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ねこログ

ねこログ

2021.09.23
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カテゴリ:カテゴリ未分類

トウアカクマノミ(スズメダイ科)、サンゴイソギンチャク(ハタゴイソギンチャク科)

トウアカクマノミ(スズメダイ科)、サンゴイソギンチャク(ハタゴイソギンチャク科)

スミツキトノサマダイ(チョウチョウウオ科)、コクテンサザナミハギ(ニザダイ科)

ヒレナガスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)

モンツキアカヒメジ(ヒメジ科)

ミゾレチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)

キイロハギ(ニザダイ科)


「ねこログ」、総目次(笑)/「スクラップ・ブック」、の、目次。
目次:「当事者」で・は・な・い・人々、の間で、成立する、冷笑的な、冗談、および、「所有権侵害」に対する「良心の呵責」、などについて・・・「ハックルベリ・フィンの冒険」補遺/「Reading Lolita, or more than Lolita in, other than Tehran/テヘラン以外の場所で、『ロリータ』あるいは『ロリータ』以外のものを、読む」/意・図・的・な・「健忘症/アムネジア」、そして「奇妙な果実」/そんな「浅はかな」ことを思いついた人間は(笑)、「世界」が相手となれば、相当数いたようで、・・・、「ノーベル文学賞」アブドルラザク・グルナと言う作家を、さわりだけでも、読んでみる/ノーベル賞作家の故郷と、インド洋交易、から、話が少し広がって、イブン・バトゥータ「三大陸周遊記」をかじってみることに/



おや、もう「中秋」、つまり、旧暦八月の「新月」大潮ではないか、こんな風に「夏」が終わってしまったらどうしよう、まだ「宿題」をやってない小学生みたいに?

シュノーケル歴20年に近い、というのに、しかも、「うつ病」患者は、習慣を「変更」するのが不得意だから(笑)、毎年同じ場所で潜っているのに、ちっとも、その「海底地理」が呑み込めていなくて、どこにどんな魚が住んでいるものなのか、もちっとも予想がつかず、それはそれで、毎回「意外性」があってよい、とも言う、毎年のように出会っていた魚、今年は、ちっとも見かけないなあ、と嘆いていた矢先、ほら、今日の収穫は、ノコギリダイ(フエフキダイ科)、とモンツキハギ(ニザダイ科)。それから、これはしばしば見かけるのだが、そうね、ロクセンスズメダイかオヤビッチャを「相似拡大」したような、巨大なもの、図鑑の頁を繰ってみても、はっきりこれだ、と言えそうなものが見つからないのだが、それはそれで不安定なので(笑)、イシダイ(イシダイ科)ということにしておくことにした。

アミアイゴ(アイゴ科)・幼魚、オジサン(ヒメジ科)、テンクロスジギンポ(イソギンポ科)

ノコギリダイ(フエフキダイ科)

イシダイ(イシダイ科)

ノコギリダイ(フエフキダイ科)

クギベラ(ベラ科)、ルリスズメダイ(スズメダイ科)

メガネスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚、ルリスズメダイ(スズメダイ科)

シチセンムスメベラ(ベラ科)

クロメガネスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚

カンモンハタ(ハタ科)、ヌノサラシ(ハタ科)、ルリスズメダイ(スズメダイ科)

ハマフエフキ(フエフキダイ科)・幼魚

イナズマベラ(ベラ科)

ノコギリダイ(フエフキダイ科)・幼魚、ロクセンスズメダイ(スズメダイ科)

ノコギリダイ(フエフキダイ科)・幼魚、ミツボシキュウセン(ベラ科)

ノコギリダイ(フエフキダイ科)・幼魚、アカオビベラ(ベラ科)、ロクセンスズメダイ(スズメダイ科)、ミツボシキュウセン(ベラ科)

ヤエヤマギンポ(イソギンポ科)

トゲチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)・幼魚

オビブダイ(ブダイ科)・メス、コクテンサザナミハギ(ニザダイ科)

ブダイ科の一種、コクテンサザナミハギ(ニザダイ科)

モンツキハギ(ニザダイ科)

ノコギリダイ(フエフキダイ科)、アカヒメジ(ヒメジ科)

オビブダイ(ブダイ科)・メス、ハゲブダイ(ブダイ科)・オス

ニセカンランハギ(ニザダイ科)、ノコギリダイ(フエフキダイ科)

ノコギリダイ(フエフキダイ科)

モンツキハギ(ニザダイ科)、ノコギリダイ(フエフキダイ科)




「ハックルベリ・フィンの冒険」マーク・トウェイン(角川文庫)/Adventures of Huckleberry Finn, by Mark Twain/The Project Gutenberg
“Well, I b’lieve you, Huck. I—I run off.”
“Jim!”
“But mind, you said you wouldn’ tell—you know you said you wouldn’ tell, Huck.”
“Well, I did. I said I wouldn’t, and I’ll stick to it. Honest injun, I will. People would call me a low-down Abolitionist and despise me for keeping mum—but that don’t make no difference. I ain’t a-going to tell, and I ain’t a-going back there, anyways. So, now, le’s know all about it.”
Adventures of Huckleberry Finn, by Mark Twain/The Project Gutenberg
「じゃあ、それを信用すべえ。じつはな、わしは―わしは、逃げてきただ」
「えっ、ジム!」
「だが、いいか、おめえさんは言っただぞ、告げ口はしねぇとな―たしかに、おめえさんは言った、告げ口はしねぇとな、ハック」
「そりゃあ、言った。しねぇと言った。だから、それは絶対に守る。正直者のインディアンに誓って、守ってみせる。みんなは、おいらのことをゲスの奴隷制度即時廃止論者アボリッショニストだなんて言って、届け出をしねぇことでおいらを軽蔑するはずだ―だがそんなことはどうだっていい。おいらは告げ口をするつもりはねぇし、それに、どうせあそこには帰るつもりはねぇんだからな。だから、さあ、残らず話を聞こうじゃねぇか」
「ハックルベリ・フィンの冒険」マーク・トウェイン(角川文庫)・第8章
「正直者のインディアンに誓って」、という表現は、子供の頃から聞き覚えがあった、そしてもちろん、すでに、「ポリティカル・コレクトネス」の時代、当時はそうは呼ばなかったが、であったから、それが、侮蔑的なニュアンスを含む、使うべからざる表現であることも、子供心に理解していた、・・・、今、ネット上のもろもろの辞書で「honest injun」を引いてみると、「誓って、正直に」とか、その「意味」、「翻訳」は記してあっても、どういう由来、あるいは「故事」なのかは一向にわからない、「injun」はもちろん、「indian」のくずれた発音、どうやら、少なくとも、主だった英語の辞書にこの用例が記載されるようになったのは、ほかならぬ、マーク・トゥエインのこの作品、あるいは、これに先行する「トム・ソーヤーの冒険」がきっかけだったようで、だがもちろん、彼がこの表現を「発明」したわけではなく、すでにその当時、この表現が定着していたのだろう、と言われている、想像するしかないが、「インディアンのよ・う・に・正直に」が、元来の意味なのだろう、それが、「インディアン」で・は・な・い・人々、の間で、冷笑的な、冗談として成立する、ということは、そのステートメントが、実は、虚偽である、ということに当然なるはずなのだけれども、だからと言って、「インディアンは正直で・は・な・い・」と言うことではなく、「インディアンは、『愚か』と呼ばれうる程までに、正直である」という含みなのだろう、もとより、「白人」入植者の狡知によって、土地を奪われてしまった、その歴史を、ほかならぬ「白人」入植者たちの末裔が、「笑い話」にしている、ということなんだろう、辞書の説明の中で、比較的詳しかったものを挙げておくと、
honest injun/An expression used to emphasize the veracity of one's statement. Based on a colloquial spelling of "Indian" (i.e., Native American). One of many expressions often considered offensive for making reference to Native American stereotypes or tropes.
「オネスト・インジャン」、自分の発言の真実性を強調したいときに用いる表現。「インディアン」、すなわち先住アメリカ人、のくずれた綴りに由来する。先住アメリカ人に対するステレオタイプを表わしたものとして、しばしば、侮蔑的なものと、解される数多の表現のうちの一つである。
We judged that three nights more would fetch us to Cairo, at the bottom of Illinois, where the Ohio River comes in, and that was what we was after. We would sell the raft and get on a steamboat and go way up the Ohio amongst the free States, and then be out of trouble.
Adventures of Huckleberry Finn, by Mark Twain/The Project Gutenberg
おれたちの判断では、あと三日も夜をすごせばケイロにつくはずだった。イリノイ州の南のはずれだ。そこは、オハイオ川が流れ込んでいるところで、おれたちが目指すのはそこだった。筏を売って、蒸気船に乗って、ずっとオハイオ川をさかのぼって行って自由州に入る。そうすれば、もう心配はなくなるはずだった。
「ハックルベリ・フィンの冒険」マーク・トウェイン(角川文庫)・第15章
古代エジプトの、聖書の中での呼び名が、Goshen、「エジプトはナイルのたまもの」と言われたのと同様に、この、イリノイ州南端の一帯、リトル・エジプトLittle Egyptも、ミシシッピ川とオハイオ川の合流点で、河川の氾濫によって土地が肥沃であったことから、そのように命名された、という由来らしい、だから、「ケイロ」もやはり、エジプトのカイロにちなんでいるのである。
・・・
Jim talked out loud all the time while I was talking to myself. He was saying how the first thing he would do when he got to a free State he would go to saving up money and never spend a single cent, and when he got enough he would buy his wife, which was owned on a farm close to where Miss Watson lived; and then they would both work to buy the two children, and if their master wouldn’t sell them, they’d get an Ab’litionist to go and steal them.
It most froze me to hear such talk. He wouldn’t ever dared to talk such talk in his life before. Just see what a difference it made in him the minute he judged he was about free. It was according to the old saying, “Give a nigger an inch and he’ll take an ell.” Thinks I, this is what comes of my not thinking. Here was this nigger, which I had as good as helped to run away, coming right out flat-footed and saying he would steal his children—children that belonged to a man I didn’t even know; a man that hadn’t ever done me no harm.
Adventures of Huckleberry Finn, by Mark Twain/The Project Gutenberg
ジムは、おいらが自分に話しかけているあいだ、ずっと大声でしゃべっていた。ジムが言っていたのは、こういうことだ。自分が自由州についたら、第一にしたいことは、金を節約して一セントも使わねぇようにする。そして充分に貯まったら、女房を買い戻す。というのも、その女房はミス・ワトソンの住んでいる近くの農家のものになっているからだ。そして女房と一緒に働いて、自分たちの二人の子供を買い戻すようにする。もしその主人が売ってくれなければ、奴隷制度即時廃止論者アボリッショニストにたのんで盗み出してもらう、というのだ。
そんな話しを耳にして、おいらは凍りつく思いだった。こんな話しは、ジムの奴、以前なら一度だってしようとはしなかったはずだ。なんという違いだろう。自分がもう少しで自由になれると分かったとたん、奴はこんなにも変わるんだ。昔のことわざが言うとおりだ。「黒ん坊なんて、親切にしてやれば、すぐにつけあがる」ってな。おいらは思った。こうなったのも、オレがよく考えなかったからだ。ここに、この黒ん坊がいる。それが逃げ出すのを、オレは助けてやったも同じだった。その黒ん坊がぬけぬけと口を割って、子供を盗み出すなんてほざいてやがる―オレの知りもしねぇ人のものになっている子供をだ。その人は、おれに何の悪さもしたことがねぇのによ、ってな。
「ハックルベリ・フィンの冒険」マーク・トウェイン(角川文庫)・第16章
「ell」はかつての長さの単位で、定義がいくつもあるようだが、一つは、「ひじelbow」から延ばした中指の先端までの長さ、18インチinch、1inchが2.54cmであるから、約45cm、「1インチ与えたら、(その18倍もの)1エル取ってしまう」で「親切にしてやれば、すぐにつけあがる」ということにしたのだろう。マルクスの資本論に、たしか、亜麻布だったかを測る単位に「エレ」というのが頻繁に出てきたおぼろげな記憶があるが、関係あるのだろうか?「読みなおす」と言いつつ、いつになるかわからないが、もし「読みなおす」ことがあれば(笑)、調べてみる、ということで、メモだけしておこう。
前回触れたように、いよいよ目前に、「自由州」イリノイの入り口が見えてきた段階になって、フィンは、しきりに、「良心の呵責」に苛まれるのである、「奴隷の逃亡を幇助する」ことの「道義性」が、もっぱら、他人の所有権侵害、「奴隷」という所有物に対する「物権」の侵害、という観点からのみ語られることに、やや奇異な感じをもち、そこに、マーク・トゥエイン一流の、「皮肉」、「諧謔」、がどの程度混入しているのか、つまり、どこまで真・顔・で・、読むべきなのかが、ちょっと判断できない気がしたからだな、それは、今も、できない、ともかく、物語としては、こうして待ち焦がれた「ケイロ」の町を、結局見逃してしまい、その街に着いたら早速、陸に上がって「密告」しようという、ハックの決意も、空振りに終わる、旅は、続き、妙な同行者にも出会い、ついには、アーカンソー州あたりまで流されてしまったようで、町の名前が書かれていなかったので、距離の計算に当たっては、州境にちかいメンフィスの町を挙げておいたけれども、その、アーカンソーのどこかの町で、どういうわけか、トム・ソーヤ―と再会、もろもろのドタバタ劇を経て、ジムは、無事に「解放」されるハッピー・エンドなのだけれども、引用するのは、このくらいにとどめておく。


ミズーリ州ハンニバル、カルタゴの軍人にちなむ命名らしいが、この町は、マーク・トゥエインの故郷、物語には、その名称は登場しないけれども、この、ミシシッピを下る筏の旅の起点は、異論なく、この町に比定されているようである、イリノイ州ケイロまで、約350km、川は激しく蛇行しているから、実際の距離は、その2割、3割り増しと見るべきだろう、仮に400kmとして、また、物語には、特にはっきりした日数の経過を示す表記もなさそうなのだが、印象としては、十日かそこらは、かかっている感じがする、十日として、一日40km、淀川を、伏見から大阪まで下る、ぐらいの距離か、なるほどね、ミシシッピ川には、地図を拡大してみると、かなりたくさんの中州があって、ハックとジムも、そういうところに上陸して、休んだり焚火をして食事をしたり、もしているのだが、そういう時間を差し引いて、一体一日にどのくらいの時間「流され」ていたのだろうか?まったくの憶測でしかないが、歩くよりは速いだろう、時速8km/hとして、なるほど、一日5時間、・・・、まあ、そんな愚にもつかない試算をしてみることで、しかし、多少は、「リアリティー」を感得することもできたのである。
下図は、南北戦争期の、州区分だが、ミズーリとケンタッキーは、「Union Slave State」、北軍方だが、「奴隷州」ではある、ということなのか、テネシーと、アーカンソーは南軍についた「奴隷州」、だから、たしかに、ミシシッピ川とオハイオ川が合流するイリノイ州南端のケイロこそが、「自由州」イリノイに向かう、最後のチャンスだったのだ、ということがわかる。

・・・
筏の速度、について、気になっていた矢先、首里城前庭に、「鉢割れ白黒」の愛らしい(笑)、この書物↓、を読んでいたら、次のような一節に出会った、・・・

「本音で語る沖縄史」仲村清司(新潮文庫)
当時の倭寇は、対馬、壱岐、五島列島の住民で、九州北部のこれらの島々から、伊平屋、伊是名までの距離は海上約七百~八百キロほど。当時の帆船の走行距離は一日におよそ百キロといわれ、この計算だと、自分の島を出港して約八日で伊平屋・伊是名島にたどりつく。
南西方向に船を進め、生水が船上でもつのが一週間ぐらいとされていたから、伊平屋・伊是名島は倭寇の補給基地としてぴったりの位置にあったのである。
「本音で語る沖縄史」仲村清司(新潮文庫)
第一尚氏王朝(1405~)の始祖、尚巴志の祖父、鮫川大主(うふしゅ)も、第二尚氏王朝(1469~)の始祖、金丸も、ともに、伊平屋、伊是名の出身であることから、これらの王朝が、当時、最先端の航海技術を身に着けていた、これら「倭寇」系統に由来するのではないか、という通説の論拠として、挙げられていたもの。

これ↑は伊平屋島南端の拡大図、李相日監督「怒り」、の舞台が、このあたりのようであったから作製した図面。

この際、「船の走行速度」に関する調査結果を一覧しておこう、ダーウィンのビーグル号は「帆船」、他は「汽船」である、「倭寇」から「ビーグル号」まで、400年の隔たりがあるが、その間、50km/dayの「進歩」があった、というのも妥当な数字と思われる、それにしても、「一日100km」、24で割ると、時速4km強、ゆっくり歩く速度、いかにも「遅い」という印象がないでもないが、凪もあれば、向かい風もあろう、そんなものだったかも知れない、それとの比較で、ミシシッピを下る筏に関する上の推算も、的を得ているような気もしてきた。




よしんば、これで終わり、ってことになったとしてもだな、まあ、それはそれでよかったじゃないか?、などと「広い心」でいられることも、ごく稀にはあるようで(笑)。

この日の収穫、としては、ヤリカタギ(チョウチョウウオ科)、「槍」を「担いで」、という意味なんだろうな、矢印を並べたようなその模様、確かに「槍」っぽい、そんなに珍しいものではないのだろう、図鑑の写真ではおなじみだったが、実見したのは、去年が最初、それから、オビテンスモドキという、ベラ科の魚、細かい「ギンガム・チェック」とでも言いましょうか、とても「自然」の「造形」とは思えないデザイン、何度か見かけたことはあったものの、カメラに収められたのは初めて、ベラ科の魚は、たいがい「せわしない」、捕食者のただなかで生き抜いている彼らに対して、そんな風に詰るのは、無慈悲というものだが、だから、このセナスジベラも、なかなか自慢の作品、というわけ。


ヒレナガハギ(ニザダイ科)・幼魚

ミツボシクロスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚

クロソラスズメダイ(スズメダイ科)、ホンソメワケベラ(ベラ科)



ヒレナガスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)

オキフエダイ(フエダイ科)・幼魚

コクテンサザナミハギ(ニザダイ科)、ルリスズメダイ(スズメダイ科)

ヒレナガハギ(ニザダイ科)・幼魚、ツユベラ(ベラ科)、ルリスズメダイ(スズメダイ科)

ミゾレチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)

マトフエフキ(フエフキダイ科)

ヤエヤマギンポ(イソギンポ科)、ヒレナガハギ(ニザダイ科)・幼魚、オイランヤドカリ(ヤドカリ科)

コバンヒメジ(ヒメジ科)

セナスジベラ(ベラ科)

ヤリカタギ(チョウチョウウオ科)

オビテンスモドキ(ベラ科)

ルリホシスズメダイ(スズメダイ科)

ヤリカタギ(チョウチョウウオ科)、ブダイ科の一種



キイロハギ(ニザダイ科)

スミツキトノサマダイ(チョウチョウウオ科)

ヤシャベラ(ベラ科)・幼魚

ニセネッタイスズメダイ(スズメダイ科)

チョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)

ハゲブダイ(ブダイ科)・オス

モンツキアカヒメジ(ヒメジ科)

ブッソウゲ(アオイ科)

リュウキュウコクタン(カキノキ科)






When my father was jailed, I went back home and was allowed to stay for a year. Later I was insecure enough to marry on the spur of a moment, before my eighteenth birthday, I marryed a man whose most important credential was that he wasn't like us - ...
...
I moved with him to Norman, Oklahoma, where he was getting his master's in engineering at the University of Oklahoma, and in six months' time I had reached the conclusion that I would divorce him as soon as my father was out of jail. That took another three years.
...
... He returned home while I stayed on in Norman, the only foreign student in the English Department.
...
These are my memories of Norman, red earth and fireflies, singing and demonstrating on the Oval, reading Melville, Poe, Lenin and Mao Tse Tong, reading Ovid and Shakespear ... At night watching new films by Bergman, Felini, Godard and Pasolini.
...
I marched while the suffering ROTC students, in those days of protest against the Vietman War, tried to ignore our presence on the grass.
Reading Lolita in Tehran/Azar Nafisi(Penguin Modern Classics)
父が逮捕、収監されたとき、私は帰国して、一年間滞在することができた。その後、私は、自分の状況に不安を感じていたからだろう、もののはずみで、結婚してしまった、18歳の誕生日を前にして、私が結婚相手として選んだ男の、唯一の、特徴は、彼が、私たち、私たちの家族とは異なる部類に属していたことだけだった・・・。
・・・
私は、その男とともに、オクラホマ州ノーマンに移った、オクラホマ大学の工学部で、彼は、修士課程に在籍していたのだ、そして、6か月の時間が経過した段階で、私は、父が出獄できたならただちに、この男と離婚する、という結論に達した、でも、父の出獄には、それから3年を要したのだ。
・・・
・・・彼は帰国し、私はノーマンに残った、英文学部で、ただ一人の外国人学生となった。
・・・
ノーマンの思い出といえば、赤土と蛍、歌を歌いながら、「オーヴァル」に向けてデモしたこと、メルヴィル、ポー、レーニン、毛沢東を読み、オウィディウスやシェイクスピアを読み、・・・、夜ともなれば、ベルイマン、フェリーニ、ゴダール、パゾリーニの新しいフィルムを観たこと。
・・・
私たちがデモをしていると、当時はヴェトナム戦争反対のデモが盛んだった、苦々しい表情の「予備役将校訓練課程(ROTC)」の学生たちが、私たちの存在を黙殺しようとしていたものだ。
「テヘランで『ロリータ』を読む」アザール・ナフィシ(ペンギン・モダン・クラシックス)

ノーマンは、オクラホマの州都、オクラホマ・シティ南郊、約30km、オクラホマ大学の所在地。
ROTC/Reserve Officers' Training Corps/予備役将校訓練課程
オウィディウス/Ovid、アウグストゥス治下のローマの詩人
「オーヴァル」、きっと楕円形の建物だったのだろう、英文学部の事務棟がそう呼ばれていたらしい。
I joined the Iranian student movement reluctantly. My father's imprisonment and my father's vague nationalist sympathies had sensitized me towards politics, but I was more of a rebel than a political activist - though in those days there was not much difference between them. One attraction was the fact that the men in the movement didn't try to assault or seduce me. Instead, they held study groups in which we read and discussed Engels's Origin of the Family, Private Property, and the State and Marx's The 18th Brumaire of Luis Bonapart. In the seventies, the mood - not just among Iranians, but among American and European students - was revolutionary. There was the Cuban example, and Chine of couse. The revolutionary cant and romantic atmosphere were infectious, and the Iranian students were at the forefront of the struggle. They were active, and even confrontational, going to jail for occupying the Iranian consulate in San Francisco.
Reading Lolita in Tehran/Azar Nafisi(Penguin Modern Classics)
私は、しぶしぶながら、とは言え、イラン出身学生の運動に参加した。父の収監という出来事や、父の有していただろう、ぼんやりとしたものであるがナショナリスト的なものへの共感が、私をして、政治に向かわせることになったのだが、私はといえば、政治的活動家というよりは、より、単なる「造反派」であった、―もちろん、当時、それら二つの間には、大した違いはなかったのだけれども。一つ、魅力的だったといえるのは、運動の中にいる男たちは、私に襲いかかったり、誘惑しようとしたりは、しなかったことだ。そんなことをする代わりに、彼らは、学習会を組織して、エンゲルスの「家族、私有財産、および国家の起源」や、マルクスの、「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」を輪読したりした。70年代という時代の雰囲気は、これはなにもイラン出身学生ばかりではなく、アメリカ人、ヨーロッパ人の学生たちの間でも、そうだったが、革命的なものであった。キューバの例を見よ、それにもちろん、中国も。革命的な用語法とか、そのロマンチックな雰囲気というものは、とても伝染性が強いのだ、そして、これらの闘争の最前線に、イラン出身学生たちは、立っていた。彼らは活動的、というより、対決的でさえあって、サン・フランシスコのイラン領事館を占拠して、刑務所に送られることもいとわなかったくらいだ。
「テヘランで『ロリータ』を読む」アザール・ナフィシ(ペンギン・モダン・クラシックス)
The Iranian student group at the University of Oklahoma was a chapter of the World Confederation of Iranian Students, which had members and chapters in most major cities in Europe and the United States. In Oklahoma, it was responsible for the introduction on campus of the RSB, the militant student branch of the Revolutionary Communist Party, and the creation of the Third World Committee Against Imperialism, composed of radical students from different nationalities. The confederation, fashioning itself after Lenin's democratic centralism, exerted a strong hold over its members' lifestyles and social activities. As time went by, the more militant and Marxist elements came to dominate the group, ousting or isolating those with more moderate and nationalist tendencies. Its members usually sported Che Guevara sports jackets and boots; the women usually cropped their hair short, seldom used makeup and wore Mao jackets and khakis.
Reading Lolita in Tehran/Azar Nafisi(Penguin Modern Classics)
オクラホマ大学のイラン出身学生のグループは、「イラン学生世界連合」の支部だった、この組織は、ヨーロッパや合衆国の主だった都市には、支部をもっていた。オクラホマにおいては、その組織は、キャンパスで、「革命的共産党」の学生組織である、より急進的な「RSB」へ、学生をオルグし、「反帝国主義第三世界委員会」、これは、さまざまな国籍を有した急進派学生たちからなるものであるが、を設立することを任務としていた。その「連合」組織は、レーニンの民主集中制にならって、その構成員たちのライフスタイルや、社会的活動のすべての領域に、大きな影響力をもっていた。時とともに、より急進的、よりマルクス主義的な部分が、このグループを席巻しはじめ、より穏健な、あるいは、より民族主義的傾向の人たちを、除外、または、孤立化させるようになってきた。そのメンバーたちは、たいがい、チェ・ゲバラ風のジャケットとブーツをまとい、女子学生なら、髪の毛は短く切って、めったにメイクはせず、そして、毛沢東ジャケットとカーキ色のズボンをはいていたものだ。
「テヘランで『ロリータ』を読む」アザール・ナフィシ(ペンギン・モダン・クラシックス)
Revolutionary Communist Party, USA、ボブ・アヴァキアン/Bob Avakianを議長として、1975年に創立された、毛沢東主義、「新左翼」的傾向をもった党派、「RSB」、「反帝国主義第三世界委員会/Third World Committee Against Imperialism」については、wikipediaのエントリーはなかった。
アザール・ナフィシ「テヘランで『ロリータ』を読む」から、この部分をこんなに長々と引用するのは、バランスを失しているだろうことは了解しているが(笑)、これは、私自身の、「ノスタルジー」であって、でも、あるいは、1948年生まれ、日本で言うなら、「全共闘世代」に属するこの、ナフィシ教授もまた、やはり、「本筋」とはやや離れて「饒舌」になり過ぎていることがうかがわれるから、その「ノスタルジー」が、「共鳴、共振」それこそ「伝染」したのかもしれず、ならば、それもまた、「正しい」読み方ともいえるであろう?1948年生まれの筆者が、18歳で最初の結婚、ということは、1966年、半年で離婚を決意したが、父の出獄まで3年間待たねばならなかった、そこで、1969年ないし1970年、オクラホマ州ノーマンに夫とともに移ったのちに、オクラホマ大学英文学部に入学したのなら、1967年あたり、であろうか、日本の制度しか知らないからそれで類推すれば、修士課程として6年在籍すれば、1973年あたり、これがその頃を描いた記述、とすると、「革命的共産党」創立が1975年というのと、ちょっと齟齬をきたしそうだが、それこそ当時、「新左翼」党派が、いつ創立された、か、なんて、当事者の間ですら、いくらでも議論がありえたことは、想像に難くない、・・・、私事を語れば(笑)、私が大学生になったのは、1978年、やはり、「学習会」で、「家族、私有財産、および国家の起源」も「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」も、読んだ記憶がある、長続きはしなかったけれど、・・・、チェ・ゲバラ風ジャケットというのはどんなのかわからないな、ほんのわずかな差なんだが、「私たち」の「時代」は、「文化大革命」終結の1976年以降であるし、「連合赤軍」事件などの影響もあったろう、毛沢東主義への熱狂は、収束気味で、「マオ・ジャケット」を着用しているグループもあるにはあったが、少数派であったな、駐留米軍のいわゆる「放出品」として、手に入りやすかったからだろう、「私たち」の、「制服」は、もっぱら、アメリカ軍のアーミー・ジャケットだったのだ、「帝国主義者」の軍隊の「制服」をあえて採用する、という「倒錯」さえ、「革命的」に見えたのだった、同じく米軍占領を経験しているからなのか、「西ドイツ」の「新左翼」パンクスなんかも、この衣装を好んでいたらしい、大学卒業間際だから、1982年くらいのはずだが、短い「海外旅行」、マインツの学生街のフリーマーケットで、海賊版カセットテープなんかを売っている怪しい青年たちが、みな、そんなジャケットを着ていたので、思わず親しみを感じたのを思い出す。
・・・
Those were crucial days in Iranian history. A battle was being fought on all levels over the shape of the constitution on and the soul of the new regime. The majority of people, among them important clerics, were in favor of a secular constitution. Powerful opposition groups - both secular and religious - were forming to protest the autocratic tendencies within the ruling elite. The strongest of the opposition groups were Ayatollah Shariatmadari's Muslim People's Republican Party and the National Democratic Front, made up of secular progressives who were at the forefront of the struggle to preserve democratic rights, including women's rights and freedom of the press. They were very popular at the time and drew about a million people on the twelfth anniversary of the death of the late nationalist hero Mossadegh to the village of Ahamad Abad, where Mossadegh was buried. They campaigned vigorously for a constituent assembly.
The closing down of the most popular and progressive paper. Ayandegan, had led to a series of large violent demonstrations, in which the demonstrators were attacked by the government-backed vigilantes. In those days it was normal to see these goons on their motorbikes carrying black flags and banners, at times led by a cleric riding in front of them in a bulletproof Mercedes-Benz. Despite these ominous signs, the Communist Tudeh Party and the Marxist Fedayin Organization supported the radical reactionaries against what they called the liberals, and continued to put pressure on Prime Minister Bazargan, whom they suspected of having American sympathies.
Reading Lolita in Tehran/Azar Nafisi(Penguin Modern Classics)
それらは、イランの歴史の中で、死活的に重要な意味を持つ日々であった。いかなる形の憲法が起草されるべきか、新たな政治体制の魂とでもいう部分が、どこに置かれるべきなのか、それをめぐる争いが、あらゆる社会的階層の中で闘われた。人民の大多数、その中には、重要な宗教的指導者も含まれる、は、世俗的憲法を支持していた。強力な反体制グループのいくつか、世俗的なものも、宗教的なものも、は、支配的エリート内部の権威主義的傾向に反対すべくデモを組織した。反体制組織の中で、最も強力であったのは、次の二つ、アヤトラ・シャリアトマダリ「ムスリム人民共和党」、そして、世俗的な進歩派からなり、女性の権利や報道の自由など、民主的諸権利の保護のための闘いの先頭に立ってきた「民族民主戦線」。当時これらの組織は、きわめて人気が高く、ナショナリスト英雄、故モサデクの死後12周年に当たっては、何百万という人が、彼が埋葬されている「アマダバッド」の村まで、行進したのだ。彼らは、立憲議会の設立を求めて、熱烈に運動を展開した。
進歩的な新聞として、もっとも人気の高かった「アヤンデガン」が閉鎖されたことに対しては、時に暴力的な、大規模デモが続けて展開された、そんなデモの現場では、活動家たちが、政府支持派の「自警団」的グループから襲撃を受けた。当時は、そういった、ごろつきたちが、黒旗や、黒い横断幕を翻したバイクにまたがり、ときには、防弾ガラスを装備したメルセデス・ベンツに乗った宗教指導者に先導されて、町を練り歩く光景が、どこでも見られたものだ。これらの、悪い予感のする兆候にもかかわらず、共産主義者の「ツーデ党」や、マルクス主義者の「フェダイーン機構」は、彼らの呼ぶところの「リベラル派」よりも、急進的な反動派の方に与して、バザルガン首相に対して圧力をかけ続けたのだ、彼が、アメリカに対するシンパシーを有している、という口実で。
「テヘランで『ロリータ』を読む」アザール・ナフィシ、第2部「ギャツビー」

  • モハマド・カゼム・シャリアトマダリAyatollah Shariatmadari/Mohammad Kazem Shariatmadari(1906-1986)、立憲議会の開催を認めなかったホメイニを厳しく批判者、アメリカ大使館人質事件にも、反対の立場をとった。死に至るまで、「自宅監禁」下に置かれた。
  • ムスリム人民共和党Muslim People's Republican Party(1979-1980)、イラン革命の中で、ホメイニの、「イスラム共和党Islamic Republican Party (IRP)」に対抗する「中道、リベラル派」として、シャリアトマダリ派によって形成。
  • 民族民主戦線National Democratic Front(1979-1981)、モサデクの孫でありパーレヴィ政権末期に人権擁護派の弁護士として活躍したヘダヤトラ・マチン・ダフタリHedayatollah Matin-Daftari、らによって創立。
  • モハマド・モサデクMohammad Mosaddegh(1882-1967)、1951年から1953年、民主的選挙によって選出された、イラン首相、「アングロ・イラニアン石油会社」国有化の動きに対して、イギリスが軍隊派遣をちらつかせて脅迫する中で、アメリカのCIAは、1953年、クーデターを演出、モサデクを失脚させ、シャー・モハマド・レザ・パーレヴィShah Mohammad Reza Pahlaviを首長とする王政を樹立させた。クーデター後の1953年12月、3年間の独房における禁錮刑を言い渡されるが、これに対して、次のようなコメントで答えた、と伝えられている、
    The verdict of this court has increased my historical glories. I am extremely grateful you convicted me. Truly tonight the Iranian nation understood the meaning of constitutionalism.
    本法廷によるこの判決は、私の有する歴史的栄誉を、増大させてくれた。私は、このような告発を受けたことに対して、心の底からの感謝を示したいと思う。まさに今夜こそ、イラン民族は、立憲政治というものの意味を、理解することになるのだから。
    その後も、1967年3月の死に至るまで、アマダバッドAhmadabadの自宅に、「自宅監禁(ハウス・アレスト)」の状態に置かれたという。アマダバッドAhmadabad、という地名は、イランにもいくつか存在するが、モサデクの故郷の町は、「Ahmadabad-e Mosaddeq」 、「モサデクのアマダバッド」という意味であろうか、と呼ばれるアルボルズ州Alborz Province、「テヘランで『ロリータ』を読む」にも、窓から見える、と描かれていた、カスピ海海岸に近い、アルボルズ山脈Alborz mountain rangeの西方の地方、の町、テヘランの西北西、70kmばかりに位置する、のようで、本文にある「Ahamad Abad」も、ローマ字アルファベットでの綴りは若干異なるものの、この町を差しているのだろうと思われる、その死後12年の記念日に、何百万人もがデモ行進した、というのは、すると、1979年3月、ということになるだろう。
  • Ayandegan(1967-1979)、ペルシャ語で、「未来の人民The Future People」を意味する、パーレヴィ政権下の1967年に創刊、革命後、政府による検閲と報道の自由の制限に抗議の姿勢を示したことから、ホメイニ政権による解散処分を受け、職員も逮捕された。
  • イラン・ツーデ党Tudeh Party of Iran(1941-)、イラン人民フェダイーン機構Organization of Iranian People's Fedaian(1980-)・・・イラン(ペルシャ)の、共産主義運動の略史をたどる、・・・、

    • 1920年、「イラン共産党Communist Party of Iran」創立、カジャールQajar王朝に反抗する「ブルジョワ民主派」、「ジャンガル運動Jangal Movement/Jungle Movement of Gilan」と共同、ソ連赤軍の支援を受け、「ジラン(イラン)社会主義ソヴィエト共和国Socialist Soviet Republic of Gilan」樹立したが、内紛により1921年に崩壊。
    • カジャール朝崩壊後の1929年、パーレヴィ朝成立、イスファハンIsfahanの織物工場、マザンダランMazandaranの鉄道、マシュハドMashhadの絨毯工場、さらに、英国所有の石油会社で、ストライキを組織、大弾圧を受け、また、おりからのスターリンによる粛清により、在ソ連のイラン人共産主義者の多くが失われ、テヘランのカスル監獄Qasr Prisonの壁の中をのぞいては、共産主義者はどこにもいなくなった、といわれた、という。
    • 第二次世界大戦中、パーレヴィ朝イランは中立を標榜したが、1941年の隣国イラクでの枢軸派のクーデター後は、多くのドイツ人工作員が、イラン内に存在していたようである、独ソ開戦を受け、連合国は、パーレヴィ政権に対し、ドイツ人の除去を求めたが、レザ・シャーはこれを拒否、1941年8月、ソ連およびイギリスが、イランに侵入、一週間後にレザ・シャー、降伏、パーレヴィ打倒の開放的雰囲気を受け、同年9月ツーデ党Tudeh創立、1945年初頭には、基幹メンバー2200名を誇る一大勢力となった、しかし、イランが産出する石油に対するソ連側の要求、クルディスタン、アゼルバイジャンにおける民族蜂起をソ連が支援したこと、などから、ツーデ等に対する一般民衆の支持も、低落しはじめる、1949年には、モハマド・レザ・パーレヴィ暗殺未遂への関与を口実として、禁止処分、200名の幹部を拘束。
    • モサデク時代には、アングロ・イラニアン石油会社の国有化に対しても、きわめて不分明な立場をとったことが、のちの1957年モスクワで開催された同党の大会で、自己批判されていることからも、うかがえる、CIAによるクーデター後は、しかし、大弾圧を受けた。
    • 1950年代から1960年代の、「冷戦」、「中ソ論争」期は、毛沢東派の離脱、極左武闘派との分裂、を経験、後に合同するが、一部が、Labour Party of Iran(Toufan)というホッジャ主義Hoxhaist、中国―アルバニア論争後にアルバニア側についた、もと毛沢東派、として残存しているようである。
    • 1966年に、中央委員を含む幹部が、逮捕、死刑判決を受けたことに対し、ヨーロッパを含む国際世論が喚起され、これにより、党の統一、地下組織の強化が図られ、イラン革命を担う一翼へと発展する。
    • 1970年代初頭には、北部マザンダランMazandaran地方での、ゲリラ活動、工場労働者のストライキ決起、がみられ、大学は、共産主義者の革命的活動家の「温床」となったと言われる、ツーデ党は、他の左翼諸党派が躊躇する中、「イスラム革命」を支持するに至った。
    • 革命後、多くの獄中活動家が釈放され、大統領選挙、議会選挙に臨むことができたが、結果は、ホメイニ派「イスラム共和党」が多数を占め、左派はほとんど議席を得ることができなかった、にもかかわらず、ツーデ党及びフェダイーン機構が、「イスラム革命」支持の立場に固執したのは、当時ソ連が、この革命を支持する路線を採用していたことも部分的には理由であった、といわれる。
    • 1982年、イラン政府は、ツーデ党に対する大弾圧をおこない(この過程でテヘラン在住のKGB要員がイギリスに亡命したことが、「イラン・コントラ事件」と呼ばれる、国際的な諜報戦の発端とされる)、翌1983年には禁止された、この間、多くの幹部が、テレビの画面に登場、「反逆」、「陰謀」を自己批判、イスラム政府が「マルクス・レーニン主義」より優越していることを宣言、などの「転向宣言」を行った、とされる。

  • イラン人民フェダイーン機構Organization of Iranian People's Fedaian、1963年以降地下活動に従事してきた、フェダイーン・ハルクOrganization of Iranian People's Fedai Guerrillas/Fadaiyan-e-Khalqの後継者、現在は国外に根拠を有する、いくつかの分派にわかれているようである。「フェダイーン・ハルク」は、共産主義者であるが、スターリン主義傾向の強いツーデ党とは、距離をとっているようで、その思想的系譜は、毛沢東、チェ・ゲバラ、レジス・ドブレ、にたどり得る、と言われる。
    「イラン人民フェダイー・ゲリラ機構Organization of Iranian People's Fedai Guerrillas /Fadaiyan-e-Khalq(OIPFG)(1963–1980)」、シャー体制下の反政府運動として、バクティアルの「国民戦線」や、モサデク派の「イラン解放運動/イラン自由運動Liberation Movement of Iran/Freedom Movement of Iran」を「プチ・ブル的」であるとして批判、当初、ソ連および「ツーデ党」にも批判的であったが、後に社会主義派の大同団結路線のもとで、その批判を取り下げる、本部、テヘラン。

  • メフディ・バザルガンMehdi Bazargan(1907-1995)、1940年代、テヘラン大学工学部長、50年代のモサデク政権下で、副首相、1961年、イラン自由運動Freedom Movement of Iranの創設者の一人となる、イラン革命後の1979年4月、アヤトラ・ホメイニにより首相に指名される、同年11月4日の、アメリカ大使館占拠事件発生の同日、辞職、1984年まで国会議員職、1995年、スイスのチューリッヒの病院にて心臓発作で死去。
  • レジス・ドゥブレRégis Debray(1940-)、エコール・ノルマル・シュペリエール(高等師範学校)にて、ルイ・アルチュセールLouis Althusser(1918-1990)に学ぶ、1965年から、ハバナ大学哲学教授、「革命の中の革命Révolution dans la révolution ?」(1967)、1967年、ボリビアでのゲバラChe Guevara(1928-1967)主導のゲリラ戦に参加して逮捕され、禁固30年の判決を受けるが、サルトル、マルロー、ド・ゴール、ローマ教皇らによる国際的嘆願運動により、1970年釈放、チリに亡命、サルヴァドル・アジェンデ Salvador Allende(1908-1973)と会見、「チリの道The Chilean Revolution」(1972)、アウグスト・ピノチェットのクーデター後、フランスに帰国、1981年、ミッテランの大統領選出とともに、その外交顧問就任、2003年、「学校における世俗性の維持と、顕著な宗教的表象に関するフランス法French law on secularity and conspicuous religious symbols in schools」制定を検討する委員会に参加、「ライシテlaïcité」保全の立場から、同法に承認を与えるが、宗教的問題に対しては、なお繊細な取り扱いが必要とも主張した、と言われる。



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At that time, students and faculty were differentiated mainly by their political affiliations. Gradually I matched names to faces, and learned to read them, to know who was with whom against whome and who belonged to what group. It is almost frightening how these images appear out of the void, like the faces of the dead come back to life to excute some unfulfilled task.
I can see Mr. Bahri in the middle row, playing with his pencil, his head down, writing. Is he writing my words, I wonder, or only pretending to do so? Every once in a while he lifts his head and gazes at me, as if trying t decipher a puzzule, and then he bends back down and continues with his writing.
...
My most radical students sit in the very back rows, with sardonic smiles. One face I remember well. Mahtab's. She sits self-consciously looking straight at the blackboard, acutely aware of those sitting to her right and left. She is dark-skinned, with a simple face that seems to have retained its baby fat and resigned, sad eyes. I later discovered that she came from Abadan, an oil city in the south of Iran.
Then of course there is Zarrin, and her friend Vida. They caught my eye on that first day because they looked so different, as if they had no right to be in that class, or on the university grounds for that matter. They didn't fit any of the categories into which students in those days were so clearly divided . Leftists' mustaches covered their upper lips, to distinguish them from the Muslims, who carved out a razor-thin line between upper lip and mustache. Some Muslim also grew beards or what stubble theey could muster. The leftist women wore khaki or dull green - large, loose shirts over loose trousers - and the Muslim girls scarves or chadors. In between these two immutable rivers stood the non-political students, who were all mechanically branded as monarchists. But not even the real monarchists stood out like Zarin and Vida.
Zarin had fair, fragile skin, eyes the color of melting honey and light brown hair, which she had gathered behind her ears. She and Vida were sitting in the first row, at the far right, near the door. Both were smiling. It seemed slightly rude of them to be there, looking like that, so pastel and serene. Even I, who had abdicated by now all revolutionary claims, was surprised by their appearance.
Vida was more sober, more conventionally academic, but with Zarrin there was always a danger of swerving, of losing control. Unlike many others they were not defensive about their non-revolutionary attitude, nor did they seem to feel a need for justification. ...
Reading Lolita in Tehran/Azar Nafisi(Penguin Modern Classics)
当時は、学生も教員も、主にその政治的系列関係から、分類されていたわけだ。顔と名前がようやく一致するようになってきたころ、同時に、誰が誰の仲間で、誰の敵か、だれがどの組織に所属しているか、などということが、私にも読めてきた。そんなイメージが、何もないところから突如として立ち上ってくるなんて、まるで、死者たちが、やり残した仕事をするために戻って来たみたいに、ほとんど、怖ろしいといえるような経験でもあった。
真ん中あたりの列にはバーリ氏が座っているのが見える、うつむいて、鉛筆を手でもてあそびつつ、何か書いている。私の講義内容を書きとっているんだろうか、いや、それとも、単にそうしているふりをしているだけなんだろうか、私は悩ましく思う。ときどき、彼は面を上げ、私の方に視線を向ける、何か、パズルを解く、とでもいう感じで、そしてまた再びうつむいて、書きはじめるのだ。
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私のクラスの中で、最も急進派の学生たちは、はるかに後ろの方の列に座っている。一人の顔をはっきりと覚えている。マータブの顔だ。黒板をにらみつけるようにしながらも、自分の左右に座っている者たちのことをしっかり意識しながら、そんな、自意識にあふれる様子で座っている。彼女は色が黒くて、赤ん坊の時の肉付きが残っているような、さっぱりした顔つき、でも、何か諦めきったような悲しい眼差し。のちに知ることになるのだが、彼女は、イラン南部の石油の街、アバダンの出身だった。
そしてもちろん、ザーリンと、彼女の友達のヴィダについて語らねばならない。彼女たちは、最初の講義のときから、私の目を引いた、あまりにも周囲と雰囲気が異なっていたからだ、まるで、彼女たちは、この教室にいるべきではないような、それを言うなら、この大学のキャンパスにいるべきですらないような、そんな感じ。彼女たちは、当時の学生たちが、明瞭にそれぞれ分類されていたところの、いかなるカテゴリーにも入らなかった。左翼学生の男たちの口ひげは、上唇を完全に覆っていて、そこが、ムスリム学生の男たちと違っていた、彼らは、上唇と口髭の間に、きわめてわずかな隙間を残すよう手入れを怠らなかったのだ。ムスリム学生の中には、顎髭、いや、単なる無精ひげかも知れないが、を生やす者もいた。女の左翼学生は、カーキ色、あるいは、地味なグリーンの、大きくてダブダブのシャツ、それを、これまただぶだぶのズボンの上にはおっていたし、ムスリムの女子学生たちは、スカーフか、チャドルをまとっていた。これら二つの、絶対に混じりあわことのない川の間に、「ノン・ポリ(非政治的)」学生たちがいた、彼らは、ほとんど自動的に、全部「王党派」なんだ、とみなされていた。でも、本物の「王党派」さえ、ザーリンヴィダみたいに目立つことはなかったに違いない。
ザーリンは、色白で、デリケートな肌をしていた、溶けた蜂蜜のような色の目と、明るいブラウンの髪の毛、その髪の毛を、彼女は、耳の後ろに束ねていた。彼女とヴィダは、最前列の一番右側、ドアの近く、に座っていた。二人ともにこにこしていた。その様子は、少しばかりだが、無礼、にさえ感じられた、その、まるでパステル画みたいな、澄み切った雰囲気が。今や、あらゆる革命的主張を、投げ捨ててしまったはずの私さえ、彼女たちの、たたずまいには、驚かされたものだ。
ヴィダはもっと地味で、伝統的な勉強家、という感じだった、でも、ザーリンといっしょにいると、何らかの逸脱、制御を失う、といった危険に直面せざるを得なかったのだ。多くの他の「ノン・ポリ」学生と異なって、彼女たちは、自分たちが、「非・革命的」であることに対して、ちっとも、弁解がましいふるまいをしなかった、そんな風に自分たちを正当化する必要さえ、感じていなかったみたいだ。
「テヘランで『ロリータ』を読む」アザール・ナフィシ
(注)チャドルChador、というのは、ゆるやかな上衣のように、羽織る女性の衣装で、ペルシャ的伝統、シーア派の伝統のある地域で、用いられる、とのこと。
前回、「金のないユダヤ人たち」、マイケル・ゴールド、という作家とともに、「ローワー・イースト・サイド」を歩いてみる、で、マイケル・ゴールドを紹介した際に引用したが、アメリカでの学生生活を終えて、イランに帰国したのが、おそらく1978年、革命のさなか、テヘラン大学で、英文学を講じる職を得たのも、その同じ年か翌年あたりだろうと思われる、第一章「ロリータ」からは、十数年ばかり時間をさかのぼった回想、ということになる、第一章の「読書会」メンバーのうちの何人かも、まもなく登場するが、ここは、この教授が授業で取り上げていた「ギャツビー」をめぐる学生たち、イスラム派も、左翼も、そして「ノン・ポリ」も巻き込んでの、議論、「ギャツビー裁判」の、関係者を紹介する導入部、ということになろう、・・・、バーリ氏、は、「ムスリム学生協会」であったか、の活動家、「ギャツビー」を、「アメリカ帝国主義の退廃の象徴」として、非難する、いわば「検察官」の役割を担うことになろう、・・・、「ツーデ党」なのか「フェダイーン」なのか、明らかでないが、「極左派」の学生、マータブは、後に「学習会」のメンバーとなり、教授と長い付き合いをすることになるナスリンを、おそらく「オルグ」の目的で、この講義に連れてくる、・・・、マータブ自身も、長い空白をはさんで、教授と再会することになるのだが、それは、後ほど、・・・、そして、「ノン・ポリ」学生、にしか見えなかったザーリンこそが、「ギャツビー」の「弁護人」として、見事な弁舌を振るうことになるのだ。今日は、ここまで、ということで。
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There was a very brief period, between the time the Shah left on January 16, 1979, and Khomeini's return to Iran on February 1, when one of the nationalist leaders, Dr. Shahpour Bakhtiar, had become the prime minister. Bakhatiar was perhaps the most democratic-minded and farsighted of the opposition leaders of that time, who rather than rallying to his side, had fought against him and joined up with Khomeini. He had immediately disbanded Iran's secret police and set the political prisoners free. In rejecting Bakhtiar and helping to replace the Pahlave dynasty with a far more reactionary and despotic regime, both the Iranian people and the intellectual elites had shown at best a serious error in judgment. ...
Reading Lolita in Tehran/Azar Nafisi(Penguin Modern Classics)
1979年1月16日に、シャーが退陣したのち、2月1日にホメイニが帰国するまでの、ごく短い期間だが、ナショナリストの指導者のひとり、シャプール・バクティアル博士が、首相になった。バクティアルは、当時の反政府派の指導者たちの中で、おそらく、最も民主的な志向をもち、視野の広い人物だった、しかし、当の反政府派はと言えば、彼の側に立ってこれを支援するのではなく、ホメイニに同調して、彼を攻撃する方に回ったのだ。バクティアル博士は、就任後ただちに、イランの秘密警察を解散させ、政治犯を釈放した。バクティアル氏を拒絶することで、パーレヴィ王朝の圧政を、それよりもさらに反動的で独裁的な体制にとってかわらせることを手助けしてしまうことになったわけで、これは、控えめに言っても、イラン人民も、知的階層のエリートたちも、極めて深刻な判断ミスを犯したといってよい。・・・
「テヘランで『ロリータ』を読む」アザール・ナフィシ(ペンギン・モダン・クラシックス)

  • シャプール・バクティアルShahpour Bakhtiar/Shapour Bakhtiar(1914-1991)、イラン南西部、イスファハンIsgahanの西100kmほど、の、シャフレ・コルドShahrekord/Shahr-e Kord、この町の名は、「クルド人の村」という意味、に生まれる、有力部族の首長の家系、母方の祖父は、1910年代に首相を経験している、ベイルート、続いてパリで大学教育を受ける、全体主義への反対者として、「スペイン内戦」時には、「共和派」として活動、1940年にはフランス軍に志願、また、ブルターニュの、サン・ニコラス・ドュ・ペレムSaint-Nicolas-du-Pélem在住時には、フランスのレジスタンスとともに、ドイツ占領軍と戦った、1945年パリ大学法学部、から法学の学位、ソルボンヌから哲学の学位を取得、1946年、イランに帰国、1949年、社会民主主義系の「イラン党」加入、1951年、モサデク政権のもとで、労働副大臣、CIA主導のクーデター後の1950年代中葉は、シャー体制反対の地下活動に従事、1960年「第二期国民戦線Second National Front」創立に重要な役割を果たす、立憲君主制の枠組みのもとでの、穏健な抗議行動という戦術に限定していたにもかかわらず、シャー政権は、協力を拒み、「国民戦線」を非合法化、活動家の多くを逮捕した、1964年から1977年にかけて、バクティアルは、繰り返し投獄され、その期間は通算、6年間に及んだ、1978年末、シャー体制が崩壊的危機にあった中、バクティアルが、シャーから首相指名を受けたのは、主に、ホメイニ派からの攻撃に対して、譲歩を示すためであったとされる、「国民戦線」からの除名処分にもかかわらず、バクティアルが、この指名を受諾したのは、来るべき革命が、「共産主義者」と、「イスラムの強硬派」によって主導されることになるのを危惧したため、と言われている、革命後、イスラム共和国の革命法廷は、パーレヴィ一族、および、その政権で役職にあったものに対する一律の死刑判決を下した、この中には、バクティアルも含まれていたので、彼は、パリに亡命、1979年7月、政治亡命者の地位を取得、「イラン民族抵抗運動National Movement of Iranian Resistance(NAMIR)」を組織、1980年7月、バニサドル大統領下のイスラム共和国に対するクーデター計画に関与、これに対して死刑宣告を受ける、その後何度かの暗殺未遂をへつつ、1991年8月、パリ西郊、シュレーンSuresnesの居宅で、イスラム共和国の刺客と思しき人物に殺害された。
  • 「イラン党Iran Party」、1941年創立、モハマド・モサデクが1949年に形成した「国民戦線National Front」傘下の最有力組織として、「アングロ・イラニアン石油会社」国有化を支持、1953年の、CIA主導の、反モサデク・クーデター後は、弾圧を受け、1957年非合法化、1960年代から1970年代前半は、さまざまな紆余曲折を経るが、1977年には、「社会主義者同盟League of Socialists」、「国民党Nation Party」とともに、「第四期国民戦線National Front (IV)」を形成、ルホラー・ホメイニRuhollah Khomeiniのイラン帰国を要求、1979年初頭、当時の党書記長シャプール・バクティアルShapour Bakhtiarが、シャーにより、最後の首相として任命され、この党から閣僚も選出されたが、党は、この任命の受諾を「裏切り」とみなして彼を除名した、革命以降は、目立った活動を行わないままに、禁止処分を受ける。
  • 「イラン民族抵抗運動National Movement of Iranian Resistance/National Resistance Movement of Iran(NAMIR)」(1979-1991)、シャプール・バクティアルによって創設された、イスラム共和国体制に反対する亡命組織、メンバーには、リベラル派、保守派、民主的社会主義者、および、王党派、といった様々な潮流を含んでいた、パーレヴィ一族や、バース党政権下のイラクから資金援助を受けていたといわれる、また、この組織は、同じくイスラム共和国体制に反対する国外組織、の中では、「ムジャヒデン・ハルクPeople's Mujahedin of Iran(MEK)」や、1981年に罷免された革命後イランの第一代大統領、アボルハサン・バニサドルAbolhassan Banisadrの「イラン抵抗民族評議会National Council of Resistance of Iran」とは協力を拒み、シャー体制下の軍人によって創立された、王党派の「Azadegan Organization」とのみ同盟関係にあった。
  • 「イラン人民ムジャヒデン/ムジャヒデン・ハルクPeople's Mujahedin of Iran/Mujahedin-e-Khalq(MEK/PMOI)」、シャー・モハマド・レザ・パーレヴィの親米政権に反対する組織として、「イラン自由運動Freedom Movement of Iran」系の左翼学生を中心として、1965年に創立、1970年代には武装闘争を展開、シャー打倒のイラン革命において重要な役割を果たした、革命後は、中産階級インテリ層を支持基盤として、民主主義の確立を追及、1979年三月末の、「憲法制定国民投票」への参加を拒否したため、ホメイニは、マスード・ラジャヴィおよび、「MEK」メンバーの立候補を禁止、1981年初頭、イスラム共和国政府は、「MEK」を非合法化、多数を検束したため、地下潜行を余儀なくされる、1981年6月、イスラム共和国政権に反対し、アボルハサン・バニサドル大統領を支持する大デモを敢行、「MEK」は、イラン体制が「集会を妨害し、新聞を発行停止し、書店に放火し、選挙結果を操作し、大学を閉鎖し、政治活動家たちに対して、誘拐、収監、拷問を行っている」として非難、1983年、マスード・ラジャヴィは、イラク外相タリク・アジズTariq Azizと会見、イラン・イラク戦争において、イラク側に立って、イスラム共和国と戦闘状態にはいることを決定、1986年、イスラム共和国は、フランスに対して「MEK」本部を撤収させることを要求、これに伴い、「MEK」はイラク内に基地を設置、数度にわたって、イスラム共和国に対する作戦行動に従事、しかし、これは、祖国イラン内での大衆の反発を招き、その支持は低落した、イラン当局は、強硬な「MEK」支持者と思しき政治犯数千人を処刑、2002年、イランの「核開発」疑惑では、その情報源として関与、2003年、合衆国のイラク占領とともに、停戦協定を結び、武装解除。その主張は、「イスラムと、革命的マルクス主義との統合」、「シーア派の信仰と、複数政党制民主主義の共存」にあるとされる。
  • マスード・ラジャヴィMassoud Rajavi(1948-2003)、1968年、テヘラン大学法学部在学中に、「MEK」に加入、シャー体制下で、秘密警察SAVAKにより逮捕、死刑宣告、後、終身刑に減刑、イラン革命により釈放、1980年の第一回大統領選挙に、「イラン人民ムジャヒデン」から立候補、「人民フェダイーン」、「民族民主戦線National Democratic Front」、「クルディスタン民主党Democratic Party of Kurdistan」、クルディスタンのクルド人社会民主主義政党である「コマラ党Komala Party of Iranian Kurdistan」、および、1960年創立の「社会主義インターナショナル(第2インター)」系のグループ、「イラン社会主義者同盟League of Iranian Socialists」の支持を受けたが、ホメイニから、憲法への忠誠を欠いていることを理由に資格剥奪された、1981年、アボルハサン・バニサドル大統領罷免と同時に、大規模な弾圧が始まり、ラジャヴィと、バニサドルは、テヘランの空軍基地から、パリへと脱出、共同で、「イラン抵抗民族評議会National Council of Resistance of Iran (NCRI)」創立、1986年、イラン政府との合意により、ジャック・シラクのフランス政府が、「MEK」に対して国外退去処分、ラジャヴィをはじめとする数千人から一万人に及ぶ「MEK」メンバーが、イラクに迎え入れられたといわれる、イラン国境地帯に基地を建設、合衆国のイラン侵攻後、2003年以来、行方不明。
  • アボルハサン・バニサドルAbolhassan Banisadr(1933-2021)、テヘラン東南東200kmあたり、ハマダンHamadān/Hamedan生まれ、父親は、ホメイニとも親しい関係にあるアヤトラ(シーア派「十二イマーム派Twelver」の高位聖職者)、クルディスタン地方のビジャールBijarから、ハマダンに移り住んでいた、その父が1972年に死去したとき、イラクで行われた葬儀の席で、アボルハサン・バニサドルはホメイニにはじめて会見することになる、ソルボンヌで経済学を学び、1960年代初頭には、シャー体制に反対する学生運動に参加、二回投獄を経験、1963年の蜂起で負傷、このためフランスに避難、後に、ホメイニ率いる抵抗運動に参加、1979年2月、ホメイニとともに帰国、1980年1月、80%近い得票率をもって大統領に選出される、同年8月、1981年6月、国会の弾劾を受ける、理由は、宗教指導者の政治関与に反対したこと、また、「イラン人民ムジャヒデン/ムジャヒデン・ハルク」に支持を与えていたとの疑い、と言われている、彼への弾劾決議にホメイニが署名する前後から、「革命防衛隊Revolutionary Guard」は、バニサドル派の新聞に関与する人々や彼の知人たちを拘束、多くを処刑した、同時期、イラン政府は、「人民ムジャヒデンPeople's Mujahedin」、「フェダイーン・ハルクFadaian Khalq」、「ツーデ党Tudeh」など、およそ「イラン共和党Islamic Republican Party」以外のすべての政党を非合法化した、罷免後の数日間、テヘラン市内に、「人民ムジャヒデン」の援助を受けて潜行、「人民ムジャヒデン」、「イラン・クルディスタン民主党Democratic Party of Iranian Kurdistan/Kurdish Democratic Party of Iran(KDPI)」、「フェダイーン・ハルク(少数派)Fedaian Organisation (Minority)」など、反ホメイニ派を糾合して、権力奪還をはかったが、国外の王党派に接近することは避けた、1981年6月、彼は、「人民ムジャヒデン」の指導者、マスード・ラジャヴィMassoud Rajaviとともに、イラン空軍機に変装して搭乗、おそらくシンパの軍人が操縦したものであろう、トルコの空域に脱出したのち、パリに到着した、1981年10月、バニサドル、「人民ムジャヒデン」のラジャヴィ、および、「イランクルディスタン民主党」によって、「イラン抵抗民族評議会National Council of Resistance of Iran」が創立されたが、しかしほどなく、バニサドルは、ラジャヴィの、武装闘争路線に反対して決裂、1981年以来パリ近郊ヴェルサイユに居住、2021年10月、長らくの闘病生活ののち死去。
    イラン初代大統領、アボルハサン・バニサドル氏、パリで死去、享年88歳/2021年10月9日アル・ジャジーラ
  • 「イラン抵抗民族評議会National Council of Resistance of Iran(NCRI)」、1981年、アボルハサン・バニサドル、マスード・ラジャヴィによって創立、フランスのパリ、および、アルバニア、ティラナ、に本部を置く、2002年に、イランが秘密裡に核施設を建設していることを暴露、1997年、合衆国から「テロリスト団体」指定を受けていたが、2012年、解除、1993年以降は、ラジャヴィの妻、Maryam Rajavi(1953-)が、その代表を務めている。
  • 「イラン・クルディスタン民主党Democratic Party of Iranian Kurdistan/Kurdish Democratic Party of Iran(KDPI)、本部をイラク・クルディスタンIraqi Kurdistanのコイ・サンジャクKoy Sanjaq/Koysinjaqに置く、イラン内クルド人の左翼民族主義政党、クルド人の民族自決を、分離独立、ないし、連邦制下の自治権獲得の形で求め、イスラム共和国に対する武装闘争を行っている、1945年8月、マハバドMahabadで結成、翌1946年1月、クルディスタン共和国建国宣言、しかし、ソ連軍撤収後、1946年12月までに、パーレヴィ朝のイラン軍が、イラン・アゼルバイジャン、続いてマハバドに進攻、この共和国は短命に終わる、「KDPI」指導者は逮捕され、処刑、事実上、党は機能停止、その後、モハマド・モサデク政権下の1951年から1953年の間には、「ツーデ党」との協調路線を採用し、反シャー大衆運動の中で、勢力を盛り返したが、1953年の、CIA主導のクーデター後は、モハマド・レザ・パーレヴィが全権を掌握してしまった、1958年には、イラク・クルディスタンの「クルディスタン民主党Kurdistan Democratic Party(KDP)」との合同の寸前までこぎつけたものの、イラン秘密警察SAVAKによって、この計画は、破壊された、「KDPI」の残留党員は、「KDP」支持の姿勢を維持したものの、シャーが、隣国イラクの「ハシム家」政権を打倒すべく、「KDP」に支援を与え、その見返りとして、「KDPI」への援助停止を要求したため、関係は悪化、「KDPI」は、親KDPの指導部を排除し、新たに、共産主義派、民族主義派のメンバーを加えて党の刷新を図った、1967年には、18カ月間に及ぶ蜂起を実現したが、政府によって鎮圧された、1979年のイラン革命前夜には、他のイスラム派、マルクス主義派グループと連携して、シャー打倒の闘争を闘ったが、ホメイニ政権は、クルド人の要求を退け、「KDPI」をはじめとするクルド人政党に弾圧を加えた、イラン・イラク戦争期には、イラクから武器援助を受けることで、自治権拡大を試みたが、イラン政府から厳しい反撃を受けた。

    • 「1979年のイラン・クルディスタン蜂起1979 Kurdish rebellion in Iran」、革命後、当初は、「KDPI」をはじめとするクルド人各派は、イスラム共和国政権に協調的姿勢を採用したが、関係はたちまち悪化、シーア派のクルド人勢力や、いくつかの部族民勢力は、新政権に接近したものの、スンニー派の左派クルド人は、クルディスタン地方の根拠地を固めて民族自決闘争を継続、「KDPI」を中心とする急進派は、マハバド近辺から、イラン政府軍を追放して、若干の勝利を獲得したものの、1980年以降、「革命防衛隊Revolutionary Guard」による大規模な作戦行動で鎮圧された。
    • 「1989年から1996年の『KDPI』蜂起KDPI insurgency (1989–1996)」、1989年に、イラン政府の要員と疑われる刺客により、「KDPI」指導者のアブドゥル・ラーマン・カセムルAbdul Rahman Qassemlouが暗殺されたことに端を発し、クルド人勢力が、クルディスタンのイラン軍事基地を攻撃したものの、激しい反攻を受けた、また、イラン政府は、主導メンバーに対する、個別的な暗殺戦術を採用したため、これによって、同党は、もはや軍事的機能を失うに至り、1996年の、一方的停戦宣言により幕を閉じた。

  • 「ハシム家」Hashemites」、アラビア半島西部、紅海沿岸地帯に1916年から1925年に存在した、「へジャズ王国Kingdom of Hejaz」、1920年の「シリア・アラブ王国Arab Kingdom of Syria」、1921年~1958年の「ハシム家のイラク王国Hashemite Kingdom of Iraq」、そして、1921年から現在に至るまで、「ハシム家のヨルダン王国Hashemite Kingdom of Jordan」の支配階級エリートである王族。


クルディスタンKurdistan

トルコ、シリア、イラク、イランの、クルド人居住地域(CIAによる図面)/イラク・クルディスタン、KDP、PUK各支配地域

イラン、地方(Province)区分図
・・・
おやおや、「テヘランで『ロリータ』を読む」、を読み終わってからもうだいぶん経つのに、まだ、肝心の「ギャツビー裁判」の部分にたどり着かない、それに、今また、この、アザール・ナフィシ氏の著作を、「ニュー・オリエンタリズムだ」として、批判する、やはり、アメリカ在住イラン人アカデミシャンの著作、「ジャスミンと星、テヘランで、『ロリータ』とは違ったものを読むことJasmine and Stars: Reading More Than Lolita in Tehran」ファテメ・ケシャヴァルスFatemeh Keshavarz、出版元の名称から覗えるように、こちらの著者は、あるいは、もっと「イスラム派」に近いところに位置しているのかもしれない、「部外者」から眺めると、「噛み合っていない」論争にも見えるのだが、「第三世界」の「脱植民地革命」の失・敗・を、誰かが嘆・く・、すると、その「嘆き」の「話型」が、ことによると、「植民者」に身を寄せた、「パターナリスティック」なものに読めてしまったときは、その様に「嘆・か・れ・て・」しまった側は、やりきれない思いがする、そう、それは、どこかで?、こ・こ・で?、聞いたことのある話、「Same Old Song」なのだ、だから、「どちらが『正しい』か?」という場所には、身を置かないようにしようと思っている、・・・、

Jasmine and Stars: Reading More Than Lolita in Tehran/Fatemeh Keshavarz(Islamic Civilization & Muslim Networks)
というわけでまだ先は長いが、すでに字数オーバーが近づいているのでいったん終了、・・・、「学生運動」に「挫折」して、茫然と無為の日々を送っている頃に、遠く「イラン革命」の報が伝わってきたのだったと思う、多くの「左翼」がそうだったろうと思うが、「革命」というものは「共産主義者」がやるもの、と決めてかかっていた「私たち」は、困惑した、そして、「わからない」ものには、蓋をする、か、「わかっている」わずかな手掛かりから、「断定」して、切って捨てようとした、「ムジャヒデン・ハルク」が「イスラム的マルクス主義派」、「フェダイーン・ハルク」がもっと、純然たる「マルクス主義派」、ということは、当時もおぼろげながら知っていたから、それらを「支持」、と宣言しておけばよかった、・・・、アザール・ナフィシ氏自身も、西洋で教育を受けた「世俗派」のようだから、「私たち」の短絡的理解と、整合的な部分は多々ある、だからこそ「ベストセラー」にもなったのだろう、でも、そうやって、「安心」を与えてしまうところが、おそらく「ニュー・オリエンタリズム」でもあり得る、・・・、ムスリムであることと、世俗的共和制を求める革命派であること、その間で、葛藤する人々のそれぞれの「生きた」姿を、垣間見ることができたかも知れないから、私としては、とても満足しているのだ、・・・、というわけで、この項、まだまだ続く。



「アラバマの月」、なんて歌ってるけど、その人は、多分、行ったことがなかったはずだ、もちろん、私も、行ったことないけど(笑)。
「仲秋の名月」を前にして、一眼レフカメラが壊れてしまったのだ、そんなときに限って、このところ毎朝のように、シジュウカラ(シジュウカラ科)が、隣家の庭園を横切る電線上で、長々と歌ったりしてくれる、お金のことが心配なのもあるけれど、物が壊れてしまった時も、ちゃんと「服喪」の期間をもつべきなんじゃないか?って、まあ、半ば強迫的に考えたりして、だから、当分、カメラの無い暮らしに慣れてみよう、鳥の声が聞こえたら、まず、カメラを持ってこなくっちゃ、って思うんじゃなくって、肉眼でその姿を、ちゃんと、「味わえ」ばよい、月だってそうだ、・・・、でも、こんな見事な青空に、ぽっかりと、十日の月、十一日の月が浮かんでくれたりすると、ただ「見ている」だけでは、やっぱり「もったいない」と感じてしまう貧乏性なのかな、防水デジタルカメラでも、まわりが明るいときに浮かんでいる月ならば、おぼろげにうさぎさんの耳の形が分かるくらいには撮れる、ことがわかった、・・・、で、機嫌がよくなって、気が付いたら、
The Moon of Alabama,...
とか口ずさんでいて、でも、ベルトルト・ブレヒト氏は、ナチを逃れて渡ってきたアメリカで、今度は、「Un-American」だと指弾され、証言台に立たされ、追放されたのだったから、ハリウッドで仕事はしていただろうが、はて、「アラバマ」なんか、行ったことないんじゃないのかなあ?、などと考えがめぐり、だから、そうやって、中身とは何の関係もない(笑)、タイトルに選ぶことにした。
一日目は、潮目を読み間違えて、まだ全然引いていないときに、リーフを越えて波もやって来るし、でも、そんな中では、魚たち、とくに、「子供」たちが、岸にごく近い場所の穴やくぼみに、隠れて過ごしているんだな、ということを、知ることができて、もちろん、相手にとっては、せっかく休んでいるところに、どかどかと、踏み込んでいったわけだから、迷惑千万であろうけれども、・・・、翌日、今度は、間違えないように、なんとか、昼前の干潮の少し後、に到着、大きな台風が過ぎたあとだから、やはり、視界は良好で、ただ、もう、「仲秋」でもあることだし、水温も下がって、この、初めて見るクマノミ、トウアカクマノミ(スズメダイ科)というの、に思わず昂奮して長居していたら、歯の根が合わぬくらいに、冷え切って、文字通り、這う這うの体で、岸にたどり着くことになった、・・・、もう、「シュノーケラー」歴、二十年近くになるが、スズメダイ科のクマノミの仲間では、クマノミ、ハマクマノミ、これらは、ほぼ、毎年のように拝見する、ディズニー映画の「ニモ」のモデルになった、おそらく、一番「可愛い」とされているのであろう、カクレクマノミは、「ビギナーズラック」だったのだろうな、最初の年に、お会いすることができたのに、その後、ちっとも見かけない、そして、この、太い白と黒の帯が、図鑑を眺めながら、なんて奇天烈なデザインなんだろう、目立ちすぎるじゃないか、と訝っていたものだが、その、トウアカクマノミ、・・・、今まで見たことのないものを、見ることができた、っていうのが、どうして、そんなに「嬉しい」のかな?そんなことくらいで、「生きていてよかった」(笑)、なんておおげさに過ぎるんだろうけれど、ほら、ちゃんと、機嫌が直っている、のは、確かなのだった。


オヤビッチャ(スズメダイ科)、ヤエヤマギンポ(イソギンポ科)、アミアイゴ(アイゴ科)、アオスジスズメダイ(スズメダイ科)

シマハギ(ニザダイ科)

スズメダイ科の一種、オヤビッチャ(スズメダイ科)

クロッカス(アヤメ科)

キヘリモンガラ(モンガラカワハギ科)

ハマフエフキ(フエフキダイ科)・幼魚

マトフエフキ(フエフキダイ科)

マトフエフキ(フエフキダイ科)、コバンヒメジ(ヒメジ科)

モンツキアカヒメジ(ヒメジ科)

カンモンハタ(ハタ科)

スミツキトノサマダイ(チョウチョウウオ科)、コクテンサザナミハギ(ニザダイ科)

カンモンハタ(ハタ科)













トウアカクマノミ(スズメダイ科)、サンゴイソギンチャク(ハタゴイソギンチャク科)

ヤエヤマギンポ(イソギンポ科)

ゴマモンガラ(モンガラカワハギ科)

セイヨウミツバチ(ミツバチ科)、モンパノキ(ムラサキ科)

ハゼラン(スベリヒユ科)

旧暦八月十一日の月






Strange Fruit/Billie Holiday(1939)、「奇妙な果実」ビリー・ホリディ
「南部」の木には、奇妙な果実が実る
Southern trees bear strange fruit
葉には血が滴り、根もまた、血に染まる
Blood on the leaves and blood at the root
黒い身体が、「南部」の微風に揺られる
Black bodies swinging in the southern breeze
ポプラの木から、奇妙な果実が下がっている
Strange fruit hanging from the poplar trees
勇猛な「南部」の、しかし牧歌的な風景
Pastoral scene of the gallant south
飛び出した眼球、ゆがんだ口元
The bulging eyes and the twisted mouth
マグノリア(モクレン)の香り、甘く、みずみずしく
Scent of magnolias, sweet and fresh
だが、突然、焼けた肉の匂い
Then the sudden smell of burning flesh
カラスたちがついばむべき果実が、そこにあるのだ
Here is fruit for the crows to pluck
雨が、それを閉じ込め、風が、それを、包む
For the rain to gather, for the wind to suck
陽光は、それを腐らせ、木々の根元に、それは落ちる
For the sun to rot, for the trees to drop
奇妙な果実の、苦い収穫
Here is a strange and bitter crop
・・・
Billie Holiday(1915-1959)
私事にわたるが、「ジャズ喫茶」というものに、通い詰めていた高校時代から、この曲は馴染んでいたのに、こんな内容であるとは、今の今まで、ついぞ、知ることがなかった、レコードのジャケット、ライナーノーツや、ジャズの雑誌、どこかに書いてあったんだろうか?もうもうたる煙草の煙の中で、陰鬱な表情をして、身を揺らしていたあれらの隣人たちは、みんな知っていたんだろうか?不覚、と言うに尽きるが、それでも、こうして、遅まきながらでも、知ることができたのであれば、よしとすべきであろう。
リンチの情景を写真に収め、絵葉書にして販売する、ということが行われていた、という証言が、例えば、スパイク・リー「ブラック・クランズマン」の中にも、また、ウッディ・ガスリーの回顧の中にも、あったのも思い出した。
「国民の創生」と「風と共に去りぬ」の一シーンが、どうして引用されなければならなかったか?・・・「ブラック・クランズマン」、スパイク・リーは、その新作映画の中で、古典的ハリウッドの人種主義をたどる/デヴィッド・クロー2019年2月24日
今夜の「オールナイト四本立て」は(笑)、小津安二郎、溝口健二、ロベルト・ロッセリーニ、スパイク・リー、・・・
「先住民の存在を見えないものにしてしまうこと」に対して、アメリカ左翼が果たしてきた役割・・・この土地はいったい誰の土地だというのか?:ジョー・バイデンの就任式典で歌われたウッディ・ガスリーの歌をめぐる歴史/グスタバス・スタットラー2021年1月26日アル・ジャジーラ
「植民者」の末裔がそんなユートピア的逸脱にふけることができるのもまた、一つの「特権」なのだ・・・ウッディ・ガスリーの一つの歌をめぐって
・・・
The United States Of Amnesia/Robert Wyatt(1986)、「ユナイテッド・ステイツ・オブ・アムネジア/『健忘症』の帝国」ロバート・ワイアット
「アムネジア/健忘症」で思い出したので、付け加えておく、ロバート・ワイアットは、1945年生まれの、元「プログレッシブ・ロック」ミュージシャン、1980年代ごろから、反核、環境問題等に関し、活発に活動、「グレート・ブリテン共産党CPGB」党員、スクリッティ・ポリッティ、坂本龍一などとコラボレーション。



「1948年の占領地域」―イスラエル、「1967年の占領地域」―ヨルダン川西岸、ガザ、東エルサレム
shabab (youth)「シャハブ・青年」、フットボール・クラブの名称などにも用いられる言葉だが、ソマリアの「アル・シャハブ」をはじめとして、いくつかの武装組織も、この言葉をその名称に採用している。
شباب
13 shin 左接形ش
2 baa' 両接形ـبـ
1 'alif 右接形ا
2 baa' 単独形ب
High Follow-Up Committee for Arab Citizens of Israel、イスラエル内のアラブ系少数派を代表する、議会外の多党派組織、イスラエル当局から、事実上の認証を受けている。1976年3月30日の「土地の日Land Day」、土地の強制収容の動きに対して、イスラエル全土で、ゼネスト、デモ行進が行われ、イスラエル領内パレスチナ人の、最初の大衆蜂起として記念されている、その余燼冷めやらぬ1980年代初頭に、設立された。
Hirak (movement)、近年のアルジェリア、モロッコのリフのベルベル人地域、など、いくつかの運動の名称に、この言葉が採用されているようである。
حَراك
6 haa' 左接形حـ(アクセント記号を無視すれば)
2 raa' 右接形ر
1 'alif 単独形ا
22 kaaf 単独形ك
Second Intifada/Al-Aqsa Intifada(28 September 2000 – 8 February 2005)、キャンプ・ディヴィッドでの和平交渉の頓挫の後、アリエル・シャロンの「テンプル・マウント」、その近傍に「アル・アクサ・モスク」が位置する、への挑発的な訪問、に端を発する。

東エルサレム、旧市街、「テンプル・マウント」、「アル・アクサ・モスク」など、地図
First Intifada(8 December 1987 – 13 September 1993)、ガザのジャバリアJabalia難民キャンプ内で、イスラエル軍(IDF/Israeli Defense Forces)のトラックが、パレスチナ人労働者4人をひき殺した事件に端を発する、終結は、「オスロ合意」締結時。

ガザ地区、地図
Laylat al-Qadr/Night of Destiny、「ラマダン」、すなわちイスラム歴(厳格な太陰暦)第9月、最終の10日のうち、奇数番目の日、コーランが最初に天から贈られ、コーランの最初の一節が預言者モハンマドに明かされた日、と言われる。2021年の「ラマダン」開始は、下に見るように、グレゴリオ暦4月13日、この日は、東洋の「旧暦」では、旧三月二日に当たる、イスラム歴では、「新月」を「目視」観測によって決定することによる誤差かも知れないと思っているが、すると、最後の10日間は、旧四月一日に当たるグレゴリオ暦5月12日から遡る10日間ということになる、ここでも一日のずれができてしまうが、wikipedia記事Qadr Night、によれば、そのうちの「奇数番目」は、5月4日、6日、8日、10日、12日、とのこと。

Nakbaナクバ、英語で「disaster」、「catastrophe」、破局、悲劇、1948年のイスラエル建国に伴うパレスチナ人迫害を指す。
النكبة
‎Naksaナクサ、英語で「Setback」、後退、1967年「六日間戦争」で、ヨルダン川西岸と東エルサレム、ガザ、を、それぞれ、ヨルダン、エジプト、からイスラエルが奪い取った事態を指す。
النكسة
アラビア語アルファベット一覧表



季節風を用いて、アラビアやペルシア湾岸地域などから、商人たちが帆船に商品を積んでアフリカ沿岸の港町にやって来た。帆船が来航し取引が行われた港町は、現在のソマリア、ケニア、タンザニア、モザンビークなどの海岸線に沿って点在していた。北からの商船は、アラビアを離れたのちはどこにもよらずに真っすぐ目的地にやって来ることもあったが、通例は北の方から順番にいくつかの港に立ち寄り商品を売却した。すべての商品を売りきり、帰り船のための買い付けをおえるまで二、三か月、あるいはそれ以上かかることも多かった。そして、四月になって最初の弱い南西のモンスーン(季節風)が吹き始めると、あるいはそれ以降の時期に、アフリカの沿岸で仕入れた商品を積み込んだ帆船は、一路北へ帰っていく。船によってはいくつかの港に寄港しながら北へ向かうこともあったが、どこにも立ち寄らずアラビアに直航するときは、たとえば、タンザニア沿岸からアラビア半島東端のオマーンまでの三〇〇〇~四〇〇〇キロメートルの距離を三~四週間くらいで航海したと言われている。
「新書アフリカ史」宮本正興・松田素二(講談社現代新書)

直線距離で見ると、たしかに、ペルシャ湾の出口であるオマーンのマスカットから、たとえばザンジバルまで、4000km強、紅海の出口に当たるイエメンのアデンからなら、2500km弱、である、「三〇〇〇~四〇〇〇キロメートルの距離を三~四週間くらいで」、から一日当たりの航行速度を割り出すと、
3000/(3×7)=4000/(4×7)=1000/7≒143
上で見たように、「倭寇」の時代、100km/日、ダーウィンのビーグル号、150km/日、と比しても、妥当な数字になる。
・・・
なお、四~五世紀頃には、東南アジア方面からオーストロネシア・マライ系の人々がインド洋を直接に渡ってやって来て、東アフリカの海岸地方の一部に住むようになった。彼らの移動に伴なって、イネ、ココヤシ、バナナ、サトウキビ、イモ類などがアフリカに伝えられたとされる。彼らは一〇世紀頃に、東アフリカの海岸部地方からマダガスカル島へ移った。
「新書アフリカ史」宮本正興・松田素二(講談社現代新書)

Austronesian languages
以前、「プロスペロ・コンプレックス」から、マダガスカル、モーリシャス、「リンゼイ・コルン」という作家の名前の、おぼろげな記憶へ、で見たように、マダガスカル東方のインド洋上の島、マスカリン諸島Mascarene Islandsに属する、モーリシャスMauritius、レウニオンRéunionでは、「先住民」を構成するのが、オーストロネシア系で、たとえばこのリンゼイ・コルンの小説の登場人物の多くのように、少し下でも触れられるように、交易に従事した、ないし労働力として移入された、インド系が、「移住者」として多数を占めているようである。
・・・
八世紀半ばにバグダードを首都としてアッバース朝が成立すると、アラビア近海の海洋交易ルートもペルシア湾経由のルートが中心となった。このためアッバース朝期には、この交易ルートが通るペルシア湾岸地域やオマーンからやって来たアラブ系はペルシア系の商人が、東アフリカの港町に数多く見られるようになった。
・・・
一〇世紀後半以降、アッバース朝の力は衰えていき、一三世紀半ばには滅亡した。代わって、一〇世紀後半にはカイロのファーティマ朝が、後にはマムルーク朝などが力を伸ばしてくる。以後、海洋交易のルートもペルシア湾より紅海へとその重心を移してくる。そのため、紅海の出入口に位置したイエメン出身の商人たちが活躍することが多くなり、東アフリカ沿岸地方でもイエメン系の商人や船乗りが増えてくる。
「新書アフリカ史」宮本正興・松田素二(講談社現代新書)

これも、インド洋を「渡る」という想像から、「貿易風」、「偏西風」、「モンスーン」の研究、台風の季節に調べた「コリオリの力」がここでも役立つ(笑)、で見たが、「モンスーン」、アラビア語の「季節」、
موسم
に由来する言葉、原理は、「海陸風」と同じ、水の比熱が土の比熱より大きいことから、夏季は、陸上の放熱により上昇気流が生じ、地表面付近にできた空隙に、海上から風が吹き込む、つまり「海風」、反対に、冬季は、相対的に海の方が熱を保存しているので、海上に向かって陸から風が吹く、「陸風」、インド洋とユーラシア大陸、のみを要素として取り出せば、夏場は、「海」から「陸」へ、つまり「南風」、冬場は、「陸」から「海」へ、「北風」、おおむねは説明ができたことになろう。
・・・
この頃から一五世紀末にかけて、東アフリカではキルワのほかにもモガジシオパテラムマリンディモンバサなど、比較的小規模ではあったが海港都市が成長し、それぞれ交易活動で栄えるようになった。一四世紀半ばに東アフリカを訪れたイブン・バットゥータは、その旅行記の中で、モガジシオは大きな町でその住民は商人でたくさんのラクダをもっているとし、またキルワについても、それは大きな町でたいへん立派につくられており住民の多数はザンジュと呼ばれる黒人であると伝えている。どちらの都市もスルタンによって統治されていた。
「新書アフリカ史」宮本正興・松田素二(講談社現代新書)
キルワKilwa Kisiwani/Tanzania、モガジシオMogadishu/Somalia、パテPate/Kenya、ラムLamu/Kenya、マリンディMalindi/Kenya、モンバサMombasa/Kenya、下の地図参照
ザンジュZanj、中世のイスラムの地理学者たちが、東アフリカ「スワヒリ海岸」地帯の、バンツー系住民を指した用語、ザンジバルZanzibarの語源となった。
・・・
バスコ・ダ・ガマに率いられ、四隻一七〇人の陣容で一四九七年七月八日にリスボンを出帆したポルトガル艦隊が、喜望峰を回りインド洋に入ったのは十一月二十二日のことであった。三隻になっていた艦隊は沿岸をゆっくりと北上した。途中からスピードを上げた艦隊は、翌四月四日にキルワを通過し、モンバサに立ち寄ったのち四月十三日にはマリンディに到着した。
・・・
当時の記録は、艦隊が停泊したモザンビーク島近くのある港での交易活動の様子を次のように紹介している。その土地の住民は、赤っぽい色の肌をしたイスラーム教徒で「彼らは商人であり肌の色の白いモーロ人たちと貿易を行っている。その時もモーロ人の船が四艘港にいて、金、銀、布地、丁子、胡椒、生姜、たくさんの真珠、小粒の真珠、ルビーのついた銀の指輪などを積んでいた。・・・これらの品々はすべて船で運ばれ、金を除けば全部モーロ人が持ってきたものである」、彼らはモーロ人の言葉を話した。
「新書アフリカ史」宮本正興・松田素二(講談社現代新書)
モザンビーク島Mozambique Island/Mozambique、下の地図参照
フランス語maure、スペイン語moro、ポルトガル語mouro、英語moor、それらが派生してきた元は、ラテン語のmauri、北アフリカ、マグレブ地方居住の、ベルベル人に対して与えた呼称で、その地域、今日のアルジェリア、北部モロッコ、リフ山脈以北を、「mauriの土地」という意味で、Mauretaniaと呼んでいた。現在のモーリタニアは、名辞上はそれを継承しているが、位置としては、サハラ以南西アフリカになる。言葉の常として、それがヨーロッパで汎用されはじめると、より広く、「黒人」を指す言葉となったようである、これも前に見たが、シェークスピア「オセロThe Tragedy of Othello, the Moor of Venice(1603)」の副題は「ベニスのムーア人」であって、これは、当時、反スペイン・カトリックで利害が一致していた大英帝国とイスラム世界との間に交渉があり、ロンドンに、モロッコ大使が来訪した事件が話題を呼んで、シェークスピアはそれに触発された、と言われている。それに先行する「ヴェニスの商人The Merchant of Venice(1596/1599)」にも、求婚者の一人としてモロッコ王子が登場するけれども、その描き方が対照的であることが、シェークスピアその人が、「ムーア人」を、「見た」ことがあるか否か、に由来しているのだろう、と思うと興味深い。ヘミングウェイ「誰がために鐘は鳴る」などで、「残虐さ」の代名詞の如く描かれている「ムーア人」は、フランコが植民地モロッコから導入したおそらく、ベルベル人、あるいはアラブ人兵士、であったろう、サン=テクジュペリ「人間の土地」などで、彼が、現・西サハラの飛行場長として、実際に接触した「現地人」は、堀口大学訳では、「モール人」となっていた記憶があるが、おそらくフランス語maure、だったのだろう、そして、アンネ・フランクが、隠れ家に移動するにあたって、手放さなくてはならなくなった子猫の名前が、「モールチエ」、オランダ語の「ムーア」に当たる言葉に「縮小辞」が付されたものであるらしいことから、なるほど、こいつは、「黒猫」だったのだな、ということがわかるのだ。ポルトガル人が、やがて東南アジアに進出し、そこで出会った「原住民」を「ムーア人」のようだ、と形容したからだろう、たとえばミンダナオ島のムスリムが、自らのことを「モロMoro」と呼ぶようになった、「名前」というものが、本質的に、当然にも、「他者」から、「呼ばれる」、「名づけられる」ものである、ことを如実に表している、とも言える。
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ポルトガルの艦隊は、一五〇九年にインドのディウの沖合でエジプトなどイスラーム側の連合艦隊を破り、以後、インド洋交易の支配権はポルトガルの手に移った。
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モンバサを支配下に置いたポルトガルは、そこをモザンビーク以北の沿岸部における拠点とすべく一五九三年に、要塞(現在のフォート・ジーザス)の建設にとりかかった。
「新書アフリカ史」宮本正興・松田素二(講談社現代新書)
ディウDiu、ムンバイの北西300km、湾をはさんだ対岸、これも下の地図参照、地理的には、Gujarat州内部に位置するが、「Union territories/Dadra and Nagar Haveli and Daman and Diu」という行政区分内にある。「Union territories」は日本語訳では「連邦直轄領」となっている。対岸のムンバイMumbaiはマハラシュートラ州Maharashtra。

フォート・ジーザスFort Jesusは、モンバサ市内の海岸沿いにある。
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東アフリカでは一七世紀の終わりにかけて、ポルトガルの勢力が後退し始めた。イギリスなどの進出はまだ先のことであった。こうした転換期の東アフリカで勢力を伸ばしてくるのが、アラビア半島東部に位置したオマーンであった。
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さて、一九世紀に入るとエジプトの政情は安定し、紅海経由の通商ルートも復活してくる。しかもこの時期のペルシア湾では、イギリスの活動が強まりつつあった。オマーンはペルシア湾経由の通商で得ていた利益や権益の多くを次第に失っていく。
サイイド・サイード(在位一八〇六年頃~五六年)の治世の始まりは、オマーンのペルシア湾通商が衰えていく時期と重なった。
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支配下に置いた東アフリカで、サイードは通商活動の掌握に努め、同時に沿岸部各地に税関を設け関税収入の確保を図った。この時期に、沿岸部港町を結ぶ通商がいっそう盛んになった。
またサイードは、ザンジバルの開発にも努め、通商以外の経済も育成しようとした。一八二〇年代ザンジバルに導入されたクローブ(丁子)の木は、サイードの統治下でひろく栽培されるようになり、輸出され多くの利益をもたらした。当時「ザンジバルで笛吹けば、湖岸の人々踊りだす」と言われたように、ザンジバルは東アフリカの通商の中心となり、その影響は通商ルートを通ってタンガニーカ湖やビクトリア湖まで及んでいた。
「新書アフリカ史」宮本正興・松田素二(講談社現代新書)
clove丁子/丁字、フトモモ科チョウジノキの、花蕾、インドネシア、モルッカ群島原産、乾燥させたものの色や形が「釘」のようであることから、中国語で「釘」と同義の「丁」が当てられ、同じくフランス語「釘/clou」が変化して、「clove」

ザンジバルZanzibar/Tanzania、タンガニーカ湖Lake Tanganyika/Tanzania,Democratic Republic of the Congo,Burundi,Zambia、ビクトリア湖Lake Victoria/Tanzania,Kenya,Uganda
いつも間違える、ヴィクトリア湖は、タンザニア、ケニア、ウガンダにまたがる湖、もちろん、イギリス植民地主義者が自分の国の女王にちなんで命名したのだから、「混乱」も当然だが、ヴィクトリア・フォールVictoria Falls、は、ザンビア、ジンバブウェ国境のザンベジ川Zambezi Riverの巨大瀑布、チヌア・アチェベが、ナイジェリア独立後間もない1960年、アフリカ各地を旅する、北ローデシア、現ザンビアのリヴィングストンに一泊して、バスに乗って、見物に行くのが、ヴィクトリア・フォール、この時、うっかり間違えて、「白人専用座席」に座ってしまったものの、車掌に命ぜられるままに移動することを拒否、目的地に到着するや、「黒人席」の、乗客たちから、賞賛をもって迎えられた、という、少し、美しく、少し悲しくもある、エピソードが、「トラベリング・ホワイト」、なのである↓
白人として、旅をすることTraveling White/チヌア・アチェベChinua Achebe(1989)
ちょうどこの記事の中に、「注」として、タンザニア独立をめぐる略史も触れられている。

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インド洋交渉史は、暗い影の部分をもつ。アフリカの歴史に深い傷跡を残した奴隷貿易の歴史である。東アフリカの奴隷貿易は長い歴史があり、紀元前から行われていたものと思われる。奴隷売買は多額の利益を生んだため、人を捕まえ売り買いするという非人道的な行為にもかかわらず、奴隷貿易は止むことなく続けられてきた。
奴隷たちは、一八~一九世紀には、内陸部やアビシニア(エチオピア)高原から海岸部の港町に連れてこられ、そこから船で運ばれていった。イスラーム法はイスラーム教徒を捕まえて奴隷にすることを禁止している。イスラーム化を経て、東アフリカの沿岸部ではイスラーム教徒が多くなっていたため、奴隷供給地はまだイスラーム化が進んでいなかった内陸部へと延びて行った。またキリスト教徒が多いアビシニア地方も、有力な奴隷供給地であった。ザンジバルが東アフリカの通商の中心となってくるのにしたがい、多くの奴隷たちがザンジバルを経由して西アジア地域やインドなどへ運ばれていった。モザンビークからブラジルへ送られた奴隷を除いては、アメリカへ送られることは少なかった。
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一八世紀後半以降、東アフリカの奴隷貿易に変化が現れてくる。まず一八世紀半ば以降、フランスの植民地モーリシャスやレユニオン島でコーヒーやサトウキビなどの大農園開発が進み、労働力として多数の奴隷が求められるようになる。続いてザンジバルでも、サイイド・サイードの時代に広まったクローブ栽培の労働力として、数多くの奴隷が働くようになった。一八五〇年代末のザンジバル島ペンバ島についての推計では、総人口約三〇万人のうち二〇万人が奴隷であったと見積もっているものもあるほどである。
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東アフリカのインド洋交渉史の中で無視できない役割を果たしたもう一つのファクターとして、インド人を挙げなければならない。
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とはいえ、ポルトガル人がやって来るまでは、インド以西のインド洋通商では、アラブ人をはじめとするイスラーム教徒が中心になっていた。
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そうした状況の中で、ポルトガルの支配はインド人にとって有利な状況を作り出した。インド洋でのポルトガルの本拠地はゴアディウなどインドに置かれた。通商ルートはインドを中心にインド洋沿岸の各地へ伸び、インドの産品も各地に運ばれた。新しく作られた通商体制の下で、通商活動を認められるようになったインド人たちは、ポルトガル支配下の港町で活動を強めていった。
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しかし一七世紀後半以降、東アフリカからポルトガルの勢力が追われ、代わってオマーンの勢力が伸びてくると、イバード派イマームやアラブ人の統治下でインド人の活動範囲は狭められた。・・・インド人たちが、東アフリカで再び活躍するようになるのは、サイイド・サイードの時代になってからのことである。世俗的な統治者であったサイイド・サイードの下で、ヒンズー教徒やシーア派のインド人にとっても活躍の機会が増えたからである。
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一九世紀半ばには、ホージャと呼ばれたシーア派のインド人も増えてくる。・・・彼らのほぼすべてはインドから直接やって来た。ザンジバルの経済的発展が彼らを引き付けた主因であろうが、インドとの交通が改善されてきたことや、シーア派マイノリティとして彼らがインドで置かれていた立場も、移住の背景として無視できないであろう。
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インド洋では蒸気船の時代が始まり、スエズ運河が開通し通商ルートも変わっていく。帆船に代表された、旧来の貿易の時代は終わろうとしていた。本土と別れ、通商活動の主役の座を降りたザンジバルは、次第にイギリスの支配下に入って行く。ザンジバル領だった大陸側の沿岸部地域は分割され、イギリス、ドイツ、イタリアの支配下に入り、そしてザンジバル自体も一八九〇年、イギリスによって保護国化された。
「新書アフリカ史」宮本正興・松田素二(講談社現代新書)
ペンバ島Pemba Island/Tanzania、下の地図参照。
ゴアGoaは、インド西海岸の州の名、ムンバイのあるマハラシュートラ州の南。

イバード派Ibadi Islam、オマーン、アルジェリア、チュニジア、および東アフリカに存在するイスラム教の一宗派、スンニー派とシーア派への分裂に先立って、多数派から離れたハワーリジュ派Kharijitesに始原する。
ホージャKhoja、インド亜大陸に居住する、シーア派イスマイル派Isma'ili Shiaイスラム教徒。
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スワヒリという語は、海岸地方を意味するアラビア語のサワーヒル(単数形はサーヒル)から派生したものである。そのことが示しているように、スワヒリの文化は、アラブ商人などが住んでいた沿岸の島嶼部などにあった港町に生まれた。スワヒリ文化の担い手であるスワヒリと呼ばれる人たちは、本来は、沿岸部の港町に住み、出自においてアラブ系またはシラジ系との意識をもつ人々である。彼らはイスラーム教徒であり、彼らのもつ文化や生活様式にはイスラームの強い影響がみられる。スワヒリ語自体にも、アラビア語などを起源とする外来の語彙が多く含まれているように、アラブなど外来文化の影響も認められる。また、スワヒリの文化は、都市的な、商業的な色彩をもっている。
「新書アフリカ史」宮本正興・松田素二(講談社現代新書)
「海岸地方を意味するアラビア語のサワーヒル」↓
سَوَاحِل
12 siin 左接形س(アクセント記号を無視すれば)
27 waaw 右接形ـو(アクセント記号を無視すれば)
1 'alif 単独形ا
6 haa' 左接形حـ(アクセント記号を無視すれば)
23 laam 右接形ل
「シラジ系」、Shirazi people、アフリカ東海岸、「スワヒリ海岸Swahili coast」および、沿岸島嶼部に居住する人々、ザンジバル、ペンバ、および、コモロComorosに多数居住している。アフリカ東海岸沿岸部に広く伝わる伝承によれば、ペルシャの王子とスワヒリの王女の婚姻によって生まれた子供の子孫、とのことだが、現代の人類学はこれを否定している、という。ペルシア由来の慣習、シーア派の伝統の欠如が、その根拠とされる。言語的には、スワヒリ語の方言を使用しており、従って、言語民族的区分としては、ニジェールコンゴ語族Niger–Congoバンツー諸語Bantuスワヒリ語Swahiliに該当することになろう。

マダガスカル、コモロ、マスカリン諸島

アフリカ大陸、言語民族の大区分図

V.S.ナイポール/V. S. Naipaul(1932-2018)、トリニダード・トバゴ生まれのインド人、本人の調査によれば、その家系は、ヒンズー教徒、バラモンの階層であったという、「河の湾曲部A Bend in the River」の冒頭、「東アフリカ」の「インド洋文化」について語っている部分を、訳出しておいた、・・・、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェChimamanda Ngozi Adichie(1977-)が、「アメリカーナ」の中で、皮肉たっぷりに、インド人としての、ヨーロッパに対するコンプレックスを、アフリカの植民地からの独立の「失敗」を嘆く身振りを採用することで、昇華しているに過ぎない、という風に、批評していたから、タダで読める冒頭の部分だけを読んでみたにすぎないが↓
「プロスペロ・コンプレックス」から、マダガスカル、モーリシャス、「リンゼイ・コルン」という作家の名前の、おぼろげな記憶へ
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ノーベル文学賞受賞者の、Abdulrazak Gurnah(1948-)、という人が、タンザニアのザンジバル生まれ、のイギリスの作家、であることを知り、さっそく安く手に入るのはないかなと、アマゾンに問い合わせたら、そんな「浅はかな」(笑)人々が、「世界」にはたくさんいるようで、品薄で高値がついているようで、とても手が出ない、kindle版の「試し読み」コーナー、冒頭だけでも読んでみようか、・・・、その前に、タンザニア独立、そもそもタンザニアという国名は、内陸部、タンガニーカ湖の周辺のタンガニーカTanganyikaと、海岸から少し離れた島嶼部ザンジバルZanzibar、の連合国家としてつくられたものなのだが、その1964年の独立、ユリウス・ニエレレ率いるところの独立には、ザンジバルにおける革命Zanzibar Revolution、が先行していたようで、この地のアラブ系の王朝が、打倒された、・・・、その混乱の中で、この作家は、1967年であったか、イギリスに向けて、難民として出国するのである、タンザニア、ザンジバルの歴史を瞥見してみようと思い立ち、引用しはじめたら、なかなか長くなってしまった。

Afterlives(2020)/Gravel Heart(2017)

Admiring Silence(1996)/Memory of Departure(1987)
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ザンジバルは1963年、イギリスから独立を果たすが、その、独立に先立つ選挙で、これまでのオマーンの海外領時代の支配階層であった、人口的には少数派のアラブ人が、ゲリマンダリング等の手段をも用いて、権力を保持し続けたことに対して、主にアフリカ系住民からなり、アフリカ民族主義、マルクス・レーニン主義を標榜する「アフロ・シラジ党Afro-Shirazi Party (ASP)、アラブ系で、おそらく、アラブ社会主義、ナセル主義の傾向と思われる「ウンマ党Umma Party」とが共同して、1964年1月12日に、蜂起、警察署を襲撃して、武器を奪取、スルタンとその政府を打倒した。
この革命の前まで、ザンジバルは、スルタンの支配する立憲君主国であり、その人口構成は、シラジ系を含むアフリカ人が、23万人、これに対して、アラブ系5万人、南アジア系2万人、であったとのこと。このwikipediaの記事Zanzibar Revolutionには、アラブ系の支配層、かつての奴隷所有者たちが、アフリカ人議員たちに対してさえ、いかに侮蔑的な物言いをしたのかが生々しく記録されているが、革命後に引き続いた、アラブ系、また、そのもとで就業していたものが多かったからであろう、インド系の住民に対する、報復的な「モブ・バイオレンス」によって、推計はまちまちであるようだが、数百ないし2万人が殺害された、という。
アブドルラザク・グルナAbdulrazak Gurnah氏、の「民族的」出自は、wikipediaでは明らかではないが、それはもちろん、存命の人物に対して、本人が明らかにしているのではない限り、それを云々すべきでないのは当然であるが、・・・、この「ザンジバル革命」の余燼冷めやらぬ頃、と言えるだろう、1967年に、彼は、イギリスに向けて出国している、というその事情から想像するに、アラブ系、あるいは、インド系だったのではないか、と思われる。決して「自伝的」と言うわけでもなさそうな作品であるが、また、冒頭を少し読んだ限りであるが、「Afterlives(2020)」という作品の語り手は、インド、グジャラート州Gujarat出身のムスリムで、ザンジバルと思しき土地に、地主の会計係として、働きに出てきているのだ、地主の名前も記されていたが、アラブ系なのかどうかは、もちろん素人にはにわかにわからない、時代背景が、この一帯が、ドイツの植民地支配下にあったようであるから、ダル・エス・サーラムを首都として、「ドイツ領東アフリカGerman East Africa/Deutsch-Ostafrika」が存在していたのが、1890-1918、とのことだから、あるいは、この語り手を、作家自身の父親を投影しているもの、と「曲解」することも可能なのである。それでは、少しだけ、読んでみましょう!

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ほとんど無関係、であるにもかかわらず、「ザンジバル」という名前からただちに思い出されるのが、ドゥシャン・マカヴェイエフの映画、「モンテネグロ」(1981)、・・・、いつ観たんだったろう?わざわざ沖縄まで捨てずに持ってきた、下に掲げたチラシには、今もあるのだろうか?、池袋「文芸座」の名前が入っているけれども、どうだったか、神戸の震災直後の「日記」めいたもの、によれば、1995年の5月ごろに、大阪のマイナーな映画館で、「ゴリラは真昼に水浴すGorilla Bathes at Noon(1992)」の日本公開に合わせて特集が組まれたらしいが、多分、それ以前に、一度、観ている。つまり、ソ連「崩壊」の余波で、ユーゴスラヴィアの「分裂」、戦争の予兆が迫っていただろう頃に、だから、すでに、新聞などで頻繁に目にするようになっていたであろう、その一小国の国名を冠した、この作品に出会ったわけで、もっとも、当然にも、この、ほとんど常に「荒唐無稽」である、この監督の作品の例にもれず、「モンテネグロ」は、舞台となるスウェーデンに、移民としてやってきた主人公の一人の、ユーゴスラヴィア人の男が、苦し紛れに採用した「偽名」に過ぎないわけで、もちろん、苦し紛れに採用する「偽名」であるからには、この男が、実際にモンテネグロ人、モンテネグロ出身者、であるのかもしれないが、それは、映画の「プロット」とは、やはり、何の関係もないようにできている。最後に流れるテーマ曲、マリアンヌ・フェイスフル「ルーシー・ジョーダンのバラード」が、とても、印象に残って、後日、輸入物のLPが、安く手に入ったので、繰り返し聞いた記憶がある。「37歳になって、彼女は、もう、自分が、パリの街路を、スポーツカーで走り抜けることは、絶対にないだろう、ということを知った」、という歌詞が、奇しくも、ちょうどその年齢であったから(笑)、「身につまされた」だけのことだったことだろうけれど、・・・、「人生」は、
(i)自分は、なんにでもなれる、と思っている
(ii)自分は、なんにでもなれる、訳ではないことを知り、焦燥にとらわれる
(iii)自分が、結局、なんにもなれなかった、ことがわかり、その事実と折り合いをつけるために、苦闘する
(iv)そして、ついぞ、なにものでもなく、まもなく終わってしまう「人生」を、寛恕できるようになる
という「フェイズ」を経過するものなのだが(笑)、まだ、(ii)から(iii)への移行の「相」にあったのだろう、マリアンヌ・フェイスフルのこの歌は、今wikipediaに問い合わせると、アメリカのある詩人の作品、おぼろげに聞き取れる歌詞からも、都市近郊で何不自由なく暮らす「プチ・ブル」の「主婦」の「ナーヴァス・ブレイクダウン」を描いているらしいことは、当時も、理解できた、実際にあった、何か「猟奇的」な事件に取材したものだ、と思い込んでいたが、それは、マカヴェイエフ監督の、おそらくは「トリック」、「この作品は、実際の事件に取材したものです」なる末尾の字幕に、うまうまと引っ掛かってしまったからなのだろう、フェイスフルの歌の発売が1979年だというから、マカヴェイエフ監督が、そこから着想を得た、というのが、実際のことの次第であったかもしれない。屋根の上で、大声で叫んでいたルーシー・ジョーダンが、突如現れた「王子様」にエスコートされて、群衆が見守る中、白いリムジンで走り去る、という部分は、今調べると、フェイスフル自身の解釈では、救急車で精神病院に収容される事態を暗示しているとのこと、なるほどね。マカベイエフ作品の主人公の一人の「主婦」も、やはりアメリカ人という設定で、やはり心を病んでいて、・・・、都市の一角、ユーゴスラビア移民が集住する、おそらく「貧困」地域であったろう、に紛れ込み、「モンテネグロ」なる男と出会うのが、「Zanji-Bar」なる、「バー」なのであった。そんな些末なことが記憶に残っているのは、もちろん、当時から、「Zanjibar」が、タンザニア沖の島で、その地方政権を「共産主義者」が占めていて、「東側」と友好関係にある、といった知識が、あったからなのだろう。ストックホルム、なのかな、の町はずれの「ユーゴスラビア」移民のたむろする、「ザンジバル」という名前のバー、「モンテネグロ」と名乗る人物、・・・、「西側」の観客の目には、いやが上にも、「第三世界」性を、醸し出すような仕掛けを、この、「東側」の限りなく「第三世界」に近かった国の映画作家が、どんな「意図」で、採用したのか、なんて、もちろん、もはや、知るよしもないが。

Montenegro/Dušan Makavejev(1981)
The Balld of Lucy Jordan/Marianne Faithfull
The Balld of Lucy Jordan/Marianne Faithfull(1979)
The morning sun touched lightly, on the eyes of Lucy Jordan...
In a white suburban bedroom, in a white suburban town.
As she lay there 'neath the covers, dreaming of a thousand lovers...
Till the world turned to orange, ane the room went spinning round.
At the age of thirty-seven, she realized she'd never, Ride through Paris in a sports car, with the warm wind in her hair.
So she let the phone keep ringing and she sat there softly singing...
Little nursery rhymes she'd memorized, in her daddy's easy chair.
Her husband, he's off to work and the kids are off to school,
And there were, oh, so many ways for her to spend the day.
She could clean the house for hours, or rearanging the flowers...
Or run naked through the shady street, screaming all the way.
At the age of thirty-seven, she realized she'd never, Ride through Paris in a sports car, with the warm wind in her hair.
So she let the phone keep ringing and she sat there softly singing...
Pretty nursery rhymes she'd memorized, in her daddy's easy chair.
The evening sun touched gently, on the eyes of Lucy Jordan...
On the roof top where she climbed when all the laughter grew too loud.
And she bowed and curtsies to the man, who reached and offered her his hand,
And he led her down to the long white car, that waited past the crowd.
At the age of thirty-seven she knew she'd found forever...
As she rode along through Paris with the warm wind in her hair...
ルーシー・ジョーダンの目に、朝日がやさしくそそぐ
郊外の街の、郊外の街っぽいベッドルーム
シーツにくるまって、彼女は、何千人もの恋人たちの夢を見る
世界はオレンジ色になって、部屋はぐるぐる回りだす
37歳になって、彼女は、もう、自分が、生暖かい風を髪に受けながら、パリの街路を、スポーツカーで走り抜けることは、絶対にないだろう、ということを知った
だから、彼女は、電話を鳴りっぱなしにさせて、そこに座り込んだまま、お父さんの肘掛椅子の上で覚えた、短い子守唄をつぶやき続ける
夫は仕事に出かけ、子供たちは学校
ああ、一日をつぶすために、なんてたくさんの方法があるの?
何時間もかけて部屋のお掃除をしてもいいし、花を生け直してもいい、それとも、裸で街を、叫びながら走りぬけましょうか?
37歳になって、彼女は、もう、自分が、生暖かい風を髪に受けながら、パリの街路を、スポーツカーで走り抜けることは、絶対にないだろう、ということを知った
だから、彼女は、電話を鳴りっぱなしにさせて、そこに座り込んだまま、お父さんの肘掛椅子の上で覚えた、かわいい子守唄をつぶやき続ける
夕日が、ルーシー・ジョーダンの目に、やさしくそそぐ
彼女は屋上にのぼって、すると、笑い声が、耐えがたいほど大きく聞こえて来て
手を差し伸べてくださった男性に、彼女はお辞儀をしてあいさつをする
彼は、白くて長い車に案内してくれて、その車はゆっくり、群衆の間をすり抜けていく
37歳になって、彼女は、もう、自分が、生暖かい風を髪に受けながら、パリの街路を、スポーツカーで走り抜けることは、絶対にないだろう、ということを知った
・・・


「三大陸周遊記抄」イブン・バットゥータ (中公文庫)
Ibn Battuta(1304-1368/1369)、モロッコ、タンジェ生まれのイスラム法学者、ベルベル人の系譜を引く、といわれている。
二二歳のとき、聖地メッカの巡礼を志して故郷を出てから、未知の世界にあこがれるままにアフリカから西アジヤ、南ロシア、バルカン半島、中央アジヤ、インドをへめぐり、遂にスマトラを経て、福建の泉州に上陸し、北京にまできたといっている。さすがに故郷がなつかしくなってモロッコに戻っていったのは一三四九年で、その四六歳のときであった。足かけ二五年間の長い長い旅だったが、それから後もスペインのグラナダと、サハラ砂漠の奥のニジェル河畔まで赴き、一三五四年の初めにファーズ(フェズ)に帰着した。
・・・
その数奇な生涯を記録に残しておきたいと望んだのは、かれ自身というよりもむしろモロッコに君臨していたマリーン朝のアブー・イナーン王の方であった。書記に命じて、その口述するところを筆記させ、さらにこれを宮廷にいたムハンマド・イブン・ジュザイイに命じて整理させた。初めの口述が終わったのが西紀一三五五年一二月九日で、イブン・ジュザイイはこれをもとに、繁雑なところは省き、ところどころに自分の意見を書き入れなどして、三カ月足らずで終わったという。
「三大陸周遊記抄」イブン・バットゥータ (中公文庫)、「訳者解説」
List of places visited by Ibn Battuta

「旅行記」、全旅程、マルコ・ポーロと鄭和の旅程も、描き加えられている/1325年から1332年の旅程

1332年から1346年の旅程/1349年から1354年の旅程
Marco Polo(1254-1324)、ヴェネチア生まれの商人。著書、「東方見聞録/The Travels of Marco Polo(1300)」。
郑和/鄭和/Zheng He(1371-1433/1435)、雲南省昆明の、ムスリムの家庭に生まれる。明の永楽帝の下で、大航海の指揮。

英文は、ケンブリッジ大学の蔵書の写真版から頂戴した、19世紀の初頭に英訳されたものらしい、・・・、アラビア語の原典から、それぞれ、英語、日本語に訳されているのだし、原典の版本も異なるかもしれない、それに、この中公文庫版は「抄」、なのだから、齟齬があっても当然だろう、その「齟齬」をあげつらうのも(笑)、閑人としては、興味深いので、以下は、英文、「中公文庫」訳文(青色フォントで表示)、拙訳、の順で並べてみる。アラビア半島南部、「ヤマン」、現・イエメン、の国から、アフリカ東海岸を南下し、「サワーヒル」の国、キルワで引き返し、今度は、「アマン」、現・オマーン、の国へ、その記述が含まれているのは、英文版では、第9章、であった。
・・・
(1)I then went from Aden by sea, and after four days came to the city of Zaila. This is a city of the Berbers, a people of Soudan, the Shafia sect. Their country is a desert of two months' extent. The first part is termed Zaila, the last Makdashu. The greatest part of the inhabitants of Zaila, however, are of the Rafiza sect. ... I then proceeded by the sea for fifteen days, and came to Makdashu, which is an exceedingly large city.
アデンから船路四日でザイラアの町に着いた。ベルベラの首府で、住民は黒人種、大部分は異教徒である。ここから海岸沿いに二カ月行程のマクダシャウまで、一帯の荒野が続いている。
ザイラアは大きな町だが、・・・

私は、アデンから海路で四日間かけてザイラアの町に着いた。この町は、ベルベル人、スーダンの民、シャーフィイー学派の町である。彼らの国は、二カ月行程の広がりをもった砂漠の国だ。その前半は、ザイラア、後半はマクダシャウと呼ばれる。しかし、ザイラアの住民の大多数は、ラフィダ派の信者である。・・・続いて私は、海路一五日間で、マクダシャウについたが、その町は、きわめて大きな町だった。
...
(2)I remained some days the King’s guest, and then set out for the country of the Zanuj, proceeding along the seashore. I then went on board a vessel and sailed to the island of Mambasa, which is large, abounding with the banana, the lemon, and the citron. They also have a fruit which they call the jammoon (jambu). It is like the olive with a stone except that this fruit is exceedingly sweet. There is no grain in this island; what they have is brought to them from other places. The people are generally religious, chaste, and honest, and are of the sect of Shafia. After lodging there one night, I set out, by sea, for the city of Kulwa, which is large, and consists of wooden houses. The greater part of the inhabitants are Zunuj of the sect of Shafia, of religious and peaceful habits.
再び船に乗って南の方サワーヒル地方や、ザンジの国クルワーの町に行こうとした。まず着いたのがマンバサの島であった。バナナ、レモン、シトロンなどのほかジャッムーン(ジャンブ)という果物を産する。オリーヴに似ていて、それと同じような核があるが、大変に甘い。・・・
この島で一夜をすごした後、キルワまで海路を南下した。大きな町で、住民の大多数はザンジュ(黒人)で、色はあくまでも黒い。建物は木造で、なかなか立派である。・・・

王の客人として数日をすごした後、私は、「ザンジ」の国へと出発した、沿岸づたいに進むのである。船に乗り、マンバサの島に着いた、とても大きな町で、バナナ、レモン、シトロンが豊富である。土地の人たちが、ジャムーン(ジャンブ)と呼ぶ果実もある。オリーブの実に似ているが、中に石のように固い心があるが、それを除けば、大変に甘い。この島では、穀物を産せず、他の土地から運んでくるらしい。人々は、一般に信心深く、慎ましく、そして正直だ、シャーフィイー学派の信者である。そこで一泊したのち、私はまた海に出て、キルワに向かった、そこは大きな町で、木造の家が並んでいた。住民の大多数は、「ザンジ」で、シャーフィイー学派の信者、信心深い、平和を好む人たちであった。
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(3)I then proceeded to the city of Zafar by sea : this is the farthest city of Yemen, and situated on the shore of the Indian sea. From this place they carry horses to India ; and when the wind is fair they pass from it to the Indian shores in a full month. Between Zafar and Aden, by land, is the distance of a month ; but between it and Hadramaut that of sixteen days; and between it and Amman twenty days.
キルワから船でアラビヤの南岸ザファールに渡った。インド洋にのぞみ、良馬をインドに積み出している。ここからインドのカーリクートまでは海路一月であるが、順風ならば二八日くらいで行けることもある。ザファールからアデンまでは沙漠路を一月行かなければならぬ。またハドラマウトまでは一六日、ウマーンまでは二〇日で行ける。
そして私は、海路ザファールに向かったのである、ここは、イエメンの中で最も遠くにある町であり、インド洋に面している。ここから、インドまで、馬を運ぶのだ、順風ならば、インドの海岸に、ちょうど一月で着ける。ザファールからアデンに、陸路行くならば、その行程は一月、しかし、ハドラマウトまでなら一六日で行けるし、アマン(オマーン)なら二十日の行程だ。
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(4)Leaving Zafar, I proceeded by sea towards Amman, and on the second day put into the port of Hasik ; where many Arab fishermen reside. We have here the incense tree. This tree has a thin leaf, which when scarified produces a fluid like milk : this turns into gum, and is then called Hoban, or frankincense. The houses are built with the bones of fish, and are covered with the skins of camels.
ザファールから海路をウマーンに向かった。・・・二日目にハースィクの港に着いたが、そこにはアラブ族がすみ、漁業で生きていた。この辺にはクンドル(乳香)の木が多い。葉はうすいが、それに傷をつけておくと、乳のような液を出し、かたまってゴムのようになるが、これが香料である。・・・この人々の住家は魚骨を柱とし、駱駝の皮で屋根が葺いてある。
ザファールを出て、海路アマンに向かった、そして、二日目、ハースィクの港に着く、ここにはアラブ人の漁民が暮らしている。この土地には、香木が多い。葉はうすいのだが、(幹に)傷をつけておくと、乳状の液が垂れてくる、ゴムのように固まったものが、「ホバン」と呼ばれる乳香になる。人々の家は、魚の骨を使って建てられ、屋根は駱駝の皮で葺いてある。
The travels of Ibn Batuta/Public Library of Cambridge/Internet Archive Chapter IX

(注)Zaila、は、ソマリア、ソマリランドの港町、Zeila、別名、Saylac。
Makdashu、ソマリアの首都モガデシュMogadishu。
Zanuj、上で見た「ザンジュZanj」と同じであろう。
Mambasa、ケニアのモンバサMombasa。
Kulwa、タンザニアのKilwa Kisiwani。
Zafar、オマーンのSalalah。
Amman、オマーンOman。
Hasik、ハースィク、Omanの港町。
Shafia sect、ソマリランドの多数派である、シャーフィイー学派Shafiʽi/Shafeiを指すのではないか、と思われる。
Rafiza sect、シーア派、あるいはその一部を指す、といわれる用語に、Rafida、というのがあるが、これであろうか?

アフロ―アジア語族Afroasiatic分布図、スーダンSudanで話されるアラビア語、マグレブ地方のベルベル人が話すベルベル語、また、ソマリアで話されるソマリ語、いずれも、同じアフロ―アジア語族とはいえ、それぞれ、セム語派Semitic、ベルベル語派Berber、クシ語派Cushitic、とかなり系統は離れた言語、と思われるが。
・・・
(1)あるいは元のアラビア語も似た表記だったのかもしれない、英訳者は、「Berbers」、「ベルベル人」、と判断し、いやしかし、「ベルベル人」の居住地、マグレブとはずいぶん離れているし、イブン・バトゥータ自身が「ベルベル人」ではないか?、ということで、日本語訳では、「Berbera」、これは、ソマリアのうちの自治領ソマリランドの一都市の名だが、これをそのソマリランド地方を指す名称だと判断したのだろう、訳注にもそんなことが書かれているし、「ベルベラ」という街の名がそのように用いられていたことがあるかどうかは突き止められなかった、そして、英文版の「スーダンの民」が、日本語版の「黒人種」に該当するのだろうか、「スーダン」というのは、フランス植民地時代のマリがそう呼ばれていたことからも分かるように、サヘル地方南側の広い地域を表わす用語だから、その意味では、当たっているといえるかもしれない、より悩ましいのは「宗派」の記述で、「Rafiza sect」がシーア派を表わす言葉なのだとすれば、「大多数は異教徒」も頷ける、イブン・バトゥータ氏は、スンニー派の法学者だからね、英文版で直前に、この町は、「シャーフィイー学派の町」といっているのが、今度は解せなくなるけどな、

「アデンから船路四日でザイラア」・・・230.80/4≒57.70
ザイラアから「海路一五日間で、マクダシャウ」・・・2616.43/15≒174.43
紅海の出口を横切るには、海流の影響とかで、時間がかかるのだろうか、そして、モガデシュまでの速度は、今度は、「ビーグル号」に比べても、速すぎることになるが?
(2)Jambuは、マライ語(オーストロネシア語族Austronesianマライ語Malay)の言葉で、いずれもフトモモ科Myrtaceaeだが、以下の何種かの果実のどれかを指す、とのこと、
Syzygium aqueum/watery rose apple
グアバ、蕃石榴、バンシルーPsidium guajava/Guava
Syzygium malaccense/Malay rose apple
Syzygium samarangense/wax apple
(3)英文版には触れられていないが、カーリクート、は、インド、ケララ州Keralaの町、KozhikodeまたはCalicut、ここで日本語版について、ちょっと疑問なのは、イブン・バトゥータは当然、厳格な太陰暦たる「イスラム暦」で考えているのだろう?ならば、平均朔望月が29.5なんだから、「一月」は、29日または30日、「順風」であるかそうでないかの違いが、「海路一月」と「二八日くらい」、つまり一日か二日、ということになるが、そんなものなんだろうか?前にモーリシャスの作家、リンゼイ・コルン、の話をした時に、インド洋を横断するって、どのくらいの距離なんだろう、と調べた、モガデシュから、セイシェル、モルジブに立ち寄って、ここでは、ケララ州の町だから、コロンボよりは少し近い、ってことで、4000kmくらい、「海路一月」なら、
4000/30≒133.3
なるほど、これは、「倭寇」100㎞/日、「ビーグル号」150km/日と比して、妥当な値と言えよう。

ハドラマウト、は、イエメン東部の街、Hadhramaut、目測で言うと、ザファールすなわちSalalah―ハドラマウトHadhramaut間、ハドラマウト―アデンAden間、いずれも、500km程度と思われる、500kmを「一六日」なら、
500/16≒31.3
砂漠の一日の行程は、きっとこのくらいなのだろう、覚えておこう。「ウマーンまでは二〇日」というが、「ウマーン」が、オマーンの、どこを指しているのか、よくわからない、マスカットのようなオマーン湾沿いの町なら、もっとかかりそうにも思えるが。
(4)「クンドル」も「Hoban」も不明だが、「frankincense」は、「乳香」で、カンラン科ボスウェリア属Boswelliaの樹液からつくられる、この種の樹木は、たしかに、オマーン、イエメンなど、アラビア半島南部、ソマリア、エチオピア、ケニア、などに自生している、とのこと、・・・、「カンラン科」で思い出したが、同科のカンランは、漢字で書けば「橄欖」であるが、その果実から採油するところがオリーブ(モクセイ科)と似ているために、オリーブの訳語として、誤って定着した、という話、エルサレム東郊の「マウント・オリーブ」も、中勘助「鳥の物語」もそうだったな、「橄欖山」になっていた。
・・・
The travels of Ibn Batuta/Public Library of Cambridge/Internet Archive
The Travels of Ibn Batūta - Cambridge Core
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イスラムの、さまざまな宗派、教派についての記述があったから、この地域の、宗教別人口一覧、のようなものを作ってみよう、という意欲的な試みだったのだが、wikipediaというものの性質上、執筆者によって論点の重心が異なっているのは当然で、また、国ごとに、統計の扱い方も異なる、もちろん、私たちが、「国勢調査を拒否する!」などと息巻いてしまうのと同様に、信教の自由というのは、信者であることの告白を拒むことをも含むのであるから、そのような統計調査が、不十分にしか実施されていなかったとしても、これまた当然のことなのだ、現に、この地域で、最も熱心にそのような資料を集めているのが、アメリカ合衆国のCIAであったりすることが多いのも、ことのデリケートさを表わしているだろう、

イスラムの「系統樹」のようなものを見つけたので掲げておく、これも、たとえば「左翼党派」なんかでも、同じ事情があり得るが、「内部」にいる人々は、このような「外部」の眼差しによる「分類」を、拒むことが多いだろう、・・・「左翼」の人たちが、すぐ隣の党派を「反革命」呼ばわりするのと同様、ここでも、自分たち以外は「異教」、「邪教」でありうるだろうことは、貧しい経験から想像できる、・・・、その上で、おおざっぱな見取り図として理解しようとすれば、・・・、「スンニーSunni」、「シーアShi'ah」とは別に、上にも登場した「イバード派Ibadiyya」や、「アハマディア派Ahmadiyya」、「スーフィズムSufi」が存在する、「スンニーSunni」は、4つの教派を含んでいて、そのうちの一つが、ここでもしばしば登場した「シャーフィイー学派Shafi'i」、そして、「シーアShi'ah」は、大きく3教派に分かれ、耳にしたことのあるものだけをピックアップすれば、「イスマイル派Isma'ilism」の中に、レバノンの政情をめぐる記事にはしばしば登場する「ドゥルーズ派Druze」があり、また、シリアのアサド政府側の勢力が、そうだといわれる「アラウィ派'Alawi」は、また、その3教派のうちの別の流れを汲んでいる、・・・、エスター・フロイト「ヒディアス・キンキー」60年代末の、「ヒッピー」の流れの中、とみていいだろう、語り手の母は、ジークムント・フロイトの孫娘なんだから、出自としては、「ユダヤ系」なのだろうが、娘二人を伴って、モロッコまで旅をするのは、「スーフィズム」に、何らかの救済を求めていたらしいことが、うかがわれる、・・・、個人的な経験だが、神戸の震災の後、三週間くらい経った頃だったが、甚大な被害の出ていた地域の一つ、神戸市兵庫区だったな、鉄道が寸断していたので、「代替バス」を乗り継いでようやくたどり着いた、初めてこの目で見る「現地」、多分パキスタンの人たちだったと思う、公園の入り口に立っているのが、「アハマディア・ムスリム・ボランティア協会」と書かれたテント、炊き出し、物資配布、などに従事されているらしかった、・・・、「ムスリム」という人たちを、は・じ・め・て・この目で見た、体験がそれだったから、くっきりと覚えている。



意思の疎通がはかれた、と、「気を抜いた」瞬間、「脱兎のごとく」駆け出す、その「呼吸」が、読めない、もっとも、そう簡単に「読まれて」いるようでは、生きてこられなかっただろうから、文句言われる筋合いは、ないわね(笑)。
階段をのぼって、ふと振り返ると、これは、お隣のガレージの屋根なのだが、そこから、ほら、「何か、気になる」という風情で(笑)、こちらをうかがっている、なんだか、この、変な生き物が、ベランダに出て、ごそごそしていると、どういうわけか、その後に、お皿にごちそうが現れているらしいのだ、そういう「因果関係」は、ようやく、「認識」されてきたらしいから、だから、私が、立ち去るのを、こうして「待って」いるわけだ。近くでうっかり目が合うと、「恐いもの見たさ」というのかな、じっとこちらを見つめていて、そうして、「目が合う」、すると、なんか「意思疎通」出来たみたいに安心して、こちらは、目をそらす、その瞬間、振り向いて、「脱兎のごとく」、駆け出す、その「呼吸」が、どうしても、読めない、もちろん、こんな「人間」ごときに、簡単に「読まれて」いるようだったら、生きてこれなかったんだろうから、文句を言われる筋合いは、ないわね(笑)。



モンツキアカヒメジ(ヒメジ科)

ヒレナガスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)

トウアカクマノミ(スズメダイ科)、サンゴイソギンチャク(ハタゴイソギンチャク科)

トウアカクマノミ(スズメダイ科)、サンゴイソギンチャク(ハタゴイソギンチャク科)

スミツキトノサマダイ(チョウチョウウオ科)、コクテンサザナミハギ(ニザダイ科)

ミゾレチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)

キイロハギ(ニザダイ科)






Last updated  2021.10.29 14:18:05



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