈琲を飲むか、うどんをたべるかどっちかにしようと自分に言い聴かせたが、どうにもホットケーキに未練が残った。ふわっと温いホットケーキの一切が口にはいる時のあの感触が唾気を催すほど、想い出されるのだ。蜜のついている奴や、バタのついている奴や、いろいろ口に入れたあとで、にがい珈琲をのんだら、どない良えやろかと、もう我慢出来なかった。顔を見知らぬ三高生が一人擦れ違ったので、済まんけど、一銭貸してくれへんかと頼むと、妙な顔をして、無いぞオと断られた。わいはなんでこないに金が無いのやろ、泣いてこましたろかと、半分泣きかけていたのであった。――会いたいときはなかなか知った顔に会わんもんやなと、その時のことを想い出していると、急にホットケーキが食べたくなった。京極の真中で、財布をあけて勘定してみたら三十銭あった。「スター」へはいってホットケーキを食べた。そこを出て、京極通を三条へ出て、河原町通を四条の方へ引きかえした。四条河原町の手前にある小路を左へ折れて、「ヴィクター」喫茶店へはいった。・・・丸太町の電車通りに添うて熊野神社まで来ると、大学の時計台が見えた。近衛町まで来ると、もう時計の文字がはっきり見え、既に午後一時過ぎだった。・・・近衛通から吉田銀座へ折れて錦林通へ出る細いごたごたした小路へはいって行った。そこに馴染の質屋があった。
「青春の逆説」織田作之助(青空文庫)
私は、今、ちょっと、柄にもなく感動しているんですけど(笑)、「リプトン」も「スター」も、織田作之助が二十歳少し前とすれば、1930年代初頭、から、私がその近辺にいた1970年代末を経て、なお2019年現在、健在の様なのである。
リプトン三条店
レストランスター京極店
カステラの「長崎屋」が、河原町通り沿いに、あったような気もするが、今の地図では見つけられなかった。「近衛通から吉田銀座へ折れて錦林通」は、もちろん、今でも街並みが目に浮かぶ。「新京極」や「寺町通り」は、十分知り尽くしているつもりだったのに、今思い出そうとすると、ちっともはっきりしない、いつの間にか(笑)、那覇の牧志の「平和通り」と混同したりしている。
校門をはいって直ぐ右手にある賢徳館という古い建物のなかで、及落決定の教授会議がひらかれた。
「青春の逆説」織田作之助(青空文庫)
京大教養部の「校門をはいって直ぐ」左・手・に、尚賢館という、「古い建物」があり、どういういきさつなのか知らないが、わが、関西「共●産主義者同盟」系「赤ヘル」ノンセクト・京大全学学生自治会同学会の「アジト」であった。もう、建物の外郭しか残っていなくて、雨をしのぐことはできても、床板は朽ち果てて、土間同様だったと思う。多少の印刷用の機材が置かれている以外は、全然金目のもののなかったから、時おり、中●核派が、大阪市立大学から、トラックに活動家を満載してやって来て、半日、ないし、一日、「占領」しても、それほど打撃は大きくなかった。その頃も、いや、昔は、賢徳館という建物があったんだ、という話を、聞いたことがあるような気もするし、いや、違ったかもしれない。

武田麟太郎(1904-1946)
1923第三高等学校入学
1926東京帝国大学文学部仏文科入学
1936「人民文庫」創刊、後、転向
1932「日本三文オペラ」
1935「一の酉」
織田作之助(1913-1947)
1931第三高等学校入学
1936同退学
古山高麗雄(1920-2002)
1940第三高等学校入学
1941同退学
1942仙台歩兵第四連隊入隊、幹部候補生落第
織田作之助に、「女の橋」、「船場の娘」、「大阪の女」、という三部作がある。某pediaの記事では、その発表年がわからない(笑)、多分ちくま文庫版の文学全集、「織田作之助」が、この部屋のどこかに(笑)あるはずなのだが、その巻末には多分年表がついている筈で、それを調べればわかるはずだから、後日を期すことにして、これは、「太左衛門橋」という、道頓堀川に架かる橋を、「渡る/渡らない」ということの、ほとんど「地政学的geo-political」な意味を追求している、と読める(笑)。作品の発表が、どういう順序なのか、従って、今は不明だが、角川文庫版「天衣無縫」収録が、その順序に従っているように、この三作は、この順に読めば、同じ登場人物の、「経時的」な流れがつかみ取れるようになっている。
東横堀は船場の内である。
横堀川に斜めに架かった筋違橋の東詰を、南へ一丁、川に添うて行くと、伊吹屋という瀬戸物問屋がある。
「女の橋」織田作之助(角川文庫「天衣無縫」所収)
「伊吹屋」が実在するとは、さすがに(笑)思えないが、こうまで「道案内」されれば、探さないわけにはいかない、オダサクは、どこかで、具体的な「地名」を作品の中に散りばめることの「意味」を語っていた、それもまた、見つけたら報告するが、ならば、読者も、せっかくのその散りばめられた「地名」に、拘泥すべきだと思える。運河と橋の多い大阪の町は、その後、おそらく高速道路のような大規模な「インフラ」建設は、他ならぬ「川」の上の空間以外に利用することが出来なかったからだろう、物凄い勢いで「埋め立て」が進んだのだろうと思われる、だから、ほんの百年にも満たない以前のこれらの書物に描かれた「橋」のほとんどが、今は、実在していないようなのである。「筋違橋(すじかいばし)」は、今は埋め立てられた「西横堀川」の、それは、道頓堀川から分かれて南流するものであったようだが、上流、すなわち北から四つ目、土佐堀通りと本町通の間にあったようである。第一作「女の橋」は、その「伊吹屋」の番頭、藤吉に焦点が当てられる。「総領の甚六」たる恭助が、暖簾を継ぐにはいかにも頼りないので、老・番頭の厳格な「管理」の下で、「遊蕩」を放任する、それが「船場」のやり方なのだ。宗右衛門町、難波方面から、道頓堀川を、その太左衛門橋を北に渡ったところに位置しているが、遊●郭の街であったようで、「大和屋」の小鈴なる芸者と懇意となり、妊●娠する。その「総領」の結婚の約束を真に受けて、瀬戸物問屋の御寮様になるには、読み書きが出来ねば不都合だろう、と小鈴は、まじめに勉強するのだが、そこに番頭の藤吉が現れ、離縁を迫る。手切れ金の受け取りを書くのに、初めて、その「読み書き」の勉強が役立つという、皮肉な結果になった。生まれた子供、雪子、は母からただちに取り上げられ、船場の老舗の「お嬢さん」として育てられる。小鈴は、大阪にいたたまれなくなり、名古屋でやはり芸者の商売をしたのち、数年後、舞い戻る。娘雪子が二十歳というから、それだけの時間が流れたことになるが、踊りを習っている雪子が、「娘道成寺」を演ずるお披露目が、「中座」で行われることを聞きつけ、そのバックの三味線演奏は、宗右衛門町の芸者衆が引き受けることになっていたことから、かつての同僚に頼み込み、母、小鈴は、そうやって、一目、娘の晴れ姿を見ることになる。既に病んでいた小鈴は、演奏が終わるや倒れ、その棺は、「中座」、これは、現在は、「くいだおれ」ビルの裏手になるようである、から、太左衛門橋を北に渡って、宗右衛門町へと、運ばれる。すべての因縁を知った雪子は、その橋を渡ることで、自分が「船場」から、永久に離脱することを決意する。船場は、私の理解では、地下鉄中央線沿線、本町から堺筋本町辺りであろうから、太左衛門橋、宗右衛門町、のさらに北に位置するから、この橋を「渡る」ことが、「船場」的世界との「決別」を意味する、としたら、それは、あくまでも象徴的な意味においてである、と言わねばなるまい。
太座衛門橋を渡り、畳屋町をまっすぐ、鰻谷の露地裏へ送っていく道々、雪子は、
「うちは阿保やった。うちは阿保やった・・・・・・」
と、呟きながら、自分はもう船場とは何の縁もない人間だという想いが、ふっと頭をかすめた。
「女の橋」織田作之助(角川文庫「天衣無縫」所収)
畳屋町、は、かつて、小鈴が、宗右衛門町「大和屋」で働いていたときに、母と住んでいた場所、法善寺横丁の「夫婦善哉」、これは、オダサクの別の作品のタイトルになっているけれども、甘いものの店で、小鈴がそこで初めて、「総領」に、後に雪子となる子供を身ごもったことを告げる。高津神社の境内の安井稲荷、が登場する、「安井さん」が「易い産」で、安産の守り神であったようである。
時代設定は、どうなっているのか、というと、
二十年近くの歳月が流れて、大正十一年の夏が来た。
「女の橋」織田作之助(角川文庫「天衣無縫」所収)
とあるから、大正十一年は、1922年、その年雪子が二十歳を迎えるのなら、雪子が生まれたのは、1902年、日清戦争と日露戦争の「戦間期」ということになろう。鰻谷、は、名古屋から戻った小鈴が住まっていたところ。

東横堀
宗右衛門町
畳屋町
法善寺、夫婦善哉
高津神社、安井稲荷
鰻谷
中座
娘道成寺
太左衛門橋
お内儀さんもいて、「雑誌に参ちゃん、参ちゃんて書きはりましたさかい、日配イ行っても、参ちゃん参ちゃんでえらい人気だっせ」
そしてこちらから言いだす前に「改造」や「中央公論」の復刊号を出してくれた。
「文春は……?」
「文芸春秋は貰ったからいい」
「あ、そうそう、文春に書いたはりましたな。グラフの小説も読みましたぜ。新何とかいうのに書いたはりましたンは、あ、そうそう、船場の何とかいう題だしたな」
お内儀さんは小説好きで、昔私の書いたものが雑誌にのると、いつもその話をしたので、ほかの客の手前赤面させられたものだったが、しかし、今そんな以前の癖を見るのもなつかしく、元の「波屋」へ来ているという気持に甘くしびれた。本や雑誌の数も標札屋の軒店の時よりははるかに増えていた。
「神経」織田作之助(青空文庫)
この作品は1946年4月に発表されている。そのちょうど一年前の作品に、「起ち上る大阪」というのがあり、ということは、まだ「戦争中」だが、その1945年3月の大空襲の直後の大阪の街を歩き、全焼、全壊した店舗を、早くも仮設のバラックではあるものの、商売を再開しはじめようとしている、旧知の喫茶店や書店の店主を訪ねるという趣向のルポルタージュであるが、
・・・輿論指導の下手糞な近頃の新聞としては、書きも書いたりと思われた。早い話が、この記事を読んだ大阪の人びとは、何ものにもへこたれない大阪人の粘り強さというものに改めてわが意を強うしたであろうし、また、散っても散っても季節が来れば咲くという文化の花の命永さに、今年の春をはじめて感ずる思いを抱いたことであろうし、ひいては大阪の復興に自信が持てたことであろうし、・・・
「起ち上る大阪」織田作之助(青空文庫)
と、「検閲」と「戦意高揚」の「輿論」を嘲笑するかに見せて、ちゃんと「戦意高揚」の「輿論」に身を擦り寄せた一文であったが、いや、非難している訳じゃない、「終戦後」その同じ出版社の依頼を受けて、同じ街並みを再訪するというのが、こちらの「神経」の方の、趣向のようで、むしろ新鮮な驚きなのは、「玉音放送を境にす・べ・て・の・価値観が変わった」と聞かされてきた「戦後民主主義の子供」(笑)にとっては、その「連続性」の方なのだな。神戸の震災の後、初めてそこへ向かったのは、もう二週間もたっていたけれど、それから、ほぼ一年近く、月に二度三度の割合で、特に能のない人間には、もはや「ボランティア」などと言う「仕事」もなかったのだけれど、意味もなく、ただ、「被災地」を歩き回ったものだが、そうして、「復興」というものが、予想をはるかに超えるスピードで進行するありさまを、つぶさに見ることができた。「復興」するた・め・に・「破壊」があったのではないか、などと言うシニカルな感慨が飛び出しかねないほどのものだったが、だから、ここでも、70年以上前の「戦後復興」の「速度」が、多少は想像できるような気がする、「国体護持」から「民主主義」への鮮やか過ぎる「転身」は、確かに醜かっただろうが、人々は、そんなことぐらいで「呆然としている」閑はなかったのかもしれない、などと、遅まきながら想像してみることもできるようだ。
「波屋」というのが、その本や、「参ちゃん」がその主人、
「書きはりましたさかい」が、一年前の「起ち上る大阪」のことを指しているのだろう。注目したのは、「お内儀さん」の台詞で、「新何とかいうの」に「船場の何とかいう」のが出ていたのを読んだ、と言う、「船場の娘」は、上に引用した、「女の橋」の続編にあたるもので、おさめられている「天衣無縫」(角川文庫)には、発表の日付が書かれていないのであるが、これで、証拠がつかめたわけである。この三部作は、「終戦直後」に書かれたのであろう、という結論にしておこう。
「嬢さん、何言やはります。僕は前科者の息子です」
そういうと、雪子はいきなり、
「うちかテ妾の子や」
「えっ・・・・・・?」
「うち芸者の子や」
と、けろりとした顔だった。秀吉は、雪子が嘘を言っているのかと、思わずむっとなるところだったが、
「今日まで誰にも言えへんかったけど、今のお母はんうちのほんまのお母はんと違うねン。うちのほんまのお母はんは南の宗右衛門町で芸者したはって、お父はんのお妾にならはってん。うちそのお妾の子や。生まれたらすぐこの家へ連れて来られて、嬢さん、嬢さんいうて大きな顔して育ってきたけど、ほんまは小そうなって暮らしてんならん人間や。・・・・・・なア、秀吉ッとん、あんたは前科者の子供やいうて小そうなったはるけど、うちかて日蔭者の子供や。夫婦になったかテ、かめへん」
「船場の娘」織田作之助(角川文庫「天衣無縫」所収)
「大阪弁・変換」のアプリケーションが欲しいところであるが(笑)、こうして、この「雪子」が、前作「女の橋」の小鈴の子供であったことが、続けて読んだ読者には、わかるようになっているのだ。「秀吉」、この船場の瀬戸物問屋の「丁稚」であるが、父が、おそらくわずかの額の横領で実刑に処されている、貧乏人は検事に賄賂を贈ったり弁護士を雇ったりできないからだ、と、奉公仕事のかたわら、弁護士試験の勉強をしている。「雪子」は、梅花女学校、今は、郊外にあるが、当時は土佐堀にあったようである、の学生で、ミッション系の女学校だから、きっと英語が得意だったんだろう、「秀吉」に教えたりもしている。冒頭、天神祭の最中、近所で誰かがハーモニカで「枯れすすき」を吹いている。当時の大ヒット曲だったようで、さすがに記憶にはないが、戦後の「貧しさに負けた、いえ、世間に負けた」の「昭和枯れすすき」の、こちらが「本歌」だったのだな。
秀吉は、雪子を振り切って働いて勉強を続けるべく東京へ、雪子は大阪駅まで追って来て、駆け落ちしようというが、前作にも登場した番頭の藤吉が、察知して止めに来る。一月後、電話で・・・、
「―ほなら、うち東京イ行ってもええ?」
「ぜひ、僕東京へ来て、いろいろ考えましたが、やっぱり嬢さんのことがわすれられません。嬢さんと二人で暮らす方が本当の倖せや、考えました」
「そんで、電話してくれたの」
「ええ」
「うち、今晩たつ。電報打つさかい、迎えに来度きとう!」
「行きます、行きます」
電話の声も弾んでいた。
「電報どこイ打ったらええのン?」
「東京市・・・・・・」
と言いかけた時、ぽつりと電話が切れたので、
「あ、もしもし・・・・・・」
と、言おうとすると、ゴオッーという音とともにはげしく揺れ出した。
「あ、地震!」
雪子はぱったり受話器を落として柱にしがみついた。柱から時計が落ちてきた。時計の針は十一時五十三分をさしたまま、停まっていた。
「船場の娘」織田作之助(角川文庫「天衣無縫」所収)
関東大震災は、1923年9月1日、前作で推定したように、雪子の生年が1902年とすると、21歳ということになる。五年後、震災後の東京で、とても弁護士の勉強どころではなく、生活に追われてくたびれて大阪に舞い戻ってきた秀吉と、北浜の株屋に嫁いだものの、妾の子であることがわかって追い出され、母と同じく宗右衛門町の芸者になった雪子が再会するのが、また、この、「太左衛門橋」の上なのである。そこらへんでお茶でも、と誘う雪子に、秀吉は、気弱く、また今度、と断る、懐には、うどん屋に入る銭もなかったのだ。
「暖かくなったワ。もうじき春でんなア」
「ウインター イズ ゴーン」
秀吉はしみじみと一人ごとのようにつぶやくと、雪子も、
「スプリング ハズ カム」
眼と眼で微笑み会った。・・・
「船場の娘」織田作之助(角川文庫「天衣無縫」所収)
これがエンディング、冒頭の、天神祭りの日、雪子が英語を教えるシーンと、重なるように「枠構造」になっているのだ。
「枯れすすき」
「枯れすすき」
天神祭
梅花女学校
筋違橋
三作目の「大阪の女」、の舞台は、戦後、焼け跡のバラックで、雪子という名の水商売上がりの女が、娘と一緒に、喫茶店を経営している。復員して帰ってきた主人公の青年島村は、船場、道修町(どしょうまち)の薬屋の「ぼんぼん」、雪子の娘、葉子が目当てで、通いつめている。
「―芸者や妾の子を軽蔑するのは、古い考えだ。娘を芸者や娼妓に売ったのは、無智な庶民階級だが、僕はそういう親達を憐れみこそすれ、憎みたいとは思わん。それにくらべて僕はブルヂョワの息子に生まれたけれど、ブルヂョワやプチブルは大嫌いだ。彼らは娘を売らなかったけれど、自己保存の本能から、家と家との結婚の代表的見本みたいな見合結婚などという愚劣なものを、娘に押しつけて、娘を芸者や娼妓に売った親達以上に、娘を苦しめたりして来た。僕はこういう親達を、憐れむ前にまず憎みたいくらいだ。・・・」
「大阪の女」織田作之助(角川文庫「天衣無縫」所収)
・・・などと豪語する割には、自分の親に葉子との結婚を反対されると、言い返すこともできずに、こっそり「駆け落ち」などを思い描いているらしい。ある夜、雪子は、決意して、葉子に、自分の生い立ちを初めて語る。そこで、前二作とのつながりが、初めて明かされる仕掛けになっている。
母の青春を踏みにじったのは船場だ。そして、母を芸者にしたのも船場だ。しかも、今自分はそんな母の子に生まれて、船場の息子と一しょに駆け落ちしようとする。
「大阪の女」織田作之助(角川文庫「天衣無縫」所収)
一晩まんじりともせずに過ごした葉子は、しかし、決意を曲げなかった。
「行き!行き!お母ちゃん、もう停めへん。お母ちゃんみたいにならんと、倖せに暮らして・・・・・・」
雪子は地下鉄で大阪駅まで送って行った。駆落ちをする娘を送って行く母親がどこの世界にあるだろうかと、皮肉な想いよりも悲しい想いが強かった。
「大阪の女」織田作之助(角川文庫「天衣無縫」所収)
こうして、エンディングは、地下鉄、なのであるが、では、三作に通底していた、「船場」的世界、から、「宗右衛門町」的世界、へ、の「離脱」を表象する、「太左衛門橋」は、どこに出てくるのか、というと、
「そうだす。十三日だした。大阪の南がすっかり焼けてしもた日イだす。竜巻に追われて、道頓堀まで来ましたら、もう道頓堀も火の海でっしゃろ。というて、引き返すに引き返されしめへんし、火の中をくぐって太左衛門橋を葉子と二人で渡って北へ逃げましてん。そうしたら、あんたちょうど二人が橋を渡り切ったと思った途端に、橋がばさんと二つになって焼け落ちましてな。もうちょっとおそかったら、橋と一緒に葉子もわても川へ落ちてたとこだした。・・・」
「大阪の女」織田作之助(角川文庫「天衣無縫」所収)
上でもふれたように、大阪の大空襲は、1945年3月13日の夜、だったようである。神戸の震災の後、ほんの少し、引越しの手伝い「ボランティア」をした縁で、その後も何度か中学校の校庭でテント暮らしをしていたYさん、いや、もう、本名も思い出せないのだ、を「慰問」したことがあって、いや、そのおばさんも、水商売の人、北野のスナックのママさんだから、話し上手で、もっぱら向こうが喋るばかりで、ちっとも「慰問」なんかになっていなかったのだが、ある時、何かのきっかけで、「その日」の朝のことが話題になった。同じように、火の海の中を、娘さんと声を掛けあいながら逃げた、という話を、もう、私がそこにいることなんか忘れたように、ちょっと、「憑かれた」ように話し終えると、何か、それこそ「憑き物が落ちた」ように、すがすがしい表情になっていることに気付き、あとから思えば、あれこそが、「トラウマ経験」を「語る」ことの「治療効果」を、目撃した、最初だったのだな、と、繰り返し思い出すことになるのだった。
大阪劇場


Like a Rolling Stone/Bob Dylan
Once upon a time, you dressed so fine
Threw the bums a dime in your prime, didn't you?
People'd call, say: "beware doll! You're bound to fall!"
You thought they were all kiddin' you
You used to laugh about
Everybody that was hangin' out
Now you don't talk so loud
Now you don't seem so proud
About having to be screaming for your next meal
How does it feel?
How does it feel?
To be without a home?
Like a complete unknown?
Like a rolling stone?
Youve went to the finest school, all right, miss lonely
But you know you only used to get juiced in it
Nobody has ever taught you how to live on the street
And now you're goona have to get used to it
You said you'd never compromise
With the mystery tramp, but now you realize
He's not selling any alibis
As you stare into the vacuum of his eyes
And saying "do you want make a deal?"
How does it feel?
How does it feel?
To be on your own?
With no direction home?
Like a complete unknown?
Like a rolling stone?
bum浮浪者、dime10セント硬貨、in one's prime全盛期には、hang outたむろする、juiced酔っぱらう、tramp歩行(者)
ライク・ア・ローリング・ストーン、転がる石、「転石」の如く/ボブ・ディラン
一頃あんたは、いい身なりをしていた
全盛期には、浮浪者を見かけると、10セント硬貨を投げ与えていたものだ、違うかね?
みんな言ってたよ、「気をつけな、お人形さん、そのうち絶対、落ちぶれるから」
冗談だと思ってただろ
ごろごろたむろしてるやつらのことを、笑い飛ばしてたもんな
いまやあんたは、あんまり大きな声では喋らない
あんまり自信たっぷりって風にも見えない
次の食事のために声を嗄らさなきゃならないんだからな
どんな気持ち?
ねえ、どんな気持ち?
帰る家がないってのはさ
誰にも知られないってのはさ
「転石」みたいなのは、ってさ?
上等な学校に行ってたんだろ、ミス・ロンリーさんよ
でもあんたはそこで、舞い上がってただけでしょう
誰も教えてくれなかった、路上生活のコツなんてね
いまやあんたはそれに熟達しなきゃならない
へんな小汚い奴らには我慢がならない、って言ってたけど
今になって分かった筈、
あんたがあいつのうつろな目をのぞき込んで
「取引したいの?」ときいたとき
あいつらも別に、「アリバイ」を販売してたわけじゃなかったんだ
どんな気持ち?
ねえ、どんな気持ち?
自分一人でやってかなきゃならないのはさ?
帰る家がないってのはさ?
全然誰にも知られないってのはさ?
「転石」みたいなってのはさ?
「How does it feel?、Like a complete unknown?/どんな気持ちだい?全然誰にも知られてないってのはさ?」って一節が、引っかかって、だから、このメロディーががんがん頭の中を鳴り響くことがしばしばあるのだけれど、そんなに好きな歌では、ない。今、ちらりと調べてみたのだけれど、ボブ・ディランの父方の祖父母は、リトアニア系ユダヤ人で、現・ウクライナのオデッサから、反ユダヤ主義の迫害をのがれて、アメリカに移住したようである。父親は地方都市の電器屋のオーナー、それほど裕福ではなくとも、まずまず恵まれた少年時代を過ごしたように見える。「アリバイを売る」っていう言い回し、何か意味ありげで、興味深いけど、やっぱりよくわからないな(笑)。この歌は、なにか、「セレブリティー」の女の人が、没落する様を揶揄しているように聞こえるけど、同時代の聴衆には、その「当てこすり」の対象が誰なのか、もちろん了解できたのだろう。略歴を見る限り、ボブ・ディランが「路上生活」を経験したようには、ちょっと見えないし、この歌に熱狂した観衆もまた、「ドロップ・アウト」したとは言え、「中産階級」だったのだとしたら、こういう語り口は、「フェア」ではない気も、しなくはない。自分で・は・な・い・「他者」を、同じく自分で・は・な・い・「他者」に当てこすって、留飲を下げているのだとしたらね。
いや、単に、complete unknown、全然誰にも知られないまま、まもなく、「この世」を退場することになる心の準備が、出来ていないから、こんなに狼狽える(笑)のだろう、「承認願望」といった言葉が流行り言葉になるくらい、人は、人から、つまり他の「個体」から、「ああ、そこにいるのね?」と、「知られて」いない事態に立ち至ることを恐れていて、他者から存在を「承認」、少なくとも、「認知」されなければ、「生きた」証拠が残せないから、証拠が残せないなら、それは「生きた」ことに、な・ら・な・い・、と脅え切っているように思われる、もちろん、それは、「私」だけの「ひがみ」である可能性は、高いが(笑)。



「幸福」を表象する隠喩として、誰からも疑いなく受け取られうるからこそ、「しばしば」用いられたんだろう。
はい、みなさん、こちらご覧になって下さい、はい、笑って!ああ、ほとんど真っ白さん、横向いてしまった。おかあさんも、もう少し、左の方をご覧になられて、はい、それでは、撮り直し、まいりますよ、はい、チー・・・、あらあら、今度は、ほとんど茶色さんが、動かれてしまいましたね、・・・、もちろん、うちでは、写真屋さんに来てもらって「家族写真」を撮る、などということは一度もしたことがない、映画なんかでしばしば見かけるこんな光景、「幸福な家族」を表象する隠喩として、誰からも疑いなく受け取られうるからこそ、「しばしば」用いられたんだろうし、こんな(笑)私までもが、猫にカメラを向けながら、そんな戯言を呟いてしまうほど。





ほとんど真っ白茶とら。左手に見えるつる性植物は、シンツルムラサキ(ツルムラサキ科)、滋養野菜として知られるツルムラサキの近縁種、サトウキビ畑をはじめ、こんな小汚いベランダにも(笑)、「蔓延る(はびこる)」雑草として忌み嫌われているが、栄養価は、ツルムラサキ同様に高いそうだ、まだ、食べてみたことはないけど。

ほとんど茶色の茶とら。こいつがのっかっているのが、「お手製」お食事用ブース、キャットフードが雨に濡れないように、どこかの選挙ポスターのベニヤ板をパクって来て、作った、もう、十数年前だ(笑)。コンクリートの隙間から生えた植物は、キンチョウ(ベンケイソウ科)、乾燥地に適応したCAM光合成植物として知られる。



ほとんど茶色の茶とら、が、ほとんど真っ白三毛おかあさん、に、「何事かを訴え」ている風だね(笑)、うしろの方から、ほとんど真っ白茶とらが、「見守る」、その背後に、大きな葉っぱが見えるだろう?クワズイモ(サトイモ科)、放置されていたプランターに着床して、いまや、堂々たる「観葉植物」の風情で、「我が家」の「玄関先」(笑)、を飾ってくれているのだが、もっぱら根で増えると思っていたが、いや、そのプランターに芋が残っていた可能性もあるが、あるいは、種がどこかから運ばれて、「実生」として生じたものであろうか?その名の通り、有毒植物であるし、鳥がその実を食するのかも不明、なぞは多い(笑)。


何か、鈍い「痛み」の如きものを感じたのは、そんな由来だったのだな。
「家族写真」の話のついでで、長らく忘れていたこと、つまり「検閲」がかかっていたから思い出さなかったのだろうが、を思い出した、写真屋さんに頼んで家族写真を撮る、などと言う贅沢ができなかったのは言うまでもないが、そもそもそんなことをするはずもなかったのは、父が、貧乏は貧乏なりに、カメラを趣味としていて、確か、今はリコーに吸収されてしまったが、アサヒペンタックス、という、多少は通好みのカメラを大事にしていて、風呂場の片隅に暗幕を張って、自宅で現像、などもしていたのだった。他には、書物を買うくらいしか「趣味」はなかったから、それほどの散財でもなかったのかもしれないが、家計のやりくりをしなければならない母は、つねに不満を漏らしていて、まあ、「うつ病」っぽい母が、「不満」以外の言葉を口にした記憶も、ほとんどないのだが、そうなると、日中そんな母の愚痴に付き合わされる時間が最も長いから、否応なく「孝行息子」たらざるを得ない私は、母に「肩入れ」することになり、同じく、父の「趣味」を軽んずる振舞に出ることになったのだな。だから、うちには、父が撮影した、スナップショットが、もちろん、モノクロの、だから、いわゆる「セピア色」風に古ぼけた、山ほどあった筈なんだが、父の葬儀の晩に、言い争いをして「飛び出し」、沖縄に逃げ戻って来た私は、そんな写真を一枚も持っていない。そうやって、自分の「子供時代」を、「消去」したつもりなのだ(笑)。でも、気がつくと、猫や鳥や魚ばかりではあるものの、そして、もっぱらオートフォーカスでシャッターを押すだけ、あとはパソコンの上で「トリミング」するだけ、とは言え、やはり「写真」を、ほぼただ一つの「趣味」にしていることに気付き、苦笑を禁じ得ないのである。海に潜るときに使う防水仕様のデジカメは、旧・アサヒペンタックス製、である(笑)、その名を口にするたびに、何か、鈍い心の「痛み」の如きものを感じたのは、そんな由来だったのだな。
「乳母」代わりをする羽目になったが、三日とたたずに、次々に身罷ってしまった子猫三匹、そのきょうだいなのだ、てっきり、おかあさんは、すべての子猫の「授乳」、「育児」をあきらめたのだ、と理解していたが、一匹だけ、どこかに隠していたらしい、ほとんど鳴き声も聞こえなかったので、気付かなかった、ようやく、こうして、「お披露目」となった模様、まだ、目が開くか開かないか、という状態だが、ここまで育つのに、どれほどの困難があるか、ということを、多少は身につまされるように(笑)知っているので、こうして、出てきてくれると、掛け値なしに、嬉しいのである。こんなに、猫、増やして、どうするんだい?との「不安」に、さいなまれつつも、・・・(笑)。こうして、スマホのカメラを向けて、時々手を出して(笑)、写真写りがいいように向きを変えたり(笑)はするけれど、近くで、おかあさんが、やや心配げに、不審げに、見守っているから、あまりみだりに、撫でまわしたりは、しない。







































文字名単独形右接形両接形左接形
1'alifاـا長母音化→ى
2baa'بــبــبــبــ
3taa'تــتــتــتــ
4thaa'ثــثــثــثــ
5jiimجــجــجــجــ
6haa'حــحــحــحــ
7khaa'خــخــخــخــ
8daaدــد
9dhaalذـــذ
10raa'رــر
11zhayزــز
12siinســســســســ
13shiinشــشــشــشــ
14saadصــصــصــصــ
15daadضــضــضــضــ
16taa'طــطــطــطــ
17zaa'ظــظــظــظــ
18'aynعــعــعــعــ
19ghaynغــغــغــغــ
20faa'فــفــفــفــ
21qaafقــقــقــقــ
22kaafكــكــكــكــ
23laamلــل ــلــ لــ
24miimمــمــمــمــ
25nuunنــنــنــ نــ
26haa'هــهــهــ هــ
27waawوــو
28yaa'يــيــيــيــ
3'taa'ةــة女性化語尾
1+23'alif+laamلا ــلا合字
hamzaء أ إ لأ لإ ئ ؤ




シロチドリ(チドリ科)

クロサギ(サギ科)・白色型





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Last updated  2022.04.06 16:45:07



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