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ねこログ

2021.03.07
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オキナワシャリンバイ(バラ科)

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

コサギ(サギ科)

メジロ(メジロ科)

ムクドリ(ムクドリ科)


「ねこログ」、総目次(笑)/「スクラップ・ブック」、の、目次。
目次:「バリケードの中で」、・・・、ミャンマー、続報/「人々にご飯を食べさせる、それは私たちの宗教にとって、一部をなしているのです」、・・・、インド農民デモ、続報/「集合」と「集合の要素」の間の『レベルの混同』、または、「死者」を「カーディナル数」として扱うのは、「弔い」にふさわしい方法ではないこと、などについて/他人に嘲られる前に、あらかじめ、「自己卑下」しておく、そういう、やや手の込んだ、「防衛」機制、なのでしょう、・・・、「椋鳥」を見たのは、これで二回目なので、実はとても嬉しい(笑)/たまたま「満月」が見えたから、またしても、「過越し」、「イースター」、そこに「パーム・サンデー」を加えて「聖書研究」となった/



ミャンマー、続報


イギリスが植民地化する以前、ビルマ族中心の「コンバウン国」と並んで、「アラカン王国」が存在していたようである、以下の図面、18世紀、ビルマ「コンバウン国Konbaung dynasty(アラウンパヤー朝Alaungpaya dynastyとも呼ばれる)」、周辺地図、「アラカン」国が見える

・・・
以下、ミャンマー内の少数民族武装組織のいくつかについて、もっぱらwikipedia英語版を参照して、略述する。「カレン民族同盟(KNU)」等については、以前の記事参照。

  • アラカン軍Arakan Army(AA)
    2009年創立、カチン州ライザLaiza(Lai Zar)/Kachin Stateに暫定的な本拠を置く、これは、AAの兵員が、「カチン独立軍(KIA)」のもとで訓練を受けていたからである。当初、グループは、アラカン州(ラカイン州)Arakan State/Rakhine Stateに戻り、民族自決の闘争に従事する予定であったが、2011年に、カチン州において、KIAとミャンマー国軍との間に武装衝突が起こると(Kachin Conflict/Kachin War)、帰還ができなくなり、その地で、KIAとともに国軍と戦うことになった。
    2014年、ラカイン州の、バングラデシュ国境地帯に、根拠地形成。
    2015年、AAは「ミャンマー諸民族民主同盟軍Myanmar Nationalities Democratic Alliance Army(MNDAA)」および、「ターアン民族解放軍Ta'ang National Liberation Army(TNLA)」、とともに、ミャンマー国軍と戦闘。同年、バングラデシュ国境警備隊との間にも戦闘。
    2016年10月の、ラカイン州北部での、ロヒンギア人武装組織(アラカン・ロヒンギア救済軍Arakan Rohingya Salvation Army)とミャンマー国軍との武装衝突に当たっては、同組織を「ベンガル人ムスリムの残虐なテロリスト」と名指す声明を発している。
    2019年1月、AAがバングラデシュ国境警備隊に対する大規模攻撃をきっかけとして、NLD政府は、軍の出動を検討。その後、政府軍との間に断続的な戦闘状態。
  • カチン独立軍Kachin Independence Army(KIA)
    1948年創立、カチン州ライザLaiza(Lai Zar)/Kachin Stateに本拠地。
    長い闘争の歴史があり、紆余曲折が多いようなので省略せざるを得ないが、一時期共産主義を受け入れ、中国などからの援助を受けていたこともあり、しかし、ビルマ共産党CPBとは、敵対関係にあったようである。
  • ミャンマー民族民主同盟軍Myanmar National Democratic Alliance Army(MNDAA)
    1989年、ビルマ共産党CPB分派によって、シャン州Shan StateコカンKokangで創立
    英語表記には、「Nationalities諸民族/National民族」と、混乱があるようである。
  • ターアン民族解放軍Ta'ang National Liberation Army(TNLA)
    1991年以来、シャン州Shan State内で、ターアン族(パラウン族)民族自決闘争に従事、KIAおよび、「シャン州軍南部派Shan State Army - South」と同盟関係。ターアン語/パラウン語Ta'ang/Palaung languageは、オーストロアジア語族(モン―クメール語族)Austroasiatic languages/Mon–Khmer languagesに属する。
  • シャン州軍南部派Shan State Army - South(SSA-S)
    1996年、Shan State Army(SSA)、これは1964年創立、が軍政当局「国家法秩序回復委員会(SLORC)」との間に停戦協定を結んだことを不満として分派形成。
    2005年、SSA-Sは、「シャン州民族軍Shan State National Army(SSNA)」と同盟して、シャン州独立を掲げて軍政当局と戦うことを宣言、のちに、SSNAと合同。
  • アラカン・ロヒンギア救済軍Arakan Rohingya Salvation Army(ARSA)
    2013年結成、バングラデシュ内に根拠地を形成、越境攻撃を行うようになる2016年以前は、住民のモスクでの礼拝を護衛する自衛組織であったらしい、とのこと。


ミャンマー、州区分図、民族言語分布図、独立時の行政区分図

1893年のイギリス領インド、1885年ごろの、イギリス領ビルマ

ミャンマー少数民族各派の、今回のクーデターに対する反応を記述したその他の記事
民族的少数派に属する多くの人々は、民族政党の幾人かの政治家が、軍政への参加を表明したことに対し、懸念を表明している・・・ミャンマー軍部は、その権力基盤強化のために、「分割統治」を採用しようとしている/エミー・フィッシュベイン、キャウ・サン・フライン2021年2月15日
「でも、私たちは同志たちを信頼している」・・・「都市部の住民も、民族的少数派の武装組織も、そして国際社会も、手に手を取り合って、軍政打倒の日まで、協力し合わなければならない」・・・国連特使、新たな流血の事態に、ミャンマーを「警告」の対象とすべきことを要請/2021年3月5日アル・ジャジーラ、「カレン民族同盟(KNU)」、「ビルマ共産党(CPB)」略史を付す
・・・
今回のクーデター反対のデモ参加者や、1998年の蜂起、2007年「サフラン革命」の際の活動家たちの多くが収監場所であったとされる「インセイン監獄」については、上の「ビルマ共産党(CPB)」についての記述の中にも言及があった。1941年、占領中の日本軍と協力して「ビルマ独立義勇軍/Burma Independence Army(BIA)」を組織していたアン・サン以外のビルマ共産党(CPB)指導部が、「インセイン監獄」収監中に発した「インセイン宣言/Insein Manifesto」が、「人民戦線」路線に基づき、日本をファシスト規定して、イギリス占領当局と暫定的協力関係に立って、抗日闘争への転換を呼び掛ける契機となる文書であった、とのこと。日本側についていたBIAおよび「アラカン民族軍Arakan National Army」も、1945年には、連合国側に立つことになる。
・・・
Saffron Revolution、2007年夏、国家が供給を独占していた燃料費への助成を、政府が打ち切ったために、燃料費が著しく高騰したことに対する不満から、始まった抗議運動、先頭に立った仏僧たちの法衣の色彩、深紅、が、「サフラン」、アヤメ科クロッカス属クロッカスの栽培品種、その深紅の雌蕊を乾燥したものが、香辛料として用いられる、の色に似ていることから、そう呼ばれるようになった、とのこと。
・・・
8888 Uprising/People Power Uprising、「ラングーン工科大学」及び「ラングーン芸術科学大学(現・ヤンゴン大学)」の学生が中心となって開始され、仏僧、主婦、医師、などの間に、少数民族地域にも、広範に広がった。1962年以来、この国は、ネ・ウィンNe Win率いる「ビルマ社会主義計画党Burma Socialist Programme Party(BSPP)」の独裁体制下にあったが、1987年秋、この政府の通貨改革によって、学費の蓄えが無に帰することになった学生たちの間に不満が広がったことがきっかけとなった。マンダレーを中心に、仏僧や労働者も決起した。同年12月の農業改革をめぐって、農民も抗議運動に立ち上がる。1988年3月のポーン・モーさん殺害に至る経過は、大学周辺での、学生と、ある若者とのいさかいに始まったらしい、この人物が「BSPP」高官の息子であり、学生を負傷させたにもかかわらず、早期に釈放されたことから、警察と学生との間の乱闘となった。学生デモは、急速に政治化し、3月16日には、一党制の終焉を求めて、インヤ湖Inya Lakeに終結する軍に向かって行進、そこで、殴打、レイプを含む弾圧を受けた。抗議行動は全国化し、1988年7月ネ・ウィンは辞任する。1988年8月8日に全国行動を行うとの、パンフレットが、「全ビルマ学生連合All-Burma Students Union」の名で、赤地に白い星、これは、「BSPP」の旗でもあるが、それに対して挑みかかっている黄色い鶏のシンボルとともに、全国津々浦々に配布された。同日ゼネストも開始、海軍、空軍の士官にも、デモに合流したものがあると言われる。8月12日は、ネ・ウィンの後継者セイン・ルウィンSein Lwinが辞任。独立英雄アン・サンの娘であるアン・サン・スー・チーが、はじめて大衆の前に登場して演説したのが8月26日。9月の議会では、「BSPP」代議員の90パーセントまでが、多党制民主主義への改革に賛成票を投じた。しかし、議会は紛糾、街頭デモは暴徒化し、期待された国軍兵士の脱走も、限られた数に留まる中、9月18日、ソー・モー将軍のクーデター、「国家法秩序維持委員会State Law and Order Restoration Council (SLORC)」による軍事独裁に帰結することになる。
・・・
ヤンゴン市の、「Township/区」区分は次のようになっているようである、「Dagon」という呼称は、あるいは素人考えであるが、「ヤンゴン/ラングーン」と同根なのかもしれず、それを冠した区名には、若干混乱があるようにも見受けられる、以下のリストで「*」は、グーグルパップの検索では見つけられなかった区名、「**」は、やや異なった名称しか掲載のなかったもの

  • Western District西部

    • Ahlon
    • Bahan
    • Dagon*
    • Hlaing
    • Kamayut
    • Kyauktada
    • Kyimyindaing
    • Lanmadaw
    • Latha
    • Mayangon
    • Pabedan
    • Sanchaung

  • Eastern District東部

    • Botataung
    • Dagon Seikkan
    • Dawbon
    • Mingala Taungnyunt
    • New Dagon East**
    • New Dagon North**
    • New Dagon South*
    • North Okkalapa
    • Pazundaung
    • South Okkalapa
    • Tamwe
    • Thaketa
    • Thingangyun
    • Yankin

  • Southern District南部

    • Dala
    • Seikkyi Kanaungto

  • Northern District北部

    • Insein
    • Hlaingthaya
    • Mingaladon
    • Shwepyitha



・・・
「ヤンキン区」を検索していて、今年の2月の日付のある、写真を発見した、以前、「車が壊れてしまったんです・作戦」で、ツィッター投稿を紹介したが、その「みんなが中央銀行前に一斉に車を停めるんだ」の現場ではないかと思われる、「WE WANT DEMOCRACY」と大書された、この道路は「産業道路1号線」という幹線道と思われる。

・・・
それから、これは、同じくグーグルマップの「スーレー・パゴダ」に付されていた写真、ご当地の「シーサー」と、同じものなのじゃなかろうか?「南方仏教」起源なのだとしたら、それはありえないことではない、と、ちょっと調べてみたが、よくわからなかった。林芙美子「浮雲」の、ヴェトナムの山に咲く「ヒカンザクラ」、古山高麗雄の、どの作品だったか、クアラルンプールの「デイゴ」、ビルマ、雲南の山中の行軍では、サツマイモや、冬瓜を塩で煮たものばかり食べていた、・・・、そんな風に、「南」をめぐる身勝手な、「思い込み」によって「親しみ」を感じてしまったとしても、まあ、それも、いいではないか、と思うことにしている。
・・・
Assam Rifles、1835年、イギリス植民地当局によって設立された、最古の準軍事的組織、第一次世界大戦中は、ヨーロッパおよび、中東、第二次世界大戦期には、ビルマにおいて、日本軍と戦った
Mizo language、ミゾ語Mizo language、シノ―チベタン語族Sino-Tibetanクキ・チン・ミゾ諸語Kuki-Chin-Mizo
・・・

・・・
Committee Representing the Pyidaungsu Hluttaw(CRPH)

この、「州区分図」に見るように、ミャンマーの国土は、以下の14の部分に分割されているが、このうち「州State」が7、日本語の訳語をどうすべきか知らないが、「地域Region」が7、二大都市、ヤンゴンとマンダレーは、それぞれ「地域Region」の地位を有し、それぞれの内部が「区township」に分かれている、ヤンゴンには32の、マンダレーには7の「区township」があると、wikipediaの記述からは読めるので、この数字の含意はちょっとよくわからない、これ以外に首都ニャピドウは、特別の資格を有しているようである、

  • Kachin State
  • Kayah State
  • Kayin State
  • Chin State
  • Sagaing Region
  • Tanintharyi Region
  • Bago Region
  • Magway Region
  • Mandalay Region
  • Mon State
  • Rakhine State
  • Yangon Region
  • Shan State
  • Ayeyarwady Region

下図は、あるロイター記者がツィッター投稿した、ロイター通信社によるらしい図面、を加工したものだが、これによれば、文民政権(亡命政権)による行政組織が形成されたのが、「地域Region」では、

  • Sagaing Region
  • Magway Region
  • Mandalay Region
  • Bago Region
  • Ayeyarwady Region
  • Tanintharyi Region
  • Yangon Region

の7つすべて、「州State」では、

  • Chin State
  • Mon State

の2州である、と読める、このツィッター投稿には、但し書きとして、国境付近の「州State」地帯では、多くが、少数民族武装組織が活発で、中央政府の支配が及んでいないことにも注意せよ、とある。

・・・

United Nationalities Federal Council
Chin National Army
Zo people
Kuki people
Mizo National Front
「カバール・マ・チャ・ブ」、YouTubeから
Kabar Ma Kya Bu・・・(1)
Kabar Ma Kya Bu・・・(2)
「カバール・マ・チャ・ブ」
Kabar ma kyae buu
地が果てるまで、私たちは屈服しない。
私たちは、自らの血をもって歴史を築いてきたのだ。
革命だ!
We never surrender to it until the earth ends.
We created the history with our blood.
Revolution!!!
民主主義のために命を失ってきた者たちは、私たちの英雄なのだ。
ミャンマー、この国には、英雄たちが住まっているのだ。
Those people who lose their lives for democracy are our heroes.
This country (Myanmar) is the place where heroes live in.
地が果てるまで、私たちは屈服しない。
私たちは、自らの血をもって歴史を築いてきたのだ。
革命だ!
We never surrender to it until the earth ends.
We created the history with our blood.
Revolution!!!
民主主義のために命を失ってきた者たちは、私たちの英雄なのだ。
ミャンマー、この国には、英雄たちが住まっているのだ。
Those people who lose their lives for democracy are our heroes.
This country (Myanmar) is the place where heroes live in.
そう、私たち、ミャンマーの市民は、勇敢なのだ。
We, Myanmar citizens are brave.
コドー・ミャイン(彼は、ビルマ民族主義と平和運動の父である)、あなたが、道のりをつけてくれた遺産は、すっかり錆びついてしまった。
Kodaw Hmaing, (he is the father of Burmese Nationalist and Peace Movements) the thread of legacy that you paved has been stained.
ああ、親愛なる、アン・サンおじいさん(彼は、独立の父である)、この国は、多くの血を流してしまった。
Oh Dear Grandfather General Aung San (He is the father of independence),
This country had shed blood.
ああ、父たち、彼らに何ができた、というのか?
Oh! Dear father
Oh! How could they do?
道幅100フィート(30メートル)のこの目抜き通りは、死体で埋まっている。
There are a lot of corpses on the 100 Feet-Long Road.
コドー・ミャイン(彼は、ビルマ民族主義と平和運動の父である)、あなたが、道のりをつけてくれた遺産は、すっかり錆びついてしまった。
Kodaw Hmaing, the thread of legacy that you paved has been stained.
ああ、親愛なる、アン・サンおじいさん(彼は、独立の父である)、この国は、多くの血を流してしまった。
Oh Dear Grandfather General Aung San,
This country had shed blood.
ああ、父たち、彼らに何ができた、というのか?
Oh, father!
Oh! How could they do?
道幅100フィート(30メートル)のこの目抜き通りは、死体で埋まっている。
There are a lot of corpses on the 100 Feet-Long Road.
民主主義は完全に、崩壊してしまった。
Democracy has utterly fallen.
きょうだいたちよ、この「100フィート道路」の血糊は、まだ、乾いていないのだ。
だから、もう躊躇することはない。
民主主義のために命を失った私たちの英雄たちのように、闘おう。
Dear brothers, the blood that flows on the 100 Feet-Long Road has not dried up.
So, don't hesitate.
Let's fight them just like our heroes who lose their lives for democracy.
きょうだいたちよ、この「100フィート道路」の血糊は、まだ、乾いていないのだ。
だから、もう躊躇することはない。
民主主義のために命を失った私たちの英雄たちのように、闘おう。
Dear brothers, the blood that flows on the 100 Feet-Long Road has not dried up.
So, don't hesitate.
Let's fight them just like our heroes who lose their lives for democracy.
彼らは、この民族を愛した、英雄たちなのだ。
地が果てるまで、私たちは屈服しない。
They are the heroes who love their nation.
We never surrender to it until the earth ends.
Thakin Kodaw Hmaing(1876-1964)、独立運動の英雄、文学者であり、とりわけ、1963年の、ネ・ウィン軍政当局Union Revolutionary Councilと、反乱派のビルマ共産党Communist Party of Burma、赤旗派共産党Red Flag Communists、少数民族各派間の、和平協議に重要な役割を果たした平和運動家であった
・・・
「国軍記念日」に関連して、日本のビルマ占領の歴史を瞥見する、以下のwikipedia記事による
Japanese occupation of Burma
1941年12月、日本軍から、中国海南島で軍事訓練を受けていた、アン・サンをはじめとする「30人の同志たちThirty Comrades」、「ビルマ独立義勇軍Burma Independence Army (BIA)」結成、来るべき日本の侵入とともに、これと呼応してイギリス植民地主義者と戦う目的である
1942年春、日本軍ビルマに侵入、日本軍にとってのビルマの意義は、中国戦線への米英のイギリス領インドからの後方支援の補給路を断つとともに、ゴムをはじめとする資源の確保にあった
1943年8月1日、バ・モーBa Maw首班の傀儡政権「ビルマ国 State of Burma」の独立を宣言
1944年8月、日本占領軍にビルマを独立させる意思のないこと、また、日本軍が連合軍に勝利できる見込みもないことが明らかになった事態に、アン・サンは、共産党指導者タキン・タン・トゥンThakin Than Tunらと、ペグーPegu(現・バゴーBago)にいて秘密会談を行い、「反ファシスト機構Anti-Fascist Organisation (AFO)」を設立、コミンテルン「人民戦線路線」の下、一時的にイギリス占領者と協調し、日本軍との闘いを開始すべきことを決定
1945年3月27日、イギリス軍とひそかに連絡を取っていた「ビルマ国民軍Burma National Army(BNA)」、これは、「BIA」の後身である、は、日本軍に対して一斉蜂起、同年5月までに、日本軍のほとんどは、ビルマから撤収した
この時の「AFO」のちに「反ファシスト人民自由連盟Anti-Fascist People's Freedom League (AFPFL)」の声明文が引用されている書物があるので引用する↓
・・・ミャンマーの反ファシスト人民自由連盟は、一九四五年三月に抗日蜂起の独立宣言を行い(日本軍に対する宣戦布告)、つぎのように述べている。
われわれは独立闘争を長期にわたりさまざまな方法で展開してきたが、その最終段階において、ファシスト日本によって示された独立の約束に気が動転し、独立獲得への希求から日本軍とともに英国との闘いに加わった。その結果、国中が一丸となってビルマ独立義勇軍を歓迎・協力し、独立闘争に参加したが、日本のファシストたちはビルマに居直り、傀儡政府をつくり、ビルマに住む多くの人々を搾取するに至った。彼らは独立という言葉を見せびらかし、われわれの人権、豊富な資源を、戦争目的のために取り上げたのである(歴史学研究会編『世界史史料』一〇巻)。
「入門・東南アジア近現代史」岩崎育夫(講談社現代新書)
「反戦反軍の言辞を弄する」無能な兵士であった古山高麗雄が、雲南戦線を離脱してビルマを撤収、カンボジアの王宮襲撃、ラオスのフランス軍捕虜収容施設、ヴェトナムの戦犯容疑者収容所、と、ビルマからインドシナ半島を転々とすることになるのが、ちょうど、この1944年暮れから、終戦にかけての期間であり、この作家の残した決して多くはない作品のすべてが、この時期について語っているのだから、2月1日のこの国における「軍事クーデター」が、偶・然・のきっかけとなったとはいえ、読み直す必要は、あったのである、・・・。
「とてもとても想像の及ばぬこと」については、「とてもとても想像の及ばぬこと」とのみ、表記するという作法、について・・・古山高麗雄を、読み直す・・・「ねこログ」記事
・・・
去る3月27日、デモ参加者の間に多大に犠牲を生じた、ミャンマー「国軍記念日Armed Force Day」が、1945年の日本占領軍に対する一斉武装蜂起を記念するものであること、さらにその元をたどれば、「国軍Burma National Army」そのものが、イギリス植民地主義からの「独立」を支援、との名辞のもとに、日本軍の主導によって創設された「ビルマ独立義勇軍Burma Independence Army」に由来すること、などの歴史を知ることになり、いち早く「戦後復興」を遂げた、「元・ファシスト・枢軸国」の国民が、い・ま・だ・に・独裁下にある「かわいそうな」「後進国」に同情を示してみせるのも、同じく元・を・た・ど・れ・ば・、例えば、キリスト教化の進んだカレン族に優遇策を採用する、植民地インドから、ベンガル系、ドラヴィダ系の人々を連れて来て、軍人、官吏として用いる、などの、おそらくは、「不用意」と呼ぶべきだろう「分割統治」によって、今日に至る民族的反目に原因を与えてしまったヨーロッパ植民地主義者の末裔たちが、「人権擁護」の「チャンピオン」として、振る舞う身振りに「パターナリズム」を検知して違和感を感ずる、というのならば、少なくとも同じくらいに、自・分・た・ち・のたどってきた歴史に対しても、「違和感」を持つのが、フェアーというものではないか、そんなことを考えさせられましたので、・・・、いや、そもそも、自分が「手を下した」わけではない、自分の所属する「民族」の過去の振舞いに対して、「責任をとる」、はもちろん、「反省する」ことさえ、いかなる根拠によって、そもそもそのようなことが可能なのか、ずっとそのようなことを考えてきたわけなので、暫定的な「答」ごときものが、ない訳でもないですが、ここでは、ともかく、「材料」を提示するにとどめておきましょう。
・・・
一九三九年にドイツがポーランドに侵攻し、イギリスやフランスがドイツに宣戦布告をして第二次世界大戦がはじまったが、快進撃を続けるドイツにフランスが占領されると、日本は一九四〇年九月にフランス植民地政府の同意のもとで、ベトナム北部に軍を進駐させた。その目的は、一九三七年の日中戦争の開始後、内陸部の重慶に移転した国民党の蔣介石政府に向けた、欧米諸国の物資援助ルート(援蒋ルート)のうち、もっとも重要な北ベトナム経由ルート(ハイフォン―昆明―重慶)を遮断するためだった。一九四一年七月には、一時資源が豊富なベトナム南部にも軍を進駐させて、マレーシアとインドネシアへの進出の足場にした。
・・・
しかし、日本軍のベトナム進駐は、ベトナムとは南シナ海を隔てたフィリピンを植民地に持つアメリカとのあいだで戦争がはじまる直接の契機になった。一九四一年十二月八日、日本の空軍がアメリカ・ハワイの真珠湾に停泊中の艦隊を攻撃してアジア・太平洋戦争がはじまったことは、よく知られている(その目的の一つは、同艦隊の東南アジア出撃を阻止することにあった)。しかし、実際には、約一時間前には日本は軍隊を、マレー半島東海岸のマレーシア北部の町コタバル、タイ南部のシンゴラとパタニに上陸させ、シンガポールを空爆し、フィリピンのマニラを攻撃したのである。このうち、シンガポールを攻撃したのは、日本軍が東南アジアを占領するさいの障害とみなされた、アジア最大のイギリス空軍基地と海軍基地を破壊するためだった。
日本は、東南アジアでの戦闘がはじまると、二カ月でフィリピン、マレーシア、シンガポール、そして半年で他の東南アジアの国をほぼ無抵抗状態で占領し(ただし、フィリピンとシンガポールでは熾烈な戦闘がおこったが)、ヨーロッパ諸国の太平洋植民地も占領した。日本軍が快進撃できた一因は、東南アジアのヨーロッパ植民地宗主国がドイツに占領されるか(フランスとオランダ)、防戦を強いられて(イギリス)、東南アジアを防衛する軍隊を派遣できないことにあった。
・・・
日本は東南アジアを占領すると(タイは日本の同盟国となり、アメリカとイギリスに宣戦布告をした)、軍政を敷いて住民を厳しく管理し(軍政下に置かれたのは、フィリピン、インドネシア、シンガポール、マレーシア、ミャンマーの五カ国)、過酷な扱いをしたなかで、現在も東南アジアの人々のあいだで生々しく記憶され、批判されているのがつぎの三つの行為である。
第一が、シンガポールの華僑虐殺である。日本は一九四二年二月にシンガポールlを占領すると(占領後、昭南に改名した)、治安と秩序を確保するという名目で十八歳~五〇歳の中国人男性を市内の数カ所に集め、「検証」と称して、反日主義者、共産主義者、親イギリスの者(その判断根拠の一つは英語を話せることだった)を選別し、被疑者をトラックに乗せて島の海岸地帯に連行して銃殺した。この行為の背景には、日本が一九三〇年代後半に中国沿海部の戦闘で苦戦した一因は、シンガポールなどの華僑が母国中国を支援したためと考えたことがあった。虐殺の犠牲者は五〇〇〇~五万人と言われているが、その人数は現在でも定かではない。
第二が、フィリピンでの戦争捕虜に対する過酷な扱いである。日本は首都マニラを無血で占領したが、マニラ湾入り口のバアタン半島とコレヒドール島で、同地に退却したアメリカ軍との間で激戦が起こった。日本は勝利すると一九四二年四月に、バアタン半島の八万人を超えるアメリカ人兵やフィリピン人兵の捕虜、それに民間人を、一一二キロメートルも離れた捕虜収容所まで徒歩で行進させた。彼らは炎天下での更新を強いられたので、暑さや疲労や飢餓を原因に、行進中に数千人が死亡し、捕虜収容所に到着したのちも多数の死者が出た。これが「死の行進」である。
第三が、タイとミャンマーを結ぶ「泰緬(たいめん)鉄道」建設労働者の強制徴用である。当初、日本のミャンマーへの軍事物資補給は海路が使われたが、連合国側が反撃に出て海路の安全性の確保が難しくなると、タイ経由の陸路で行うことにし、そのために、タイ西部とミャンマー東部を結ぶ約四一五キロメートルの泰緬鉄道を建設することにした。一九四二年六月に建設がはじまり、当初の見込よりも大幅に早く、翌一九四三年一〇月に開通した。
この短期間の突貫工事に動員された労働者は、日本軍建設部隊の一万二五〇〇人に加えて、連合軍捕虜兵が六万一八〇〇人(イギリス兵約三万人、オーストラリア兵約一万三〇〇〇人、アメリカ兵約七〇〇人など)、それに東南アジアの一般労働者が約二二万人(ビルマ人が約一〇万五〇〇〇人、マレーシア人とジャワ人あわせて約八万人、タイ人が約三万五〇〇〇人)にも上り、一日に一四時間働かされた。
一般労働者は「ロームシャ」と呼ばれたが、その調達方法は、有無を言わせない連行や、高賃金を餌に連れてくるものだった。しかし、奥深いジャングルの気候風土は、強制動員された建設労働者の体に合わず、食事も乏しかったので、マラリアがはやり、またコレラなどにより、連合軍捕虜兵に一万二〇〇〇人、一般労働者に四万二〇〇〇~一二万五〇〇〇人もの死者が出たので、泰緬鉄道は「死の鉄道」と呼ばれたのである(現在も、鉄道はタイ側の一三〇キロメートルが残り、観光用などに運行されている)。
・・・
日本は、東アジアの一部、東南アジア、それに太平洋地域からなる広大な植民地や占領地を大東亜共栄圏と名付け(この呼称が使われたのは、一九四〇年八月のことだった)、東南アジアの一部の人々のあいだでは、日本を解放者として歓迎する声もあったが、真の目的が、ヨーロッパ諸国と同様に、戦争や産業に必要な石油、ゴム、スズ、銅、鉛などの一次産品や鉱物資源の確保にあったことは、いまみたとおりである。
一九四三年一一月に東京で、占領後に親日政府が創られたミャンマー、タイ、フィリピン、満州国、中華民国(親日傀儡政権の南京の汪兆銘政府)、それにシンガポールに創られた自由インド仮政府がオブザーバー参加して大東亜会議が開催された。
・・・(中略)・・・
日本が必要とする一次資源を確保するために東南アジアを占領したのは、ヨーロッパ諸国の植民地化とまったく同一だが、しかし、日本は、表向きは、東南アジアを占領したのは独立を支援するためであると唱え、そのために二つの行動を採った。
一つは、東南アジアのいくつかの国を「独立」させたことである。一九四三年八月に反英運動家のバ・モウを国家元首に据えてミャンマー、一九四三年一〇月に親日のホセ・ラウレルを大統領に擁立してフィリピン、一九四五年三月にベトナムのバオダイ皇帝、カンボジアのシハヌーク国王、ラオスの国王に独立を宣言させた。しかし、日本の戦争遂行や経済活動に不可欠な資源が豊富なインドネシアとマレーシアは永久に保有することとされ、最後の段階まで除外されたし、これらの独立宣言は日本の敗戦後、無効とされた。
もう一つは、軍の創設である。インドネシアは一九四三年一〇月にジャワ島で、日本が主導してジャワ防衛義勇軍(PETA、郷土防衛義勇軍とも呼ばれた)を作った。当初、兵士は五〇〇人ほどだったが、日本敗戦直前には三万三〇〇〇人に増えた。ミャンマーでも、アウンサンやネ・ウィンなど、「三十人の志士」と呼ばれた、ラングーン大学関係者などの若者を、戦争がはじまる前の一九四一年三月に、密かにミャンマーから連れ出して、中国の海南島で軍事訓練を施し、同年一二月にタイのバンコクで約二〇〇人からなるビルマ独立義勇軍(BIA)を創った。義勇軍は、日本軍とともに一九四二年に、ミャンマー侵攻に加わり、創設から半年後には約一万人に膨れ上がった。
ただ、軍の創設・育成は、東南アジア諸国の独立のためだけでなく、反攻に転じた連合国軍に対して日本軍だけでは不十分なので、これらの軍と共同で当たるという別の目的もあった。・・・
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他方では、東南アジア各地で日本の占領と厳しい住民管理に反発して武力反乱がおこった。マレーシアはその一つである。日本は一九四二年初めにマレーシアを占領すると、日本の侵攻に抵抗しなかったマレー人とインド人を優遇し、中国人を抑圧して、民族差別政策をとった。そのため、中国人の間で、マラヤ共産党を軸に武装組織の抗日義勇軍が創られ、マレーシア各地でゲリラ活動を行った。
フィリピンでも、日本の占領直後に、フィリピン共産党が抗日人民軍のフクバラハップを結成してゲリラ活動を行った(マラヤ共産党とフィリピン共産党ともに、日本の敗戦後、運動の矛先を植民地政府や独立政府に向け、共産主義国家の樹立をめざして武装蜂起したが鎮圧された)。
日本が軍の創設を主導したミャンマーでも、抗日武力運動が起った。一九四四年七月に日本軍がインド東部への侵攻を試みたインパール作戦が失敗すると、抗日運動が本格化した。同年八月、ビルマ共産党、人民革命党、ビルマ軍からなる抗日組織の反ファシスト人民自由連盟(パサパラ)が創られ、指導者にアウンサンなど三人が就任して抵抗運動を行った。それだけでなく、日本の同盟国のタイも、日本と同盟を結んださいに、日本の進出に批判的なプラーセートやプリーディーを指導者に抗日地下組織の「自由タイ」が創られて、抵抗活動を行ったのである。
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「入門東南アジア近現代史」岩崎育夫(講談社現代新書)

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ビルマ、雲南における連合軍「援蒋ルート」図、「The Hump」というのはラクダのこぶの意で、物資輸送の難点となっていたヒマラヤ山系をそのように喩えたようである、ラシオから昆明までの急峻な山岳地帯の道路が「Burma Road/滇缅公路/滇緬公路(てんめんこうろ)」、「滇」は中国雲南省を、「緬」はビルマを表す、これと接続するインドアッサム州のレドLedoからビルマのカチン州のミティキナMyitlyina経由の道路が、「レド公路」、下の図には、これ以外に、「The Hump」の一つの「支線」として「ハノイ―昆明」ルートが記されている。古山高麗雄の「戦争文学三部作」(文春文庫)のうち、「断作戦」、「龍陵会戦」は、「滇緬公路」周辺、「フーコン戦記」は、ミティキナ付近での、それぞれ、アメリカ軍の支援を受けた蔣介石軍「雲南遠征軍」に包囲された日本軍の全滅に近い戦闘を描いている。


「コタバル」は「コタ・バルKota Bharu」、「シンゴラ」は「ソンクラーSongkhla」、「パタニ」は「パッターニーPattani」

「バアタン半島Bataan Peninsula」、「コレヒドール島Corregidor Island」

「泰緬鉄道」路線図
「ハリウッド、ロック・ザ・カスバ、漆喰とアスファルト、新宿のカレー店、など、・・・、いくつかの『備忘』」・・・「ねこログ」記事、スバス・チャンドラ・ボースSubhas Chandra Bose(1897-1945)、と、ラス・ビハリ・ボースRash Behari Bose(1886-1945)、二人のベンガル人革命家と、「自由インド仮政府Azad Hind」、など
「インパールImphal」は、インド、マニプール州
Free Thai Movement、「自由タイ」
Pridi Banomyong(1900-1983)、「プリーディー」
「恥辱の日」、何十人ものデモ参加者、殺害される、ミャンマー/2021年3月27日アル・ジャジーラ、この「国軍記念日」が、日本軍への武装抵抗開始の記念日であることを知り、何か「落ち着かない気持ち」になる必・要・性・、についても


There was no lawn, but instead a shrubbery of native trees and bushes — gold mohur trees like vast umbrellas of blood-red bloom, frangipanis with creamy, stalkless flowers, purple bougainvillea, scarlet hibiscus and the pink Chinese rose, bilious-green crotons, feathery fronds of tamarind.
Burmese Days/George Orwell
芝生はない代わりに、土地の樹木の灌木や茂みがある―黄金色の「ホウオウボク」、血のように赤い花の巨大な傘、「プルメリア」の滑らかな無地の花、紫色の「ブーゲンビリア」、深紅の「ハイビスカス」、ピンクの「ハイビスカス」、気難しそうな緑の「クロトン」、羽のような葉をつけた「タマリンド」。
「ビルマの日々」ジョージ・オーウェル
ホウオウボク「mohur trees」、マメ科Fabaceaeジャケツイバラ亜科Caesalpinioideaeホウオウボク属Delonix、マダガスカル原産、学名regia、英語名は、flamboyant、flame of the forestなど、ああ、ならば、林芙美子「浮雲」の「火炎木」も、これだったかもしれない、と思ったが(笑)、ちがっていた、ノウゼンカズラ科Bignoniaceaeカエンボク属Spathodeaカエンボクgrandiflora、であった、「mohur」は英領インドなどで鋳造されていた金貨、そんな風にきらきら光るような鮮やかな色だからだろうか。
プルメリア「frangipanis」 、キョウチクトウ科Apocynaceaeインドジャボク亜科Rauvolfioideaeインドソケイ属Plumeria、中央アメリカ原産、そういえば、前回、やはり古山高麗雄の作品の中に登場した「夜香木」、ジャスミンが、全然別の分類ではあるが、やはり香りを持っていることからなのだろう、モクセイ科Oleaceaeソケイ属Jasminum、「素馨」、であった。
ブーゲンビリア「bougainvillea」、オシロイバナ科Nyctaginaceaeブーゲンビリア属Bougainvillea、中央アメリカ、南アメリカ原産、ブーガンヴィルがブラジルで発見した、とのこと、和名「イカダカズラ」が、林芙美子「浮雲」にも出ていた。
「hibiscus」は、アオイ科Malvaceaeフヨウ属Hibiscusの学名でもあるし、フヨウ属の植物の総称であるようだ。
「Chinese rose」は、いくつかの異なる植物を指す場合があるようであるが、ここでは、「ハイビスカス」と重複にはなるものの、アオイ科Malvaceaeフヨウ属Hibiscusブッソウゲrosa-sinensis、まさに、ご当地でもおなじみの、「ハイビスカス」、と思われる、原産地は不明、とのこと。
クロトン「croton」トウダイグサ科Euphorbiaceaeハズ属Croton、同属の植物は、熱帯亜熱帯全域に分布しているが、南西諸島には、グミモドキcascarilloidesがある、とのこと。
タマリンド「Tamarind」マメ科Fabaceaeジャケツイバラ亜科Caesalpinioideaeタマリンド属Tamarindus、熱帯アフリカ原産。
これは、「上ビルマUpper Burma」、おそらくマンダレーに近い、架空の町「Kyauktada」の、「ブリティッシュ・クラブ」の建物のまわりの情景、この町の名前は、ヤンゴンの区名にあるのだが、きっと、どこにでもありそうな地名として、オーウェルは、選んだのだろう、彼は地元の警察官だったのだから、「原住民」とそれなりのコミュニケーションできる必要が職業上、あっただろうが、それ以上に、ビルマ語をよく学び、流暢に話すこともできたんだという、ああ、そういう所も、古山高麗雄と通ずるところがあるのだね、「パリ・ロンドン放浪記」の中で、当時、1930年代のロンドンには、確か、マーカス・ガーヴェイの略歴を調べたときに書いてあったと思うが、アフリカ人という意味での、「黒人」は、アメリカ大陸や西インド諸島出身の人々も、そんなに多くは住んでいなかった、ことになるが、植民地インド、南アジア全域の出身者は、すでにたくさん住んでいたかも知れない、記憶が定かでないが、ヒンディー語と、ベンガル語であったか、ウルドゥー語であったか、彼がちゃんと聞き分けられるらしい記述があったので驚いた記憶がある。
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ラングーンの兵站に一晩だったか二晩だったか泊まった。近くに湖のある兵站だった。しかし、泊まったのが一晩であったか二晩であったか憶えていない。あの湖は、カントージ湖だったのだろうか、それともインヤー湖だろうか。
「龍陵会戦」古山高麗雄(文春文庫)
「カントージ湖」Kandawgyi Lake
「インヤー湖」Inya Lake

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...The British Empire is simply a device for giving trade monopolies to the English - or rather to gangs of Jews and Scotchmen.'
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...Could the Burmese trade for themselves? Can they make machinery, ships, railways, roads? They are helpless without you. What would happen to the Burmese forests if the English were not here? They would be sold immediately to the Japanese, who would gut them and ruin them. Instead of which, in your hands, actually they are improved....
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'Bosh, my dear doctor. We teach the young men to drink whisky and play football, I admit, but precious little else. Look at our schools - factories for cheap clerks. We've never taught a single useful manual trade to the Indians. We daren't; frightened of the competition in industry. We've even crushed various industries. Where are the Indian muslins now? Back in the forties or thereabouts they were building sea-going ships in India, and manning them as well. Now you couldn't build a seaworthy fishing boat there. In the eighteenth century the Indians cast guns that were at any rate up to the European standard. Now, after we've been in India a hundred and fifty years, you can't make so much as a brass cartridge-case in the whole continent. The only Eastern races that have developed at all quickly are the independent ones. I won't instance Japan, but take the case of Saim - '
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...Consider Burma in the days of Thibaw, with dirt and torture and ignorance, and then look around you. Look merely out of this veranda - look at that hospital, and over to the right at that school and that police station. Look at the whole uprush of modern progress!'
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...Sometimes I think that in two hundreds years all this - ' he waved a foot towards the horizon - 'all this will be gone - forests, villages, monasteries, pagodas all vanished. And instead, pink villas fifty yards apart; all over those hills, as far as you can see, villa after villa, with all the gramophones playing the same tune. And all the forests shaved flat - chewed into wood-pulp for the News of the World, or sawn up onto gramophone cases. But the trees avenge themselves, as the ols chap says in The Wild Duch. You've read Ibsen, of course?'
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Burmese Days/George Orwell
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Here a peepul tree grew, a great buttressed thing six feet thick, woven of innumerable strands of wood, like a wooden cable twisted by a giant. The roots of the tree made a natural cavern, under which the clear greenish water bubbled. Above and all around dense foliage the place into a green grotto walled with leaves.
Burmese Days/George Owell
ここに、一本のインドボダイジュの木があるのだ、厚さが6フィートもある巨大な構造物で、数えきれないほどの蔓が編み込まれている、まるで、巨人が作った木製の綱、とでも言うように。樹の根もとのあたりは、自然の洞穴になっていて、その下からは、緑がかった澄んだ水が湧き出している。頭上にも四囲にも密に重なった葉によって、その場所は、緑の壁に囲まれた、穴倉となっているわけだ。
「ビルマの日々」ジョージ・オーウェル
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Every year from February to May the sun glared in the sky like an angry god, then suddenly the monsoon blew westward, first in sharp squalls, then in a heavy ceaseless downpour that drenched everything until neither one's clothes, one's bed nor even one's food ever seemed to be dry. It was still hot, with a stuffy, vaporous heat. The lower jungle paths turned into morasses, and the paddy-fields were wastes of stagnant water with a stale, mousy smell. Books and boots were mildewed. Naked Burmans in yard-wide hats of palm-leaf ploughed the paddy-fields, driving their buffaloes through knee-deep water. Later, the women and children planted the green seedlings of paddy, dabbing each plant into the mud with little three-pronged forks. Through July and August there was hardly a pause in the rain. Then one night, high overhead, one heard a squawking of invidible birds. The snipe were frying southward from Central Asia. The rains tailed off, ending in October. The fields dried up, the paddy ripened, the Burmese children played hop-scotch with gonyin seeds and flew kites in the cool winds. ...
Burmese Days/George Owell
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インド農民デモ、続報






まあ、言ってみれば、「モッツアレラ・チーズ」に「バルサミコ酢」とか、言っていたのが、急に、いや、するめを火鉢であぶるのなんかもいいですよね?みたいな、「転回」、・・・。

染物について想い起されるのは沖縄で用いる染めの材料であります。本土では既に正藍しょうあいが得難くなってきましたが、この島ではまだ活々と用いられています。種類が違って、広くは「山藍やまあい」の名で呼ばれます。色を出すのが容易で、どの家でもしこむことが出来ます。国頭くにがみ地方に行きますと藍畑あいばたけ藍溜あいだめがしばしば眼に止とまります。このよい材料がある上に、黄は庭先にある「ふく木」から、茶は「てかち」と呼ぶ木から、たやすく得られるのは、沖縄の染物の強みであるといわねばなりません。
「手仕事の日本」柳宗悦(青空文庫)
「山藍」、ヤマアイという名の植物も別に存在するので、混乱があると、牧野富太郎が憤慨(笑)していたが、これは、キツネノマゴ科リュウキュウアイ
「ふく木」、オトギリソウ科フクギ
「てかち」、バラ科オキナワシャリンバイ
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初めてこの書物を読んだのは、1990年代中頃、くらいかな?「バブル・エコノミー」と踵を接して(笑)、「ポスト・モダン/ニュー・アカデミズム」の、「熱狂」があっという間に去り、「熱狂」というのはそういうものだが、過ぎてしまえば「え?あれは、何だったの」、そろそろ「浮足立って」ばかりいる「歳」でもないだろう(笑)、柳田国男とか、折口信夫とか、そして、柳宗悦とか、まあ、言ってみれば、「モッツアレラ・チーズ」に「バルサミコ酢」とか、言っていたのが、急に、いや、するめを火鉢であぶるのなんかもいいですよね?みたいな、「転回」ではあったかも知れない、・・・、序文にあるように、この作品は「戦時中」に書かれ、「大体昭和十五年前後の日本の手仕事の現状」を述べるものだ、とのことだから、もちろん、彼が絶賛する、諸々の道具類を、読んでも、ちっとも思い浮かべることができず、ただ、それでも、文体だけに誘われて、最後まで読み通したようである、もちろん、関東、東北から説き起こして、順に南に下り、最後は「沖縄」で終わるのだから、この部分で、ああ、やっと読み終えた、くらいの感想しかなかった筈で(笑)、まさか、十年ばかり後に、そんな土地に暮らすようになるなどとは、思ってもみなかったけれども。当地「沖縄」との関係では、「方言論争」のきっかけを作った、柳宗悦に対しては賛否両論があり、今日的には、例えば、小熊英二「日本人の境界」だったっけ、大部の書物を買ったのに、そこだけしか拾い読みしていない、おおむね、「オリエンタリスト」的態度であった、との評価のようである、・・・、だからといって、では「否定的」に評価いたしましょう、と言うわけにはいかないものであって(笑)、いまでも、この文章には、引き込まれてしまうような気がするのだが、それはそれで、当たり前、結構なことであろう、とは思う。


クロツラヘラサギ(トキ科)

ムナグロ(チドリ科)

クロツラヘラサギ(トキ科)

イソシギ(シギ科)





オキナワシャリンバイ(バラ科)

コチドリ(チドリ科)

アオサギ(サギ科)



クロツラヘラサギ(トキ科)、「クロツラヘラサギ」さんたちとも、まもなく旅立たれるだろうから、今季、これで、最後にお目にかかる機会かもしれないね、上の方の写真のものとは異なって、こいつは、「追跡調査」の対象となっているらしく、両足にタグが着けられている。左足に、赤、青、緑の、三色の輪、右足には、オレンジ色の幅広のものに、ローマ字一字と、数字二桁、だったかな、が記載されている。遠くから写真でも識別できるためなんだろう、3P3=3!=3×2=6、ローマ字が、26種類、数字二桁で100、なるほど、それを全部使うわけじゃあるまいが、なかなかたくさん、系統的に分類できるわけではあろう。前に、背中に真っ赤な通信機械を背負っているのを、「けがをしたんだ」と動転して、環境省の出先の、干潟の研究施設に電話して、駆け付けてもらったことがあったから、知っている。その名にもかかわらず、「サギ」類とは異なるのは、飛び方がかなり違うのでわかる、翼を慌ただしく上下するのも、「せわしなく」感じられるが、おそらく、巡航速度も速いのではないかと思う、アオサギなんかと比べて、カメラで追いかけようとしても、なかなかうまく行かないのは、そういう理由ではないか、と思っている。



カワウ(ウ科)、アオサギ(サギ科)

アオサギ(サギ科)

クロツラヘラサギ(トキ科)

カワウ(ウ科)

コサギ(サギ科)





ヒヨドリ(ヒヨドリ科)




ずいぶん長い「お喋り」、でしたね。












メジロ(メジロ科)



それは、「個体」と「個体の集合」との、「レベルの混同」というエラーを犯しているのであって、いや、別にエラーくらい犯したってかまわないのだが(笑)、・・・。
「全とら尻尾短く白靴下」おかあさん、というのだったな、そのおかあさん自身も、あれは、「三毛おかあさん」の何度目かの出産の子の一人だったかな、昔は(笑)、ちゃんと、そんな「系図」を諳んずる(そらんずる)ことができた、・・・、私にしか知り得ない、本人すら(笑)知らない、という意味で「他にない」、「特異である」という意味での「情報価値」はあるかも知れないが、如何せん(笑)、「誰も必要としない」情報であるから、「交換価値」は皆無なのであるが、間もなく、私自身が滅びるとともに、これも、滅失していく「物語」であろう、・・・、「全とら尻尾短く白靴下」などという名前を、その本来の目的「識別記号」として採用したのは、もちろん、他にも「全とら」がいて、・・・、「全とら」というのは、「全身が、とら縞」という意味だ、「とら縞」模様以外に、真っ白や真っ黒の部分があるものは、「きじとら」とか、「鯖とら」とか言う、鳥の「雉」であったり、魚の「鯖」を思わせる、という由来なんだろう、人生の前半三分の二くらい、動物を飼うなど思いもよらない暮らしをしていたので、そんな「業界」での呼び名も、なじみの動物病院で初めて教えてもらったものだ、・・・、「全とら尻尾長い」もいたから、そうなったんだな、その、「全とら尻尾短く白靴下」おかあさんは、どこかで子供を四匹生んで、うちのベランダに、連れて来てくれた、そう、あの「宅配便」の会社のロゴマークみたいに、一匹ずつ首根っこ咥えて、この階段をのぼって来たのだ、それが、またどいつもこいつも、非常によく似た「全とら」だったから、「識別」には、えらく困った、「ごみ屋敷」的な(笑)不潔きわまりない、わがベランダの、あちこちにちょろちょろ隠れたり動き回ったりするから、ちゃんとみんな揃っているか、確かめる必要があったのだ、・・・、何度も言ったが、洋の東西を問わず、記数法において、「3」と「4」の間に、劇的な変化がある、と言われる、ほら、漢数字「一、二、三、四」、アラビア数字「1,2,3,4」、ローマ数字「I,II,III,IV」、いずれも、「3」までは、何かが三つ並んでいる、という「象形」的な記法だが、「4」から、突然、「論理」を含まざるを得なくなるのである、つまり、人間は、「3」までなら、一目見ただけで、一瞬に認識できるが、「4」以上は、「数える」という作業を必要とするのではないか、という推定がなりたつ、そして、これまた、おなじみの話だが、高木貞二「新式算術講義」の「自然数の起源」によれば、物を「数える」とき、一つ一つを指さしつつ、つまり、ちゃんと「個体識別」した上で、その「識別」された、個々のものに対して、順に「自然数」、「1,2,3,...」を「一対一対応」に、割り振っていく、この用法における「自然数」のあり方を、「順序数」と呼ぶ、しかし、いざ、数え終わってしまうと、個々の対応関係は、すみやかに忘却され、それは、記憶容量の節約にも資しているのだろう、最後に唱・え・た・「順序数」のみが、持続的記憶の中に残される、この用法での「自然数」を、「カーディナル数」ないし「濃度/集合の要素の個数」という、ね、だから、この「全とら尻尾短く白靴下」のお子様たちは、四人いらっしゃったので、心配性の私は、毎回ベランダに出るたびに、「指差し」数えねばならず、だから、「識別」出来ないと、「困った」のであった、・・・、それが何年前のことだったかな、仕事を「クビ」になって(笑)、「貧乏」になったから、「ワクチン接種」などしてあげられない、うちの住環境も、そんなに好ましいものではないんだろう、あんまり「長生き」はしてくれない、でも、仕方がない、ことにしている、・・・、最後に生き残ったのが、でも、最後に生き残った一人、ということは、もはや「識別」の必要がないので、そんな名前を呼ぶこともなくなっていたが、「顔茶」って言ってたんだったかな、よく見るとちっとも「顔」が「茶色」って訳でもなかったんだけど(笑)、ほとんどそっくりの柄で、「顔」だけでなく「全身」が「茶色」に見えたのがいたものだから、「全茶」に対して、そうなったんだった、・・・、すごく身体の大きなオス猫で、時々別のオスを「いじめ」たりするよくない性格もあったが(笑)、おおむね、機嫌よく、友好的だった、何より食欲が、旺盛きわまりなく、猫たちの集団というのは、これでなかなか、「神経質」なものかも知れないと思うが、同じ味付け、同じ風味、の食べ物でも、「気分」によって食が進んだり進まなかったりする、そうして、けっこう「他人」の影響を受けるらしいのである、体調を悪くして食欲が落ちてしまう、というのが、貧乏な飼い主にとっては何よりの心配事なのだが、そういう場合でも、同じお皿に頭を突っ込んでくる「仲間」の中に、ものすごく浅ましいほど意地汚い食べ方をする奴が混じっていたりすると、お、これ、そんな、旨いんか?ほな、食べな!とばかりに、食欲が「解発」されることがあるようなのだな、そういう点で、こいつは、ありがたい存在だった、・・・、もちろん、そんなことに気づくのは、「彼」が、もう三週間ばかり前になるかな、「やんばる」に「春の七草」を探しに行った日の翌々日くらいだったかな、亡くなってしまって、「食卓」が、すっかり「寂しく」なってしまった、ように感じられるからだな、・・・、頭をなでられるのが、ことのほかお気に入りで、例えば、箒の柄のようなもので、こすっただけでも、奇声を発しながら、そう、まるで「もっと、もっと、そこ、いい」とか言ってるみたいな感じで、頭をぐりぐり、その箒の柄に押しつけて来てくれたものだった、あまりに愛らしかったので、「動画」をとってみたい、とも思っていたのだが、如何せん、片手に箒を持ち、もう片手でカメラを操作するのは困難で、そのうち、ちゃんと、三脚でもセットして、と思ったまま、結局果たせないことになってしまったな、ま、「人生」、「猫・生」、そんなものだな。
だから、ここには、「彼」は写っていない、「すっかり寂しくなってしまった」後の、一家だんらん風景なのである、・・・、ベランダに、ただ、だらだらと、餌を出しておく、ということをしていただけなのに、ま、「ご近所」の顰蹙を買っていたには違いないが、・・・、どこからともなく、さまざまな「通い猫」が訪れて来ては、やがて「出産」し、雨風はしのげるし、食事にもありつけるから、当然、彼らは、そういう「選択」をしたのだろう、子猫たちを運んでくる、大半は、生き延びれないのであるが、生き延びれないという事実を、「目前」で「確認」しなければならないことが、衰弱した精神(笑)には、負担であったから、例えば大きな「台風」が近づいているから、などということを「言い訳」にして、部屋の中に引き取る、ということをくり返しているうちに、最盛期(笑)「26匹」にもなった、うちの猫家族、そのときには、公園に「捨てられて」いた犬二人と、台風のときに、川が増水して、迷いだしたのであろう亀も一人(笑)、いた、・・・、も、あれよあれよという間に、こんなに少なくなってしまった、・・・、「猫を育てる」という、お前さんに、たった一つ、あ・っ・た・か・も・知・れ・な・い・(笑)能力さえ、否定されるようで、心痛むのであるが、しかし、「たくさんいたものが減った」、という「認識」の仕方は、まさに「カーディナル数」的把握なのだ、・・・、たくさんの犠牲者が出ました、よりは、犠牲者は少なかったです、の方が、「よい」知らせ、だと、判断するのは、徹頭徹尾、「部外者」であって、個々の「犠牲者」にとっては、「生き延びれた」か「生き延びれなかった」かの、「0/1」、デジタル・システムなのであって、「多い/少ない」を論じる余地はありえない、・・・、「絶滅危惧種」と言われる生き物を、目にするときにも同じような心の動きがありうるが、それは、「個体」と「個体の集合」との、「レベルの混同」というエラーを犯しているのであって、いや、別にエラーくらい犯したってかまわないのだが(笑)、そういう捉え方をしている瞬間、私たちは、うっかり、個々の「死者」を「弔う」ことを忘れ去っている、いや、おそらく、「弔う」ことの苦痛に耐えられないから、そのような「混同」へと逃げこむ、「防衛」を採用しているのだ、と言う方が正しいかも、・・・、思い返せば、いままでもそうだったかも、亜熱帯の冬は、もちろんそれほど厳しくはないものの、秋の終り、春の始めは、一日のうちに激しく気温が上下する時期があって、そういう変動は、弱った身体には、負担であることは、自分の「老骨」を振り返ってみても想像できる、そういう時期、特に、やっと「寒い冬を克服して・・・」、春になったじゃないか、というときになって、体調を損ね、身罷ってしまった家族がたくさんあった、・・・、ここに写っている、これは、「系図」をたどると(笑)、同じく「三毛おかあさん」の、最後の出産だったかな、で生まれた一人「こげ」おかあさん、これは、部屋の中で、六匹の子を産んだ、授乳期に母猫が体調を崩したりしたものだから、私が「乳母」を買って出た(笑)事情もあったので、とりわけ、親しくしていたのだけれども、やはり次々に亡くなり、最後に残ったのが、こいつ「全茶とら・尻尾長い」君、まことに、「すっかり寂しくなったね」、と嘆く間もなく、食欲を落としてしまった、・・・、なかなか「警戒心が強い」というか「臆病」というか、「愛想がない」(笑)というか、例えば蚤の薬を塗布しようなどとしても、ものすごく暴れ、そういうことが一度あると、しばらくの間、私の姿を見ただけで、そそくさと隠れてしまう、そんなだから、弱ってしまったとしても、「皮下点滴」とか、注射器シリンジで授乳とか、の手段が困難で、こちらとしては、手の施しようがない、・・・、弱った猫は、とりわけ「他者」の干渉を嫌って、部屋の片隅に、じっと隠れている、そうして、自らの「免疫力」でもって、ちゃんと「自己治癒」を果たし、ある日、元気に「躍り出て」来るような事態も、稀にはあったけれど、多くは、そのまま衰弱してしまうのだろう、・・・、だから、食事のもの音を聞きつけて、自ら「飛び出し」て来てくれるのを、「待つ」しかない、そんな「不安」な日々になる、・・・、だが、本来(笑)、「生き物」というものは、いや、「生き物」によって構成される「世界」というものは(笑)、そういうものだったのだ、「私」にできることなど、「私」が、「世界」に「介入」して、「世界」を「変革」することなど、ただの一つもありえないのだ、そんなことが起こったと思える時があるかも知れないが、それは、ただただ、単に「偶然」の産物であったものを、後から、「解釈」して見せたに過ぎない、・・・、そういう「達観」を、私は、こうして二十年間、猫犬亀(笑)たちと暮らすことで、身に着けた、「人生」で、「身に着けた」と自慢できる(笑)、ただ一つの「達成」かも知れない、・・・、で、今日は、二日ぶりに、ご飯を食べてくれた、・・・、台所の反対側の片隅に、じっと隠れていたのが、他の猫たちの食べるもの音が、やはり多少は気になるのだろう、ごそごそ身動きしている様子が伝わっては来る、でも、なかなか出てこない、もどかしい時間が流れる、こちらとしては、ことさらに、お皿の音を騒がしく立ててみたりして「気を引く」ことを考えるわけだが、ほら、そうして、そんな「努力」が「功を奏し」て、「報われ」たときの喜びというのは、格別だね、・・・、意外に「足取り」軽く、登場して、そんなにたくさんではないが、食べることは食べてくれた、・・・、そんな一進一退がしばらくこれからも続き、結局「回復」ということはありえないのだ、と諦めてしまいそうにもなるものの、今日のところは、「食べよう」という「前向き」(笑)の姿勢を、ありがたい、と「評価」することにしておこう、・・・、「死」に近づいた存在、「死」を暗示する存在を、私たちは「忌避」し、「憎悪」するあまり、ま・だ・、死んでいない者、をも、「死者」の中に、そう、「カーディナル数」として、「算入」してしまいがちだ、もちろん、それも、正しい「弔い」の作法でないことは、言うまでもない、ま・だ・、生きているものに対しては、ま・だ・、生きていることをば、存分に「愛でて(めでて)」あげなくては、ね。


あ、カンガルーの、親子だ、って、そう言われたことが、ありましたっけね。
2007年、だというから、もう、14年前ですか、なるほど、この写真、我ながら、「若い」(笑)ね、この、ちょっと変わった毛色の、猫、うちのベランダにご飯食べに通って来られる常連さんのの一人だったのだが、どういういきさつで、部屋の中に引きとることにしたのだったっけ、覚えてないけど、きっと、あまりに仲良くなりすぎて(笑)、離れがたくなったんだろう、そうして、そのころはまだお金の余裕も少しはあったので、ワクチン接種とか、検査とか、こまめに受けてた、その過程で、「FIV/猫先天性免疫疾患ウィルス」、いわゆる「猫エイズ」ウィルス陽性であることが発覚した、「世の中」には、飼い猫がそんな重い病気にかかっていることを知ったら、すっかり取り乱してしまう人も多いのだろう、病院のお医者さんは、職業上の儀礼でもあるだろう、沈痛な、同情に堪えない、という表情で、その「悪い知らせ」を伝えてくれたのだが、こちらは、そんな「ショック」でもなかった、人間のエイズもそうだと聞くが、感染力はそれほど高くないから、同居の他の猫とエサのお皿を共有するくらいは、かまわない、もし、隔離する必要があるというのなら、これも人間の場合もそうだといわれるが、他の誰かに「感染する」ことを恐れるのではなく、免疫力が低下した本人が、他の誰かから、健康体にとっては、さほど影響のない病原を感染される、いわゆる「日和見感染」を避けるためだ、それに、それに先立つ数年前、あれは2002年かな、同じく「FIV」、もうすでに発症していた「ともちゃん」というまっくろい仔猫、一年ちょっとくらいだったかな、これは、特別な小屋までこしらえて(笑)、「隔離」して、亡くなるまで、看取った、・・・、ちょうど自分も「うつ病」発病したばかりだったから(笑)、あんまりまともな「判断力」じゃなかったんだ、とも言う、そんな経験もあったし、どうせ、もう、「ぼろぼろ」の人生でしかないことは、そろそろ分かり切ってきていたし、何でも来い!みたいな気分だったんだろうな、・・・、免疫力の低下と多分関係あるんだろうけれど、ジェリーさんは、ほどなく「慢性腎不全」となり、人間ならば「人工透析」の状態になるのだろうが、猫の場合そうもいかず、「皮下点滴」を頻繁に施して、水分の循環を良くし、弱った腎臓に代わって、老廃物を流し出して、少しでも生きながらえるようにする、とのこと、動物病院でそれを施術してもらうと、一回あたり、1500円ばかりかかる、それを毎日、なんて、いくらなんでも、負担が大き過ぎようと、先生たちも、私の「貧乏」ぶりは、身なりなんかから判断して(笑)、先刻ご承知だったろうから、やり方を教示するから、自宅でやんなさい、ということになった、「乳酸リンゲル液」500mLパックが、確か1500円、それが、四日分、他にも、輸液チューブとか、針とか、いずれもおそらく仕入れ値程度の格安で分けていただき、「余命、長くて半年」、の宣告を受けて帰る道すがらも、「悲しい」というよりは、何か、自分が「生きていく」目標があ・る・ということに、そんなことは絶えてなかった、気分の高揚を感じたものだったな(笑)、そうして、実に、先生も、のちに「嬉しい誤算」と言ってくださった、ジェリーさんは、それから、400日、生き延びたのである、・・・、「ぼろぼろ」の人生、とさっき言ったが(笑)、それに、諸般の事情から(笑)、私は「因果」というものを絶対に信じないことにしているのだけれど(笑)、それでも、錯覚であったとしても、何か自分の「行為」が、「彼」、ジェリーさんは、男の子ね、が、生き延びるために、「役立った」、かも知れない、それは、ほとんど何事をも「達成」することのなかった「人生」の中で、ただ一つ燦然と輝く(笑)、と言ってもいいくらいの、貴重な「思い出」なのですね、・・・、いよいよ、もう弱って来たらしい頃、かごに閉じ籠めたりしなくても、決して逃げ出したりはしないから、口の空いたショルダーバッグに突っ込んで、肩からたすき掛けにして病院に連れて行ったら、ちょうど、おなかのあたりから、ジェリーさんが顔を出している、って具合になって(笑)、看護師さんが、「あ、カンガルーの親子だ!」と笑ってくれた、・・・、当時、仕事はかつかつ、していたけれど、「人間」を言葉を交わすごとに、ひりひりと心が痛む(笑)、みたいのが常態だったから、週に一度、ここに来て、猫のこと以外は、何にも話さな・く・て・よ・い・、病院の先生や看護師さんとの対話だけが、大げさだが「生きるよすが」、だったといってもいい、・・・。

左、ジェリーさんと私(笑)、右、ともちゃん
・・・
ジェリーさんの一年。
ジェリーさん、ピンチ!
一年で一番寒い朝
Illness, Not As Metaphor(ともちゃん)
・・・
まだちょっと肌寒さがぶり返したりもする今日この頃、セーターの内側に子猫をたくし込んで(笑)、コンピュータの前で、作業、どうでもいい文章を書いたり、「フリーセル・ゲーム」したりするだけだけど(笑)、してたら、目を覚まして、息苦しくでもなったのか、首のところからもがき出て、そのまま、また眠り込んだ、・・・、スマホの「自撮り」モードselfy、で今度は、自分の「老醜」が映り込まないよう(笑)注意しながら、・・・、で、「カンガルーの親子」を思い出したのだ。


観光客の決して来ない、「とっておき」ビーチ、あんたもかつては「観光客」だったくせに(笑)、・・・。


ゲッキツ(ミカン科)、ゲッキツ「月橘」、ミカン科Rutaceaeゲッキツ属Murraya、英語名orange jasmine

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

ハシビロガモ(カモ科)・メス

コチドリ(チドリ科)

ヒバリシギ(シギ科)

コチドリ(チドリ科)







カワジシャ(ゴマノハグサ科)





ダイゼン(チドリ科)



ミサゴ(タカ科)



ダイゼン(チドリ科)





シロチドリ(チドリ科)

イソシギ(シギ科)

セイヨウミツバチ(ミツバチ科)、キダチハマグルマ(キク科)



ウマゴヤシ(マメ科)

ハナイバナ(ムラサキ科)

ウシハコベ(ナデシコ科)

スズメ(ハタオリドリ科)







セッカ(ウグイス科)

イソヒヨドリ(ツグミ科)・オス



キワタノキ(パンヤ科またはアオイ科)、マレー半島、インド原産

ムラサキソシンカ(マメ科)、マメ科ハカマカズラ属ムラサキソシンカ「蘇芯花」、中国南部、ミャンマー、インド原産

リュウキュウコザクラソウ(サクラソウ科)

ゲッキツ(ミカン科)





旧暦二月四日の月、月の入三時間前



ヒヨドリ(ヒヨドリ科)


そう、どれもこれも、「南」の色彩なのだ。






ヒカンザクラ(バラ科)





キワタノキ(アオイ科)



ダイゼン(チドリ科)、キョウジョシギ(シギ科)

ダイゼン(チドリ科)

コサギ(サギ科)

イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス、オス



ヒカンザクラ(バラ科)



ヒヨドリ(ヒヨドリ科)



旧暦二月五日の月、月の入三時間半前







自由に大空をはばたく?、よくもそんな勝手なことが(笑)言えたもんですね。


旧暦二月六日の月、月の入三時間前



旧暦二月七日の月、月の入五時間前







ヒヨドリ(ヒヨドリ科)



シロガシラ(ヒヨドリ科)



ヒヨドリ(ヒヨドリ科)



シロガシラ(ヒヨドリ科)


他人に嘲られる前に、あらかじめ、「自己卑下」しておく、そういう、やや手の込んだ、「防衛」機制、なのでしょう。
英語名「Starling」ならホシムクドリ(ムクドリ科)、写真で見る限り、これは、全身黒に、非常に細かい、それこそ「星」のような白い斑点が散らばっている、だから「Star」なんだな?、普通の(笑)ムクドリ(ムクドリ科)は、なるほど、確かに、ほっぺたが白い、あるいは、全身が、灰色っぽい、から、英語名は、「White-cheeked Starling/Grey Starling」とのこと、「星」のある「椋鳥(有徴)/「星」のない「椋鳥」(無徴)、に対して、ほっぺたの白くない「星椋鳥」(無徴)/ほっぺたの白い「星椋鳥」(有徴)、と、まあ、関係が逆転しているわけである(笑)。大群をなしてさえずる声が、やかましいことから、冬場、つまり、農閑期に、出稼ぎにやって来る、「騒がしい田舎者」を、「江戸っ子」が、見下して呼ぶ、用語であったというから、注意して聞いてみたが、確かに、なんだかはっきりしない、「ぺちゃくちゃ」(笑)みたいな鳴き声かも知れない、その「出稼ぎ」になぞらえられるところからも、それに、「冬」の「季語」でもあるらしい、から、日本本土でも「冬鳥」でもありうるかもしれないが、下の図を見る限り、「留鳥」でもあるらしい、そんな風に、「内地」では、さして珍しくもない、ありがたみのない鳥なのかもしれないが、当地では、明らかに冬の渡り鳥なのであって、そんなに平凡なものでもない気がする、現に、初めて見たのは、確か二年か三年前、そして、二度目が、これ、なのであるから、・・・
「椋鳥と人に呼ばるる寒さかな」小林一茶
というのがあるそうで、これも、「椋鳥=騒がしい田舎者」と「呼ばれた」ことを、憤慨しているわけだな、一茶(1763-1828)は信濃国生まれ、十五で江戸に奉公に出た、とのことだから、まさに「田舎者」呼ばわりに、神経を使うのも故なしとはしない人、だったわけである(笑)、・・・、森鷗外が海外からの連載物のタイトルを「椋鳥通信」と名付けたのは、「日本は、世界の、いわば、騒がしい田舎者」という含意なのだそうで、他人に嘲られる前に、あらかじめ、「自己卑下」しておく、そういう、やや手の込んだ、「防衛」機制、なのでしょう。

・・・
太陽暦上の「春分」が、ちゃんと「春」になるように、「一月」を決める、それが、洋の東西を問わない、太陽暦と太陰暦に折り合いをつける、「知恵」だったようで、まもなくこれが満月になれば、それが「旧約聖書」上の「過ぎ越し」、そこから遡った新月が、「ユダヤ歴」では、一年の始まり、となり、太陽暦を採用してしまった「キリスト教」でも、この満月後の最初の日曜日を、「イースター」として祝うのだから、その痕跡は残っている、これに対して、「イスラム歴」は、農事暦としての太陽暦に、ほとんど関心を示す必要がなかったのか、純然たる太陰暦なのである、何度も言ったが、平均朔望月の12倍は平均太陽年よりおよそ11日少ないから、純然たる太陰暦は、だんだん、太陽暦からずれていく、今年のラマダンは、来月なんだ、と、どこかに書いてあったな。




ゲッキツ(ミカン科)







キワタノキ(アオイ科、または、パンヤ科)

ルリハコベ(サクラソウ科)



アメリカフウロ(フウロウソウ科)

ウラナミシジミ(シジミチョウ科)、ハマササゲ(マメ科)

ダイゼン(チドリ科)













ムクドリ(ムクドリ科)



スズメ(ハタオリドリ科)



セッカ(ウグイス科)

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

旧暦二月十三日の月、月の出二時間後

旧暦二月十三日の月、月の出三時間後



焼けたコンクリートの上の、猫?、いや、今日は曇っているから、そんなに「焼けて」もいないね(笑)。


I’m on a tite rope?


「パーム(椰子の木)」、と聞いただけで、何か、ご近所のことのような気がしましたので(笑)。
「春分」後初の満月が、旧約聖書「過ぎ越し」、二週間前遡って「ユダヤ歴」新年、東洋の旧暦とはややずれるがやはり「春」から始まる。その後の最初の日曜が「イースター」、キリスト教会が太陽暦を採用したのは、ローマ帝国時代だが、「復活」したイエスその人は、「ユダヤ歴」の時間を生きていたのである。今日が、旧暦二月十五夜の満月、ならば明日が「イースター・サンデー」かと思いきや、もう少し複雑な計算によるらしい。
東洋の「旧暦」では、太陽暦上の「二十四節気」、「立春」から「大寒」が、各月に二つずつ収まって、春夏秋冬の季節感と合致するように工夫する、ずれがひどくなる場面で、19年に7回の割合で「閏月」を挿入して調整する。だから四番目である「春分」は、二月の後半である可能性が高い。同じく太陰太陽暦である「ユダヤ歴」は、「春分」後最初の満月「過ぎ越し」から遡った新月を年初とするようで、となると、表に見るように、東洋の旧暦上は、その「新年」は、旧二月一日であることも、三月一日であることもありうることになる。「閏月」挿入の知恵は洋の東西を選ばないようで、やはり19年に7回、大雑把にいえば三年に一度、挿入されていることが、ここでもわかる。
純然たる「太陰暦」たる「イスラム歴」についてだが、アル・ジャジーラ紙には、今年のラマダンはいつ始まる?という記事が毎年現れる、2017年までさかのぼって調べてみると、東洋の旧暦上は、多くは「二日」が、月の始まりとなっているように見える、あるいは、「新月」を「目視」して決定、という伝統の故なのか、とも思う。




旧暦二月十四日の月「待宵」、月の出三時間後

旧暦二月十四日の月「待宵」、月の出三時間半後

旧暦二月十五日の月、月の出四時間半後
・・・
Bible (King James)/John12:1-9,13
Then Jesus six days before the passover came to Bethany, where Lazarus was, which had been dead, whom he raised from the dead.
There they made him a supper; and Martha served: but Lazarus was one of them that sat at the table with him.
Then took Mary a pound of ointment of spikenard, very costly, and anointed the feet of Jesus, and wiped his feet with her hair: and the house was filled with the odour of the ointment.
Then saith one of his disciples, Judas Iscariot, Simon's son, which should betray him,
Why was not this ointment sold for three hundred pence, and given to the poor?
This he said, not that he cared for the poor; but because he was a thief, and had the bag, and bare what was put therein.
Then said Jesus, Let her alone: against the day of my burying hath she kept this.
For the poor always ye have with you; but me ye have not always.
Much people of the Jews therefore knew that he was there: and they came not for Jesus' sake only, but that they might see Lazarus also, whom he had raised from the dead.
...
Took branches of palm trees, and went forth to meet him, and cried, Hosanna: Blessed is the King of Israel that cometh in the name of the Lord.
ヨハネによる福音書第12章1~9
過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。
イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。
その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。
貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。
大ぜいのユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押しよせてきた。それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。
・・・
しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」。
「イースター・サンデー」の前の週の日曜日は、「パーム・サンデーPalm Sunday」と呼ばれるらしい、上の「ヨハネによる福音書」が、日付に関する唯一の根拠で、日本語訳では「棕櫚(しゅろ)」になっているが、英語では「Palm(椰子)」であるから、ヨーロッパ語では、そのような呼び名になったのであろう。素人としては疑問を禁じ得ないが、ここに「過越の祭の六日まえに」とあるが、「過越」自体は、太陽太陰暦たる「ユダヤ歴」上の満月と定まっているのだから、「七曜」とは、関わり得ない、・・・、キリスト教会が「日曜日」を「安息日」と決・め・た・のはいつなのだろう?「復活祭(イースター)」が、日曜日でなければならず、ならば、この「イエスのエルサレム入城」の日付も、その一週間前、の日曜日でなければならない、となったわけであろうか?以前、「カーニバル」と「レント」について調べたときに作った表を掲げておこう、これは、「VE-Day」75周年を期したアル・ジャジーラ記事、ウィーンを占領していたナチ高官の妻が、「オペラ・ボール」を見に行く、という話がきっかけだったから、例として、ナチのウィーン占領の翌年、1939年を挙げてみたわけである、・・・、確か、「復活祭」を起点として遡り、「日曜を除いて」40日目、というなかなか複雑な手続きによって、「聖灰水曜日」が決定され、そこから「復活祭」前夜、「聖土曜日」までが、「レント」、さらにそれに先立つ一週間が「カーニバル」であった、ここに今回新たに付け加える知見としては、「復活祭」までの一週間が「聖週間Holy Week」、それが開始されるのが、「パーム・サンデー」である、ということであろう、・・・、しかし、今年のように、「『過越し』満月直・後・の日曜が『イースター』」という通則が守られていない場合には、「過越し」そのものが、「聖週間」に含まれないことになってしまうのだが、それでもいいのだろうか?、もちろん、私の心配することではないが(笑)。
参考文献(笑):「過越」の満月、と「イースター」前の満月、「五旬節」と「ペンテコステ」、一致するのは理の当然であった、という話





旧暦二月十七日の月「立待」、月の出一時間後

旧暦二月十七日の月「立待」、月の出四時間後

旧暦二月十八日の月「居待」、南中二時間後

旧暦二月二十一日の月、南中一時間前





私のような閑人にまで、「これ以上、あんたと遊んでいる訳にいかない・・・」、なんて言われてしまって(笑)。




イソヒヨドリ(ツグミ科)・オス





メジロ(メジロ科)



ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

















メジロ(メジロ科)



ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

メジロ(メジロ科)

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)


20210408 001


シマグワ(クワ科)、このところ、隣家の庭に、メジロ(メジロ)やヒヨドリ(ヒヨドリ科)が喧しかったのは、あの電線、ケーブルテレビのかな、の、真下には、リュウキュウコクタン(カキノキ科)、そして少し離れたところには、この、シマグワ(クワ科)が、このように、たわわに(笑)実っていたからなのだな。





デイゴ(マメ科)

ダイゼン(チドリ科)・夏羽

ダイゼン(チドリ科)、まだ「夏羽」ではなさそうだが、胸のあたりにその「兆し」はある。

タカブシギ(シギ科)、これらのシギ類もまた、それぞれに色鮮やかに、「夏羽」らしくなってきている。





ミサゴ(タカ科)

ヒバリシギ(シギ科)

イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス

ギンパラ(カエデチョウ科)、近縁種のシマキンパラ(カエデチョウ科)と同様、南アジア原産の愛玩種の「篭脱け」が、「野生化」したと言われている、同じサトウキビ畑で、前に一度だけ目撃したことがある、スズメだと思ってとりあえず(笑)シャッターを切っただけだったから(笑)、残念なことに、ぼけているけれど。




イソシギ(シギ科)

オキナワシャリンバイ(バラ科)

アオサギ(サギ科)

クロツラヘラサギ(トキ科)

ムナグロ(チドリ科)

メジロ(メジロ科)

ムクドリ(ムクドリ科)






Last updated  2021.04.11 17:08:26



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