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2021.10.27
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カテゴリ:カテゴリ未分類

アキノノゲシ(キク科)

インドヨメナ(キク科)、カニグモ科の一種

アオモンイトトンボ(イトトンボ科)


「ねこログ」、総目次(笑)/「スクラップ・ブック」、の、目次。
目次:テヘラン以外の場所で、「テヘランで『ロリータ』を読む」、を読み続ける/「北」の「アラブ」、「イスラム」と、「南」の、「サハラ以南のアフリカ人」、「アニミスト」という理解の枠組み、・・・、スーダンの歴史を少し学ぶ/まさに、「相撲」という「身体」のぶつかり合いが表象しているような、「身体性」を、獲得し得たかも知れない、という「希望」を、読み取るべきなのだ、・・・、同じく、多かれ少なかれ「インテリ」的な用語を用いるならば、・・・、「菊とギロチン」瀬々敬久(2018)、を観る/逆に、愛着を示され過ぎると、今度は、こっちの方が、後ずさりして縮こまらなければならなかった、まるでヤマアラシみたいに・・・「サリー・ルーニー」読み、は、続き、ダブリンの街角に「イースターの月曜日」の残響を聴くことになる/少しばかり、ダブリンの地理に「明るく」なった気がしたので、今度は、調子に乗って、ジョイス、に手を出す、さらに、シニアド・オコナーから「対話の不可能性」まで/「資本主義的原初的蓄積」、またしても、「紅茶」と「砂糖」、・・・、「ユリシーズ」の買い物メモ/




「ペルシャ語のアルファベットPersian alphabet」、ペルシャ語が話される地域は、主に、イラン(西ペルシャ語Western Persian)、アフガニスタン(ダリ・ペルシャ語Dari Persian)、タジキスタン(タジク・ペルシャ語Tajiki Persian)であるが、このうち「タジク・ペルシャ語」は、ソ連時代以来「キリル・アルファベットCyrillic script」から作られた「タジク・アルファベット」を、表記法として採用しているが、それ以外は、この地域のイスラム化以来、ササン朝ペルシアの没落した7世紀以来、「アラビア語アルファベットArabic script」、が採用されている、とのこと、そんなことがはじめて気なったのも、この、「ペンギン・モダン・クラシックス」版の「テヘランで『ロリータ』を読む」、の表紙を眺めていた時だった、もちろん、この写真は、そのデザインをまねてみようと、いわば、余興で作ってみたものだが、あれ?本の向きが逆だ、ああ、ここに写っている、ペルシャ語版の「ロリータ」と思しき書物は、縦書きの日本語の書物と同じく、左開き、というのかな、つまり、右側が綴じ代になっている、ことに気づいたわけだ、きっと、縦書きではないものの、右から左に向かって書かれているに違いない、・・・、「右から左に」で思い出すのは、水村美苗「私小説」の副題が「From Left to Right」、え、「左翼」から「右翼」に「転向」したってこと?ではなくて、この作品は、著者の幼少時代から学生時代まで、アメリカが舞台なので、ふんだんに英文の部分が含まれている、だから、残りの日本語の部分も「左から右に」、横書きになった、という事情を伝えているのだった、・・・、もちろん、アザール・ナフィシ英文学教授が、授業で、あるいは、自宅の居間の「学習会」で、使用した「ロリータ」のテキストは、英語版であったに違いないのだけれども。
・・・
「山脈の他には友もなく」、密かに持ち込まれた携帯電話のキーボードで書かれた書物・・・ベフルーズ・ブーカーニ、ニュージーランドから、難民認定を受ける/2020年7月24日アル・ジャジーラ
この記事に登場する、ベフルーズ・ブーカーニ氏Behrouz Boochani(1983-)、は、イラン、イラム地方のイラムIlam生まれ のクルド系イラン人で、おそらく、「イラン・クルディスタン民主党Democratic Party of Iranian Kurdistan」に所属していたため、当局の迫害を受け、国外脱出を図ったのだった、前回の記事の続きとして、付け加えておく。
「山脈の他には友もなく、マヌス島の監獄からの報告」ベフルーズ・ブーカーニNo Friends but the Mountains: Writing from Manus Prison/Behrouz Boochani

「チャウカ、時刻を教えてくれ」ベフルーズ・ブーカーニ、アラシュ・カマリ・サルヴェスターニChauka, Please Tell Us the Time(2017)/Behrouz Boochani & Arash Kamali Sarvestani
上の記事にも言及のある、マヌス島で、スマートフォンのカメラで撮影された映像をもとに製作されたドキュメンタリー・フィルム、監督であるアラシュ・カマリ・サルヴェスターニという人については、オランダを根拠地に活動しているイラン人映画作家である、ということ以外には、わからなかった、また、このフィルムも、そう簡単には、見ることができないようであるが、YouTube上に「予告編」はいくつもあるようなので、下に掲げておく、
Chauka, Please Tell Us the Time(2017)/Behrouz Boochani & Arash Kamali Sarvestani-Trailer(1)/(2)/(3)/(4)

テヘラン市街図、ベフルーズ・ブーカーニ氏の出身大学、タリビアット・モダレス大学Tarbiat Modares University、それから、後に引用するかもしれないが、「テヘランで『ロリータ』を読む」、で、フェミニストの集会が行われたのが、「ポリテクニーク(工科大学)」とあったが、どうもそれは、「アミルカビル工科大学Amirkabir University of Technology」を指すようなので、それも書き加えておいた。

イランの一部を含む中央アジア

イラン、地方(Provinces)区分図
・・・
Both the religious and leftest organizations, especially the Mujahideen and the Marxist Fedayin, supported the hostage-taking. I remember one heated debate where one of the students who was mocked as a liberal kept saying, What's the point of taking them hostage? Haven't we already kicked them out? And one of my students unreasonably reasoned that no, not yet, that American influence was still everywhere. We wouldn't be free until the Voice of America was shut down.
...
Three men sit in a semicircle talking eagerly, while a little farther on two women in black chadors, with three of four small children hovering around them, are making sandwiches and handing them over to the men. A festival? A picnic? An Islamic Woodstock? If you move a little closer to this small group, you can hear their conversation. Their accents indicate that they come from the province of Isfahan. ...
...
Farther down, you can hear sharper and more clipped cadences. "But this isn't democratic centralism ... religious tyranny ... long term allies ... " and, more than any other word, liberals. Four or five students with books and pamphlets under their arms are deep in discussion. I recognize one of my leftist students, who see me, smiles and comes towards me. Hello, Professor. I see you've joined us. Who is us? I ask him. The masses, the real people, he says quite seriously. But this is not your demonstration, I say. You're wrong there. We have to be present every day, to keep the fire going, to prevent the liberals from striking a deal, he says.
Reading Lolita in Tehran/Azar Nafisi(Penguin Modern Classics)
宗教的なものも、左翼も含めて、さまざまな組織が、とりわけ、「ムジャヒデン」と、マルクス主義者の「フェダイーン」が、この「(アメリカ大使館占拠)人質拘束」に支持を与えた。私の教えていた学生の中で、「リベラル」だとして、揶揄されていた人たちのうちの何人かが、白熱した議論の最中に、こんなふうに言っていたのを思い出す、「人質をとることに何の意味があるんだよ?我々は、すでに奴らを追い出したんじゃないのか?」すると、もう一人の学生が、あまり根拠があるとも言えない根拠を持ち出して、こんな風に答えるのだ、「いや、まだだ、アメリカの影響というものは、いたるところに残っている。我々は、「ヴォイス・オヴ・アメリカ」が閉鎖されるまでは、自由になったとは言えないのだ。」
・・・
三人の男たちが、円陣を組んで熱心に議論している、そこから少し離れたところには、黒いチャドルをきた二人の女が、三人か四人の小さな子供がまわりを走り回っている中で、男たちに食べさせるべきサンドイッチをこしらえている。お祭り?ピクニック?「イスラム」風「ウッドストック」?、この集団に、もう少し近づいてみると、彼らの話す言葉が聞こえる。その訛りから判断すると、彼らは、イスファハン地方からはるばるやってきたようだった。
・・・
さらに先に行くと、もっと鋭く、早口の、白熱したリズムの議論が聞こえてくる。「でも、これでは民主集中制とは言えないじゃないか、・・・、宗教的な独裁だ、・・・、いや、長期的な同盟者としては、・・・」、などなど、それにもまして、「リベラル」という言葉が、しばしば耳につく。四五人の学生たちが、本やパンフレットのたぐいを腕に抱えて、議論に熱中している。私の講義にも出ている、「左翼」学生の姿の一人も見えた、彼は、こちらを見て微笑み、近づいてきて、「やあ、先生。先生も、私たちのデモに参加してくださったんですね」と言った。「私たち、って誰よ?」と、私は問い返す。「大衆、ですよ、真の人民、ですよ」、と彼は真顔で言う。「でも、これ、あなたたちのデモじゃないでしょう」と私は食い下がる。「あなたたちが、ここにいるのは、間違ってるんじゃない。」「私たちは、毎日でも、どこにでも、あらゆる場所に、いなければならないんです、火を燃やし続けるためには、・・・、『リベラル』どもが妥協して手を打ってしまわないために」、と彼は言うのだ。
「テヘランで『ロリータ』を読む」アザール・ナフィシ(ペンギン・モダン・クラシックス)
・・・
Voice of America、「パール・ハーバー」直後の、1941年12月、アメリカの第二次世界大戦参戦を機に、サンフランシスコからの短波ラジオの、フィリピン向けの英語放送、1942年2月1日の、ドイツに対する反ナチ・プロパガンダとして「Stimmen aus Amerika(Voices from America)」の放送開始、この放送の冒頭には、「The Battle Hymn of the Republic」が流された、という、に起源を有する、と言われる、1945年に、「VOA」は、国務省の管轄下に入り、1976年、フォード政権下で、「VOA憲章」として法制化、毎年の予算は、大使館、領事館の予算から捻出される、現在は、(英語を含む)47の言語で放送されている、・・・、「冷戦」下の、「東側」ブロックへのプロパガンダ放送は、1947年のロシア向け放送が、はじまり、とされる、たとえば、日本語放送は、戦争中の1942年から、占領下1951~1952を含み、1961年まで、ドイツ語放送は、第三帝国下の1942~1945、占領下の1945~1949、こののちも、西ドイツ(Federal Republic of Germany)、および西ベルリンに対しては、1960年まで、東ドイツ(German Democratic Republic)向けには、1993年まで放送が続いた、イランに関しては、パーレヴィ朝下に、1942~1945、1949~1960、1964~1966、イスラム共和国となってからは、1979年から、現在に至るまで放送が続いている、とのこと。
「The Battle Hymn of the Republic」は、南北戦争期の「アボリッショニスト」によって書かれたものに由来し、歌詞の中に、「怒りの葡萄the grapes of wrath」が登場するし、また、アグネス・スメドレー「中国の歌ごえ」にも言及があった、この作品の原題も「Battle Hymn of China」なのである、ので、以前に調べたことがあった↓
アグネス・スメドレー「中国の歌ごえ」
それから、ボブ・マーリー「バビロン・システム」にも、
「We've been trodding on the wine press much too long
私たちは、あまりにも長い間、「ワイン絞り」の上で、踏みつけにされ続けてきたのだ」
という歌詞が含まれているが、ちなみに、標準的な英語では、「trod」は「tread歩く、踏みつける」の過去分詞、だから、「We've being trod」が正・し・い・のかも、たしかに上のように聞こえるから、ある種の「ピジン/クレオール」的用法、と理解すべきかもしれない、・・・、この「ワイン絞り」もまた、同じ、聖書の字句、に由来するのであった↓
「バビロン・システム」、を、めぐる、いくつかの「調査」
・・・
一つ目の段落は、その「アメリカ大使館占拠事件」の最中、テヘラン大学内の光景、を描いているんだと思われる、二つ目の段落は、はっきり書かれてはいないのだが、おそらく、ナフィシ教授も、「占拠」の現場まで、歩いて行ったのだろう、・・・、政府寄りの団体に「動員」された人たちも含めて、「地方」からも、たくさんの人々が、大使館のまわりに詰めかけた、とは、さまざまな証言にも見られるとおりである、もちろん、現在は、アメリカ合衆国とイラン・イスラム共和国、との間に国交はないから、「大使館」は存在しない、でも、GoogleMapに「former US Embassy旧合衆国大使館」と入力すると、ちゃんと、「U.S. Den of Espionage Museum」に案内してくれた、引用部分のすぐ前にも書かれていたが、事件後、米大使館は、もはや「大使館」とは決して呼ばれず、タクシーの運転手たちも、「スパイの巣窟」と言えば、ちゃんと連れて行ってくれる、とあった、だから、「合衆国スパイの巣窟博物館」、なのである、・・・、テヘラン大学からだと、東に3kmくらい、なるほど、歩いて行けるくらいの距離ではある、・・・、前回も触れたが、たとえば、ファテメ・ケシャヴァルスFatemeh Keshavarz「ジャスミンと星Jasmine and Stars」のように、この「テヘランで『ロリータ』を読む」が、「ニュー・オリエンタリズム」の眼差しに満ちている、と批判する論客が、在米イラン人の知識人の論客の中に、多々あるらしい、なかなか読み進まないのだが、この論客の「批判」の要点には、今一つ、「腑に落ちる」ところがないのだけれども、それでも、「彼ら」が、このナフィシ教授の、筆致の、ある部分に、ほとほと「頭に来ている」ことだけは、わかる気がするし、その点については、・・・、もちろん、「沖縄」について、「本土」から、語られる言論と、「同型」なものとして、共感さえ、するのであるが、・・・、たとえば、この二つ目の段落の言葉使いは、あるいは、「筆が滑った」のかも、と思えるくらい、「部外者」である私のようなものの目から見ても、・・・、「テヘラン」生まれの「都会人」からの、たとえば「イスファハン」から来たと思しき「田・舎・者・」、への眼差し、あるいは、伝統的な「ムスリム」家族の、「ジェンダー・ロール」についての、「ステレオ・タイプ」かも知れない揶揄、などが、容易に検出できてしまい、あまり愉快でない印象を与えてしまう、・・・、もちろん、この「アメリカ大使館占拠事件」は、世界の耳目を「イスラム革命」に引き付けることに、大いに力があったし、そう、そもそも、「オリエンタリズム」論の、元祖、とも言うべき、エドワード・サイードが、最初に知られるようになった書物が、主要にこの事件について語った、「イスラム報道」であった、という記憶がある、だが同時に、ほぼこの事件を契機に、きわめて多様な潮流を含んでいたはずの「イラン革命」が、「ホメイニ派」主導のものへと、「回収」されてしまうことになったわけでもあるから、「当事者」にとっては、悔やんでも悔やみきれない「事件」であって、だから、「筆が滑って」しまうほど、こちらも「頭に来ている」ものであることもまた、想像に難くない、ということも、付け加えておかねばならないけれども。
エドワード・サイードEdward Said(1935-2003)、イギリス信託統治下のパレスチナ、エルサレム生まれ、父母ともに、「アラブ・クリスチャンArab Christian」、この言葉は、「アンティオキア・ギリシャ正教会Greek Orthodox Church of Antioch」教徒を指すものらしいが、サイード一家は、プロテスタントであった、という記述と、どう整合するのかは、よくわからない、1948年、イスラエル建国「ナクバ」により、アメリカ合衆国に移住、父、ワディー・サイードが、第一次大戦中、アメリカ軍に従軍経験があったため、その家族にも合衆国市民権があった、とのこと、1963年、コロンビア大学英文学および比較文学部に着任、・・・、文芸批評の最初の作品が、「Joseph Conrad and the Fiction of Autobiography (1966)」、コンラッド「闇の奥Heart of Darkness(1899)」におけるアフリカ人の描き方を、おそらく、後年「オリエンタリズム」と呼ぶものとして、批判したもの、と思われるが、同じ作品を、チヌア・アチェベChinua Achebe(1930-2013)も、「アフリカのイメージ、人種主義と、コンラッドの『闇の奥』をめぐって/An Image of Africa: Racism in Conrad's Heart of Darkness(1975)」の中で批判しており、先後関係としては、およそ10年後になるが、影響関係の有無は、ちょっと不明、・・・、1977年から1991年まで、「パレスチナ民族評議会Palestinian National Council(PNC)」メンバー、1988年、「二国家的解決two-state solution」を支持、「パレスチナ国State of Palestine」創立に賛成投票、1993年、「オスロ合意」に至る内紛に抗議して「PNC」脱退、・・・、著作一覧bibliography、によれば、
1978:「オリエンタリズム/Orientalism」、日本語版1986年
1979:「パレスチナ問題/The Question of Palestine」、日本語版2004年
1981:「イスラム報道/Covering Islam: How the Media and the Experts Determine How We See the Rest of the World」、日本語版1986年
1993:「文化と帝国主義/Culture and Imperialism」、日本語版1998年-2001年
というわけだから、「イスラム報道」は、「オリエンタリズム」より後に書かれているが、日本での出版はほぼ同時のようなので、私の記憶も、あながち間違っていないかもしれない。

「イスラム報道―ニュースはいかにつくられるか」エドワード・W. サイード(みすず書房)
・・・
前回、述べたとおり、この著者は、「カウンター・カルチャー」の時代を、アメリカの大学生として過ごしているのだから、「ウッドストック」などというたとえ話が、思わず飛び出したとしても、無理はないかもしれない、・・・、「ウッドストック・ロック・フェスティバル/Woodstock Rock Festival/August 15–18, 1969/Bethel, New York

以下、YouTubeから、
合衆国国歌/ジミ・ヘンドリックス(ウッドストック1969)National Anthem U.S.A/Jimi Hendrix(Woodstock 1969)
Woodstock 1969 - Full Festival (Friday)、「ウッドストック」初日の1969年8月15日が、金曜日であるから、その日の映像なんだろう、
ニューヨーク州ベツェルBethelは、残念ながら下の地図では、Middletownの北西30kmばかりのところだから、切れてしまっているが、・・・。

・・・
今回もまた「字数オーバー」が近づいているので、「ギャツビー裁判」は、再び次回に繰り越される、もちろん、フロイト理論を持ち出すまでもなく(笑)、こうやって延ばし延ばしになってしまうのは、「私」の「無意識」がそれを望んでいるからなので、それは、つまり、これから書くべきことが、やや心に「負担」になるべき性質のものであるかも知れないことを「予感」しているからなのだね、「負担」になるからこそ、「書く」ことによって、その「肩の荷」を下ろすよりほかはないのだけれどもね。




今回のクーデターで権力を掌握した、アブデル・ファター・アル・ブルハン将軍General Abdel Fattah al-Burhanは、2019年6月の、ハルツーム、軍司令部前座り込みの弾圧の責任者として、以下の記事に登場する↓
いや、スーダンの革命は、まだ、終わっていないよ/カリド・アルバイ(アル・ジャジーラ2019/06/07)
どうして、スーダンの人々は、「たった一人で」立ち上がらなければ、ならなかったのか?/ナンジャーラ・ニャボーラ(アル・ジャジーラ2019/06/09)


アフリカ大陸、言語民族分布図(語族分類)

アフリカ大陸、言語民族分布図(詳細)、下の地図の、「スーダン」と「南スーダン」の国境線を参考にしつつ、上の言語民族分布図を、重ね合わせるようにして眺めて見れば、もともと一つの国であったこの両国が、前者は、主に、アフロ―アジア語族セム語派、後者は、もっぱら、ナイル―サハラ語族に含まれる諸語、という風に、少なくとも言語的には、大きく隔たっていたことが理解される、さらに細かく見れば、「スーダン」内部でも、西部国境地帯のダルフールは、ナイル―サハラ語族、南部国境地帯の南コルドファン州近辺は、ニジェール―コンゴ語族や、ナイル―サハラ語族、という風に、やはり、この国の北部、中心部とは異なった民族集団が居住しているのであろうことが、改めて、わかる、・・・、「南スーダン」という国が誕生するのは2011年、とのこと、それよりもずっと以前の1980年代頃から、「SPLM/SPLA」という名称には、ちゃんと聞き覚えがあったのだが、当時は、GoogleMapなどという重宝なものもないし、そこでの「紛争」に、どんな地理的、地政学的背景があるのか、などということは、まったく分かっていなかったのだな、ただ、北部のアル・バシール政権が、「アラブ系」、イスラム教徒、を支持基盤とし、これを差別的に優遇するのに対して、南部の、「サハラ以南アフリカ人」の、当時の新聞には「アニミスト的な南部Animist South」という表現が用いられていた、非イスラム系の住民が反発して生じた抵抗運動だ、ということだけはおぼろげに理解していたのだったと思う、・・・。

「スーダン人民解放運動Sudan People's Liberation Movement(SPLM)」、1983年、Sudan People's Liberation Army (SPLA)の政治部門として結成、「SPLA」の指導者、サルバ・キールSalva Kiirが、2011年の「南スーダン」独立時にその大統領に就任するとともに、「SPLA」は、その国軍、「南スーダン人民防衛軍South Sudan People's Defence Forces」として再編成された、これよりさかのぼる2005年、1983年以来の内戦を終結させた「包括的和平協定Comprehensive Peace Agreement」のもとで、「SPLM」は、「スーダン」での合法政党の地位を得ていた、「南スーダン」では、独立とともに「SPLM」が政権党となったが、北部「スーダン」内に残留する部分が、「SPLM-N」を結成することになった、「南スーダン」では、2013年から2014年、内戦が勃発、キール率いる「SPLMジュバ派/SPLM-Juba」と、元副大統領リエク・マチャールRiek Machar率いる「SPLM反対派/SPLM-in-Opposition」が分裂して抗争した。
この1983年から、2005年までの内戦を「第二次スーダン内戦」と呼ぶが、さらに遡れば、アル・バシールに先行するヌメイリGaafar Nimeiry政権(1969-1985)と、当時の南スーダン分離派である「アニャニャAnyanya」との間に交わされた、1955年~1972年「第一次スーダン内戦」の戦後処理である「アディス・アベバ合意」を、スーダン政府側が破棄したことをきっかけに、「第二次内戦」勃発、「SPLM」結成があったようである。ヌメイリは、1956年に政権に就いた、エジプトのガマル・アブデル・ナセルGamal Abdel Nasserをモデルとする「アラブ社会主義」、「ナセル主義」の流れを汲み、1968年のクーデターで政権に就いたイラクのサダム・フセインSaddam Hussein、1969年のクーデターで政権を掌握したリビアのムアマール・カダフィMuammar Gaddafi、1970年のクーデターによる、シリアのハフェス・アル・アサドHafez al-Assad、とともに、「パレスチナの大義」を掲げる一群の独裁者たちの一人であった。
・・・
クーデター首謀者の将軍の名前が、「al-Fattāh」であったので、調べてみると、次のようなページに行き着いた、・・・、「al-Fattāh」は、「解放者」、「勝利を与えてくれる者」の意という。
الفتاح
Names of God in Islam」、「クルアーンQuran」や、預言者ムハンマドの言行を記したとされる「ハディースhadith」に記されている100近い「名前」の一覧




「菊とギロチン」瀬々敬久(2018)・・・予告編
「菊とギロチン」(2018)瀬々敬久・・・Amazonプライム・ヴィデオ
「菊とギロチン」(2018)瀬々敬久・・・wikipedia
映画の末尾、クレジットなどが出る直前に、登場した「ギロチン社」の面々の「その後」を記した静止画面が、続く、以下に書きとってみた、

  • 倉地啓司、立ちん坊(自由労働者)
    大正13年、爆弾製造で逮捕
    昭和10年、刑期を終え出所
    戦後はアナキスト運動に携わる
    昭和35年、死去
  • 河合康左右、無職(哲学者)
    大正12年、逮捕、無期懲役
    昭和18年、刑務所内で病死
  • 田中勇之進、元郵便局員(歌人)
    大正12年、甘粕五郎襲撃で逮捕
    戦後は廃品回収業、短歌は作り続ける
    昭和41年、死去
  • 小西次郎、元銀行員
    大正12年、逮捕、無期懲役
    昭和15年、この頃、仮釈放
    戦後は大阪近郊で食堂を開いたという
    没不明
  • 内田源太郎、元商店員
    大正12年、逮捕、無期懲役が第2審で懲役15年
    昭和13年、刑期を終え出所
    没不明
  • 茂野栄吉、元商店員
    大正12年、逮捕、無期懲役が第2審で懲役15年
    昭和13年、出所後、書籍商
    没不明
  • 仲喜一、元紡績職工
    大正12年、逮捕、懲役13年が第2審で15年
    昭和9年、出所後、大阪で古書籍商
    昭和10年、検挙されるが「思想的行動なし」と釈放
    昭和50年、死去
  • 小川義雄、元僧侶
    大正12年、逮捕、無期懲役が第2審で懲役15年
    昭和11年、服役中の甲府刑務所で病死
  • 和田久太郎
    大正13年、古田、村木と福田大将を待伏せし発砲、失敗し逮捕
    大正15年、天皇崩御による恩赦、無期から懲役20年
    昭和3年、刑務所内で自殺
  • 村木源次郎
    大正13年、福田大将暗殺失敗後、古田と爆弾闘争を繰り返し逮捕
    大正14年、予審中に肺病で倒れ、死去
  • 古田大次郎
    大正13年、爆弾闘争中に村木と共に逮捕
    大正14年、死刑判決、上告せず
    1ヶ月後、市ヶ谷刑務所で死刑執行、享年25歳
  • 中濱鐵
    大正14年、古田大次郎と共に死刑判決、上告せず
    生涯唯一の詩集『黒パン』獄中出版
    大正15年、大阪で死刑執行、享年29歳

どうして、「元号」で書くんだろう、監督の瀬々敬久氏も、「京大映画部」の、多分(笑)、「極左派」周辺の人だったはずだぜ、今や、「へーせー」だか「れーわ」だかの、若い観客にも、これじゃ、わからないだろう?いや、「わからない」方が、いいのか、「老人」としては、「象徴天皇制」の安全な「後方」で、「天●皇制打倒!」を、呼号していたにすぎない、元「極左派」(笑)としては、それでは困るので、下に、対応表を掲げておく、太宰治が源実朝について書いた小説は何だっけ?ああ「右大臣実朝」だった、あの中で、鴨長明が鎌倉で実朝と会見するシーンが、「吾妻鏡(あずまかがみ)」の引用で載っていて、そこに元号と干支しか書いてなかったから、確認のために作った表なのだ、こちらでは、だから、鎌倉時代に遡れる。参考、「方丈」、とは?

「ギロチン社」のメンバーとして描かれる人物たちのうち、村木源次郎(1890-1925)は、1908年「赤旗事件」で懲役一年の判決を受け、服役している、また、和田久太郎(1893-1928)は、堺利彦らの「売文社」に関与していたらしい、・・・、堺利彦は、同じく「赤旗事件」で収監中だったために、1911年の、「大逆事件/幸徳事件」による処刑を免れたのである、その堺利彦が、「幸徳事件」後の、「社会主義冬の時代」の活動家たちに、食い扶持を与えることを目的として設立した、今でいう広告代理店的企業が、「売文社」であった、・・・、黒岩比佐子「パンとペン―社会主義者・堺利彦と『売文社』の闘い」(講談社文庫)を読み、「赤旗事件」などについて、メモ書きをした記事が、こちらだ↓
友情のために大地を、耕そうとした私たちだが、自らは友情的にはなり得なかった・・・。

「パンとペン―社会主義者・堺利彦と『売文社』の闘い」黒岩比佐子(講談社文庫)
ちなみに、ここにことさらに「冬の時代」と書かれているのは、これも前掲「パンとペン」に書かれていたことなのだが、木下順二に、戯曲「冬の時代」があって、これは、まさに、「売文社」を舞台にしたものだそうで、・・・、
アナキストの大杉栄が売文社から離れる一方、上京した山川均が加わり、売文社は新たな段階を迎えた。高畠素之は国家社会主義に傾斜し、白柳秀湖はすでに社員ではなく、堺の努力にもかかわらず、売文社はバラバラになっていった。
「パンとペン―社会主義者・堺利彦と『売文社』の闘い」黒岩比佐子(講談社文庫)
という時代の雰囲気を描いているものだという。
・・・
ちなみに、上の「中濱鐵」(1897-1926)の項にある、その詩集のタイトル「黒パン」、の由来は、これでも「主義者」の端くれのつもりであるから、私にもわかる、クロポトキン麺麭パンの略取」、・・・、金子文子「何が私をこうさせたか―獄中手記」(岩波文庫)、彼女が、朴烈と交わす会話に「私、クロの『パン略』なら持ってるよ」というのがあった、・・・、もとより「アナキスト」は、語呂合わせばかりでなく、「黒」が好みなのである、

「何が私をこうさせたか―獄中手記」金子文子(岩波文庫)/「麺麭の略取」クロポトキン、幸徳秋水訳(岩波文庫)
老眼には難しい字だ、拡大しておこう、
麺麭
・・・
今、改めて、「パンとペン」を取り出して、村木源次郎や、和田久太郎に触れた部分がないかと、ざっと探して見たが、今のところ見つからない、この映画の背景となっているのは、1923年の関東大震災と、その混乱の中での、「自警団」による数多の朝鮮人の殺害行為、憲兵大尉甘粕正彦が実行犯とされる、大杉栄の殺害、なのであるが、その頃に関する記事を、抜き出してみると、・・・、
それは、一九二三年(大正十二年)のことだ。その年、関東大震災が起こり、流言飛語によって多くの朝鮮人が殺害され、大杉栄などの社会主義者たちも虐殺されている。それは堺にとっても衝撃的な事件だった。・・・
その三カ月前の六月五日、第一次共産党事件で堺利彦ら五十余人の社会主義者が一斉に検挙されていた。日本共産党は前年の一九二二年七月に秘密のうちに創立され、堺利彦は国際幹事(のちに総務幹事長)に選出されていたが、その日本共産党が受けた最初の弾圧が第一次共産党事件である。
堺は二十数人の同志たちと共に市谷刑務所の未決監に拘留されていた。そのとき、関東大震災に遭遇したのだった。
・・・
大杉君と私との交はりは殆んど二十年の歴史を持ってゐる。而も其の歴史が或時は我々をして義兄弟ともならしめた。或時は親友ともならしめた。(中略)大杉君と私との間に於ける、主義の争ひ、態度の差異、それは確かに拭い去る事の出来ないものであった。けれども、少し広い意味から云ひ、少し遠い眼から見る時に、我々の肉体的連結を否定する事がどうして出来よう。『大杉がやられた』のは即ち私がやられたのである。少なくとも、私の肉体の一部がやられたのである。
・・・
大杉栄は憲兵大尉甘粕正彦の手で殺されたことになっている。当時三十八歳だった大杉のみならず、二十八歳の妻の伊藤野枝と、大杉の甥で六歳だった橘宗一少年も、大杉の子供と間違えられて殺された。宗一は大杉の妹あやめの一人息子で、アメリカで生まれたためにアメリカ国籍をもっていた。そのこともあって、当局も対外的にこの事件を隠し通すことができないと判断したらしい。
「パンとペン―社会主義者・堺利彦と『売文社』の闘い」黒岩比佐子(講談社文庫)
・・・
もちろん、この甘粕正彦は、こののち、三人を殺害した実行犯であるにもかかわらず、懲役十年という軽い判決を受け、さらに恩赦などで刑期を大幅に短縮されて出獄、後に、「満映」の総裁に就任するのである、李香蘭のこの自伝の中にも、ふんだんに甘粕を描いた場面が登場する、また、誰もが知るように、「満鉄(南満州鉄道)調査部」、「満映・満州映画協会」は、「転向」共産主義者、「偽装転向」共産主義者の、いわば「サンクチュアリー」として、機能していた、彼らを、採用し、受け入れたのもまた甘粕であったわけで、たとえば、石堂清倫「わが異端の昭和史」、「続・わが異端の昭和史」などを読めば、この人物が、「国体」を信奉する熱烈な「軍国主義者」であったことは間違いないものの、大杉ら三人の殺害に関しては、真の実行犯を隠蔽するために、「スケープゴート」とされた疑いを、関係者自身が、払拭できない、と感じていたふしがある。

「幻のキネマ満映―甘粕正彦と活動屋群像」山口猛(平凡社ライブラリー)/「李香蘭、私の半生」山口淑子、藤原作弥(新潮文庫)

「わが異端の昭和史」石堂清倫(勁草書房)/「わが異端の昭和史・下」石堂清倫(平凡社ライブラリー)
・・・
あと、映画いくつかの場面についてのメモ、・・・、
「ギロチン社」メンバーの一人、仲喜一、は、「大阪合同紡績」の職工であったが、組合争議に際して、解雇されたことを根に持ち、重役の一人を襲撃すべく出掛ける、ピストルで一人を負傷させたが、それは、人違いであった、・・・、「大阪合同紡績」は、1900年1月設立、1931年には、「東洋紡績株式会社」に吸収合併、とのこと、あるいは、横山源之助(1871-1915)、「日本の下層社会」は、大阪の紡績工場などの労働環境について描いていた記憶があるから、記述があるかも知れない、あとで探してみよう、と思ったものの、今調べてみると、同書の出版は、1899年、この会社の創立には間に合っていないね、そして、この映画の背景になっている関東大震災(1923年/大正12年)以降の時代には、すでにこの世の人ではない、・・・、晩年の彼が「転向者」であったことは、言わないまでも。

「日本の下層社会」横山源之助(岩波文庫)
大杉栄が、壇上を占拠して、「労働者は資本家の奴隷ではない」とぶち上げる集会は、「労働同盟会」と、字幕に説明があった、壇の背後に垂れ下がった、幕に書かれたスローガンは、露骨に「労使協調路線」を示すものであった、wikipediaに問い合わせた限りでは、そのような団体は見つからず、・・・、ただ、ついでといっては申し訳ないが、震災より少し前の1922年に、「東京朝鮮労働同盟会」、「大阪朝鮮労働同盟会」が創立されている、・・・、1925年には、「在日本朝鮮労働総同盟」結成、その中心的活動家に、日本共産党中央委員でもある、「金天海(1899-没年不明)」がいた、・・・。
「女相撲」の興行を見物に来た、中濱鐵、古田大次郎、村木源次郎、和田久太郎、・・・、「風紀紊乱」の取り締まりに、官憲が入ってくる、「尾行の警官を連れてきたんじゃないだろうな」、と詰る中濱に、村木が答える部分が、いまいちよく聞き取れなかったのだが、そこから、昔語りになり、二年前に当たるのか、1921年の「原敬暗殺事件」に話が及ぶ、「あれは、中岡君がやったんだからな」と言う村木のセリフ、・・・、調べてみると、中岡艮一こんいち中岡艮一(1903-1980)、国鉄職員であったとき、東京駅にて、首相原敬を刺殺、wikipedia記事によれば、どうも、アナキストとのつながりよりは、頭山満や玄洋社など、右翼との関係が、深かったようである、1934年に恩赦で出獄、のち満州で陸軍司令部勤務、ソ連から難民としてやって来ていたタタール人たちと、交際があったのであろう、その影響を受け、のちに神戸のモスクでムスリムとなり、イスラム教徒の妻と結婚した、という。
「ギロチン社」の中濱鐵は、少なくとも、この映画の中では、もっぱら大言壮語して、他のメンバーをけしかけては、「テロ行為」に走らせはするものの、自分は、何・も・し・な・い・、者、として描かれている、現実のこの人物も、「死刑判決」を受け、処刑されたものの、「テロ行為」の実行には、ただ一つも関与していなかったと言われている、彼がもっぱら得意としたのは、「略・リャク」と呼ばれる、つまり、これもクロポトキン「麺麭の取」に由来するのだろう、資本家に恐喝を加えて、活動資金を出捐させる、というものだった、「実業同志会」理事、「森本一雄」なる人物、「おもろいこと言わはるわ、あんたらのハッタリ、気に入りました」、と、財布から、紙幣を抜き出して渡す、「今はこれしか出せまへんけど、残りはツケ、ちゅうことで」、・・・、その「ハッタリ」というのが、「あんたの、会社の社長の祖先、細川勝元が応仁の乱を始めて以来、日本の民衆から搾り取った莫大な金を、今、ここで返してもらおう」というもの、「実業同志会」も実在の団体、「森本一雄」も実在の人物のようで、この人物が秘書として勤めていたのが、「鐘淵紡績」の社長で、「実業同志会」の発起人でもあるのだが、その祖先が、細川勝元であるかどうかは、ちょっと確かめられなかった、・・・、で、ずっと後に、その「ツケ」を受け取るべく、再び「リャク」に現れたとき、官憲に通報され、中濱鐵は、逮捕される、・・・、これも、「ハッタリ」や「ツケ」のエピソードは別として、実際に中濱が逮捕されたのは、「実業同志会」の建物の中であった、とのこと。
大杉栄の「仇討ち」のため、テロの標的を、戒厳司令官、陸軍大将福田雅太郎に定め、古田とともに、爆弾の調達を目的として、朝鮮中国国境付近の「豆満江」に赴く、・・・、そこに「義烈団」という団体の名前が登場する、日本からの独立を目的とする朝鮮人組織、上海フランス租界や北京を中心に活動、手榴弾を密造し、数多くのテロ事件を実行した、「三一独立運動」のあった1919年の暮れに結成、1935年に路線闘争などから、解散、とのこと、

・・・
と、このように、思わず「主義者」の端くれとしては、熱がこもって、「アナキスト」たちの事跡ばかりを追いかけてきてしまったが、これが、この映画、の見方、として、「正・し・く・な・い・」ものであることは、もちろん知っている、タイトルの「菊とギロチン」、「菊」は、小作農の夫の暴力に耐えかね、「強くなる」ことを夢見て「女相撲」一座に加わってきた、土俵名「花菊」に由来する、・・・、このタイトルが暗示するように、多かれ少なかれ「インテリ」からなる、「アナキスト」―「ギロチン社」の、大言壮語と乱痴気騒ぎ、果てしない内紛、誹謗中傷、が、「女相撲」一座と、現実にはあり得なかっただろう、「交錯」を経ることで、・・・、まさに、「相撲」という「身体」のぶつかり合いが表象しているような、「身体性」を、獲得し得たかも知れない、という「希望」を、読み取るべきなのだ、・・・、同じく、多かれ少なかれ「インテリ」的な用語を用いるならば、・・・、
私は、近ごろの女優さんの名前なんかちっとも知らないから、いや、もともと、人間の顔を見分ける能力がないから、猫ならちゃんとできるのにな(笑)、たくさん登場する女力士の顔の区別がつかない、そこで、一回目の興行の際の取り組みの一覧をメモしておいた、
×最上川せん―〇小桜はる
×十勝川たまえ―〇小天龍よし
〇若錦まき―×日照山きよ
×勝虎かつ―〇与那国うし
×花菊ともよ―〇玉椿みつ
〇梅の里つね―×羽黒桜まつ
ひょっとしたら間違っているかもしれないが、まず、これで全員だと思う、これを眺めながら、語らせてもらうと、・・・、「小桜はる」は、なにくれとなく「花菊」に親切をしてくれる、彼女は「レスビアン」だ、との噂がある、のちに、巡業の一座の前に官憲が乱入し、「小桜関」は、連行されてしまう、旧民法のもとでは、夫が、捜索願を出せば、「失踪」した妻は、このように検束され得たのであろう、・・・、その土俵名から明らかなように、「与那国うし」は、沖縄出身者、「この非常時に、『女相撲』とは、不謹慎も甚だしい」と、怒鳴り込んできた「在郷軍人会」分会長は、今しも勝利の土俵から立ち去ろうとする、彼女に向って、よく聞き取れなかったのだが、「○○人は、琉球へ帰れ」と罵言を浴びせる、カメラは分会長の背後にあって、「与那国関」の顔が遠景で、左から右に流れる、こちらを振り向いた、その「無表情」、この映画全体の中でも、最も印象的なものの一つであったと思う、・・・、その時客席にいた和田久太郎が、これも前後の脈絡がよくわからないのだが、原敬暗殺事件の余波で潜行を余儀なくされていたのであろうか、琉球に「オルグ」を兼ねて出かけたときの話をする、そして、「与那国関」に向かって、何と言ったのか忘れたが、ちゃんと沖縄の言葉で、声援を送るのである、・・・、「与那国うし」のセリフには、字幕が付くほどだが、「十勝川たまえ」の日本語も、少したどたどしい、一座の一人が、「あの人、朝鮮人だよ、うちの田舎の炭鉱に来てた人たちと、おんなじ喋り方だもの」、と言う通り、彼女は、朝鮮人、・・・、ある夜の浜辺、映画のロケ地は「滋賀県」とあったから、琵琶湖の湖岸なのだろう、・・・、震災直後の「自警団」暴力のありさまを、声を詰まらせながら語る彼女から、つぶさに聞かされた中濱鐵が、「おれがやったわけじゃないけど、この通り、謝る」と土下座する、・・・、現実の中濱鐵は、ずっと以前から、朝鮮人労働者へのオルグ活動などにも従事している「国際主義者」であったこともうかがわれるが、少なくとも、物語としては、福田大将への「テロ攻撃」計画が、大杉栄虐殺に対する「復讐」を、超える「大義」を、この瞬間に獲得したのだ、と「読める」ようになっているのだと思う、・・・、中濱が毛筆で「女相撲」一座のチラシを書き、古田がこれを、配って歩く、のどかな田園風景の中に、「プロレタリア、勤労大衆とともに闘う、『女相撲』をよろしく」などという、古田の呼び声が響く、映画の技法としては、これは、半ば以上冗談なのであろうが、その情景を見ていた、「在郷軍人」の一団、・・・、少し前のところで説明があって、彼らは、「ロシア革命」に対する「反革命」出兵の、帰還兵たち、国家から「金鵄勲章」を授けられていたが、多くは貧農であって、勲章を直ちに質入れしてしまわねばならないほど困窮していたという、・・・、「朝鮮人」と「主義者」が、「女相撲」一座に紛れ込んで、何事かを企んでいる、として、「十勝川関」を連行して、拷問を加える、「花菊」がこれを、「ギロチン社」の二人に通報、ツルハシで武装して、救出に向かうが、あえなく、逆に捕獲される、・・・、「ロシア出兵」など地元民への略奪に終わっただけではないか、と、中濱が詰るのに対して、分会長が答える、小作農が、何の目的かもわからん戦争に駆り出されていく気持ちが、お前たちみたいなインテリにわかるか、と、・・・、こんな「主義者」の首は斬り落とす、刀を振りかざした瞬間に、「十勝川関」の悲鳴を聞いた、もう一人の「在郷軍人」が、取りすがり、子供たちの「アイゴー、アイゴー」という声がいまでも耳を離れない、と、虐殺行為への関与を告白する、村の「自警団」員たちは口を拭い、すべての罪を「在郷軍人」になすりつけたのだ、とも、・・・、そんな風にして、場面は一転二転するわけだが、最後に、中濱の首に向けられた分会長の刀を、降ろさせたのは、「十勝川関」が、「天●皇陛●下万歳」を、唱和することを認めたからだったのだ、・・・、「あらすじ」をバラしてしまうようなはしたないことはしない「主義」だったのだが、なんだか、喋りすぎた気もするので、この辺で強制終了する、・・・、前回のアルベール・カミュ「最初の人間」、での、カミュ=コルムリィの「葛藤」が、「被圧迫者」が同時に「圧迫者」であること、にあったように、ここでの「在郷軍人会」分会長もまた、「植民地主義」の「被害者」の一人でもあるのだとしたら、私たちの?、「ギロチン社」の?、プロレタリア勤労大衆の?、「正しさ」は、どうなってしまうのだ?、どうにもならないよ、「正しさ」を主張しうる「外部」に立つ、ということが、一つの「特権」である、との認識を組み込むことなんて、はたして可能なんだろうか?、さいわい、まだ、少し(笑)、時間が残っているかもしれないから、それを、考え続けていくことにするよ、・・・、もう一度、チママンダ・ンゴーツィ・アディーチェ「アメリカーナ」から引用して、終わりにする、
"It's different for me and I think it's because I'm from the Third World." she said. "To be a child of the Third World is to be aware of the many different constituencies you have and how honesty and truth must always depend on context." She had felt clever to have thought of this explanation but Blain shook his head even before she finished speaking and said, "That is so lazy, to use the Third World like that."
Americanah/Chimamanda Ngozi Adichie
「それは、私にはちょっと違うように思えて、なんでかって言うと、それはきっと私が『第三世界』の出身だからなんだと思うのね」と、彼女は言った。「『第三世界』の子供でいるってことは、さまざまに異なった利害関係人が存在しているってことを常に意識する、ってことで、そんな場所では、正直であるとか、真実である、ってことが、つねに、文脈によって決まってくる、ってわけ。」彼女は、この自分の説明を、なかなか気が利いている、と自慢したかったくらいだが、ブレインは、もう彼女が話し終わる前から首を横に振り始めて、「そんな風に『第三世界』という言葉を使うなんて、怠惰だよ」と言うのだ。
「アメリカーナ」チママンダ・ンゴーツィ・アディーチェ

ちなみに、「彼女」は、合衆国に留学で来ているナイジェリア人で、ブレインは、合衆国生まれの、アフリカ系アメリカ人。「こ・こ・」は、「さまざまに異なった利害関係人が存在」していること、複数の「正しさ」が存在しうることを常に意識しなければならない「第三世界」なんだ、と私は思っている、・・・、「冷戦」時代が終わったにもかかわらず、この言葉になお意味があるのは、つまり、もはや「第一」と「第二」が存在しないかもしれないのに、なお「第三」であるのは、「第三者」、「第三項排除」という用例のように、「三」が、「私」と「あなた」、交換可能な「一」と「二」、「対話」の「両当事者」から排除されているすべて、を指しうるからだ、・・・、それを言うなら、「世界」のすべてが、「第三世界」かも知れないぞ?だったら、「正しさ」を判定しうる「外部」という「特権的」な、場所も、もう、どこにもないことになるぜ?
・・・

労働問題の歌/添田亜蝉坊/土取利行
そう、もう一つ、忘れていた、映画の中に、添田亜蝉坊(1872-1944)の歌がいくつか用いられている、彼もまた、堺利彦、幸徳秋水と交流があり、「社会党ラッパ節」は、堺利彦の依頼による作詞、・・・、私が、その歌を初めて聞いたのは、1996年2月、神戸の震災の一周年、長田甚社の「つづら折りの宴」、「ソウルフラワー・モノノケ・サミット」の歌ったものであった。
・・・
私事にわたるが(笑)、「瀬々ぜぜ敬久たかひさ」、という映画監督は、面識はないけれども、そのお名前だけは、ずいぶん昔から知っていたのである、・・・、「京大映画部」、「日本赤●軍」の「リッ●ダ闘争」の三戦士を表象するといわれる、「オリオンの三つ星」が、その瓦屋根に描かれた、「西部講堂」の同じ構内にボックスを構える、「ブント/赤ヘル」シンパサイザーとして知られた「京大映画部」の出身であることは、上でも触れた、・・・、たまたま映画部出身の知り合いがいて、その人は私より年上だったから、この監督もそうなんだと思っていたら、今調べてみて初めて知ったが、1960年生まれ、私より二年ほど、若いんだね、・・・、その知り合いに誘われて、ちょうど、長年「ピン●ク映画」系の、いわば「下積み」的と、呼ばれるような仕事に携わってきた瀬々監督が、いよいよ「メジャー・デヴュー」が近い、ということだったんだろう、「映画部」が「西部講堂」で、オールナイトの上映会を開催、観に行ったのだ、中身はあまり覚えていない、・・・、その「知り合い」の人とは、後に、私が、酷く義理を欠く振舞をして、この「ゴミ」みたいな人生には、そんなエピソードが、山ほどある、突発的な怒りが暴発して、とんでもなく失礼な振舞に出る、というのは、ずっと後になって、「発病」してみて、ああ、あれも、一つの、「症状」だったのか、とも思う、精神科の先生に、尋ねたら、「いや、それは、一種の『性格異常』でしょう」と一蹴されたから(笑)、たしかに「性格異常」なのかもしれない、・・・、刑法39条2項だったっけ?「心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」、ではあっても、「罪悪感」までは、「減軽」出来ないのだ、だから、この映画監督の名前が、その「知り合い」の人に対する酷い振る舞い、という「罪悪感」の対象となる「トラウマ」経験を、触発してしまうから、いまだに、「検閲」がかかっているらしい、そうなのだ、「罪悪感」の「時効」は、ものすごく、長いものなのだ、ということを知るのである、・・・、「検閲」にもかかわらず、うっかり、「アマゾン・プライム・ヴィデオ」のサイトで、この監督の名前を見つけてしまったのは、つい最近、・・・、原作も、ちゃんと、読んだ、・・・。

「最低。」瀬々敬久(2017)/「最低。」紗倉まな(カドカワ・メディアファクトリー)




Mr Salary/Sally Rooney(Faber & Faber)
Nathan was waiting with his hands in his pockets beside the silver Christmas tree in the arrivals lounge at Dublin airport. ... My suitcase was ugly and I was trying to carry it with a degree of irony.
...
... Nobody would think the suitcase belonged to him, it was obvious. I was the one wearing black leggings with a hole in one knee, a I hadn't washed my hair since I left Boston.
...
My hair feels physically unclean, I said. Not just unwashed but actively dirty.
...
You don't have any news you've been waiting to tell me in person, do you? he said.
Do people do that?
You don't have like a secret tottoo or anything?
I would have attached it as a JPEG, I said. Believe me.(1)
...
During childhood I had frequently been left in the care of his friends, who gave me either no affection or else so much that I recoiled and scrunched up like a porcupine. We lived in the Midlands, and when I moved to Dublin for university Frank liked to call me up and talk to me about my late mother, whom he imformed me was 'no saint'.(2)
...
... Whenever I saw her, she told me I was the apple of her son's eye, in those exact words. She had fastened on to this phrase, probably because it so lacked any sinister connotation. I would have been equally applicable to me if I had been Nathan's girlfriend or his daughter. I thought I could place myself pretty firmly on the girlfriend-to-daughter spectrum, but I had once overheard Nathan referring to me as his niece, a degree of removal I resented.(3)
We went for lunch on Suffolk Street and put all our luxurious paper gift bags under the table. ...
...
Remember New Year's Eve two years ago? I said.
No.
It's OK. The Yuletide is a very romantic time.(4)
...
...They hated each other and I mediated their mutual hatred in a way that made me feel successfully feminine.(5)
...
During a phone call, Nathan had once suggested that the rolling was a coping strategy on my part. It was eleven at night in Boston when I called, meaning it was four in the morning in Dublin, but Nathan always picked up.(6)
...
My love for him felt so total and so annihilating that it was often impossible for me to see him clearly at all. If he left my line of sight for more than few seconds, I couldn't even remember what his face looked like. I had read that infant animals formed attachments to inappropriate things sometimes, like falcons falling in love with their human breeders, or pandas with zookeepers, things like that. I once sent Nathan a list of articles about this phenomenon. Maybe I shouldn't have come to your christening, he replied.(7)
...
As I approached Tara Street, I could see a little crowd had formed around the bridge and at the sides of the road. Their faces looked pink in the darkness and some of them were holding umbrellas, while above them Liberty Hall beamed down like a satellite. ...
... I thought I probably didn't want to see a dead human body lifted out of the Liffey by a rescue boat. But I stayed put. I was standing next to a young Asian couple, a good-looking woman in an elegant black coat and a man who was speaking on the phone. They seemed to me like nice people, people who had been drawn into the drama of it all not for tawdry reasons but out of compassion. I felt better about being there when I noticed them.(8)
Mr Salary/Sally Rooney(Faber & Faber)
ネイサンは、ダブリン空港の、到着ロビー、銀色に輝くクリスマス・ツリーのそばで、ポケットに手を突っ込みながら、待っていてくれた。・・・私のスーツケースは、とてもみっともない、だから、運ぶ時には、なんだかちょっと皮肉っぽい表情でもしていなければ、やってられない感じだった。
・・・
・・・このスーツケースが彼のものだなんて、誰も思わないだろう、それははっきりしている。膝のところに穴のあいた黒いレギンスを穿いているのが、ほかならぬこの私なんだし、ボストン出発以来、私は、髪の毛を洗ってさえいないのだから。
・・・
私の髪って、物理的な意味で、不潔だって感じがする、と私は言った。単に洗ってない、ってだけじゃなくって、積極的に、汚い
・・・
二人っきりになったら、直接伝えたい、と、待ち焦がれていたようなニュースは、何か、ないの?
誰が何を待つ、って?
例えば、ひそかに刺青を入れた、とかさ?
もしそうだったら、私、JPEGファイルにして添付して送ったはずよ、と私は言った。そうでしょ。(1)
・・・
子供の頃、私は、頻繁に、彼の友達のところに預けられた、その人たちは、私に対して何の愛着も示さないか、もしくは、逆に、愛着を示し過ぎるので、今度は、こっちの方が、後ずさりして縮こまらなければならなかった、まるでヤマアラシみたいに。私たちは、ミッドランズに住んでいたのだけれども、大学入学とともに、私がダブリンに引っ越すと、フランクはよく、電話をかけて来て、亡くなった母のことについて、喋り散らしたものだった、彼は、母のことを、「とてもとても、聖人なんてものではなかった」と、言っていたけれど。(2)
・・・
・・・私に会うと彼女はいつも、私に向って云ったものだ、私は、彼女の息子にとって、「目に入れても痛くない存在」なんだって、そう、そういう言い方だった。彼女は、この文句に固執しているみたいだった、おそらく、その言い方だと、何のよからぬ含意も感じられないからだろう。その言葉は、もし、私がネイサンのガールフレンドであったとしても、はたまた、彼の娘であったとしても、同様に適用可能なものなのだ。だから、私としては、「ガールフレンド」から「娘」に至る、さまざまな色合いの範囲のどこかに、、自分をきっちり、位置付けることができた、でも、あるとき、ネイサンが、私のことを、あれは自分の姪だ、と言及しているのを、盗み聞きしてしまった、ちょっとそのよそよそしい感じは、私は嫌だったけどね。(3)
私たちは、サフォーク街で昼ご飯にした、買ってきたばかりの豪華なクリスマス・プレゼントの入ったいくつもの紙袋を、テーブルの下に置いて。
・・・
二年前の大みそかのこと、覚えてる?、と私は言った。
いいや。
いや、別にいいよ。「ユールタイド(クリスマス)」ってのは、とてもロマンチックな季節だからね。(4)
・・・
・・・彼らはお互い同士を嫌っていて、だから、私が間に立って仲を取り持つようなことをしたんだけど、そんなことをしていると、なんだか自分が、上手に「女」を演じている感じがしたものだ。(5)
・・・
電話で喋ってるとき一度、ネイサンは、その「転がっていく」ってやつが、私にとっての、やむを得ぬ適応の一形態なんだ、って示唆したことがある。その電話をかけたのは、ボストン時間で夜の11時、ということは、ダブリンは午前4時、それでも、ネイサンはいつも電話をとった。(6)
・・・
私の彼に対する愛情は、あまりもの全面的、かつ、破滅的なものだったので、私には、彼のことが、全然ちゃんと見えていない、ということがしばしば生じた。私の視線の中から彼の姿が消えてしまってほんの数秒後には、もう、彼の顔がどんなだったか、わからないのだ。確か、そんな論文を読んだことがあるが、動物の子供たちが、不適切な対象に対して、愛着を形成してしまう、たとえば、 ハヤブサの雛が、人間の「鷹飼い師」に恋してしまったり、パンダの赤ちゃんが、動物園の飼育係にほれ込んでしまったり、とか、そういうたぐいの話。一度、そんな現象について書かれた記事の一覧をネイサンに送り付けたことがある。あるいは、私は、きみの洗礼に立ち会わなかった方がよかったのかもね、と彼は返事してきた。(7)
・・・
タタ・ストリートに近づくと、橋の近くの、道路わきに、人だかりができているのが見えた。彼らの顔は、暗闇の中でピンク色に光って見え、傘をさしている人もいたけれど、頭上からは、「リバティー・ホール」の明かりが、まるで衛星みたいに照らしていた。・・・
・・・救助船が「リッフィー川」から、人間の死体を引き上げるところを、たぶん、自分は見たくないはずだ、と思ったのだけれども。どういうわけか、私は、そこにとどまった。隣には、若いアジア人風のカップルがいて、優雅な黒いコートをまとった美人の女性と、携帯電話に向かって話している男の人、だった。私には、この人たちが、善良な人に思えた、彼らが、この、ある種のドラマに、引き込まれてしまったのは、決して、浅ましい動機によるものではなくて、純粋な同情心からであるように見えたからだ。そんな人たちがそばにいることに気づいて、私は、ちょっと気分が楽になったのだ。(8)
「ミスター・サラリーマン」サリー・ルーニー
(1)小説の「あらすじ」をばらすつもりはないから、別に意味が通らなくてもいいのだが(笑)、この小説家は、「引用符/""」を使わない方針らしく、だから、「会話」と「地の文」の区別がつかないし、誰が喋っているのかも、わからないことがしばしば、「わからない」ことが、わ・ざ・と・、仕組まれているのかもしれないが、たしかに、「わからない」から、なお、面白い、ということもあるのだ、ここは、「私」と、その母方の伯父、だったっけ、ネイサンの会話、タイトルの「ミスター・サラリーマン」は、彼のことを言っていて、ウェッブ・デザイナーみたいな、かっこいい仕事をしていて、ものすごくたくさんの給料をもらっているらしい。「私」の汚いスーツケースが似合わない、というのはそういう意味、ここでは、「physically unclean, actively dirty」という表現が、気に入ったので、それから、これも、インターネット時代ならではの「若い」表現だろう、「attach as a JPEG」、「JPEGファイルとして添付する」、の意味だと思う。
(2)ここでの「彼」は、「私」の父、フランク、だから、「聖人なんかじゃ、とてもない」という「私」の母、は、自分の妻のことなのだ、「ハリネズミのように、縮こまる」、愛情表現がくどくて、今風の日本語で言えば(笑)、「ちょっと、ひ・く・」って感じだろうか。

ミッドランズ、アイルランドの地方区分図Regions of Ireland
(3)ここの「彼女」は、ネイサンの母親、・・・、ネイサンと「私」は、さる事情で、同居している、ネイサンの母も、その関係を、どう判断していいか困惑しているのだろう、だから、「ガールフレンドから娘に至るあらゆるスペクトラム」なんて表現になる、・・・、「スペクトラム」というのは、元物理の先生(笑)、の理解では、光を構成する波長成分を並べた図表、可視光ならば、「虹」のように、「赤橙黄緑青藍紫」と並ぶわけだ。
apple of one's eye:元来は、文字通り「瞳」を表わす言葉だが、「何にもまして大事にしているもの」という慣用句となった。
旧約聖書「詩編」第17篇-8、Bible/Psalms 17-8
「Keep me as the apple of the eye, hide me under the shadow of thy wings,」
目に入れても痛くない存在のようにわたしを守り、みつばさの陰にわたしを隠し、」
(4)ここはふたたび、ネイサンと「私」の会話、ここも、引用符もなければ、誰のセリフかもわからないので、「クリスマスって、ロマンチックな季節だからね」って言ったのが、「二年前の大みそか、覚えてる?」なんて、どうも、それが「ロマンチック」な記憶であるらしいのだが、を持ち出した「私」を揶揄するネイサンのセリフなのか、などと、はっきりしないところが、また、含蓄が深いのだ。
Yuletide、「ユールYule」、英語に取り込まれて「ユールタイドYuletide」、「冬至」の頃に行われる、ゲルマン系の祝祭、のちにキリスト教と習合して「クリスマス」となった。
(5)ここでの「彼ら」は、ネイサンと、「私」の父、・・・、「feel successfully feminine」、「上手に『女』を演じている感じ」ではないかと思う、という表現が気に入ったので。
(6)ネイサンと「私」の電話、ボストンの夜11時が、ダブリンの午前4時、もちろん「疑う」わけではないが(笑)、この際、「タイム・ゾーン」の一覧を調べてみようと思ったので、・・・、アイルランドは、なるほど、「GMT/グリニッジ標準時」と同じゾーンに入っているのだね、ボストンは、「-5」のゾーンだから、
(12+4)-5=11
なるほど、合っている(笑)。

Time Zone
(7)「愛情」の問題なのかどうなのか、私も、ほとんど常に、人の顔が、「どんなだったか、わからない」、十年以上も「付き合った」人であっても、だ、思うに、それは、「忘れる」のではなくて、はじめから、「見ていない」、のだ、そう、距離が近すぎると、焦点が合わなくなるか、無理矢理焦点を合わせれば、ディテールは目に入っても、全体像がつかめなくなる、・・・、そうだとすれば、その「近さ」というのが、ここで言う、「全面的、かつ、破滅的」な「愛情」、に、似たものだったかも知れない、という気がしたので、・・・、コンラート・ローレンツ「ソロモンの指輪」(ハヤカワ文庫)、鳥類の雛には、卵の殻を自らの嘴で破って初めて外の「世界」を「見た」とき、初めて目に入った「生き物」を、「親」と認識するような、「刷り込み」ができていて、もちろん、それは、そのように「刷り込まれ」ている変異群の方が、安全に生き延びる「確率」が高かった、から、そうなった、と理解すべきなのであるが、巣からこぼれてしまったのだったっけ、ローレンツ氏が手ずから温めて孵した、生まれたばかりのハイイロガンの雛が、そうして、ローレンツ氏を、「親」に選んでしまった、という、ちょっと感動的なエピソードが描かれていたな、・・・、母親の子宮の中で安全に大きくなることが望ましいが、大きくなりすぎると、排出の際に、産道を傷めてしまう、という矛盾を解決するために、哺乳類は、排出後も長く、「母親」の保護のもとで、母乳を与え続ける、という方法を、鳥類は、あらかじめ固い殻の中に、子供とともに、当面の栄養分を閉じ込めておく、という方法を採用した、だから、とりわけ、鳥類においては、「親」が、その後の、巣立ちまでの保護を与えてくれるものならば、誰・で・も・よ・い・、という事態が生ずる、・・・、でも、鳥類ほどではなくても、この「刷り込み」現象は、哺乳類でも、ある程度はみられるような、これは、私自身が、猫たちと暮らしてきた「経験」からの印象なのだけれども、・・・、たとえば、私の「二の腕」を、「お●っぱい」に見立てて、飽かず吸っている子猫の姿を思い浮かべ、なるほど、これが「不適切な対象に対して形成された愛着」なのだな、と腑に落ちたところ。
まるで「鷹匠」みたいに。

「ソロモンの指輪」コンラート・ローレンツ、日高敏隆訳(ハヤカワ文庫)
Konrad Lorenz(1903-1989)、彼は、1928年に、ウィーン大学を卒業している、ならば、ジークムント・フロイトと、少なくとも同じ町に住んでいたことにはなる、もっとも、この人は、そう、ちょうど、フロイトがロンドンに向けてこの町を離れる年だ、1938年に、ナチに入党、ナチ体制下で、ケーニッヒスベルクKönigsberg大学に職を得ているようだから、とても「接点があった」なんて、言えない、・・・、ロシア戦線で、連合軍の捕虜となり、1948年までアルメニアの収容所で暮らす、だが、医師の資格を有していたので、ある程度優遇を受けたようでもある、・・・、晩年は、「オーストリア・緑の党」を支持して、自然保護活動に従事、また、死後に、ナチ党員であった過去が露見して、学位を剥奪されたりもしたようである。
(8)「リバティー・ホールLiberty Hall」、ベレスフォード・プレイスBeresford Placeとエデン波止場Eden Quayの間、税関波止場Custom House Quayの近くに建っている、リバティー・ホールLiberty Hallは、元は「ノーサンバランド・ホテルNorthumberland Hotel」であったが、やがてそれが、「アイルランド市民軍Irish Citizen Army(ICA)」本部になった、これは、ダブリンで結成された「アイルランド交通および一般労働組合Irish Transport and General Workers' Union (ITGWU)」によって、労働者のデモ隊を、ダブリン首都警察の暴行から防衛するために、1913年に結成された準軍事組織、1913年8月から、翌1914年1月まで、2万人の労働者が参加して、組合結成の権利を求めて闘ったと言われる「ダブリン・ロックアウトDublin Lock-out」の際には、その場所に、労働者の家族のための「炊き出し所soup kitchen」が設営された、第一次大戦開戦に当たっては、その建物には、「我々は王や皇帝のために戦うのではない、ただアイルランドのために戦うのだ/We Serve Neither King nor Kaiser, But Ireland」という横断幕が掲げられた、「ICA」の機関紙、「ザ・アイリッシュ・ワーカーThe Irish Worker」の印刷所もあった、この新聞は、英国政府によって、扇動容疑で禁止処分、後継紙「ザ・ワーカーThe Worker」も禁止の後、ジェイムズ・コンロイJames Connolly(1868-1916)が、三番目の新聞、「ザ・ワーカーズ・リパブリックThe Workers' Republic」を編集、1916年の、4月24日、「イースターの月曜日」から、6日間にわたって、「アイルランド義勇軍Irish Volunteers」、「ICA」等によって繰り広げられた「イースター蜂起Easter Rising」、まで続いた、この蜂起以前も、「リバティー・ホール」は、爆弾や銃剣を製造する、兵器工場として機能していた、「蜂起」の日、イースターの月曜日にリーダーたちが、集結して「中央郵便局General Post Office」までの行進を開始したのも、「リバティー・ホール」前の街路だった、イースターの一週間にわたって、この建物は、空っぽにされていたのだが、イギリス当局はそれを知らず、さかんに砲撃を加え、完全に破壊した、・・・、建物は、のちに再建されたが、1950年代末になって、倒壊の危険があるとして、解体された、現在の建物は、1961年から1965年に再建されたものである、1972年に「アルスター義勇軍Ulster Volunteer Force(UVF)」の爆弾攻撃によって、一部が破壊された、・・・。
・・・
ところで、「ネイサン」という名前、Nathan、ヘブライ語の動詞「(神が)与えたもうたところの」、に由来する男性のファースト・ネーム、Nathaniel、は、そのギリシャ語化した形。前に、たまたま古本屋で見つけた、ナサニエル・ウェスト、という作家のことについて、ハリウッドで、リリアン・ヘルマンと一緒に仕事をしたこともある人らしいから、ちょっと、書いた↓
ナサニエル・ウェスト、そして、スペインのリリアン・ヘルマン
この作家は、リリアン・ヘルマンと同じく、「ユダヤ系」なのだと言われているけれども、そこで、今調べていて思いついただけのことだが、あるいは、この「ネイサン」なり「ナサニエル」なり、というファースト・ネーム、「旧約聖書」にも登場する人物かも知れないが、ヘブライ語、ユダヤ的伝統、と深いかかわりがありそうなので、ひょっとしたら、とても「ユダヤ人」らしい、名前だ、と受け入れられているのかも、と想像してみた、・・・、もちろん、たとえば、作家サリー・ルーニーの母方の血筋が、「○○系」かも、とか詮索するつもりなのではなくて、たとえば、私たちのまわりの「日本語」世界の場合だったら、東京生まれの著述家、与那原恵、なんて名前を聞けば、「よなはら」と、ルビが振られていても、ああ、「与那原(よなばる)」さんね、沖縄の人さ、と判断できたり、あるいは、在日コリアンが、「通名」に、元の名前の漢字表記に近いものを選ぶことが多いから、ああ、なるほど、あの人、コリアンかもね、みたいにわかってしまうのと、似たような場面が、あるいは、「ユダヤ人」と「非ユダヤ人のヨーロッパ人」との間に成立しうるのかな、と、想像してみただけなのだけれど。
Nathanael West(1903-1940)
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さて、こうして、アイルランドの町や、ダブリンの街路の名前なんかに、少し馴染んだことだし、では、ジェイムス・ジョイス「ダブリン市民」、読みなおしてみるか(笑)、英語版も、「プロジェクト・グーテンベルグ」で、ただで入手できるみたいだし、・・・。
Dubliners/James Joyce(Project Gutenberg)
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His parents went to eight-o’clock mass every morning in Gardiner Street and the peaceful odour of Mrs Dillon was prevalent in the hall of the house.
彼の両親は、ガーディナー街の毎朝八時のミサへ出かけるので、家の玄関の間にはディロン夫人のなごやかな香料が匂っていた。(1)
...
I’m surprised at boys like you, educated, reading such stuff. I could understand it if you were ... National School boys.
おまえたちのようにりっぱな教育を受けた生徒がこんなものを読むなんて、たとえば・・・・・・国民学校ナショナル・スクールの生徒たちならば、いざ知らず。(2)
...
We were to meet at ten in the morning on the Canal Bridge.
朝十時に運河橋カナル・ブリッジに集まること。(3)
...
We arranged to go along the Wharf Road until we came to the ships, then to cross in the ferryboat and walk out to see the Pigeon House.
桟橋路を汽船のいるところまで行って、それから渡し舟で渡って、歩いて「鳩の家ピジン・ハウス」を見に行くことに決めた。(4)
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“That’s forfeit,” said Mahony. “And so much the better for us—a bob and a tanner instead of a bob.”
「そりゃあ罰金さ」とマーニー、「それだけおれたちの得じゃないか―一シリングのところが一シリング六ペンスになったんだからな」
We walked along the North Strand Road till we came to the Vitriol Works and then turned to the right along the Wharf Road.
私たちはノース・ストランド道路を歩いて硫酸塩工場まで行き、そこから右に曲がって、桟橋路についていった。(5)
...
I objected that the boys were too small and so we walked on, the ragged troop screaming after us: “Swaddlers! Swaddlers!” thinking that we were Protestants because Mahony, who was dark-complexioned, wore the silver badge of a cricket club in his cap.
私は男の子があまり小さいからと反対した。そこで私たちはそのまま行きすぎたが、例のきたない連中がうしろから「スウォードラースウォードラー!」と叫びたてた。色が黒いマーニーが帽子にクリケット部の銀の徽章をつけていたので、二人を新教徒だと思ったのであろう。(6)
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We pleased ourselves with the spectacle of Dublin’s commerce—the barges signalled from far away by their curls of woolly smoke, the brown fishing fleet beyond Ringsend, the big white sailing-vessel which was being discharged on the opposite quay.
ダブリンの交易風景がほしいままにながめられた――もくもくとのぼる煙が遠方からも目じるしとなる荷船やリングズエンドのむこうにいる一団の茶いろの漁船や、むこう側の埠頭にいま荷揚げしている大きな白い帆前船。(7)
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We crossed the Liffey in the ferryboat, paying our toll to be transported in the company of two labourers and a little Jew with a bag.
私たちは渡し舟でリーフィー河を渡った、渡し賃を払い、二人の労働者と鞄をさげた小さいユダヤ人といっしょになって。(8)
...
When we were tired of this sight we wandered slowly into Ringsend.
この見物にも飽きると、私たちはぶらぶらとリングズエンドへはいっていった。(9)
...
We both felt rather tired and when we reached the field we made at once for a sloping bank over the ridge of which we could see the Dodder.
二人ともやや疲れてきたので、原っぱまで来ると、すぐ斜面になった堤へ向かった。その上に登ると、ドッダー河が見えるのであった。(10)
...
It was too late and we were too tired to carry out our project of visiting the Pigeon House.
時間がおそくなったし、私たちも疲れていたので、「鳩の家ピジン・ハウス」へ行ってみる計画は実現できなかった。(11)
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Mahony looked regretfully at his catapult and I had to suggest going home by train before he regained any cheerfulness.
マーニーは恨めしそうにパチンコを見た。それで私は、汽車で帰ろうということを、彼がまた元気にならないうちに言う必要があった。(12)
An Encounter/Dubliners/James Joyce/「邂逅」ジョイス(新潮文庫「ダブリン市民」所収)

さあ、では、ご一緒に(笑)、歩いてみましょう!(1)毎朝ミサに出かける教会、は、きっと家のすぐ近くなんだろうから、彼らの住処は、「ガーディナー街」あたり、ということにしよう、上の、サリー・ルーニーにも出てきた「リバティー・ホール」の真北、600mくらいの街区、(3)の「運河橋/カナル・ブリッジ」は、見つけられなかった、頭文字が大文字になっているけれど、ほぼ「普通名詞」なのかもしれない、「ガーディナー街」から真っすぐ東へ向かえば、1kmほどで、「ロイヤル・カナルRoyal Canal」にぶつかるだろう、この運河は、南行して「ドックランズDocklands」というところで「リッフィー河River Liffey」に合流する、橋が四つばかりあるが、名前が付いているのは、「ガーディナー街」から見ると、東北東あたりになる「ニューコメン橋Newcomen Bridge」だけだ、そのどれかの橋が、集合場所だったことにしよう、(4)の「桟橋路」も、同様に「普通名詞」的なものと思われる、前に、「ホテル・ニューハンプシャー」のウィーン、「フランツ・ヨーゼフ河岸道路」というのが出てきた、その「河岸」に当たるドイツ語が「Kai」で、英語でのその対応語が、この「リッフィー河」周辺の地名にたくさん見られる、「Quay」であろうと思われる、だから、この河岸一帯、およそどこでも、「Quay波止場」であり、「Wharf桟橋」でると言ってもいいのだろう、(5)の「ノース・ストランド道路」というのは、ちょうど、その「ニューコメン橋Newcomen Bridge」をはさんで、南西側に200m、北東側は、400mほど、「トルカ川Tolka River」までの区間の呼び名らしい、「硫酸塩工場Vitriol Works」がどこなのかもわからないが、「右」に曲がって、「リッフィー河」河岸のフェリー乗り場に向かう、というのなら、やはり、集合場所が、「ニューコメン橋」で、そこから、「ノース・ストランド道路」を少し、北東に向かって歩き、しかる後、右折して、南東方向に向かう、としか考えようがなくなるだろう、ちょっと遠回りになる気もするが、「ノース・ストランド道路」が「トルカ川」に出会ったところで、右折すれば、それが「イースト・ウォール道路East Wall Road」で、道なりに行くと、南東向きから、南向きに変わって、たしかに、「リッフィー河」対岸に、「ピジョン・ハウス道路Pigeon House Road」や「リングスエンド公園Ringsend Park」を望める場所に来る、今は大きな橋、「トム・クラーク橋Tom Clark Bridge」となっている場所が、かつてはフェリーの桟橋だった、というのも、悪くない想像だと思われる、「Pigeon House」は、1903年に操業開始した、世界初の「三相交流」発電所の名前、さらに遡れば、1761年に始まった、ここより東の「ダブリン港Dublin Port」突端の大防波堤「グレート・サウス・ウォールGreat South Wall」建設に従事する労働者の、休養施設の名称であった、なるほど、そうは書いていないけれども、「鳩小屋」を思わせるような作りだったのかもしれない、同名のレストランは、のちのちも、ダブリンでもっとも著名な観光スポットであったらしい、、(7)では、ま・だ・、「リッフィー河」を渡っていない、のだから、彼らは、北岸にいる、「むこう側の埠頭opposite quay」というのは、従って、川の南岸を指すのだろう、同じ「むこう」という日本語になっているが、「リングズエンドのむこうbeyond Ringsend」は、あるいは、リングズエンドのさらに東、そこはまもなく海で、「ダブリン港Dublin Port」なので、そのあたりを指しているかもしれない、・・・、「リングズエンド」とは、文字通り「輪ring」の「端end」の意味だったようであるが、何の「輪」であるのかはよくわからない、・・・、1204年に建てられた「ダブリン城Dublin Castle」は、アングロ―ノルマン系のアイルランド支配の根拠地として機能し、ダブリンは、周辺の「原住民」部族からの防衛のために四囲を囲んだ城郭都市であった、・・・、というような記述もあったし、これは想像だが、イギリス人入植者が、「原住民」であるアイルランド人を、市を囲む「城壁」、の外側に追いやったのだとしたら、その「城壁」は「輪Ring」のように見えるだろう?そして、この、もう海に近い場所は、その「端End」ではないか?すでに「East Wall」は発見した、そこで、調子に乗って東西南北、皆あるのでは、と、「検索」してみると、残念ながら、「West Wall」は見つからず、「North Wall」は困ったことに、「East Wall」の南側で、そして、「South Wall」は、ダブリン港沖合の埋め立て地の防波堤に付された名称だから、「城壁」よりもはるかに時代が下ったものであることがわかったのみであった、ただ、興味深い発見としては、この「リングスエンド」の南側に、「アイリッシュタウンIrishtown」なる一角があること、これは、たしかに、城郭都市から「追い出された」アイルランド人が、集住して形成した町、という歴史があるようである、(8)(9)上で想定したとおり、「トム・クラーク橋」付近に「渡し舟」の桟橋があったとして、そこから、「ドッダー河」によって、あたかも「島」の様に仕切られた、「リングズエンド」に、「はいって」行くことになるのである、・・・、(10)「リングズエンドRingsend」のちょっと小高い丘にでも登れば、それが「原っぱ」とすれば、たしかに、西の方に、南北に、南から北へ、だろうか、流れる「ドッダー河River Dodder」の土手が見えるはずだ、(11)「『鳩の家』へ行ってみる」というのは、当時は、もう、観光レストランになっていた、「ピジョン・ハウス」ということであろうか、(12)往きは相当な距離を歩いたことになる、「ガーディナー街」、500m、「ニューコメン橋」、600m、「ノース・ストランド道路」、800m+600m、「イースト・ウォール道路」、「渡し舟」、300m、「リングスエンド」、・・・、
500+600+800+600+300=2800
3キロ弱、帰りは疲れたから汽車にしよう、ということに、、当然、なるわけで、もちろん、汽車の路線があるならば、・・・、下図をご覧いただきたい、これは、おあつらえ向きに(笑)、1912年現在の、ダブリン市の鉄道路線図なのだそうである、「リングズエンド」から「ドッダー河」に沿って少し南に下がったあたりに、「ランスダウン道路Lansdowne Road」という駅がある、線路は、そこから、北西に向かい、「ウェストランド・ロウWestkand Row」、「タラ街Tara Street」、ここで、「リッフィー河」を渡り、「アミエンス街Amiens Street」、ここまでくれば、もう「ガーディナー街」は、200mくらい、目と鼻の先、である。
(2)アイルランドの初等教育システムには、国家の援助を受けない、それぞれの教派、主流はカトリック、と思われるが、が主体となった私立学校が少数ではあるものの存在し、これとは別に、国家から資金援助を受ける「ナショナル・スクールNational school」が存在する、イギリス統治時代にさかのぼるもので、「多宗教性」を標榜、カトリックの影響を減殺する目的であったかもしれない、運営主体である「教育委員会」は、6人のメンバーからなり、「ローマ・カトリック」、「アイルランド教会Church of Ireland(アングリカン、英国国教会に属する)」、「長老派Presbyterians」からそれぞれ2人ずつが選出されている、とのこと、・・・、ここでは、「おまえたちのようにりっぱな教育を受けた」というのが、カトリック教会付属の私立学校を指していて、おそらく、多少とも裕福なカトリック系住民は、このように「国民学校」に対して、見下すような姿勢をとっていたのであろうことがうかがわれる、・・・、前に引用したサリー・ルーニー「お友達との会話」にも、カトリック修道会運営の女子校に通っていた二人のうち、一方が「レスビアン」、もう一人が「コミュニスト」、というのが、いわば「笑い話」として書かれていた。
(5)以前、ジョージ・オーウェルとともにロンドンを「放浪」する、で見たように、1971年に十進化される前は、1ポンドは、20シリング、1シリングは12ペンス、都合1ポンド240ペンス、となっていた、・・・、ここでは当初3人で出かける予定だったが、一人が怖気づいたのか、来なかった、すでに「会費」のようなものとして、そのもう一人も、六ペンス払っていたので、もし、二人だけなら、「六ペンス」と「六ペンス」で「十二ペンス」すなわち「一シリング」だったはずのところ、もう一人分のお金だけはすでにとってあるから、「六ペンス」の3人分で、「一シリング六ペンス」、という計算、
bob:十進化される以前の時代の一シリングのコイン
tanner:同じく、六ペンスのコイン
・・・
Vitriol、硫酸塩
Blue vitriol/Vitriol of Cyprus/Roman vitriol:CuSO4·5H2O
Green vitriol/Copperas:FeSO4·7H2O
Red vitriol:CoSO4·7H2O
Vitriol of argile/Vitriol of clay:Al2(SO4)3
Vitriol of Mars:Fe2(SO4)3
White vitriol:ZnSO4·7H2O
(6)「スウォードラー」、ネット上のある辞書には、次のような説明があった、Swaddler:(Ireland, historical) Synonym of souper (“Catholic who converted to Protestantism to receive food aid”)、アイルランドで歴史的に使われてきた用語、「スーパー(スープをもらう人)」と同義、食糧援助を受け取るために、プロテスタントに改宗したカトリックを指す。「swaddling」とは、赤んぼうを、細長い布で、固く巻き付ける習慣を呼ぶらしい、だが、その、細長い布で赤ん坊を巻き付ける習慣と、「プロテスタント」がどういう関係にあるのか、は不明、また、マーニーの「色が黒い」こと、や、「銀の徽章」がどうして、「新教徒」と判断される根拠になるのかも、ちょっとわからなかった。
(12)上述したように、これは、「1912年の、ダブリン周辺鉄道路線図Dublin rail network in 1912」、とのこと。

・・・
North Richmond Street, being blind, was a quiet street except at the hour when the Christian Brothers’ School set the boys free.
...
北リッチモンド街は行きどまりなので、クリスチャン・ブラザーズ小学校から子供らが退ける時刻以外は、静かな通りだった。(1)
・・・
... On Saturday evenings when my aunt went marketing I had to go to carry some of the parcels. We walked through the flaring streets, jostled by drunken men and bargaining women, amid the curses of labourers, the shrill litanies of shop-boys who stood on guard by the barrels of pigs’ cheeks, the nasal chanting of street-singers, who sang a come-all-you about O’Donovan Rossa, or a ballad about the troubles in our native land.
...
・・・土曜日の夕方、伯母が買い物に出るときは、私もしたがって荷物の一部を持たねばならなかった。私たちは、酔っぱらった男や買物を値切っている女連に突きあたり、労働者のあくたい、豚の頬肉の塩漬樽に張り番をして並んでいる小僧たちのかん高い連呼、オゥドノヴァン・ロッサに関する「みんなこいこい・・・・・・」とか、わが国の事件を織りこんだ歌謡を歌う辻歌手の鼻にかかった歌声などがする、けばけばし街路を通っていた。(2)
・・・
... She asked me was I going to Araby. I forgot whether I answered yes or no. It would be a splendid bazaar, she said; she would love to go.
“And why can’t you?” I asked.
While she spoke she turned a silver bracelet round and round her wrist. She could not go, she said, because there would be a retreat that week in her convent.
...
・・・彼女は、「アラビー」へ行くかどうかをきいた。私がう・ん・と答えたか、う・う・ん・と答えたか、よくは憶えていない。すてきなバザーらしいから、ほんとに行ってみたいわ、と彼女が言った。
「だって、どうしていけないの?」と私はきいた。
彼女は話しながら、銀の腕輪を手首のところでぐるぐる回した。ちょうどその週は、彼女の通っている尼僧院の学校静修にあたるので行けないのだ、と言った。(3)
・・・
I held a florin tightly in my hand as I strode down Buckingham Street towards the station. ... After an intolerable delay the train moved out of the station slowly. It crept onward among ruinous houses and over the twinkling river. At Westland Row Station a crowd of people pressed to the carriage doors; but the porters moved them back, saying that it was a special train for the bazaar. I remained alone in the bare carriage. In a few minutes the train drew up beside an improvised wooden platform.
私は、停車場に向かってバッキンガム街を急ぎながら、一フロリンの銀貨をしっかりと手に握っていた。・・・さんざん待たしたあげくに、汽車はのろのろと停車場を出た。荒廃した家々の間やきらきら光るの上を通っていった。ウェストランド・ロウ駅では大勢の人々が客車のドアに集まってきたが、駅員たちはこれはバザー行きの特別列車だと言って、彼らを押しのけた。だれもいない車室には私だけだった。数分して汽車は木造の臨時プラットホームについた。(4)
Araby/Dubliners/James Joyce/「アラビー」ジョイス(新潮文庫「ダブリン市民」所収)
(1)「北リッチモンド街」は、地図で見ても、本当に、袋小路だ。
「クリスチャン・ブラザーズ小学校Christian Brothers Primary School」は、アイルランド各地にあるようだが、この「北リッチモンド街」付近には発見できず
(2)Jeremiah O'Donovan Rossa(1831-1915)、在合衆国のアイルランド共和派組織である「フェニアンFenian」の指導者にして、「アイルランド共和派兄弟団Irish Republican Brotherhood(IRB)」メンバー、ロスカルベリーRosscarbery出身、「アイルランド大飢饉Great Irish Famine(1845-1852)」に幼少期を過ごし、1856年には「フェニックス民族文芸協会」を設立(この組織は、のちに、1858年に創立したIRBと合同)、独立した共和国アイルランドのために尽力した、1865年、彼が支配人を務めていた「ザ・アイリッシュ・ピープル」紙が捜索を受け、逮捕、国家反逆罪で起訴される、姉のアナ・パーネルAnna Parnellとともに、「女性土地同盟Ladies' Land League」の共同設立者であったファニー・パーネルFanny Parnellにとっては、この裁判を傍聴した経験が、その思想形成に影響を及ぼしたと言われている。英国およびその植民地たるアイルランドへの入国禁止を条件とする釈放により、合衆国に亡命、ニューヨークに居住、同地で、「クラン・ナ・ガエルClan na Gael」、「フェニアン兄弟団Fenian Brotherhood」に参加、新聞発行のかたわら、ダイナマイトを使用した爆弾テロ活動のための、資金集めに従事、・・・、アイルランドに二度帰国を認められたが、最後には、ニューヨークの病院で亡くなった。
(3)「アラビーAraby」は、アラビアを表わす雅語だそうだ、新潮文庫の訳注では、1894年にダブリンで、そのような名称のバザーがたしかに催された、とのことだが、wikipediaで、ウラを取ることはできなかった。
(4)「1フロリン」は、「2シリング」、「バッキンガム街Buckingham Street」をくだっていって、停車場につくのなら、そこは、「アミエンス街Amiens Street」駅だろう、そこから、たしかに、「リッフィー河」を渡って、「ウェストランド・ロウWestland Row」駅に着く、そこから先のどこかに、「バザール」会場の、臨時停車場があったのだろう。
・・・
一九〇四年十月八日、ジョイスはノラとともにヨーロッパに向かって、ダブリン港を発った。外国語を速成的に習得させるべくベルリッツ学院の語学教師として、初めチューリッヒに派せられることになっていたのだが、手違いでそこに職がなく、やむを得ずトリエステへ赴いた。翌年一時トリエステからポーラに移ったが、またトリエステに戻った。・・・
この前後約三年間にわたって、『ダブリン市民』の中の諸短編を書きつづけ、その出版をロンドンのグランド・リチャーズに交渉したが、数編の幾カ所かの訂正を求められたので、契約は不調に終わった。・・・
新潮文庫「ダブリン市民」、訳者解説
チューリッヒZürich/Switzerland
トリエステTrieste/Italy、1382~1918、ハプスブルグ王国Habsburg Monarchy領、第一次大戦末期にイタリアが占領、ファシスト政権下のトリエステは、「未来派futurist」など前衛芸術の中心でもあったとともに、スロベニアの反ファシストによる爆弾闘争なども頻発、また、1938年の反ユダヤ主義法制により、イタリアで三番目に大きかったと言われる、同市のユダヤ人コミュニティーは、大きな打撃を受けた、1943年、ナチによるイタリア社会国Italian Social Republicに併合、1945年5月1日、ユーゴスラヴィア・パルチザンが、市のほとんどの部分を解放、チトーJosip Broz Titoと米英との合意により、ユーゴスラヴィア軍撤退後、米英の軍政下に置かれる、1947~1954、国連保護下にトリエステ自由領Free Territory of Trieste、1954年、「自由領」のうち、トリエステを含む大部分はイタリアへ、他は、ユーゴスラヴィアの、スロベニア、クロアチアへ。
ポーラPola/Pula、カロリング朝Carolingianのイストリア辺境領Margraviate of Istria、1364年以降、ハプスブルグ王国Habsburg Monarchyの一州、のち、オーストリア帝国Austrian Empire(1804-1867)、オーストリア・ハンガリー帝国Austria-Hungary(1867-1918)、第一次大戦後、イタリア王国Kingdom of Italyの一州(1923-1947)、第二次世界大戦後の、連合軍占領を経て、1947年から、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国Socialist Federal Republic of Yugoslavia (SFR Yugoslavia)を構成するクロアチア社会主義共和国Socialist Republic of Croatiaのイストリア州、現・クロアチアCroatiaのプーラPula


アイルランドの歴史を「瞥見」しようなどと考えたが、無謀だったようだ、そこで、「イースター蜂起」以降の「国名」一覧、そして、「シン・フェイン」党の分派闘争の歴史を、1970年の「プロヴィジョナル/オフィシャル」まで、なんとかたどってみることにとどめ、それでも、年号などに齟齬がみられたりするが、一応このまま備忘として残しておくことにする、・・・。
1916年、「イースター蜂起Easter Rising」、「アイルランド独立戦争 Irish War of Independence」、「アイルランド内戦Irish Civil War」
1919年~1922年、「アイルランド共和国Irish Republic」
1922年、「アイルランド分割partition of Ireland」
1922年~1937年、「アイルランド自由国Irish Free State」
1948年~、「アイルランド共和国Republic of Ireland」
・・・
「シン・フェインSinn Féin」、略史
1905年、創立、当初の政策は、「アングロ―アイリッシュ二重王政Anglo-Irish dual monarchy」
1914年、「シン・フェイン」党員の多くが、英下院議員ジョン・エドモンド・レドモンドJohn Edward Redmond(1856-1918)率いる穏健派ナショナリスト、「アイルランド議会党 Irish Parliamentary Party (IPP)」および、その準軍事組織「アイルランド国民義勇軍Irish National Volunteers (INV)」に反対して、「アイルランド義勇軍Irish Volunteers」に加入、また、これらの党員は「アイルランド共和兄弟団Irish Republican Brotherhood」のメンバーでもあったことから、1916年の「イースター蜂起Easter Rising」に参加、このため政府や新聞は、この「蜂起」を「シン・フェイン蜂起」と呼んだ、そして、「蜂起」後の1917年、「シン・フェイン」は、正式に「アイルランド共和国」の設立を求める共和派政党であることを宣言した。
1918年選挙で「シン・フェイン」圧勝、ダブリンに、アイルランドの議会として、「Dáil Éireann」を形成。
1919年~1921年の「アイルランド独立戦争Irish War of Independence/イギリス―アイルランド戦争Anglo-Irish War」期間中は、「アイルランド共和軍Irish Republican Army」を支持した。北部の「アルスターUlster」では、多数派のプロテスタントが、「ユニオニスト/ロイヤリストunionist/loyalist」と呼ばれる「親英派」に立ち、「special constabulary」という警察部隊や、準軍事組織が、「IRA」に対する報復攻撃を行った。1921年5月、イギリスの立法により、アイルランドは、分割され、こうして「北アイルランド」が成立。
1921年7月、停戦開始、同年12月「イギリス―アイルランド条約Anglo-Irish Treaty」、これにより、アイルランド南部への英国支配は、「暫定政府」による10カ月の移行期間ののち、終了、1922年12月、「アイルランド自由国Irish Free State」創立、しかし停戦合意後も、北部のベルファストや国境地帯における戦闘は継続、1922年5月には、「IRA」が北部への侵攻を試みたが失敗、「イギリス―アイルランド条約Anglo-Irish Treaty」の評価をめぐって、共和派内部に分裂が生じ、11カ月に及ぶ「アイルランド内戦Irish Civil War」に突入する。
1923年4月、「シン・フェイン」内の「条約」支持派が分裂して、「Cumann na nGaedheal」結成、これは、のちの1933年、他の小党派を加えて、「フィーナ・ゲイルFine Gael」を形成することになる。「Cumann na nGaedheal」は、「アイルランド自由国」の存続期間のうち9年間にわたって、政権をとることになる。「シン・フェイン」は、議会をボイコットし続けたが、これに反対した部分が、脱党、1926年5月、「フィアナ・ファイル/共和党Fianna Fáil–The Republican Party」を結成、「シン・フェイン」所属の多くの、「Dáil Éireann」議員も、これに同調した、この分裂は、また、「シン・フェイン」に対するアメリカからの資金援助も途絶えるという結果をもたらした。1932年の総選挙で、「フィアナ・ファイル」が政権につき、以後16年間にわたって、独立アイルランドの政権党の位置にとどまり続ける。1950年代、1960年代を通じて、議会政党としての「シン・フェイン」の支持率は低迷、「IRA」の北アイルランドへの「越境攻撃Border Campaign」の期間を通じて、「シン・フェイン」の指導者層は、左傾化、マルクス主義への接近、国際的反帝国主義運動への傾斜を深め、この傾向が、国内問題への限定、武装闘争の維持、に固執する党内の伝統的な共和主義者たちから、さらなる反感を買った。
1970年1月、議会ボイコット戦術を終了させ、アイルランド共和国議会「Dáil Éireann」、および、北アイルランド議会、イギリス議会への立候補を認める提案が、党の大会である「Ard Fheis」に提出され、同様の動議が、「IRA」大会でも提出された。議会ボイコット終了反対派が、「プロヴィジョナル(暫定措置派)Provisional」を形成、1970年10月の党大会「Ard Fheis」では、「暫定期間 provisional period」の終結を宣言したが、この時期までにすでに、「プロヴィジョナル派Provisional/プローヴォProvo」の呼称が定着、これに対して、議会ボイコット終了支持派は、「オフィシャル・シン・フェインOfficial Sinn Féin」として知られるようになった、このグループは、1977年には、「シン・フェイン―労働党Sinn Féin – The Workers' Party」、ついで1982年には、「労働党The Workers' Party」と改称した。この党派は、マルクス―レーニン主義を標榜し、「オフィシャルIRA」と緊密な関係を有している、この党派に由来する分派としては、「イースター蜂起」の英雄ジェイムス・コンロイJames Connollyの正統な後継者であることを自任する「Irish Republican Socialist Party(IRSP)」などがある。「プロヴィジョナル派」、「オフィシャル派」は、それぞれ、事務所の所在地から、「シン・フェイン(ケヴィン街派)Sinn Féin(Kevin Street)/Provisional Sinn Féin」、「シン・フェイン(ガルディナー・プレイス派)Sinn Féin(Gardiner Place)/Official Sinn Féin」とも呼ばれる。
・・・

霧の滴Foggy Dew/ソウル・フラワー・ユニオン
「イースター蜂起」のことを調べていて、思い出した、「ソウル・フラワー・ユニオン」を知ることになるのは、神戸の震災のほぼ一周年、1996年1月21日、日曜日、の、長田神社、「つづら折りの宴」、・・・、この歌詞カードに書かれているところによれば、その「蜂起」の「イースターの月曜日」の、正確に80年後の同じ日に、つまり、1996年4月24日、この「Foggy Dew」が録音された、とある、「エレクトロ・アジール・バップ」というこのCDの発売は、するともう少し後ということになるな、・・・、ちなみに、この年1996年の、「イースターの月曜日」は、4月8日ということになる、別にケチをつけるつもりじゃない、ただ、調べたくなっただけだから、・・・、

復習しておくと、太陽暦の「春分」直後の「満月」が「過ぎ越し」、そこから太陰暦で半月遡った「新月」が、ユダヤ暦の新年、一方、「過ぎ越し」後、初の日曜日が、「イースター・サンデー」、・・・、「イースター蜂起」の1916年、その80年後の1996年、そして、そこからさらに「四半世紀」の今年、「イースター」の算出には、もう少し複雑な例外規定もあるようだから、ひょっとしたらエラーもあるかも知れないが、参考のために掲げておく、右の欄の「差」というのは、それぞれの年のユダヤ暦の新年、東洋の「旧暦」では、旧三月一日になることも、旧二月一日になることもある、の間の日数差、それを「平均朔望月」で除したものが「月数」、つまり、「イースター蜂起」直前の「過ぎ越し」満月から数えれば、今年の「過ぎ越し」満月は、
235+754+309=1298
1298回目の満月、ということになる、それがどうした?ということではあるが、・・・、ベルトルト・ブレヒトBertolt Brecht(1898-1956)に「イースター・サンデー1935」という歌があって、彼は、その頃、もうドイツを離れて、デンマークに逃れていたが、その日、ドイツからよからぬ知らせが聞こえてきた、たしか、そんな歌詞だったと思う、上の計算法によれば、4月21日になるはずなのだが、年表らしきものを探っても、その日に、とりわけ重大なことをヒトラーが発表した、というようなことは見つからないのだが、おそらく、ドイツの再軍備のことを指しているのではないか、というところで、納得することにしていた、だから、ついでといっては何だが、この表にも加えておいたのだ。

Easter Sunday 1935/Dagmar Krause
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「Foggy Dew」のもと歌は、もっと長いもののようで、以下のは、誰が歌っているのかは不明だが、歌詞の字幕が付いていたので、書き取ってみた↓
Irish Rebel Song- The Foggy Dew
The Foggy Dew
As down the glen one Easter morn
to a city fair rode I
There Ireland's lines of marching men
in squadrons passed me by
No pipe did hum, no battle drom
did sound its loud tattoo
But the Angelus Bell
o'er the Liffey's swell
rang out in the foggy dew
Right proudly high over Dublin Town
they flung out the flag of war
'Twas better to die 'neath an Irish sky
then at Suvla or Sud-El-Bar
And from the plains of Royal Meath
strong men came hurrying through
While Britannia's Huns,
with their great big guns
sailed in through the foggy dew
On the night fell black,
and the rifles' crack
made perfidious Albion reel
In the leaden rain,
seven tongues of flame
did shine o'er the lines of steel
By each shining blade
a prayer was said,
that to Ireland her sons be true
But when morning broke,
still the war flag shook
out its folds in the foggy dew
Oh th bravest fell,
and the Requiem bell
rang mournfully and clear
For those who died that Eastertide
in the springtime of the year
While the world did gaze,
with deep amaze,
at those fearless men, but few,
Who bore the fight
that the freedom's light
might shine through the foggy dew
Back through the glen I rode again
my heart with grief was sore
For I parted with those gallant men
who I'll never see no more
But to and fro in my dreams I go
and I kneel and pray for you,
For slavery fled,
O glorious dead,
when you fell in the foggy dew.
・・・
glen:スコットランド、アイルランドの「渓谷」
squadron:騎兵大隊
tattoo:帰営らっぱ、太鼓の音、ドンドンたたき続ける音、・・・、これがどうして「刺青」の意にも用いられるようになったのかは不明
Angelus:カトリックにおける「キリストの受肉」、「受胎告知」を記念する祈祷
swell:(動詞)膨れる、(名詞)大波
Suvla:トルコTurkeyガリポリ半島Gallipoli peninsulaのエーゲ海Aegeanに面した湾、第一次大戦のイギリス軍の上陸地点、であったことに擬えているのだろう
Sud-El-Bar/Seddülbahir:も同じく、トルコTurkeyガリポリ半島Gallipoli peninsulaにある地名、1915年に、アイルランドの部隊の上陸地点となった
Meath:ダブリンの北西に隣接した県、「Royal」が付されている含意は、わからない
Huns:ヨーロッパの民族大移動を引きおこしたところの、ヴォルガ上流が故地と言われるアジア系遊牧民、・・・、イギリスの侵略者を、「ブリタニアのフン」と、それに擬えているのであろう
perfidious:不実な
Albion:「大ブリテン島」の古名
reel:(動詞)よろめく
seven tongues of flame:「アグニAgni」、七枚の舌をもつというヒンズー教の火の神
Eastertide:「復活祭/イースターEaster」に同じ、「イースター・サンデー」に始まる諸行事を、包括した表現らしい、上で見た、サリー・ルーニーにあった、「Yule/Yuletide」と同様の表現形式かと思う

・・・
そして、サリー・ルーニー、ダブリン、ジェイムス・ジョイス、イースターの月曜日、・・・、と連想が広がって、「Foggy Dew」を探していたら、シネアド・オコナー、にたどり着いた、「O'」で始まるファミリー・ネームが、アイルランド系であることは、知識としてわきまえていたし、そういえば、当時の「ポスト・パンク」、「ニュー・ウェイブ」系のミュージシャンには、「U2」だとか、「ザ・ポーグスThe Pogues」とか、アイルランド系の人は多々あったはずだけれど、そして、当時、まだ「ザ・トラブルズThe Troubles」と呼ばれる、北アイルランドの武力抗争は、最も激越な時期を迎えていただろうにもかかわらず、それらを結び付けて考えることは、あまりなかった、いや、嘘だ、「結び付けて」考えたかったのだ、こちらとしては、だが、たとえば今のように、wikipediaみたいな、よかれあしかれ「手軽な」情報源がなかった、たとえば、「U2」は、「共和派」からは、微温的だとして相手にされていない、とか、ごく漠然とした「うわさ」的なものが、断片的に伝わってくるだけだったからな、・・・、だから、シネアド・オコナーのデヴューは、1980年代中頃、毎週土曜日、翌日の明け方まで、ただ延々とヴィデオクリップを流し続けるだけの「ソニー・ミュージックTV」を、ほとんど欠かさず、最後まで、たぶん、酒をがばがば飲みながら、茫然と見ていた、最初の会社を辞めたばかりで、「大学院入試」の準備と称して、何もせず、おそらく「うつ病・ひきこもり」の、最初の兆候を示していた頃といえるな(笑)、「Nothing Compares 2U」は、はっきりと覚えている、なんだか、見るからにエキセントリックなところがあって、一癖も二癖もあるという印象は持っていたものの、結局、たいして知るところはないままに終わっていたのだな、・・・、

The Foggy Dew - Sinéad O’Connor & The Chieftains 1995
Sinead O'Connor & The Chieftans - The Foggy Dew
Sinéad O'Connor(1966-)、1996年、ダブリン南郊Glenageary生まれ、10代の何か月間かを、「マグダレーヌ・アサイラムMagdalene asylum」という、女子矯正院で過ごす、1990年代末、ローマカトリック教会は女性の受任を認めていないにもかかわらず、「Irish Orthodox Catholic and Apostolic Church」の司教によって、聖職授任を受ける、2014年、「シン・フェインSinn Féin」加入、2018年、イスラムに改宗
・・・
「Nothing Compares 2U」、こうやって歌詞を眺めて見ても、特に変哲もないラヴソングに見える、でも、今、調べてみて初めて知ったんだが、幼少期の主に母親による虐待、それから、「万引き」常習犯として、収容されていた「女子矯正院」のような施設での、やはり虐待、そう言った「トラウマ」的な経験が、カトリック教会に対する攻撃的な反発とか、アイルランド「統一」という政治的立場、などという思想形成の、バックボーンとなっているらしいことが、本人の述懐から覗うことができ、・・・、そういう目で見れば、下線を施した部分、「ママ、あんたが裏庭に植えた花々も、あんたがいなくなったらみんななくなってしまった、ね、ベィビー、あんたのそばにいるのは、ときどきしんどかったけど、今ならもう一回やり直してもいいんだよ」、なんか、ちょっと胸に迫る感じさえ、するんだけど、・・・、このヴィデオは、アップロードされたのが2018年、私より8歳若いだけだから、52歳ってことになるぜ?観客席で旗を振っている人がいたから、不思議に思って調べてみたら「チリ」の国旗だった、そういえば、ステージの後ろの幕には、「Desde Chile ... un Abrazo a la Esperanza」、「チリから、・・・、希望を抱きしめつつ」、なんてことが書いてある、あるいは、なにか、政治的な含意をもったイベントなのかも、とも思われる、・・・。

Nothing Compares 2U/Sinéad O'Connor
It's been seven hours and fifteen days
Since you took your love away
I go out every night and sleep all day
Since you took your love away
Since you been gone I can do whatever I want
I can see whomever I choose
I can eat my dinner in a fancy restaurant
But nothing
I said nothing can take away these blues
'Cause nothing compares
Nothing compares to you
It's been so lonely without you here
Like a bird without a song
Nothing can stop these lonely tears from falling
Tell me baby where did I go wrong
I could put my arms around every boy I see
But they'd only remind me of you
I went to the doctor and guess what he told me?
Guess what he told me?
He said girl you better try to have fun
No matter what you do, but he's a fool
'Cause nothing compares
Nothing compares to you
All the flowers that you planted mama
In the back yard
All died when you went away
I know that living with you baby was sometimes hard
But I'm willing to give it another try

'Cause nothing compares
Nothing compares to you
Nothing compares
Nothing compares to you
Nothing compares
Nothing compares to you
・・・


Ulysses/James Joyce(Project Gutenberg)・第二部、第12挿話/「ジェイムズ・ジョイスの謎を解く」柳瀬 尚紀(岩波新書)
「ダブリン市民」ならまだしも(笑)、「難解」と誰もが言うであろう「ユリシーズ」に手を出そうとは、思っていないものの、おや、こうして、「プロジェクト・グーテンベルグ」で、タダの原文がやすやす手に入ってしまうと、若干の未練が生じ、数年前に手にした、この柳瀬尚紀氏の書物を、ぱらりぱらりと読み返してみた。ジェイムズ・ジョイスJames Joyce(1882-1941)、「ユリシーズUlysses」は1922年に書かれている、日本語訳は、1931年、伊藤整らによるもの、続いて、1932年、森田草平、龍口直太郎、安藤一郎らによる岩波文庫版、1964年には、丸谷才一らによる河出書房新社版などがあるが、そこに、この柳瀬尚紀氏が、まるで「殴り込み」でもかけるような勢いで、1996年以降、これまでの一切の翻訳を徹底的に批判しつつ、第12挿話までの訳書を刊行した段階で、2016年に没したそうである、・・・、この岩波新書も、初版は1996年、となっている、今の今まで亡くなったことを知らなかったので、・・・、「ジョイスがたまらなく愉快だからジョイスを読む」と豪語して、他の訳者や研究者の「衒学趣味」を罵倒するこの著者こそ、裏返された「衒学趣味」に囚われているからそんな「言い訳」が必要と感じるんではないの?などと、嫌味を言ってみる「勢い」だったのだが、いや、死者を鞭打つことは控えなければならない、・・・、その、1932年の岩波文庫版の「第12挿話」に関する「解説」が引用してあって、・・・、森田草平って、夏目漱石の弟子で、平塚らいてう、と心中未遂を起こした人だろ?龍口直太郎、「たつのくち」って読むんだな、これも今日初めて知った、って人は、たしか、大学受験の英文法の参考書とかの著者ではなかったかしら?そして、安藤一郎氏は、上で、引用した新潮文庫版「ダブリン市民」の訳者なのだな、・・・、その引用部分を孫引きする、・・・、
この挿話の大部分は、『俺』なる第一人稱で終始する單純な、酒好きな、無名の一ダブリン人の談話的叙述から成り立つ。場面はバーニ・キアナンの酒場。そこには、『市民シティズン』という綽名の獰猛な獨立黨員シン・フェイナが、ギャリオウエンなる薄汚い老犬をつれて、酒の相手欲しやと待ち構えてゐる。・・・
で、この引用に引き続いて、「筆者の結論を言えば、これは完全に読み違えている」と書かれているのだが、実のところ、何が「読み違え」なのかの説明は、見当たらないように、私には思えるのだな、最後まで読んだらわかるだろ、ということなのかもしれないが、とても最後まで読めなかったので(笑)、謎は残るばかり、他でもない、気にかかったのは、「シン・フェイナ」という言葉であるに過ぎない、1916年「イースター蜂起」から、まだ6年しかたっていない時期に出版された書物なのだと思えば、そんな言葉が散りばめられていても少しも不思議はないのだけれど、・・・、柳瀬氏の関心は、全然そんなところにはないみたいで、・・・、この書物の主要な論点は、この第12挿話の、語り手の、「<俺>は犬である」ということの立証にあるようで、そんなことを言い出したのは、世界中に数多あるジョイス研究者の中でも、「私」が最初だ、と自慢したいらしく、いや、たしかに、それは十分「自慢」に値する快挙だろう、・・・、実際、「人間語」と「犬語」の話者が、たがいに、一行ずつ喋り、お互い同士、相手の話はまったく聞いていない、でも、それを書かれたものとして、一行飛ばしに読んでみたら、それぞれが、完全に意味のつながる「独白」になっている、という発見は、実は、「人間」同士の「対話」なるものも、本質的には、そういうものではないのか?という省察をもたらしてくれ、とりわけ、「対話」の失敗、という「トラウマ」経験から「発病」したのかもしれない者にとっては、・・・、初めて読んだのは、まだ、精神病院に通っていた頃かもしれん、・・・、きわめて新鮮で、きらきら輝く、倒錯的ではあるが「希望」にさえ思えたのだから、この書物には、ちゃんと、感謝しているのだ、・・・、今、改めて、「プロジェクト・グーテンベルグ」版を手にしてみて、さっそく「Sinn Féin」で検索してみると、全部で、6カ所、そのうち4カ所が、この「第12挿話」に含まれていることがわかった、・・・、原文は、諧謔と蘊蓄と、アナグラム等の言葉遊びと、そんなものに満ち溢れているようだから、もちろん、「衒学的・ペダンチック」(笑)な素養がなければ、全然、読めない、だから、柳瀬氏の訳文がある部分だけを、探し出してきて、少し「遊んで」みようか、と思う。
一行おきに読まれるべき「独白」。
・・・
For nonperishable goods bought of Moses Herzog, of 13 Saint Kevin’s parade in the city of Dublin, Wood quay ward, merchant, hereinafter called the vendor, and sold and delivered to Michael E. Geraghty, esquire, of 29 Arbour hill in the city of Dublin, Arran quay ward, gentleman, hereinafter called the purchaser, videlicet, five pounds avoirdupois of first choice tea at three shillings and no pence per pound avoirdupois and three stone avoirdupois of sugar, crushed crystal, at threepence per pound avoirdupois, the said purchaser debtor to the said vendor of one pound five shillings and sixpence sterling for value received which amount shall be paid by said purchaser to said vendor in weekly instalments every seven calendar days of three shillings and no pence sterling: and the said nonperishable goods shall not be pawned or pledged or sold or otherwise alienated by the said purchaser but shall be and remain and be held to be the sole and exclusive property of the said vendor to be disposed of at his good will and pleasure until the said amount shall have been duly paid by the said purchaser to the said vendor in the manner herein set forth as this day hereby agreed between the said vendor, his heirs, successors, trustees and assigns of the one part and the said purchaser, his heirs, successors, trustees and assigns of the other part.
Ulysses/James Joyce(Project Gutenberg)/12
モーゼズ・ハーゾッグ、ダブリン市ウッド埠頭區聖ケヴィン街十三番地、商人、以下、賣渡人と称する者より購入され、マイケル・E・ガーラティ、ダブリン市アラン埠頭アーバー坂二十九番地、紳士、以下、購買人と称する者に売却され引渡されたる保存性商品、即ち、常衡一ポンド三シリング零ペンスの極上茶常衡五ポンド及び常衡一ポンド三ペンスの粗目白砂糖常衡三ストーンの対価として、上記購買人負債者の上記賣渡人に対して負う受領価格一ポンド五シリング六ペンスの総額は上記購買人によって上記賣渡人に対し七日毎三シリング零ペンスの週分割払いにて支払われるものとする。亦、上記保存性商品は上記購買人によって質種。抵当、売却その他の方法にて譲渡されてはならず、上記賣渡人、その相続人、後継人、保管人、委託人を甲とし上記購買人、その相続人、後継人、保管人、委託人を乙とする双方合意のもとに本日ここに定めた方法にて上記総額が上記購買人により上記売渡人へ滞りなく支払われる迄、上記賣渡人が随意随時処分しうる上記賣渡人の総専有財産として存在し存続し留保されるものとする。
「ジェイムズ・ジョイスの謎を解く」柳瀬 尚紀(岩波新書)
(注)文句を言うわけではないが(笑)、のところに、「当たり」という言葉でも入れてもらわないと、意味が分からないのではないかと思う。
「常衡」、「通常用いられる質量単位」という意味、「常衡1ポンド/pound avoirdupois」という具合に、後ろに「avoirdupois」と付記されていれば、その「ポンドpound」が質量単位なのだ、ということがわかる仕掛け、かと思われる、少し後の「one pound five shillings and sixpence sterling」の「pound」は、質量単位ではなく、貨幣単位の「pound」なのである。
videlicet、即ち、換言すれば

<問>「賣渡人」たる商人モーゼズ・ハーゾッグから、「購買人」たる紳士マイケル・E・ガーラティ氏(こちらにだけ「esquire」という敬称が付されているからね)、に対して売却(sale)、引き渡し(delivery)された品物を、列挙しなさい。
    <答>以下の2品目である、品目、単価、数量、の順に列挙する
  • 極上茶(first choice tea)、その単価は、常衡1ポンド当たり3シリング0ペンス(three shillings and no pence per pound avoirdupois)、これを、常衡5ポンド(five pounds avoirdupois)
  • 粗目白砂糖(sugar, crushed crystal)、その単価は、常衡1ポンド当たり3ペンス(threepence per pound avoirdupois)、これを、常衡3ストーン(three stone avoirdupois)

<問>売買代金債権の債務者、即ち、購買人、が債権者、即ち、賣渡人、に対して負っている、債務総額の計算方法について、説明しなさい。
<答>まず、単位をシリングに統一して計算すると、
3×5=15
3/12×14×3=10.5
15+10.5=25.5
1ポンドは、20シリング、1シリングは12ペンス、であるから、
25.5-(1×20)=5.5
(5.5-5)×12=6
1ポンド5シリング6ペンス
となるのである。
・・・
あのね(笑)、私、自分が相当「頭わるい」ことは知っているの、だから、この部分、英語でも日本語でも、全然意味わからなかった、司法試験六回不合格だった「法律のプロ」(笑)だから、こんな、民事裁判の訴状めいた文章には、多少慣れているはずなのにもかかわらず、・・・、もちろん、何年か前に初めて読んだ時は、なんとも思わなかったよ、「なんとも思わなかった」のは、もちろん、読み飛ばしていた、まともには、読・ん・で・な・か・っ・た・、からなんだね、今、こうやって書き写して見て、英語と逐語的に対応付けようとして、はじめて、その「わけわからなさ」が、わかった、たぶん、日本の裁判所の訴状でも、こんな、ことさらにわかりにくい書き方をするのかもしれない、裁判というものが、「文字」をもつ特権階級の独占物であることを、繰り返し繰り返し確認せねばやまない性向が、裁判官をはじめ、法律を扱いうる特権階級の身振りの中にしみ込んでいるからなんだろう、ということはさておき(笑)、上の(注)にも書いたように、この売買の対象となっている物件について、品目、単価、数量、という分かち書きを、最低限してくれないと、当然、素人には、読めない、・・・、もちろん、「素人には、読めない」ことが目的なんである、実際の裁判とかにおいて、法律家がそういう身振りを採用するのと同じように、作家であるジェイムズ・ジョイス氏もまた、こんな「素人には、読めない」ことを、だらだら書き連ねることで、読者を煙に巻いて、「遊ぼう」としたのだ、つまり、「読んでほしくない」のだ、読者の方はと言えば、そんな「失礼」なことをされているのに、はぁ、なんじゃこれ、わけわからん、ということを、もちろん、ある場合には、ちゃんと、楽しめるわけなんだな、で、これを引用した柳瀬尚紀氏もまた、その「遊びごころ」を、ちゃんと「承継取得」したつもりのようだから、こんな訳文を投げ出しておいて、「ほら、面白いだろ」みたいな得意そうなそぶりをしているんだろうな、・・・、でも、上でくどくど説明したように、この一節を、「理解」(笑)するには、「ヤード・ポンド法」の複雑極まりない、単位間の相互関係や、また、「十進化」以前の、イギリスの通貨システムについて、精通していなければならないのだ、・・・、これ、どういうことなんだろうな、人は他人に対して、自分の言っていることを、一体、「理解」して欲しいんだろうか?それとも、そんなに簡単に「理解」してもらっては、まずい、のだろうか?「ニュース」って言葉が、「新奇なもの」、つまり、今まで知られていなかったこと、って意味であるように、「情報」というのは、その内容ではなくて、それが、他の「情報」と「異なっている」ということのみから、「価値」を生み出す、その背理にも似て、「対話」が持続されるためには、「え?なんて言ったの?」と、つねに、「問い返される」ことが必要、つまり、「理解」してもらっては、そこで終わってしまうから、困るわけだ、・・・、ほら、「一行おきに読まれるべき『独白』」という、「対話」の不可能性、というテーマに、ちゃんと落ち着いてくれたみたいだから、そろそろ飽きたし、この辺で、切り上げる。

・・・
前に、この記事(↓)で詳述(笑)したが、・・・、
よい人々は人種主義者ではない、悪い奴だけが人種主義者なんだ。このあっさりした二元論化は、いかなる議論をも、まったく回避させてしまう・・・「ネィティヴズ(原住民)、帝国の廃墟の中の人種と階級」アカラ、から、「ニューヨークのジャマイカ人」へ
「ニューヨークのジャマイカ人」シャインヘッドJamaican In New York/Shinehead
「ニューヨークのジャマイカ人」シャインヘッド・歌詞付きJamaican In New York/Shinehead-with Lyrics
スティングの「ニューヨークのイギリス人」を、見事に換骨奪胎したこの曲の思い出から、・・・、その冒頭、スティングは、
「コーヒーは飲まない、紅茶にしてくれ」
これを、シャインヘッドは、
「コーヒーは飲まない、ルーツにしてくれ」
に変えた、「ルーツ」というのは何だろう?沖縄の、アメリカ由来のファースト・フード店には、「お代わり自由」の「ルートビア」という飲み物があるけれど、やはり、なにか、「ジャマイカ」を彷彿とさせるような、「南国」の飲み物なんだろうか?もっとも、このシャインヘッド氏は、ジャマイカ系ではあるものの、イングランド生まれ、ブロンクス育ち、なのだが、・・・、そこで気になり始めたのが、スティングの歌詞にも現れているような、「イギリス人」の、「紅茶」へのほぼ「偏執的」ともいえる嗜好なんだな、ジョージ・オーウェル「パリ・ロンドン放浪記」でも、一夜の宿代にも事欠く暮らしをしていながら、「バタつきトースト」もちろん、「バター」は高いから「マーガリン」だけれども、と、「一杯の紅茶」を諦めることが決してできない人々が描かれている、・・・、言うまでもなく、「資本主義的原初的蓄積」を、ヨーロッパ植民地主義者にもたらし、「産業革命」を加速することで、「帝国主義的世界再分割」を可能にしたのは、砂糖きび(イネ科サトウキビ)、紅茶(ツバキ科チャノキ)、コーヒー(アカネ科コーヒーノキ)、生ゴム(クワ科イチジク属インドゴムノキ、マメ科アカシア属アラビアゴムの木、など)、ヤシ油(ヤシ科アブラヤシ属アブラヤシ)、綿(アオイ科またはパンヤ科キワタ)、など、ことごとく熱帯由来の植物種の、「プランテーション」型の大規模生産システムに、「原住民」及び「輸入奴隷」の「労働力」を付加することで、得られた「富」なのである、・・・、シャーロット・ブロンテ「ジェーン・エア」が家庭教師(ガバネス)として住み込むお屋敷の主、名前なんだっけ?ああ、ロチェスター卿だ、は、「ジャマイカ」にサトウキビ・プランテーションを所有している、お屋敷に幽閉されているこの人物の妻は、おそらく、ジャマイカへの、ヨーロッパ人「入植者」の子孫、と思われる、ナポレオン・ボナパルトの最初の妻にして、ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)の母親、であるジョゼフィーヌは、カリブ海小アンティーユ諸島マルチニック島の、やはりサトウキビ・プランテーションのオーナーの娘であった、・・・、そして、ここ、ほかならぬ「沖縄」も、島津家の薩摩藩という、「日本」の中の「先進国」が、やはり、サトウキビ栽培の経営を独占することを通じて、富を蓄積、いち早く産業革命を経験することで、「明治維新」の牽引力たりえた、つまり、「薩長」を中心とする、「日本国」明治政府そのものを可能にしたのが、やはり「沖縄/琉球」の、「砂糖」であった、ことを知るに至り、茫洋たる思いにとらわれたのでした、・・・、と、こんな風に、「紅茶」と「砂糖」の歴史には、深く「植民地主義」が刻み込まれているわけで、・・・、ツバキ科チャノキは、元来、北緯25度と北緯35度の間の地帯でしか育たない、と言われていた、イギリスとフランスがその支配権を争った中国、そして、英領インド帝国のアッサム、そして、日本の宇治や静岡、かつて日本が植民地化した台湾北部はこのエリアに収まるが、「セイロン紅茶」で著名になるスリランカ、それから、林芙美子が「浮雲」の中で、「絶賛」している、フランス領インドシナ、ヴェトナムのダラトの「茶園」、は、このエリアからさらに「南」に逸れている、・・・、「茶の世界史」角山栄(中公新書)、を参考に、その流れをたどろうと予定していたのだが、まだ果たせずにいることを思い出した、

「アッサム」と「ベンガル」、「ヒンズー」と「ムスリム」、「移住民」と「部族民」、「紅茶」は後ほど詳述予定だが、「ゴーヤー・ラヴ」も思い出されたので、・・・
「フランス領インドシナ」の探索、マルグリット・デュラス「愛人(ラ・マン)」と、林芙美子「浮雲」
「植民地主義者、『原住民』に会う」症候群、と名付けようと思う、・・・、ものについて、井伏鱒二と小津安二郎のシンガポール
そして、また、ここで、ジェイムズ・ジョイスが、おそらくは「おふざけ」として挿入した、このダブリンの商人、Moses Herzog、・・・、また話がそれるが、この人物のファミリー・ネーム、もちろん英語では、柳瀬尚紀氏が訳しているように、「ハーゾッグ」と読むのであろうが、ドイツ語風に「ヘルツォーク」、これ自体一つの「偏見」であるが、イスラエルの政治家などに多いことから、「ユダヤ系」のものなんだと思い込んでいたが、元来は、今調べてみると、ドイツの貴族に与えられる称号に由来するものだそうで、たとえば、「フィッツカラルドFitzcarraldo(1982)」という作品を観たことがあるな、ウェルナー・ヘルツォークWerner Herzog(1942-)という映画監督がいるが、この人は、ドイツ人とクロアチア系オーストリア人を両親にもつ、と書かれている、そして、これは「奇遇」なんだろうか、作為なんだろうか?アザール・ナフィシ「テヘランで『ロリータ』を読む」にも頻繁に引用されている、ソール・ベローの、まさにこの「ヘルツォーク」をタイトルとする小説、高くて手に入らないので読む予定はないけれど、wikipediaの要約によれば、主人公が、なんと、Moses E. Herzogなのである、ファーストネームの「モーゼス」はもちろん、旧約聖書の「モーゼ」に由来するのだろう、で、ソール・ベロー氏Saul Bellow(1915-2005)自身は、リトアニア系ユダヤ人なんだそうである、・・・、「状況証拠」に過ぎないものを積み上げて、想像をたくましくすれば、ソール・ベローは、ジョイスのこの著名な作品に、「あやかって」自分の作品の主人公の名前に採用した、ことは大いにありうるじゃないか?柳瀬尚紀氏前掲書の訳文の中には、「ユ●ダ公」という蔑称も散見された記憶があるから、あるいは、それはこの「商人」を指していたのかもしれない、あとで、難解極まりない「原文」に分け入って、確かめてみようか、だとすれば、アイルランドのローマ・カトリック系の生まれらしい、この小説家ジョイスが、「商人」といえばユダヤ人、ユダヤ人といえば、こんな名前、という、「常識」に属する「偏見」、「ステレオタイプ」に根差した連想で、造形した登場人物の名前を、今度は、「ユダヤ系」である、作家ソール・ベローが、やや「揶揄的」に、「引用」した、こともあり得るかと思える、・・・、で、話を戻すと、このダブリンの「商人」が、扱った「商品」が、まさに、「紅茶」と、「砂糖」なのである、・・・、砂糖、ご当地沖縄はもちろん、その有数の産地であって、「黒糖」関連のお菓子なども、スーパーや土産物店に、しばしば見受けられる、前に一度調べたことがあったのだが、もう一度復習しておく、・・・
砂糖は、製造法によって(A)含蜜糖と(B)分蜜糖とに大きく分けられる。(A)含蜜糖は糖蜜を分離せずにそのまま結晶化したもので、黒砂糖・・・・・和三盆・ソルガム糖、メープルシュガーがこれに当たる。これに対し(B)分蜜糖は、文字通り糖蜜を分離し糖分のみを精製したもので、一般的に使用される砂糖である。まず原料からある程度の精製を行い、粗糖を作成する。粗糖は精製糖の原料であり、・・・精製糖は、大きくザラメ糖・車糖・加工糖・液糖の4つに分類される。ザラメ糖はハードシュガーとも呼ばれ、結晶が大きく乾いてさらさらした砂糖であり、グラニュー糖・・・・がこれに属する。・・・一方、車糖はソフトシュガーとも呼ばれ、結晶が小さくしっとりとした手触りのある砂糖で、上白糖・三温糖がこれに属する。・・・また、ザラメ糖を原料として、角砂糖・氷砂糖・粉砂糖・顆粒状糖の加工糖が製造される。・・・
ここで言う「粉砕された、結晶状の砂糖sugar, crushed crystal」を、柳瀬尚紀氏は、「粗目(ザラメ)白砂糖」と訳されているわけだ、さて、何を思いついたかと言うと、・・・、

その「値段」だ(笑)、「スーパー」に出かけて調べようとも思ったが、いやいや、この時代、居ながらにして、「ワンクリック」で、できるのである、Amazonによれば、まず、イギリス植民地主義を代表して、
フォートナム・メイソンFORTNUM & MASON、アール・グレイEarl Grey、250g、¥3736
次に、フランス植民地主義、
フォションFAUCHION、ダージリンDarjeeling、125g、¥2835
そして、日本植民地主義、三井製糖の前身、大日本製糖は、八丈島からの沖縄、大東諸島への入植者に由来し、のちに、台湾での製糖事業に進出した、という歴史を持つ、
スプーン印白ザラ糖、1kg×20袋、¥6980
・・・
さて、今度は(笑)、「ポンド・スターリング」の貨幣価値だ、Pound Sterlingの資料を使って、まず、1974年を100とした物価指数、1751年には、5.1、1831年には、16.3、これをピークとして下がり始め、19世紀末までほぼ、10程度、1914年、9.8、1920年、25.3、・・・、では、「ユリシーズ」の書かれた時代として、1914年、9.8を採用する、
次に、1971年の1ポンドの購買力を1としたときに、2009年は、0.0952、・・・、とのこと、ちなみに、1974年は、0.735、・・・、物価指数と貨幣の購買力とは、反比例するだろうと、単純に仮定して、外挿した数字は、いフォントにしてある、そして、この物価指数を、「ユリシーズ」の1914年を基準に算出し直すと、一番新しいデータとして2009年、が、78.78となった、これは、1914年の1ポンドは、2009年では、78.78ポンドの「値打ち」があった、と見ていいんだろう?で、その2009年の、¥―ポンドの交換比率が、118円/ポンドとのことだったので、これらを用いて計算した、・・・、

モーゼズ・ハーゾッグ氏の売却した「極上茶(first choice tea)」の単価は、常衡1ポンド当たり3シリング0ペンス(three shillings and no pence per pound avoirdupois)、であった
質量単位をグラム(kg)で、貨幣単位をポンドにすると、
0.4536kg当たり、0.15ポンド
2009年の貨幣価値に合わせると、
0.4536kg当たり、0.15×78.78ポンド
さらに、円にすれば、
0.4536kg当たり、0.15×78.78×118円
1kg当たりに換算すると、3074.146円
フォートナム・メイソン、アール・グレイ250gが、3736円、これを1kg当たりに換算すると、14944円、
フォション、ダージリンなら、125gで、2835円、だから、1kg当たり、22680円、
あら、お高いわねぇ!5倍ないし7倍になっている、紳士マイケル・E・ガーラティ氏は、紅茶5ポンド、約2.5㎏、250gの大きめの缶で10個、これ家庭用じゃないでしょ?カフェかレストランの経営者なのかな、だから、仕入れ価格なんだよね、これ、だから、小売値とは、そのくらいの差はあろう、ってことで?大騒ぎした割には、あんまり「オチ」はつかないけども、・・・、ま、時間はつぶせたし、・・・、砂糖の方は?粗目白砂糖(sugar, crushed crystal)、その単価は、常衡1ポンド当たり3ペンス(threepence per pound avoirdupois)、1シリングが12ペンス、1ポンドが20シリングだから、
質量単位をグラム(kg)で、貨幣単位をポンドにすると、
0.4536kg当たり、(3/12)20=0.0125ポンド
これも上と同様の計算をすると、
1kg当たり、256.179円、
スプーン印の方は、1kg当たりにすると、349円、今度は、あまりにいい線行きすぎて面白みに欠ける(笑)?
1ストーンは、14ポンド、6.35kg、ガーラティ氏が購入なさったのは、3ストーン、およそ20kgばかり、おや、スプーン印の販売単位、段ボールに一箱ぎっしり、って感じかな、と同じじゃないか?やっぱりカフェかレストランなんだろう、こんなにがばがば砂糖使うのって、・・・。
・・・

He drove Lorraine to the polling station to vote at the end of February, and on the way she asked who he was going to vote for. One of the independent candidates, he said vaguely. She laughed. Don't tell me, she said. The commumist Declan Bree. Connell, unprovoked, continued watching the road. We could do with a bit more communism in this country if you ask me, he said. From the corner of his eye he could see Lorraine smiling. Come on now, comrade, she said. I was the one who raised you with your good socialist values, remember? It's true Lorraine has values. She's interested in Cuba, and the cause of Palestine liveration. In the end Connell did vote for Declan Bree, who went on to be elliminated in the fifth count. Two of the seats went to Fine Gael and the other to Sinn Féin. Lorraine said it was a disgrace. Swapping one crowd of criminals for another, she said. He texted Marianne; fg in government, fucks sake. She texted back: The party of Franco. He had to look up what that meant.
Normal People/Sally Rooney(Faber & Faber)
彼は、ロレーンを車に乗せて、投票所まで運転した、二月の末だった、途中、彼女は、誰に投票するつもりなの、と尋ねてきた。無所属候補の一人だね、と、彼はあいまいに答えた。言っちゃだめよ、と彼女は笑う。共産党のデクラン・ブリーさ、彼は、それには構わず続けた、道路の方を見つめながら。この国にはもう少しコミュニズムを取り入れた方がうまくやっていけると思ってるんでね、と彼は言った。視界の片隅の方で、ロレーンがほほ笑んでいるのがわかった。そうだ、いいぞ、同志諸君、と彼女は言った。あんたをこんな風に、ちゃんと社会主義的な価値観を持つように育てたのは、ほかならぬ私なんだからね、わかってる?それは事実だ、彼女は、ちゃんと、確固とした価値観を持っている。彼女はキューバのことにも関心を持っているし、パレスチナ解放の大義についても、考えを持っている。結局コンネルは、デクラン・ブリーに投票した、でも、この候補者は、5回目の集計の過程で、消えた。議席のうち二つは、「フィーナ・ゲイル」が確保し、残りの一つは、「シン・フェイン」がとった。情けない結果だ、と、ロレーンは、言った。犯罪者の集まりみたいなやつらを、もう一つ別の犯罪者の集まりみたいなのと取り換えたってどうしようもないわよ、と彼女は言った。彼は、マリアンヌに、テキスト・メッセージを送った、「FG(フィーナ・ゲイル)」の政府だって、くそくらえ、って、彼女は返事を寄越した、「奴らはフランコの党だしね」。それがどういう意味なのか、彼は、調べてみなければならなかったけれど。
「普通の人々」サリー・ルーニー
ロレーンは、コンネルの母親なんだ、たしか離婚したんだったと思う、シングル・マザーとして、彼を育ててきた、コンネルのクラスメート、「恋人」であったりなかったりを繰り返しているマリアンヌ、彼女の方は、お金持ちだが冷え切った家庭の子供だ、その豪邸の家政婦のようなパート仕事をしている、・・・、カッコイイお母さんだね、作者の筆致からも、この作品の中で、一番「いいやつ」として描かれているのがわかる気がする、・・・、「シン・フェインSinn Féin」の歴史を調べて、「フィーナ・ゲイルFine Gael」の由来、つまり、「アイルランド独立戦争/イギリス―アイルランド戦争」の停戦協定の評価をめぐって、「シン・フェイン」内の条約支持派が、作った党なんだな、もう少し後に、同じく「シン・フェイン」から、今度は議会ボイコット戦術にに反対する部分が作った分派が、「フィアナ・ファイルFianna Fáil」、この二つの、どちらも、元をただせば「シン・フェイン」内の「右派」といえるんだろうな、が、長らく、アイルランド共和国の政権を独占してきたようである、そんなことを少しは理解できたから、この部分を思い出したのだ。この小説のこの部分の背景は、2011年に設定されているのだけれど、その前後の実際の、アイルランド共和国の政権を調べてみると、主に、「フィアナ・ファイルFianna Fáil/FF」と「フィーナ・ゲイルFine Gael/FG」が、交代で、あるいは、連立で、担当しているようである、ロレーンが「犯罪者の集まりみたいなやつら」と、「もう一つ別の犯罪者の集まりみたいなの」と評したのは、おそらくこの二つの政党なんだろう、と推測される。「ゲイルGael」は、「ゲール人Gaels」、アイルランド、スコットランド、およびマン島に居住する、言語民族集団、「インド―ヨーロッパ語族Indo-Europeanケルト語派Celtic」に属する「ゲール語Goidelic/Gaelic」を使用する人々、「ケルト語派Celtic」の下位分類に「ゲール語Goidelic」と「ブリトン諸語Brittonic」があって、前者に、「アイルランド語Irish」、「スコットランド・ゲール語Scottish Gaelic」、「マン語Manx」、後者に、「ウェールズ語Welsh」、フランスのブルターニュBretagneで話される「ブルトン語Breton」が含まれる、「Fine」は、そのアイルランド語、ゲール語で、「家族」、「部族」の意、「Fianna」はアイルランド神話に登場する戦士団、「Fáil」の方は、やはりアイルランド神話に、「リア・ファルLia Fáil/運命の石」というものが登場するようで、その「運命」にあたる言葉、上の方で、「ダブリン市民」の「アラビー」からの引用の中に出てきた「オゥドノヴァン・ロッサJeremiah O'Donovan Rossa(1831-1915)」の、在米アイルランド人共和派組織「フェニアンFenian」も、この「Fianna」に由来する言葉であるらしい、ならば「Sinn Féin」は?凄いもんだな、ネットの「アイルランド語」辞典、「sinn/私たち、我等」、「féin/自身、自己、自我」と出た、なるほど英語なら「ourselves」なわけだ。この場面で、コンネルはまだ高校の最終学年のはず、車の運転もできれば、投票権もある、アイルランドはそういう制度になっているんだろうな、またそのうち、調べてみよう。それと、「5回目の集計の過程で、消えた」の意味もちょっと分からないな、開票、集計の手法も違うのかも。「フランコの党」は、スペインのファシスト、正確には「ファランジスト」、のことを指しているんだろうか、・・・、つまり、やつら「FG」は、ファシストだ、って言ってるのかな。そういえば、前回調べた「アイルランド共産党」の歴史の中で、 「スペイン内戦」期に、スペインの「共和派」に与することが、「反・カトリック的」である、と、ほかならぬアイルランドの「共和派」内部から、反発があった、という記述があった、フランコの支持基盤は、地主階級、絶大な権力をもつカトリックの僧職者、であったから、あるいは、「カトリック強硬派」すなわち「フランコの友」という短絡が、あり得たのかもしれない。

Celtic languages:Ireland (Irish)/Scotland (Scottish Gaelic)/Isle of Man (Manx)/Wales (Welsh)/Cornwall (Cornish)/Brittany (Breton)
・・・
—For the old woman of Prince’s street, says the citizen, the subsidised organ. The pledgebound party on the floor of the house. And look at this blasted rag, says he. Look at this, says he. The Irish Independent, if you please, founded by Parnell to be the workingman’s friend. Listen to the births and deaths in the Irish all for Ireland Independent, and I’ll thank you and the marriages.
And he starts reading them out:
Ulysses/James Joyce(Project Gutenberg)-12
プリンス通りのおふくろさんとこの稼ぎかよ、と、市民が云う。ヒモ付きの機関紙の。議会で言質を取られちまった党のよ。ほらこのひでえぼろくずを見ろってんだ、と、あいつは云う。なんと「アイリッシュ・インディペンデント」だぜ、パーネル創始の労働者の味方ってんだからな。「独立アイルランドを目指すアイルランド紙」の出生死亡記事を読んでやろう、ついでにいいか、結婚記事もだ。
そしてあいつは読み上げる。
「ジェイムズ・ジョイスの謎を解く」柳瀬 尚紀(岩波新書)
「パーネル創始の労働者の味方」と言っているのだから、下に見るように、ここで言う「アイリッシュ・インディペンデントThe Irish Independent」紙は、その名前を冠した「反パーネル派」の新聞ではなく、「パーネル派」の「Daily Irish Independent」ではないのか、という気もするが、パーネル死後、つまり1891年以降は、この対立も無意味となっていたようだから、「ユリシーズ」の背景を1910年代とすれば、やはり「アイリッシュ・インディペンデントThe Irish Independent」紙でいいのかもしれない、すると、「議会で言質を取られちまった党」は、イギリス下院に議席を持つ「IPP」を指すことになり、この新聞を、「IPP」の「ヒモ付き機関紙」と認定していることになる、もちろん、そう認定しているのは、「市民the citizen」、おそらくは「シン・フェイン」党員、なのである、・・・、「プリンス通りのおふくろさんthe old woman of Prince’s street」とは誰だろう?、パーネルの「不倫」相手のキャサリーン・オシェアKatharine O'Sheaは1921年まで存命だから、「old woman」ではあり得るが、この人物が「プリンス通り」に住んでいたかどうかは不明、また「IPP」の本部がどこにあったかも不明、現在の「アイリッシュ・インディペンデントThe Irish Independent」紙の本社は、「タルボット街Talbot Street」、・・・、「プリンス通りPrince's Street」には、「北North」と「南South」が、それぞれ「リッフィー河River Liffey」のそれぞれ北岸、南岸、という、およそ数百メートル離れた場所にある、・・・、「the old woman」について、もう一つ気になる事柄と言えば、この「チャールズ・スチュワート・パーネル」の妹たちにあたる、詩人の「ファニー・パーネルFanny Parnell (1848-1882)」、ナショナリスト活動家の「アナ・キャサリン・パーネルAnna Catherine Parnell (1852–1911)」、兄の主導する「土地同盟Land League」を支援すべく「女性土地同盟Ladies' Land League」を創設、主にアメリカ合衆国で、資金集めの活動に従事したという、この運動は、大地主制を解体し、貧窮した小作農を支援するものと言われる、・・・、パーネル一家自身が、イギリス人入植者に由来する土地所有者で、宗教的にはプロテスタント―アングリカンのバックグラウンドを有していたらしいから、この運動が、カトリックの、ナショナリストたちから、例えばここでの「市民」のように、「シン・フェイン」などから、どのように評価されていたのかは、よくわからない、・・・、「アナ・パーネル」に関して、彼女が生前、最後に政治の舞台に登場したのが、1907年選挙で、「シン・フェイン」候補を応援したときだ、という記述があるのみだ、この「パーネル」姉妹については、上の方で、「ダブリン市民」、「アラビー」に登場する「オゥドノヴァン・ロッサ」のところでも触れられている。
Charles Stewart Parnell (1846–1891)、1874年創立の、対英協調的な穏健派ナショナリスト政党「アイルランド議会党Irish Parliamentary Party(IPP)」の指導者で、英下院議員、「Anglo-Irish」の土地所有者の家系に生まれる、この言葉は、イギリス国教会の一派である「アイルランド聖公会Church of Ireland」信仰者からなるアイルランドへのイギリスからの入植者の子孫を指すと言われる、・・・、同僚議員の妻である、キャサリーン・オシェアKatharine O'Sheaとの「不倫」スキャンダルにより失墜、彼が指導者の地位に残留することに関して「IPP」が分裂、元来「パーネル派」であった新聞「The Irish Daily Independent and Daily Nation」紙が、「反パーネル派」の「Irish Independent」紙と、「パーネル派」を堅持する「Daily Irish Independent」紙とに分裂した、という事情のようである。
Irish Independent、1905年、反パーネル派のナショナリストであり実業家であるウィリアム・マーティン・マーフィWilliam Martin Murphyにより創刊、1913年の「ダブリン・ロックアウトDublin Lock-out」に際しては、実業界の意向を反映して、スト労働者を非難する論陣を張った、また、1916年の「イースター蜂起Easter Rising」については、「狂気の沙汰、犯罪的insane and criminal」と評し、指導者の射殺を呼びかけた、1919年には、この編集姿勢に反発した「IRA」の攻撃対象となった、・・・、この新聞は、ナショナリスト、カトリック、反共、の潮流を代表しており、「フィーナ・ゲイルFine Gael」の支持者とみなされている、「スペイン内戦」期には、強力なフランコ支持の立場を示し、「フィアナ・ファイルFianna Fáil」指導者デ・ヴェレラDe Valeraの政権が、「ファランジストFalange」を含む「ナショナリスト」派を支援して介入しないことを批判した、・・・、これで、上に引用したサリー・ルーニー「普通の人々」のマリアンヌのテキスト・メッセージの意味が分かったね、「フィーナ・ゲイルFine Gael」すなわち「インディペンデント紙」は「親フランコ派」だったという認識は広く存在していたらしいからね。
・・・
—Devil a much, says I. There’s a bloody big foxy thief beyond by the garrison church at the corner of Chicken lane—old Troy was just giving me a wrinkle about him—lifted any God’s quantity of tea and sugar to pay three bob a week said he had a farm in the county Down off a hop-of-my-thumb by the name of Moses Herzog over there near Heytesbury street.
Circumcised? says Joe.
—Ay, says I. A bit off the top. An old plumber named Geraghty. I’m hanging on to his taw now for the past fortnight and I can’t get a penny out of him.
Ulysses/James Joyce(Project Gutenberg)-12
―何してるなんてもんじゃね、俺は云う。べらぼうな大狐泥棒がいてよ、チキン小路の角のギャリソン教会のとこだ―今もトロイ爺公からそいつのことをちと聞いたんだが―そりゃもうがっぽり紅茶と砂糖をせしめたんだな毎週三ポンド払うダウン郡に農場を持ってるなんてぬかしてあそこのヘイツベリー通りのすぐんとこのモーゼズ・ハーゾッグって名のちび公から。
割礼ユ●ダ公か?ジョウは云う。
―ああ、俺は云う。ちょいといかれてやがるんだ。ガーラティっていう老いぼれ鉛管工よ。ただじゃすまねえぞと俺は二週間も嚇しをかけてるんだが一ペニーも取れやしねえ。
「ジェイムズ・ジョイスの謎を解く」柳瀬 尚紀(岩波新書)
「チキン小路Chicken lane」は不明、「ギャリソン教会garrison church」は頭文字が大文字でないし、普通名詞的に用いられているのだろう、兵営garrisonの近くの教会はみなそう呼ばれていたかも知れない、GoogleMapに入力するといくつもの教会を案内してくれたが、その一つ、「Church Of Sacred Heart」は、ガーラティ氏の住居、「アーバー坂Arbour hill」のすぐ近くだ、「bob」は、十進化以前の1シリングのコインを意味するスラング、とのこと、上で見た契約書風の文章にも、「七日毎三シリング零ペンスの週分割払いにて」とあるから、ここの、「毎週三ポンド」は、「毎週三シリング」の誤りであろう、だって、債務総額が、「1ポンド5シリング6ペンス」なんだぜ?ここは、もちろん、「犬」の喋っていることだというのなら、支離滅裂でも構わない、ともいえるだろうが(笑)、
lifted any God’s quantity of tea and sugar to pay three bob a week
週3シリングちゃんと払うと言って、がっぽり紅茶と砂糖をせしめた
said he had a farm in the county Down
そいつは、ダウン郡に農場を持ってるなんてぬかしている
off a hop-of-my-thumb by the name of Moses Herzog over there near Heytesbury street
(誰から「せしめた」のかと言うと)あそこのヘイツベリー通りのすぐんとこのモーゼズ・ハーゾッグって名のちび公からだ
と並べ直してみれば、特に不可解な文章でもないように思える、「hop‐o'‐my‐thumb」は、辞書には、「小人、一寸法師」、「ダウン郡county Down」は、北アイルランド、ベルファスト南方の地域、契約書風の文書では、「モーゼズ・ハーゾッグ」の住所は「聖ケヴィン街Saint Kevin’s parade」とあったが、たしかに、「ヘイツベリー通りHeytesbury street」は、そのすぐ近くだ、で、原文に「検索」をかけてみると、「ユリシーズ」全体で、「jew」は、数十カ所ヒットする、もちろん「jewery」なんかも含まれてしまうから、全部が「ユダヤ人」という意味の言葉ではない、でも、ここの「ユ●ダ公」に対応する原文は、「Jew」ではないわけで、「Circumcised割礼を受けた者」といういわば隠語を、訳者がわかりやすく表記した、という事情であった、・・・、どうも、担保になる農場も持っている、週払いでちゃんと払うと言いながら、紅茶と砂糖を、ガーラティ氏は、受取ったまま姿をくらました、という事情であるらしい、・・・、どうして「犬」である「俺」が、その詐欺犯を恐喝して金をとることができると思えるのか、その辺は、よくわからないけどね(笑)。




久しぶりの、「一家団欒」、というわけなので・・・。ところで、「団欒」の「欒」って字、書ける?
季節の変わり目は、人間も、猫たちも、調子を崩しやすい、「ほとんど真っ白茶とら」って名前だったかな、もう、すっかりメンバーが少なくなってしまったので、「名前」がなくても不都合なく「数え」られるので、忘れてしまいつつあるが(笑)、もう一月以上も、一進一退、「点滴生活」を続けてきたけれども、嬉しいことに、ようやく、「回復」してくれるのかも、という「光」が見えてきたかもしれない今日この頃、他にも、やや元気のないものも現れたりして、心傷めておったのが、今日は、久しぶりに、全員そろって食事に臨んでくれたのだ、だから、「一家団欒」記念撮影。
ラン、まる(い)、まど(か)、おうち


「蝶よ、花よ」、などと申しますけれど、すでに、もう、蝶とか花とかにも、関心を失ってしまったのでは、と不安になっていたところだった・・・。


カタバミ(カタバミ科)

アオモンイトトンボ(イトトンボ科)

セイタカアワダチソウ(キク科)

アレチノギク(キク科)

アキノノゲシ(キク科)

インドヨメナ(キク科)、カニグモ科の一種

タチアワユキセンダングサ(キク科)

ホウキギク(キク科)


「少年老い易く学成り難し」、じゃなくて、「光陰矢の如し」、おやおや、いつの間にこんなに大きくなられて?あんた、「親」なのか?(笑)









アオモンイトトンボ(イトトンボ科)

アキノノゲシ(キク科)

インドヨメナ(キク科)、カニグモ科の一種





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Last updated  2021.11.06 10:54:55



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