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ねこログ

2021.05.25
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コアジサシ(カモメ科)



スズメ(ハタオリドリ科)・幼鳥

デイゴ(マメ科)


「ねこログ」、総目次(笑)/「スクラップ・ブック」、の、目次。
目次:「この、嘴の黄色い奴め」という比喩表現の意味はちゃんと知っていて、運用さえできたのに(笑)、鳥の雛の嘴が、本・当・に・「黄色い」だなんて、ちっとも知らなかった、知らなくてもさして「不都合」だとも思わなかった、それも「人生」数ある「悔い」の一つだった、ということで(笑)/イギリス領インド帝国の、軍人の名前から、またしても、キップリング、それから、タゴール、というつながりを追って、・・・、ジョージ・オーウェル「ビルマの日々」を読む、続編/「植民地主義者、『原住民』に会う」症候群、と名付けようと思う、・・・、ものについて、その「続編」/自分に「自信」というものを持たずに生きている人間は、予想外の事態に直面した時、ああ、自分が間違えたんだ、と思い込んでしまう(笑)、相手が、たとえ、天体の運行、などという、「決定論」的様相を帯びているものであったとしても。/「时光」、「時」の「光」、は中国語で、「時間」という意味らしい・・・今夜の、「オールナイト四本立て」は?/




「この、嘴の黄色い奴め」という比喩表現の意味はちゃんと知っていたのに、鳥の雛の嘴が、本・当・に・「黄色い」だなんて、ちっとも知らなかった、それも「人生」数ある「悔い」の一つだった、ということで(笑)。






ゲッキツ(ミカン科)、ほら、予想通り、雨が降って、ちょっと激しい風が一晩吹いたら、こんな風に、花びらが、ほとんど散ってしまった。

クロマダラソテツシジミ(シジミチョウ科)、シロツメクサ(マメ科)



デイゴ(マメ科)、先に花が咲いて、それから、葉が出る、桜と同じように、らしい、県道沿いに、数百メートルにわたって、街路樹として植栽されているのだが、一本一本の、「個性」があって、花時が異なるみたい、古山高麗雄が、マレー半島で見たデイゴの、葉の緑色の優しさ、という風に書いていたから、花と葉が同時に画面に収まりそうなものを探すのだが、なかなか難しい(笑)。

リュウキュウツバメ(ツバメ科)

グンバイヒルガオ(ヒルガオ科)

ダイサギ(サギ科)

キアシシギ(シギ科)、これら二種、ダイサギもキアシシギも、「冬鳥」なのだ、そろそろ出発しないと、「遅刻」ですよ、と、もちろん、こちらが「心配」することではないが。

クロサギ(サギ科)・黒色型、こちらは、「留鳥」。







コアジサシ(カモメ科)、「夏鳥」、右側のが一羽で休んでいたところに、左のが、ばさばさっと、降りて来て、「仲良く」(笑)、羽繕いを始めた、そして、ちゃんと「順番」通り、今度は、右側のが、また、餌探し、文字通り「鰺・刺し」、の飛行へと、出発していった。ものすごい飛翔力で、縦横に飛び続けながら、めったに休まない、撮影者としては、せっかく降りて来てくれたのだから、じっとしていてほしいのだが(笑)、相手の都合を考えてみたら、当たり前なんだけど、飛んでる間から、ああ、ここが痒い、ここが気になる、とか、思ってたところを、降りるや否や、手入れに余念なく、済んでしまえばまた、食事に向かう、ということになるのだな、だから、全然じっとしていてくれないので、ぶれてしまった写真が、山のように残るわけ。

リュウキュウツバメ(ツバメ科)



スズメ(ハタオリドリ科)・幼鳥、「バードウォッチャー」、などと言うものに、なる、などとは思いもよらなかった頃にも、「この、嘴の黄色い奴め」、という「比喩表現」は、ちゃんと知っていて、運用もできたわけであるが、鳥の雛や、子供の、嘴が、嘴それ自体というより、付け根の方のまわりの肉なんだろうね、「黄色い」ものである、なんて、ちっとも知らなかったし、いや、それ以前に、知らなくても、全然、か・ま・わ・な・い・、と思っていた。もう十年以上前になるかな、遊水地をカメラぶら下げて散歩していた、そんな「くちばしの黄色い」ヒヨドリの子供たちが、見るからに「心配そうな」(笑)両親に付き添われて、「飛行練習」している場面に出くわしたのだった、「世界」をまもなく去るにあたって(笑)、「知らない」ままに終わったことは、多々あるのだろうけれど、悔いてみても仕方ない(笑)、でも、目撃できてよかった、と心の底から思える場面も、また、いくつかは、あったのである。
「嘴」の英語は、beak、日本語の「嘴の黄色い奴」に該当する比喩表現では、greenhorn、というのがあるらしい、「緑の角(つの)」、なるほど、「嘴を差し挟む」、は?、meddle in、でよいが、put one's noseもある、なるほど、「鼻を突っ込む」んだ(笑)。





セッカ(ウグイス科)、道路のどちら側も、さとうきび畑だったり、ただの草むらで、ススキなどのイネ科植物が繁茂している空き地、の場合でも、そのどちら側からも、あの、「ちっちっちっ・・・」の鳴き声が、ドップラー効果を伴って聞こえてくる、広い「なわばり」の、「監視」をしているのだ、といわれる、首が痛くなるのをこらえて、その縦横無尽の航跡を追いかけ、どこか見える場所に着地してくれるのを、辛抱強く、待つ。辛抱強く待っても、チャンスが巡ってこないこともしばしば、そのほうが多いのだが、人は(笑)、「うまく行かなかった」ことについては、「語らない」ものだ、道路際に数十分ばかり、立ち尽くし、だんだん、気が滅入って(笑)来たりしながらも、ほら、こうして、それなりの写真が撮れたからこそ、立ち去ることが、できたのである。枝の上にとまっていのに、鳴き声が止んでいるので、気付かなかった、なるほど、獲物を咥えていたから、鳴こうにも、鳴けなかったのだ、捕まってしまった気の毒な「獲物」は、蜘蛛、であるらしい、以前も、繁殖期のメジロ(メジロ科)が、巣ごと咥えこんで、電線の上で、器用に、糸をたぐって嘴に巻き付けているのを見たことがある、雛を育てるには、動物タンパクが是非とも必要なので、果実食の鳥も、育雛期には、さかんに虫類を捕らえるようである。セッカ(ウグイス科)は、普段は何を食べているのだろう?一度、ノゲシ(キク科)の花をついばんでいるのを見たことがある。



イソヒヨドリ(ツグミ科)・オス、とまっているのは、スーパーマーケットの、エアコンの室外機、もともと「磯」を好み、石灰岩と似た「肌ざわり」だからなのか、コンクリートの上でもしばしば休んでいるを見るが、これは、ちょっと違うね、滑りやすそうにも思えるが、いや、自動車の屋根にとまっていることもあるから、それよりはましか?などと、また、余計な「心配」(笑)。





所謂、「痒いところに、手が届く」ってやつですか。




(1)原住民の集落に、裁判所と監獄、それらは右手の方で、インドボダイジュの緑の葉陰に隠れている。パゴダの尖塔が、その緑の間から、黄金の刃先をもった槍のように突き出している。チャウクタダは、まずまず、典型的な「上ビルマ」の町で、マルコ・ポーロの時代から、1910年までの間には、ほとんど何の変化も受けなかったし、もし、そこが鉄道の終着駅を作るのに便利な町だと思いつかれることがなかったら、そのまま中世の眠りの中にとどまり続けただろう。1910年、「政府」は、この町に、この地方の庁舎を置き、「プログレス」の在所とした、この言葉は、一群の法廷の集まりと訳せるだろう、つまり、太った、しかし強欲な請願者たちが詰めかける場所、そして、病院、学校、そして、イギリス人が、ジブラルタルから香港にいたるあらゆる場所に建設した、巨大で堅牢な、監獄。人口はおよそ四千人、その中には、数百人のインド人、数十人の中国人、そして七人のヨーロッパ人が含まれる。それに、二人のユーラシアンもいる、フランシス氏、サミュエル氏、というのがその名前だ、それぞれ、アメリカ・バプティスト教会の宣教団、ローマ・カトリック教会の宣教団が残した子どもである。この町には、それほど興味をひくような変わった人物も存在しない、市場のわきの木の上に、もう二十年にもわたって暮らし続け、毎朝、籠に載せた食物を綱で引き上げる様子が見られる、インド人の乞食僧がいる位のものだ。
「ビルマの日々」ジョージ・オーウェル
(1)The native town, and the courts and the jail, were over to the right, mostly hidden in green groves of peepul trees. The spire of the pagoda rose from the trees like a slender spear tipped with gold. Kyauktada was a fairly typical Upper Burma town, that had not changed greatly between the days of Marco Polo and 1910, and might have slept in the Middle Ages for a century more if it had not proved a convenient spot for a railway terminus. In 1910 the Government made it the headquarters of a district and a seat of Progress — interpretable as a block of law courts, with their army of fat but ravenous pleaders, a hospital, a school and one of those huge, durable jails which the English have built everywhere between Gibraltar and Hong Kong. The population was about four thousand, including a couple of hundred Indians, a few score Chinese and seven Europeans. There were also two Eurasians named Mr Francis and Mr Samuel, the sons of an American Baptist missionary and a Roman Catholic missionary respectively. The town contained no curiosities of any kind, except an Indian fakir who had lived for twenty years in a tree near the bazaar, drawing his food up in a basket every morning.
Burmese Days/George Orwell

「上ビルマUpper Burma」は、この図に見るように、現在のマンダレー地方、マグウェ地方、および、シャン州に該当する地域のようである。
チバウを最後の王とする、アラウンパヤ朝が、イギリス植民地主義者によって廃され、ビルマが、イギリス領インド帝国British Rajの、ラングーンを州都とする一州に組み入れられたのが、第三次英緬戦争後の1986年、とのことで、ここでオーウェルが言及している「1910年」が、どんな事件を指しているのかは、突きとめられなかった。
fakirは、アラビア語で「貧困」を意味するفقر‎に由来する言葉で、スーフィー派の、修行僧をあらわすらしい。
「ユーラシア」という言葉は、「大陸」の名前としてしか認識していなかったな、つまり、それは、かつて、「ヨーロッパ大陸」、「アジア大陸」と呼ばれていたものが、・・・、世界には「五大陸」ある、と言われるが、ユーラシア、アフリカ、北アメリカ、南アメリカ、オーストラリア、これらのうち、四囲を完全に海に囲まれて他と孤絶しているのは、オーストラリアのみで、ユーラシアとアフリカは、スエズ地峡で、北アメリカと南アメリカは、パナマ地峡で、かろうじてつながっている、それに比べれば、ヨーロッパと、アジア、それぞれを別の大陸とみなす根拠は、全然、ない、コーカサス山脈のあたりに、南北を走る、地質、植生上の分割線が引き合いにされていたようだが、やはりこれも一つの「ヨーロッパ中心主義」的偏見なのであって、その反省から、おそらく戦後、私たちの幼少期あたりからなのだろう、その呼称が提唱されるようになったのだと想像しているが、・・・、考えてみれば、他の用例からも想像がつくように、この合成語の原義は、むしろ、ヨーロッパ人とアジア人の「混血」、ジェンダー的バイアスも当然に含まれているわけで、もっぱら植民地主義者として、アジアの「現地」に赴いた、ヨーロッパ人「男性」が、アジア人「女性」と関係をもって、その結果生まれた子供たち、を指していたのだろう、1930年代のこの作品では、読者の誰にもその含意が飲み込める、程に定着していた言葉だったのだろう。
(2)部屋いっぱいに、あのインド野●郎の召使どもとか、カレン人の学校教師とかが、集まって来るんだろ。それにあの二人の臆病者ども、フランシスとサミュエルも、やつらも、自分たちはキリスト教徒だって言い張るんだろうよ。・・・あんな宣教師どもを、この国に放し飼いにしてしまうなんて、私たちはなんて愚かだったんだ!え、バザールにたむろする人夫どもが、我々と同じ、尊き人間だって、そんな愚にもつかぬことを教えやがって。「お願いです、旦那、私もキリスト教徒、ご主人様と同じ」とか言わせるんだろ。」
・・・
(3)二人の「ユーラシアン」たちは、まるで遊んで欲しがっている二匹の犬みたいに、フローリーにまとわりついた。フランシスがもっぱら喋った。彼は貧しく、そして興奮しやすいたちの男だ、肌は、タバコの葉のように茶色、南インド出身の女の息子、サミュエルの方は、その母がカレン人だったというが、白っぽい黄色い肌をしていて、色あせた赤い髪だった。
・・・
(4)彼は、友好的な微笑みを浮かべようとしたが、むしろ、四人の、ピンクの頬をしたカレン人キリスト教徒が、彼の前で跪こうとしている様に、当惑気味であった、なぜなら、彼は、この人たちの言葉を一言も解さないし、彼らもまた、彼の言葉を知らないからだ。
「ビルマの日々」ジョージ・オーウェル
(2)A pack of Madrassi servants and Karen school-teachers. And then those two yellow-bellies, Francis and Samuel - they call themselves Christian too. ... What bloody fools we were ever to let those missionaries loose in this country! Teaching bazzar sweepers they're as good as we are. "Please, sir, me Christian same like master." ... '
...
(3)The two Eurasians had sideled up to Flory and cornered him like a pair of dogs asking for a game. Francis was doing most of the talking. He was a meagre, excitable man, and as brown as a cigar-leaf, being the son of a South Indian woman, Samuel, whose mother had been a Karen, was pale yellow with dull red hair.
...
(4)He was smiling in an amiable but rather helpless way at four pink-cheeked Karen Christians who had come to make their bows to him; for he did not speak a word of their language nor they of his.
Burmese Days/George Orwell
マドラスMadrasは、現タミル・ナドゥ州Tamil Naduの州都、チェンナイChennai、の植民地時代の呼称、「マドラス・チェック」は、その地特産の綿織物、子供のころ、童話なんかに、船乗りが「マドラス・パイプ」をくわえて、みたいな表現にしばしば出会った記憶があるのだが、手元のネット国語辞典にはそんな項目はなかった(笑)、・・・、下の図に見るように、南インドのベンガル湾沿いの地域が、イギリス領インド帝国「マドラス管区Madras Presidency」であったらしく、そこから派生した言葉なんだろう、「Madrassi」は、南インド出身者に対する、侮蔑的表現として英語の語彙の中に入っているようである

これは、その「上ビルマ」の架空の町に、ローマ・カトリックの聖職者が、ミサを執り行うために、やってくる、という場面、・・・、イギリス人と言えば、国教会、アングリカン、という思い込みがあるのだが、とりわけ、植民地に滞在しているイギリス人キリスト教徒にとって、「宗派」の違いが、どれほどの意味を持ったのかは、あまり想像できない、例えば、グレアム・グリーンは、イギリス人の中では少数派であるはずのカトリックであるが、「ハバナの男」、「喜劇役者」、の舞台は、それぞれ革命前の、キューバ、そして、ハイチだから、どちらも、登場する聖職者も教会も、カトリックばかりだった、「事件の核心」の舞台は、植民地時代のシエラ・レオネ、ここにもたしかカトリックの神父も登場したが、国教会やプロテスタントの教会の話もあったような気もする、「ヒューマン・ファクター」の回想シーンは、南アフリカ、そこは、カトリックの弾圧を逃れたオランダ人新教徒が入植してつくった国だ、アフリカ人の多くはアングリカン、という認識なのだが、さて、どうであったか、その辺の「ニュアンス」がちゃんと呑み込めていれば、もっと深い理解(笑)ができていたかも知れない、とは思うものの、いまさら仕方がない、・・・、それはさておき、「クラブ」のイギリス人はみな、そのミサに出席するわけである、やはり、古山高麗雄、会田雄次、さまざまに目撃証言があるように、ビルマでキリスト教徒、と言えば、やはり「カレン人」が多かった、少なくとも、多くの人がそのような印象を持っていた、ということは確かなようである。(2)は、前回引用したのと同じ、自他ともに認める「人種主義者」エリスの発言だったと思う、(3)に描かれる二人の「ユーラシアン」は、あくまでわき役ではあるが、この作品にはしばしば登場するから、オーウェル自身の周囲に、そのような出自の人物がいたのであろうと思われる、(4)の「彼」は、その、カトリックの神父、である。
(5)「私たちのマンダレーのお師匠さんがよくおっしゃってましたわ」、と、ラッカースティーン夫人が割って入った、「いざとなったら、私たちは、単に、インドを出・て・行・け・ば・いいのです。若い人たちは、もうこんな遠いところまで、わざわざ侮辱を受けたり、不愛想にされたりするためにやってきたりはしませんよ。私たちは、出・て・行・く・べきです。そうすれば、あの原住民どもがやって来て、お願いだから見捨てないでくれ、と嘆願することでしょうよ、そうすれば言ってやればいいのです、『いや、だめだね、お前たちにはちゃんとチャンスを与えてやったのに、お前たちはそれをものにできなかった。わかったかね、だから、私たちは、出てゆくから、お前たち自分で勝手に自分の政府でもお作りなさい。』そうしたら、あいつらにも骨身にしみてわかるだろうよ!」
「ビルマの日々」ジョージ・オーウェル
(5)‘Our burra sahib at Mandalay always said,’ put in Mrs Lackersteen, ‘that in the end we shall simply LEAVE India. Young men will not come out here any longer to work all their lives for insults and ingratitude. We shall just GO. When the natives come to us begging us to stay, we shall say, “No, you have had your chance, you wouldn’t take it. Very well, we shall leave you to govern yourselves.” And then, what a lesson that will teach them!’
Burmese Days/George Orwell
burra sahib、ヒンディー語で、「大物、大人物big man/important person」
もちろん、これも、ジョージ・オーウェルの「造形」した人物の言葉なのであって、額面通りに受け取ってはならないものの、「我々」もまた、「東洋人」の一人として、なんと傲慢な!、と、おそらく、オーウェルその人が「計算」した以上の、不快感を受け取っている可能性もあるのだが、・・・、それから一世紀近くを経て、まことに、イギリス植民地主義者が、「単にjust」、「去ったLEAVE/GO」、のちの、世界の大部分の地域のいたるところで、依然として持続している困難な状況を思えば、「あとは野となれ、山となれ」などという比喩用言は、あまりにも正確過ぎてむごすぎる、「彼ら」は、本・当・に・、そんな気分でいたのではないのか?自分たちが慌ただしく「立ち去った」あと、すべてを奪われた、何もない場所から、あらゆるものを作り出さなければならなかった「原住民」たちが、困難に直面し、さまざまに「失敗」すればするほど、「ざまを見ろ」、それがヨーロッパ人の「優越性」を証明することになる、と、ほくそ笑みさえしていたのではないか、と、疑いたい気持ちにもなってくる、というものだ。
近藤紘一の「したたかな敗者たち」(文春文庫)の中に、確か、ポル・ポトが、裁判に出廷するのを待っている場面だったな、同僚のオーストラリア人のジャーナリストが声をかけて来て、「何百万もの人間を殺した奴はどんな顔をしているのか見てみたくてね」、風なことを言った、という一節があった、深読みかも知れないが、筆者自身の、そのオーストラリア人、ほぼ間違いなく、「ヨーロッパ系」の人物に対する、うっすらとした不快感が感じられた気がしたのは、もちろん、それを読んだ私自身の「不快感」を投影しているだけかもしれないのだが、クメール・ルージュを支持するかしないか、あるいは、「容共」か「反共」か、とかいった「政治的立場」とは、ほとんど無関係に、・・・、
(i)「私たち」は、「ヨーロッパ人」に、「アジア人」の「失敗」を嘲笑されると、その「アジア人」に、それほど好意的な印象をいだいていなかった場合でも、頭にくる、
という「自己診断」を踏まえた上で、では、どうして、そんな風に「頭にくる」のか、を追及すれば、上に述べたような形で、
(ii)「彼ら・ヨーロッパ人」は、自分たちが「手を引いた」のちの、「アジア」が、混迷すればするほど、「ヨーロッパ人」による支配の優越性、引いては「ヨーロッパ人」自体の優越性、を証明できる、と言わんばかりに、「アジア人」の「失敗」を、手ぐすね引いて待ち焦がれている、
もちろん「妄想」なのであるが、相互にそのような「妄想」を、醸し出してしまうほど、「私たち」も「彼ら」も、「病んで」いる、ことは、認定できるのだと思う。
本当は、「他者」の「失敗」を、喜んだりするのは、品のないふるまいなのだ、・・・、「私たち」も「彼ら」も、「私たち」でも「彼ら」でもない誰かが、「失敗」するたびごとに、それ見たことか、と、相手を詰るためだけに、その「失敗」を、言わば「脅迫」、「強請り」の「ネタ」に使ってしまっている、・・・、当の「失敗」を引き受けなければならない「当事者」は、依然として、困難の中に、投げ出されたままかも知れないのに?、・・・、人生も最終盤に差し掛かって、いまさらそんなことに「気付いた」りしても、もう、遅いんだけどね(笑)。
(6)彼によれば、もはや、大規模な反乱が生じた上で、それに引き続く戒厳令の施行の以外には、この「帝国」を崩壊から救う方途はない。「それが、どいつもこいつも、指令だの辞令だのに右往左往している。事務所の官僚どもが、今やこの国の真の支配者になってしまっている。私たちの命脈も尽きた、というものだ。あとは、店をたたんで、「奴ら」に好きなようにやらせるさ。」
「おれはそうは思わないね、絶対ちがう」とエリスが言う。「その気になれば我々は、一か月あれば、すべてをうまく持ち直すことができるぜ。ほんの一息、決断すればいいんだ。アムリトサルを見たまえ。あの後、奴らが、あっという間に引っ込んでしまったのを見るがいい。ダイヤーは、奴らに何をくれてやればよいか、ちゃんと知っていたんだ。ああ、気の毒な老ダイヤー!彼こそが自らの手を汚して、ちゃんと仕事をしたんだ。イングランドでのうのうとしていた卑怯者どもは、彼に応えてやらんといかんのだよ。」
「ビルマの日々」ジョージ・オーウェル
(6)According to him, nothing save a full-sized rebellion, and the consequent reign of martial law, could save the Empire from decay. ‘All this paper-chewing and chit-passing. Office babus are the real rulers of this country now. Our number’s up. Best thing we can do is to shut up shop and let ‘em stew in their own juice.’
‘I don’t agree, I simply don’t agree,’ Ellis said. ‘We could put things right in a month if we chose. It only needs a pennyworth of pluck. Look at Amritsar. Look how they caved in after that. Dyer knew the stuff to give them. Poor old Dyer! That was a dirty job. Those cowards in England have got something to answer for.’
Burmese Days/George Orwell
Jallianwala Bagh massacre/Amritsar massacre(1919)
1919年4月13日、英領インド、パンジャブ、アムリトサル、英印軍准将レジナルド・ダイヤーは、大規模な反乱行動が発生しかねない、との情報を得、すべての集会を禁止したが、この通達は十分にいきわたらず、折から、ヒンドゥー教、シーク教いずれにとっても、重要な、「バイサキVaisakhi」と呼ばれる、ヒンドゥー太陽太陰暦上の「新年祭」を祝うべく、人々は「庭園Bagh」に集まり始め、パンジャブの医師にして政治的指導者であるサティヤパルSatyapal(1885-1954)、やはりパンジャブ生まれの、ムスリムであり、「インド国民会議派Indian National Congress」の闘士であったサイフディン・キチュレウSaifuddin Kitchlew(1888-1963)の逮捕および国外追放措置に抗議する、平和的なデモ行進を開始、これに対して、ダイヤーの率いる兵団は、庭園に進入した上、人々の背後で門を閉鎖、無警告で群衆に発砲を開始、弾薬が尽きるまで約十分間にわたって、射撃を続けた。死傷者数については、議論があるようだが、インド国民会議派の発表に基づけば、1000人の死者、1500人以上の負傷者、とのこと。事件の評価をめぐってイギリス世論は、二極に分解、英領インドから直接の利益を引き出すことの多い上院議員たちは、これを称賛、しかし、下院の多くはこれを非難、ダイヤー准将の査問を要求したが、実戦任務下の軍人を殺人罪で訴追することができず、軍も軍法会議に召喚することを拒否したため、この人物が事件に対して責任を問われることはないままに終わった。このwikipedia記事には、事件に対する二人の知識人の対照的な応答を記している。一人が、「マンダレーへの道」の作者である、ルディヤード・キップリングRudyard Kipling(1865-1936)。彼は、事件に際して「ダイヤーは、彼が自分の任務と感ずるところのものをなしたのだ」と擁護、もう一人が、ベンガル人ヒンドゥー教徒の出自を持つ、ラビンドラナート・タゴールRabindranath Tagore(1861-1941) 、この人は、1913年にアジア人としては最初のノーベル文学賞を受賞、これに対しイギリス政府からナイトの称号を叙されていたが、このアムリトサル虐殺に抗議して返上した、とのこと。
パンジャブ州のアムリトサル(アムリッツァー)には、1984年の、インディラ・ガンジー首相による弾圧で知られる、シーク教の本山「ゴールデン・テンプル」がある。現下のインドの農民デモは、パンジャブ出身者が中心を占めていて、だから、ヒンドゥー中心主義者の率いる連邦政府は、これを「シーク教徒の反乱」と色付けしようとしている、というような話が伝わってくる、また、会田雄次「アーロン収容所」にも、シーク教徒の兵士の姿が散見された記憶もあるから、またのちに話題にすることがあるかもしれない。タゴールという、名前だけは聞き覚えのある人物、岡倉天心(1863-1913)はじめ、日本人とも親交厚かったが、対華二十一か条要求など、侵略主義的傾向を批判、同じ教育家として、マリア・モンテッソーリMaria Montessori(1870-1952)とも親しかった、とのこと、これは、アンネ・フランクが、アムステルダムの、モンテッソーリ学校の生徒だったが、ナチによって、ユダヤ人学校に転校させられた、というのを読んだときに、知った名前だ、宮本百合子訳で、「青空文庫」に小説が一編あるようなので、読んでみることにする。
「唖娘スバー」ラビンドラナート・タゴール/宮本百合子訳(青空文庫)
ラビンドラナート・タゴールRabindranath Tagore/プロジェクト・グーテンベルグProject gutenberg
NATIONALISM/RABINDRANATH TAGORE



「植民地主義者、『原住民』に会う」症候群、と名付けようと思う、・・・、ものについて。、から続く。

「アーロン収容所」会田 雄次 (中公文庫)/「キナバルの民―北ボルネオ紀行 」堺 誠一郎(中公文庫)/「花の町/軍歌『戦友』」井伏鱒二(講談社文芸文庫)/「小津安二郎とシンガポール」貴田庄(Kindle)

「ベトナム戦記」開高健(小学館)/「忘れないよ!ヴェトナム」田口 ランディ(幻冬舎文庫) /「サイゴンのいちばん長い日」近藤紘一(文春文庫)
・・・




ヴィンロン、という地名に聞き覚えがあると思ったら、・・・、右側の地図は、マルグリット・デュラス「愛人(ラ・マン)」を読んだときに作ったものだ、デュラスの母なる人は、教員であったか、その職場や官舎がメコンデルタ地帯のサデックにあり、サイゴンの寄宿学校にかよっていた15歳のデュラスが、休暇にやって来る、ということだった。
「『フランス領インドシナ』の探索、マルグリット・デュラス『愛人(ラ・マン)』と、林芙美子『浮雲』」
図の右端、「カプ・サン・ジャックCap Saint Jacques」、capはフランス語の「岬/cape」だ、冬山高麗雄が、サイゴン中央刑務所を釈放され、「カンホイ・キャンプ」、「Khánh Hội」ではないかと思う、で日本への「復員船」を待って過ごす、サイゴン川を小さな川で下り、「サンジャック岬」で、大きな船に乗り換える、と書かれてあった記憶がある。
・・・
東南アジア諸国はたいがいどこでもそうだが、ベトナムも単一民族国家ではない。
約千年前、北方からのベトナム人は、インドシナ半島東海岸部の先住民族であるチャム族と闘いながら「南進」を開始し、十八世紀には、インド文明の影響下にあったチャム王国を完全に滅亡させた。生き残りのチャム族は現在、サイゴン北方、メコン・デルタ、中部海岸ファンラン地方などに分散し、総数約五万人といわれる。
チャム王国を滅ぼしたベトナム人はさらに南に進み、十八世紀末には半島南端に達した。南端のメコン・デルタ国境地帯には、やはり先住のカンボジア人約四十万人が今も共存し、店の看板もベトナム語、中国語、カンボジア語と多彩である。
このほか、中部には、モイ(ベトナム語で、”野蛮人”の意)と総称される多くの山岳部族が散在している。総数約七十万人といわれるが、正確な実態はつかめていないようだ。多くは山中に孤立し、焼畑農業を営み、それぞれの言語、風習を固く守っている。
山岳民族は、この戦争でひどい目にあった。一九五〇年代は、ゴ・ジン・ジェム大統領の強圧的な同化政策が、彼らの多くを解放戦線側に走らせた。米空軍が山岳地帯にナパーム弾の雨を降らせるようになってから、広大な原野に住んでいた山岳民族は、”保護”のために国道沿いに集中させられた。原始的な生活から、いきなり、機械文明と貨幣経済の中に投げ込まれた。
だが、今後の新政権の最大の難問は、百数十万人といわれる中国系人の取扱いだろう。彼らの多くは、身長支配から逃れて北民の亡命者の子孫である。ときにはベトナム人に「南進」の先陣として使われながら、サイゴン市内チョロン地区をはじめ、南部各地に強力な共同体を形成した。そして、他の東南アジア諸国の華僑と同様、つねに時の支配者や外国資本と密着して、地元の民族資本を窒息させつつ、独特の商活動を発展させた。現在、南ベトナムの経済活動の八〇パーセント以上は、直接、間接にこれら中国系人の掌握下にあるといわれる。・・・
・・・
ベトナム人は、その国土をさか立ちした竜にたとえることがある。仏植民地政策は、竜を頭部(南のコーチシナ)、胴体(中部のアンナン)、尻尾(北部のトンキン)に三分割して統治した。
そして豊かなコーチシナを直轄植民地に、グエン王朝が残っていたアンナンを保護国に、さらに土地が貧しく人々の気象も強いトンキンは、ハノイハイフォンの重要二都市を除きアンナン保護国のそのまた保護領とする(重要二都市は直轄植民地扱い)という、手の込んだ別け方をし、行政差別を行った。一般に南部コーチシナは優遇され、北部トンキンは、ゴム園、炭鉱などの労働力市場として過酷に扱われた。
一九五四年のジュネーブ協定が、今度は北緯十七度線付近で竜を両断した。
ベトナム民族が南部メコン・デルタ地方からカンボジア人を追い払って、現在の版図を確立したのはようやく十八世紀末である。そして十九世紀に入るとすでにフランス人が来始めた。だから現在の南北ベトナム全領土が、ベトナム人指導者のもとで、明確な統一国家を形づくった時期はわずかしかない。
「サイゴンのいちばん長い日」近藤紘一(文春文庫)

「ファンラン地方」は、Phan Rang–Tháp Chàm、と思われる。
ヴェトナムの言語民族構成(人口順)

  • キン族(Kinh/京)86.2%―Austroasiatic/Vietic/Vietnamese
  • タイー族(Tày/齊)1.9%―Kra–Dai/Tai/Tày
  • タイ族(Thái/泰)1.7%―Kra–Dai/Tai/Tai
  • ムオン族(Mường/𡙧)1.5%―Austroasiatic/Vietic/Muong
  • クメール族(Khơ Me Crộm,Cao Miên/高棉)1.4%― Austroasiatic/Mon-Khmer/Khmer
  • ホア族(Hoa/華)1.1%―Sino-Tibetan/Chinese
  • ヌン族(Nùng/儂)1.1%―Kra–Dai/Tai/Nùng
  • モン族(ミャオ族)(H'Mông/Miao)1%―Hmongic(Miao)/Hmong–Mien
  • ・・・
  • チャム族(占族/占城人/Chăm)―Austronesian/Malayo-Polynesian/Cham


Austroasiatic/Tai-kadai

Sino-Tibetan:Sinitic/Tibetic/Lolo-Burmese/Karen/other

Hmong Mien/Austronesian
・・・

「青いパパイヤの香りL'odeur de la papaye verte(1993)」/トラン・アン・ユンTran Anh Hung
この映画は、1951年のサイゴンが舞台、冒頭、田舎から、「女中」奉公すべく、出てきた少女、勤め先の、裕福な豪邸を探す、その街区の名称だが、残念ながら、地図では発見できなかった。「Phan Châu Toàn」、中部の町、ダナンDa Nangに、そういう名称の病院があるらしい、架空の街路名なのだろうな。




自分に「自信」というものを持たずに生きている人間は、予想外の事態に直面した時、ああ、自分が間違えたんだ、と思い込んでしまう(笑)、相手が、たとえ、天体の運行、などという、「決定論」的様相を帯びているものであったとしても。




旧暦四月十五日の月、月の出二時間半後



旧暦四月十五日の月、南中
「スーパー・ムーン」、しかも、先月のものより、さらに近い、ということは聞いていたので、心待ちにもしていたのだが、「月食」だとは、ちっとも知らなかった。月の出と思しき頃に、屋上に上がってみたものの、東の空は暗い、あれ?おかしいな、・・・、自分に「自信」というものを持たずに生きている人間は、予想外の事態に直面した時、ああ、自分が間違えたんだ、と思い込んでしまう(笑)、相手が、たとえ、天体の運行、などという、「決定論」的様相を帯びているものであったとしても。すごすご引き返し、しばらくして、いや、忘れていたのだが(笑)、もう一度見に行ってみると、なんだこれは?右側半分近くが欠けていて、しかも、「弦」のくぼみ方が反対だぜ?、・・・、動転して見とれている間にも、その影の部分は、みるみる小さくなっていくみたいだった。あとで部屋に戻って、ネットその他、問い合わせてみると、どうやら、月の出間もなくの間が「皆既月食」だったようで、三時間後あたりには、「満月」に戻る、とのこと、ならば、東の空が暗かったのは、月が、そう、この、私たちの(笑)、「地球」の影に入っていたからだったのだ、・・・、とても珍しいものを、そうやってむざむざ見逃してしまったのだから、「ムーン・ウォッチャー」としては「不覚」ではあるものの、もともと、隠れて「見えない」ものを、「見逃した」と言って嘆いても仕方がない気もするし(笑)、それに、「強がり」かも知れぬものの、去ってしまった渡り鳥、とか、散ってしまった花、とか、を「見逃した」時ほどの、「悔しさ」は、ないような気がする。ま、人生(笑)、何事に対しても、もはや「悔いて」も、仕方がない段・階・、に差し掛かっているからでもあるけどな(笑)。





(1)小津安二郎(1903-1963)、前回、「植民地主義者、『原住民』に会う」症候群、と名付けようと思う、・・・、ものについて、井伏鱒二と小津安二郎のシンガポール、で初めて知ったんだが、小津安二郎という人は、生涯、結婚しなかったんだね、そして、今気づいたが、「還暦」までしか生きなかった、・・・、で、すると、確かに2003年は、「生誕百年」、ヴィム・ヴェンダースWim Wendersの「Tokyo-Ga」は、今調べてみると、1985年、ちゃんと、映画館で見たはずなんだが、当時は、小津映画など、それこそ、名画座の「オールナイト四本立て」とかで、詰め込むように観てはいたものの、元来映画の「素養」がないから、「観方」がわかってない、どれがどれやら区別もつかないありさま、それこそ、慣れない「東京」の暮らしもストレスフル(笑)だったし、半分居眠りしていたんだろうな、何も覚えていないね、・・・、今、「予告編」を見てみると、東京駅の新幹線のホームに、旧型の、といっても、私は「のぞみ」号にはついに一度も乗ることなく、ここ沖縄に根を下ろしてしまった(笑)から、別に「旧型」でもないのだが、「ひかり」号が滑り込んでくるのを、おなじみの「ローアングル」の、固定カメラで、延々ととらえている、・・・、確かに、今思い浮かべてみれば、小津映画には、「東京駅」や、横須賀線の「北鎌倉」など、駅や鉄道のシーンが、多かったことに気づく、侯孝贤Hou Hsiao-hsien(1947-)、自身も、「恋恋风尘Dust In The Wind恋恋風塵」

なんかのいくつかのシーンを思い浮かべてみればわかるように、ある種「鉄道マニア」だったのだろう、・・・、台湾の鉄道事業は、おそらく、日本占領時に、「インフラ」整備が行われたんだろうな、台湾で「日本語学校」の先生をしている、という設定の主人公が、古本屋の主人でもある、「鉄道マニア」のボーイフレンドに、電車の運転士が使う「懐中時計」を土産に買ってくる、それを、山手線の先頭車両から運転室を覗き込んで、見比べている、というシーンがあるのも、その「証拠」になるだろうね、この作品も、全編の何パーセントかをなすだろうシーンが、電車の車内なので、・・・、実際に汽車に乗って旅をすることはほとんどなかった貧しい子供(笑)だったので、もっぱら「時刻表」を眺めるだけの「鉄道マニア」ではあったものの、これは、どの路線のどの駅なんだろう?などという興味は、かきたてられることには、なった。

これは、ラストシーン、「鉄道マニア」ならずとも、「東京」という都市の、あくなき「移動」への「欲望」(笑)、を表象する好例として、写真に収めたくはなる光景であろう、・・・、
まず、右上、「黄色」の電車、千葉方面へ向かう、中央線総武線各駅停車、
続いて、左下、今しも地下に潜って行こうとする、銀色に赤い線、今は「東京メトロ」と呼ぶそうだが、「営団」地下鉄丸ノ内線、池袋発荻窪行き、

そして最後に、真ん中、「かき色」、東京駅に向かう中央線快速、
してみると、これは、右側のグーグルマップ、「航空写真」モードにみるように、中央を流れるのは「神田川」で、おそらく、JR御茶ノ水駅の、ホームの東側の先端から、東向きにカメラを構えて撮影したのだろうことが想像されるのである。
前に、うちの頭上を、MV-22オスプレイが、頻繁に通り過ぎる、そのたびに、屋上に駆け上って、別に撮りたくもない、「不快」な対象であるにもかかわらず、「見えない/聞こえない」ふりをしてやり過ごす方が、より「ストレス」になりそう、という理由だけで(笑)、カメラを構えた、時間を測ってみると、かなり正確に、約13分間隔で、想定される「巡航速度」から計算すると、普天間基地を飛び立ち、東へ中城湾上に出、知念半島を回って、沖縄本島南側沖合に出たのち、南城市玉城あたりから、北に向かって、普天間へと戻る、その帰路に、那覇市上空を、北上する、というおおよその円軌道を描いているとすれば、おおむね辻褄が合うことになって、そんな、「計算が合った」からといって何にも「嬉しく」はないはずなのだが(笑)、困ったことにやはり「安心」して(笑)、その時思わず、「山手線並みの間隔で」、などと、言ってはみたものの、不安になって調べてみたことがあったが(笑)、確か、山手線は、それどころではなく、通勤時間帯でなくとも、3分ないし5分間隔で運行していることを知り、改めて、「東京」の計り知れない「慌ただしさ」、あんな町に、「住める」わけもなかったことを(笑)思い知った記憶があるが、・・・、だから、中央線快速、各停、丸ノ内線、それぞれそのくらいの「密度」なんだとすれば、こんな光景が撮影できるのも、別に珍しくもない、十分かそこら、チャンスをうかがっていたらできるはずなのだと思われる、・・・、そういえば、この映画の中では、そんなそれぞれ3分間隔程度なのだから、同じ方向に向かう「同時発車」があってもさほど珍しくない、並行して走る、山手線から、京浜東北線を、その抜きつ抜かれつする様子を、延々と撮ったシーンもあるのだけれど、・・・、私の生まれ故郷は阪神間の海沿いで、そこを横切るJR、もちろん当時は「国鉄」も、「複々線」、内側二本が、東海道山陽線京都・西明石各駅停車、外側二本が、東海道線快速その他長距離急行、貨物など、という構成だったから、この、同じ方向に向かって、列車が並行して走る、という光景は、子供のころから記憶に残っている、ああ、阪急電車の、梅田十三間も、神戸線宝塚線京都線が合計六本、平行しているけどね、・・・、そんなどう考えたって(笑)、「過剰」、「不必要」としか思えない光景が日々演じられているのは、「首都圏」と、関西の、超過密地域のみだったことになるから、侯孝贤氏が、思わず、のめり込んでしまったとしても、不思議ではないね。そういえば、小津安二郎にも、おそらく、有楽町あたりなんだろうな、「国鉄」の線路が、いくつもいくつも平行に走っている、場所の映像が、繰り返し出てきたな、笠智衆と原節子が、横須賀線に揺られて、東京に向かうのは、「晩春」だったか、「麦秋」だったか、会社の同僚が、熱海行きの「湘南電車」で新婚旅行に出発するのを、丸の内のオフィスビルの屋上から、岡田茉莉子が見送る、のは、「秋日和」だったか、

これは、有楽町あたりの「航空写真」だが、確かに、線路は、10本ぐらいありそう、西、丸の内側から、東、八重洲側へ向かって順に、山手線、京浜東北線、東海道線、横須賀線、そして新幹線、それぞれ往復、と思えば、一応辻褄は合うね、・・・、もう、二度と行くことはない土地について、そんなことが「わかって」も、やはり(笑)何にも嬉しくないはずではあるものの、・・・、「携帯電話」、2003年の映画だから、まだ「スマホ」ではない、で、「今、高円寺だから、十五分ぐらい、御茶ノ水駅で待合せよう、先頭の車両に乗ってるから」っていう会話が出てくる、結局、気分が悪くなってしまって、新宿駅で降りてしまうのだが、その、新宿駅の中央線快速東京行きホームの、「先頭」つまり東の端、はっきり記憶と合致したので、嬉しかった(笑)、というぐらいで、いつまでたっても終わらないから、この辺で「鉄道」談義は、やめる。

いやいや(笑)、まだ二つぐらいあった、主人公の一人暮らしの家が、「都電荒川線」の「鬼子母神前」駅近く、そこから、JRに乗り換えて、神田の古本屋街に向かうとしたら、乗り換えは「王子」と見た、・・・、それから、両親の家が、高崎にあって、「お墓詣り」に行く、中央線快速と同じような「かき色」の電車は、「上信電鉄」、父親が車で迎えに来たのが、「吉井駅」であることまでは調べが付いた(笑)、ことを報告しておかねばならない、「日暮里駅」のコインロッカーに荷物を預けるシーンがあるのに、やや疑問は残るものの(笑)。

ほとんど「プロット」といえるもののないこの映画で、一つの底流する「テーマ」といえば、台湾出身、の作曲家江文也Chiang Wen-yeh(1910-1983)、の足跡をたどる旅、今、wikipediaで調べてみると、13歳の時、というから、1923年、日本植民地下の台湾から、「本土」留学、武蔵高等工科学校(現・武蔵野工業大学)、東京音楽学校(現・東京芸術大学)、1938年から、中国大陸に渡り、北京師範大学教授、日本敗北後、蒋介石政権下では、「文化漢奸」として拘束されもしたが、1947年、北京中央音楽学院教授就任、中華人民共和国成立以降は、「反右派闘争」、「文化大革命」下に、「日本帝国主義の手先」として弾圧を受け、1978年名誉回復、・・・、サウンドトラックには、この人の作品が用いられているようだし、音楽学校在学時に、神田の古書店を訪れた、ということから、「フリーライター」でもある主人公が聞き込み調査をしたりする。
Maggio Suite五月の組曲/Chiang Wen-Yeh江文也
Formosan Dance, Op.1台湾の舞曲/Chiang Wen-Yeh江文也(1936)
そして、最後にクレジットが流れれるのを眺めていて仰天したのが(笑)、「キャスト」の末尾に、「蓮実重彦」の名!、・・・、ヒッチコック映画には、監督自身が目立たない端役として顔を出していて、それを見つけるのが、「通」の楽しみ、とよく言われるが、それにも似て、・・・、「小津生誕百年」をうたっているのだし、侯孝贤とも親しい関係だろうから、「友情出演」であっても驚くにはあたらないが、目まぐるしく思い浮かべてみて、「怪しい」のは(笑)、まず、その「江文也」の調査で向かった古書店主人、後ろ姿のみだが、これは、声も違う気がする、あと、タイトルが「珈琲时光Café Lumière」というぐらいだから、古めかしい「喫茶店」がいくつか登場する、やはり「江文也」ゆかりの地を探して、銀座四丁目あたりを歩くとき、道を尋ねた喫茶店の主人、それから、これはおそらく「鬼子母神前」近くなのだろう、「珈琲店エリカ」の、「お電話です」と取り次いでくれる主人、・・・、私が、蓮実教授の「表彰文化論ゼミナール」のたった半期だけの「学生」(笑)だったのは1987年、それからこの映画の時期まででも、十五年以上を経ているのだから、「老けられた」としても当然だろう、だから、結局断言はできないのだが、どうも、「エリカ」のマスターではなかったか、という一応の結論。老人は、同じことばかり言う(笑)、しかも、他人に「ほめられた」ことのめったにない人生だったから、それぐらい自慢話をしても許してもらおう、「大学」というところで、ものを「学んだ」と実感できたのは、後にも先にもこの「ゼミ」だけだったのではないか、と思うくらいだ、・・・、いや、本当はそうでもない、卒業間際になって慌てて受講した「線形代数学」の几帳面なノートが、まだ押し入れに眠っているじゃないか(笑)、・・・、視聴覚教室には、VHSのプロジェクター装置があって、一部を見せていただいたものとしては、「河内山宗俊/山中貞雄(1936)」、「赤西蠣太/伊丹万作(1936)」があった記憶があるな、5分おきくらいに映写機を止めて、解説が入る、そんな風にして、全編を見たのが「市民ケーンCitizen Kane/オーソン・ウェルズOrson Welles(1941)」だった、期末に提出したレポートが「A」だったか「A+」だったかの評価で帰ってきたことが、わが人生の(笑)きわめて数少ない、「自慢」の種なのだ、wikipediaもない時代(笑)、オーソン・ウェルズのことだって、たいして知らなかったくせに、何を偉そうに書いたのだろうか、全然記憶にないのだけれど、・・・。

生没年一覧表



「ホームカミング・クイーン」、って、その言い方、合ってる?




ほとんど真っ白三毛


20210526 003


アレチノギク(キク科)、カメムシ亜目の一種・幼虫

旧暦四月七日の月、南中一時間後



フクギ(オトギリソウ科)

ドバト(ハト科)

カボチャ(ウリ科)、緑色のが「パンプキン」、こんな茶色っぽいのが「スカッシュ」、ではなかったかな?

シロガシラ(ヒヨドリ科)



モンシロチョウ(シロチョウ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)



リュウキュウコクタン(カキノキ科)

ゲットウ(ショウガ科)

ノゲシ(キク科)

ホウキギク(キク科)、背後は、カッコウアザミ(キク科)

オキナワキョウチクトウ(キョウチクトウ科)



ホウオウボク(マメ科)

フクギ(オトギリソウ科)



イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス

ゲッキツ(ミカン科)



ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

旧暦四月十二日の月、月の出二時間半後





コアジサシ(カモメ科)

バショウ(バショウ科)

旧暦四月十五日の月、月の入二時間前



デイゴ(マメ科)

スズメ(ハタオリドリ科)・幼鳥

セッカ(ウグイス科)



コアジサシ(カモメ科)






Last updated  2021.06.13 13:37:33



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