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ねこログ

2022.01.01
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カテゴリ:カテゴリ未分類

キビタキ(ヒタキ科)

ジョウビタキ(ツグミ科)・メス

アオアシシギ(シギ科)

コガモ(カモ科)・オス

クロツラヘラサギ(トキ科)


「ねこログ」、総目次(笑)/「スクラップ・ブック」、の、目次。
目次:「死者の無念がこの地に残らぬよう、死にゆくすべてのものたちに今生の極楽を見せなさい」、・・・、井伏鱒二「黒い雨」、を読む、そして、柳宗悦、田口ランディ、高橋源一郎、など/リチャード・ライト「アメリカン・ハンガー」、を読む/植物分類表/



これまた、「幸運」であった、なんて、はなはだ、「鬱病」患者らしからぬ表現を使っているよ(笑)?、あるいは、「みんなの笑い者」の「トナカイさん」、の思い出、など。


オニタビラコ(キク科)





ルリハコベ(サクラソウ科)

リュウキュウツヤハナムグリ(コガネムシ科)



リュウキュウコスミレ(スミレ科)



シロガシラ(ヒヨドリ科)、ギンネム(マメ科)

シロガシラ(ヒヨドリ科)





キビタキ(ヒタキ科)、オスの成鳥は、黒と黄色のツートンカラー、ものすごく派手なようだが、そうなるまでは二年ばかりかかるようで、だから、きっと最近渡ってきたばかりなんだろう、こいつは、もともと、こういう色彩の、メス、なのか、あるいは、オスの未成熟個体、今年生まれた「当年子」のいずれか、ということになるそうである、・・・、バードウォッチャー暦、十年以上にして、初めて見た、どきどきした(笑)、こうして写真で見ると、そうでもないようにも思えるけど、なにかとんでもなく「黄色い」ものが、横切った、という第一印象だったのだ、長らくの、躊躇の末、ようやく購入した新しい一眼レフを携えての初日のお散歩に、こんなのに出会えるとは、「幸運」であった。



ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

メジロ(メジロ科)、ヒヨドリ(ヒヨドリ科)、上のヒヨドリと「ペア」の相方なんだろう、モモタマナ(シクンシ科)の枝の影になって、ピントが合わない、と、困っているとき、なにか黄色いものが通り過ぎた、と・り・あ・え・ず・、シャッターを切っただけなのに、こんなに鮮明にとれているとは(笑)、これまた、「幸運」。





イソシギ(シギ科)、背後に見える緑は、ボタンウキクサ(サトイモ科)

ハクセキレイ(セキレイ科)、おそらく、左がオス、右がメス





イソシギ(シギ科)、「懐手」、くつろぎ中。



イソヒヨドリ(ツグミ科)・オス

オオハマボウ(アオイ科)



アオアシシギ(シギ科)

ミサゴ(タカ科)



アオアシシギ(シギ科)

ハクセキレイ(セキレイ科)

タカブシギ(シギ科)



コチドリ(チドリ科)

ハシビロガモ(カモ科)・オス、ヒバリシギ(シギ科)

タカブシギ(シギ科)

ヒバリシギ(シギ科)、タカブシギ(シギ科)

ハシビロガモ(カモ科)・オス

ハマシギ(シギ科)

ハシビロガモ(カモ科)・オス、ヒバリシギ(シギ科)

アダン(タコノキ科)

オオハマボウ(アオイ科)

「クリスマス」、という「行事」が、好きだった、・・・、「大人」になってからのことだ、アルコール依存症だったから、お酒を飲む口実になる「イベント」が、何でも楽しみだった、ということもあるが、その「偏執的」なこだわり方は、もちろん、「幼少期トラウマ説」、ということで(笑)、説明してある、子供時代の「クリスマス」の記憶なんか、ない、たぶん、両親は、貧しいながらも、無理をして、クリスマス・ツリーやら、ケーキやら、「プレゼント」やら、用意してくれたに違いない、・・・、父母は共に、それぞれ別であるが、地方都市の「真宗大谷派」、つまり、「浄土真宗」の「東本願寺派」ね、の寺に生まれ育った子供だったから、「戦争」中に若い時代を過ごしたことでもあり、「クリスマス」なるものに際して、自分たちの子供の機嫌をどうやって取ればよいのか、なんて、わかるはずもなかった、・・・、私が幼少期を過ごしたのは、阪神間の「住宅都市」ではあるが、谷崎潤一郎「細雪」の舞台となるような、大ブルジョワの住む区画もあれば、もっと貧しい「下町」的な風情もあった、そんな旧来の「格差」構造の上に、「高度成長期」には、さかんに宅地開発が行われ、「東京」出身の「転勤族」が住む瀟洒な「マンション」群が、次々、パッチワーク状に貼り付けられて、小学校のクラスでは、「東京弁」がマジョリティーを占める勢いさえあるような、雑多で、不安定な「コミュニティー」の様相だったんだと思う、・・・、そんな「転勤族」の人たちは、彼等は彼らなりの苦労がもちろんあっただろう、やれ、「お誕生日会」だとか、を開催して、何ら「友達」でも何でもない(笑)「クラスメート」を、とても「民主的」に、全員招待してくださったりするから、・・・、そんな、「お返し」をしたくても、人を呼べるような部屋なんかない、小さな「社宅」に住んでいた、私の家族などは、とても困惑して、既に「鬱病」の兆候を表していた母親の、つねなる愚痴の種であった、・・・、私はといえば、「何も知らない」天真爛漫な、「子供」であれればよかったのかもしれないが(笑)、あいにく、おそらく同じく「鬱病」の病前性格を承継していたのであろう(笑)、まるで太宰治「人間失格」の「葉造」みたいに、人の顔色ばかり窺うことが身についてしまった、つまり、「可愛くない」子供だったから、そんな「転勤族」の「クラスメート」のような「都会的」な、「クリスマス・パーティ」がしてみたい、とか、「プレゼント」には、あれが欲しい、とか、素・直・に・、「おねだり」することが、「親孝行」でもあ・り・う・る・ことなどに、とうてい想像が及ばず、ごくまれに、うっかりそういう「おねだり」をしてしまった際に、母親が、これまた、頭ごなしに拒絶して言い争いにでもなれば、それはそれで「家族」の「絵」になっただろうものを、返事をする一瞬前に、表情が曇ったり、ため息が出てしまったりするのを、子供に見抜かれてしまっているありさまだったから、・・・、たかが「クリスマス」でさえも、「薄氷を踏む」雰囲気だったのだろう、この家族は、・・・、父親は、「仕事一辺倒」で、家の中のことは、何にもわかっていない人、ということになっていて、もちろん、「鬱病」の母の、日がな一日の愚痴からの「防衛」機制でもあったろうが、たとえば、「うちは貧乏だから、『クリスマス』とか言っても、贅沢なことはできん」とかは、決して言わず、「キリスト教徒じゃあるまいし」、とか、「コマーシャリズムに流されて」、とか、「戦後民主主義」「進歩派」の、まあ、高校の社会の先生で、活動経験は、おそらく皆無だが、投票日ともなれば、律義に「日本共産党」か「日本社会党」に投票してくる、そうやって、「戦後民主主義」を支えてきた、「進歩派」、そのものなんだから仕方ない(笑)、まさに言いそうな「批判」的言辞を繰り返すわけだが、そんな「言い訳」は、子供心にも、嘘っぽい気がしていたかも知れない、・・・、ずっと後になって、自分が「鬱病」を「発症」してみて、もちろん、それは「強がり」に過ぎないけれども(笑)、いろいろ物事の仕組み、が見えてきた、という気がしなくもないね、・・・、たとえば、「トラウマ」経験、というものは、絶対に「忘れる」、という方法では、解除できない、もちろん、「薬飲んだら治りました」、などという訳に、行くはずがない、人は、できなかったことを、何度でも何度でも何度でも、執拗極まりなく、「やり直そう」とするらしい、・・・、「成仏」出来なかった「荒魂」に、正当な「鎮魂」の作業を行わないかぎり、いつまでも「化けて出る」、人類がそのような「神話」を、広く採用しているのは、この理を知っていたからだろう、とさえ思える、・・・、だから、きわめて些末な話題ではあるが(笑)、私が、じゅうぶん、大人になってから、執拗に、ほとんど病的に(笑)、「クリスマス・パーティー」を、「反復」しようとしたことにも、もちろん、ちゃんと、根拠があったわけだ、・・・、私、「極左派」だったんだぜ(笑)、そんな「マルクス・レーニン主義者」が、キリスト教と資本主義の「祭礼」に、「心躍らす」なんて、馬鹿みたい、矛盾していることはもちろん知っているよ、・・・、それは子供の頃からね、プロテスタンティズムと資本主義の間に「共犯関係」があることも、「地理上の発見」時代に、略奪者たちと手を携えていたのが、カトリックの僧職者たちであったことも、全般に愚鈍であったが、その方面だけは「早熟」だったから、ちゃんと、わきまえていた、・・・、にもかかわらず、あの「トナカイさん」の歌が聞こえてくると、矢も盾もたまらなくなる(笑)、それは、身体反応だから、仕方がない、・・・、そう、「いつもみんなの『笑い者』」には、思わず共感の涙を誘われて、「サンタのおじさん」にほめられたくらいで、盛り上がってしまう愚かな「トナカイさん」が大好きで、四条河原町上ル西側、「ソニー・プラザ」って、今でもあんのかな?クリスマス・ツリーの飾り物の小さな「トナカイさん」やら「ブーツ」やら、誰も欲しがりもしないのに、たくさんたくさん買ったものだった、・・・、料理は好きだったし、おそらく、そこそこ上手でもあったから、まだ当時は何人かはあった(笑)、「友達」を招いて、ラザニア、とか、グラタン、とか、そこそこ凝った食事を作って、ケーキも焼いて(笑)、スパークリング・ワイン、とかも、浴びるほど飲んで、ああ、あれは、私の生涯のうちでは(笑)、特・筆・す・べ・き・「幸福」な、瞬間だったかも、とも思うので、今となっては、もちろん、「愚か」ではあったのだが、そんなこと言えばすべてが「愚か」だったんだから、嫌悪してみせたり、後悔してみたりするのは、やめよう、と思った、・・・、土曜の深夜、「MTV」という、音楽のプロモーション・ヴィデオだけを延々と流す番組に、かじりついていた頃だから、1980年代中頃かな、エチオピアの大飢饉に際して、イギリスの、パンク・ニューウェイヴ系が集って、確か、「U2」のボーノ氏とかが音頭をとったんだったろう、「Band-Aid」というチャリティーが行われた、・・・、それそのものだったか、それをもう少し、メジャーな人たちが、何年後かに繰り返した企画だったか、今、wikipediaとかで調べれば、たちどころに判るはずだが、「忘れている」ことには「忘れる」べき「理由」があったかもしれないから、調べないことにして、あいまいな記憶で言えば、「Let's Them Know It's Christmas Time.」、いまだに、この季節には、そこらで流れるんじゃないかな?、・・・、ようやく「ポスト・コロニアリズム批評」的なものが現れだした時代でもあったから、何と言う「ヨーロッパ中心主義」、「子供たちに、クリスマスであることを知らせてあげたい?、あんたそう呼びかけている当の『子供達』の、少なくとも半分くらいは、『イスラム教徒』かも知れないんだぜ?」、という、今の時代なら当然の論調の批判が、ようやく出始め、結構気に入って聴いていた者としては、虚を突かれ、恥じ入ったものであった、・・・、今だから言えば、エチオピアは、アフリカ大陸全体の中では、例外的にキリスト教徒が多い地帯とは思われるものの、・・・、これまた、今から思えば、「世界」のことも、何にも分かっていなかった、「資本主義」と「社会主義」で、「解釈」出来るつもりでいたが、ひょっとしたら、その「外側」に、「知らない」ままの、もう「半分」が、あるかも知れない、なんて、思ってもみなかった。








この数年来、小畠村閑間しずま重松しげまつは姪の矢須子やすこのことで心に負担を感じてきた。(1)
・・・
矢須子は広島市外古市ふるいち町の日本繊維株式会社古市工場に勤務して、・・・
矢須子は古市工場に入社して以来、広島市千田町せんだまち二丁目八六二の重松夫妻の寓居に同宿し、重松と同じく可部かべ行きの電車で同じ工場へ通っていた。(2)
・・・
古江ふるえ町で閃光と轟音・広島市街に噴火のような黒煙。帰りは草津町に出て船で御幸橋下へ着岸。・・・
街道を己斐こいまちから古江に向かっていく途中、・・・(3)
・・・
「松本さんが役人の前でちらちらするのは、今、世の中が狂っておるからだ。屋形船さえ大根つむという言葉があるが、松本さんの行きかたはそれには当てはまるまい。山本勘助も一時花作りと姿を窶したそうなが、それともまた少し違う。転向者というのもまた違う。松本さんのようなのは、スパイ恐怖症というのだな。・・・」(4)
・・・
能島さんは三角路のところで車の向きを変え、もと来た道を引返して草津の浜に出ると、以前から知り合いらしい漁師の家でトラックを抵当にして闇船を雇った。・・・
奥さんたちは船の中で広島市街と反対の方に顔を向けていた。さながら誓いをしたかのように街の方を見なかった。私もずっと似島にのしま江田島えたじまの方に顔を向けていた。・・・
船は京橋川右岸の御幸橋のたもとのところに着いた。橋から川上の方は黒煙に覆われて、火焔が至るところに見えながらも市役所付近はどうなっているのかわからない。もう日が暮れかけているように薄暗がりになっていた。千田町は焼けないで残っていたので私たちは上陸したが、憲兵が非常線を張っていて通行を許さなかった。(5)
僕は朝の出勤で、いつもの通り可部行の電車に乗るため横川駅の構内に入った。・・・(6)
重松のうちには日清戦争の当時まで、庭先に大きなケンポナシの木が五株もあったと云われている。(7)
これは横川駅から三滝公園に通じる国道を、僕が一町たらず歩いて行く間に見た光景である。・・・
・・・大体において人の歩いて行く方角は、三滝公園三篠みささ鉄橋あたりの見当のようだから、僕らもその方角へ歩いて行った。・・・
三篠橋の方でも火焔がのぼっていた。街は通れそうにも思われない。いま通り得る道は、山陽線の線路を辿り、横川鉄橋を渡り、双葉の里に出る小高い線路道が残っているだけだ。(8)
雲はじっとしているようで、決してじっとしていなかった。ぐらぐらと東に向けて傘を拡げるかと思うと、また西に向けて広がって行き、東に向けてまた広がって行く。その度に、茸型の体のどこかが、赤に、紫に、瑠璃色に、緑に色を変えながら、強烈な光を放つ。同時にむくむくと絶えず内側から外へむくれながら太って行く。ベールを束ねたような脚も、ぐんぐん忙しそうに太って行く。それが広島市の上へ襲いかかりそうだ。僕は体じゅう委縮しているようであった。腰を抜かしたのではないかと思った。
・・・
横川鉄橋のたもとのところまで辿りつくと、二千人あまりの避難者が草の堤に坐りこんでいた。鉄橋を渡っていくのは殆ど若いものばかりである。橋の高さは百尺あまりだろう。川をのぞくと身が竦む。だが、他に川向うに出る道はない。・・・
鉄橋を渡った避難者たちは、双葉の里から山の高みへ吸いつけられるように、蟻の行列で登っていた。山の中腹あたりに、二三箇所も山火事が起こっているのが見えた。・・・
やっと東練兵場の角へ出た。・・・
僕は予定通り広島駅へ出るために、山の方へ行く人たちと斜交はすかいに練兵場の端寄りに歩いて行った。・・・(9)
・・・シゲ子も姪の矢須子もとっくに夕食をすませ、矢須子は明日の朝一番バスで新市町しんいちまちの美容院へ行くのだから、納戸でもう寝床に就いていた。・・・
重松は、その空き地で妻のシゲ子がよくアカザの芽を摘んで来ていたのを思い出した。アカザで、おひたしをして食べていた。
・・・
「おいシゲ子、わしは思いついた」重松は、思いつきを云った。「お前、戦争中の我家の食生活のことを、メモ風に書いてくれないか。・・・」
「献立表と云うたって、ハコベのおひたし、ノビルのぬた。そんなことしか書けんでしょうが」
・・・
私どもの隣組では戦争が後半に入ってから後は、どこの家でも野草で食糧を補っておりました。幼い子供のいる家では、タカネイバラオオタカネイバラの新芽の伸びたものを採りまして、表皮を剥いておやつの代わりに与えておりました。イタドリの新芽を与える家もありました。・・・
ギシギシスカンポ)も通勤者に頼めば手に入れることが出来ました。これは塩で一夜漬けにして、漬物代用にしたり副食にもしておりました。
ツバナの根、ハコベアカザソデナタンガラセ(学名でない名前かもしれません)などは湯掻いて、おひたし、または煎りつけにして副食にしておりました。人参牛蒡の茎はまだ上等の野菜の方でございました。
・・・
虫供養芒種の次の次の日にする行事である。百姓は野良仕事をするから地の底の虫を踏み殺すので、お萩を作って今は亡き虫類を供養する。(10)
僕は人ごみのはずれを辿りながら、どうにか東練兵場を通りぬけることが出来た。
・・・
広島駅へ辿りつくと、東練兵場の端に引きこんだ操車線の貨車にも客車にも、避難者が乗りこんでぎっしり詰まっていた。・・・
駅前の町は火災で近寄れない。比治山ひじやまの裏手へ廻って帰ろうとすると、比治山には御便殿がない。しかし僕は道を間違ったとは思わなかった。御便殿がなくても比治山比治山である。
荒神橋は火災で渡れない。大正橋を渡り、比治山の南側にまわって女子商業学校の横に出た。(11)
「とにかく、山寄りに行けばいいと思って、横川橋に出て、それから、第二総軍司令部の前に出て来ました。そうすると、猫が私について来るんです。こんなのは縁起が悪いのか良いのでしょうか、どんなもんでしょう」
第二総軍司令部東練兵場の北側にある。つまり宮地さんは、横川あたりからここまで僕と同じ道を逃げて来たことになる。
僕らは被服支廠前から地方専売局の方に向かって歩いて行った。・・・(12)
福屋百貨店中国配電本社中国新聞社市役所など、大きなビルは火焔のうねりを受けるたびごとに、幾つもの窓から東南に向けて一斉に火を吹いた。・・・
僕は前々から家族と打ちあわせていた通り、空襲のとき避難する広島文理大学のグランドへ急いだ。・・・(13)
僕は古市の会社に行く最短距離を慎重に考えて、比治山橋から鷹野橋に抜ける大通りに出た。福屋百貨店中国新聞社日本銀行支店中国配電本社市役所などは、風で煙が散らされるたびに姿を現して窓からぼっと煙を吐き、風が変わると反対の窓から力ない煙を出していた。・・・
鷹野橋まで辿りつくと、そこから北東一帯は早く焼けたので煙が薄らいでいた。双葉の山が右手にぼんやり見えた。クラゲ雲はもう見えなかった。
・・・
白神社は石垣の他には何ひとつなかった。国泰寺の楠は、幹の直径六尺は充分にあったろうが、三本とも根こそぎになって横に倒れ、焼しめられて樹木の形をとどめながら炭化して、大きな根を宙に突きあげていた。・・・
紙屋町の停留所に辿りついた。ここは電車の交叉点であるだけに、切れた架線や電線が入り乱れて垂れさがり、そのどれかに電流が通じていそうな気がして怖かった。・・・僕は道の左の端を行って相生橋から左官町に出ようとしたが、とても余燼のほてりが熱くて進めそうもない。・・・
雨が降ったらしい。西練兵場は一面の砂原になっていた。僕は「モロッコ」という映画で見た広大な砂漠を思い出した。・・・細かい砂だから、空豆大の穴が一面に出来ているのも見えた。散らばった新聞紙にも無数の空豆大の黒い斑点が出来ていた。黒い雨に打たれた跡である。クラゲ雲の脚は夕立だとわかったが、これほど大粒の雨だとは思いもよらなかった。
・・・
堤防に出ると、三篠橋みささばしは中ほどが無くなっていた。僕は計画を変更して、相生橋を渡るために堤防を川下に向かって行った。・・・
相生橋のたもとに来ると、・・・
左官町空鞘町そらざやちょうあたりに来ると、火焔が街を一と舐めにしたことがわかる。・・・
寺町には一箇寺も無くなっていた。・・・
横川橋の向側では火の手がまだ上がっていた。・・・近寄ることなど思いもよらなかった。
・・・
僕らは川の中を歩いて行くよりほかはなかった。・・・
国道には避難者が疎らに歩いていた。・・・
やっと山本駅に辿りついた。ここから先は電車が動いている。(14)
・・・
「黒い雨」井伏鱒二(新潮文庫)
(1)「小畠村」、現・広島県神石郡神石高原町小畠、広島市の東、60kmほどのところに、井伏鱒二の出身地である福山があり、そこから北へ、20kmばかり山間部にはいったところに、小畠はある。
(2)(6)現在は、廃線になったようだが、「可部線」は、山陽本線、広島より西へ二つ目の「横川」から、太田川沿いに北上し「可部」にいたる線、「古市」は、その沿線上の町で、広島市の北、6kmほど、・・・、広島という町は、この太田川の河口がいくつもの支流に分かれ、それらが形成した三角州上に形成された町のようだが、その支流を西から順に列挙すると、太田川放水路、天満川、旧太田川(本川)、元安川、京橋川、となるようだが、「千田町」は、その一番東側の二つ、元安川と京橋川が、ふたたび河口付近で合流する部分の、元安川沿いの、左岸にあたる。

広島市内JR路線図
(3)「古江町」、現・広島市西区古江、太田川放水路右岸、つまり西側、・・・、「己斐町」、やはり現・広島市西区己斐、国道2号線の、太田川放水路に架かる橋が旭橋で、それを渡った右岸が己斐、そこから川沿いに南西方面に向かえば、順に、古江、草津、となる、・・・、「御幸橋」は、京橋川の、元安川との合流地点に近いところに架かる橋、そこからすぐ西側が、千田町となる。
(4)「松本さん」、というのは、アメリカ留学経験のある「左翼学者」で、「憲兵隊」から目をつけられていたため、ことさらに、「隣組」などの、近所づきあいに気を配っていた、という話、・・・、下線部「屋形船さえ大根つむ」の「つむ」は「積む」で、「恥も外聞もなく、なりふり構わず」、といった意味であるらしい、・・・、「山本勘助」は、武田信玄の軍師、「花作り」に「身を窶した」故事は、発見できず。
ク、ロウ、やつ(れる)、やつ(す)、まず(しい)
(5)広島市役所、広島市中区国泰寺町、爆心に近かったにもかかわらず倒壊は免れ、建て替えられたものの、現在も同じ位置、とのこと、「御幸橋」から、広島電鉄宇品線で、北上すると、4つ目が「市役所前」になる、この線が、山陽線横川駅まで延びているから、「重松」も「矢須子」も、通勤にこの線を用いていたのだろうと想像される。

広島電鉄路線図(拡大)
(7)クロウメモドキ科ケンポナシ属ケンポナシ、「玄圃梨」、東アジア温帯、日本では北海道から九州に分布、直径数ミリの果実、ナシ(梨)のように甘い、とのこと、植物分類表、参照。
(8)「一町」は、約109m。「三篠鉄橋」、「三篠橋」、同一かどうかわからないけれども、「三篠橋」なら、「旧太田川」に架かる、JR横川―新白島はくしまの線路のすぐ南側、・・・、「横川橋」は、「天満川」が、「旧太田川」から分岐したすぐの地点に架かる橋だが、ここでいう「横川鉄橋」は、そのJR横川―新白島はくしま間の鉄道橋を指すと思われる、・・・、字が異なるけれども、「二葉の里」なら、確かに、「横川鉄橋」から更に線路伝いに東に向かえば、「京橋川」を渡って、JR広島駅の北側に広がるあたりに見つかった。

(9)「一尺」が、30cmだから、橋の高さ30m、ということになる、アパートなどの「一階」分の高さを、2.5mと概算すれば、12階建ての建物の高さ、・・・、日本一高いといわれた山陰線の「余部鉄橋」は、今調べてみると、高さ41.45m、とのこと、それから、「エンパイア・ステート・ビル」は、最上階102回までの高さが、373.2m、とのことだから、1階あたり、3.66m、なるほど、「安物」の賃貸アパート的な想像力しかなかったことをこっそり恥じて、これで計算し直すと、およそ8階建ての建物相当、となる、いずれにしても、「身が竦む」ものであろうことは想像できる。

この地図は、1930年頃の広島市(拡大)、とのことだが、確かに、「横川鉄橋」を渡り、さらに「京橋川」を渡らねばならないはずだが、その橋は無事だったのだろうか、それを過ぎれば、左手に「二葉山」を望みつつ、「東練兵場」の南端を歩けば、「広島駅」の北側に、到着できるだろうことがわかる。
(10)ふたたび、小畠村での情景、「新市町」は、行政区分上は「福山市」に含まれるが、その北のはずれで、小畠の南5km~10kmばかりのところのようである。
アカザ(アカザ科)
ハコベ(ナデシコ科)
ノビル(ヒガンバナ科ネギ亜科ネギ属)、「野蒜」、「山蒜」
タカネイバラ(バラ科バラ属)、オオタカネバラ(バラ科バラ属)
イタドリ(タデ科ソバカズラ属)
ギシギシ(タデ科スイバ属)、「スカンポ」は、タデ科スイバ属スイバの別称でもあり、タデ科ソバカズラ属イタドリの別称でもある
「ツバナ」、イネ科チガヤ属チガヤの別称、同科サトウキビ属サトウキビ同様、根茎や茎に糖分を蓄える、根茎を干したものは「茅根」と呼ばれ、薬草として利用される、これについては、以前、
「おはぎ」、と、「つばな」、談義
で見たように、鴨長明「方丈記」には、いくつもの稿本があるようで、「野邊のつばな」、「野邊のおはぎ」、の両方が見つかった、質素な食べ物でもいい、と豪語している部分で、「おはぎ」なら、キク科ヨメナの別名、これなら、「柳宗民の雑草ノオト」(ちくま学芸文庫)にも、戦争中、駒場の現・東大農学部農場付近で、母とともに、ヨメナを摘み、これを母がおひたしにすると、父、柳宗悦が、「おいしい」と言って食べた、との記述があるので、こちらが正しかろう、チガヤなら、屋根を葺くにはよかろうが、食用にはふさわしくないだろう、と思っていたが、浅知恵だったかも知れない、・・・、
「ソデナ」、「タンガラセ」、は、発見できず
「人参」、ニンジン(セリ科ニンジン属)
「牛蒡」、ゴボウ(キク科ゴボウ属)
「芒種」、「二十四節気」の九番目、太陽暦6月6日付近、「のぎ」、イネ科植物の果実の棘状突起、をもつ「種子」を蒔く季節、との意味、・・・、「虫供養」は、農作物の害虫による食害を避けるための祈願行事である「虫送り」と、起源を同一にするものが多いようだ。

(11)「比治山」、「御便殿」については、下の、田口ランディ「被爆のマリア」引用部分(3)を参照、・・・、「京橋川」から、広島駅の南側あたりで、さらに東側に分流したものが、「猿猴川えんこうがわ」、そこに架かる橋は、現在は北から順に、「駅西高架橋」、「駅前通り」、そして、「猿猴橋」、「荒神橋」、「大正橋」、初めの二つは、戦後に出来たもののようで、1930年の地図を見ればわかるように、広島駅から、比治山に向かおうとすれば、後の三つを用いることになっただろう、このうち、「荒神橋」が、広島電鉄の軌道もある、最も広い橋であるように見える、・・・、そして、「女子商業学校」は、現在は名称も所在地も異なったものになっていて、その跡地、「比治山公園」の東側に隣接している、は、現在は、「広島イースト」なるショッピング・モールになっているようである、・・・、
猿猴えんこう」は、中国四国地方に伝わる伝説上の生物、河童に似て水に棲むが、サルのように全身毛でおおわれている、とのこと、・・・、「猿/猴」は、いずれも「さる」だが、分類学上の、以下のそれぞれに対応するようである、ちなみに、「十二支」の「さる」は、「申」、・・・、「孫悟空」のモデルとして知られる、また、ボス交代とともに、旧ボスの子供が殺害される、という習性が、1950年代に発見されたことで、生物学が、生命の「目的」から、「種の保存」の看板を、降ろさねばならなくなったきっかけを与えてことで知られる、ハヌマン・ラングールHanuman langursは、オナガザル科なので、「猴」、に分類されることになるのだろう、・・・、
エン、さる、ましら・・・霊長目テナガザル科テナガザル
コウ、さる・・・霊長目オナガザル科マカク属マカク

(12)偶然、同じ町内の隣人に出会う、見ると、足元に三毛猫がいる、・・・、ボスニアヘルツェゴビナのビハッチの町に、北西のクロアチア国境付近から、避難民が流れこんでくる、その一群の人々について、やはり、「三毛猫」、「キャラコcalico」と描かれていたな、が歩いてきた、それが「Maci」、セルボ・クロアチア語ボスニア方言では、そのまま「猫」の意だ、という名の猫になる、・・・、もちろん、「決して名前を付けることがなかった猫-愛と、戦争、そして生き延びることの真実の物語」アムラ・サビッチ・エル・ライエス、を思い出したから、・・・、
1930年の地図では、「第二総軍司令部」は見当たらないが、「陸軍被服支廠」、「地方専売局」は、確かに、「比治山公園」の東に隣接した、「女子商業学校」付近から、彼ら、つまり「僕」と「宮地さん」が、その住居である「千田町」に向かおうと思えば、「御幸橋」で「京橋川」を渡らねばならないだろうから、その通り道に、なることがわかる、・・・、
(13)「専売局」から「宇品行きの電車が通じている広い道路」、現在は「宇品通り」と呼ぶようである、に出たところの光景、「専売局」は、1930年の地図によれば、もう、「御幸橋」東詰の目前だから、「広島電鉄路線図」でなら、「皆実町みなみまち六丁目」付近になるだろう、・・・、「福屋百貨店」は、1938年開店、「福屋八丁堀本店」として、現在も広島市中区胡町えびすちょうに営業中、やはり、「広島電鉄路線図」で見ると「八丁堀」停留所の南側になる、・・・、「中国配電」は、戦後、合併等を経て、「中国電力」となる会社、本社が被爆により破壊、との記述はあるが、現在の「中国電力」本社と同じ場所だったかどうかははっきりしない、やはり、「広島電鉄路線図」の「市役所前」の北側の停留所が「中電前」、・・・、「中国新聞社」、現在の本社は、「平和記念公園」の西側、「旧太田川(本川)」をはさんだ対岸にあるが、被爆当時は、現在の「三越広島店」のある場所、停留所で言えば、「八丁堀」と「胡町」の間の、南側、に1937年に建てられた社屋にあった、とのこと、「市役所」は上の(5)で見たとおり、中区国泰寺町こくたいじまち、・・・、「御幸橋」東詰、に立つ、語り手から、これらの建物が、すべて見えた、ということなんだろう、確かに、それらの建物の「東南」側が見えていたことになる、・・・、
「広島文理大学」、高等師範学校から、「文理大学」に昇格した学校が当時広島と東京に二つあり、前者が「広島文理大学」、のちに、広島大学、後者が、東京教育大学、を経て、筑波大学、とのこと、現在の広島大学のほとんどのキャンパスは、東広島市、旧・西条町、にあるようである、・・・、
(14)千田町の住居には、火災が迫ってきたので、広島市北方郊外の古市に、避難すべく、爆心地を縦断する形で、北に抜けようと、歩きはじめたところの描写、・・・、「比治山橋」、は、京橋川に架かる橋で、「御幸橋」の北側、ちょうど「比治山公園」の西側にあたり、その名の停留所がある、・・・、「鷹野橋」は、かつての運河に架かる橋に由来する地名のようで、やはりその名の停留所がある、これら二つをつなぐ「大通り」がどの通りを指すのかは、わからないが、いずれにせよ、東西に延びる通りのはずだ、・・・、「日本銀行支店」、広島市中区袋町、「袋町」停留所の東側、現存する被爆建物の一つ、「旧日本銀行広島支店」として、現在は広島市が管理している、とのこと、・・・、「白神社」は、その「旧日銀支店」から一ブロック南、やはり、道路の東側、・・・、「国泰寺」は、曹洞宗の寺院で、現在は、己斐町に移転している、とのこと、上の1930年の地図には、位置が示されており、グーグルマップでは、「白神社」の南側、「平和大通り」の北側の緑地帯に、「旧国泰寺」の表示が見える、・・・、広島電鉄の路面電車の線路のある大通りを北上し、「紙屋町」で左折、「旧太田川(本川)」と「元安川」の分岐点に架かる大きな橋、「相生橋」を東から西に渡って、横川方面に抜けようとの心づもりだったのだろう、「左官町」は、その「相生橋」西詰にある停留所で、現在は、「本川ほんかわ町」という名前になっている、・・・、結局、「紙屋町」で左折することは諦め、路面電車と離れて、そのまま通りを北上したようで、道は「紙屋町」から500mほどで、広島城に突きあたるが、その城郭の南東部、「二の丸跡」のあたりが、「西練兵場」であったようだ、・・・、1930年公開のフォン・スタンバーグ監督の「モロッコ」、ディートリッヒが、ハイヒールを履いたまま歩き始める、ラストシーンの「広大な砂漠」は、ハリウッドの撮影所敷地に作られた人工のものであったろう、との四方田犬彦の考証については、ここ、ディートリヒの「モロッコ」から、クラッシュ「ロック・ザ・カスバ」、まで、に書いた、・・・、爆風で吹き上げられた膨大な粉塵が、核となって、上空で水滴をまとい、落下することで「黒い雨」の夕立となったのだろう、爆発とともに放出された膨大な原子核反応の活性物質が上空で凄まじい勢いの連鎖反応を生じたであろうから、それら粉塵や水滴には、大量の、放射性物質が含まれていただろう、と想像される、・・・、「第五師団司令部」のあった広島城の北方に、「旧太田川(本川)」に架かる「三篠橋」があるから、ここを、南東から北西に向かって渡り、横川駅へと向かう「計画」だったのだろう、橋が通行できないことがわかったため、その「旧太田川(本川)」左岸沿いに、再び「相生橋」まで南下したわけだ、・・・、「紙屋町」から「相生橋」まで、直接なら500mくらいであるところを、2kmばかりも回り道したことになる、「空鞘町」という町名は見つからないが、「旧太田川」に架かる「相生橋」の北隣の橋が「空鞘橋」、その西詰南側、旧「左官町」、現「本川町」北側に、「空鞘稲生神社」があるから、そのあたりのことを指している、と思われる、・・・、「空鞘橋」の北側、「天満川」と「旧太田川」にはさまれた中州の北端部分が「寺町」、そこから、「天満川」を越えて、横川駅に向かうには、「横川橋」を北に渡らなければならない、ちなみに、(8)(9)で、渡った「横川鉄橋」はこれとは異なり、現JRの鉄橋である、・・・、ところが火災のために通行不能の状態だったので、川の中を歩いて渡ることになった訳だ、・・・、この先「国道」沿いを、おおよそ、不通になっている可部線に沿って北上したはずだが、現在の「太田川放水路」は戦前から工事が始まり、1967年に完成したもののようで、この被爆時に、どのような状態だったのかがよくわからないので、その経路は、読み取れないところもある、・・・、上の路線図に「山本駅」は見当たらないので、可部線の駅名を、wikipediaで調べて、かつてのものを含めて列挙すると、横川―松原―三滝―新庄橋―安芸長束―安芸山本―下祗園―祇園―古市橋―古市―安―大町、とあるので、この「安芸山本」がそれに該当するのであろう、・・・、このくらいの接近した地点を、緯度経度などという大局的な座標で捉えるのは、誤差がどの程度影響するかもわからず、怪しいものではあるものの、この日の、重松、シゲ子、矢須子、三人の道行きを、おおよそ「千田町」の家から、「山本駅」まで、回り道の部分もなるべく含めて、直線距離の積算として、辿ってみた、・・・、

「閑間君、しかし、ただ焼くだけではいかんよ。息が絶えた、では担いで行って焼く。これだけでは、死者に対して気の毒だと思わんかね。僕は霊魂不滅の説を信じないが、死者は鄭重に葬るべきだと思っている。閑間君、坊さんの代わりになって、君は死者のあるたびごとにお経を読みたまえ」
僕は返答に戸惑った。いくら工場長の命令でも、僕にお経が読めるわけがない。
「とても駄目です」と答えると、工場長は、今後とも死者がぞくぞく出る見込みだから、どこかお寺へ行って火葬するときに、坊主の読む経文をノートして来いと云った。そればかりでなく、広島には真宗の人が多いから、真宗の流儀で読む経文を筆記して来いと注文つけた。
・・・僕は筆記する手を休めて庭を見たが、赤いカボチャが目に映った途端に涙が湧いてきた。
経文の意味はよく分からないが、調子をつけて読まれるような字づらになっている。「三帰戒」は「自帰依仏、当願衆生、体解大道、発無上意・・・・・・」という書きだしで、「開経偈」は「無上甚深微妙法、百千万劫難遭遇・・・・・・」という冒頭である。「白骨の御文章」は、筆記していて心にしみこんで来るような美しい和文である。
「お葬式のときには、安芸門徒は『三帰戒さんきかい』『開経偈かいきょうげ』『讃仏偈さんぶつげ』という順に読んでまいります。次に流転三界るてんさんがいの『阿弥陀経』でございますが、このお経を読む間に、参集者がお焼香をいたします。次に、『白骨の御文章』でございますが、このときには仏の方へ向かないで、参集者の方へ向いて諷誦ふうじゅいたします」
・・・
女事務員たちは僕の読経を代る代る聞きに来たらしい。「白骨の御文章」を筆記さしてくれと云ってくるのが三人もいた。何のために筆記するのかと尋ねると、「文章が良いですから」と答えるのがいた。「暗記したいんです。――我やさき、人やさき、今日ともしらず明日ともしらず・・・・・・あのつづき、暗記したいんです」と云うのもいた。(15)
「黒い雨」井伏鱒二(新潮文庫)
・・・
(15)「広島には真宗の人が多いから」とあるので、wikipediaで調査してみると、「浄土真宗本願寺派/西本願寺」には、上の、(14)で見た「寺町」に、「本願寺広島別院」があり、これを本拠として、「安芸教区教務所」が存在しているようである、これに対して「真宗大谷派/東本願寺」の方は、素人判断に過ぎないものの、山陽地方にそれほど大きく展開していないように思えるので、ここでの「真宗」は、「本願寺派」を指すのだろうという結論にしておく、・・・、以下は、「阿弥陀経」について、柳宗悦「南無阿弥陀仏」から、・・・、
・・・法然上人はこれを「三部経」と呼ばれて、浄土宗が依って立つ根本の経典とされた。即ち『無量寿経』と『観無量寿経』と『阿弥陀経』とである。・・・
第三の経文は『仏説阿弥陀経』で、三部経のうち最も短いから『小経』とも呼ばれる。玄奘三蔵の新訳もあるが、広く用いられているのは有名な鳩摩羅什の古訳である。・・・この経は極楽浄土の荘厳を歌い讃えたものであるが、もっとも有名な個所は名号執持の一節で「一心不乱」(心を一にして乱さず)に称名を続ける者には、その臨終において弥陀の来迎にあずかり、浄土に疑いなく往生することを述べてあるのである。短くもあり親しくもあり、ほとんど凡ての浄家に諳んじられているほどの小経である。
・・・浄土宗の鎮西、西山その他の各派、真宗の本派大派、高田派その他、同じく時宗もまた、これら三部経に立つ念仏宗たることにおいては変わりがない。・・・
「南無阿弥陀仏」柳宗悦(岩波文庫)

ここに「真宗の本派」は、「浄土真宗本願寺派/西本願寺」、「大派」は「真宗大谷派/東本願寺」を指すようである、・・・、
「三帰戒」:「仏」、「法」、「僧」の「三宝」に帰依することを示した言葉、「南無帰依仏」、「南無帰依法」、「南無帰依僧」の三句、
ケツ、ケイ、ゲ、はや(い)、いこ(う):仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの、
「開経偈」:仏教各宗で法要や勤行などの際、読経にはいる前に読まれる偈、
「日蓮宗」以外の各宗派では、次のように読まれる、とのこと、
無上甚深微妙法むじょうじんじんみみょうほう百千万劫難遭遇ひゃくせんまんごうなんそうぐう我今見聞得受持がこんけんもんとくじゅじ願解如来真実義がんげにょらいしんじつぎ
「無上甚深微妙の法は百千万劫にも遭い遇うこと難し。我今見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解し奉らん。」
「讃仏偈」:「無量寿経」上巻に述べられる四言八十句の偈頌げじゅ(仏の功徳をたたえる歌)、
・・・、ということから、これも素人判断だが、「三帰戒」、「開経偈」は特に宗派にかかわらない性質のもののようであるが、「讃仏偈」は、「浄土真宗」、「真宗大谷派」に固有のものであるらしく思われる。
「白骨の御文章」:浄土真宗本願寺八世蓮如(1415-1499)が撰述した御文おふみの5帖目第16通「白骨はっこつ」、「浄土真宗本願寺派」では、「白骨はっこつ御文章ごぶんしょう」、「真宗大谷派」では、「白骨はっこつ御文おふみ」、と呼ぶようであるから、このことからも、ここで、重松が、読経の仕方の教えを乞いに行ったのは「本願寺派」の寺院であったことがわかることになろう、・・・、「ウィッキー・ソース日本語版」から、原文を引用する、・・・、
夫、人間の浮生なる相をつらゝ観ずるにおほよそ、はかなきものは、この世の始中終まぼろしの如くなる一期なり。されば、いまだ萬歳の人身を、うけたりといふ事を、きかず。一生すぎやすし。いまにいたりて、たれか百年の形體をたもつべきや。我やさき、人やさき、けふともしらず、あすともしらず。をくれ、さきだつ人はもとのしづく、すゑの露よりも、しげしといへり。
されば、朝には、紅顔ありて、夕には、白骨となれる身なり。すでに、無常の風きたりきぬれば、すなはち、ふたつのまなこ、たちまちにとぢ、ひとのいき、ながくたえぬれば紅顔むなしく變じて、桃李のよそほひを、うしなひぬるときは、六親眷属あつまりて、なげきかなしめども、更に、その甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外にをくりて、夜半のけぶりと、なしはてぬれば、たゞ白骨のみぞのこれり。あはれといふも、中々おろかなり。
されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかひなれば、たれの人も、はやく後生の一大事を、心にかけて、阿弥陀仏を、ふかく、たのみまいらせて、念仏まうすべきものなり。あなかしこゝ。

蓮如上人御文章
午後三時ごろになると、広島から脱出した負傷者たちが汽車で三次町に運ばれてきた。この日、芸備線は下深川から先は普通になっていた。負傷者は下深川まで徒歩で逃れ、そこから列車に乗ったのだという。
・・・
午後五時ごろ、郡医師会、三次中学、三次高女の職員、消防団員、町村有志が協議の上、救援隊を動員することになった。田淵さんは第一班の班長に選ばれて、三次高女教員、町村有志等八十名を引率し、七日の朝五時ごろ汽車に乗って下深川に到り、そこから徒歩で広島に入った。午前十時半ごろであった。・・・連れの一人が半ば失神して、よろめきながら歩くので、市外祇園町の知り合いのうちへ午後四時半ごろ辿りついた。ここで四時間ぐらい休息して、夜八時半にやっと腰をあげ、疲れきっていたが三人で帰途についた。今までにそんなことは覚えのないほど疲れていた。祇園町から下深川まで三時間で歩き、下深川の待合室で一泊。翌朝、六時ごろ避難者満載の汽車に乗って帰ってきた。(16)
市街は一網打尽に焼かれたのだから遠景が見えた。南東の方角に大河町の青黒い山が見え、南には向宇品むこううじなの楠の処女林、その真向うに似島にのしま須弥山しゅみせん、西に江波えばの小高い山、東に東照宮のお山が見える。(17)
(16)これは、シズ子と矢須子が、聞いてきた話のメモ、「陸軍病院」の看護婦補助員として動員されていた「三次高等女学校」生徒などを、救援する目的で、被爆の翌日に広島へ向かった人々の事跡を伝えている、「田淵さん」というのは、「三次高女」の教授である女性、・・・、上の1930年の地図には、「旧太田川(本川)」左岸、「三篠橋」東詰南側あたり、広島城の「第五師団司令部」の北西隣である、に「衛戍病院」と記されたものがある、wikipediaによれば、「衛戍病院」→「陸軍病院」→「国立病院」、と変遷していくのが一般のようであるから、ここが「陸軍病院」であったか、と想像される、・・・、「下深川しもふかわ駅」は、現・広島市安佐北区にある芸備線の駅、芸備線は、太田川をはさんでほぼ可部線と平行に走っており、「下深川」と「可部」も2kmくらいしか離れていない、鉄道の路線距離から計算すると、
三次駅―54.6km―下深川駅―14.2km―広島駅
となる、・・・、「祇園町」は、可部線の下祗園駅、祇園駅、古市橋駅の間の西側、・・・、ちなみに、被爆直後の可部線が、「山本駅」、現在の「安芸山本駅」と思われる以北が普通だったことが上の引用部分にあったが、これも路線距離で見てみると、
横川駅―3.3km―安芸山本駅
とのことだから、芸備線側の不通区間、の方がはるかに長かったことがわかる。
(17)8月10日の日記、勤務先の工場への石炭調達の交渉のために、再び市内へ向かった時のこと、相生橋から眺めた光景、・・・、「大河町」そのものは不明だが、「南大河町」は広島市南区、その背後に「黄金山」という小高い丘が広がっている、・・・、「向宇品」という地名は発見できないが、広島電鉄宇品線の、最南端の二つの駅、「広島港」、「元宇品口」が、かつては、それぞれ、「宇品」、「向宇品口」だったようで、なるほど、その「元宇品口」から南へ、橋でつながった海上の小島が、「宇品島」であるから、この島をかつては、「向宇品」と呼んでいたのであろう、確かに、全島、緑でおおわれている、・・・、「似島の須弥山」も見つからないが、この島の北部に「安芸小富士」という、標高278mの、その名の通り「富士山」の如き山容の山があるから、これを指しているのであろうと思われる、「須弥山」は、サンスクリット音訳sumeruに由来するもので、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教共有の、「世界の中心」概念に与えられた名称で、「妙高」もこちらはサンスクリット意訳、という風に、各地に、これに擬えた山が存在するから、あるいは、「安芸小富士」も、このように呼ばれていた可能性はあるだろう、ちなみに、せっかく調べたついでだから、メモしておくと、「金輪際こんりんざい」は、仏教による「須弥山」記述に由来するもので、この山は、下から順に、風輪、水輪、金輪、と三層に分かれていて、その「金輪」の最下面が「金輪際」、とのこと、・・・、「江波」は、「天満川」と「旧太田川(本川)」にはさまれた三角州の、南端近くの街区で、「江波皿山公園」という、確かに「小高い山」がある、・・・、「東照宮」は、「二葉の里」の北東の端、下の田口ランディ「被爆のマリア」に登場する「金光稲荷神社」は、そのさらに北側で、グーグルマップ航空写真モードで見ると一帯は緑地、ないし森で、「東照宮」が、「金光稲荷神社」を経て「二葉山」に到る登山口になっているように見える、・・・、

米軍作成の、1945年の広島市地図(拡大)


のたもとから振り返ると、もう少年の姿はなかった。
川を遊覧船が走って来る。船着き場のアナウンスが聞こえてきた。この遊覧船はうんと上流のほうまで行く。水鳥のいる中洲があり、その先は昔、桜の名所だった。まだ原爆が落ちる前の広島の頃だ。よくこの川で泳いで遊んだ。泳ぎながら川の水を飲んだ。川底が見えるほど川はきれいだった。
・・・
を渡って左に折れると、かつての島医院が見えてきた。この場所に六十年前の八月六日午前八時十五分に原爆が落ちてきた。・・・(1)
・・・
元安橋のたもとにある観光案内所で、ひと休みすることにした。・・・
・・・残された右目だけで、松田さんは川向うの原爆ドームを見つめる。
「あの建物はとても洒落た建物だった。外国人が建てたものだそうよ」(2)
比治山は、昔は臥虎山がこざんと呼ばれておりました。この山の桜はたいへん見事で、比治山と言ったら桜の名所でした。比治山神社の狭い境内にずらあっと露店が並びましてね、花見の場所を取るのにも朝一番で行列ができるほどでした」
陸軍墓地の手前に車を停め、私たちはゆるい坂道を歩いて登った。
「この山は大昔は、瀬戸内海の島だったようですね」
「そういうことになっておりますね。ずいぶん小さな島だとお思いでしょうが、昔はもっと高かった。あのABCCはね、山を削って建てたんですよ。四十メートルくらい削ったでしょうか」
「へえ・・・・・・」
原爆傷害調査委員会(ABCC)は、アメリカ軍によって原爆障害の実態調査が行われた施設で、たくさんの被爆者が治療という名目の調査のために運び込まれた。今は放射線影響研究所という財団法人になり、日米共同の研究所として原爆被爆者の追跡調査を行っている。
私たちは陸軍墓地の裏にまわった。このあたりを全部削ったのだと安田さんは説明してくれた。
「この御便殿ごべんでんという広場は、何ですか?」
地図と景色を見比べながら坂道を歩く。
「それは、日清戦争のときに、明治天皇の関連の施設として西練兵場に建てられたものなんですよ。それを市がもらって比治山に移築したんですわ。御便殿には明治天皇が祀られていると思っている者も多かったですが、中には天皇のお写真があっただけだそうです。あの原爆が落ちた日、比治山は火を逃れて命からがらたどり着いた被爆者でいっぱいになりましてね、御便殿の広場はもとより、どこもかしこも負傷者で足の踏み場もなかったです」(3)
「被爆のマリア」田口ランディ(文春文庫)

(1)(2)とでは、場面も、登場人物も異なるのだが、「橋」は、いずれも「元安橋」、元安川が、旧太田川(本川)から分岐して、最初の橋、(1)では、その前のシーンで、「平和記念公園」のベンチに座っていたから、今、西南西から、東北東に向けて、元安橋を渡ろうとしているところだ、とすれば、「遊覧船」は、元安川から、旧太田川(本川)まで遡って行くのだろう、グーグルマップの航空写真モードにしてみたが、潮目の関係もあるのだろう、「水鳥のいる中洲」は、発見できず、・・・、そこから、「橋を渡って左に折れると」、確かに、爆心地、「原爆ドーム」にたどり着くことになるだろう、・・・、(2)の「観光案内所」は、やはり「元安橋」西詰に、「広島市平和記念公園レストハウス」があり、「観光案内所」も兼ねているようだから、同じ場所にいることになろう、そして、やはり「川向う」が、「原爆ドーム」、この後、物語は、「二葉山」の「金光稲荷神社」をめぐる話題に移っていくようで、まだ、読んでいる途中なので、のちほど。

(3)原爆傷害調査委員会Atomic Bomb Casualty Commission(ABCC)、ハリー・トゥルーマン大統領の命令により、1946年に設立、1975年解散。
放射線影響研究所Radiation Effects Research Foundation(RERF)、「ABCC」の後をうけて、1975年設立。
上に掲げた米軍作成の図面は、なにか傾いている、という印象だが、左下の小さな囲みにあるように、この図面の縦横の罫は、「地理学上の北極Geographic North Pole」と、「地理学上の南極Geographic South Pole」をつないだ、経線、と、それに直交する、緯線、ではなくて、「磁北極North magnetic pole」、磁力線が鉛直成分のみをもつ地点、に向かって引かれているようである、・・・、「磁北極North magnetic pole」は、時とともに移動するようであるから、この1945年時点での、それが、「地理学上の北極Geographic North Pole」とどれだけずれていたか、確かめようがないが、図面上の説明によれば、y軸方向、つまり、図面の上方向、より、「真の北True North」、おそらく、これが「地理学上の北極Geographic North Pole」を指すのであろう、が、右、つまり、時計回りclockwiseに、1°26′、傾き、「磁北極North magnetic pole」が、左、反時計回りcounter-clockwiseに、4°18′、傾いていたらしい、ちなみに、「北極」の概念には、もう一つ、「地磁気北極North Geomagnetic Pole」という概念があり、これは、地球を単純な「磁気双極子」に見立てたときの、「N極」のこと、地球が完全な「磁気双極子」であるならば、これは、「磁北極North magnetic pole」と一致するはずだが、無論、そうはならない、とのこと、・・・、この図面は1946年に作成されたもののようだが、占領後わずか一年で、これだけの精密な測量を完了していたとは、今更ながら、「勝てる相手ではなかった」ことが実感させられる、比治山の標高は、69.6m、二葉山は、133.7m、と記載されている、wikipedia日本語版によれば、現在の比治山は、71.1m、二葉山は、139m、とのこと、凡例のところには、標高は、「Lowest Low Water」、引潮時の最低海水面、という意味だろうか、を基準としているとの注意書きがあるが、この誤差は、これではうまく説明できないな、・・・、引用部分の「四十メートルくらい削ったでしょうか」、の手がかりになるようなものがないか、と思ったのだが、戦前の地図で、標高表示のあるものが見つけられない以上、無理な話であった、・・・、グーグルマップによれば、「旧ABCC」、「放射線影響研究所」は、比治山の山頂と、「陸軍墓地」を一辺とする正三角形を、西の方に広げたもう一つの頂点、と言えばよいか、のあたりに位置するようで、米軍地図の「Military Cemetery」は、少し西に寄り過ぎているように思われる、むしろ、その地点が「ABCC」そのものに当たりそうである、・・・、「比治山神社」は、米軍の図面にも、また、1930年の日本の図面にもあるように、比治山公園の北の端にある、・・・、「黒い雨」の引用部分で見たように、二葉山の南東、広島駅の北東、の広い敷地を占めるのが、「東練兵場」で、これに対して、元安川と京橋川で囲まれた中州を、「白島はくしま」と呼ぶようなのだが、その北側、広島城の敷地が、1930年の図面によれば、「旧大本営跡」、「第五師団司令部」だったようで、その南東側の城郭内に、「西練兵場」があったようである、
・・・
草津梅林の梅は、そりゃあ見事だったわ。長寿園の桜も素晴らしくてね、みんなが花見に出かけたものよ。こう、太田川に沿って満開の桜がたわわに垂れるの。舟遊びをしながら岸辺の桜を眺めたものよ。手にぶらぶらとひょうたんをぶらさげてお花見に行ったわねえ。ひょうたんにね、砂糖湯で薄めた白酒を入れてもらうのよ。それがとっても楽しみで・・・」
・・・
「船着き場に市が立つんじゃけど、榎町の市場なんてそりゃあもうたいへんな賑わいよう。野菜、果物、魚、海の幸山の幸がずらっと並んでね、あっちからこっちから威勢のよい掛け声が響いてきて、太田川じゃあ上流に向かって白い帆かけ船が幾艘も並んで、壮観じゃった。風を受けて川を上る船を追いかけて、川べりをみんなで競走して、あん頃は寺町の町並みも粋でねえ、芸者衆もたくさんいて。そうそう、本通のすずらん灯は関西一と言われていて、広島の自慢じゃった、昔はそりゃあ洒落ていてね、娘のころあそこを歩くだけでうれしかったけんね」
・・・
「私ね、初めて男の人と出かけたのが、新天地のサーカスだったの」
「つまり、デートですか?」
松田さんはハンカチで口を押さえて私をバンバン叩く振りをした。照れているのだ。耳まで真っ赤になっている。
・・・
「戦争前のことを話す機会は、あまりありませんか?」
少し考えてから、松田さんは首を振った。
「そんなこと、誰も聞きたがらないですもの」(4)
あの日、恐ろしい邪気が東北の空からやってきた。
それは一機の銀色の飛来物。真っ青な空をよぎっていく強大凶悪の邪気だ。この小さな物体が無数の衆生の命を一瞬にして奪うことを、イワガミは宇宙の始まりから知っていた。
イワガミは、神の使いであるキツネたちを呼んだ。
これから恐ろしいことが起こる。たくさんの人が苦しみ死ぬだろう。わたしにはそれをとめることはできない。キツネよ。おまえは苦しみ焼かれて死んでいくものたちの魂を彼岸へと送りなさい。死者の無念がこの地に残らぬよう、死にゆくすべてのものたちに今生の極楽を見せなさい。
イワガミの言葉に、キツネは走った。激しい閃光と凄まじい爆風にもひるまずに走った。すでに街は地獄と化していた。炎が燃えさかり、生き物たちの肉体は熱で溶けていた。何千、何万の人間が苦しみ悶えている。キツネは身も凍る無念の叫びを聞いた。全身が総毛立ち恐ろしさに足がすくんだ。
だが、神の使いであるキツネは、命をかけて灼熱地獄へ降り立った。紅蓮の炎に身を包み焼かれ苦しむ者たちに霊力の限りじゅをかける。黄金の毛が燃えて火花と散る。
すると人々の至福の記憶が蘇る、一瞬にして肉体の苦痛は消え去った。
・・・
蠢き苦しむ人間たちの思い出、その思い出の中の広島を、宮野初子は渾身の力で描いている。もっとも美しい今生の記憶の中で人々は安堵し、仏となって彼岸へと旅立つ。これは、究極の鎮魂だ。(5)
「磐神」のラストは、まるで一篇の詩のようだ。
イワガミに救われた魂は真珠魂となって空に舞い上がる。
光り輝く無数の真珠魂は寄り合って巨大な球体となり、暗黒の原爆雲を貫いて彼岸へと飛び去ってゆく。あたかも天上のシャンデリアのよう。輝きながら回転する。それが原爆の黒い雲の中に現われ、そして消える。・・・
広島は宮野初子の描くままの土地だった。数千年前の縄文時代からこの地には人間が住んでいた。温暖な気候で海の幸山の幸に恵まれた水の都、それが広島だ。だが、原子爆弾が一瞬にして、広島の表土を焼き削り、生き物を殺傷した。
広島の表面はきれいさっぱり刷新された。それを人々は広島の復活と謳った。だけど、そうではないことを「磐神」は描いているのだ。すべては変転しているが、でも何も変わってはいない。表面は建て替えられても、地層には数千年の人間の歴史がまだ埋まっている。文化の風も人も水も地続きで流動している。すべては繋がっているのだ。上も下も。内も外も。生者も死者も永遠にかかわり合っている。
・・・
「UFOですか?空飛ぶ円盤?」
「どういうんだろう。原爆が落ちたときね、空にたくさんの真珠の粒が集まって、大きな球になったって言うのよ。それがものすごい光を発して、原爆雲の中を飛んでいったんだって。それを見てからあの人、ちょっと頭、変になっちゃたのよね」(6)
「被爆のマリア」田口ランディ(文春文庫)
・・・
(4)「平和記念公園」で被爆体験の「語り部」をしている「松田さん」という高齢の女性に、語り手の作家が、インタヴューしている、・・・、「長寿園」は戦後初期まで「工兵橋」から「三篠橋」に至る川岸に所在していた桜の名所、「工兵橋」は、「旧太田川」から「京橋川」が分岐したすぐの場所にある橋だから、おおむね、「旧太田川」左岸沿いに広がっていたのだろう、・・・、「榎町」、広島市中区、「本川町」の南西、停留所で言えば「十日市町」の西、あるいは、その「十日市」が、ここで言及されている「市」なのかもしれない、・・・、「本通」、停留所で言えば、「袋町」と「紙屋町」の間が「本通」、その東側に広がる一帯、・・・、「新天地」、停留所「八丁堀」の南、200mあたり、・・・、
(5)(6)語り手である、作家が、新聞社の書庫で偶然見つけた「磐神いわがみ」なる作品、それは、どうやら、「二葉山」の「金光稲荷神社」のご神体であるらしい、・・・、「風水」の考えによれば、うしとら、すなわち「丑」と「寅」の間の方向、下表に見るようにそれは「北東」にあたる、が、「鬼門」とされ、邪悪なもの、と同時に、生命力豊かなもの、でもある「気」が流れこむ方向、という二重性を帯びていたようである、・・・、二葉山は広島市の、まさに北東方向にある、そして、原子爆弾を搭載したB29、エノラ・ゲイも、北東から飛来した、と言われている、・・・、物語の中では、その「磐神」なる物語の作者、宮野初子は、被爆体験の後、「狐憑き」の如き状態の中で、その作品を執筆した、という、・・・、(6)の後半は、これとは別の、上の引用部分(3)で、「比治山」を案内してくれた「安田さん」に関する言及、・・・、井伏鱒二「黒い雨」の引用部分、(9)、の、「その度に、茸型の体のどこかが、赤に、紫に、瑠璃色に、に色を変えながら、強烈な光を放つ」、もまた、これと同じものを、描いているように思われた、・・・、

・・・
高校2年の夏休み、8月6日を広島で過ごそうと、友人と神戸からヒッチハイクをした。5日夜遅く、市内に入り、休むために原爆ドームの中に侵入した。結局眠れぬまま、辺りをうろついていて、子分を連れた若いヤクザに呼び止められた。
「なにしとんじゃ?」
神戸から来た高校生だと答えると、男の表情が緩んだ。わたしたちは近くに腰を下ろし、話をした。男は、慶応の大学院でスタンダールを研究していたが、親が組長でその跡を継ぐために戻った、といった。今日、大きな出入りがある、あんたらが最後の話し相手になるかもしれん、と。明け方近く、わたしたちは別れた。男がしゃべったのはほんとうのことだったのだろうか。そのスタンダールの話は、とても魅力的だったのだが。
それから6年後、広島のヤクザたちの抗争を、事実をもとに描いた一本の映画が公開された。そのタイトルは「仁義なき戦い」といった。
映画の冒頭、巨大なきのこ雲が映る。舞台は敗戦直後の広島県・呉。焼け跡の中、台頭してきたヤクザたちは、生きるために争う。そこで、彼らは「親(分)」と呼ぶもののために、生命を投げ出すのだが、一方で「親」は、子どもである彼らをたんなる金もうけの手段としか見ない。そして悲劇が生まれる。観衆は、そこに「天皇」と「兵士」や「国民」の関係をも思い浮かべることができた。
この巧妙なドラマの脚本を書いた笠原和夫は、海軍の若年兵として広島で暮らし、投下された原爆の光ときのこ雲を見た。「仁義なき戦い」シリーズのうち笠原が参加した4本は、高度成長期を描いた「頂上作戦」で完結する。そのラストシーン、主人公が「もう、わしらの時代はしまいで」と呟いたのち、第一作のきのこ雲に呼応するかのように原爆ドームが浮かび上がり、ナレーションが流れる。
「こうして・・・・・・やくざ集団の暴力は市民社会の秩序の中に埋没していった・・・・・・だが、暴力そのものは、いや人間を暴力にかり立てる様々の社会矛盾は、決して我々の周囲から消え去った訳ではない」
雑誌「現代思想」の特集は、先頃亡くなった俳優、菅原文太。「仁義なき戦い」で主人公、広能昌三を演じた。
菅原は晩年、政治的活動に踏み出し、「行動する知識人」とも見なされるようになった。農業を営みながら、ラジオや雑誌や様々な現場で、夥しい人たちと、社会のあり様について話しつづけた。
「ぼくらの民主主義なんだぜ」高橋源一郎(朝日新書)

高橋源一郎は、確か、神戸の灘高校の出身で、・・・、私事にわたるが、他に自慢することがないから「学歴自慢」をすれば(笑)、私は、「阪神間」では、「灘高に次ぐ第二位」といわれた進学校の出身で、・・・、1951年生まれの、「高校2年生」なら、1967年、ないし、1968年、ということになるが、その高校からは、一学年200人のうち半数ほどが「東大」に進学する、1969年、「東大全共闘」が、時計台を占拠、入学試験が実施できなくなった、だから、当然「東大」に進学すべき「秀才」たちが、諸々の他大学に「流れた」のであった、もちろん、京大にも、・・・、わたしの在学時にも、大学院生や、助手などの中には、「あ、おれ?、1969年入学だから」とさりげなく呟いて、「アナタタチトハ出来ガチガウ」と言いたげな人たちに、数々出会った、・・・、話を戻せば、高橋源一郎氏も、この「1969受験組」で、横浜国立大学に、進学、一年生の時、デモでパクられることになった、横浜国立大学は、当時は、中核、革マル、第四インター、その他、「新左翼」全党派が入り乱れる、「激戦区」として知られていたが、高橋氏が、どの色のヘルメットをかぶって逮捕されたのかは、わからない、身内びいきとしては(笑)、なんとなく「赤ヘル」だったのでは、と想像しているのだが、・・・、で、そこから逆算すると、この「夏休み」は、1967年、ということになるだろう、「6年後」、「仁義なき戦い」公開、という記述とも符合する、・・・、1965年の「部分的核実験禁止条約」の評価をめぐって、日本共産党が主流派を握る「原水協(原水爆禁止日本協議会)」から、日本社会党系が脱退して、「原水禁(原水爆禁止日本国民会議)」を結成したのも、同じく1965年、だから、その二年後だ、・・・、沖縄県知事選に、翁長雄志が出馬したのだから、2014年になるか、那覇の「セルラー・スタジアム」での、同候補支援の集会の壇上に、私は、最晩年の菅原文太氏を見た、「○○〇さんよ」、と、現職知事の名を挙げつつ、「まだ、弾は一発、残こっとるけえの」と、「仁義なき戦い」の、おそらく有名なセリフだったんだろう、をもじって、会場の喝采を浴びていたのを覚えている、・・・。
仁義なき戦い(1973)」深作欣二/笠原和夫、菅原文太
仁義なき戦い・広島死闘篇(1973)」深作欣二/笠原和夫、菅原文太
仁義なき戦い・代理戦争(1973)」深作欣二/笠原和夫、菅原文太
仁義なき戦い・頂上作戦(1974)」深作欣二/笠原和夫、菅原文太
・・・
井伏鱒二の「黒い雨」を、初めて読んだのは、中学生の頃だったと思う、・・・、一般的には、ものすごく「感じの悪い作家」とされているのであろう太宰治を、いや、実際「感じの悪い作家」であるのは確かだ、と思いつつも、どうしようもなく引き込まれてしまう人も、また、世の中には多々あるようで、例えば下に引用した、田口ランディ「被爆のマリア」(文春文庫)にも、・・・、
他人の作品を読んでこんなにショックを受けたのは、十五歳の時に太宰治の「人間失格」を読んで以来だ。
という一節があるし、例えば、西加奈子「舞台」、初めての海外旅行初日にパスポート財布等一式を盗まれたにもかかわらず、平静を装って、「セントラル・パーク」から「セプテンバー・イレブンス」の「グラウンド・ゼロ」まで、歩き続ける主人公は、確か名前まで「葉造」、やはり「人間失格」、ではなかったかしら、・・・、「サラバ」の登場人物、「須玖」君も、「富岳百景」に耽溺して、最後に富士を眺めて自殺しようと旅に出て、果たせず、残金が198円になったところで飛び込んだコンビニで、思わず買ってしまった「ティラミス」の、あまりの旨さに、生きる希望を取り戻し、以降「てぃらみすーぅ」と叫ぶ以外にネタのない、「売れない芸人」になる、・・・、という場面があった、・・・、

「舞台」西加奈子(講談社文庫)/「サラバ」西加奈子(小学館)
・・・
私もその一人なんであって、こんな風に、太宰の「感化」を受けた作家に次々に「出会って」しまうのも、何か「同類」の匂いを、嗅ぎつけてしまうからだろうな、唯一の例外が、英文学者の中野好夫で、この人は、最晩年の太宰治と、かなりひどい罵倒合戦を演じているね、・・・、その「同類」性の「匂い」を、「子供」は、往々にして、「自分は特別なんだ」と、「ナルシスティック」な方向に解釈してしまいがちだが、それは、学校の休み時間も、教室の片隅で文庫本を読んでいるような、「友達のいない」(笑)人間の、「自己保全」の止むを得ざる方策ではあるものの、もう少し広いパースペクティヴでとらえるならば、「親に愛されない」ことで、あるいは「親に愛されていない」と思い込むことで、常に「他人の顔色をうかがって育つ」のは、なにも、特別にパーソナルな、「家庭不和」とか、「性格異常」とかに帰すべきでもなく、広く、「近代化」の全過程で、おや、ずいぶん「広く」出たもんですな(笑)、「大家族制」から「核家族」への移行の過程で、当然にも生ずべき、数々の齟齬、・・・、例えば、「昔」は、人は「親」に育てられたわけではなく、「乳母」や「子守」、あるいは「大家族」の「大人集団」に、育てられたのだし、そもそも「子供」は、「家族」にとって、未熟な「労働力」に過ぎないのであれば、何も特別な「子供」なる地位を与えられていなかったかもしれないのだから、・・・、それが、「近代化」とともに、「核家族」の中で、日がな一日顔を突き合わせる「親」と「子」の役割を、いきなり演じろ、と言われても、うまく適応できない個体群が、洋の東西を問わず、膨大な数で存在しただろうことは、想像に難くないのだ、・・・、岡田尊司という精神科医、この人は、京都の少年刑務所で長らくカウンセラーをしていた人だ、を通じて、「愛着障害attachment disorder」、という言葉を知り、もう一つは、全然別の方面、「愛着障害」などという術語は一言も用いないけれども、文芸評論家の、三浦雅士「漱石―母に愛されなかった子」(岩波新書)、には、まことに目が開かれる思いがした、「親に愛されない」ことは、「特別じゃない、どこにでもある」事態で、「世界」には、膨大な数の「愛着障害者」が息づいているのである、太宰治もむろんその一人で、その作家に魅力を感じてしまう、私も含めて、多かれ少なかれ「病んだ」人々も、別に、たいして「自慢する」ほど(笑)、「珍しい」ものではなかったことを知るのは、もちろん、ある種の「幻滅」でもありうるが、一方で「ティラミス」並みの(笑)、「生きる希望」でもあった、・・・、

「愛着障害―子ども時代を引きずる人々」岡田尊司(光文社新書)/三浦雅士「漱石―母に愛されなかった子」(岩波新書)
・・・
井伏鱒二に話を戻すと、その太宰治が、私淑しており、「富岳百景」にも、しばしば登場する、・・・、太宰治は、東京帝大仏文科在学中に、日本共産党の地下活動に、本人は自虐的に語るけれども、おそらく、かなり真面目に関与していたが、青森の大地主であり、政治家への野望も抱いていた兄に付き添われ、青森警察署に出頭、おそらく「転向宣言」にあたる「誓約書」に署名捺印をしたのが、1932年12月、・・・、井伏鱒二への師事は、1930年ごろに遡るようだが、1939年出版の「富岳百景」に描かれているのは、1937年の、薬物中毒、心中未遂、の、いわば「どん底」の日々から、1940年代の、「駆け込み訴え」、「走れメロス」に始まる、ほとんど何者かが「憑依」したかのごとき多作の時代への、転回点を成す時期だったように思われる、「日本浪漫派」に接近し、「報国文学会」の支援を受けた創作活動が、「転向」なのか「偽装転向」なのか?、もちろんあらゆる「転向」は「偽装転向」であり、また逆も然り、ではあるから、その議論はあまり意味をなさない、とも言えるが、あるいはそこに、井伏鱒二の「スタイル」が、影響を及ぼしていたのかもしれない、と気づかされたのは、実は最近、古山高麗雄を介してであった、・・・、
「植民地主義者、『原住民』に会う」症候群、と名付けようと思う、・・・、ものについて、井伏鱒二と小津安二郎のシンガポール
に長々と引用したけれども、「反戦反軍の言辞を弄する」、「三高」を一年で退学になった、不良学生であった古山高麗雄が、ビルマの戦場へと召集されようとするまさにその時期に、新聞連載中の「花の町」を読み、「報道班員」という制約の中で、しかし、「軍」の「検閲」を、それこそ「何食わぬ顔」で、飄々とすり抜けてしまうその文体が、しかし、なかなかの確信を伴った行為であることを読み取って、自分自身が「戦争」の時代を、生き延びてゆく道、が示されている、といたく感動した、と語っているのだ、・・・、井伏鱒二が、陸軍「報道班員」に徴用されたのが、1941年、日米開戦を知ったのは、シンガポールに運ばれる船上だったという、占領直後のシンガポール、「昭南市」と改名されたその街で、住民宣撫を目的とした新聞編集に携わりつつ、「マルセンの旦那」、キャセイ・ビルを接収して「宣伝班」を構えていた自分たち日本人と、「原住民」、マレー人や中国人、の日常を、ある種、「淡々と」、描いたのが「花の町」なのであるから、太宰治への影響関係は、「因果論」としては、成り立たないのではあるが、・・・、

「花の町・軍歌『戦友』」井伏鱒二(講談社文芸文庫)
・・・
で、もう一度、井伏鱒二「黒い雨」を初めて読んだ、中学生時代、に話を戻すと、おそらく、「富岳百景」に頻繁に登場していたからであろう、文庫本でも廉価で手に入るし、「山椒魚」、「駅前旅館」なども、みな読んだはずだが、太宰治が、どこをそんなに高く評価したのか、少しも理解できず、したがって、何の印象も残っていない、・・・、「黒い雨」、も然りで、今回読み始めても、何の記憶も蘇ってこない、・・・、ある種当然、とも言えるのは、「○○橋は焼け落ちて通れないから、△△町の方へ迂回して」、などという詳細な記述を、何の「土地勘」もなく読み飛ばしても、「リアリティー」が感受できなくても、致し方なかろう、もっとも、あれは、J・M・クッツェー「マイケル・K」(岩波文庫)、以来かな、・・・、

「マイケル・K」J・M・クッツェー「マイケル・K」(岩波文庫)
ケープタウンからプリンスアルバートまで、・・・、クッツェー「マイケル・K」精読

主人公の、母に先立たれた、おそらく「黒人」、「coloured」の少年が、ケープタウンから、母の故地プリンスアルバートまで、徒歩とヒッチハイクの旅を企てる物語、数多の日本語表記された地名を読み解いて、地図の上に発見し、その距離を計算する、などという、かなり偏執的な「趣味」を持つようになってしまったのは、・・・、「グーグルマップ」などというお手軽なツールのない時代に、そんな「趣味」は、望むべくもないものの、・・・、だから、その、中学生当時、最後まで読み終えたのかどうかも怪しいものだと思っていたが、・・・、ちょうど中ほどまで読み進んだ時、上にも長々と引用したが、「白骨の御文章」という言葉に、まざまざと思い出したのだ、・・・、
私事にわたるが、・・・、えっと、もうすでに、ずっと「私事」しか書いていなかったね(笑)、・・・、両親はともに、北陸地方の、「真宗大谷派/東本願寺」の寺の生まれで、・・・、「一向一揆」の故地であるから、「親鸞」、「浄土真宗」の信徒が多い地方なのだろう、・・・、「本願寺」の「東西分裂」は、後に大阪城となる場所にあった「石山本願寺」が、「一向一揆」勢力を根絶しようとする織田信長によって徹底的な弾圧を受けた後の、江戸時代のことで、その「石山本願寺」での戦闘の際、徹底抗戦を掲げた強硬派の「教如」と、穏健派を代表するその父「顕如」との対立に由来する、という、・・・、「顕如」派が「准如」を宗主に立て、豊臣秀吉の支持をとりつけて、「本願寺」、つまり、現在の「西本願寺」を根拠地に成立した教団が、「浄土真宗本願寺派」となり、これに対して、「教如」を宗主とする派が、新たに「東本願寺」を開き、こちらは、徳川家康の影響下に、やがて「真宗大谷派」という別教団へと分裂する、という事情のようであるから、・・・、ちなみに、「大谷派/東本願寺」が「浄土真宗」と名乗れないのは、宗教法人としての登録上の問題であるらしい、・・・、その「一向一揆」の故地、北陸地方に、多く存在する信徒衆が、「東」なのか「西」なのかは、はっきりしないものの、あるいは「身贔屓」かもしれないが、「東/大谷派」が優勢であるような印象は、ある、・・・、で、「私事」に話を戻すと、父は、そんな「大谷派」の寺の、長男で、当然に、「跡継ぎ息子」であるべきだったところ、寺を継ぐならば、京都の大谷大学で教学を学ぶ、というのが、一般のコースのようだったが、「学問」を志した、とでもいうのだろうか、父は、当時の植民地朝鮮の、現・ソウル、「京城帝国大学」に進学、豊かでもない寺の家計では、その学費も負担であったろう、父の両親が、おそらく「長男」を「甘やかした」わけだから、そのとばっちりを喰って、しかも、父が、家業を継がないだろうことがはっきりするや、急遽自分たちの人生設計を変更しなければならなくなった、次男以降の兄弟姉妹たちが、父に対して相当な不快感を宿していたとしても、少しも驚くに当たらない、・・・、その自分たちの「兄」に対する反感の矛先が、同じく植民地ソウルで、学校教師、・・・、生前の母が、語ったことのあいまいな記憶では、今の「梨花女子大」にあたる学校、そうであるならば、「京城女子専門学校」と呼ばれていた学校、で、国語の教師をしていた、つまり、朝鮮の子供たちに「日本語」を教える仕事、をしていた母、奇しくも、同じ北陸の隣県の、やはり「大谷派」の寺の娘であった、・・・、こうして書きながら、私は、父と母の「馴れ初め」といった事情を、一切知らない、つまり、一度も聞き出そうともしなかった、ということに思い当たるのだが、・・・、ともかくそうやって結婚した相手である母へと、いわば「転嫁」されうることもまた、想像に難くない、・・・、こうして、「父」の兄弟姉妹たちから、「苛め抜かれた」ことが、「母」の「トラウマ」経験であり、それが、後年の、今で言うなら「家庭内離婚」とでも呼ぶべき、冷え切った夫婦関係、および、「うつ病」にも似た、「母」自身の「人格障害」の遠因である、というのが、いわば、「母」の「サイド」から語られる「公式史観」であり、一日の大半を、その「母」と過ごさなければならなかった私も、また、それを「承継」することになったのだが、だから、もとより、それは、「母」自身による「歴史の偽造」であることは大いにあり得るのだが、真に受けざるを得ない子供としては、「母」から、「父」の悪口を、日がな一日聞かされる身にとっては、今度はまた、私自身が、後年、「父に愛されなかった子供」、「母」には「愛されて」いたかもしれないが、その「愛し方」が、著しく誤ったものであったに違いないから、やはり、「母にも愛されなかった子供」、なる「物語」を紡ぎ出すことになったとしても、これまた、致し方ないことであった、と、今だから言える、・・・、
もう一回、話を戻さねばならない、・・・、そんな父であったから、「門前の小僧」、どころか、元「跡取り息子」であるから、戦後、阪神地方に引っ越してきて、なんとか教員の職にありつき、一家を設けたその後も、ちゃんと、「経」が読めたのである、・・・、「プライバシー」などという概念とは無縁の、狭い教員住宅の、六畳間、白黒テレビの脇に、単身者用冷蔵庫くらいの大きさの「仏壇」があった、・・・、上に記したような事情で、親戚づきあいも極端に嫌った母であったし、うちで「法事」と言えば、その小さな「仏壇」の前に、「核家族」のメンバー、母、姉、私、が、正座し、手を合わせて、父の読経が済むのを神妙に待つ、ということを意味したのを、別に不思議とも思わず、育ってきたわけだった、・・・、「まざまざと思い出した」、のは、「反抗期」でもあろう、ほとんどまともに口を利くことも稀であった父と母に、「白骨の御文章ごぶんしょう」について、質問した、ということ、・・・、同じく「門前の小僧」のそのまた「小僧」であるから、本願寺に「東」と「西」があり、両者がしばしばいがみ合っており、「うち」は、「東」系、なのだ、ということはちゃんと知っていたが、さすがに「大谷派」では、「白骨の御文おふみ」と呼ぶ、というところまでは、及ばなかったけれどもね、その点も含め、両親から、どんな回答を得たかは全く記憶していないが、おそらく、それなりの「蘊蓄」を傾けられたはずだ、・・・、「黒い雨」を読んでいて、どうして、そこ、「白骨の御文章ごぶんしょう」に、著しく、印象付けられたかと言えば、おそらく、それは、「死への恐怖」だっただろう、子供は誰でもそういうものでもあろうが、私は、その面でも、とりわけ「弱虫」で、夏場の入道雲が立ち上がるのも、端午の節句の鯉のぼりが空に泳ぐのも、「怖かった」、ご近所に葬式を営んでいる家があれば、遠回りして道を避けなければならなかった、自分の家の中でも、「仏壇」の前を横切るのが、恐ろしかった、夏休みは、主に母の生家である方の、寺院、母が父方の親せきを嫌ったからだ、で過ごすことが多かったが、その寺はなかなか立派で、つまり、母は、そんな立派な「お寺さん」の「お嬢様」だったから、結婚後の貧乏生活が不満だったのかもしれない、と、ずっと後になって思い至ったものだが、三十畳敷きぐらいの本堂があって、「うち」の単身者用冷蔵庫並みの仏壇を、ものすごく拡大したような、でっかい、立派な仏壇があったわけだが、その前を通り抜けなければならない時も、目をつぶっていた、・・・、「黒い雨」の、被爆直後の惨状、死者や、重傷を負った人々についての、時として生々しすぎるとさえ思える記述も、おそらく、同じく、「目をつぶって」読み飛ばしていたに違いないのに、そこに、唐突に、まことに「白骨」、などという、子供にとっては「怖くて」仕方のない言葉とともに、だが、何か、何とも言えない「静謐」な、「死」を、単に「恐怖」の対象としてばかり見るのでなくて、「諦観」に満ちた「親しみ」とでも言おうか、そういう手つきに、おそらく、感銘を受けたのだろう、と、今は想像できる、もちろん、今、想像できるのは、やはり同じく、今回こうして読み直した時も、やはり、同じ場所で、そうね、何か「啓示」を受けるが如き、衝撃を再び体験したからに他ならないのだけれど、・・・、
「反代々木系全学連」が、警官隊と激突する映像を、「白黒テレビ」で眺めて育った世代だから、えっと、これも何度も言ったが、世間では、「東京オリンピック」による需要拡大を見込んで、家電各社が「カラーテレビ」開発に力を注ぎ、したがって、1964年を機に、「白黒テレビ」から「カラーテレビ」に買い替える家庭が多かった、と語られているのだが、うちでは、おそらく、そのために値崩れが生じたからだろう、東京オリンピック直前に、初めてテレビを、「白黒テレビ」を購入したのである、「東京オリンピック」、ああ、もちろん、「去年の」ではなく、「前の」、「1964年の」、と言わなければならないのだね、その閉会式、ずっと後に調べてザンビア、と分かったが、会期中にイギリス植民地から独立した国があって、わずか数人の選手団が、誇らしげに新生国旗を打ち振る姿が、のちの「民族解放社会主義革命」路線の信奉者を生み出す「原体験」だったかもしれないのだが、その、彼らのまとっていた民族衣装が、「色鮮やか」であった、というのも、したがって、「記憶の偽造」、文字通りの「脚色」であって、同様に、「中核派」が「白」であることは分かっても、「社学同」や「ML派」のヘルメットが、「赤」い色であり、「解放派」が「青」であることは、やはり後からの入知恵に違いないのだが、それはさておき、・・・、

小学校四年生の時に、学校の図書館でジョン・リードの「世界を揺るがした十日間」、もちろん、子供向きの翻案であろうが、当時は、子供向きのそんな書物が、存在していたことさえ、今となっては驚きであるが、を読んで以来、私は、「共産主義者」、のつもりであった、・・・、また少し話が逸れるが、私が興奮してその書物について語ると、小学四年生だから、「ロシア革命」という観念もあいまいだっただろうが、ともかく、何か、興奮したのである、父も母も、それは、単に他に取り柄のなさそうな息子が、少なくとも「読書」好きであることを喜んだに過ぎなかったのであろうが、・・・、労働組合加盟はおろか、一切活動歴はない、「世界史」の授業で、生徒を前にして「ナチ」や「天皇制」を声高に罵って見せることぐらいが、父にとっての「左翼」的身振りだったが、投票日ともなれば、それでも律義に出かけ、おそらく日本共産党か日本社会党にちゃんと投票してくる、そんな「戦後民主主義」を支えた市井の人々、を、絵に描いたような人物が、後年、息子が、どうやら本当に、「共産主義者」になってしまったらしい、きっと職場に京都府警公安部の刑事が嫌がらせに来たりしたのだろう、そのことをぼそぼそと私に語って聞かせるのに、すでに「父に愛されなかった子供」論を採用していた私は、軽蔑に近い念しか抱かなかった、・・・、「この、親不孝者!」とか言って怒鳴りつける「強い父」を求めていたのか、と言えば、全然そんなこともなかったのにね、最近読んだ、サリー・ルーニー「ノーマル・ピープル」、以下に引用したが、・・・、
「資本主義的原初的蓄積」、またしても、「紅茶」と「砂糖」、・・・、「ユリシーズ」の買い物メモ
コンネルの、シングル・マザー、リリアンヌ、息子が「フィアナ・ゲイル(FG)」や「フィアナ・ファイル(FF)」はもとより、「シン・フェイン」でもなく、「共産党」の候補に投票した、「この国には、コミュニスト的な要素が、少し必要なんだ」と言葉少なにと語るのに、「カモーン!カマラッド!いいぞ、いいぞ、同志!」と揶揄しつつ、社会主義的な価値観を持って育つようにあんたを育てたのは私なんだからね!と自慢するシーンが、とても気に入ったのは、そんな「親子関係」が、「羨ましかった」からに違いないのだが、ならば、私の父だって、もっと弱気で、優柔不断ではあるものの、警察の「お尋ね者」の仲間入りをしたかもしれない息子に対する、屈折した「激励」と、読めないこともなかった、と、今になって、やや、悔やみもする、・・・、
で、話を戻すが、そんな風に、小学生以来ずっと自分のことを「左翼」と位置付けてきたのだけれど、おそらく、その「公式見解」から「検閲」を受けているからだろう、めったに思い出さないのだけれど、この、太宰治や井伏鱒二を読み耽っていた同じ時期、第二次世界大戦時の「学徒出陣兵」や「特攻隊員」の死を描きつつ、ともすれば「英霊」と祭り上げさえしかねないような傾向の書物に、惹かれる時期が、はっきりと、あった、・・・、その記憶が、今回、「白骨の御文章」の連想で、浮かび上がってきたのは、もちろん、根拠があるはずだ、・・・、「黒い雨」にも、人々が、圧倒的な「死」の前に、沈黙に沈潜している中、もう、敗戦が誰の目にも明らかになってきた時期だからであろう、例えば避難民を運ぶ列車の車内で、声高に軍部非難をぶち上げる者の姿と、それに対するまわりの冷ややかな反応が描かれていたりもするが、・・・、「死」、あるいは、象徴的に、「被爆」、「敗戦」も、「故郷」や「国家」という「愛の対象」の「喪失体験」であるから、それに対する反応として、1)失われた「対象」に対する「喪」の作業の、強迫的な反復、であるところの、深い「抑鬱」、と、それとは対照的な、2)失われた「対象」の価値を、ことさらに切り縮めて見せることで、「喪失」から受けたダメージを、軽減しようとする「躁的防衛」、という二つの矛盾した身振りが、ほとんど同時に、重なり合うようにして現れ出てくるはずなのだ、・・・、「戦争」によって、多くの人が、「非業の死」を遂げた、というときに、「誰が悪い?」と「犯人探し」をして、それを「弾劾」する、「怒り」の声を上げる、それが、2)の「躁的防衛」に根差すものであることは、・・・、「誰が悪い?」と「犯人探し」をし、「弾劾」して「怒り」の声を上げる、ことの意味、その必要性、重要性を、かけらも否認しないものの、・・・、疑いがない、「躁的防衛」だから、「いけない」とは言ってない、「いけない」と言っても、人は必ずそれを採用するのだから、仕方がない、・・・、「いけない」と言っているのではなくて、2)「躁的防衛」に固執すること自体が、1)「抑鬱」的な「喪の作業」の反復継続に対する、「恐怖」、「忌避」感に根差した、「抑圧」、「検閲」であるかもしれないことを知るべきだ、そして、2)の、ともすれば居丈高の「躁的防衛」の身振りが、1)深い「抑鬱」下にある人々を、さらに「傷つける」可能性さえあることを、想像すべきだ、と、言っている、・・・、
沖縄に来て間もない頃、当時の雇い主が、「全共闘」あ・が・り・、というか、「全共闘」く・ず・れ・、というか、この人は存命のはずだから、はしたない悪口は差し控えなければならないが、そういう「団塊の世代」の、「左翼」経験者の、「島ナイチャー(内地人)」、「本土」からの沖縄移住者、であった関係で、地元誌に短いインタヴュー記事を書かせてもらったことがあった、先年亡くなった新崎盛暉氏も編集委員に含まれている雑誌で、沖縄大学のこの人の研究室で開かれた「編集会議」の、いわば「末席を汚した」のが、この人にお会いするただ一度の経験で、おそらくは、「何をこの偉そうな、『ナイチャー』の若造が」と、歯牙にもかけない遇され方をしたが、私が彼の立場だったとしても、ちなみに、この人も、「血筋」としては「うちなーんちゅ(沖縄人)」であっても、東京生まれの「島ナイチャー」なのである、あの頃の、つまり「発病」前の、私のような、傲慢な「若造」を目にしたら、同様な態度をとったに違いないから、これは少しも、恨み言ではない、・・・、インタヴューの相手は、こちらも存命のはずで、「反基地運動」の中でも、知られた人だと思うから、お名前を挙げるのは控えるけれども、長らく、「平和ガイド」をされてきた女性だった、私より少し年長、つまり、その「団塊」と同年代の人だから、「沖縄戦」の直接の経験者たる「語り部」とは異なるけれども、上に引用した、田口ランディ「被爆のマリア」で、語り手の作家が、原爆資料館で「語り部」をしている老女性にインタヴューをするくだりを読んでいて、思い出したのだった、・・・、幸い、相手も大酒呑みだったようで、宜野湾だったかな、浦添だったかな、の居酒屋のテーブル越しに、「オリオン」の中ジョッキを、5杯も6杯もお替りしつつ、酔っぱらっても、ちゃんとメモを取ったりもしたんだろうな、その記事が掲載された号は、今でも押し入れのどこかに埃をかぶって、とってあるはずだ、・・・、その会見は、掛け値なしに楽しい記憶であって、当時のもの、えっと、つまり「発病前」ね、としては、珍しく、不快感や罪悪感を、帯びていない、・・・、楽しい記憶だからか、話の内容は、例のごとく何も覚えていないのだが、ただひとつ、これは、何度も何度も繰り返し思い起こすエピソードがあって、・・・、「ひめゆり記念館」、「平和記念公園」、「喜屋武岬」、「糸数壕」などが組み込まれた「平和学習」系の、修学旅行だったのだろう、最後に、感想文を書いてもらう決まりだった、ほとんどの生徒は、「戦争の悲惨さ、愚かさ、を思い知り、平和の大切さを改めて実感しました」、などと「優等生」的にまとめて提出してくるものだが、一人の中学生、多分女生徒だったと思う、「こんな嫌なものばっかり見せられて、沖縄なんか、大嫌いだ、二度と来るもんか!」と書きなぐってきたのがあったという、・・・、インタヴュー相手の「平和ガイド」さん、仮にYさんとしておこう、その子供の話をするときに、少しも、非難めいたもの、残念とか幻滅とかいう感想を伴わず、むしろ、好意を込めておられたのが、なお印象的だったのね、・・・、少し敷衍して言うならば、「戦争の悲惨さ、愚かさ、を思い知り、平和の大切さを改めて実感しました」的言説が、現・実・の・「戦争の悲惨さ」を、言・葉・の・上・で・の・「戦争の悲惨さ」、へと「昇華」することで「無害」化する、2)「躁的防衛」の戦略を、まさに「優等生」らしく、賢明にも採用しているのに対して、この女生徒は、ある種、愚か、ナイーヴにも、生身の、現・実・の・「戦争の悲惨さ」を、そのまま丸呑みにしてしまったのかも知れないじゃないか、「死」は、いつだって「恐ろしい」もの、見たくないもの、「嫌な」ものだ、嫌だ、見たくない、と感じた瞬間に、しかし、「死者」に対してそのような「不快感」を持ってしまったこと自体に対する「罪悪感」が喚起され、それが深い「抑鬱」を帰結する、あるいは、1)の機序はそういうものであるかも知れないじゃないか、だとすれば、この女生徒は、この「悲鳴」にも似た叫びをあげることで、むしろ、正しい「喪」の身振りを、「死者」への「弔い」の行為を、実践した、というべきかも知れないじゃないか、・・・、
上に引用した「白骨の御文章」、「すなはち、ふたつのまなこ、たちまちにとぢ、ひとのいき、ながくたえぬれば紅顔むなしく變じて、桃李のよそほひを、うしなひぬる」、これは今回初めて読んだのだけれど、私は、文字通り「友達のいない人」として間もなく一生を終えることになるから、親しい人の「死」に直面したことが、ほとんど一度もない、だけど、ここに描かれている情景、十分に抑制された筆致と思うが、生命活動が止む、ということは、「同化」と「異化」という、相互に拮抗的な過程、言葉を換えれば、「元物理の先生」風を吹かせて、衒学的(ペダンチック)に語れば、「エントロピー減少過程」と、「エントロピー増大過程」、のうち、一方、すなわち「同化」、タンパク質合成、「エントロピー減少過程」のみが休止することで、あとは、ほしいままの「エントロピー増大過程」に、タンパク質の分解、「乱雑さ」へのまっしぐらな道に、委ねられることになる、・・・、そうして「死者」の表情が、急速に、ものすごい勢いで、「桃李のよそほひを、うしな」ってしまうことを、それでも知っているのは、・・・、この二十年間、「うつ病」発症の「原因」か「結果」か判明でないが、捨てられた犬や、迷子になった子猫や、台風の時に「困っている」風に見え、まるで「助けてくれろ」と呼びかけられているように思えた、膨大な数の犬猫、・・・、作家の大佛次郎は、五百匹の猫の世話をしたといわれるから、それには遠く及ばないまでも、おそらくは数十匹、を拾ってしまい、拾ってしまって後から気づくのであるが、畢竟、生き物を「飼う」というのは、その、寿命、期待される生命の持続時間が、人間よりも短いと目されている限り、必然的に、その「死」を看取る、ということを含む、どころか、ほとんど、それを中心とする営みなんだ、ということを知るわけで、・・・、だから、それら膨大な数の犬猫の「死」を、間近に目撃しているからなのだ、・・・、あんなにも愛らしかった表情が、呼吸を止めた、心臓が鼓動をとめたその瞬間から、いや、実は、心臓の鼓動を聞こうとしても、観測者自身の鼓動が邪魔をしてしまうから、いつも、それが、どの「瞬間」だったのかは、わからずじまいなのだけれども、・・・、決して劇的、というものではないにしても、ただのひと時も休むことなく、「失われ」ていき、次第次第に、よそよそしい、「恐ろしい」ものに変わっていく、・・・、「恐ろしい」のは、もはや子供ではない者にとっては、対象の「死」あるいは「死者」、そのものではなく、かつての「愛の対象」であったものの「変わり果てた姿」を、もはや「愛する」ことができなくなってしまっている「自分」に対する「恐ろしさ」に他ならない、・・・、C.N.アディーチェ「半分のぼった黄色い太陽」は、1960年代ナイジェリアの「ビアフラ戦争」に取材した作品だが、難民収容施設でボランティアをしている女性が、病棟の子供たちを指して、つぶやく、「彼らのことが、ときどき憎くなるの、簡単に死んでしまうから」、・・・、「他者」の「死」を「悲しむ」行為の中に、必然的に含まれてしまう「自己愛」的傾向を、これほど雄弁に表現する言葉はないだろうと思うから、記憶に残っている、・・・、私たちが、「他者」の「死」を、「悲しい」と言うとき、実は、何を「悲しんで」いるのか、よくわからない、またしても、それが「悪い」とは言ってない、幸か不幸か、「私たち」は「言葉」という道具を「獲得」して以降、その「間接性」のもつ、抜群の能力に、振り回されずにはすまないのだから、「悪い」と非難してもやはり、仕方がない、あることを「語る」と同時に、それを「語っている自分」について語る、という「メタメッセージ」を、随伴しないではいないからだ、「あなたが死んで、悲しい」と言うときに、必ず、「あなたの死を悲しんでいる『私』」をも語らずにはいない、それが「自己愛」的、の意味だ、すると、そこから、「こんな可愛い『私』を、『死』によって悲しませた『あなた』が憎い」までの径庭は、ごく短いものとなろう、・・・、今でもあるのかどうか知らないが、昔のテレビの「ホームドラマ」では、病床の前で医師が脈をとり、壁の時計を見上げ、臨終を告げた瞬間、家族なり恋人なりが駆け寄り、「ばかばかばか、どうして死んじゃったのよ!」となじるシーンはおなじみのものだったでしょう?「他者」の「死」を、憎む、「他者」を、それが「死」の悲しみを、私たちにもたらした廉で、断罪する、・・・、それが、「正しい」弔いの作法と言えるはずがない、だからこそ、私たちは、自分たちの中に、「他者」の「死」への憎悪、「他者」が「死んだ」というそのことに対する断罪、を発見すると同時に、深い罪悪感に陥るのだ、そして、その罪悪感こそが、1)「抑鬱」、を引き入れる、つまり、「喪の作業」の反復強迫によって、罪悪感を消除しようとする、罪悪感をもってしまったことに対する「償い」をしようとするのだ、あのね、これは、半可通の「フロイト主義」を振り回しているわけじゃない、いや、確かに、半可通の「フロイト主義」が混入していることは否定しないが、やはり、数々の犬猫のいまわの際に立ち会った際の、自分自身の心の中を覗いてみた、「内省」、「自己診断」に基づいているから、それなりの確信を持って語っている、「抑鬱」は、強い自責、強い「自己処罰」への欲求だから、なにものにも「打ち勝とう」とはしない、誰をも責めようとせず、誰をも責めないのは、別に心が広いからではなくて、誰かを責めることによって生ずるまたしても罪悪感に、耐ええないからだろう、たださめざめと悲しい、ものすごく非力な状態が、「喪」の身振りと相似であることを見抜いたフロイトの炯眼は、やはり驚くべきものと言えるだろう、・・・、そんな「抑鬱」、「服喪」にある人間は、ものすごく弱い、「vulnerable」な、存在だから、そんなことを続けていたら、とても生きていけない、だから、もちろん、2)「躁的防衛」は、人が「他者」の「死」を越えて、生きていくには、必要な処方なのである、・・・、古来から、洋の東西を問わず、人々は、「服喪」を「期間限定」のものと定め、それが「明ける」日を、「お祭り騒ぎ」の「躁状態」で飾ることにしたのも、そのためだと解釈できるだろう?だが、それ、「躁的防衛」の振る舞いは、文字通り失われた「他者」の価値を、低く見積もることを本質としているだけに、「服喪」の過程に沈潜している者たちの耳には、とても、粗雑で、冒涜的に聞こえもすることになる、・・・、「私たち」は、「運動」の過程で「犠牲者」が出るたびに、こぶしを突き上げて、「悲しみを怒りに変えて、闘おう!」、と、何度唱和したことでしょう?「悲しみ」を「怒り」に「変え」なければならないとしたら、それは、「悲しみ」続けることに、耐えられないからでしょう?その言葉が、いつまでも「悲しみ」続けようとする人々を、深く傷つける可能性があることに、「私たち」は、いや、勝手に一人称複数など使うまい、「私」は、とても、無自覚だったと思うのです、もちろん、そんなことを、思うようになったのは、自分自身が、「喪失」を「悲しみ」続ける以外、何・も・で・き・な・い・「病気」、すなわち、「メランコリー/うつ病」に「罹った」からですけど、・・・、

「半分のぼった黄色い太陽」チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ(河出書房新社)/Half of Yellow Sun/Chimamanda Ngozi Adichie(Harpercollins)
・・・
上で引用した田口ランディ「被爆のマリア」では、「原爆資料館」の「語り部」を長年務めてきた老齢の女性に、「そろそろ『語り部』を引退しようかしら」、と独り言で語らせている、・・・、「沖縄なんか大嫌い」と書きなぐった中学生とともに、正直に告白しなければならないが、私自身も、「ひめゆり資料館」を、初めて訪れたとき、・・・、こちらに「移住」することを決める前年、やはり「平和ツアー」的なものに参加したときだが、・・・、ある種、「違和感」を持ってしまったのだ、どうして、この人たちは、こんなに「悲惨」な出来事を、大変失礼な言い方だが、「得々と」、語ることができるんだろう?と、・・・、「得々と」に見まがうほどに、空元気でもつけて、つまり、自分を危険な「躁状態」に追い込むことでもしない限り、とても「やっていられない」ほどの、ストレスフルな、消耗する仕事であろうことに、想像が及んでいなかったことに思い至り、深く恥じることになったのも、やはり、私自身の「発病」後のことだ、・・・、「PTSD/トラウマ経験後ストレス疾患」の唯一の治療法は、患者が、患者自らの言葉で、「トラウマ」体験を、「物語る」ことだといわれている、・・・、間もなく、ちょうど27年目を迎える、だから、その「記念日」に間に合わそうと、今、ほとんど、むきになってこの長い長い文章を書いているのだが、あの神戸の震災後に、自慢するにはあまりにささやかな「ボランティア」に従事していた時、その機序を、鮮やかに目撃する経験に巡り合った、・・・、ここ、「1995年1月17日」にも書いたけど、北野のスナックのママさん、おや、この人も、もう名前憶えてないけど、「Yさん」になってるね、まあいいや、大橋中学のグランドにテントを張って暮らしていた、お店と自宅の片づけを多少手伝った、というだけの縁だったのだけれど、大した役にも立たなかったはずだが、お店の方では、カミュやレミーマルタンの、飲み残しのボトルを、「お土産」にいただいたくらいで、客商売の人だけに、話は面白く、なんだか、こちらの方が「元気づけられ」てるみたいだったから、せめてものお礼にと、営業再開した「デパ地下」で、「おはぎ」を買って、ということは、3月の彼岸の頃だな、そのテント村を、「慰問」したのだった、・・・、焚火に向かってしゃがんでいる彼女、Yさんの背中は、とても「元気」そうにはに見えなかった、こちらも、気の利いた冗談で盛り上げる、などという技のない人間だから、気づまりな時間ばかりが流れるのか、とも思われた、でも、ふとしたことから、話題が、「その日」のことにおよんだ瞬間、Yさんの言葉が、止まらなくなった、そう、まるで、何者かが「憑依」して、語らせている、とでも言いたくなるような勢いだった、すでに家の近くには火が迫っている、アパートの階段は潰れて使えないから、二階の窓からなんとか脱出、娘さんと手をとりあい、声を掛け合って、走った、・・・、私の知らない固有名詞もちりばめられたりしたから、きっと、もう、話している最中に、誰に語っているのかもわからなくなっていたのだと思う、そう、「治療行為」としての「語り」には、「聞き手」の存在が、絶対に必要だけれども、その「聞き手」は、誰であってもかまわないのだ、むしろ、無用な質問を差し挟んで話の腰を折ってしまったりはしない、無能な、私のような者の方が、「聞き手」としてふさわしかったのだ、ということを、もちろん、後になって知る、・・・、そうして、長々と、と言っても、ほんの十五分ばかりだったろう、語りが一段落ついた時、それこそ、またしても「憑き物が落ちた」とでもいうように、Yさんの表情が、明るく、軽く変化していたことは、いくら鈍感な私にも、はっきりと分かった、・・・、あのね、「戦争を語り継がなければならない」、とみんな言うでしょ?でも、それが、「次の戦争を防止するためだ」、みたいな「目的論」には、承服できない気がしているの、現実に「効果」がないでしょ、という、理由じゃない、「効果」があるかないかだって、誰にも測定しえないから、そうじゃなくて、もし、「語り継がなければならない」というのなら、それは、「語る人」の利益に立って言うべきでしょう?と思うのね、「忘れてしまいたい」苦痛な体験を、しかし、人は決して「忘れる」ことはできないし、いや、それ以上に、「忘れる」ことによっては、その苦痛から「解放」されない、「治癒」されない、おっと、これも矛盾しているかな、そもそも「忘れる」ことができたとしたら、それは、苦痛の体験から「解放」され「治癒」された時なのだから、だから、「語ら」なければならないのは、まず何よりも、「語る」当人の「治癒」のため、なのであって、我々は、その「治療行為」の場に、慎ましい、しかし必須の「聞き手」の一人として立ち会うことが、むしろ、義務だったのだ、と思う、・・・、語れども、語れども、語りつくせぬほどの、苦痛だったかもしれない、とは言っても、「語る」ことを、日常的な「職業的」熟練にまで高めなければならないとなれば、また、別の困難が生じてくるだろう、・・・、「次の戦争を防止するた・め・に・、戦争体験を語り継ごう」という言説そのものが、すでに、1)「服喪」、の行為、から、何か別の、いわく、より「高次」の目的に、転換、「昇華」されている、という点で、2)「躁的防衛」の様相を帯びているのだから、これは語呂合わせでもなんでもなく、「語り手」もまた、「躁的」な高揚へ、自らを誘導しなければ、やってられなくなるのだ、と、想像できる、・・・、「双極性気分障害/躁鬱病」は、「元気がいいんだから結構だろう」なんてことは全然なくて、「躁」相の方が、ずっと危険なのだ、身体が衰弱して、興奮に耐ええないからこそ、セロトニン、アドレナリン等の脳内伝達物質の産生量を減らす、という形で、身体自身が、適応を図っているのに、何らかの刺激によって、興奮が生じてしまうと、バランスが壊れて、身体そのものが害されるだろうことは、自分の経験からも、当然のことだ、と理解できる、・・・、「ひめゆり資料館」のおばあさんたちも、一度も訪れたこともないけれども、「原爆資料館」の「語り部」たちも、おそらく、そうやって、自分の身体をすり減らすが如き、無理をしつつ、もちろん、半ばは自分自身の「治療行為」ではあるけれど、「語り」を続けてこられたんだね、もう、大半は鬼籍に入られた人々だから、今更気づいたとて、「ねぎらい」の言葉一つ掛けられるわけではないけれどもね、・・・、
同じく、上の田口ランディ「被爆のマリア」の引用部分の中で、東京から来た作家が、「語り部」の松田さんに、「戦争前」の広島について、質問する場面、・・・、修学旅行生を前にした「語り」のパフォーマンスを終えて、とても消耗しているように見えたから、話題を変えてみたのだった、すると、やはり、ここでも、松田さんの言葉は、滑らかにすべり始め、緊張がほぐれたのだろう、広島弁が交じってきさえしている、・・・、例えば、この松田さん、にとっての「トラウマ経験」は、「原子爆弾」の被爆、だけではなかったかも知れない、被爆によって、一切が「灰燼に帰した」ことで、彼女は、また、「愛の対象」としての、「故郷」をも失ったのだ、物・理・的・に「失われた」ばかりではない、「広島」が「ヒロシマ」と表記され、「反核平和運動」の拠点として称揚される一方で、「悲惨な被爆体験」、以外の「広島」を語る言葉たちが、「抑圧」されてしまう、という形で、・・・、松田さん自身の言葉を借りれば、「そんなこと、誰も聞きたがらないですもの」、そのようにして、「原爆」にかかわるもの以・外・の・「広島」の記憶が、「失われ」てしまうことによって、・・・、また、私事を語るが、私は、今、60歳をちょいと過ぎたあたりで、阪神間の西宮市に生まれ、大学入学以来京都に住み、そして、この世紀の変わり目あたりに沖縄に引っ越してきて、おそらく、ここに「骨を埋める」ことになる予定なのだが、ちょうど、その三つの街に、およそ二十年ずつ住んだ計算になるが、「幼少期」があまり幸福ではなかった、とのあるいは病的な「思い込み」から、「故郷」への愛着、などというものを意識することが、ほとんどなかった、でも、はっきりと記憶に残っているのだけれど、その、27年前の神戸の震災からしばらくの間、というもの、私は、ものすごい「神戸・ナショナリスト」のごとき様相を呈していたのだと思う、・・・、人は、「他者」の不幸に際して、あたたかい「同情」の言葉をかけてもくれるが、その「舌の根も乾かぬうちに」、というか、ほぼ同時に、しかも、何の矛盾もなく、不幸にあった「他者」そのもの、や、それにまつわることどもを、たちまち「忌み言葉」として、排除してしまえるのである、あの日々、「活断層」、「仮設住宅」、「代替バス」、「避難所」、といった言葉をま・じ・え・ず・に・、「神戸」を語ることは不可能だった、嫌味な言い方をすれば、「神戸」は、人々の期待どおり、「消費者」の「需要」どおりに、「悲惨」、のシンボルを演じ続けなければならなかったのだ、その意味で、「神戸」は、もはや、食卓の話題にふさわしくない、どうしても触れなければならなければ、何か居住まいを正す、神妙な表情をして見せる、といった、「お祓い」のしぐさを伴わなければならないような、「忌み言葉」になった、・・・、「ヒロシマ」と表記された「広島」もまた、そうだったのだろう、と、ようやく想像が及んだものだった、「長寿園の桜」や「新天地のサーカス」について、楽・し・げ・に・語る松田さんの言葉が、何か「不謹慎」なものにさえ聞こえるほどの、「抑圧」が、そこには覆いかぶさっていたかも知れないのだね、・・・、2011年3月11日以降、「フクシマ」と呼ばれることになったその街にもまた、・・・、
神戸の震災のころ、私は大阪の高槻で働いていて、本当は、あらゆる「人間」が「苦手」なのだから、どんな職業にも不適格なのだが、同じく塾の先生、とか言っても、相手が高校生くらいの「大人」なら、こちらのふつつかさをも見逃してくれる、という意味でも相手が「大人」だから、なんとかやっていける気がしていたが、その時は、「子供」が大の「苦手」であるにもかかわらず、私立中学受験の小学生のクラスを担当しなければならない羽目になっていた、・・・、「子供」は、「無邪気」にも、他人様の上に降りかかった「災害」とか「異変」とか、大好きで、「ね、ね、神戸って、み・ん・な・破壊されちゃったんでしょ?」みたいな心ない言葉を、平気で吐くから、そんなのを耳にするたび、自分が、何か、必死で、「神戸」の「弁護」をしなければならない、と急き立てられていることに気づき、そんな感情の流れが、ある種「ナショナリスト」的、だな、と自覚することになった、小学生に向かって、実際に「反論」したりはしなかったけれども、いやいや、神戸はま・だ・終わってなんかいない、生き残った人たちは、意・外・に・元気で、笑い合ったりさえしてるじゃないか、と半ば自分に言い聞かせていたものだ、・・・、ね、どこかに聞き覚えないですか?これ、2)「躁的防衛」そのものじゃないですか?あなた方が、いや、違った、私もだ、罵倒してやまない、沖縄の「基地容認派」的言論が、沖縄が米軍基地の重圧に呻吟している島、とばかり一色に塗りつぶすのはやめてくれ、沖縄には、もっと美しい面、楽しい面もあるのだ、と叫んだとしたら、あなた方は、えっと、私もだが、いや、そんなのは、問題のすり替えだ、隠蔽だ、と一笑に付したかもしれない、でも、同じく「彼ら」も、「故郷」という「愛の対象」の喪失に、傷ついていたに違いないのだ、と今なら想像できます、想像できたからと言って、何か「解決」のめどが立つわけでもないけれども、にもかかわらず、想像できることは、よいことだ、と思います、・・・、
「心ない」言葉を吐くのは、何も「無邪気」な「子供」ばかりではなかった、こうして、私たちは、つねづね、「他者」の上に降りかかった「悲惨」な出来事を目撃するたびに、それを、速やかに、「忌み言葉」の語彙の中へと「処理」すべく、全力を傾注してきたことに気づきます、もちろん、人間の、いや、およそ生き物の、「行為」には、それなりの止むを得ざる「根拠」があるわけで、そうやって、速やかに「処理済み」の状態にしてしまわないと、それこそ、スーザン・ソンタグ「隠喩としての病」の言うとおり、まるで「不幸」や「悲惨」に「伝染性」があるかのように、私たち自身が、「他者」の「悲惨」によって、それへの「同情」、「罪悪感」に押しつぶされて、1)「抑鬱」に身動きが取れなくなってしまうからでしょう?「広島」が「ヒロシマ」に、「福島」が「フクシマ」になったように、・・・、ここで固有名詞を挙げることは、すでにして、「シンボル化」への共犯関係に立つことになりかねないから、本当は避けたいのですけれど、例えば、ヴェトナムでも、カンボジアでも、ルワンダでも、ボスニア=ヘルツェゴビナでも、アフガニスタンでも、イラクでも、・・・、私たちは、「ね、ね、○○って、みんな、破壊されちゃったんでしょ?」で、「片づけて」きたのでは、なかったかしら?
今は、「老齢」を理由に、「友達」いないから誰からとがめられるわけでもないから、自分への言い訳だが、「引退」したことにしてしまったが、2016年の「事件」、これまた、「他者」の身に降りかかった「不幸」を、「悲しみを怒りに変えて」とばかりに、きっかけとしていることに、罪悪感を禁じ得ないけれども、以来、ほぼ三年間ばかり、「うつ病」を口実とする、長い長い、十数年にわたる「ひきこもり」、悪く言えば「逃亡」を中断して、辺野古の運動の現場に、かなりこまめに、通っていました、時代は、「SNS」とかいったものを必須のツールとしていたので、そんなものを通じて知り合った「仲間」も、多少はできて、「内地」から、「支援」に来てくださる方の案内をする、などという場面もありました、・・・、「時間が余ったので、『首里城』でも行ってみましょうか?それともビーチがいいですか、とても綺麗なところ、知ってますよ?」などと、水を向けても、いや、私は、そ・ん・な・こ・と・のために沖縄に来ているのではない、「観光地」などに行くつもりはない、と、頑強に拒む方が、おそらくそんなに稀というわけでもなく、いらっしゃるのですね、くれぐれも、非難しているわけではありません、これも一つの「症例」と、「理解」しようと思っています、・・・、東エルサレム生まれの、在合衆国の、パレスチナ人ディアスポラ、である、スーザン・アブルハゥワが、この記事の中で語っていたのはおそらく、・・・、
こうして「左翼」は、ガザのパレスチナ人を「非・人間化」する/スーザン・アブルハゥワ(アル・ジャジーラ2019/05/04)
「私は、○○人の闘いを支持する、しかし、それは、○○人が、○○人ら・し・く・、闘う場合に限られる」、という話型、何が「○○人ら・し・い・」のかの決定権権限を、「自分」の方に留保したままなのならば、それは、「支持する/支持しない」の選択が、まったく「恣意的」なものになってしまうのと異ならない、それは、「支持の供与」を「インセンティヴ」として、「利益誘導」している、「パターナリズム」そのものではないのか?ということではなかったか、と理解していますが、そのような「パターナリズム」の下では、○○人の方はと言えば、まさに「パターナリズム」は、「父親」と同根の語、「親」の顔色ばかりうかがっている「愛着障害」の子供のような振る舞いしかできなくなってしまう、・・・、「あなた」が、「○○人は『悲惨』な状況に置かれている」と声高に語れば、「子供」たる「○○人」の方は、「あなた」の期・待・通りに、「悲惨」を、演じ続けなければならなくなってしまいます、・・・、
おや、もうじき日付が変わって、「1月17日」になってしまう、そろそろこの長い長い話にも、けりをつけなければ、・・・、同じく田口ランディ「被爆のマリア」に登場する、宮野初子という女性の書いた「磐神」なる小説について、語り手は、こう記している、・・・、
数千年前の縄文時代からこの地には人間が住んでいた。温暖な気候で海の幸山の幸に恵まれた水の都、それが広島だ。だが、原子爆弾が一瞬にして、広島の表土を焼き削り、生き物を殺傷した。
広島の表面はきれいさっぱり刷新された。それを人々は広島の復活と謳った。だけど、そうではないことを「磐神」は描いているのだ。すべては変転しているが、でも何も変わってはいない。
A)「悲惨な出来事が起こって、すべてが失われた」、B)「だが、今やそれも過去のものとなり、すべてが一新された」、という、二つの異なる、しかし、あるいは、同根かもしれない話型に対して、「何も変わってはいない」、「連続性」を対置することによって、二つながらに拒絶しようとしたのだ、正しい「読み方」かどうかわからないけど、私としては、そう理解しようと思っています、・・・、そうやって「連続性」を強調することは、なにも、「悲惨な出来事」自体を過小評価することではありませんよ、・・・、「セプテンバー・イレブンス」の直後、まだ、私は、「ネット平和運動家」のはしくれでしたから、当時はまだ「SNS」なんかない、「メーリング・リスト」というやつで、海外からも、たくさんのメールが、ときには、それこそ、スーザン・ソンタグもありましたね、著名人のものが転送されてくることもありましたが、・・・、それらのメールの多くが、判で押したように、「あの日以来、世界は変わってしまった」、みたいな書き出しなのに、驚かされた記憶がありますね、嘘をついている、とか誇張している、とか非難しているのではありません、むしろ、痛々しいばかりの「本心」が吐露されているようだから、違和感があったと言える、そうなんだろうか?私が、「当事者」とは無縁の遠い場所にいるから、その「変わりよう」を感受することができないだけなんだろうか?答えは出ません、ただ、「世界は変わってしまった」と、人々が言・い・た・が・る・、のだとしたら、その「動機」は何なのだ、といういささか嫌味な探究心は、残ります、・・・、上のA)「すべて失われた」、B)「だが、すべて復活した」、という枠組みで理解するのが、これまた嫌味な言い方ですが、いわば思考の「経済性」にかなっているから、ではないだろうか?そのように「断絶」を持ち込むことで、実は、「連綿として」続いているかも知れない、事態の、複雑な様相を、「見た」ら「見た」で、不快になったり不安に襲われたり、罪悪感を喚起されたりするかもしれないもろもろを、「見ないで」済む、・・・、

「隠喩としての病い・エイズとその隠喩」スーザン・ソンタグ(みすず書房)/Illness as Metaphor and AIDS and Its Metaphors by Susan Sontag
・・・
そろそろ論旨が乱れ始める予兆、おや、初めから「論旨」とか、そんなもの、あったんですか?・・・、も感じられるから、終わりにしますね、・・・、井伏鱒二「黒い雨」を、広島の地図を広げながら、もちろんパソコンの画面に、という意味ですが、主人公たちの歩いた経路を、ほとんど偏執的にたどりつつ、ようやく読み終え、そうして、やっと、自分が、その街を、訪れたことがあ・る・、ことを思い出したのでした、・・・、山陽線の鈍行を乗り継いで、「あてどなく、ぶらりと旅に出た」みたいな、格好をつけているつもりだったのだろう、博多や別府まで足を延ばしたかもしれない、所々で、さして親しくもない「知り合い」に、相手の迷惑も顧みず、電話をかけて呼び出してみても、当然にもそんなに盛り上がらず、といった、あんまりよくない印象から、記憶に「検閲」がかかってもいたのだろうけれど、・・・、同時に、「ヒロシマ」をめぐる、「検閲」機構に、私自身が、深くとらわれていた可能性も否定できない、と今になって思う、・・・、上に、高橋源一郎「ぼくらの民主主義なんだぜ」からの引用を載せたのは、ほかでもない、「8月6日を広島で過ごそうと」という一節に、ひっかかったからだ、計算によれば、その、彼の「高校二年の夏休み」は、1967年、「原水爆禁止運動」の「分裂」の二年後だ、・・・、それよりほぼ十年ばかり遅れて、やはり「過激派」の「学生運動」に、流れこむことになった「私たち」は、もはや、「原水禁分裂」は、左翼運動のいわば「恥部」をあらわにしてしまう以外の役割など何もない、とばかりに、ほとんど、関心を向けることがなかったのだけれど、考えてみれば、それもまた、「原爆被爆」そのものの「トラウマ」性と、「原水禁分裂」という、もう一つの「トラウマ」性がないまぜとなって、「ヒロシマ」が、ますます「忌み言葉」化していたのだ、と説明できるかもしれないと思う、八丁堀、紙屋町、新天地、・・・、広島の繁華街の名前が、次々に登場してくると、あれ、ひょっとしたら、そこ、行ったこと、あるかも知れない、という気がしてきた、そう、きっと、広島電鉄の路面電車にも乗ったし、どこかの店に入って、「広島焼き」をあてに、ビールを飲んだに違いないのだ、夜になって、安いビジネスホテルを探そうと、あちこち電話かけたが、あいにくどこも満室で、遠く離れた、東広島市、旧・西条町、広島大学の移転先だ、にようやく安宿を見つけることができ、駅前にコンビニみたいな店があるだけの、さびしいその街を、歩いたことも思い出されてきた、その夜宿で、読んだのが、奇しくも高橋源一郎のデヴュー作「さようならギャングたち」だったから、その旅が、1980年代の中頃、の出来事、どうせまた、どこかの会社を馘首になって、よほど暇だったんだろう、ということまで、わかった次第、・・・、

「さようなら、ギャングたち」高橋源一郎(講談社)
・・・
田口ランディのこの本にも、広島には、もう、原爆の痕跡を示すものが、「平和記念公園」と「原爆ドーム」を除けば、何も残っていない、と繰り返し書かれている、・・・、またしても、人は勝手なもので、「他者」の「不幸」を、「忌み言葉」として排除しておきながら、「不幸」を匂わせる痕跡が、まったく消去されてしまうと、今度は、それを大げさに嘆いて見せたりする、・・・、沖縄に初めてやってきたとき、そのころは、まだ、「那覇新都心」は、米軍から返還されたままの荒れ地で、再開発が始まっていなかった、同様の「返還軍用地」である北谷町美浜には、「アメリカン・ヴィレッジ」なる名称の、名称そのもののように、「作り物」っぽい街が、建設されつつありました、・・・、艦砲射撃で、徹底的に焼き尽くされたのちに、上陸した軍隊が、その土地のことごとくを、接収して、基地の一部として保有していた、早期に「返還」された、ということは、基地としては、それほど利用価値がなかった、ことを意味するのだろうから、ほぼ、放置されていたのかもしれない、・・・、そんな、何もないところに、一から、「町」を建設しようとすれば、どうしても「作り物っぽく」なってしまうにきまっているだろう?美浜「アメリカン・ヴィレッジ」にせよ、それからしばらく後に姿を現してきた那覇、天久の「新都心」にせよ、決して、そこにいれば心落ち着く、というような街ではなかったけれど、「安っぽい」とか「作り物っぽい」とかの「非難」が聞こえてくれば、無理にでも「弁護」しなければならない、みたいに変に急き立てられる気がしていたのは、またしても、「神戸」のおかげです、東灘区や、兵庫区、「見渡す限りの」焼け野原に、やがて立ち始めたもののほとんどが、実に変わり映えのしない、どこにでもあるショッピング・センターやファミリー・レストラン、そうして、まさしく「作り物」みたいに「復興」が進んでいく様を、すでに目撃していたからですね、・・・、「世界」には、「歴史」を奪われてしまった土地が、たくさんたくさんあるのでしょう、失われてしまった場所から「歴史」を作り出すならば、それが、「画一的」なものならざるを得ないのはいわば当然、「多様性」は、あくまで相対概念で、「他」との、自分自身の「他」であるところの「歴史」との関係でしか発現できないではありませんか、・・・、だから、「歴史」をはく奪されてしまったのかもしれないこれらの街を、この島を、無理にでも(笑)、「愛そう」と思って、この二十年を生きてきたのかもしれない、とさえ、思います、そんな「無理」なことをするから、そりゃ「病気」にもなろう、とも言います、・・・、「歴史を失った街を愛そうとする」、のと、「断絶に連続性を対置する」という上で述べた論点が、似ていなくもない気がするから、一応、「論旨」はつながった、オチがついた、ということで、ここで終わりにします。




... The year was 1927.
...
I had now crossed the boundary line of the Black Belt and had entered that territory where jobs were perhaps to be had from white folks. ...
American Hunger/Richard Wright

History of African Americans in Chicago


ジェイムズ・ウェルドン・ジョンソンJames Weldon Johnson(1871-1938)、公民権運動活動家、「NAACP」指導者であり、かつ、「ハーレム・ルネッサンス」を代表する詩人。
A Raisin in the Sun(1959)/Lorraine Hansberry

A Raisin in the Sun(1959)/Lorraine Hansberry
ロレーン・ハンズベリLorraine Hansberry(1930-1965)
「A Raisin in the Sun」の、1959年のブロードウェイでの初演、1961年のダニエル・ペトリDaniel Petrie監督による映画化でも、主演を務めた、シドニー・ポワチエSidney Poitier(1927-2022)は、この1月6日に亡くなった、その追悼記事

「ブラックボーイ―ある幼年期の記録」リチャード・ライト(岩波文庫)

Black Boy:A Record of Childhood and Youth/Richard Wright
「アメリカン・ハンガー」は、アザール・ナフィシ「テヘランで『ロリータ』を読む」の中で、やはり教授が、英文学の講義のテキストの一つとして選んだ、として触れられていたので、なかなか見つからず、注文に手間も時間もかかったが、米国直輸入で、なんとか手に入れて、先ごろ、読み終えた、・・・、1927年、「大恐慌」直前に、「Great Migration」の巨大な流れの中の一人として、語り手、ほぼ、リチャード・ライトその人と見てよかろう、は、シカゴにやってくる、・・・、「アメリカ共産党(CPUSA)」外郭の文学団体「ジョン・リード・クラブ」への参加から、入党、おりしも、ソ連では、スターリンによる「粛清」の時代が始まっていて、「南部」にいたときは、引っ越しに次ぐ引っ越しで、小学校もほとんど出席していないこの青年は、不安定な「インテリゲンチャ」と決めつけられ、「トロツキスト」の「烙印」を押されることになる、・・・、そんなわけで、いわば、その「前篇」にあたる、「ブラック・ボーイ」も、あらためて読みなおすことにした、以下は、その、移動の足跡、父親が「出奔」、母子は、叔母の住むアーカンソー州エレーヌへ向かう、その途上、「ほとんど『白人』に見える」祖母を頼って、いったん、ミシシッピ州ジャクソンへ、エレーヌで、叔父は、「禁酒法」下の、アルコール密売に手を染めていたらしく、裕福であったが、「白人」から憎悪を受け、やがて殺害される、同じアーカンソー州ウェスト・ヘレナに逃れたのち、ジャクソンの祖母のもとへ移るが、この祖母が、確か、「セヴンスデー・アドヴェンティスト」であったかと思う、の熱烈な信者で、そのあまりに厳格な「宗教生活」に耐えきれず、ふたたび、ウェスト・ヘレナへ、・・・、
Memphis, Tennessee→Jackson, Mississippi→Elaine, Arkansas→West Helena, Arkansas→Jackson, Mississippi→West Helena, Arkansas



この地図は、当初、フォークナー「八月の光」のときにつくったものではなかったかな、アリス・ウォーカー「カラー・パープル」に登場した地名も記されている、・・・、アーカンソー州ヘレナ、現在は、「ヘレナおよびウェスト・ヘレナHelena-West Helena」と、合併されているようだが、この町は、ミシシッピ川沿いであるから、あるいは、「ハックルベリ・フィン」が、川下りの末、最後に上陸したのが、アーカンソーの町だった、というから、このあたりだったのかもしれない。



「ワン・ファイン・ディ」、「ある晴れた日に」、なんて言い回しがあることからも、人々は古来、曇りの日をあんまり嬉しいとは、思っていなかったことがうかがわれる、そんな「ワン・クラウディ・ディ」


シジュウカラ(シジュウカラ科)









ジョウビタキ(ツグミ科)・メス、何年ぶりだろう?以前は、この、うちのごく近くの「遊水地」にも、そんなに数は多くはないが、毎年訪れてくるようで、・・・、「ジョウ」は「尉」、「『老翁(おきな)』、能で『老翁』、あるいはそのかぶる能面、反対語は『姥 (うば)』」、とのこと、オスはもっと派手で、頭の羽毛が白いところが、「白髪の翁」を思わせるからの命名なんだ、ということが頷かれる、・・・、その、派手なオスも、それと比べたら地味、とはいえ、黒い背中に白い「紋付」、お腹はオレンジ色、だから、じゅうぶん目立つ、メスも、毎年、一度や二度は、お目にかかっていたものだった、ここ数年見なかったのは、もちろん、飛来数が減少した、なんてことではないだろう、「観測者」の方が、ますます「ひきこもり」傾向を増してきたからに他ならず、・・・、ああ、でも、こうして、こんな愛らしい生き物に会えるなら、どうしてもっと、たかだか近所の散歩ぐらい、「意欲的」(笑)になれなかったものか、と、もう「残り時間」が限られているのだから、と、悔やまれる気持ちもひとしおだけれども、・・・、でも、毎日のように、まめに、カメラをぶら下げて、「探鳥」散歩に出かけていた日々もそれはそれで、やれ、期待したほど「獲物」がなかった、とか、せっかく珍しいのを見つけたのに、うまく写真が撮れなかった、とかの、贅沢な「悩み」が、衰弱した「精神」の負担になって、なんだか、意味もなくへとへとに疲れて、投げやりになっていたりしてもいたのだから、とかく「壊れやすい」心(笑)、は扱いづらく、だからこそ「引きこもり」の方が、「安全」だったのだ、ということを忘れてしまうのだな、・・・、ツグミ科/ヒタキ科の分類をめぐっては、複雑な議論があるようで、大きさといい、顔の表情といい、先日初めて見ることができたキビタキ、あるいは、数年に一度くらいかな、いままで、二三度は目撃したことがある、エゾビタキとか、そっくり、とも、素人目には思えるんだが、こちらは、イソヒヨドリやシロハラなんかと同じ、ツグミ科に分類されているのである。
イ、じょう



ハクセキレイ(セキレイ科)、背中「灰色っぽい」タイプ

ハクセキレイ(セキレイ科)、何度図鑑の説明を読んでも、それは、「本土」ではこの鳥は「留鳥」であるので、「夏羽」についての記述だったりすることもあって、雌雄の区別が、いまだによくわからない、・・・、この「夫婦者」、もちろん、この鳥の「ペア」がとりわけ「仲が良い」ことが目立ったからこそ、「婚礼」の席で用いられる道具の名称にまでなっていたりするのだろう、もちろん、見たことはない、「歩く『忌み言葉』」みたいな存在だからなんだろう(笑)、そんな席には、決して呼ばれたことがないから、・・・、で、背中や頭が、明らかに「黒っぽい」のと、「灰色っぽい」のがあるだろう、そのどちらがどちらかが、わからないのだ、一般に、鳥類は、オスのみが「囀る(さえずる)」、でも、この鳥は、もっぱら飛びながら「ちちっ、ちちっ」、と歌う、だから、結局、どっちが歌っているのかも、わからない。

ハクセキレイ(セキレイ科)、こちらが、背中が「灰色っぽい」方

ハクセキレイ(セキレイ科)、背中が「黒っぽい」方

ハクセキレイ(セキレイ科)、上のとは別の個体だが、背中「黒っぽい」タイプ





「晦(つごもり)」は「月隠(こも)り」、月が見えない「新月」の意、ならば太陽暦12月31日を「大晦(おおつごもり)」と呼ぶんではいけない、「みそか」は「三十日」、「おおみそか」でもやっぱり不正確(笑)


ダイサギ(サギ科)



ミサゴ(タカ科)

コガモ(カモ科)・オス

コガモ(カモ科)・メス

ヒバリシギ(シギ科)







クロツラヘラサギ(トキ科)

コガモ(カモ科)・メス

コガモ(カモ科)・オス

ハシビロガモ(カモ科)・メス

カワウ(ウ科)

アオサギ(サギ科)

オオバン(クイナ科)

コガモ(カモ科)・オス

キセキレイ(セキレイ科)





  • シダ植物門Pteridophyta

    • シダ綱Pteropisida

  • 裸子植物門Gymnospermae

    • ソテツ亜門Cycadophytina
    • ソテツ綱Cycadopsida

      • ソテツ目Cycadales

    • イチョウ亜門Ginkgoophytina
    • イチョウ綱Ginkgoopsida

      • イチョウ目Ginkgoales

    • マツ亜門Pinophytina
    • マツ綱Pinopsida

      • マツ目Pinales


  • 被子植物門Magnoliophyta

    • 双子葉植物綱Magnoliopsida
    • モクレン亜綱Magnoliidae

      • モクレン目Magnoliales
      • クスノキ目Laurales
      • コショウ目Piperales
      • キンポウゲ目Ranunculales

    • マンサク亜綱Hamamelidae

      • マンサク目Hamamelidales
      • イラクサ目Urticales
      • クルミ目Juglandales
      • ヤマモモ目Myricales
      • ブナ目Fagales

    • ビワモドキ亜綱Dilleniidae

      • ヤナギ目Salicales
      • ツバキ目Theales
      • アオイ目Malvales
      • ツツジ目Ericales
      • カキノキ目Ebenales

    • バラ亜綱Rosidae

      • バラ目Rosales
      • マメ目Fabales
      • ヤマモガシ目Proteales
      • フトモモ目Myrtales
      • ミズキ目Cornales
      • ビャクダン目Santalales
      • ニシキギ目Celastrales
      • クロウメモドキ目Rhamnales
      • ムクロジ目Sapindales
      • セリ目Apiales

    • キク亜綱Asterdiae

      • シソ目Lamiales
      • ゴマノハグサ目Scrophulariales
      • マツムシソウ目Dipsacales






ルリハコベ(サクラソウ科)

コガモ(カモ科)・オス

アオアシシギ(シギ科)

キビタキ(ヒタキ科)

ジョウビタキ(ツグミ科)・メス






Last updated  2022.01.18 11:57:40



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