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ねこログ

2021.02.08
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メジロ(メジロ科)、ヒカンザクラ(バラ科)

カタバミ(カタバミ科)

イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス

シロハラ(ツグミ科)

シロガシラ(ヒヨドリ科)


「ねこログ」、総目次(笑)/「スクラップ・ブック」、の、目次。
目次:「当たり前だ。そのつもりで、運ばれてきたんだ。」・・・古山高麗雄を、読み直す/「その言葉も、僕が聞いた言葉の中で、やはり一番奇麗な言葉だった。アッサラームアレイコム。」…西加奈子「サラバ」を、読み直す/「土地は、母を意味する」、この抗議運動の屋台骨を支えているのは、そうしたインドの母たち、姉妹たち、娘たちなんだ・・・インド農民デモの記事/



名前のない、月。
「満月・望」の前夜が「待宵」、その前の「十三夜」は、そのまま月齢を言ったに過ぎないが、樋口一葉の小説のタイトルにもなるくらい、月見の習慣もあったようだし、特別な感じのする名称ではあろう、「十六夜」もそのまま月齢だが、これには「いざよい」という呼び名がある、以降、十七から二十まで、順に、「立待」、「居待」、「臥待」、「更待」などと言う風雅な呼び名がついている、十九日「臥待」は「寝待」とも言う、それが、翌二十一日からは、「名・前・が・な・い・」のは、いわば当然のことで、夜半遅くに出て、「有明」として西の空に残るものの、太陽光にまぎれて、あまり見ることもない、という事情なんだろう、こうして、たまたま晴れが続いてくれたから、撮影を試みてみて、確かに、その「なじみのなさ」だけは、体感できることになったのだな(笑)。


旧暦十二月二十二日の月、南中



旧暦十二月二十二日の月、南中二時間後「有明」

旧暦十二月二十二日の月、月の入二時間前「有明」

旧暦十二月二十三日の月、月の出一時間後

旧暦十二月二十三日の月、南中

旧暦十二月二十三日の月、南中、「有明」

旧暦十二月二十三日の月、南中一時間後、「有明」、この月の「月の出」は夜半過ぎ、だから、昇った時はすでに、「旧暦十二月二十四日」なのだが、それは、夜半に日付が変わる、という「約束事」のせいなのであって、確か、島崎藤村「夜明け前」に「二十三日の月待講」というのが出てきた記憶があるが、二十三日の夜更けまで、「月」を「待つ」のを言わば「口実」にして、酒を飲み、歓談したのであろう、宵の口から始めたのなら、充分「ぐでんぐでん」に酔っぱらえただろうな(笑)、そんな風に、この月は、やはり、「二十三日」の晩、その延長、に「迎えられた」のだから、それでいいのだ、と思う。

旧暦十二月二十四日の月、月の出二時間半後

旧暦十二月二十四日の月、南中、「有明」



旧暦十二月二十五日の月、南中、「有明」、この月の、月の出は、午前二時ごろ、「二十四節気」は、「冬至」から数えて、「小寒」、「大寒」、「立春」、「雨水」、「啓蟄」、「春分」、と続くのだが、今はその「立春」と「雨水」の中間だから、日照時間を表わす関数を、
y=-cosx
とすれば(笑)、最小値「冬至」の位相が0、振動の中心、±0となる「春分」の位相が1/4、に対して、現在、1/8を過ぎたあたりな訳だから、話が長いが(笑)、そろそろ日も長くなってきているので、月の出から、夜明けの間の、暗い空に浮かんでいる時間はますます短くなる、つまりは(笑)、寝過ごしたのだ、さらに、だんだん細くなって、光の量も足りないから、まもなく空が明るくなってしまえば、もうこんなか細いものは、見つけることがかなわない、だから、言わば(笑)、貴重な月なんだ、と思って、何枚も何枚も、変わりばえのしないものを撮った。
α、は、地球の公転面の法線と、自転軸とのなす角23.4°
θ、がその地の緯度、「北緯」をプラスとする
すると、
cosφ=-tanθ・tanα
によって算出されるφが、日照時間の半分を著す角度となる、らしい(笑)、三年ほど前に自分で作ったものだが、「夏至の日照時間の研究」、によれば、・・・、「夏至」以外についてはどうする?地球の中心から太陽を望む角度は、「夏至」に+α、「秋分」に0、「冬至」に-α、「春分」に再び0、であるから、これを正弦関数的に割り振って、上式のαをこれで差し替えればよい訳だ、ほんとか(笑)?

Tを太陽年、tを「春分」からの日数、「二十四節気」に「翻訳」したければ、下の式、「春分」を0として、純に割り振ったjなる整数を用いればよかろう。
那覇市は東経127.68度、日本の標準時は兵庫県明石市135.00度で定めるから、
60×12×(135.00-127.68)/180=29.3
と言う訳で、29.3分、ここでは、何もかもが「遅れる」わけである(笑)、計算上得られた日照時間を単純に半分にして、正午からそれだけ遡った時刻を「日の出」、同じく正午からそれだけ経過した時刻を「日の入」と、大雑把に計算したうえで、その「時差」を加味してみると、こんな具合、

差し当たり、「春分」と「雨水」の間の今日の「日の出」は、午前7時ちょっと前、まあ、当たらずと言えども遠からず(笑)。
続いて、月が細くなると見付けにくい、談義、として、ずっと前、どの作品だか忘れたが、山崎ナオコーラの小説で、恋人同士が月を見ている、「満月かな?」、「ちょっと待って」、ともう一人がスマホを取り出して、どこかを検索すると、日付を入力すれば、「月齢」その他の情報がたちどころに出てくるらしい、そこに「輝面比」なる用語が登場、真似をして「検索」すれば済むものを、「数学の先生」であったという「矜持」が邪魔をして、光っている部分の全円に対する面積比だろ、と雑に(笑)推測し、計算してみたことがあった、こんな「置換積分」、「老衰」した今となっては、思いつけないだろうから、そのまま引用しておく、

ここにtは、「新月・朔」からの日数、つまり「月齢」を、「平均朔望月で除した数、であろうかと思う。

これが計算結果、なるほど、今日の月なら、光っている部分の面積は、「満月」の2割くらい、全天からそれを見つけ出す「確率」も同じく、2割に減る、ほんとか?(笑)、というような、当たり前すぎて何の感動もない結果を得、それでも、またしても「時間を潰せた」ことにありがたみを感じているところですね(笑)。

旧暦十二月二十六日の月、月の出二時間半後、昨日の「寝過ごし」を反省し(笑)、月の出は午前四時頃だが、無理をして夜更かしした、東側は、首里城につらなる小高い丘なので、顔を出すまでに一時間近くかかり、何度も屋上までの階段を行ったり来たりすることになったが、なんとか撮れた、それは結構なのだが、少し眠ってから、明け方、ふたたびカメラをさげて屋上へ登ったものの、空は青く晴れているのに、見当をつけた方向には、影も形も見当たらないのだな、薄い雲が覆っているのかも知れなかった、ほどなく太陽が昇り始めると、なるほど、この月を「追いかける」形になるから、近すぎて明るさにかき消されてしまうのだろう、「有明の月」も、昨日、「二十五日月」あたりが限界、ということなのかもしれない、そういうことも、いまさらながら(笑)、学ばれたわけだ。太陽と月とは、軌道面の傾き方も異なるし、角速度も、わずかだが月の方が遅くなるだろうが、大雑把に、24時間で360度が移転するなら、1時間当たり15度、太陽が昇った「今」が午前7時、月の出が4時だったとして、その差三時間、角度にすれば45度、なるほど、「近過ぎる」とは言えるかも知れないね。

地球から見た、月と太陽のなす角度



トラックに乗る前に、軍装して並んだ私たちの前で、尾形大尉が言った。
「当隊は、ただいまより、匪賊討伐作戦に出動する。当隊は、明日、午前中に匪賊の拠点であるところの某村を包囲する。隷下部隊から、歩兵砲が二門来て、援護する。匪賊はむろん、皇軍の敵ではない。だが場合によっては、白兵戦もありうる。しっかりやれ」
私たちがトラックに乗って、発車するまでに、ちょっと間があって、その間に班長の大沢軍曹が補足説明した。
「おめえら、たるんでっからよ、演習の代わりに実弾の飛んで来る所に連れて行ってやっから。気合かけてやっから。匪賊というのはカレン族という民族じゃ。ビルマにはいろいろ民族がいっけど。カレンというのがいるんだな。ビルマ族は色が黒いが、カレン族は色が白い、ビルマは仏教だが、カレンはクリスチャンだ。キリスト教信仰して、親英的なんだな。親英的ということはつまり、反日的ということだ。・・・」
・・・
ビルマに匪賊がいるとは初耳だったが、そのカレン族というのは、匪賊ではなく、ゲリラだろうと思われた。フィリピンにはフク団がいて、マライには共産ゲリラがいる。ゲリラは、どこに行ってもいるようだ。・・・
・・・
それにしても、クリスチャンのゲリラというのは、珍しい。フク団もマライゲリラもコミュニストだった。実は私は、フィリピンのフク団はカトリックだと考えていた。フィリピン人は、民族語のほかに、三十代より上の者はスペイン語を使い、若い人は英語を使っていた。宗教はカトリックが大半だと聞かされたが、事実ルソン島では、いくつか、教会を見た。ところがフク団はコミュニストだと聞かされたので、意外な気がした。それからマライに移って、ゲリラはコミュニストだと聞かされ、さらに、そこには行ったことがないが仏印の北部やラオスにもコミュニストの匪賊がいるという話を聞かされた。そのうちに、なんとなく、ゲリラといえばコミュニストと思うようになっていた。だが、クリスチャン・ゲリラもいたわけだ。ビルマに来て、まだ一度も教会を見たことはないが、尾形の言う某村にはそれが立っているのだろう。
「白い田圃」古山高麗雄(文春文庫「二十三の戦争短編小説」所収)

この後、「ゲリラ」と「匪賊」の違いが考察される、「匪賊というのは例の国策語なのだ。ワダツミ、神兵、ハッコーイチウなどと共に、・・・」、そして「私は、馬賊は嫌悪しなかったが、匪賊は嫌悪した。そこが狙い、だったのだろう。それは嫌悪されなければならなかったのだ」と結論付けつつ、「馬賊」という言葉の「ロマンチック」な響きに誘われて、少年時代の記憶に話が流れる、この作家は、現在の北朝鮮と中国との国境、鴨緑江沿いの新義州という町に生まれたのである。
・・・
新義州は鴨緑江に沿う国境の町で、対岸に、満州の安東(アントウ)を望んだ。・・・
鴨緑江を遡ると朔州(さくしゅう)という小さな町があり、さらに遡ると満浦鎮(まんぽちん)という小さな町がある。・・・
「白い田圃」古山高麗雄(文春文庫「二十三の戦争短編小説」所収)
彼の父は医者だったそうで、その患者の税関官吏が、父のもとで働く「看護婦」に懸想した話などが続くが、それが、この「カレン族の村」と称するものへの襲撃前夜の、長い「回想シーン」となっているのだ、もちろん、小説の構成上、のちに必要になる「情報」を植え込んでおいた利の技法上の問題もあるだろうが、また、無駄話であっても「紙数」を稼ぐのに必要だったのかもしれないが(笑)、そういう部分は私にはわからないけれど、どこか、この「身振り」には、記憶がある、つまり、肝心なことを書くことを、先に延ばしているのではないか?もちろん、書かねばならないのである、いや、お金や仕事の話は、差し当たり度外視しよう、書いてしまわなければ「成仏」出来ない「トラウマ」体験なのであろう、だが、同時に、書きたくない、そういう時、人は、かえって、饒舌になるものだ、ということは、まさに、自分を振り返って、知っている。
「安東」は、現・中国遼寧省・丹東市、「新義州」は現在も、新義州市(Sinuiju/신의주시)、「満浦鎮」は、現・満浦市(Manpo/만포시)、いずれも朝鮮民主主義人民共和国の町、その間にあるとおぼしき「朔州」、は発見できず。

ワタツミ:神話上の海の神、「古事記」では、綿津見神(わたつみのかみ)、大綿津見神(おおわたつみのかみ)、「日本書紀」では、少童命(わたつみのみこと)、海神(わたつみ、わたのかみ)、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)、等の表記がある、とのこと。
・・・
「フク団」との関連で、フィリピン史を瞥見すると、・・・
1521年、マゼラン率いるスペイン艦隊到着、以降19世紀末、ホセ・リサールJosé Rizal(1861-1896)、エミリオ・アギナルドEmilio Aguinaldo(1869-1964)などの独立運動が活発化するまで、スペイン植民地
1898年、米西戦争勃発
1899年、独立宣言、第一共和国、アギナルド大統領
1901年、アギナルド、米軍に逮捕され、第一共和国崩壊
1916年、アメリカ合衆国内フィリピン自治領成立
(1929年世界恐慌下、フィリピン産砂糖が、アメリカ産甜菜糖、キューバ糖を脅かすとして、排斥運動、関税を課すための独立認容の声が高まる)
1935年フィリピン・コモンウェルス成立、初代大統領マニュエル・ケソンManuel L. Quezon(1878-1944)
1941年12月日本軍マニラ上陸、翌年前半にかけて全土占領
1943年10月、日本占領下で、ホセ・ラウレルJose P. Laurel(1891-1959)を大統領として独立(第二共和国)、アメリカは、日本の傀儡だとして承認拒否
1944年末、米軍上陸、その以前から、親日ゲリラ「マカピリMakapili/比島愛国同志会」、親米反日ゲリラ「ユサッフェ/USAFFE」(元来U.S. Army Forces Far Eastであるが、日本による占領後ゲリラ化)、フィリピン共産党指導下の抗日ゲリラ「フクバラハップHukbalahap(フク団)」間の戦闘
1946年、日本敗北後のアメリカ植民地支配から、再独立、第三共和国
1950年代、「冷戦」下、フクバラハップ、地主支配との闘争を継続するが、ラモン・マグサイサイRamon Magsaysay(1907-1957)のもとで、壊滅的弾圧を受ける
1965年~、フェルディナンド・マルコス大統領の独裁体制
1969年、フィリピン共産党(CPP)再建、「新人民軍(NPA New Peoples Army)」結成
1986年2月22日、「ピープル・パワー・レヴォルーション/People Power Revolution
・・・
僕が最初に上陸したのは、フィリピンのルソン島でしたが、そのころの日本には、まだ輸送能力があったのでしょうね、ルソン島ではカバナツアンという町が駐屯地だったのです。
・・・
ただ僕は、マライのクアラルンプールで、ディゴの樹の根もとに何通も手紙を埋めたことを憶えています。ディゴの樹は、ビルマでは見当たらないようですが、僕はあの樹の緑が好きでした。ディゴの葉は、柔らかな緑の光がすき透るのです。
・・・
ここへは、ネーパン村からまっすぐ、トラックで来ました。正確にいえば、ボーシという町までトラックで来て、そこからが徒歩の行軍でした。ネーパン村を出ると、イラワジ河を渡って、ラングーンに出て、ラングーンから北上してマンダレーに来て、マンダレーから山道になりました。
マンダレーまでは、一面の大平野でした。ビルマの平野も広いよ。満州ぐらいあるんじゃないかな。地平線から日が昇り、地平線に沈みます。・・・
・・・マンダレーから、ラシオをいう所を通って、前記のボーシという所に来たのですが、ボーシというのは、支那とビルマの国境から少しばかり支那に入った所らしいのです。僕はネーパン村を出るとき、北ビルマに行くと聞いたので、ではミートキーナあたりに行くのかな、と思っていました。それは、今年の五月ごろ、ミートキーナにイギリスの空挺部隊が攻めて来て、激戦が続いていると聞かされていたからですが、僕たちが運ばれてきたところは、中国の雲南省でした。こことミートキーナと、どれぐらい離れているのか、僕にはわかりません。なにしろ僕たち一等兵には、ほとんど何もわからないのです。・・・下士官の説明によると、僕たちが通って来た山道は、テンメン公路といって、もとは、インドから重慶に物資や兵器などを運ぶために、イギリスが作ったいわゆる援蒋ルートと呼ばれる道路なのだそうです。それを日本軍が、リュウリョウだとか、トーエツだとか、ラーモーだとかいう要衝の町を占領して、切断していたのだそうです。ところが重慶軍が反撃してきてリュウリョウだとか、トーエツだとか、ラーモーだとかの守備隊は包囲されていて、全滅になりかかっているのだそうです。そしてその守備隊を助け出すのがこの作戦の目的なのだそうです。つまり、トーエツラーモーより、もっとこちら側まで攻めて来ている重慶軍を、トーエツラーモーの向こう側まで押し返してしまえば、守備隊を助け出すことになるのです。・・・何でも、リュウリョウラーモートーエツのうちでは、一番手前にあるのがリュウリョウであって、ラーモートーエツリュウリョウよりもう少し遠いところにあるのだそうです。・・・
テンメン公路というのはね、トーエツを通り、ラーモーを通り、昆明を通り、重慶に通じているのだそうです。トーエツは、公路から離れているのだと聞かされました。この重なり合った山々の向こうには、サルウィン河が流れ、その向こうには、四川盆地があって、そこに蔣介石がいるのだと聞かされました。
「蟻の自由」古山高麗雄(文春文庫「二十三の戦争短編小説」所収)

フィリピン、ルソン島、「カバナツアン」

これは、当地、沖縄の、昨年五月ごろだ、デイゴ(マメ科)の花と、メジロ(メジロ科)、残念ながら「葉」は写っていないね(笑)。
・・・

テンメン公路/Burma Road/滇缅公路/滇緬公路
上の図面に見える「Bham」は「Bhamo」であるらしく、ミャンマー、カチン州の都市、「ボーシ」とは、ちょっと似ていないかもしれない、同じく「Tengchong」が、「腾冲/騰衝」であるから、これが、「トーエツ」かも知れない、「Wanling」は「海南省・湾岭/灣嶺」を指すようだから、「Wanding」の誤りであろう、「Yunnanyi」は「云南」、「彝」、シノ―チベタン語族四川彝語Sino-Tibetan/Yi(Nuosu) language、を指しているのではないかと思われる。

「テンメン公路」を含む連合軍の「援蒋ルート」
wikipedia中国語版「滇缅公路」には、以下のような里程標が掲載されている。
Kunming昆明市(Yunnan雲南省/中国)―0km
Anning安宁市(Yunnan雲南省/中国)―33km
Chuxiong City楚雄市(Chuxiong Yi Autonomous Prefecture楚雄彝族自治州/Yunnan雲南省/中国)―168km
Nanhua County南华县(Chuxiong Yi Autonomous Prefecture楚雄彝族自治州/Yunnan雲南省/中国)―204km
Dali大理市(Dali Bai Autonomous Prefecture大理白族自治州/Yunnan雲南省/中国)―378km
Yongping County永平县(Dali Bai Autonomous Prefecture大理白族自治州/Yunnan雲南省/中国)―478km
Baoshan保山市(Yunnan雲南省/中国)―579km
Longling County龙陵县(Baoshan保山市/Yunnan雲南省/中国)―721km
Mangshi芒市(Luxi潞西市)(Dehong Dai and Jingpo Autonomous Prefecture德宏傣族景颇族自治州/Yunnan雲南省/中国)―748km
Wanding Town畹町镇(Dehong Dai and Jingpo Autonomous Prefecture德宏傣族景颇族自治州/Yunnan雲南省/中国)―833km
Muse木姐/Shan State/Myanmar―905km
Lashio腊戍/Shan State/Myanmar―1453km
下に掲げる直線距離の積算値と比べて、およそ2倍以上にもなっているから、如何に、曲がりくねった道のりであるかが、わかるというものだ。



これは他の作品に確か書いてあったと思うが「ネーパン村」というのは、架空の村、というよりは、実在するのだが、名称は変えてある、とのことだった、この作品を初めて読んだのは、2016年の5月、思えば大変な時期だった、リナさんの事件があって、6月に県民大会があって、「ツィッター」などというものを始めて、7月に参議院選挙と高江の工事開始があった、・・・、「太平」でもなかったが、「眠り」を醒まされて、「老骨に鞭打つ」日々が、し・ば・ら・く・は、続くことになったのだから、そもそも、「シールズ」という若者たちの運動が話題になっていて、それにもかかわりのあった高橋源一郎の書物の中に、この作家のことが書かれていたからだったな、・・・、「ネーパン村」から、ラングーン、現・ヤンゴン、に出るのに、イラワジ河を渡った、とあるから、その架空の村は、ヤンゴンの西方数十キロあたりに想定されているように思われる、マンダレー以降「テンメン公路」沿いらしきいくつもの地名のうち、「リュウリョウ」は、別の作品の中で同じ町らしきものが「龍陵」と表記されていたから、「Longling/龙陵」で間違いなかろうと思う、また、「トーエツ」は「Tengchong/腾冲」にしておこう、それ以外は、ちょっと無理みたい、・・・、私は、当地に来て二十年、海洋に浮かぶ島なのだから、水平線から日が昇り、水平線に日が沈むのは、何度も見たけれど、「地平線」というものを、見ることなく、終わることになるだろうな、私の生まれた阪神間とか、長く暮らした京都盆地とかは論外だが(笑)、少しだけ過ごしたことのある「関東平野」だってなかなかのもんだったが、一体「地平線」というものが「見える」条件は、何なのだろうか?また、暇に任せて(笑)、考えてみることにしよう、・・・。

例えば、上の図で、Pというのが、標高h[m]の山の頂上、としよう、そこからr[km]隔たったQ地点では、その頂が、「地平線」に隠れてしまうのである、ならば、そこ、つまりQから、半径r[km]にわたって、h[m]級の高さの山が一切なく、「平地」が広がっていたとしたら、ちゃんと「地平線から日が昇り、地平線に沈み」、を経験できることになるね、
h=500、ならば、r=80.00
h=1000、ならば、r=113.14
なるほど、マンダレーの南西の方角にある平野ならば、東西百数十キロばかりの広がりがありそうだから、それもあり得たかもしれない。
・・・
ラングーンからマンダレーまで、何時間くらいかかったのだったろう?ラングーンからマンダレーまで、直線距離だと六百キロ足らずである。道が曲がっているから、もっと自動貨車は走ったわけだが、しかし、出発した翌日には、休憩をしたり、飯盒炊爨をしたりの行軍でも、到着したのであったろう。
マンダレーの兵站でも何泊かしたのだ。それからシャン高原の山道に入って、芒市というところから徒歩行軍になったのだ。芒市はすでに中国領であった。私たちは北ビルマから国境を越えて、中国の雲南省に入ったのだった。
「戦友」古山高麗雄(文春文庫「二十三の戦争短編小説」所収)
私は、ネーパン村に駐屯していたとき、カレン族討伐作戦に連れて行かれた。そのときのことを、私は「白い田圃」という大の短編小説に使っている。ビルマの国民は、全体の七〇パーセントはビルマ族であって、約一〇パーセントのカレン族が、ビルマ族に次ぐ多数民族だという。そのほかに、シヤン族チン族ムン族印度人華僑がいるが、戦争中、ビルマ族は親日的で、カレン族は親英的だとされていた。
下級兵士であった私には、ビルマの国内事情など、皆目わからなかった。ビルマにカレン族という民族がいることを、そのときはじめて知った。知ったかぶりの下士官が、カレン族は親英的であり、キリスト教徒であり、したがって、親日的で仏教徒であるビルマ族とは仲が悪い。そういう民族だから、諜報活動をしている。だから討伐しなければならないのだ、と説明した。
・・・
その説明を私は鵜呑みにしたが、戦争が終わったあと、本で調べて、ビルマのカレン族には、山地カレン族平地カレン族とがいることを知った。山地カレン族は、モールメン北方の山地に住んでいて、キリスト教徒とは、山地カレン族のことである。私たちが討伐に行ったのは、ネーパン村南方のイラワジデルタに住んでいる平地カレン族であったが、平地カレン族は、別にクリスチャンではない。
「戦友」古山高麗雄(文春文庫「二十三の戦争短編小説」所収)
まず、これで、上の「ボーシ」が、なるほど、漢字をそのまま日本語風に読んだのだな、「芒市」であることがわかったわけだ。
「カレン族」は、それ自体がきわめて多様性に富んだ、多くの言語民族集団の総称であるらしく、従って、分類に関してなお議論があるようで、例えば、上の図表の中では、「7%」を占めることになっている「Karen」と、「0.8%」の「Kayah/Red Karen」とは別扱いになっている、「Kayah」という名前の州は、確かに、「モールメン北方の山地」であるから、こちらが、「山地カレン」におおよそ該当するのかもしれない、確かに、バプティストをはじめとする、キリスト教徒の占める率は、高いのである、どうやら、歴史的には、イギリス植民地時代、バプティストBaptistの宣教団が、集中的にカレン族の間に布教、かつ、キリスト教化したカレン族の住民を、植民地当局が、軍人への登用、議会への関与等、ビルマ族にはありえないような差別的な優遇策をとったらしい、そして、そのような、優遇を受け、「西洋」での教育を受けた知識人層から、統一的な「カレン族」という「民族意識」が、は・じ・め・て・生まれて来た、という事情のようである、またしても、イギリス帝国主義の、往々にして恣意的、場当たり的な、「分割統治」が、のちの長い長い年月にわたる「第三世界」の「民族紛争」の遠因を与えている、という図式を、ここにも見ることになる訳である。


班長は鈴木班長だけしか来ていなかった。鈴木班長や梅ちゃんは、ガダルカナルの生き残りである。勇部隊は、開戦時にジャワを攻略し、そこからガダルカナルに転じて壊滅的な状態となった。生存者は、ブーゲンビルを経てフィリピンに撤退した。一平さんや菊さんや私は、師団再建のための壊滅分の補充要員としてフィリピンに送られたのである。
「優勝記略」古山高麗雄(文春文庫「二十三の戦争短編小説」所収)


勇三九部隊が、最も長期にわたって駐屯したのは、ビルマのネーパン村だった。ネーパンという寒村の記載されているビルマの地図は、日本では市販されていない。私の知っている限りでは、ネーパン村の所在が示されている地図は、ビルマから復員した軍人のあるグループの人々が作成した白地図に、おそらくそこには勇の指令部が駐屯していたという理由で記載されているのがあるのみである。
「優勝記略」古山高麗雄(文春文庫「二十三の戦争短編小説」所収)

また記憶違いであった、「ネーパン村」は、「架空」なのではなくて、ただ、「市販」の地図には載っていない、とあったから、当然のように探索を諦めたのであった、わずか五年ほど前に読んだものなのに、こんなにもいい加減なことを言っている、自分の頭の悪さを棚に上げて(笑)、「人間というものは」という一般論に流し込んでおこう、アメリカ帝・国・主・義・の軍需産業の一翼を担う、某Gマップがそんな手抜きの仕事をするわけがない、改めて、ヤンゴン北西部イラワジ川近く、しかし、河岸ではなく、少し離れた、という手がかりで、探してみよう、前回も引用したこの記述、・・・
ネーパン村は、イラワジ河の、中流もしくは下流の沿岸にある。沿岸と言っていいだろうか。ネーパンから河は見えないのだ。
だが、河からいくらも離れていないのは確かだ。ネーパンから東へ、七キロから八キロ、せいぜい十キロもいけば、河に突き当たるのではないか、と思っている。私は、ネーパンに来たときのことを思うと、そんな気がするのだ。私は泰緬鉄道でタイからビルマに入って、モールメンペグーラングーンなどという町を経て、西へ西へと来た。そのとき、サールウィン、シッタン、イラワジを渡り、河の名を覚えた。鉄道は、イラワジの東方で切れていて、そこから徒歩の行軍になった。
「白い田圃」古山高麗雄(文春文庫「二十三の戦争短編小説」所収)
「ペグー」は現Bago、「ラングーン」は現Yangonである、この地図の左上の方にある、「Neik Ban」でどうだろう?イラワジ河岸に出るのに、10km程度、地図を拡大してみると、村役場と八百屋と電器屋が一軒ずつ、「パゴダPagoda」というのは仏教寺院だろうか、「モナステリーMonastery」というのも、やはり仏教の修道院なのだろうね、そんなものが散見できるくらいの、だから「寒村」と言っていいのだろう、・・・、きっと見つけられない、と心に決めていたものが、割合あっさりと見つかってしまったものだから(笑)、勝手な話だが、かえって気が抜けてしまったような感じさえするね。
・・・
マルグリット・デュラス「愛人(ラ・マン)」を、何十年ぶりかで読み直すことにしたのは、たまたま、立ち寄った古本屋で捨て値で売られていたからだし、林芙美子の方は、これまたたまたま、関川夏央「汽車旅放浪記」を、何を思う事があったのか記憶にないが、やはり再読し始め、そこに林芙美子「放浪記」の、まさに「汽車旅」が詳細に検討してあった(笑)からだな、ずっと以前、島崎藤村「新生」、いや、石堂清倫「わが異端の昭和史」に、島崎こま子氏が、京都の北白川で、京大の「社会科学研究会」の共産主義者の学生たちを支援していたという話を読んだことがそもそものきっかけだが、その、二人の関係の破綻について、林芙美子が雑誌の記事のなかで、手厳しく藤村批判を行ったという話も、少しは気がかりであったが、いずれにしても「浮雲」を、これまた、古本屋で100円もしない値段で売られていた文庫本を、とりあえず買っておいたものだった、そんなに愉快な読後感を与えてくれるわけではない(笑)この書物を、なんとか読み通す事が出来たのは、そういえば、こんな風に、地図をつくったり、距離を計算したりという「手法」は、「鉄道マニア」たる関川夏央の「受け売り」なんだね、「仏領インドシナ」の、地名や風物に対して、の興味だ・け・だった、と言ってもいい、・・・、これらみな、「2月1日」以前のことなのである、こうして、またしても、他人様の「不幸」をきっかけとして、他人様の暮らす土地について初めて興味を抱く、ということに対する「罪悪感」を自分のなかに認めながらも、・・・、きっと、似たような理由で、「急遽」関心を抱くに至った人も多々存在し、だから、この種の書物にも、あるいは「注文が殺到」しているのかもしれないが、改めて、「東南アジア近現代史」を、遅まきながら、学ぶことにしたのだった、・・・、その昔、「アジ演説」の冒頭は、「あの、1975年の、ベトナム人民の、民族解放闘争の偉大な勝利によって、追いつめられたアメリカ帝国主義者は、・・・」と始めるのが定番であったし、「民主カンプチア」反越三派連合政権の構成党派の正式名称をよどみなく挙げることができたにもかかわらず、私の「知っていること」は、まことにそのような「お題目」でしかないことは、そのときから、十分自覚していたから、敢えて、「学び直す」などとは言わない、・・・、そんなわけで、ともかく、始めてみる、「入門・東南アジア近現代史」岩崎育夫(講談社現代新書)、を読む。

  • (1)アジア諸国の文字は大きく、漢字圏(日本はこれに属している)、アラビア文字圏、インド文字圏(ブラーフミー文字)、ラテン文字圏(ローマ字)の四つからなるが、この文字系譜のなかでみると、東南アジアの一一カ国の言語は二つのグループに分かれる。
    一つが、インドのブラーフミー文字系譜に属する、大陸部のビルマ語、カンボジア語、タイ語、ラオス語である。ブラーフミー文字は約二三〇〇年前にインドの最初の統一国家となったマウリヤ国のアショーカ王時代に生まれたものだが、これらの国が古代からインドの歴史文化の強い影響を受けたことによる。
    もう一つが、ラテン文字系譜に属する、島嶼部のインドネシア語、マレー語、フィリピノ語、ベトナム語である。ラテン文字は地中海地域の国で生まれたものだが、これらの国が古代からアジアとヨーロッパ(地中海)間の貿易が行われたなかで、貿易商人を通じてギリシアやローマなどの文化の強い影響を受けたことによる。このグループに大陸部のベトナム五が含まれているのは、ベトナム語はもともと漢字圏に属していたが、フランス植民地時代にフランスが支配統治のために、ベトナム語をラテン文字(ローマ字)表記に改め、一九四五年に北ベトナムが独立すると、指導者が国民の識字率向上のために、これを使用することにしたからである。
    一一カ国の言語が相互に外国語関係にある中で、唯一インドネシア語とマレー語は「兄弟語」関係にあり、初対面の人でも会話が可能である。・・・その理由は、マレー語が、八世紀頃にインドネシアのスマトラ島南部で貿易に従事していたムラユ人の言語を出自にするものであること(マレーシアでは、マレー語はムラユ語と呼ばれる)、インドネシアも独立指導者が、多数民族のジャワ人のジャワ語ではなく(ジャワ語はアラビア文字の影響を受けて表記が複雑)、ムラユ語を基にして一九二八年にインドネシア語を考案したことにあり、両国は独立後の一九七二年に表記法の統一をしている。
    ・・・
  • (2)大陸部で最初に土着国家が興ったのがベトナムである。ベトナムは歴史地理的に、北部(トンキン)、中部(アンナン)、南部(コーチシナ)の三つの地域に分かれるが、ベトナムの土着国家史を主導したのは北部に起こった国だった。・・・
    フランス植民地になる前の最後の土着国家が、南部を拠点に興り、中部や北部の勢力を屈服させて、中部のフエに首都を置いたグエン国(一八〇二~一九四五年)である。グエン国は、細長いベトナムの国土をはじめて統一した国であり、現代ベトナムの国家領域はこの時にできあがったものだし、ベトナム(越南)の国名もこの時に誕生したものだった。一八四〇年代にフランスによるベトナムの植民地化がはじまると、グエン国を取り巻く地域環境は厳しいものになったが、なんとか名目的な政治的自立を維持して一九四五年まで続いた。・・・
  • (3)ついで土着国家が興ったのがカンボジアである。一世紀ごろに興った扶南が東西貿易における貿易国として繁栄したが、アンコール国(八〇二~一四三一年)時代に最盛期を迎えた。カンボジア西部のトンレサップ湖北部を拠点にしたアンコール国は、一二世紀前半のスールヤバルマン二世時代に、東はメコン川、西はミャンマー、南はマレー半島北部、北は東北タイとラオス南部まで、東南アジア大陸部の大半の地域を支配下に入れた強国になった。これは、東南アジアの土着国家史のなかで、唯一、帝国(他の民族を支配下に入れた国の意味)と呼べるものである。・・・
    アンコール国はカンボジアに仏教を取り入れた国でもあったが、隣国タイとベトナムが強大になると次第に領土を失い、千四百三十一年にタイのアユタヤ国に攻撃されて滅亡した。その後、カンボジアの政治中心地は南部のプノンペンに移動し、フランスの植民地化を迎えることになる。
  • (4)カンボジアで土着国家が興ったのとほぼ同じ頃に、ミャンマー(・・・)でも土着国家が興った。ミャンマーも地理的に、北部、中部、南部に分かれるが、最初の有力土着国家は、一〇四四年にビルマ人が中部を拠点に創ったパガン国(一〇四四~一二八七年)だった。・・・一五三一年になると同じビルマ人が創ったタウンダー国(一五三一~一七五二年)が国土を再統一し、南部のペグーに首都を置いたが、一七五二年に滅亡した。その後、登場したのが、これも、ビルマ人が中部の稲作地帯に創ったコンバウン国(一七五二~一八八五年)である(一八五七年にマンダレーに遷都)。「世界の支配者」を自称したコンバウン国は、タイのアユタヤ国を数字におよぶ攻撃で滅亡させ、イギリスがインドに進出して東インドの藩王国が弱体になると、東インドでの領土拡大をめざしてイギリスに戦争を挑むなど、東南アジアでは珍しい侵略的な国だった。しかし、イギリスの植民地化がミャンマーに及ぶと、コンバウン国は一八八六年に滅亡した。
  • (5)タイで最初の国が創られたのは一三世紀と遅い。もともとタイ人は中国南部に住んでいた。しかし中国北部がモンゴル人に征服されると、それを逃れた漢族が南下し、玉突きの形で現在の地に移動した。
    最初の国家は、チャオプラヤー川中流域に創られたスコータイ国(一二四〇~一四三八年)である。この時期にスリランカから伝来した仏教を取り入れたが、同川下流に興ったアユタヤ国に征服されて一四三八年に滅亡した。アユタヤ国(一三五一~一七六七年)は、アンコール国を滅ぼし、遠く離れた南のマラッカ国を攻撃するなど、領土を周辺地域に拡大した強大な国となり、一六世紀に最盛期を迎えた。しかし、一七六七年にミャンマーのコンバウン国の攻撃を受け、首都が徹底的に破壊されて滅亡した(・・・)。ついで登場したのが、一七八二年に軍人チャクリ(ラーマ一世)が創ったラタナコーシン国(一七八二~現在)であり、チャオプラヤー川左岸のバンコクに首都を置いた同国も貿易で繁栄し、王室の米貿易独占が国力の源泉になった。・・・
  • (6)最後に土着国家が登場したのがラオスである。東南アジアで唯一内陸国のラオスは、一三三五年にラオ人が、北部山岳地帯のルアンパバーンを首都にラーンサーン国(百万頭の象の意味、一三五三~一九七五年)を創ったことではじまったものである。人口が少なく弱小のラーンサーン国は、しばしば隣国の攻撃を受けたが、険しい山岳地帯に位置する地理的要因もあり、名目的ながら、第二次世界大戦後の一九七五年に社会主義国になるまで続いた。
    ・・・
  • (7)イギリスがインドを植民地にすると、インドの東のミャンマーのコンバウン国が領土拡大の格好の機会ととらえて、一八二四~二六年にインド東部に侵攻したが、イギリスは撃退した。その後も、ミャンマーが反イギリスの姿勢をとったため、一八五二年にイギリスはミャンマーを攻撃し、下ビルマを征服して植民地にした。そして、一八八五年にミャンマー中部のコンバウン国の種とマンダレーを攻撃し、翌一八八六年に国王と王妃を捕らえてインドのマドラス国(現在のチェンナイ)に追放して滅ぼし、上ビルマと中ビルマも領土に組み入れて、ミャンマー全土を植民地にしたのである。当初、イギリスはミャンマーをインドの一州としたが、一九三七年に切り離されてイギリス領ビルマになった。
    ・・・
  • (8)インド争奪戦に敗れたフランスは、アジアの植民地をあきらめたわけではなかった。まだ、どのヨーロッパの国も本格的に進出していなかったベトナム、カンボジア、ラオスに目を向けた。ベトナムのグエン国の王族の内紛への介入や、一八三三~一八三八年にかけてのフランス人宣教師七人の処刑事件を口実に、一八五八年に南部(コーチシナ)に侵攻し、一八六二年に「第一次サイゴン条約」を締結して、コーチシナを植民地(直轄領)にした。翌一八六三年には、コーチシナの後背地で、タイとベトナムの侵略に苦しんでいたカンボジアを、国王の同意のもので保護国にし、一八八四年には「第二次フエ条約」により、北部(トンキン)と中部(アンナン)を支配するグエン国を保護下に入れた。そのさい、グエン国が冊封関係の下でベトナム北部を属国にしていた中国(清)に支援を求めたので、清仏戦争(一八八四~八五年)が勃発したが、清は敗れた。
    ・・・
  • (9)・・・フランスがインドシナ植民地のラオスとカンボジアを統治する下級役人としてベトナム人を利用したことは、その一例であり、カンボジアのプノンペンの現地人官僚一六人のうち一四人をベトナム人が占めた。インドシナ植民地の人口の七〇パーセント今日をベトナム人が占めていたこと、それに、歴史的に中華世界の一員のベトナムは科挙のもとで官僚制が発達していたなどを理由に、フランスはベトナム人を利用した(フランスは、カンボジアとラオスの開発労働者としてもベトナム人を利用した)。同様にイギリスも東南アジア植民地の治安を維持する警察官や兵士として、インド人を利用したのである。
    ・・・
  • (10)・・・イギリスはミャンマーを植民地にすると、それまで雨季の洪水のために稲作が難しかった南部(下ビルマ)で、排水施設などを整備して一大稲作地帯に替え、コメを輸出して膨大な利益を得た。…フラ餡巣はインドシナ植民地のうち、トンキン、アンナン、カンボジア、ラオスを保護領にしたのに対し、唯一コーチシナ(ベトナム南部)を直轄領にしたが、その理由は、インドシナ植民地のなかで、コーチシナが一次産品の最も豊かな地域だったことにあった。
    ・・・
  • (11)例えば、フランスは山岳植民地ラオスでは、ほとんど一次産品開発をしていない。そもそも、フランスがラオスを植民地にした目的の一つは、中国貿易のための南シナ海ルートをライバルのイギリスが押さえたので、ホー・チミン市の少し南で南シナ海に流れ込むメコン川を船で遡上して、カンボジアとラオス経由で中国貿易を行うことにあった。しかし、植民地化後の調査で、ラオス南部に落差が大きいコーン瀑布などの難所が何カ所かあり、大型船舶の航行が不可能とわかると、フランスはこのルートの運行を断念し、また、平地もなく資源もないラオスの開発をほとんどしなかった。・・・

「入門・東南アジア近現代史」岩崎育夫(講談社現代新書)


・・・

・・・
Thailand

  • Thais-86%
    タイ・カダイ語族タイ語Kra–Dai/Thai
    宗教構成:上座部仏教Theravada Buddhism、タイ民俗宗教
  • Northern Khmer-3%
    オーストロアジア語族クメール語北部クメール方言Austroasiatic/Khmer/Northern Khmer dialect、タイ語、タイ・カダイ語族タイ語イーサーン語Kra–Dai/Thai/Lao/Isan
    宗教構成:上座部仏教Theravada Buddhism
  • Thai Malays-2%
    タイ語、南部タイ語Kra–Dai/Thai/Southern Thai、オーストロネシア語族マレー・ポリネシア語派シャウイ語Austronesian/Malayo-Polynesian/Malayic/Kelantan-Pattani Malay
    宗教構成:スンニー派イスラム教Sunni Islam


Tai-Kadai languages,Austroasiatic languages,Hmong–Mien languages

Austronesian languages,Austronesian languages/Malayo-Polynesian languages

Sino-Tibetan languages(Lolo-BurmeseKaren),Dravidian languages,Indo-Iranian languages

・・・
Japanese occupation of Malaya
History of Malaysia


ヤンゴン市街図
【訳注】ミャンマーの民族構成について
人口比で上位10の民族集団について、その主要言語、宗教構成についての一覧を作成した、上のインタヴューに登場する「チン族」、は、その9番目に位置し、人口構成の上では1%と言われている、もう一人の所属する「ナガ族」は、主に、シノ―チベタン語族ナガ諸語Sino-Tibetan/Naga languagesを話す民族で、ミャンマー北西部と、インド北東部を居住地とする、インドには、ミャンマー国境地帯に、ナガランドという州が存在する。この集団は、ロヒンギヤ同様、「その他」の5%に含まれると思われ、従って、人口比では、0.8%未満、ということになろう。


インド、州区分図
また、下図は、インドシナ半島5カ国について、「主要」構成民族について、言語上の大分類「語族」に関する広がりを見たものである、リストの上位にあるものを恣意的に並べただけであるから、人口比を正確に反映しているとは言い難いが、それでも、シノ―チベタン語族、タイ・カダイ語族、オーストロアジア語族、オーストロネシア語族、ミャオ・ヤオ語族、五つの大分類にわたる民族集団が、このような狭い地域に混在しているのは、世界にも類例がないであろう、・・・、なお、この中に、ミャンマーの少数派、インド系を加えれば、さらに、ドラヴィダ語族、インド―ヨーロッパ語族、の二つが付け加わることになる、これらの人々は、イギリス植民地統治下に、植民地政府によって、軍人、労働者、として、計画的に、連行ないし、移住を奨励された人々の子孫が多くを占めると言われている、ロヒンギア人もまた、インド―ヨーロッパ語族に属する言語を話す民族であるが、この人たちが、ミャンマー西部に居住することになった由来が、イギリス植民地支配と関係があるのか否かは、まだ、調べていない。

インドシナ半島諸民族の、「語族」による分類




「花鳥図」、への、「反復強迫」、あるいは、「梅に鶯」かも知れないが、「桜には目白がよく似合う」について。




シロハラ(ツグミ科)、「有明」の月を探しに、屋上に上がって、ようやくまわりが明るくなってきて、今日もいるかな?と、隣の草むらをのぞきこむ、これで三回目だ(笑)、ひょっとしたら、「同一人物」?、同じ個体なのかも知れないね、確かめようもないけれど。





メジロ(メジロ科)、ヒカンザクラ(バラ科)

リュウキュウコザクラソウ(サクラソウ科)

ホウキギク(キク科)

カタバミ(カタバミ科)

シロガシラ(ヒヨドリ科)、ヒカンザクラ(バラ科)

キセキレイ(セキレイ科)

ムラサキカタバミ(カタバミ科)



シロガシラ(ヒヨドリ科)、ヒカンザクラ(バラ科)
つい先日は、観測史上何番目、とかいう冷え込みだったのが、今度は、連日の「夏日」です、などと言うニュースが伝わってくる、まことに「中庸」というものを知らない(笑)、などと「都人」は、思わず、憤慨してしまう。大雑把に、赤道のまわり、北回帰線、北緯23.4度、と南回帰線、南緯23.4度、に挟まれたエリアは、年がら年中、一日のうちに、太陽が、直上から照射する瞬間を持つから、受け取る放射熱量も多い、これが概ね「熱帯」であり、当然にも「季節の変化」などと言うものは乏しくなる、一方、その23.4度という、地球の太陽に対する公転面の法線と、自転軸とのなす角度を、直角から減じずると、
90-23.4=66.6
となるが、今度は、北緯66.6度以北、および南緯66.6度以南の、「極地」帯では、一年の半分が、一日中太陽が沈まない日々、残り半分が、一日中太陽が昇らない日々、に分けられるわけで、これまた、「季節の変化」、少なくとも「四季」などと言うものとは、縁がありえない世界なのだ、従って、その間に位置するエリア、南北それぞれ、23.4度と66.6度との間の帯状の地帯のみが、言いたければ、「春夏秋冬」、「スプリング、サマー、オータム、アンド、ウインター」、前に紹介したが、「アフリカ、お前をむしり取る」という映画、熱帯に位置するカメルーン、ブリティッシュカウンシルでの英語授業風景だから「オータム」なのだ、アメリカ人、私は知らなかったのだが、内田樹が「私家版ユダヤ文化論」(文春新書)の中で、挙げていたから初めて知った、キャロル・キングCarole Kingは、ユダヤ系アメリカ人だそうなのだが、その「ユーヴ・ガッタ・フレンドYou've Got a Friend」の歌詞は、「ウィンター、スプリング、サマー、オア、フォール」だった、フランス語はなんていうんだっけ?「プランタン」しか思い浮かばないな、あとで調べよう(笑)、と、「四季」の存在を謳歌できるのだ、それが「当たり前」に感じられるとしたら、それは、単に、「資本主義」が、この帯状地帯のうちの北半球の、しかしかなり北限に近い場所から勃興し、みるみる「世界」を「支配」することができたからに過ぎない、茶も、コーヒーも、カカオも、サトウキビも、ゴムノキも、その「支配」を可能にした産品は、ことごとく、「熱帯」原産であったにもかかわらず、当地那覇市は、北緯26度あたりだから、南限に近いとはいえ、その北半球の帯状地帯に属しているわけだが、島の近傍を「黒潮」と呼ばれる暖流が通過していることもあって、「亜熱帯」気候に数えられるわけだ、なんの話か、だんだん分からなくなってきたが(笑)、「四季」がない、と侮って、嘆いて見せるしぐさは、まことに歴史的に、「植民地主義者」の身振りに根差しているのだ、とでも言ってオチをつけることにする(笑)、で、まさかこのまま「春」は当然のようにすっ飛ばして、「夏」になるとも思えない、もう一度や二度、冷え込みの揺り戻しがくるに違いないのだが、今が「立春」と「雨水」の間、「啓蟄」はその次だからまだ先だが、それって、春の訪れとともに、虫なんかが、蠢き始める、という意味なんだろ?あ、「うごめく」って字、まさに、「春」の「虫虫」なんだね(笑)、そんな風に、人間もまた、とりわけ生命力の枯渇した、「病人・老人」は、陽光が燦燦と降り注ぎ、気温が上がってきただけで、何かに「誘われた」ような気になってしまう、当地の桜、ヒカンザクラ(バラ科)の盛りも、まごまごしていると、もう、終わってしまうかもしれない、そうすると、その花蜜に集まってくる、メジロ(メジロ科)の写真を、撮ることもできなくなる、そう、何と言っても(笑)、来・年・ま・で・生・き・て・る・か・、わからないんだから、今年のうちに、もっと、悔いが残らないように、たくさん、撮っておくべきではないのか?こういうものの常で、うまく写真が何枚か撮れた、と言って、満足するかと思いきや、むしろ、それならば、もっと、うまく撮れるかもしれないではないか?、とせかされてしまう理由にさえなってしまう、まさに、今し終わったばかりのことを、もう一度繰り返さずにはいられない、典型的な「反復強迫」という神経症症状なのであろう?そうやって、今日も出かけてしまう、出かけないと落ち着かない、だからと言って、全然楽しくない、と言ったら嘘になるが、楽しくなったとして、今度は楽しくなったこと自体が「ストレス」となって、「鬱」の「リバウンド」が用意される、ということがわかっていたとしても(笑)、そりゃ「症状」なんだから、仕方がない(笑)。「花札」の、「梅に鶯」ではないが(笑)、「花鳥図」としては、この桜、もう忘れているが、多分、「内地」のソメイヨシノよりは、色が濃いのだろう、そのピンクの背後に、「亜熱帯」の青空、くっきりと緑と白のメジロのツートンカラー、花時には、まだ出ていないことが多いが、その大きさたるや、桜の葉一枚分くらいだから、大きさの対比も美しい、やはり、「桜には目白がよく似合う」のであるが(笑)、当地の「留鳥」の中で、もっとも「平凡」なものである、シロガシラ(ヒヨドリ科)、もまた「花蜜食」だから、やはり、満開の桜に集まってこないわけはないのだ、しかし、図体が大きい分、枝の隙間から焦点を定めるのが難しく、たくさんシャッターを押したのだが、なかなか、うまい構図のものは、残念ながら、得られなかったな、得られなかったことがあるからこそ、また「反復強迫」が喚起される、とも言う(笑)。

ゴイサギ(サギ科)

ミサゴ(タカ科)



イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス、で、そのあと、せっかく外に出たんだからと、農協スーパーにお買い物、先日、ミサゴの雛が困惑しているのを目撃した干潟のそばの川べり、もう、「桜に目白」もシロガシラも、ちゃんと撮れた気でいたから、潮目もよくなかったし、対岸に、ゴイサギ(サギ科)を発見したところで、今日は長居せずに退散、数年前、そうね、2016年秋から2019年の春まで、短い期間だったね(笑)、「辺野古」や「高江」に「決起」していた頃は、この季節、帰り道には名護の農協スーパーで、必ず買って帰ったものだった、この島の北部は、隆起サンゴ礁の南部とは異なって、非・石灰岩の堆積岩を基盤とする「高島地形」、地質がなじむのか、地形がよいのか知らないが、シークワサーにしても、柑橘類は、「やんばる」の特産だ、そこに出かけなくなってしまったし、貧乏でもあったから(笑)、買うのは久しぶり、もちろん、賞味期限切れ間近だから安かったから買った、これが、タンカン。



タンカン「桶柑」、ミカン科、ポンカンとネーブルオレンジの自然交配種、中国広東省原産、18世紀末、台湾へ、続いて、19世紀末、南西諸島へ移植、とのこと。

沖縄近傍での「黒潮」の経路





「なんて言ったん?」
父に問うと、
「神のご加護がありますように。」
それは、僕が生まれて初めて聞いた言葉だった。意味は分からなかったが、きっと、今まで聞いた中で、一番奇麗な言葉だった。
「エジプト語では?」
「アッサラームアレイコム。」
その言葉も、僕が聞いた言葉の中で、やはり一番奇麗な言葉だった。アッサラームアレイコム。
「サラバ」西加奈子(小学館)

1.'alif「単独形」 ا
23.laam「左接形」 لـ
12.siin「両接形」 ــســ
1+23.'alif+laam「合字」「右接形」 ـلا
24.miim「単独形」 م
ここまでで、「アッサーラム」
السلام
18.'ayn「左接形」 عــ
23.laam「両接形」 ــلــ
28.yaa'「両接形」 ـيـ
22.kaaf「両接形」 ـكـ
24.miim「右接形」 ــم
そして、「アレイコム」
عليكم
このブログでは「Ariel」というフォントが使えないようなので、ところで「Ariel」って、シェークスピア「テンペスト」に出てくる妖精、ではないか?プロスペロが植民地主義者で、それに対する被植民者の二つに分裂した態度、「コロニアル・メンタリティー」の二面性、攻撃的なカリバンと、過度に迎合的なエーリエル、という話だったね、元来はヘブライ語で「神のライオン」という意、フォント名に用いられた由来は不明、・・・、それはさておき、まるで違った綴りに見えてしまうが、ほれ、これを「Ariel」書体で、画像ファイルにしたら、こうだから、ね、合ってるでしょ?

アラビア語アルファベット
「アラビア語入門」的なサイトでの、説明



20210209 001








シロハラ(ツグミ科)



シロガシラ(ヒヨドリ科)











シロハラ(ツグミ科)








Bhagat Singh(1907-1931)、現在のパキスタン・パンジャブ生まれの、社会主義革命家、インド独立運動闘士、同じく、独立運動の英雄、ララ・ラジャパット・ライ暗殺への報復として、イギリス植民地当局の警察官を殺害、23歳で死刑に処せされた。「Singh」という姓は、シーク教徒のものであると思い込んできたが、この人の親類縁者には、シーク教徒ばかりでなく、ヒンズー教徒もいるようで、独立運動の闘士をあまた産み出した家庭であったようである。
Lala Lajpat Rai(1865-1928)、1920年、インド国民会議派党首、1917年から1919年まで、アメリカ合衆国に滞在、この時期、のちに中国革命に参加することになるアメリカ人女性、アグネス・スメドレーが、ニューヨーク大学で、教授を受けたことが、「中国の歌こえ」(みすず書房)の記述に見える(下の記事↓参照)。この人はヒンズー教徒だったが、カースト制度に反対する改革をとなえていたという。
「ハリウッド、ロック・ザ・カスバ、漆喰とアスファルト、新宿のカレー店、など、・・・、いくつかの『備忘』」・・・「ねこログ」記事
65 Days Strong Singhu Morcha/Jassi Sangha、シングー・ボーダーにおける抗議行動のドキュメントのようである(英語字幕付き)



20210213 001




ヒヨドリ(ヒヨドリ科)





シロハラ(ツグミ科)

メジロ(メジロ科)、ヒカンザクラ(バラ科)

リュウキュウシロスミレ(スミレ科)

リュウキュウコスミレ(スミレ科)

ダイサギ(サギ科)

アオサギ(サギ科)

タガラシ(キンポウゲ科)

シマツユクサ(ツユクサ科)

ヤエムグラ(アカネ科)

シロガシラ(ヒヨドリ科)、ヒカンザクラ(バラ科)





ヒカンザクラ(バラ科)

トックリキワタ(アオイ科)

リュウキュウコスミレ(スミレ科)

シロハラ(ツグミ科)


一昨日が、「旧正月Lunar New Year」、だったのだから、これが、「三日月」、クロワッサンCroissant、そして「四日月」、「五日月」。






旧暦一月三日の月、月の入二時間前




旧暦一月四日の月、月の入三時間前



旧暦一月五日の月、月の入四時間前


20210218 001


ヒヨドリ(ヒヨドリ科)



キセキレイ(セキレイ科)

コチドリ(チドリ科)

ヒドリガモ(カモ科)



アオアシシギ(シギ科)



イソシギ(シギ科)



カワウ(ウ科)


20210222 001




スズメ(ハタオリドリ科)

旧暦一月九日の月、月の出四時間後

旧暦一月九日の月、南中

アキノノゲシ(キク科)

シマキツネノボタン(キンポウゲ科)

トキワハゼ(ゴマノハグサ科)



ヒカンザクラ(バラ科)





サシバ(タカ科)



メジロ(メジロ科)

ユウゲショウ(アカバナ科)

オニタビラコ(キク科)



キセキレイ(セキレイ科)

旧暦一月十日の月、月の出四時間後

旧暦一月十一日の月、月の出三時間半後






ホウキギク(キク科)

リュウキュウコザクラソウ(サクラソウ科)

シロガシラ(ヒヨドリ科)、ヒカンザクラ(バラ科)

キセキレイ(セキレイ科)

シロハラ(ツグミ科)

メジロ(メジロ科)、ヒカンザクラ(バラ科)

イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス






Last updated  2021.03.01 02:07:20



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