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2021.08.22
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カテゴリ:カテゴリ未分類

ヒレナガハギ(ニザダイ科)・幼魚、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)

デバスズメダイ、ネッタイスズメダイ(スズメダイ科)、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)

テングカワハギ(カワハギ科)、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)

ヒバリシギ(シギ科)


「ねこログ」、総目次(笑)/「スクラップ・ブック」、の、目次。
目次:「旧盆」談義、「私たち」は、「死者」のことを必ず忘却してしまう、忘却しなきゃ生きていけないからだが、そのことへの「罪悪感」を「昇華」すべく組み立てられた制度、なのでしょう/どこかで断ち切られなければならない、連鎖、・・・「セプテンバー・イレブンス」から20年、カブールを、脱出しなければならなかった人、とどまることを決断した人、など/ロクセンスズメダイの「線」の「数」から、「私たち」が自分たちに「対立」するものとして定立している「自然」、というイデオロギー(笑)、などという大上段な議論へ/「金のないユダヤ人たち」、マイケル・ゴールド、という作家とともに、「ローワー・イースト・サイド」を歩いてみる/「ミ・エスタス・『デクノボー』」、私は『デクノボー』です・・・井上ひさし「イーハトーボの劇列車」を読む/ええ、ここでは生と死が仲よく重なり合っているんですよ・・・井上ひさし「頭痛・肩こり・樋口一葉」/




「旧盆」の間、地元の人たちは海に近寄らない、「ニライカナイ」からの「客人」の邪魔をしてはいけないからね、「余所者」も守ろうと思うのは、いや、「信じている」からでは必ずしもなくて(笑)、・・・。
他人様の「宗教感情」、というようなものを、通りすがりの、その土地に無関係なものが、ないがしろにしてよい、筈がないだろう、という、極めて常識にかなった、と思われる(笑)、動機なんだけれども、・・・、いやしかし、「十三夜」の「大潮」は、あまりに見事な快晴で、例によって、ちょっと「もったいない」、という気持ちになってしまって(笑)、こっそり、「例外」を設けさせていただいた次第、干潮の午前十一時ごろには、確かに、浜辺には人気が無い、恐縮しつつ、しかし、とてもよく引いているから、枝状サンゴに群集うスズメダイたちを、ごく間近に撮影することができたし、もう、透明度はそんなに良くないので、鮮明ではないものの、今季初めての、キヘリモンガラ君にも、お会いできたし、大いに満足であった、・・・、昼も過ぎて、退散しようかという頃になると、観光客、でもなさそうな、親子連れ、とかも含めて、浜遊びに来る人たちの姿も見受けられたので、いや、小心にも(笑)、やや、胸をなでおろしたわけだ。
スーパーの売り場には、「お供え」用のさまざまな食材や飾りつけなどが並んでいて、あの、何か、「胸騒ぎ」を伴うような(笑)、「豊年音頭」、
ほうねんでーびる、ほうねんでーびる
しゅとりとてん、しゅとりとてん
・・・
の怪しいリズムが鳴り響いていたのであろうが、今年は、疫病蔓延のおりから、「緊急事態宣言」下、例年以上に、「引きこもり」(笑)、めったに外出しなかったから、気が付いたら、あっという間に、もう三日目、最終日ではないか?
それこそ、スーパーの売り場なんかにも、移住者の便宜を図ってくださっているのか、沖縄の「旧盆」の日程と、行事について、説明してくださるポスターが貼り出されたりもするのだが、「独居老人」には、用がないことなので、覚えようともしていなかったが、今(笑)、調べてみると、・・・、「旧盆」の行事は、旧暦七月の「満月」までの三日間、「十三日」、「十四日・待宵」、「十五日・満月/望」に執り行われる、
十三日、「うんけー」、「お迎え」→「うむけー」→「うんけー」と、転訛したのであろう
十四日、「なかぬひー」、これはもちろん、「中の日」
そして、十五日、「うーくい」、これも、「お送り」→「ううくり」の転訛であろう
つまり、海のかなたの「根の国」、または、「ニライカナイ」の住人である「死者」たちが、年に一度、この時期に、大挙、こちら、「生者」の国を、訪れてくださるのであるが、これは想像であるが、海の向こうから、「歩いて」来られるならば、ずっと潮が引いている、「大潮」の干潮が望ましかろう、ちょうど、満月ならば、南中時である夜半に、干潮となるのだから、これは、足元を照らしてくれる明りともなって、なおさら「合理的」というべきではないか?なんという名称だったか、覚えられないのだが、サトウキビの太い茎を切って、「杖」状にしたものを、お供えし、その最終日「うーくい」に当たっては、家の門前に出しておく、これは、「死者」たちが、迷いなく、「あちら」の国に戻ってくださるように、との願いの現れなんだと言われているし、・・・、「私たち」は、「死」を理解することができないので、それには、いつまでたっても底知れない恐怖が付きまとう、「死」を、いわば「擬人化」して、「死者」たちが、生・き・て・い・る・「場所」がどこかにあるに違いない、と想像したのもまた、恐怖を馴致するための、ごく自然の知恵なのであろう、ただ、「死者」の国は、そう簡単に行き来できるところであっては、「困る」わけで、「三途の川」のむこうの「冥土」であろうが、「海」を隔てた「ニライカナイ」であろうが、普段は、あっさり忘却しておけるような遠いところでなければならない、だが、そうやって、かつては「愛すべき」ものであった「死者」たちを、忘却の彼方に追いやってしまっていることには、当然の「罪悪感」が伴うわけで、だからこそ、その「昇華」の過程として、ただし、「期間限定」で、往還可能である、制度を採用したんだろうな、・・・、もっとも、こういうのって、なんか「東洋的」?、非「一神教」的?、ダンテ「神曲」に描かれているそうな、「地獄」の様子なんかだと、とてもこんな、どこか「ほのぼのとした」往還など、ありそうもないように思える、が、まあ、知ったかぶりは、このあたりにして、・・・。

アマミスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚



キヘリモンガラ(モンガラカワハギ科)

スズメダイ科の一種(背びれに眼状紋があるもの)、デバスズメダイ、ミスジリュウキュウスズメダイ、ネッタイスズメダイ(背びれに眼状紋がない)(スズメダイ科)、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)、追伸、幼魚の背びれに眼状紋がある、黄色いスズメダイは、ニセネッタイスズメダイかもしれない、そういうことにしておく。

デバスズメダイ、ネッタイスズメダイ(スズメダイ科)、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)

デバスズメダイ、ネッタイスズメダイ(スズメダイ科)、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)

マトフエフキ(フエフキダイ科)

デバスズメダイ、ルリスズメダイ、ネッタイスズメダイ(スズメダイ科)、ユビエダハマサンゴ(ハマサンゴ科)

ミツボシキュウセン(ベラ科)

ツユベラ(ベラ科)

ミスジチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)

クロスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)

テングカワハギ(カワハギ科)、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)

ヒレナガハギ(ニザダイ科)・幼魚、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)

デバスズメダイ(スズメダイ科)、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)

テングカワハギ(カワハギ科)、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)

クロスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)

ネッタイスズメダイ(スズメダイ科)

オオハマボウ(アオイ科)

アダン(タコノキ科)

コチドリ(チドリ科)

ダイサギ(サギ科)

ヒバリシギ(シギ科)

コチドリ(チドリ科)



旧暦七月十三日の月

旧暦七月十四日の月、「待宵」







Upper West Side: セントラル・パークCentral Parkの西側、ハドソン川Hudson Riverに面した区画
downtown:14番街14th Street、ユニオン・スクエアUnion Squeareの南側に面した通り、よりも南側を、downtown/Lower Manhattanと呼ぶらしい。
midtown:59番街59th Street、これはセントラル・パークCentral Parkの南端、から14番街14th Streetまでの間が、Midtown Manhattanのようである。
Houston Street:ワシントン・スクエア・パークWashington Square Park、これは4番街4th Streetあたり、のさらに南側。

「舞台」西加奈子(講談社文庫)、には、初めての海外旅行初日に、財布、携帯電話、クレジットカード一式を盗まれ、ほぼ無一文のまま、ニューヨークの町をさまよい歩く青年が描かれている、いや違った、「地球の歩き方」を盗られたのは、痛かったが、「スマホ」はポケットに入っていたから無事で、ほぼ、それだけを頼りに、少額の現金だけで、歩き続けるのだった、彼もまた、最終章で、この「セプテンバー・イレブンス」の故地に、辿り着くのだったはずだ。
「ブラック・ライブズ・マター」のデモ隊といっしょに、ニューヨーク市街を「歩いて」みる
カンダハールKandahar(2001)/モフセン・マフマルバフMohsen Makhmalbaf(1957-)


パシュトゥーン語Pashto、インド―ヨーロッパ語族イラン語派Indo-European/Indo-Iranian/Iranian/Eastern Iranian/Pashto、は、同じく、インド―ヨーロッパ語族イラン語派に属するダーリ語Dari、Indo-European/Indo-Iranian/Iranian/Western Iranian/Southwestern Iranian/Persian/Dari、とともに、アフガニスタンの二つの公用語を構成する。

アフガニスタン、言語民族分布図、September 2001なる、生々しい日付が入っている、アメリカ軍が、侵略を目前にして作成した図面であるらしい。
どちらの言葉も、そして、イランの主要言語である「ペルシャ語Persian/Farsi」、も、表記には、「ペルシャ文字Perso-Arabic script/Persian alphabet」、7世紀、ササン朝ペルシャの没落、「イスラム化」、の時代以来、アラビア文字を手本にして開発されたものらしい、やはり右から左に向かって書かれ、もちろん素人目には、アラビア語と区別がつかない。
カレド・ホセイニKhaled Hosseini「カイト・ランナーThe Kite Runner」(2003)、これは、1965年生まれの、現在はアメリカに在住するアフガン人の筆者の作品で、読んでいて、思わず魯迅「故郷」を思い出したけれども、少年時代の自分の家の「召使」をしていたハザラ人Hazaraの少年との交情を中心に描かれる、・・・、言語、という面で気になったことがいくつかあって、まず、タリバンが、首都を制圧したとき、「彼らはパシュトーン語を喋っていた」という記述があったこと、ということは、筆者、いや、一人称の語り手は、ダーリ語の話者であろうこと、および、だからといって、彼らの言っていることがわからなかったわけではなさそうだったから、それらは、相互に理解可能な程度に近似した言語なのだろう、それから、ハザラ人の少年といっしょに、街に映画を観に行く、おそらく、1978年のソ連侵攻以前、ということは、隣国イランの「イスラム革命」以前、ということになるが、当時、イランは、この地域での、「映画の都」のような存在だったようで、カブールの映画館でかかる映画は、ことごとくイラン製、アメリカやヨーロッパのものも、「イラン語」に吹き替えられていて、とあった、子供心に、「荒野の七人」の俳優も、みなイラン人なんだ、と思い込んでいた、ともあった、ということは、ダーリ語の話者である子供たちが、ペルシャ語の吹き替え映画を観て、理解ができる、これまた、ある程度、近似した言語なのだろうと想像されるわけだ、他民族―多言語国家、というもののありさまの、一幕をうかがい知ることができそうな経験であった。今調べてみると、アフガニスタンの人口構成は、パシュトーン人が大半を占め、最大多数派、カレド・ホセイニ氏自身も、民族的には、そこに含まれるらしい、ハザラ人は、「人種的」には、トルコ系、モンゴル系、とも言われるけれども、言語的にはもっぱらダーリ語もしくはそれに近いものを話すらしい、宗教的には、シーア派が多数で、だからこそ、タリバンからの弾圧を受けるのだが、その面で、イランに対する親近感を有した人が多いようで、この「召使」の少年も、イランが映画の「先進国」であることを、誇らしげに語っていたシーンがあった記憶がある。

The Kite Runner/Khaled Hosseini


「他者」を「聖別」することで、「差別」の対象とできる、というのは、歴史が証明した事実なのだよ・・・スーザン・アブルハゥワの記事
こうして「左翼」は、ガザのパレスチナ人を「非・人間化」する/スーザン・アブルハゥワ(アル・ジャジーラ/13 Apr 2019)
スーザン・アブルハゥワ「ジェニンの朝」
「ちょっと回り道にはなるんだが、気に入ると思うよ」
ルラ・ジェブリアル「ミラル」と、スーザン・アブルハゥワ「ジェニンの朝」、東エルサレムの「アラブの子供たちの家」、の創立者、ヒンディ・ホセイニ、の記述を抜き出してみる
『二つの側』の間の『複雑な紛争』という観念によって、隠蔽されてしまう、実在する圧倒的な『不均衡』について・・・「アペイロゴン(不規則多角形)」、出版産業における、また一つの植民地主義的過誤/スーザン・アブルハゥワ、2020/03/12アル・ジャジーラ
マームード・ダルウィーシュMahmoud Darwish(1941-2008)
1941年ガリレー Galilee(ガラリア)生まれ、ナクバ(1948年イスラエル建国)に際して家族は家を失い、レバノンに移住、その後、イスラエル領内ハイファHaifaに戻り、イスラエル共産党に入党、言論活動開始、1971年、ソ連留学、1973年にPLOに加盟したことから、イスラエル当局から帰国を禁じられ、エジプト、レバノンに居住する、1982年、イスラエル軍のレバノン侵略により、ベイルートからの退去を余儀なくされる、以後、アンマンなど、アラブ各国の首都に居住、1993年、オスロ合意に異議を表明し、PLO執行委員を辞任、1996年以降、西岸地区のラマラRamallahに居住。
アル・ジャジーラ紙、2008年8月27日、マームード・ダルウィーシュ氏の追悼記事
以下の「ねこログ」記事に、同氏の作品の英訳版のいくつかのリストが含まれているが、ここに引用されたものは、見つからないようである
ジャンセニスト「痙攣派」、マルチニックサトウキビプランテーション負債をめぐるイエズス会追放事件、「ダルウィーシュ」という言葉からのいくつかの連想、ディケンズ「二都物語」




「あなたたちに、お会いできただけでも、嬉しゅうございました」、みたいな、「謙虚」な気持ちでいられたなら、もっとよかったのにね(笑)。
海の生き物の色彩が、こんなにも鮮やかなのは、水の「プリズム」のせいなんだな、あらゆる波長成分を含んだ太陽光から、虹の「七色」は言うに及ばず、ありとあらゆる色を取り出してくる、陽がかげっている時と照っている時で、どうしてこんなにも表情が異なるのか、それは地上のものの比ではないので、不思議に思っていた、紫やピンクや緑、そんなとんでもない衣装が、ちゃんと「保護色」になりうる場面があるのは、そういう事情なんだ、・・・、「旧盆」が明けたばかりの「十六夜」大潮、正午過ぎの干潮、はそんな感じの快晴だった。
ロクセンスズメダイとオヤビッチャ、後者の語源は定かではない、と言われている、沖縄の方言に由来する、との説もある、この、ともにスズメダイ科の二種は、とてもよく似ていて、ここでは後者の方が、黄色みがかかっているので区別できてしまうが、前者の方にも、黄色っぽい個体はあるようなので、決定的なのは、やはり、その名の通り「線」の数、写真を見ながら数えてみるたびに、考えさせられる、尾びれの上下にわかれているのを「2本」と数えて、「6」になるのだ、もちろん、水の中でアップアップしながら(笑)カメラを操作しているときに、そんなものを「数えて」いる余裕はない、なるほど、最初に命名した人は、その魚を「釣り上げ」て、言わば「俎板(まないた)の上」で、ゆっくり数えたんだろうな、昔の博物学者は、カメラというものの技術がこんなにも進んでくるほんの半世紀ほど前までは、対象となる生き物を、捕獲して、ほとんどの場合は、それを殺して、解剖して、特徴を記述したりしたからこそ、初めて「分類」も可能になったのだ、「ビーグル号航海記」のダーウィン氏は、自分が、いかに狩猟の腕をもち、剥製製作技術の熟達しているかを、自慢している、とも見える一節があったと記憶する、・・・、こうして遅・れ・て・き・た・「ナチュラリスト」、「自然愛好家」は、いまでは、そんな血なまぐさい行為に手を染めることなく、気・楽・に・、対象を眺めることができ、あまつさえ、「殺さない」でいることを、本来の「美徳」であったかのごとくに錯覚して得意になったりさえできるのだが、おかげで、「手つかずの自然」、などというものがイデオロギー(笑)、本当に「手つかず」であったらば、「私たち」はそれを「見る」ことができない、「私たち」が自分たちに「対立」するものとして定立している「自然」というものを、「私たち」は、ほかならぬ「私たち」そのものによって、「破壊」されたその切断面から、言わば「覗き見」できるにすぎない、というその背理を、忘れさせてしまう。一時間ばかりも水の中にいれば、真夏の炎天下でも、身体が冷え、シャッターを押す指先もかじかんでくる、そろそろ「陸」に戻らねばならないときに、いつも、今日はどんな凄い「写真」が撮れたのだっけ?、と「成果」ばかり気にしてしまうのは、あるいは、「狩猟者」だった「私たち」の基層に刻み込まれた記憶?、とも思えたのでこんなことを考えた、まわりにこんなにもたくさんの「生き物」が存在するのは、「薄気味悪い」ことでもあるものの(笑)、「薄気味悪い」がゆえに、また「心躍る」ことなんだが、ならばどうして、あら、こんなにたくさん、皆さんに「歓迎」、かどうかは知らないが(笑)、していただいて嬉しいわ、今日は、たくさんのおさかなを見たわね、よかったよかった、みなさんにお会いできただけで十分嬉しい、という「謙虚」な気持ちになれず、是が非でも、フィルム、仮想的な電磁的記録ではあれ、などという「証拠物件」を持・ち・帰・ら・ず・には、気が済まないのは、どういうわけなんだろう、とね。


フウライチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)

クロスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚

ヤエヤマギンポ(イソギンポ科)、ルリスズメダイ(スズメダイ科)

レモンスズメダイ(スズメダイ科)



ヤエヤマギンポ(イソギンポ科)

アカハチハゼ(ハゼ科)

イシガキカエルウオ(イソギンポ科)



オヤビッチャ、ロクセンスズメダイ(スズメダイ科)、アミアイゴ(アイゴ科)

ロクセンスズメダイ、オヤビッチャ(スズメダイ科)



テングカワハギ(カワハギ科)

シマハギ(ニザダイ科)

シマハギ(ニザダイ科)、カイワリ(アジ科)

ゴマチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)

ミツボシキュウセン(ベラ科)、ヨメヒメジ(ヒメジ科)

ヨメヒメジ(ヒメジ科)

リュウキュウツバメ(ツバメ科)



旧暦七月十六日の月「十六夜(いざよい)」、南中、南の空を仰いでいるので、月は、これから右手、つまり西に向かって進む、うさぎさんのお耳が、右下を向いて、ほぼ、その進行方向を示している。


現にそこに「出ている」に違いないものを、わざわざ外に出て「確認」(笑)しないと気が済まないなんて、月を愛でる「風雅」とは無縁な、ほぼ「病的」なふるまいですな、「旧盆」十三夜から臥待まで。
肝心の「満月」、十五夜、「ニライカナイ」からのお客人たちが、海のむこうへお帰りになるのを、お見送りする「うーくい(お送り)」の月は、雲間にちゃんと出ている(笑)のを確認したのだが、カメラを取りに戻る手間を惜しみ、そのまま寝過ごしてしまった。


旧暦七月十七日の月、「立待」、まだ東の空、うさぎさんのお耳は右上。

旧暦七月十七日の月、「立待」、その「有明」。

旧暦七月十八日の月、「居待」、東の空、うさぎさんのお耳は、やはり右上。

旧暦七月十八日の月、「居待」、その「有明」、だんだん欠けて来ているが、うさぎさんのお耳は、ほぼ真下。

旧暦七月十九日の月、「臥待」、月の出直後、そのせいか、赤みがかっている、お耳はやはり右上。

旧暦七月十九日の月、「臥待」、その「有明」、まわりが明るくなると、一層「痩せて」みえるようで、もう、右下にあるはずのお耳も定かではないね。




Jews Without Money/Michael Gold(publicaffairsbooks)「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
アザール・ナフィシ「テヘランで『ロリータ』を読む」の第二章、「ギャツビー」の冒頭は、1948年生まれのこの作家は、13歳のときから、イギリス、スイスで、のちに、アメリカで、教育を受けているのだが、17年ぶり、ということは、30歳、1978年、まさに「革命」のただなか、の帰国、空港の壁には、ホメイニの肖像写真と、「アメリカに死を!Death to America!」のスローガンが並んでいる、入国審査とは別に、「革命防衛隊Revolutionary Guard」と思しき者から、「手荷物検査」を受ける、その時、バックパックからこぼれ落ちた何冊かの英語の書物の中に、「Jews Without Money/Michael Gold」が含まれていた。
マイケル・ゴールドMichael Gold/Mike Gold(1894-1967)、本名Itzok Isaac Granich、ルーマニア系ユダヤ人移民の両親のもとに、と、これはwikipediaの記事によるのだが、本文を読み進んで行くと、どうも、母親は、ハンガリー出身であるらしい、・・・、ニューヨーク、東欧の「ポグロム」、貧困を逃れてきた、当時数百万ともいわれる、人口を収容したのは、もっぱら「ローワー・イースト・サイド」であったらしい、そこに生まれた、生涯にわたる、アメリカ共産党CPUSA活動家であり、この国における「プロレタリア作家」の嚆矢である、とされるが、その辺りの事情は、自伝的といわれるこの作品の中で、やがて明かされることになろう、とりあえずは、やはり、たくさんの地名が登場するので、それらを、「地図」の中にたどる作業から始めよう、・・・、少年たちが、「ギャング」として暴れまわる様子は、マンハッタン島の対岸、もっと北になるが、ハーレムの、マルコムX(1925-1965)の若き日を彷彿とさせるが、今こうして↓、調べてみると、マルコムの「十代」は、1935年から1945年、およそ30年ほどの時間の隔たりがあることがわかる、同じく共産党員の作家としては、「ブラック・ボーイ」の、リチャード・ライトRichard Wright(1908-1960)、が思い浮かぶが、それでも15年ばかりの差はあるが、より「同時代」といえるかもしれない、だが、リチャード・ライトは、「南部」から、「Great Migration」の時代に、シカゴへ向かい、その地で、「シカゴ・ブラック・ルネッサンス」の中心的役割を果たすことになるのだから、地理的にも、隔絶していたかも、以下の記事に「シカゴ・ブラック・ルネッサンス」への言及がある、・・・、
彼女が、こんなにも人々にインスピレーションを与えることができたのは、彼女に対してそうあるべきだと期待されたものに、頑として従わなかったことにあるのだから・・・フロレンス・プライス、忘れられた、アメリカの天才「黒人・女性」音楽家/エレン・ナイト2020年10月28日アル・ジャジーラ
ポール・ローブソン、ウッディ・ガスリー、そして、『革命的美学』へのオブセッション」で見たが、共産党員ではなかったにせよ、民主党内の「極左派」に位置していた、といわれる、アフリカ系アメリカ人歌手、ポール・ローブソンPaul Robeson(1898-1976)、自身がユダヤ系であったかどうか、わからないのだが、イーデッシ語で多くの作詞をしたと言われる、ウッディ・ガスリーWoody Guthrie(1912-1967)、も、付け加えておくべきだろうね、・・・、ニューヨークの「地図」を作ってみることを試みたのは、「『ブラック・ライブズ・マター』のデモ隊といっしょに、ニューヨーク市街を『歩いて』みる」、がきっかけだが、そこでも触れたが、西加奈子「舞台」は、初めての海外旅行に出た青年が、「セントラル・パーク」で、パスポート、クレジット・カード、荷物一式を奪われ、それでも無一文のまま、街を放浪する物語だが、最終章が、「セプテンバー・イレブンス」の「グラウンド・ゼロ」に充てられているから、マンハッタン島の南半分を、徐々に南に向かったことがわかる、その途中に、「高架鉄道Elevated」が登場するが、この「金のないユダヤ人」にも、その鉄道が、まだ、走っていた時代なんだろう、言及があった、・・・。

上のハミド・ダバシ氏のアル・ジャジーラ記事のところでも触れたが、いわゆる「ダウンタウン」、「ローワー・マンハッタン」というのは、ユニオン・スクエアに面した14番街よりも、南側を指すのだそうである、そのうち、「イースト・サイド」なのだから、「イースト・リバー」の河岸に面した区画、対岸は、「ロングアイランド」、こちらは「ギャツビー」の舞台だ、の西の端、「ブルックリン」となるわけだ、・・・、一度も訪れることなく終わるだろう街について、それでも、こうして「名前」を称えることで、「親しみ」めいたものが、育ってくる、不思議に「楽しい」(笑)作業だから、やめられない、・・・、GoogleMapで「Lower East Side」を引くと、「Houston St.」、「セプテンバー・イレブンス」の朝、ダバシ氏が「止められた」街路だ、より南、「Bowery」という通り、これは、もっと北の方では、「3rd Ave」につながっている、より東側が、「ローワー・イースト・サイド」ととして、示されていた、東西が「ストリート」、南北が「アヴェニュー」だということは、西加奈子前掲書で初めて知ったのだが(笑)、日本語でどう呼び分けるのかは知らない、・・・、
"What streeter?" was demanded, furiously.
"Chrystie Street," was the trembling reply.
Jews Without Money/Michael Gold(publicaffairsbooks.com)
「どこの街の者だ?」、怖ろしい声で問い詰められる。
「クリスティー街です」、震える声が答える。
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
うっかり他の「ギャング」の「シマ」に足を踏み入れると、制裁を受けるのだ。
Delancey Street was being torn up to be converted into Schiff Parkway, and there were acres of empty lots there.
Jews Without Money/Michael Gold(publicaffairsbooks.com)
デランシー街は、シフ・パークウェイを建設するために、中断される最中で、その辺りには空き地がたくさんあった。
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
「Schiff Parkway」は見つからなかったが、この「デランシー街」は、東側が、ブルックリンにつながる大きな橋、ウィリアムズバーグ橋、になっているようだから、その建設に伴うものかもしれない、人口過密な町に住む子供「ギャング」にとっては、「空地」は宝物で、従って、「ギャング」同士の「抗争」の原因ともなる、「敵」は、「Forsythe streeters/フォーサイス・ストリート団」で、「僕」の所属する「ギャング」、おそらく「クリスティー街」のものなんだろう、は、「Eldridge streeters/エルドリッジ・ストリート団」と同盟を組んで、反撃する。
"Let's go to Cheap Harber's!" he says. This is a candy store on Rivington Street, famous for miles among the East Side kids for its splendid bargains.
Jews Without Money/Michael Gold(publicaffairsbooks.com)
「『チープ・ハーバー』の店、に行こうぜ!」と彼は言った。リヴィングトン街にある駄菓子屋なんだ、大安売りをしてくれるから、イースト・サイドの子供たちの間では、何マイルも離れたところからも、評判だったのだ。
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
・・・、とまあ、そんな感じで、ここまでのところ、順調に見つかっているではないか(笑)。

"Once upon a time," he began quietly and gravely, "there lived a hunter in Brescu. It is a Roumanian village near the one from which I come. It is on the river Ved....
Jews Without Money/Michael Gold(publicaffairsbooks.com)
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
「昔々」、と、彼は、物静かに、しかし威厳をもって語り始めた、「ブレスクに、一人の狩人が住んでいた。ブレスクというのは、ルーマニアの村で僕の出身地の近くなんだ。ヴェド川のほとりの村だ。・・・
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
Brescuは、地図には、Brețcuという表記で出てきた。Ved Riverなる川は発見できず、Brețcuの町中を流れるのは、Brețcu Riverであったが。これは、父が、寝物語に、いくつもの故郷の民話などを聞かせてくれる、そのうちの一つ、「The Golden Bear」の冒頭。この父は、貧しい農村の出身であるが、若い頃、密輸などの商売にも手をだし、コンスタンチノープル、現・イスタンブールに暮らしたこともあるといい、そんな旅路の各所で聞いた物語を、豊富に記憶しているのだという。

"We came to Allen Street, under the elevated. To show you what a greenhorn I was, I fell in love with the elevated train. I had never seen anything like it in Roumania.
Jews Without Money/Michael Gold(publicaffairsbooks.com)
「で、僕は、アレン街にやってきた、ちょうど、高架鉄道の真下だ。なんて、何も知らない若造だったかってお前たちに告白するようなものだが、僕はたちまち、高架鉄道、ってものに恋をしてしまった。ルーマニアでは、そんなもの、決して見ることができなかったからな。」
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
移民船に乗ってヨーロッパから渡ってきた直後の経験を、子供たちに語り聞かせている、・・・、「アレン街Allen Street」は北の方では、「Ist Ave.」につながっている、下に掲げた、1904年の路線図によれば、「2nd Ave. Line/セカンド・アヴェニュー線」は、「マディソン・スクエア・ガーデン」のある「23rd Street」のところで、東に曲がり、以降、「Ist Ave.」に沿って南下、とすれば、その路線上の「Rivington Street」駅は、その、「アレン街Allen Street」と「リヴィングトン街Rivington Street」の交わった地点に位置していることになると思われる。前に、本当に(笑)、「嘴の黄色い」雀の子供を見かけた折に、それに該当する英語表現は、「greenhorn/角がまだ緑色のやつ」であることを知った、この書物には、この表現が頻繁に表れるので、嬉しくなった(笑)。

ニューヨークの「高架鉄道Elevated Railways」はのちのニューヨーク市営地下鉄となる「Interborough Rapid Transit Company」の前身、「Manhattan Railway Company」が運営していたようで、この地図は、それぞれ、1906年、1904年のマンハッタン、1924年のブルックリン、のものであるらしい、・・・、1904年の地図の「Second Ave. Line/セカンド・アヴェニュー線」に、「Rivington St./リヴィングトン街」という駅名が見える、マイケル・ゴールドの家族が、日曜日に、「コニー・アイランド」や「ブルックリン公園」に出かけるときの最寄り駅だったのでは、と想像する。
・・・
"For a week I sat in Hester Park without a bite of food. And I looked around me, but was not unhappy. Because I tell you, I was such a greenhorn, that I still thought fun world start I was waiting for it.
Jews Without Money/Michael Gold(publicaffairsbooks.com)
「まるまる一週間、僕はヘスター公園に座っていた、その間、一口も食べ物を口にしていなかった。でも、僕は、周りを見渡して、少しも不幸だとは感じなかった。前も言ったように、僕は、とんでもなく何も知らない若造だったからな、まだまだこれから、楽しいことが始まるに違いない、と信じていたのさ。」
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
「ローワー・イースト・サイド」を東西に横切る大きな通りが、北から順に、ヒューストン・ストリートHouston St.、ステーション・ストリートStation St.、リヴィングトン・ストリートRivington St.、デランシー・ストリートDelancey St.、ブルーム・ストリートBroom St.、グランド・ストリートGrand St.、ヘスター・ストリートHester St.、キャナル・ストリートCanal St.、・・・、「ヘスター公園」は見つからないが、グランド・ストリートとヘスター・ストリートの間、南北の、クリスティー・ストリートChrystie St.と、フォーサイス・ストリートForsyth St.に挟まれた区画が、バスケット・ボール・コートなんかがある公園になっているらしいから、きっと、そこだろう。
I will show your mother how a man makes his fortune in America! Look at Nathan Straus! Look at Otto Kahn! They peddled shoe laces when they first came here!...
Jews Without Money/Michael Gold(publicaffairsbooks.com)
一人前の男たるもの、アメリカで、財を成すには、どんな風でなければならないか、僕は、母さんに見せてあげるつもりだ!ネィサン・シュトラウスを見よ!オットー・カーンを見よ!彼らもまた、はじめてここアメリカに来たときは、靴ひもの行商をしてたんだよ!
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
Nathan Straus(1848-1931)、バヴァリアBavaria生まれのユダヤ系アメリカ人、百貨店チェーンのメイシーズの創立者、この人物の両親は、親類縁者とともに、1854年に、合衆国ジョージア州に移住、南北戦争で無一物となり、ニューヨークに移ったらしい、だから、苦労人ではあったろうが、それほどの貧困の中にあったわけでも、なさそうである。
Otto Hermann Kahn(1867-1934)、ドイツ生まれのユダヤ系アメリカ人、銀行家、その父親は、1848年の革命、「三月革命」、マルクスが、確か「フランスにおける階級闘争」で描いたパリの「二月革命」に引き続く、ウィーンとベルリンを中心とする革命だった、と記憶する、を逃れて、アメリカに移民としてやってきたが再び故郷に戻っている、その息子であるこの人物は、音楽家になる希望を断たれて、銀行に、「丁稚奉公」のようなことをさせられたようではあるが、それほど貧しかったようでもなく、また、本人が渡米したのも、移民としてではなさそうだ。
マイケル・ゴールドの父は、同郷のルーマニア系ユダヤ人移民である従兄弟の、「ズボンつり」の部品をつくる家内工場の共同経営者として、迎え入れられたのだが、当の従兄弟の手ひどい裏切りにあって、無一文となった経験を持っているらしい。今は、house painter、というから、ペンキ屋さんかな、として慎ましく暮らしているが、これは、子供たちに向かって、いまだに「財を成す」野望を語っている、姉のエスターEstherが、学校の先生に、弟のマイケルが、医者となって出世するのを夢見ているのだな、これら二人の、ユダヤ系の「大富豪」が、必ずしも、「靴ひもの行商人から、身を立てた」などという事情でもなかったにもかかわらず、彼ら貧しい移民の中で、理想像として、通有されていたことが想像される。姉のファースト・ネームが、ちょうど、同じくユダヤ系である、ジークムント・フロイトのひ孫であるところの、エスター・フロイトEsther Freud、「ヒディアス・キンキーHideous Kinky/グッバイ・モロッコ」の著者、と同じであることに気付き、調べてみると、・・・、「旧約聖書・エステル記Book of Esther」に描かれる、モルディカイMordecaiの養女、ペルシア王アハシュエロスAhasuerusの妃、とのこと。「モルディカイ」というのが、「ユダヤ系」の名前であるらしいことは、「記憶の中の、『島』と『町』、更に、ジョージ・エリオットと『シオニズム』へ、ミン・ジン・リー『パチンコ』を読む」、で知った、ジョージ・エリオット「ダニエル・デロンダ」の登場人物、「シオニズム」という用語の登場以前の時代だが、ユダヤ人「祖国」回復運動の活動家として描かれていたのだった。・・・、いや違った、「姉」ではなく「妹」だった、マイケルが7歳のとき、エスターは6歳だった。
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Paint is made with white lead. When a house painter mixes oil and turpentine with the dry pigment, its lead is released in fumes which the man must breathe. Or this free lead also enters through the skin. It eats up the painter's stomach and nerves, and poisons his bones.
Jews Without Money/Michael Gold(publicaffairsbooks.com)
塗料は、鉛白を用いてつくられる。ペンキ職人がオイル、テルペン油と、乾燥顔料を混ぜるとき、その鉛が、人が呼吸しなければならない空気の中に、粉塵となって舞い上がる。あるいは、この舞い上がった鉛の粉末は、皮膚からも侵入する。これらが、ペンキ職人の胃や神経を蝕み、骨に蓄積するのだ。
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
テルペン油turpentine、マツ科の植物の樹皮から得られる、松脂から得られる油、ピネンPineneC10H16を主成分とする

「white lead/鉛白」は、炭酸鉛PbCO3、水酸化鉛Pb(OH)2混合物、これは白色顔料の原料だが、他に、鉛を用いる顔料pigmentには、「鉛丹」、四酸化三鉛Pb3O4の赤、「クロームイエロー」、クロム酸鉛PbCrO4の黄色、などがある。
ペンキ職人の父が、職業病と言える、鉛中毒に罹ったことを語っている。単に、元「化学の先生」として興味がそそられただけなのだが、受験上の知識としては、鉛イオンPb2+は、きわめて沈殿をつくりやすい、だからこそ、さまざまな有機物との間で難溶性の物質を形成するから、いったん身体中に取り込まれると、排出されにくい、それが「毒物」として機能する所以なのだろう、鉛イオンPb2+の沈殿の色は、ほとんどが「白」で、クロム酸鉛が例外なのは、それは遷移金属クロムの発色による、四酸化三鉛は、2個のPbOと1個のPb2Oの混合物、と解釈できるから、その赤の発色は、Pb2O、つまり1価の鉛イオンPb+によるものだろうか、・・・。
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Sometimes she took me along. We walked all over the city, from Battery to Central Park. We rode the gloriousu horsecars, we marveled at the dignity of the people on Fifth Avenue. We watched the busy little tugboats on the East River, we shared in the pushcart battles on Orchard Street.
Jews Without Money/Michael Gold(publicaffairsbooks.com)
ときどき彼女は私をお供に連れて行ってくれた。私たちは、ニューヨークの町じゅう、バッテリーから、セントラル・パークまで、あらゆるところを歩いた、豪勢な馬車にも乗り、五番街を歩く人々の優雅さに驚嘆した。イースト・リバーの小さなタグボートたちを眺めたこともあったし、オーチャード・ストリートで、屋台からのかっぱらいに一緒に加わったこともあった。
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
「彼女」は、16歳の、「Aunt Lena/リーナ伯母さん」、語り手のマイケルが、まだ十代前半の頃だと思われる、ハンガリーからやってきたばかり、あるいは、マイケルの母親の親戚なのかもしれない、・・・、「バッテリーBattery」は、マンハッタン島最南端にある公園、「フィフス・アヴェニューFifth Avenue」は、セントラル・パーク東側を南北に走る街路、「オーチャード・ストリートOrchard Street」は再び、地元「ローワー・イースト・サイド」の中の街路で、今度は、その区画の南北を貫く街路を、最西端のBoweryから順に、列挙すると、Chrystie St.クリスティー・ストリート、Forsyth St.フォーサイス・ストリート、Eldridge St.エルドリッジ・ストリート、Allen St.アレン・ストリート、そして、Orchard St.オーチャード・ストリート、となる。・・・、これも少し勘違いで、この部分の記述は、マイケルの7歳のときのもの、だから、10歳ばかり年の離れた伯母さん、ということになるが、彼女は、のちに、町工場で働き始め、劣悪な労働条件に反対するストライキの指導部の一員となる、マイケルの「共産主義」への接近の、きっかけを与えた人物らしいことが、覗われる。
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その「バッテリー公園」から、海をはさんで、1kmほど先に、「エリス島Ellis Island」、さらにその先1kmほどの所に、「自由の女神像」のある、「リバティー島Liberty Island」、かつてヨーロッパから、海路、この国に、移民としてやってきた膨大な数の人々は、まず、船上から、その「自由の女神」を望んだ後、エリス島の、入国管理、検疫施設に、収容されることになったのだろう、いや、「自由の女神」像が、エッフェル塔で名高い、フランス人の建築家、エッフェル氏、などの設計により建立されたのが、1886年、とのことだから、マイケル・ゴールドの両親の時代は、まだ、なかったかもしれない。エリス島に関する記述が、今まで読み終わった部分では、2か所あった、
When I woke of a morning, I was never greatly surprised to find in my bed a new family of immigrants, in their foreign baggy underwear.
They looked pale and exhausted. They smelled of Ellis Island disinfectant, a stink that sickened me like castor oil.
Jews Without Money/Michael Gold(publicaffairsbooks.com)
朝目を覚まして、僕のベッドに、また新たな移民の一家が、見慣れない、外国風の、ぶかぶかの下着を着て眠っているのを見つけたとしても、そんなにびっくりしないようになった。
その人たちは、青白い顔をして、疲れ切っていた。彼らの身体からは、エリス島で、振りかけられた駆虫剤のにおいがした、そのにおいは、まるで「ひまし油」を思い起こさせたから、気分が悪くなったものだ。
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
"And in Ellis Island, where they kept us overnight, I slept on a spring bed that had no mattress, pillow or blankets. I was such a greenhorn that I had never seen a spring before. I thought it was wonderful, and bounced up and down on it for fun.
Jews Without Money/Michael Gold(publicaffairsbooks.com)
「そして、エリス島、私たちは、そこに一晩留め置かれたんだ、スプリングだけの、マットレスも枕も毛布もないベッドで眠らされた。でも、私は、何にも知らない若造だったので、スプリングのベッドを見たことがなかったので物珍しく、面白くて仕方なかったので、何度も何度も、その上で跳ね回ったものだ。
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
前半は、語り手マイケルの述懐、同郷の移民たちを頼って、「ローワー・イースト・サイド」に辿り着いた人々を、先住者たちは、そう無下には、追い払ったりはしなかったのだろう様子が、うかがわれる。後半は、父の語り、ここにも「greenhorn」という表現。
ひまし油castor oil、トウダイグサ科トウゴマ(別名:ヒマ)Ricinus communis、の種子から採られる植物油、主成分は、ω-9、カルボキシル基の炭素から数え始めて9番目に不飽和結合(二重結合)をもつ、直鎖不飽和脂肪酸、リシノール酸ricinoleic acid、
CH3-(CH2)5-CHOH-CH2-CH=CH-(CH2)7-COOH
で、機械の潤滑油として、また、下剤として、用いられてきた。トウゴマの種子には、リシンRicin、と呼ばれる、化学兵器にも用いられる猛毒のたんぱく質が含まれている、リボゾーム内で、RNAを切断してしまう酵素ととして作用することが、その毒性の根拠なのだが、ならば、「ひまし油」が、下剤や、その他、ヨーロッパでもアメリカでも、古い小説にはしばしば登場するように、万能の家庭薬のように用いられてきた事実と、これをどう関係づければよいのか、前から疑問であった、濃度がごく低く、毒物として使用するには、よほど濃縮しなければならない、といった理由なのだろうか?
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エリス島のことは、日本で出ている観光書にはまず載っていない。アメリカの本でも、滅多にお目にかかれない。ニューヨークは、マンハッタンの南端、バッテリー公園から、二つのフェリー・ボートが出ている。一つは自由の女神像の立つリバティー島行きで、いつも大繁盛だが、もう一つは閑散としている。それがエリス島行きで、私の行ったのは日曜日の午後なのに、せいぜい三十人ほどの客だった。
エリス島は、もと合衆国の要塞があった小さな島である。だがヨーロッパからの移民が激増した一八九二年、政府はここを入国検査所にした。それ以来、一九四三年に廃止されるまで、二千数百万の移民がここを通過した。最盛期の一九〇七年には百三十万人。多い日は一日五千人が通過したという。アメリカが移民の国なら、ここはアメリカの原点ともなっていたのだ。
近くにそびえて見える自由の女神像は、一八八六年に完成した。ヨーロッパ諸国における政治的、宗教的な迫害や貧困を逃れてきた移民たちは、その像を仰いで歓喜した。しかしこの島で、彼らはアメリカにおける最初の試練にあったのである。
島には、殺風景な赤煉瓦の検査所のほか、何もない。しかもその建物の中は荒れ果てていた。洪水などによる被害もあったらしい。移民が残した数個のトランクや、医師が使っていたビンのたぐいは散らばっているが、事実上の廃墟といってよかった。
しかし、若い女性ガイドに導かれて見てまわるうちに、誰もが深い感銘にとらわれていった。移民のうち、一、二等の船客は、わざわざ船に出向いてきた医師の簡単な面接をうけるだけで、フリー・パスだった。貧しい三等船客だけが、この島に上げられた。貧しいから英語もできない。将来も不安だ。その人たちだけが厳しく検査され、病人、所持金のない者、身寄りのない女性(売●春婦になる恐れがある)は、入国を拒否された。彼らの無知を利用して係官はピンはねし、詐欺師がなけなしの金を奪った。
移民が右往左往したに違いない大広間、医師の精密検査室、法的手続きの部屋、食堂、両替所など、どこまで行ってもいまはただ荒涼とした場所を眺めながら、見物人の多くは目に涙を浮かべていた。両親か、またはその両親が、ここで屈辱の体験をした人たちなのだ。ここには絵ハガキ一枚売る店さえなかった。
この島を無事にパスした人は、とうとう本当の自由を手にしたと信じ、ひざまずいて大地にキスするほどだったという。しかし試練は、その先にまだたっぷり控えていた。
「ハックルベリー・フィンは、いま」亀井俊介(講談社学術文庫)
この記事が書かれたのは1981年、四十年後の今は、この島には、「Ellis Island National Museum of Immigrationエリス島国立移民博物館」という立派な施設ができていて、GoogleMap添付の写真を見る限り、もちろん「絵ハガキ一枚売る店」ぐらいは、十分ありそうな雰囲気である。
「Jews Without Money」の記述を「実話」と読む限り、「僕」マイケルには、わずかに年の離れた姉がいて、両親は、東ヨーロッパから「移民」としてここ、「ローワー・イースト・サイド」に落ち着いて何年かを経て、結婚したんだろう、とすれば、マイケル・ゴールドの生まれた1894年の、数年前、両親たちは、「エリス島」を通過していることになるのだが、すると、この記事に見る、「一八九二年、政府はここを入国検査所にした」、との整合性が、微妙なものとなってしまうね、この年以前も、「一晩留め置かれ」る場所としては利用されていたのか、それとも、作者が付け加えた創意なのか?、そして、語りの現在が、彼が十歳として、1904年頃、まさにこの記事にあるように、「最盛期」の、「エリス島」をくぐり抜けてきた人々を、まわりに大量に目撃していることになる。・・・、ここも訂正しておくと、エスターは「姉」ではなく、一歳年下の「妹」、ただ、ほとんど言及がないが、マイケルには、「兄」が一人いたらしいことがうかがわれるので、両親の入国の時期の推定は、変わらない、もう一つ、「語りの現在」は、マイケル7歳、のようだから、1899年ないし1900年、ということになる。
こんな書物に手を出すことにしたのも、やはり、「テヘランで『ロリータ』を読む」がきっかけで、アザール・ナフィシ教授は、アメリカ文学の、「原点」として、マーク・トウェインのこの作品を、重視しているらしく、テヘラン大学でも、のちの「Allameh Tabataba'i University」でも、英文学の講義のテキストとして、繰り返し使用していたらしいことがうかがわれたからだ、そのミシシッピを筏で下る、「ロード・ムーヴィー」みたいな、予想外に楽しく読めたこの作品については、また稿を改め(笑)、ることにするが、一つの巨大な疑問だけを備忘のために書き残しておくと、「奴隷州」のミズーリから、「自由州」のイリノイの州境がミシシッピなのだが、旅の道連れである「黒人」のジムを、「自由」へと、「逃がす」行為に対して、失礼だが、それほど「規範意識」が高い、とも思えない、主人公ハックルベリー・フィンが、真顔で「葛藤」しているらしい部分、つまり、「奴隷」という「所有物」に対して「他人」が有する「所有権」を「侵害」する行為が、道徳的にも許されないのではないか、との罪悪感に苛まれているらしい描写に、作者マーク・トゥエインの、独特の、シニカルな諧謔が含まれているのかどうかが、判断できなかったからだ、やはり、すでに何億もの人々が、この作品を読んだのであろう?諧謔であったとしても、少なくとも同時代の読者にとっては、そうだ、その通りだ、そんな「罪悪感」をもって当然だ、と受け取られ得たからこその技法なんだろう?今日的には、異様に見えざるを得ないこの道徳観念を、例えば日本人の「識者」は、どう読んでいたのであろうか、が気になったのでね。「所有権」を絶対視する、という思想が、この、アメリカ、という「資本主義」の母国に、こんなにも強固に根差しているらしいことを、改めてつきつけられて、実はちょっと「怖気づいた」という感想なのであった。

「ハックルベリ・フィンの冒険」マーク・トウェイン(角川文庫)/Adventures of Huckleberry Finn, by Mark Twain/The Project Gutenberg

ところで、ハックルベリーHuckleberry、というのは、北米大陸の、ツツジ科に属するいくつかの種に与えられている名称とのこと。
・・・
そこらあたりの女中に誘惑されたあげく、あまつさえ二人の間に子供までできてしまった因果に、十六歳の若い身空ではるばるアメリカ三界へ貧乏な両親の手で厄介ばらいされることになったカール・ロスマンは、いましも汽船が速力を落としてゆるゆるとニューヨークの港へ入って行ったとき、ずっと前から目をそそいでいた自由の女神の像がとつぜん一段とつよくなった日光にまぶしく照らし出されたような気がしたものだ。その剣をにぎりしめた腕がいまそうされたように高々と振りあげられ、御姿をめぐって自由な微風が吹きわたっていた。
「アメリカ」フランツ・カフカ(角川文庫)
Als der sechzehnjährige Karl Roßmann, der von seinen armen Eltern nach Amerika geschickt worden war, weil ihn ein Dienstmädchen verführt und ein Kind von ihm bekommen hatte, in dem schon langsam gewordenen Schiff in den Hafen von New York einfuhr, erblickte er die schon längst beobachtete Statue der Freiheitsgöttin wie in einem plötzlich stärker gewordenen Sonnenlicht. Ihr Arm mit dem Schwert ragte wie neuerdings empor, und um ihre Gestalt wehten die freien Lüfte.
Amerika/Franz Kafka(in German)

Amerika(1927)/Franz Kafka(1883–1924)
そこで思い出したのが、フランツ・カフカ「アメリカ」、これはその冒頭、まるで樋口一葉の如く(笑)、切れ目のない文章だね、タダで手に入る英語版は見つからなかったので、ドイツ語版を、・・・、全然わからんが(笑)、「二人の間に子供までできてしまった」が「ein Kind von ihm bekommen hatte」で、「自由の女神の像」が「Statue der Freiheitsgöttin」であることくらいは、なんとか、・・・、訳者が「原文ママ」と断っているように、「自由の女神」が「にぎりしめ」ているものが、「Schwert」、「剣」になっている、・・・、この作品は、1927年、作者の死後、出版されたが、書かれたのは、1912年から1914年の間、とされている、上で触れた、エリス島を通過する移民ラッシュの「最盛期」を少し過ぎたあたりに該当するだろう、「カール・ロスマン」もまた、カフカその人の「分身」だとすれば、ボヘミア生まれのユダヤ人、ということになる。1883年、オーストリア=ハンガリー帝国領ボヘミアのプラーグ(プラハ)生まれ、二十三歳で、というから、1908年か、プラハ大学卒業、専攻は法学、二十五歳、1910年、半官半民の「労働者傷害保険協会」勤務、結核が悪化して退任するまで、十四年間勤めた、というから、それは、1924年、死の直前、ということになる、その役所勤めの間、短期の休暇を取って、ドイツ、スイス、北イタリアなどへ小旅行をしたことはあっても、生涯、ヨーロッパを離れることはなかったそうだから、この「アメリカ」という小説に描かれている風景は、すべて作者の空想の産物なのだね、もちろん、だから、彼は「移民船」に乗船したこともなく、「自由の女神像」を見たこともなかった、その像が右手に掲げているのは、「たいまつ」、なんだろう?・・・、子供の頃、社会の教科書の写真のそれは、「ソフトクリーム」に見えた、誰もが貧しかった時代だから、特に「貧乏自慢」はしないけど、年に二三度しか食べる機会がなかったから、「飢えて」いたんだな(笑)、・・・、「剣」なんだ、と思い込んでいたとしても、無理はない。
「カール・・・・・・」
天使がよんでいるのだ。カールは上を見上げた。そしてびっくりはしたものの、嬉しさのあまりに思わず笑いだした。ファニーだったのだ。
ファニー・・・・・・」
と、カールは叫んで、手をさしあげて、あいさつした。
「こっちへいらっしゃいよ」と、ファニーも叫んだ。「まさか、あたしの前をす通りするつもりじゃないわね」
「アメリカ」フランツ・カフカ(角川文庫)
"Karl!" rief der Engel. Karl sah auf und fing vor freudiger Überraschung zu lachen an. Es war Fanny.
"Fanny!" rief er und grüßte mit der Hand hinauf.
"Komm doch her!" rief Fanny. "Du wirst doch nicht an mir vorüberlaufen!"
Amerika/Franz Kafka
この、不思議に明るいトーンをもった小説の、とりわけ、最終章「オクラホマ野外劇場/Das Naturtheater von Oklahoma」のこのシーンが好きだった、「ファニー」って名前の少女は、ここで初めて登場する、なにせ、「すべて破棄してくれ」という遺言に逆らって、長年にわたる友、マックス・ブロートが、本人の死後、編集、出版したものだから、この、直前の部分にも、原稿の遺漏があるらしい、・・・、「オクラホマ野外劇場」が、座員を募集しているというポスターを見て、カール・ロスマンKarl Roßmannは、応募しようと出かける、
クレイトンでカールが下車すると、すぐさまたくさんのトランペットの音が聞こえた。まるで混雑した騒音だ。
「アメリカ」フランツ・カフカ(角川文庫)
Als er in Clayton ausstieg, hörte er gleich den Lärm vieler Trompeten.
Amerika/Franz Kafka
などと書かれているが、だから、これも、ある種「嘘っぱち」(笑)、なんだろう、試みに、オクラホマ州クレイトンClaytonをGoogleMapで引いてみると、驚いたことに(笑)、実在するのだが、タルサTulsaの南方200kmばかり、人口数百人ほどの村落のようで、地図を拡大してみても、どこにも鉄道の駅は、ありそうもない、それでも、まさに、マイケル・ゴールドの同時代人、と言えるこの「ユダヤ系」作家も、親類縁者やその他身の回りの人たちから、「アメリカ行き」の「自慢話」をたくさん伝え聞いていたのであろう、「自由の女神」が描かれても「エリス島」には触れられないのは、もちろん、それらの「自慢話」では、そんな屈辱的な体験に、周到な「検閲」がかかっていたからなんだろう、とも想像される、マイケル・ゴールドの父も、その従兄弟が送ってきた、自分たち家族が、着飾って、町の写真館で撮影してもらった、立派な写真を眺めて、彼が本当に、大工場の経営者なんだと信じて、渡航を決意した、と書かれていたし。
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The East Side of New York was then the city's red light district, a vast 606 playground under the business management of Tammany Hall.
Jews Without Money/Michael Gold(publicaffairsbooks.com)
当時の、ニューヨーク、「イースト・サイド」という地区は、この街の中では、「歓楽街」を形成していて、606件もの膨大な数の店が、「タマニー・ホール」の管理のもとに営業していた。
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
My mother did not like Baruch Goldfarb, or trust him. He was a successful figure on the East Side, a Tammany Hall ward politician, a Zionist leader and the owner of a big dry good store.
...
"All you do is mark a cross under the star. Under the star, remember! You will earn three dollars and be a Democrat. It is a good thing to be a Democrat in America, Herman. It brings one money and friends."
Jews Without Money/Michael Gold(publicaffairsbooks.com)
母は、この、バルーチ・ゴールドファーブという人物のことが、嫌いだった、というより、信用していなかった。彼は、「イースト・サイド」の出世頭のような人物で、「タマニー・ホール」の、地区の政治家であり、「シオニスト」運動のリーダーであり、そして、大きな乾燥食品店のオーナーだった。
・・・
「あんたにやってもらうのは、簡単なことだ、星のマークの下に、×印をつけるんだ。いいな、星の下だぞ!あんたはそれだけで、3ドル手に入れられ、もう、あんたは「民主党」だ。アメリカではな、「民主党」でいることが大事なんだ、ヘルマン。金もコネも、そこから流れ込んでくるんだから。
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
Tammany Hall、は、1789年創立の、政治団体、wikipediaの解説を読もうとしたが、あまりに紆余曲折に富んでいて、辟易してしまったが、ともかく、ここに記述された時点、・・・、上の方でちょっと間違えていたので訂正するが、マイケル・ゴールドのこの書物に描かれている出来事は、筆者が、6歳から7歳にかけてが、前半部の大半、最後の2章あたりが、11歳から12歳、であるらしいことが、読み進むにつれてようやくわかってきた、この人の生年は、1894年、あるいは、1893年と書かれたものもある、であるから、1899年あるいは1900年から、1905年あるいは1906年の間の、「イースト・サイド」、ということになるが、・・・、その時点では、この町の、売●春、ギャンブル、などの「裏社会」を含め、小商店経営者、プチ・ブル層に絶大な影響力を有していた、「民主党」の集票マシーン、であったらしいことがわかる、・・・、どうも、この団体は、当初、アイルランドからの移民のカトリック層を母体に形成されたようなのだが、ここで描かれているように、そのアイルランド人グループとは、日常生活上は、常々敵対関係にあるはずの、ユダヤ人移民層にも、広く浸透していた、「シオニスト」の傾向をも含んでいた、らしいことも分かる。長年にわたる、漠然とした「謎」は、この国の、「二大政党政治」の由来に関することで、今日的には、「共和党=保守派」、「民主党=進歩派」という図式で描かれる関係が、もとをたどっていくと、これも図式的理解だから、そんな単純ではないのだろうけれど、一応、「共和党」は、「北部」ブルジョワジーを母体とする「フェデラリスト」、「奴隷廃止論者(アボリッショニスト)」に由来し、「民主党」は、「南部」プランテーション・オーナー、すなわち「奴隷所有者」層の利益を反映した、「反フェデラリスト」、「奴隷制度擁護派」となり、なんだか、「右翼/左翼」の関係が、どこかの時点で、反転してしまっているように思えるからだな。上でもちょっと引用したが、「黒人」、アフリカ系、であるポール・ローブソンは、のちに「非米調査委員会」から、「共産党員である」との嫌疑を受けることにもなるほどの、「極左派」活動家だったが、民主党員であったらしいことがうかがわれるから、1940年代頃には、すでに、今日的な「左翼/右翼」の枠組みが定着していたように見えるのだけれども、それより少し前の30年代の「スペイン内戦」期、ヘミングウェイ「誰がために鐘は鳴る」を読んでいて、ちょっと驚かされたのは、主人公の名前はジョーダン、だったっけ、ソ連共産党が主導する「国際旅団」、に志願した義勇兵であるアメリカ人のこの人物が、自分もその父親も、筋金入りの「共和党員」だ、と自慢するくだり、もちろん、山岳部でゲリラ闘争に従事している、スペイン人の、彼の同志たちは、「ファランジスト(フランコ派)」と「王党派」に反対する、「共和派」なのであって、だから、そうか、同じ「リパブリカン」なんだ、と感動するのだから、最初読んだ時は、え、こんな言い方、詐欺に等しいじゃないか、と、不快感を禁じ得なかったのだが、しかし、そのジョーダンが、幼少期に「南部」で目撃した「リンチ」の記憶が、トラウマとなっている、といったことを語る部分を読み進むうち、「アボリッショニスト」=「共和党」が、いわば胸を張って「左翼」を自称することができた時期が、あり得たのかもしれない、と、思えてきたからだった。
・・・
It was only the Black Hand again, but the neighbors wispered it was ○○.
Jews Without Money/Michael Gold(publicaffairsbooks.com)
これまた単に、また一つ、「ブラック・ハンド」の引き起こした事件の一つなのだが、近所の人たちは、○○、がやったに違いない、とささやきあったものだ。
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
マイケルの住むアパートの近くで爆弾事件があった、○○、は、マイケルも知っている、リーナ伯母さんに言い寄ってきたこともある、町のチンピラだが、ここに、「ブラック・ハンド」とは、「イーデッシュ・ブラック・ハンド/Yiddish Black Hand」、20世紀初頭、「ローワー・イースト・サイド」を根拠地とした、ユダヤ人犯罪組織、屋台の小商人たちを脅迫して、上納金を支払わせる、などの活動に従事していた組織、であるらしい、イタリア系移民の間には、「シチリアン・マフィア」が、アイルランド系移民の間には、やはり、同様な組織が、それぞれ並立していたようだ。「ブラック・ハンド/黒い手」を名乗る地下組織は、ファシストからアナキストに至るまで、歴史上数多存在したようだが、気になった理由は、ジョン・アーヴィング「ホテル・ニュー・ハンプシャー」、これも西加奈子「サラバ」に触発されて読み始めたものだが、の中に、語り手の「僕」の姉、フラニーに、ハロウィンの夜、集団暴行を加えた、フットボール部の「白人」高校生を、見事に摘発する、同じ高校のやはりフットボール選手の、「黒人」グループが、「司直の黒い手」と名乗っていたのが、印象に残っていたのだ、原文がどうなっているのだろう、という興味だけで、わざわざペーパーバックを取り寄せることさえした、「Black Arm of the Law」であった、・・・、この英語版は、途中で頓挫しているが、もう一つ、ウィーンに移ってから後の、「第二期ホテル・ニュー・ハンプシャー」の建物に入居していた怪しげなグループ、「東西関係センター」であったか、時代背景からして明らかに「新左翼」なのだが、これも、原文がどんな表現を用いているのか、だから、まだ確かめえずにいる。
・・・
She was left with three children, and no friends. She could speak only Italian. My mother visited her, and through sheer sympathy, learned, in the course of several visit, a kind of pigeon-Italian. It was marvelous to hear my mother hold hour-long conversations with this woman, in a polyglot jargon that was a mixture of Italian, Yiddish, Hungarian and English. But the women understood each other.
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彼女は、三人の子供とともに残されてしまった、友達など一人もいなかった。彼女はイタリア語しか喋れなかった。僕の母は、彼女の部屋にたずねて行き、純然たる同情心だけから、わずか数回の訪問の間に、ある種の、ピジン・イタリア語を学んでしまったのだ。母が、彼女と、何時間にもわたって、会話を交わしているのを目撃するのは、驚くべき体験だった、その言葉たるや、イタリア語あり、イーデッシュ語あり、ハンガリー語あり、英語もあり、という、数か国語にわたる、言い回しが混ぜ合わされたものだったから。それでも、二人の女性は、ちゃんと、たがいに、理解しあっているのだった。
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
ユダヤ人街に隣接して、アイルランド人街、イタリア人街、中華街、が存在し、しかし、それらのコミュニティーは、相互に浸透しあっている部分もある。母は、父よりも、厳格なユダヤ教徒で、その信仰上は、「キリスト教徒」に対する激しい憎悪を表明したりもするのだが、日常生活上は、貧しい人を見ると手をさし伸ばさずにはいない、という、「同情心」をも備え持っていて、著者の筆致からは、のちに、彼が確信をもった共産主義者となっていく、素地を与えてくれたものとして、深い尊敬が表明されているように感じられる。父の方は、いまだに「財を成す」ことばかり夢見ている、まことに「若造grennhorn」であって、政治的にも、保守派、また、彼は、イーデッシュ語しか、話せないようだが、これも、母の方はずっと適応力があるようで、のちに、父がけがをして倒れたのち、「ブロードウエイ」の高級レストランの厨房で働くくらいだから、ちゃんと、英語ができたようでもある。ここは、同じアパートに住む、イタリア人女性、夫が、ギャンブルのもめごとから殺人を犯してしまって、刑務所に収監されてしまった、という不幸で孤独な女性と、そんな母との交情を描いている、なかなか感動的な部分なのだ。「ピジン」とか、「クレオール」とか、言語学上は、なかなか厳密な定義があるようだが、いずれも、植民地「原住民」が、自分の母語と、植民者の言葉を混交して組み立てたものといわれる、「ピジン/Pidgin」は、英語の「ビジネス/business」の中国語風の発音に由来する、とのことだが、ここでのように、しばしば、「pigeon/鳩」と混同されてきた、とも言う、「バーバリー」、「ベルベル(人)」などの言葉が、確かギリシア語の「バルバロイ」、「鳥の鳴き声のように、わけのわからない言葉をしゃべる者たち」に由来する、事情と、どこかで混線しているのかもしれない、と興味深く感じられたので。
・・・
I had two pennies. I decided to go to Chinatown and buy some sugar-cane. This would be a great adventure. I would see if I were brave. I would go there by way of Mulberry Street. That was the land of the hereditary enemy - the Italians lived there.
...
I walked down Hester Street toward Mulberry. Yes it was like the Wild West.
...
I was in the hands of the enemy! Eight Italian boys with sticks surrounded me, whooping like Indians.
...
"Hooray, a Jew, a Jew!" he screamed, his face lighting up with a boy's joyous cruelty.
...
"Christ-killer!" some one yelled.
...
I sobbed and ran. I grew weaker. At last I came to the Bowery, and managed to cross it into my own Jewish land.
The Italians were afraid to follow me across the Bowery; some of my own gangs might attack them here.
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僕は2ペニー持っていた。だから、「チャイナタウン」に行って砂糖きびを少し買おうと思った。それは大冒険なのだ。自分が勇敢かどうか、確かめてみたい気持ちもあった。そこに行くには、「マルベリー・ストリート」を通り抜けねばならない。その通りは、宿敵、つまり、イタリア人の住む土地なのだ。
・・・
僕は「ヘスター・ストリート」を下って、「マルベリー」に向かった。そう、そこは、「ワイルド・ウエスト/西部の荒野」そのものだった。
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ああ、僕は、敵の手にかかってしまった。イタリア人の少年が8人、手に手に棍棒をにぎりしめて、僕を取り囲んだ、インディアンみたいな、叫び声をあげながら。
・・・
「ほら、ユダヤ人だ、ユダヤ人だ!」と、彼は、子供っぽい残虐さに、生き生きとした表情で。
・・・
「キリストを殺した奴らだ!」
・・・
僕は、泣きながら走った。だんだん、情けない気持ちになってきた。ようやく、「ボワリー」に来た、そして、ユダヤ人の土地、僕たちの街に、逃げ込むことができたんだ。
イタリア人たちは、僕を追いかけて、「ボワリー」を越えようとはしなかった、今度はこちら側のギャングに、彼らあの方がやられてしまう恐れがあったからだ。
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
マンハッタンの「チャイナタウンChinatown」は、「ローワー・イースト・サイドLower East Side」の南側に隣接している、その境界は、東西に走る「ヘスター・ストリートHester St」、そして、「ローワー・イースト・サイドLower East Side」の西側、かつ、「チャイナタウンChinatown」の北側が、確かに、地図には「リトル・イタリーLittle Italy」とあって、その中心が、「マルベリー・ストリートMulberry Street」なのだ、「僕」が住んでいるのが、「クリスティー・ストリートChrystie St」、これは南北の通り、の、「ヘスターHester St」と「デランシーDelancey St」の間あたりとすれば、「チャイナタウンChinatown」に向かうのに、「マルベリー・ストリートMulberry Street」を通らねばならないようにも見えないのだが、この日は、これ以前に、一人で、ぶらぶら散歩していたようだから、もう少し、北西の方から、アプローチしようとしたのだろうね。かねてからの疑問なのだが、どうして、「人種のルツボ」、「移民の国」と呼ばれる、アメリカ合衆国の人々は、初対面の他人の顔をみて、「○○人らしい仕草で」とか、断定できるんだろう、ここに描かれたような、相互に敵対的な環境に育てば、否が応でも、即座に、それを判断できることが、生き延びるための必須の知恵だったからだ、という答えもありそうな気がしてくる。
ところで、「マルベリーmulberry」は、桑の実、エスター・フロイト「ヒディアス・キンキー」で、「私」と姉のビーが、1967年、「ラマダン」期間中に「クリスマス・イヴ」があった、という記述からそう断定できるのだが、「ママ」へのプレゼントとして、マラケシュ、ジャマ・エル・フーナ広場の屋台で、てっきりイチゴだと思って買い求めたのが、それだった。

シマグワ(クワ科・クワ属)、の、果実。
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"I Cash Clothes!" he wailed, gazing with weary eyes up and down the tenement walls. "I Cash Clothes!" and it made one's heart ache strangely, like the synagogue prayer at Yom Kippur.
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「古着、買い取ります!」、彼は叫ぶ、アパートの壁を上から下まで、疲れ切った眼差しでにらみながら。「古着、買い取ります!」、その声は、人の心に、不思議な痛みをもたらしてしまう、まるで、「ヨム・キプル」のときのジナゴーグでの礼拝みたいに。
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
Yom Kippur/Day of Atonement、「贖罪の日」、ユダヤ歴第七月の十日、・・・、復習しておくと、ユダヤ歴、といっても、二種類ばかりあって、この表現はその一方のものなのであるらしいのだけれど、
「春分」、これは、東洋なら「二十四節気」の一つ、いずれにせよ、太陽が赤道の直上にあり、昼夜の長さが等しい、という太陽暦上の事実に基づくものだが、その「春分」後、初めての満月が、「過越し」の満月、
そこから、半月遡った新月をもって、新年とする、
ついでに、このユダヤ歴新年後の最初の日曜日が、「イースター・サンデー」、

最近十年ばかりについて、「過越し」満月、ユダヤ歴「新年」、および、「イースター」の、グレゴリオ暦上の日付を列挙した、・・・、そのユダヤ歴「新年」を、東洋、中国、台湾、日本、琉球、等の「旧暦」と比較してみると、後者では、「二十四節気」・「春分」が、春、すなわち、一月、二月、三月、のほぼ真ん中、つまり二月、に来るように考慮し、そこからさかのぼって「新年」を決めているわけだから、三月下旬の「春分」そのものに極めて近いことになるはずのユダヤ歴上の「新年」とは、およそ、一月ないし二月のずれを生ずることになる、つまり、ユダヤ歴「新年」は、東洋の「旧暦」では、二月一日または三月一日、ということになるのだ。すると、この「ヨム・キプル」、ユダヤ歴「第七月」の十日、ということだから、これも、東洋の「旧暦」では、八月ないし九月、の十日、となるのだろう、もっとも、閏月が入るときは、さらにずれるかもしれない、19年に7回、閏月を挿入する、という「メトニック・サイクル」、は洋の東西で変わらないようだが、どの月の間に挿入するかは、まちまちでありうるからだ。

以前、ミャンマーから伝わってくるニュースや、また、古山高麗雄の小説の記述などから、かの地の、「新年祭/ティンギャン」の水かけ祭り、のことを知ったが、ミャンマーの暦もまた太陰太陽暦、ただ、「新年」の決め方は、「黄道十二宮」が絡んで、もう少し複雑なよう、素人考えで単純に理解すると、「白羊宮」に入る時が「新年」だというのなら、これは「二十四節気」上はおおよそ、「春分」の次の「清明」に近いから、グレゴリオ暦上、4月ごろ、となるのだろう、・・・、また、ジョージ・オーウェル「ビルマの日々」のつながりで、「アムリットサル事件」を知ることになったが、1919年4月13日、というその日付も、ここはシーク教の聖地の町であるから、シーク教の暦であろうか、やはり、「新年祭」に当たって、人が集まった、という記述があった記憶がある、・・・、この点では、ヒンドゥー暦も、おそらく、ミャンマーのそれと同じく、黄道十二宮を加味した太陰太陽暦のようだから、やはり、グレゴリオ暦の4月ごろが新年、となるようである。
たまたま「満月」が見えたから、またしても、「過越し」、「イースター」、そこに「パーム・サンデー」を加えて「聖書研究」となった
月の見え方の「現象学」、「マッチ箱」の喩の有効期限、月の出の方角の算出、「過ぎ越し」と「イースター」
・・・
「ヨム・キプル」に至る10日間は、「出エジプト記」の記述で、モーゼがシナイ山で、二枚組の石板を、二度目に受け取った、という40日間のうちの、最後の10日間に当たる、とのこと、
第24章18、モーセは雲の中にはいって、山に登った。そしてモーセは四十日四十夜、山にいた。
CHAP. XXIV.18 And Moses went into the midst of the cloud, and gat him up into the mount: and Moses was in the mount forty days and forty nights.
第31章18、主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。
CHAP. XXXI.18 And he gave unto Moses, when he had made an end of communing with him upon mount Sinai, two tables of testimony, tables of stone, written with the finger of God.
第34章4、そこでモーセは前のような石の板二枚を、切って造り、朝早く起きて、主が彼に命じられたようにシナイ山に登った。彼はその手に石の板二枚をとった。
CHAP. XXXIV.4 And he hewed two tables of stone like unto the first; and Moses rose up early in the morning, and went up unto mount Sinai, as the LORD had commanded him, and took in his hand the two tables of stone.
出エジプト記/Exodus
・・・
What a crazy mingling of races and religions on my street. I heard most of the languages when I was a child. Germans, Poles, Russians, Armenians, Irish, Chinese; there were always a few of these aliens living among our Jews. Once my father fetched a Negro to supper. My father beamed with pride.
何という狂気じみた、人種と宗教の坩堝(るつぼ)であったろう、私の住んでいた街区は。子供の頃から、ありとあらゆる言語を耳にしていた。ドイツ語、ポーランド語、ロシア語、アルメニア語、アイルランド語、中国語、いつだって、これらのよそ者たちが、私たちユダヤ人の間に少数だが、暮らしていたものだ。一度、父が、「黒人(ニグロ)」を夕食に連れてきたことがあった。父は、自慢でいっぱいの表情をしていた。
"Katie, do not frightened," he said. "This black man is one of us. He is an African Jew. I met him in the synagogue. Imagine, he prays in Hebrew like the rest of us!"
「カティー、怖がらなくていいんだよ」、と彼は言ったものだ。「この黒人は、我々の仲間なんだ。彼はアフリカのユダヤ人なのだ。私は、この人と、ジナゴーグで出逢ったんだよ、彼は、私たちとまったく同じように、ヘブライ語で祈りを唱えていたんだ!」
The Negro, tall, stiff, unsmiling, mysterious as death in a black suit of clothes, kissed the mezzuzah over our door. Then he salaamed until his forehead almost touched the floor. He greeted my mother solemnly:
"Shelem Aleichem! Peace be with you!"
"Aleichem Shelem! my mother answered. "With you, Peace!"
その「黒人(ニグロ)」は、背が高くて、真っ黒な衣装を着けていたし、にこりともしない、堅苦しい感じがしたけれども、ドアのところで、メズーザーに接吻をした。そして、「サラーム」をしたのだが、彼の額は、床につくほどだった。彼は母にも、厳かにあいさつした、
「ショーレム・アレイコム!、あなたのもとに平穏がありますように!」
「アレイコム・ショーレム!」、母もあいさつを返す。「あなたにも平穏を!」
Before sitting down to eat, the Negro stranger washed his hands piously and muttered a Hebrew prayer. Before each cource that was served he recited the proper Hebrew blessing. What an ultra-pious Jew. My mother was thrilled by such orthodoxy in a black man. She stole out between the soup and the fish to inform the neighbors. Reb Samuel and others came in to witness the miracle.
食事に着席する前にも、その「黒人(ニグロ)」の客人は、ていねいに手を洗い、ヘブライ語の祈りを唱えていた。食事の間も、新しい皿が運ばれてくるたびに、この客人は、正式なヘブライ語の祝福の言葉を唱えた。なんて、とてつもなく敬虔なユダヤ教徒であろう。母は、そんな正統派のユダヤ教徒が「黒人」の中に存在している、という事実に興奮した。だから、スープと魚料理の間を利用して部屋を抜け出し、ご近所の人たちに、このニュースを知らせてまわった、そうして、サムエル師をはじめ、何人もが、この奇跡を目撃すべく、うちにやってきたのだ。
They questioned the stranger after supper. He proved to be a Tartar. Before the evening was over he had quarreled with every one. Harshly and firmly, he insisted that he was a better Jew than any one present. He was an Abyssinian Jew, descended from the mating of King Solomon and the Queen of Sheba. We others had wandered among the Gentiles, he said, and had been corrupted. But his people had kept the faith pure. For instance, we prayed only at morning and evening. His congregation prayed four times a day. We used seven twists in binding on the phylacteries. His people used nine. And so on, and so on. He was very dogmatic. He out-talked every one. Reb Samuel was dumfounded. My father hung his head in shame. At last the Negro left haughtily, kissing the mezzuzah again. By his manner one could see he despised us all as backsliders, as mere pretenders to the proud title of Jew.
食事が終わると、みなは、この客人を質問攻めにした。彼は、「タルタル人」であるらしかった。夜が更ける前に、この客人は、そこにいたあらゆる人と、けんか別れしてしまうことになった。彼は、そこに在席している誰よりも、自分自身こそが、より良きユダヤ人である、と、厳しくかつ強硬に、主張したのである。彼は、アビシニア・ユダヤ人であり、ソロモン王、と女王シバとの結婚によって生まれた子孫の末裔なのだ。私たちのように、異教の者たちの間をさまよい続けてきた者たちは、その間に、すっかり堕落してしまったのだ、と彼は言う。彼の宗派の人々は、ちゃんと信仰を純粋なままに保ってきた。例えば、私たちは、朝と晩に礼拝をおこなうだけだ。彼の宗派では、一日に4回礼拝する。私たちは、「トーラー」の巻物を保存する箱を縛るのに、7つの結び目をつくる。彼らの門人は、9つだ。などなど、などなど。彼はとても教条的な物言いをした。彼は、全員を言い負かしてしまった。サムエル師も、黙り込んでしまった。父は、恥ずかしさのあまり、面を伏せていた。ついに、この「黒人(ニグロ)」は、高慢な身振りで、退去した、もちろん、メズーザーに接吻することは忘れずに。彼の物腰から、彼が私たち全員を軽蔑していること、ユダヤ人である、という誇り高き地位を、ただ装っているにすぎない、堕落した者たちとして、見下していることは、誰の目にも明らかだった。
Jews Without Money/Michael Gold(publicaffairsbooks.com)・「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド

  • アルメニア語Armenian、インド―ヨーロッパ語族Indo-Europeanアルメニア語派Armenian
  • メズーザーmezzuzah、トーラーTorah(ヘブライ語聖書の最初の5巻、「創世記Genesis」、「出エジプト記Exodus」、「レビ記Leviticus」、「民数記Numbers」、「申命記Deuteronomy」)の中の特定の一節、 「申命記Deuteronomy」の一節、が刻まれた羊皮紙、あるいは、それを保管するための、装飾された容器、あるいは、その容器がとりつけられた門柱
  • サラームsalaam、額手(ぬかで)の礼、身体をかがめ、右手のひらを額につけるあいさつ
  • ショーレム・アレイコムShelem Aleichem、ユダヤ人の間でのあいさつの言葉だが、聖書の中の登場人物たちが、このあいさつを交わしていることが、その由来のようであるから、他の宗教、民族の間にも、近似した表現がみられる、たとえば、そのアラビア語によるヴァリエーションが、「アッサラームアレイコム」

    「その言葉も、僕が聞いた言葉の中で、やはり一番奇麗な言葉だった。アッサラームアレイコム。」…西加奈子「サラバ」を、読み直す
  • タルタル人Tartar、二つの異なる起源の言葉が混用されてきたようで、
    (1)Tartaryの人々、Tartaryは、カスピ海、ウラル山脈、太平洋で囲まれた広大なアジアの地域を、西ヨーロッパ人が、あいまいに指してきた言葉、この地域には、満州族系、モンゴル系、その他の数々の民族が居住しているはずである。
    (2)タタールTatars、現在のロシア、ウクライナに当たる地域に居住する、トルコ系民族、タタール語Tatar languageは、チュルク語族Turkicに属する。
    ・・・
    下に述べるように、この人物は、明らかにアフリカ系の「黒人」であるから、この表現は、むろん誤り、ということになろう。
    ちなみに、「タルタル・ステーキSteak tartare」、13世紀ごろのヨーロッパ、モンゴル来襲の恐怖冷めやらぬ時代であろうが、モンゴル人に対する揶揄的表現の中で、「生肉を食べる者」との認識が定着したことに由来する、ハンバーグ・ステーキがしばしば生で食されるようになったのは、19世紀のニューヨーク、とのことで、もちろん、モンゴルとは、無関係なのである。「タルタル・ソースTartar sauce」もまた、このステーキに添えられることが多かったからの命名、とのこと。
  • History of the Jews in Africa(wikipedia)、の記述によれば、アフリカのユダヤ人コミュニティーには、おおよそ、次の4つのカテゴリーにわかれる、
    (1)モロッコ、アルジェリア、リビア、チュニジア、スーダン、エジプト等、マグレブおよび北アフリカに居住する、セファルディックSephardi Jews、あるいは、ミズラヒムMizrahi Jews、前者は、イベリア半島から、15世紀ごろの弾圧を逃れてきた移住者であり、後者は、聖書の時代から、同地域に居住していた者たちの末裔、
    (2)南アフリカのユダヤ人、ホロコースト後に移住してきたリトアニア系ユダヤ人の末裔を中心とする、アシュケナジーAshkenazi Jews、
    (3)エチオピアEthiopiaのアムハラAmhara及びティグレイTigray地域、およびエリトリアEritreaに居住する、ベータ・イスラエルBeta Israel、または、エチオピア・ユダヤ人Ethiopian Jews、と呼ばれる人々、その大部分は、20世紀末にイスラエルへ移住した、と言われる。1980年代のエチオピアの内戦と飢饉に際して、イスラエルがこれらの人々のイスラエルへの移住を大規模に推進した。エチオピアのメンギスツ政権は、表向きは移住を禁止していたにもかかわらず、金銭的援助を見返りとして、イスラエル政府と協力していたことが、今日的には明らかになっている、という、
    (4) ベルベル・ユダヤ人Berber Jews、モロッコに少数が居住する、中世以来の弾圧を受け、大半はイスラムに改宗、また、1948年のイスラエル建国以降、そこに移住した者も多い、と言われる、
    ・・・
    引用部分の、「Negro」の人物は、おそらく、(3)の「ベータ・イスラエル」に属する人であったと想像される。記述の背景は、1900年代、1910年代であるから、エチオピアは、下に示したように、「エチオピア帝国」の治下にあり、「アビシニア」という通称名で呼ばれていたことは、ありうることであろう。
  • アビシニアAbyssinia、は13世紀から、1974年、ハイレ・セラシエの時代まで、存在していたエチオピア帝国Ethiopian Empireの通称であり、民族的には、アムハラ人Amharicが、宗教的には、東方正統教会Orthodox Tewahedo/Oriental Orthodox jurisdictionのキリスト教であるが、少数派としてユダヤ教が存在している。
  • Gentile、「ユダヤ人でない者」を意味する言葉。「遺伝子gene」の語源でもあるラテン語「gens」に由来、部族、家族、に属さないもの、という意味であるらしい。
  • phylacteries、または、Tefillin、黒い革製の箱、「トーラー」の言葉を書き付けた羊皮紙の巻物を保存する。

上の(2)、南アフリカのリトアニア系ユダヤ人、で思い浮かぶのは、南アフリカ共産党議長、ジョー・スローボJoe Slovo(1926-1995)、リトアニアLithuaniaのObeliai、首都ヴィルニウスVilniusの北北東100kmくらい、ラトヴィアLatvia国境に近い町、に生まれる、彼が8歳の時に、ということは、1934年、ナチが台頭しつつある頃だな、家族は、南アフリカに移住、学校を卒業して働き始めたのが、1941年、組合活動に加わり、南アフリカ共産党に加盟したのが1942年、それぞれ、15歳、16歳のとき、ということになる、1963年以来、ANCの軍事部門「ウムコント・ウェ・シズウェUmkhonto we Sizwe」指導メンバーとして、イギリス、アンゴラ、モザンビーク、ザンビア等に亡命生活、・・・、1993年であったか、釈放後間もなくのネルソン・マンデラが、世界ツアーを行った、京都府立体育館での集会は、SGI(創価学会インターナショナル)主催のものだったけれど、その舞台で演じられた寸劇の中で、人々が、「Free Mandela! Free Slovo!」というプラカードを掲げているさまが描かれていたので、てっきり、マンデラとともに、27年間獄中にあった人なのだ、と思い込んでいた、が、思い違いだったようだ。

・・・
ある事柄が、当然書・か・れ・て・いてしかるべきであるのに、それが書かれていない、いわばその「欠如」にこそ、読み取るべきことがある、さすがに「年の功」というべきか(笑)、そんな読み方もできるようになってきた、と自慢しているが、たとえば、アルベール・カミュ「ペスト」、アルジェリアのオランの町を舞台としていながら、ただ一人のアラブ人もベルベル人も登場しないこと、とパラレルに、ここでも「人種と宗教のルツボ」といいながら、「彼ら」、ローワー・イースト・サイドのユダヤ人たちは、はおそらく、ほとんど「黒人」を見たことがないかのように、このエチオピアのユダヤ人を、「タルタル人だろう」などと決めつけている、「グレート・マイグレーションGreat Migration」と呼ばれる、「南部」からの、「黒人」人口の大移動は、1916年から、1970年、と言われるから、この時期、まだ、ニューヨークの黒人人口は、少なかった、と見るべきなのだろうか、ハーレムと、ここ、ローワー・イースト・サイドとは、わずか15kmばかりしか離れていないのに、奇異な印象を持った、それぞれのコミュニティーが、「ゲットー」として、狭い地域に閉じ込められていて、相互の交渉がほとんどあり得なかった、ということなんだろうか?

いずれにせよ、「描かれていな・い・」人たち、を探求する作業、という意味で、なるほど、「つながり」は、見えて来はしたのである・・・アルベール・カミュ「ペスト」を読む
そこで、少し時代は下るが、たとえば、「グレート・ギャツビーThe Great Gatsby」(1925)、「black」、「Negro」ということばを、kindle版だから容易い作業だ、検索してみると、「黒人」という意味での用例は、ほぼ次に限られる、
‘I suppose the latest thing is to sit back and let Mr. Nobody from Nowhere make love to your wife. Well, if that’s the idea you can count me out…. Nowadays people begin by sneering at family life and family institutions and next they’ll throw everything overboard and have intermarriage between black and white.’
The Great Gatsby/F. Scott.Fitzgerald
「どこの馬の骨かもわからぬ誰かさんに、妻を寝取られるのを黙って見ている、そんなことだけは願い下げだね。もし、他人に対してそんなお考えをお持ちなのならば、私だけは勘定から外しておいてもらおうか。・・・このご時世と来たら、家庭生活だとか、家族制度の根幹だとかを、嘲笑ってすませるのが流行りのようだな、そのうち、奴らはみんな何もかも放り出して、黒人と白人の通婚を認める、なんて言いだすんだろうよ。」
「グレート・ギャツビー」スコット・フィッツジェラルド
As we crossed Blackwell’s Island a limousine passed us, driven by a white chauffeur, in which sat three modish Negroes, two bucks and a girl. I laughed aloud as the yolks of their eyeballs rolled toward us in haughty rivalry.
...
A pale, well-dressed Negro stepped near. ‘It was a yellow car,’ he said, ‘big yellow car. New.’
...
The Great Gatsby/F. Scott.Fitzgerald
私たちが、ブラックウェルズ島を渡ったあたりで、リムジンが一台追い越していった、白人の運転手が運転していて、三人のおしゃれな黒人、二人は男で、一人は若い女、が乗っている。やつらが目玉をくるくるさせて、私たちに向かって、競争意識むき出しにしているさまを見て、私は、声をあげて笑った。
・・・
青ざめた、きちんとした服装の黒人が、進み出てこう証言した。「黄色い車だった」、と彼は言った、「でっかい、黄色い車。新車だったな。」
・・・
「グレート・ギャツビー」スコット・フィッツジェラルド
Blackwell’s Island、現・ルーズベルト島Roosevelt Island、マンハッタン島と、ロングアイランドの間、イースト・リバーの中州
特に「論評」することは控えておく、アメリカ合衆国という国は、百年前から、このように構成されていたのだ、などと得意そうに指摘することも・・・。
・・・
マイケル・ゴールドの父は、あまり熱心なユダヤ教徒とは言えなかったようである、「サバスSabbath」、ユダヤ教の「安息日」にも、平気でタバコを吸ったり、よほどの節目の機会でない限りジナゴーグにも行かなかった、あるときなど、ジナゴーグから、懲罰委員会の人たちがやって来て、説教をしていったくらいだ、・・・、
Just the same, my father was a loyal Jew. In our home all the Mosaic taboos were observed. There was a mezzuzah over the door, and he kissed it before going to work in the morning. He fasted on the Day of Atonement, beat his breast and wept with the congregation. On the two Passover nights he put on a long white robe and presided at the sacred banquets.
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でも同時に、父は忠実なユダヤ教徒、とも言えた。うちでは、「モーゼの掟」はちゃんと守られていた。戸口には、「メズーザー」があるし、父は毎朝仕事に出かけるときに、ちゃんとそれに接吻していた。「贖罪の日(ヨム・キプル)」には断食をしたし、同輩ととともに、胸を叩いて嘆きもした。「過ぎ越し」の二晩には、長い白い衣装を着けて、聖なる宴を主宰しもした。
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
Mosaic taboos、「Law of Moses/Mosaic Lawモーゼの律法」を意味すると思われる、ヘブライ聖書の5書に散りばめられている、「十戒」、食物禁忌、とう多岐にわたるものを指すようである。「寄木細工」を意味する「モザイク」、英語の綴り字上は、「モーゼの」と同じだが、起源は、異なっているように思われる。
Day of Atonement、「贖罪の日」、前出「ヨム・キプル」と同じ、と思われる。
The Jewish holidays were fascinating to children. It was like having a dozen Christmases during the year. I liked the Hanukah candle festival, and the joy at the Jewish New Year. I liked the romantic Succoth feast, when primitive shacks roofed with bulrushes were built in the tenement yards, for East Side Jews to feast in as a memory of their wander-years in the Arabian desert.
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子供心に、ユダヤ教の祭日は、心躍るものだった。一年のうちに1ダースものクリスマスがある、みたいなものだ。私は、ろうそくを立てて祝う「ハヌカーまつり」が好きだったし、ユダヤの「新年」も楽しんだ。「仮庵の祭り」も、ロマンチックで、素敵だった、「太藺(フトイ)」で屋根を葺いた簡単な小屋が、アパートの中庭に建てられたものだ、イースト・サイドのユダヤ人たちは、こうして、自分たちの祖先が、かつてアラビアの砂漠をさまよった記憶を、取り戻そうとしているのだ。
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
「ハヌカーChanuka/Hanukkah/Chanukah」は、ユダヤ暦第9月の25日から、8日間祝われる、紀元前2世紀の、エルサレム宮殿の回復を祝するもの、とのこと、「アンネの日記」にも登場したので、その時、日付を調べてみたものがある↓。

ジャガイモの皮むき、吉草根、「ハヌカー祭」と「聖ニコラウス祭」・・・「アンネの日記」を読む・続編
Succoth/Sukkot、「仮庵(かりいお)の祭り」、ユダヤ歴第7月の、15日、つまり満月、から、7日間、ということは、「ヨム・キプル」が、第7月の10日だから、その直後、ということになる、エジプト脱出時に、ユダヤ人の祖先が、天幕に住んだことにちなんで、仮の庵を建てて祝する。
bulrush、「太藺(フトイ)」、カヤツリグサ科に属する草本の総称。
・・・
サムエル師Reb Samuelは、ローワー・イースト・サイドのユダヤ人たちの堕落を嘆き、「ハシディズム」に向かう、マイケル少年も、この質実な老人を好んでいた。
The Chassidim are a sect who revolted some three hundred years ago against the dry formalism into which Judaism had sank. They were mystics whose exaltation bordered on hysteria. In their synagogues to-day they still leap, dance and sing like Holy Rollers, seeking the Dveikuss, the ecstasy in which man is united with God.
Chassidim look down on other orthodox Jews, and call them the "Misnagdem," the worldly ones, the outsiders. And these others sneer in turn at the Chassidim, and call them madman and drunkards.
Jews Without Money/Michael Gold(publicaffairsbooks.com)
「ハシディズム」というのは、およそ300年ほど前、ユダヤ教が陥ってしまった、乾ききった形式主義に反対して、反乱をおこした宗派のことを言う。彼らは神秘主義的で、彼らが高揚した状態にあるときは、ほとんどヒステリーと見まがうほどだ。今日でも、彼らのジナゴーグでは、彼らは、飛び跳ね、踊り、歌う、まるで「ホーリー・ローラー」みたいに、「デベクート」と呼ばれる、神と合一したエクスタシーの状態を求めているのである。
「ハシディズム」の人々は、他の正統派ユダヤ教徒を見下していて、彼らを「ミスナグディーム」、世俗的なやつら、よそ者、と呼ぶ。そして、今度は、そのよそ者たちの方は、反対に、「ハシディズム」の連中を、狂人、酔っ払い、とあざけることになるのだ。
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド
Chassidim/Hasidic Judaismハシディズム、18世紀、今日の西部ウクライナに当たる地方で、生じた、改革運動、「敬虔主義」ともいわれる、とのこと。
デベクートDveikuss/Devekut、ユダヤ教神秘主義の概念、トランス状態に近い瞑想。
ミスナグディームMisnagdem/Misnagdim、ハシディズムへの反対派をこのように呼んだらしい。
ホーリー・ローラーHoly Rollers、19世紀の、プロテスタント運動、ホーリネス運動Wesleyan-Holiness movement、の流れをくむ。そういえば、ビートルズ「カム・トゥギャザー」で、ジョン・レノンが「ホーリー・ローラー」と「コーカ・コーラー」と韻を踏んで歌っていたな。

Come Together/The Beatles
・・・
そろそろ字数オーバーになりそうだから、この辺で切り上げよう、物語の末尾、マイケルは、12歳になって、職探しを始める・・・、
I found a job as errand boy in a silk house. But it was temporary. The very first morning the shipping clerk, a refined Nordic, suddenly realized I was a Jew. He politely fired me. They wanted no Jews. In this city of a million Jews, there was much anti-Semitism among business firms. Many of the ads would read: Gentile Only. Even Jewish business houses discriminated against Jews. How often did I slink out of factory or office where a foreman said Jews were not wanted. How often was I made to remember I belonged to the accursed race, the race whose chief misfortune it is to have produced a Christ.
Jews Without Money/Michael Gold(publicaffairsbooks.com)
私は、絹織物の会社で、使い走りの小僧としての仕事を見つけた。でもそれは、一時的なものだった。一番初めの朝に、配送担当の事務員、あか抜けした北欧人だったが、そいつが、突如、私がユダヤ人だと見抜いたらしい。彼は、丁重に私を首にした。彼らにとっては、ユダヤ人はお断り、だったのだ。何百万とユダヤ人が暮らすこの町であっても、起業家の間では、反ユダヤ主義が根強くはびこっていた。求人広告の多くには、こう書かれていたものだ、「非ユダヤ人(Gentile)に限る」。ユダヤ人自身が経営する企業にあってさえ、ユダヤ人は差別された。受付の男に、ユダヤ人はいらないんだ、といわれて、工場や事務所を、とぼとぼと後にしたことが、何度あっただろう。自分が呪われた人種の一員であることを、何度思い知らされたことだろう、その呪われた人種の、ただ一つの不運はといえば、一人の「キリスト」という人物を生み出したことだけだったのに。
「金のないユダヤ人たち」マイケル・ゴールド



「心なき身にもあはれはしられけり鴫たつ沢の秋の夕暮」、とは言うものの、まだ「秋」ではないけれど。


ヒヨドリ(ヒヨドリ科)、ガジュマル(クワ科)

イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス

ミツボシクロスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚、デバスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚

カンモンハタ(ハタ科)、ルリスズメダイ、ネッタイスズメダイ(スズメダイ科)、ユビエダハマサンゴ(ハマサンゴ科)

ヤライイシモチ(テンジクダイ科)、ルリスズメダイ、デバスズメダイ、ネッタイスズメダイ(スズメダイ科)、ユビエダハマサンゴ(ハマサンゴ科)、「矢来」は「遣らい」の当て字、「柵」のことだという。

ミスジチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)・幼魚

ヤエヤマギンポ(イソギンポ科)

オビテンスモドキ(ベラ科)、まれに見かけるのに、なかなか写真が撮れなかったので、こんなにぼけてはいるが。

テングカワハギ(カワハギ科)、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)

メガネスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚

ヒレナガハギ(ニザダイ科)・幼魚、ヤエヤマギンポ(イソギンポ科)



アケボノチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)・幼魚

クラカケモンガラ(モンガラカワハギ科)

アミアイゴ(アイゴ科)

ミツボシキュウセン(ベラ科)

シマハギ(ニザダイ科)

テングカワハギ(カワハギ科)、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)

ヤリカタギ(チョウチョウウオ科)・幼魚

ニセカンランハギ(ニザダイ科)

ミツボシクロスズメダイ(スズメダイ科)

イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス、電柱の上の、いつも同じこの場所にいるのは、そこが「気に入った」同じ方、つまり、同一個体、なのだろうか(笑)?海に入る前のが上の写真、こちらは、その約一時間後、海から上がってきた後。

キョウジョシギ(シギ科)

ダイゼン(チドリ科)

キアシシギ(シギ科)

カニ下目の一種、「科」の名前も分からないので、こう呼ぶしか仕方ねいね、夕方の干潮時、穴から出てきたばかりで砂をかぶっているから、甲羅の模様も分からないし。

コメツキガニ(スナガニ科)、ではないかと思うが、あまり自信はない、1cmほどの大きさなのだから、もちろん撮ったときは見えていない、こうして拡大してみると、はさみが「スカイブルー」なのだね。



イシガキカエルウオ(イソギンポ科)

ゴマチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)・幼魚

ホンソメワケベラ(ベラ科)、ゴマチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)・幼魚、ルリスズメダイ(スズメダイ科)







ヤシャベラ(ベラ科)

ニセカンランハギ(ニザダイ科)

ブダイ科の一種



キヘリモンガラ(モンガラカワハギ科)



シノビハゼ(ハゼ科)、モンツキテッポウエビ(テッポウエビ科)





「イーハトーボの劇列車」井上ひさし(新潮文庫)
賢治 (歌って)ひかりやさしきあさのひろば・・・・・・づ歌の文句だども、貴方あんだ、小岩井農場で何を見てだったのぢゃい。東北の、いや日本の村さ「広場」なんて、今まであったべが。村には一本道が通ってるだけだべ。「広場」があったら、たとえば百姓一揆はずいぶん成功したと思うす。一本道しかがったがら、常時、百姓ははさみ撃ちばされで・・・・・・。ほんとに貴方あんだは岩手まで行って何を見てだったのぢゃい。広場のある村などユートピアの中さしかいべ。それなのになんたらまんつ、ひかりやさしきあさのひろば、どかてずいぶん脳天気な文句だごだ。
「イーハトーボの劇列車」井上ひさし(新潮文庫)
妹のとし子が入院していた、東京帝国大学附属病院小石川分院、通称「永楽病院」の、「二等病室」、田園調布に住む大ブルジョワの娘、とし子と同じ日本女子大の卒業生、いつもなら「一等病室」のはずの、おりからの「スペイン風邪」、ト書きには、「一九一九年」とある、のおかげで病室が足りず、隣のベッドで療養している、見舞いに来たその兄、三菱商事のエリート社員、福地第一郎、の傲慢な発言に、宮沢賢治が、くってかかるシーン、・・・、「小岩井牧場」は、地名に由来する名称ではなくて、鉄道会社社社長、三菱社長、鉄道省長官、三人の名字から一字ずつ取って、1891年、東北本線の盛岡までの延伸に伴って、開業された、とのこと。これより少し前の、「肉食/菜食」をめぐる談義、・・・
第一郎 豚が「死」というような高級な観念をもっているだろうか。もってなんかいるもんか。・・・
・・・
・・・でもねえ、賢治君、とにかく君はよろこんで死んで行く豚の姿を知らないんだよ。自分が死ぬのが嫌だから、他の動物もみんなそうだろうなんて思うのさ。あんまり子供らしい考えでありすぎると思うけど。
とし子 (抑えた声で、しかしつよく)動物にも「死」や「愛」の観念があります。・・・
「イーハトーボの劇列車」井上ひさし(新潮文庫)
私見では(笑)、「とし子」の反論にも、もちろん無理がある、「『死』や『愛』の観念」があ・る・として、それが、私たち「人間」のそれと、同じものであるかどうかは、決して知りえない事柄だからだ、人間は、「『死』というような高級な観念をもって」いるわけではなくて、決して知りえない事柄に対して、ある「名前」を与える技術を獲得したに過ぎないのでしょう?、・・・、生物学や動物行動学は、人が「擬人法」を用いて理解してきた事柄に、次々に「科学」の光を当てて、脱「神話」化、して来たけれども、それは、大いに正しかったのだけれども、どこかで、またしても、「彼らには、そんな『高級』な観念はないから」と言い出すことで、これは、まず、自分、つまり「人間」には「高級」な観念がある、と、認定し、というか、「高級」な観念をもちうるものを「人間」と認定し、それを欠いているものをば「動物」と定義しておいて、だから「動物」には「高級」な観念がない、と詰っている、いわば、「循環論法」、「トートロジー」、に見えなくもない気がして、で、「トートロジー」は、絶対に「正しい」ので、これには、反論の余地がない、しかし、反論の余地のない言論には、同時に「情報価値」、言ってみる意味、もないのである、・・・、決して知りえない、語りえない事柄について語ってしまっている点において、それは、「擬人法」と、選ぶところはない、だから、「メタ・擬人法」と呼ぼうと思う、・・・、九十何パーセントだっけ?「人間」から、哺乳類は言わずもがな、鳥類、魚類、おそらくはゾウリムシに至るまで、「私たち」の遺伝子組成の大部分は、共通なんでしょう?何十匹の犬猫たちと暮らした経験からも、鳥や魚たちに遭遇した経験からも、鳥の場合は、望遠レンズ越しだから、そんなに「意思疎通」はしていないな(笑)、でも、魚なら、ほんの目と鼻の先で、それこそ「目が合った」気がしたことは何度もあるね、すると、あ、今、こいつ、焦った、怯えてる、ちょっと不快らしい、警戒しつつも様子見ている、わりと「安心」して警戒を解除している、・・・、等々、もちろんそれは、「擬人法」であるが、しかし、人はおよそ、何らかの、「擬人法」を用いずして、「他者」、もちろん、「人間」である「他者」も含まれる、その場合は「擬人法」という用語も、おかしくなるけれども、「他者」を、「理解」する、「理解」した気になる、ことはできないのであるから、それを何も、「彼らは『本能』にに導かれてそうしているに過ぎないのです」、などと自信たっぷりに、まさに「人間中心主義」的に、教示いただくと、「おまえ、それ、見たんかい?」などと、吠えてみたくもなる、というものだ(笑)。
、「ケイ、キョウ、つよい」

盛岡の西北西あたり、雫石町に「小岩井農場」はあるらしい、花巻は、盛岡の南方、約35km、そこから今度は東方、やはり約35km、で、柳田国男「遠野物語」で知られる、遠野、ところで、宮沢賢治「紫紺染めについて」に登場する、「西根山の山男」の在所は、どこなんだろう?岩手郡西根町、は、現在は、合併して八幡平(はちまんたい)市の一部、とのこと、ただ、雫石町西根、という記述もあるから、やや混乱させられる、盛岡の北北西20kmあたりに、標高2000mほどの、岩手山がそびえているのだが、八幡平市は、その東山麓が主で、西根地区のみが、飛び地のように、西山麓に広がっている、という事情のようである、
南部なんぶの紫紺染は、むかしは大へん名高いものだったそうですが、明治めいじになってからは、西洋せいようからやすいアニリン色素しきそがどんどんはいって来ましたので、一向いっこうはやらなくなってしまいました。
宮沢賢治「紫紺染めについて」(青空文庫)
南部の名といつも結ばれるものに「南部紫なんぶむらさき」があります。紫とは紫根染しこんぞめのことで、この紫で今もしぼりを染めているのは、わずか盛岡と花輪だけのようであります。
柳宗悦「手仕事の日本」(青空文庫)
花輪、秋田県鹿角(かづの)市花輪、青森、岩手、秋田、三県の県境近く、岩手県八幡平の北北西40kmほど、
ということだから、勘違いしていたが、この「紫紺染めについて」の舞台は、花巻ではなく盛岡なのであって、「工芸学校の先生」というのも、必ずしも花巻農学校の先生宮沢賢治本人をなぞらえているわけでもなさそうだな。
「アニリン色素」、復習しておくと(笑)、
アニリン→ジアゾ化→塩化ベンゼンジアゾニウム→アゾカップリング→p-ヒドロキシアゾベンゼン
「有機化学の教科書」
たしか、アニリン色素の工業化に最初に成功したのは、ドイツのBASF社、同時期、かの昆虫学者、ジャン・アンリ・ファーブル(1823-1915)も同様の研究をしていたが、BASFが先に特許を取ってしまったのだ、といった逸話を読んだ記憶がある。

「西根山の山男」は、この井上ひさしの芝居にもちゃんと登場する、「紫紺染め」、ムラサキ科ムラサキの根を原料とする染色技術、を伝えられるのは、もはや、「西根山の山男」しかいない、と判断した、原作では、工芸学校の先生、が、「西根山、山男殿」と書いた葉書を送って、講演会に招請する、「知っておくべき日常生活の作法」なる書物を熟読して、準備怠らず、紳士気取りで、会場に駆け付けた山男は、しかしへべれけに酔っぱらって、正体をなくしてしまった、というお話、会場の「西洋軒」、「工芸学校」が、それぞれ、東京の「精養軒」、「郷土史研究会」に変更されて、従って、「山男」は、東北本線の急行列車に乗ることになる、その片道切符の値段が、「三等客車」の「急行」で「五円五十銭」、では、さっそく調べてみよう(笑)、ネットの路線案内、に「花巻」、「上野」と入力すると、たちどころに教えてくれる、現在の新幹線「自由席」利用で、1万3千円程、とのこと、
13000÷5.5≒2364
以前、関川夏央の書物で、夏目漱石や二葉亭四迷の時代の通貨価値を、当時の1円≒現在の5000円、としているのを見た記憶があるが、少し時代は下るけれども、どうであろう、当時の方が、鉄道料金が、より「高い」ものであった、と理解すべきなんだろうか?

山手線、路線図、東京に、「住民票」の上では、三年ほど住んでいたことになっているが、二十三区から遠く外れた府中であるとか、もっと短い期間、居候としてなら、江東区であるとか、・・・、その江東区の住所は、川島雄三「洲先パラダイス―赤信号(1956)」の舞台と、わりと、近い、冒頭、二人の男女がバスに乗るのが、「勝鬨橋」そこから、「三業地」である洲崎弁天町に向かう、鈴木清順「肉体の門(1964)」では、「勝鬨橋からこっちは、有楽町までは、あたしたちのシマだよ」というセリフがある、ここに、「三業地」とは、「料理屋・待合茶屋・置屋」、の三つを合わせての命名、江戸期の「遊●郭」から戦後の「赤●線地帯」までを広く指す呼称のようである、「肉体の門」の主人公たちも、「娼●婦」たちなのである、・・・、で、そんなわけだから、東京の地理は不案内なままで終わるが(笑)、かつて「永楽病院」があったのも、「とし子」の在学していた日本女子大学があり、宮沢賢治の在京中の下宿があったのも、文京区目白台、山手線で言えば、高田馬場あるいは目白の駅から東に、およそ1kmあたり、・・・、そういえば、一度だけ、暇にまかせて新宿から池袋まで山手線の内側を歩いたことがあったな、早稲田のキャンパスで、「革マ●ル派」の巨大な「立て看」を、物珍しそうに「見学」、学習院のキャンパスを、遠目に眺めた記憶があるな、それから、この作品には、もっと後の方で、「白山」の「三業地」ということばが出てくるのだが、これは、同じく文京区、これも山手線で言えば巣鴨、の南、2kmくらいだろうか、この駅は、かつて友達が住んでいたんだっけ、やはり一度だけ降りたことがあるはずだ。「白山」のつながりで言えば、樋口一葉は、たびたび引越しをしている、本郷菊坂→下谷龍前寺町→本郷丸山福山町、「たけくらべ」が実際に書かれたときは、すでに移っているけれども、その物語の舞台となったのは、下谷龍前寺町、「吉原遊●郭」の門前の町、そして、「にごりえ」のモデルとなったのは、丸山福山町に住んでいたとき、近所の「銘酒屋」で働く「私●娼」の一人、営業用の手紙の代筆を頼まれたりする関係の女性であった、ここが、文京区「白山」に当たるのだと思われる。山手線の路線図と対応付けてみれば、「本郷菊坂」は上野、「下谷龍前寺町」は鶯谷、「本郷丸山福山町」は、やはり巣鴨、ということになるのだろうな。


かゝる界(さかい)に身を置きて、あけくれに見る人の一人も友といえるもなく、我をしるもの空しきをおもへば、あやしう一人この世に生まれし心地ぞする。
勝鬨橋(かちどきばし)から洲先弁天町の図面も掲げておこう、古山高麗雄の小説のいくつかに触れられていた、同じく「三業地」の「柳橋」は、墨田区、隅田川をはさんで両国の対岸、のようである。


kamparano/農民
infano/子供
laboristo/労働者
patro/父
popolo/人民
polocano/警官
賢治 (怒りを辛うじてこらえながら、伊藤を指さし)ヴィ・エスタス・ポリツァーノ!
伊藤 ヴ、ヴィ・エスタス・ポリツァーノ。
賢治 そうじゃないでしょう。あなたはご自分のことをいうんですから「ミ」でしょうが。
伊藤 (やや居直って)ミ・エスタス・ポリツァーノ・・・・・・。
賢治 そう、やっと白状しましたね。あなたは警官です。花巻警察署の刑事です。
伊藤 なるほど。エスペラントの授業はいつの間にか終わっていたんですな。(完全に居直って)ミ・エスタス・ポリツァーノ・デ・ハナマキ。
賢治 ハナマキは固有名詞、つまり名詞でしょう。(紙(1)の名詞の欄を指して)名詞の語尾はOです。何回いえばわかるんですか。
伊藤 ポリツァーノ・デ・ハナマーキ
賢治 やればできるじゃないですか。どうしてぼくの尾行をしていたんです。
・・・
伊藤 上京の前日、すなわち十二月一日、花巻の芝居小屋「花巻座」で労働農民党の稗和支部の結成大会が開かれた。あなたには説明するまでもないが、この労働農民党は日本農民組合を中心として結成された全国的な組織の左翼政党だ。そして日本共産党の直接的指導下にある。ところがこの労働農民党稗和支部の花巻事務所を探したのはあんただそうですな。保証人だともいう。さらにこの事務所にある机や椅子はひとつ残らずあんたの羅須地人協会のものだそうじゃないですか。まだある。事務所の運営費もあんたが出している。ね、尾行の理由は山ほどありますぜ。
「イーハトーボの劇列車」井上ひさし(新潮文庫)
この幕のト書きには、1926年12月、との日付がある、・・・、刑事が、「エスペラント語」の個人教授を受ける、という口実で、賢治の下宿に出入りしている、共産主義が疑われる政党事務所の保証人、との容疑なら、とうの昔に逮捕されていた、筈のところを、地元の名士である父親の差し金で、このような穏便な形になったことが後に明かされる、自分も一人の農民だとうそぶく賢治に、おそらく農民出身の刑事が激怒、「農民芸術」、「花巻ユトピーオ」等々の、いわば「欺瞞性」を、完膚なきまでに罵倒され、賢治は、言葉を失うことになる。
1925年12月結成の「農民労働党」が共産主義者とつながっているとして即日禁止、左派を排除して1926年3月結成、これが「労働農民党」、中央執行委員長には、日本農民組合の杉山元治郎、地方支部結成の過程で左派が流入、同年12月には、右派が脱党、安部磯雄の「社会民衆党」結成、中間派は麻生久の「日本労農党」へ、・・・、1928年、最初の普通選挙で、山本宣治ら、当選者を出すが、「三・一五事件」とともに、結社禁止処分、その後、中間派、右派は「社会大衆党」へ、左派は「日本無産党」へ、戦後は、これらの流れが、「社会党左派」を形成することになる。
1922年、「日本農民組合」結成、1926年から1928年、「全日本農民組合同盟(全農)」と分裂、その後、「全日本農民組合」として統一、戦後、右派の「日本農民組合(主体性派)」、左派「日本農民組合(統一派)」に分裂。
「稗和地区」は、花巻市北部の「和賀」、同西部の「稗貫」を合わせての通称、とのこと。
伊藤 自分の労働によってパンを得ていますか。
賢治 ・・・・・・・・・・・・
伊藤 三十歳になってもまだ親がかりでしょうが。・・・
・・・
伊藤 キウ・ヴィ・エスタス?
賢治 ミ・エスタス・インファーノ・・・・・・。私は子どもである・・・・・・。
「イーハトーボの劇列車」井上ひさし(新潮文庫)
僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが何か自分のからだについたものでもあるかと思ひ、じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲り、いまにどこからか自分を所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かゞ空しく過ぎて漸くじぶんの築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です。
・・・
風の中を自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間も話ができるとか、自分の兄弟のために何円かを手伝へるとかいうやうなことはできないものから見れば神の業にも均しいものです。そんなことはもう人間の当然の権利だなどというやうな考えでは、本気に観察した世界の実際とあまりに遠いものです。
・・・
「宮沢賢治・あるサラリーマンの生と死」佐藤隆一(集英社新書)より、おそらく死の十日ほど前の書簡。
「ミ・エスタス・インファーノ/Mi estas infano」、自分は、子供、に過ぎない、あるいは、「デクノボー」に過ぎない、そういう認識を、この人はいつも、ちゃんと、もっていたのでしょうね、
賢治 おれは、日蓮大聖人を偉大なデクノボーだと思っています。日蓮大聖人はよくご自分のことを「だめな人間だ、愚痴のものだ、デクノボーだ」とおっしゃたでしょう。「だから自分はすべてのはからいを捨てて、仏に向かってただ一心に『南無妙法蓮華経』と題目を唱えるだけだ」と、こうもおっしゃったでしょう。
第一郎 待て。日蓮大聖人は「自分は菩薩の生れ変りだ。法華経の行者だ。仏の御教えを体して、自分がこの国土を浄土にするのだ」ともおっしゃっているぞ。
賢治 日蓮(と敬称をはぶき)は人間です。人間だからいろんなことを言います。心屈したときは、自分はデクノボーだとも言います。心たかぶったときは、自分は世直しの救世主だ、とも言います。どっちも本心だったろうと思います。おれは三十五にもなってまだ親がかりです。デクノボーの中のデクノボーです。・・・おれは獅子のように吠え立てる日蓮は、あんまり好きではない。
第一郎 弱音を吐く日蓮なぞ日蓮じゃない。ぼくは断じて強い日蓮をとるぞ。
賢治 日蓮宗系統の新興宗教は、みんな強い日蓮にばかり目をつけています。バランスをとるためにも一人くらいデクノボーの日蓮を好きになってもいいのではないですか。
「イーハトーボの劇列車」井上ひさし(新潮文庫)
この幕のト書きには、「昭和六年」、とある、1931年になる、1896年生まれの宮沢賢治は、確かに三十五歳だ、彼の没年は、1933年、その二年前、ということになる。そう、私もまた(笑)、そうやって、聖人のようにほめたたえられる宮沢賢治ではなくて、「デクノボー」だった、「デクノボー」でしかなかった、そして、「デクノボー」でしかないことを知っていた宮沢賢治を、初めて、愛そう、と思ったのでした。
「イーハトーボ」は、エスペラントでの「岩手」だったのだね、「東京/トキーオ」、「仙台/センダード」、「盛岡/モリーオ」という風に、・・・、この時代、多くの「社会主義者」が、また、「エスペランチスト」であった、wikipedia日本語版には一覧表があって、堺利彦、大杉栄の名前が見える、もちろん、宮沢賢治と、井上ひさしも含まれている、記憶に残っているのは、「私のスターリン体験」の高杉一郎だな、その書物で読んだのかどうか、はっきりしないが、「旧」ユーゴスラビアの、チトー、セルボ・クロアチア語を解さないある外国人、日本人だったかも知れない、の客人と、流暢なエスペラントで会話を交わした、というエピソードに聞き覚えがある、・・・、私事にわたるが(笑)、高校時代、「エスペラント部」に所属していた、もちろん、かけらも勉強などしていない、誰か、もっと年長の「全共闘」世代の「左翼」が、創立したものなのだろう、部室が残っていたから、単に、隠れて煙草を吸ったり、たむろするために用いただけだったけれども、もちろん、人生の他のあらゆることと同様(笑)、「悔恨」がないとは言えないが、それも、済んだことだ(笑)。

「ポースケ」津村記久子(中公文庫)、「エスペラント」つながりで、この作品にも触れておこう、会社で手ひどい「パワー・ハラスメント」を受けて、心身ともにボロボロになってしまった、佳枝さん、「睡眠相前進症候群」で、今や、歩いて二分の距離のアルバイト先に出かけるのがやっと、数々の語学の独習書に手を出すことだけが、「いじめ」の事実を一時でも、忘れさせてくれた、海外旅行など、とてもできる状態ではないものの、エスペラント学習者の間には、「パスポルタ・セルボ」という、宿泊先を提供しあう慣行があるそうで、それにあこがれたのだ、と語られる。実際に「使う」宛なんか、全くない「言葉」を学びたがる、という気持ちは、わかるし、「うつ病」にも、「病的嗜眠」という症状があるから、そんなに重篤ではないけれども、日に何度も、矢も盾もたまらない、睡魔に襲われてしまう、その感じも、少しは、想像できる気もしたし。
「三十五になっても親がかり」、さまざまな事業に手を染めては失敗する、「石灰」肥料を売り歩くサラリーマンだったこともある、しかし、「デクノボー」でしかなかった賢治を、知ることになったきっかけ↓
たとえば、風の中を自由に歩ける、こと、について・・・。
「紫紺染め」についてを読んだのは、キウリグサ、ハナイバナ、という春の花を初めて見つけて、ムラサキ科という分類名を覚えたばかりの頃、山男に葉書を出すくだりにたどり着くまで、少しも「童話」だと思わなかった(笑)↓
「トーキョー・バイオレット」再論、または、「山男」談義。
・・・
長いこと地面の下を走っていた電車が、川の下を潜ったあとで地上に顔を出す(1)。・・・
・・・トタン板に囲まれた細長いホームは終戦直後の姿を未だとどめているといった趣で、地下鉄に乗り入れしている新しい車両とはどこかちぐはぐな感がある。
・・・
「曳舟川」という名の由来を英明に教えてくれたのは、折原だった。
現在の文京区本郷、今は東大のある丘のふもとに、江戸時代からずっと続いていた遊郭があった(2)。それが明治に入って帝大ができると、学生の町にそんないかがわしい廓があるのは良くないということで、遊女たちは追放をうけるはめになった。その追い出された遊女たちが、隅田川を越えて次に棲みついたのがこのあたりの町である。
それで明治以降、隅田川のこちら側のこの辺には遊女の町が点在することになった。このあたりにあった―そうして今では消えてなくなってしまった―遊郭は、そのはじまりのところからいわくつきの歴史を背負っていたのである。
その遊女の町に通う客を、昔は川に浮かべた舟を曳いて運んだのだという。
「朽ちる街」鷺沢萠(講談社文芸文庫「帰れぬ人々」所収)

早くも当地に越冬のために渡ってきた鴫たち、イソシギとキョウジョシギ、キアシシギ、それから、これはシギ科じゃなくてチドリ科だが、ダイゼン、それを今季初めて見かけた帰り道、チェーン店の古書店の廉価版の棚で見つけた、柄にもなく、「鴫立つ沢の秋の夕暮れ」などと風雅な言葉を思い浮かべていた矢先、この、知らなかった作家の名前が目に入ったわけだ、シギ科、ではなく、サギ科、分類上は(笑)、大きく異なるけどな、・・・、鷺沢萠、「さぎさわ・めぐむ」と読む、私よりも10年も後に生まれた人なのに、もう十五年以上も前に亡くなったらしい。「講談社文芸文庫」シリーズは、「高級」な「純文学」を対象としているので、私のような浅はかな人間は、ついついありがたがる傾向があるが(笑)、いかんせん、そんな浅はかさを見透かしたように、活字も大きく、厚みも薄いのに、たとえば、この書物は、1700円、などというとても「文庫」とは思えないような、「高級」な価格設定なので、そんなのが、100円、などという投げ売り価格で出ているのを見ると、「コスト・パフォーマンス」上(笑)、買わずにはいられなかったわけだ。この作品は、1988年に「文學界」掲載が初出、とのこと、だとすれば、書かれている街の雰囲気は、ちょうど、私が、短い間だったが、東京に在住していた時期と重なるはずなのだ、・・・、「クリスチャンの女園長」が経営する幼稚園、夜間、そこを利用して、地域の子供向けの、「慈善事業」的な低料金の補習塾が営まれていて、語り手の若い男性は、そこでアルバイト講師をしている、隅田川と荒川の間、らしいこと、「曳舟川通り」という地名は、確かにそのあたりにある、川崎市北部の住宅地、に住む語り手が、一時間ほどかかるけれど、乗り換えは一回ですむ、と述懐していること、そして、(1)、の描写、確かに、隅田川の下をくぐって、押上駅を過ぎたところで地上に出る、それらの根拠から、この駅は、都営浅草線曳舟駅、と見た、当時からすでに、京成電車との乗り入れがあったはずだしね、「東京スカイツリー」っていうの?そんなのができた現今は、全然雰囲気は異なるのだろうけれど、あの頃ならば、「終戦直後の姿を未だとどめているといった趣」は想像できる。「乗り換え一回」のシミュレーションをしてみれば(笑)、東急東横線・営団地下鉄日比谷線で、東銀座で乗り換え、でどうだ?東急田園都市線・営団地下鉄半蔵門線、という可能性は、記憶では、私のいた頃、半蔵門線は、水天宮前までしか完成していなかったはずだから、却下、・・・、(2)に描かれているような史実は、今の所見つけられないのだが、この近辺に、いくつかの、「花街/三業地」が点在していたのは確かなようである。下の地図で、押上駅、曳舟川通り、のさらに北西、墨田川河畔、向島5丁目、あたりが、「向島」、それよりやや東、京成曳舟駅に向かったあたりに、「鳩の街」、そして、同じく京成東向島から鐘ヶ淵の沿線の東側、東向島5丁目、あたりが、「玉ノ井」、と呼ばれる、政府の認可を受けた「公●娼」地帯であったか、そうではない「私●娼」街であったか、の別はあるようだが、いずれも「花街」であったようである。物語では、のちに、「女園長」自身が、かつては、その街で働いていた人であり、そのクリスチャンの施設も、元「遊女」たちの「更生施設」のようなものであったらしいことが明かされる。筆者、鷺沢萠氏は、父方の祖母がコリアンである、という事実を、二十歳を過ぎてから、初めて知った、と別のエッセイ、「ケナリも花、サクラも花」(新潮文庫)で語っている、この小説が書かれたのは、筆者がちょうど二十歳の時、という計算になるが、この旧「花街」、メッキ工場の並ぶ街の、その「塾」の生徒の中に、近くの朝鮮初級学校に通う兄弟の姿が描き込まれているのも、印象に残った。
上の方で見たが、樋口一葉ゆかりの土地のうち、「本郷菊坂」、「下谷龍前寺町」は、この図面の中に入っているので、現在の町名に変えて書き込んでおいた、それから、石川啄木の故地である「弓町(ゆみちょう)」も。やはり樋口一葉関連、この図面からは外れるが、中島歌子主宰の歌塾「萩の舎」のあった小石川も文京区で、白山の南側に隣接している。
本郷菊坂町→文京区本郷五丁目
下谷龍前寺町→台東区入谷二丁目、竜泉一~三丁目、千束二・三丁目
本郷丸山福山町→文京区白山一丁目、西片一丁目
弓町→文京区本郷二丁目の一部





「鯛(たい)や鮃(ひらめ)の舞い踊り」に、思わず「時を忘れて」しまった浦島太郎君の、その気持ちも想像できよう、というものだね。


ヒブダイ(ブダイ科)

ミツボシクロスズメダイ(スズメダイ科)

アカヒメジ(ヒメジ科)

コクテンサザナミハギ(ニザダイ科)、アカオビベラ(ベラ科)

マトフエフキ(フエフキダイ科)

カンモンハタ(ハタ科)

ヨコシマタマガシラ(イトヨリダイ科)、アカヒメジ(ヒメジ科)

カンムリベラ(ベラ科)

ヨコシマタマガシラ(イトヨリダイ科)、アカヒメジ(ヒメジ科)

カガミチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)、ヨコシマタマガシラ(イトヨリダイ科)、カンムリベラ(ベラ科)

ヨコシマタマガシラ(イトヨリダイ科)、ミツボシキュウセン(ベラ科)、カンムリベラ(ベラ科)

モンツキアカヒメジ(ヒメジ科)、ゴマアイゴ(アイゴ科)、ヨコシマタマガシラ(イトヨリダイ科)

ヒレグロコショウダイ(イサキ科)、コクテンサザナミハギ(ニザダイ科)

ヤエヤマギンポ(イソギンポ科)

ハマフエフキ(フエフキダイ科)

チョウチョウコショウダイ(イサキ科)

オキフエダイ(フエダイ科)






夏子 久佐賀義孝。この丸山福山町からそう遠くないところに住んでいる占い師。政財界にも顔のきく大立者。正義感で気骨ある人という評判にすがって、五千円、無心しました。その五千円で婦人の宿という施設をつくってやろうと思ったの。
花蛍 ちっとも知らなかった。
夏子 お化けのあなたならきっとそこまでお見とおしと思ったから言ったのに。
花蛍 幽霊はそんなに万能じゃありませんよ。でも五千円は吹っかけすぎですね。三万五千円あれば歌舞伎座がたつのよ。断られたでしょう。
夏子 出してもいいと言ってきたわ。ただし「そのかわり貴嬢の身体を小生におまかせくださるなら」という条件つきで。
花蛍 妾になれというのね。
夏子 男のきまり文句。
花蛍 あなたは近眼だから人をじーっと見る癖があるでしょ。その目付きを誤解したのね。さもなくばあなたがわざとそう誤解するように仕向けたのか。
夏子 (確答を避けて含み笑い)・・・・・・
「頭痛・肩こり・樋口一葉」井上ひさし(集英社)、「六・お月さまはエライな」、明治二十七年(1894年)の「盆」

「吉原」のいわば「門前」である下谷龍前寺町から、引越ししなければならなくなったのは、この井上ひさし作品にも描かれているが、一葉自身が、虐待や搾取を受けている「遊女」たちの窮状を実際に見聞きもしたのであろう、「売●春」制度の廃止を、公然と口にしたために、「吉原」に通う客たちによって潤っているだろう、近所の商店主たちの反感を買い、居づらくなったからだ、と言われている、この年表は、確か、和田芳恵「一葉の日記」(講談社文芸文庫)を参考に作ったのだったと思うが、久佐賀義孝訪問は、1894年2月、まだ、下谷龍禅寺町在住時のことになっている、あるいは、その後も何度か訪問したのかもしれないが、・・・、この、宗教団体の総帥、相場師、さまざまな顔をもつ、いかにも怪しげな人物に、一葉が接近した事情については、和田芳恵、前田愛、をはじめとする数々の「一葉」研究者の間でも、議論のあるところらしいが、ここに引用したように、井上ひさし氏は、「婦人の宿」、「遊郭」で働き、搾取や虐待を受ける女たちの、「サンクチュアリー/駆け込み寺」のような施設の、創立資金だった、という解釈に立っているのだね、・・・、私も、その見解を、支持したい、というより、その見解が、好・き・だ・。翌1895年、丸山福山町の住居に、横山源之助(1871-1915)が訪問、親しく語らった様子が、これまた、日記、および、書簡に残されているそうである。1872年生まれの一葉より一つ年上の、「同世代」、この時、二人はそれぞれ、23歳、24歳、なのだね、のちに「日本之下層社会」でデビューするのが1899年、新進気鋭の「社会派」ジャーナリストの、卵、であった時期だろう、晩年の「明治富豪史」(1910)では、もはや、日本の帝国主義的拡張に対する何の批判も、皮肉さえも窺われない、「転向者」ぶりをあらわにしているが、この頃は、バリバリの「社会主義」信奉者、活動家だったはずの、この横山氏にしてからが、あまり焦って行動に移さないように、と、いさめるような口調の手紙を送っていることから、その訪問時、この二人の若者が、相当に熱・く・、その「社会事業」について語り合ったらしいことが、想像されるのである。
前にも言ったが、関川夏央の推算による、この時代の貨幣価値、当時の1円≒現在の5000円、これを採用すれば、
5,000×35,000=175,000,000
5,000×5,000=25,000,000
と、それぞれ、「歌舞伎座」建設総工費、1億7千5百万円、一葉が、久佐賀に要求した借銭が、2千5百万円、・・・、貧乏人には(笑)、残念ながら、あまりピンとこないが、法外な要求、であることは確かだろうな、・・・、私事にわたるが(笑)、まだ仕事があったころでさえ、私は、年収150万弱で、十数匹の犬猫ともども、暮らしてきた、極貧の一葉一家も、それに近いものと想定すれば、
25,000,000÷1,500,000≒16.7
この先一家が、十数年生きていけるような金額なのである、もちろん、一葉は、そんなに、生きなかったけれど。「歌舞伎座」建設の総工費がわかれば、より証拠固めになる(笑)、と思ったが、見つからず、ただ、「歌舞伎座」の開場が、1889年、明治22年、であることは分かった、なるほど、幽霊の「花蛍」さんであっても、当時、巷を沸かせたであろう「ホット」な話題を、援用しているのである。
映画の「エキストラ」みたいに(笑)。
ここに、「お化け/幽霊」の「花蛍」さんが登場するように、この芝居は、10幕からなっていて、明治二十三年、1890年、これは、まだ、一葉が小説を書きはじめる前だな、に始まり、一葉死後の「新盆(にいぼん)」明治三十年、1897年、さらに、翌年、明治三十一年、1898年、一葉の母、喜多の「新盆」まで、いずれも、それぞれの年の、「盆の十六日」の夕刻、を舞台としているのである。あれ?数が合わない?ああ、わかった、第5幕「火葬場の煙」、だけ、「盆」ではなく、明治二十六年、1893年10月、なのだね、下谷龍前寺町で駄菓子屋を開業したばかりの頃、すでに「婦人の宿」計画を、近所の巡査と語り合ったことが、噂となり、母親の叱責を受け、妹の邦子が姉をかばう、というエピソードが挿入されているからなのだな、
夏子 日暮里の火葬場の匂いだわ。北風の吹く日は、龍泉寺一帯いつもこの匂い。
花蛍 人を焼く匂い(大きく息を吸って)大好き。
夏子 ここは実際妙なところよ。北からは人を焼く匂い、東からは吉原女郎衆のお白粉しろいの匂い。また、すぐそこの大音寺前の四つ辻では、火葬場へ往復する葬式の行列が一組か二組、きっと一休みしている。そしてその葬式の行列を蹴散らすように走り抜ける吉原がよいの人力車。ここは明界このよ幽界あのよとのつなぎ目ね。
花蛍 ええ、ここでは生と死が仲よく重なり合っているんですよ。わたしがここに住みついたのもそこが気に入ったからでした。おじゃましました。ごめんあそばせ。
「頭痛・肩こり・樋口一葉」井上ひさし(集英社)、「五・火葬場の煙」、明治二十六年(1893年)10月
地図↑を見れば、「大音寺」は、「鷲神社(おおとりじんじゃ)」の少し北、確かに、一葉の、店および住居からは、「すぐそこ」だろう、そこから山手線の日暮里駅は、ほとんど真西、どうして「北から」なのか、些末な部分が気になって、調査すると、「江戸五三昧」と呼ばれる、五つの火葬場が、江戸の近辺にあって、その一つ「小塚原」、これは、現在の常磐線南千住駅近く、「刑場」でもあったらしい、が、明治二十年、1887年、付近の市街地化に伴って、荒川区の町屋に移転、「日暮里火葬場」と呼ばれていたようである、地図の上の端に切れかかったところだが、荒川区町屋なら、確かに、北北西の方角になろう。「三昧」は、サンスクリット由来、「心を一処に定める」の意味から、「一心不乱に没頭する」の俗用を生んだほか、平安時代以来、火葬場、墓所がそう呼ばれたものらしい。
で、まことに、「明界このよ幽界あのよとのつなぎ目」、としての「盆」なのだが、日本が太陽暦、グレゴリオ暦、を採用したのが、明治六年、1873年の元日から、だから、樋口一葉を含む「明治人」の生活も、それによって律せられていたはずだが、井上ひさし氏は、この芝居のすべての場面を、新暦7月16日、に設定しているのが、現今は、沖縄以外では、もっぱら「盆」は、8月16日、と考えられているだろうから、不思議に思えたので、これまた調べてみると、
「盆」の命名の由来は、仏教の「盂蘭盆会」、これに、道教の「中元節」が習合したものと言われる、
旧暦七月の、1日、「朔」日、新月の日に、地獄の蓋が開き、15日、「望」日、満月の日に、それが閉じる、という、道教由来と思われる、信仰が存在する、この井上ひさし作品の冒頭にも、
ぼんぼん盆の十六日に、
地獄の地獄の蓋があく
地獄の釜の蓋があく
ぼんぼん盆の十六日に
地獄の亡者が出てござる
と、ちょっと「開く」と「閉じる」がずれている気はするが、そういう盆歌が引用されている。
年に二度、初春と初秋の満月の日に、祖霊が子孫のもとを訪れる、という信仰があった。なるほど、旧暦では、一、二、三月が「春」、四、五、六月が「夏」、七、八、九月が「秋」、十、十一、十二月が「冬」、であるから、旧七月の満月が「盆」であり、旧一月の満月、これは、当地沖縄では、「後生(ぐそう)の正月」、つまり「死者」の正月、と呼ばれている、というのとも符合する。
そして、「中元」は道教由来の概念であるが、かつては、「盆」に際して、「死者」に対しての贈り物、を意味していたらしい、これも、この井上ひさしの芝居で、確か一か所、「中元」を仏壇に供える場面があった。
で、それが、明治の新暦移行以来、・・・、但し、沖縄は、1872年、琉球藩設置、に始まり、1879年、首里城明け渡し、琉球国王尚泰の東京連行、沖縄県設置、つまり、ここだけ遅れていた「廃藩置県」の実施、に至る「琉球処分」のただなかであったから、海洋国家である琉球が、陰暦への親近性をより強く有していたばかりでなく、旧暦行事が色濃く残されることにもなったのであろう、・・・、沖縄以外の全国各地では、もろもろの行事が、新暦に読み替えられることとなったが、もともと、旧暦「太陰太陽暦」は、太陽暦上の二十四節気「春分」を、「春」の真ん中の月、二月、に収まるように調整したものであるから、新暦三月二十三日、あたりが、旧暦二月、となって、一月内外の誤差が生じる、すると、新暦上の「盆」は、夏のさなかで従来の季節感を欠くばかりでなく、田植えからしばらく後、ということだろうか、農村では、農繁期にも当たっているので、不都合であるから、一月遅れの、グレゴリオ暦8月16日に、さらに移動させた、という事情であったらしい。新暦移行から間もない、この芝居の背景としては、また、農村ならぬ東京にあっては、もっぱら「盆」は、新暦7月16日、と見るべきだったのだろう。

ユリウス日計算



マトフエフキ(フエフキダイ科)

ミスジチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)

クロスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)

ネッタイスズメダイ(スズメダイ科)

オオハマボウ(アオイ科)





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Last updated  2021.10.15 11:00:26



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