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ねこログ

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2022.07.07
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コアジサシ(カモメ科)・幼鳥

ナガサキアゲハ(アゲハチョウ科)・メス、サンタンカ(サンタンカ科)

リュウキュウツバメ(ツバメ科)

シロチドリ(チドリ科)、ヒバリシギ(シギ科)

コアジサシ(カモメ科)

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)


「ねこログ」、総目次(笑)/「スクラップ・ブック」、の、目次。
目次:「擬人化」することで初めて、「空間」が「方向づけ」られる、という凄い(笑)発見、など、誰も聞いていない(笑)「月見」日記/虹の「橋」の「向こう」に、渡っていく、などという夢想は、ついぞしたことがなかったんだけどな、レプレコン、「いなむどぅち定食」、「私が初めて歌ったボサノヴァの曲」、・・・、「サムホエア・オーバー・ザ・レインボー」、の思い出。/ストラトキャスターのネック、カイロの町並み、ナギブ・マフフーズという名前だけの記憶、それから、「プロレタリア国際主義」と「アルコール依存症」にまつわる、恥ずかしい思い出、など/「子供」はどうして「可愛い」のか?いや、話が逆、「子供」を「可愛い」と感じるようになった「変異群」が、生き延びた、でも、両義性の痕跡は残っているね、「攻撃誘発性」という形の。/トウワタ(ガガイモ科)とカバマダラ(マダラチョウ科)の、「毒」を介した「双利共生」から、またしても、「否定文によってしか定義できない用語」という同じ話、「セイム・オールド・ソング」(笑)/「まるで、芸を忘れてしまったサーカス団の動物たちみたいに」・・・アルンドゥハティ・ロイ「小さなものたちの神」、精読、は続く




あんた、さっきまでどこにかくれていたの?、みたいな感じで、一転、にわかに、「自己主張」始めるものだから、・・・。








旧暦六月六日の月、月の入三時間前

旧暦六月六日の月、月の入二時間半前

旧暦六月六日の月、月の入一時間半前
久方ぶりの「月見」なので、つい、はしゃいでしまい(笑)、まだ日のあるうちから何度も屋上に上がってみるのだけれど、空は7割くらいの青空だから、どこか目星をつけたあたりの雲間に、見つけられてもおかしくはないのに、太陽に近すぎるからだろう、今日の那覇の「日の入」は、19:26、「月の入」は、23:05、だから、時間にして、3時間40分=11/3時間、大雑把に角度にすると、
(360÷24)×(11/3)=55
これぐらいでも、まわりが明るすぎて、到底見つけられそうにない、ところが、いったん太陽が沈んでしまうと、にわかに、さっきまでどこにいたの?って感じで、かなり明るく光り出して、凡庸な表現だが(笑)、まるで「自己を主張する」みたいな、・・・、山の端から顔を出す「月の出」を「待つ」のとはまた異なった趣、ではある、・・・、

旧暦六月七日の月、南中二時間後、おや、お久しぶりでございましたね、お元気にしてらっしゃいましたか?日没直前ににわか雨が降って、とても綺麗な、しかも、長い、そう、それこそ「サムホエア・オーヴァー・ザ・レインボー」、ちゃんと「橋」らしい形になって、中心角120度くらいあったんじゃなかろうか、虹が出た、そんなだから、「お月様」の方はあまり期待できなかったのだが、一時間後くらいには、こんなにくっきり、少し西の空に傾きかけているから、「前につんのめる」形ではあるものの、ほら、うさぎさんの、お耳が、見えてますよ!

旧暦六月七日の月、南中三時間後



旧暦六月八日の月、南中



旧暦六月八日の月、南中一時間後
「平均朔望月」、約29.5を4等分すると、
29.5÷4=7.375
「月齢」、旧暦日付は、当然にも「1」から始まる「順序数」であるから、これに1を加え、「八日月」ないし「九日月」が、「上つ弓張/上弦」に該当することになろう、なるほど、今日の「八日月」は、まだ「半月」には至らず、少し「くぼんで」いる、明日には、もう、少し太くなってしまっているのだろうか、それとも、ちょうどほどよいくらいなんだろうか?また、楽しみが増えた(笑)、というものである、

旧暦六月八日の月、南中三時間後

旧暦六月九日の月、南中一時間半前









旧暦六月九日の月、南中一時間前
「肉眼」で空を見上げているときには、あら、ちょうどきっちり「半分」、と思ったけど、それも「目の錯覚」か、ほんの少しはみ出しているようにも見える、もちろん、そうでなきゃ、「計算に合わない」わけだけど、・・・、これで、昨日の「八日月」と、今日の「九日月」の間のど・こ・か・に、「上弦」があったことになる、月も太陽も、常に存在している(笑)、のであるから、常に、正確に半分だけ、明るい、「観測者」の位置によって、「形を変える」そのありさまは、任意の値をとりうる、いや「任意」というのもおかしいな(笑)、「連続変数」的に、「稠密に」変化する、それを、「日付」という、「順序数」的な、「離散変数」的な、「窓」から、のぞき見しているようなものだから、この様に、例えば、「ちょうど半分」などと言う「瞬間」を、捉えることができない、という事態は、当然にも、しばしば生ずることになるのだな、相変わらず「頭悪そうな」(笑)物言いであるが、・・・、



旧暦六月九日の月、月の入一時間前
気が付いたら夜半過ぎで、慌てて屋上にあがると、遠くのビルの屋上の、あれは避雷針なんだろうか、何か突き出た柱のようなもののわずか上空に、沈みかかっている、地平線近くの月は、これまた、光の「散乱」に関する問題なんだろう、元「物理の先生」(笑)、はうまく説明できないのだが、赤っぽくなることになっている、言われてみれば、そう見えなくもない、

旧暦六月十日の月、南中



旧暦六月十日の月、南中

旧暦六月十日の月、南中一時間後

旧暦六月十日の月、月の入二時間前
ようやく、こうして、「半分」以上が明るくなってきて、そろそろうさぎさんの下半身も見え始め、くっきりと、「クレーター」がいくつか、確認できる、・・・、ちょうど、光と影の境界線上に、うさぎさんの、うさぎさんにとっての(笑)、右手側から左手側にかけての順、つまり、この「南中」時の絵の中でいえば、上から下への順、で見るならば、まず、うさぎさんの、「おへそ」、・・・、ワライカワセミの歌の中に、「たぬきの坊や」の「おへそ」に「しもやけ」が出来た、とあるが、これはサトウハチローは、本当は、「きん●たま」と言いたかったが、子供向けの歌だからと、穏便に、婉曲化してすませたのでは?と疑われるのだが、そういえば、猫たちとの付き合いは長いが、「へそ」というものを、見た記憶がない、「有胎盤哺乳類」には通有される器官だが、人間以外では、それほど目立たない、とのこと、・・・、

というわけで、うさぎさんにも、「へそ」があってもおかしくないことがわかったが、その「おへそ」のあたりのが、「コペルニクスCopernicus」、Nicolaus Copernicus(1473-1543)、ポーランド生まれ、そして、もう、うさぎさんの身体からは離れた、「臼」のあたりに、「ティコTycho」、Tycho Brahe(1546-1601)、デンマーク人、そして、「クラヴィウス」、と並ぶ、・・・、ティコ・ブラーエは、暴虐な封建領主であったらしいことを知ったので、あまり印象はよくない、・・・、クリストファー・クラヴィウスChristopher Clavius(1538-1612)、は、イエズス会士にして、法王庁の要職を占めていたから、ガリレオの、弾圧者の「陣営」に属するわけだが、ガリレオの発見については、これを認める、という科学者らしい柔軟な姿勢を示した人として、ブレヒトの作品の中でも、好意的に描かれていたように読める、・・・、
「仏教暦」の「新年」の話題から、星と月に関する冗長な話、そして、月の「クレーター」談義から、ブレヒト「ガリレオの生涯」を読み直すことに



旧暦六月十一日の月、南中三時間前

旧暦六月十一日の月、南中二時間半前



旧暦六月十一日の月、南中二時間前

旧暦六月十二日の月、月の出二時間後







旧暦六月十二日の月、月の出三時間後



旧暦六月十二日の月、月の入二時間前









旧暦六月十三日の月、月の出二時間後



旧暦六月十三日の月、南中



旧暦六月十三日の月、南中一時間後
実は、昨日「十二夜」ですでに見え始めていたことが今になってわかるが、うさぎさん本体と、「臼」の間あたり、「コペルニクス」の「下」、つまり(笑)、うさぎさんの下半身側、に、「ケプラー」そして、その、今度は、「鏡」の向うの、うさぎさんにとっての(笑)、「右手」側、われわれ観測者からは「左側」、に、小さいが明るい、と言われている、白い点、これがクレーター「アリスタルコス」、のようである、・・・、アリスタルコス、「サモスのアリスタルコスAristarchus of Samos(310BC-230BC)」、「太陽中心説Heliocentrism」を最初に唱えた人物、同名の人物が複数存在するから、その生地の名称を冠する習慣らしい、サモス島は、ギリシャとトルコ、したがって、「ヨーロッパ」と「アジア」、「小アジアAsia Minor」を距てるエーゲ海Aegean Seaの、トルコ側、イズミールIzmirの50キロほど南に位置する島、さまざまな歴史的経緯があるのであろうが、このエーゲ海の島々をことごとく、例えば、レスボス島Lesbosもそうだが、トルコ海岸のごく近くまで、ギリシャが領有している事実も、しかし、驚くべきことに思える、・・・、










旧暦六月十四日の月「待宵」、月の出一時間後、これはカメラの感度によるもので、実際こんな色に見えている訳ではないものの、陽が落ちるや、空全体の色合いは、まさに刻々と変化していくのは確かで、それを飽かず眺めているのが習慣になった、え?他に何もすることはないのですか?そう、本当に、「他にしなきゃならないこと」など何もないので(笑)、いくらでも「待って」いて差支えがないことに気付き、自分でも、驚き、笑う(笑)



旧暦六月十四日の月「待宵」、南中一時間後、この月は18:08に出て、翌4:37に沈む、月が出ている時間は、したがって、10:29、おおむね、十時間半から、十四時間強、ぐらいの間を正弦関数的に「周期変動」、その周期は、「朔望月」よりやや短い27日ぐらい、あるいは、これは「公転周期」に一致するのかもしれないのだが、その「根拠」は、無能な「物理の先生」(笑)には、わからない、・・・、その中では、ほぼ最小値に当たり、おそらくその軌道は、もっとも「南」にずれているのだろう、だから南中時の「仰角」も小さい、夜半に目を覚ますと、「南」に向いた窓から、いや、うちには、「南に向いた」のしか、窓はないのだが、「月明り」が差しているのに気付いたのだ、・・・、京都で十年間暮らしていたアパートも、今思えば、南向きだったが、中庭を挟んで別棟が立っていて、その一階のカラオケスナックから、夏の暑い盛りは、裏口の戸が開けっ放しだったのだろう、信じられないくらいの(笑)音量で、各種演歌が聞こえてきたこと以外、「月明り」などと言う「風流」な記憶はない、・・・、うさぎさんと「臼」の間に「コペルニクス」、うさぎさんの「おへそ」あたりが「アリスタルコス」、紀元前の「太陽中心主義者」、「臼」のさらに先に「ティコ」、その先にあるはずの「クラヴィウス」は、はっきりしないな、・・・、



旧暦六月十四日の月「待宵」、月の入一時間半前



旧暦六月十四日の月「待宵」、月の入一時間前
今日の月の入の方角は、ほぼ南南西のようで、この家からだと、海に至るまで、さえぎる丘もなければ、近くに高層建築物もない、だから、ほとんど、カメラを水平に置くぐらいまで、沈む直前まで追跡できたのだ、月が地平線に近づくにつれ、どうも、画像が不鮮明になってしまうようなのは、なるほど、通り抜ける「大気」層が厚くなれば、その中の微粒子が夾雑物となってしまうのであろう、と、説明はつくが、しかし、一番下の写真など、顕著だが、形さえも、上下方向のみ押しつぶされたみたいなずんぐりした形になってしまう、のは、どういう訳なんだろう?カメラという機械がそう捉えたのだから、これは、例のメルロ・ポンティ的、「知覚」の問題ではない筈だろ?、月の直径くらいの高度差でも、その上端と下端では、通り抜けてくる「大気」の層厚に差が出るから、屈折率がすでに異なってしまうからなのか?、きわめて怪しいが(笑)、一応、そのように無理にでも「納得」して置くことにしよう、・・・、地表面に平行に近い方向に進む光は、「大気圏」を横切る長さも長くなる、すると、空気中の微粒子に衝突して、「散乱」される確率も高くなる、「赤橙黄緑青藍紫」のうち、波長の短い「青」側の光の方が「散乱」されやすい、ということなのだろう、確か、その「理由」を説明するのには、「量子力学」を、理解していなければならないはずで、いや、「量子力学」は「理解」するものではない、ただ「受け入れる」しかないものだ、とは、著名な物理学者の言葉だが、いずれにせよ(笑)、私には説明できないが、ともかく、そんなわけで(笑)、月でも太陽でも、地平線、水平線付近では、「赤っぽく」なる、これもカメラの感度の問題でもあるから、「真に受ける」訳にもいかないものの、ほら、確かに、「赤っぽい」だろう?・・・、地球の大気atmosphereの構造は、
対流圏Troposphere:17kmまで
成層圏Stratosphere:50kmまで
中間圏Mesosphere:80kmまで
熱圏Thermosphere:800kmまで
外気圏Exosphere:10000kmまで
地球の半径が約6400kmだから、「外気圏」まで含めると、これより厚い、「熱圏」までだと、半径の1/8くらい、・・・、下の図は、左側が、「熱圏」まで、右側が、「外気圏」まで、として、おおむね縮尺を合わせたもの、例えば地表面上のA地点に観測者がいたとして、「南中」時の太陽や月からの光は、y軸方向から、ACの長さに当たる「大気」層を貫いて、到達するのに対し、地平線・水平線近くの場合は、x軸方向から、ABの長さの「大気」を通過してきたことになるだろう?一般化して、地球半径をr、「大気」の厚みを、そのd倍、としよう、
i)成層圏までを問題とするなら、
r=6400
dr=50
d=50/6400=1/128
ii)熱圏までなら、
r=6400
dr=800
d=800/6400=1/8
ii)外気圏までなら、
r=6400
dr=10000
d=10000/6400=25/16
という訳だ、


なるほど、i)成層圏までを考えるなら、約16倍、ii)熱圏まで、iii)外気圏までなら、それぞれ、約4倍、約1.5倍、の空気層によって「散乱」を受けて、この光は、やって来たのだな、ということがわかった、


「古代人」とは言わない、ほんの数世代前の人々が、「月待」に寄せたであろう、心が湧きたつ、ほとんど「狂おしい」までの期待感が、少しは偲ばれるような気がしましたので、・・・。


遍在する「神」的視点からは月はいつでも半分が明るい、それを私たちは「日付」という「離散変数」の「窓」から覗き見しているからこうなる。






旧暦六月十五日の月、月の出一時間後、今まさに山の端から顔を出したのを指して、「月の出一時間後」というのも妙な気がするが、「潮汐表」なり、「国立天文台」サイトなりに記載されている「月の出時刻」は、山や、建築物など、遮蔽物のない、地平線や水平線が望める架空の場所を想定して、計算上、出されたものなんだろうから、そういうこともありうるのだ、と想像している、

旧暦六月十五日の月、月の出二時間後
うさぎ、うさぎ、何見て跳ねる、「十五夜」お月さん、見て跳ねる、と申しますが、あるいは、「跳ねたかった」のは、人間の方かもしれない、月に住むうさぎが、「縦杵」しか持っていないのだから、これは「脱穀作業」なのに、「餅搗き」だと強弁したのは、あるいは、「望月」との語呂合わせ、だったかも、とも言われるくらいで、「月」だから、「うさぎ」という連想だけで歌った可能性が高いと思われる、もとより、私たちと「遺伝子組成」のほとんどを共有する他の「生き物」たちが、あるいは、私たちと同じ事物に、同じように、「心躍らせて」いるだろうと想像するのも、また、少しもおかしなことではないね、オカヤドカリが幼生を海に放つとか、サンゴの産卵とかはもちろん、うちの猫たちだって、満月の夜には、ちょっと奇矯な行動をとるのでは、と感じたこともあったからね、・・・、
「国立天文台」のサイト、によれば、この月の、那覇市における、月の出方位は、120.2度、「北」を0度として、「東まわり」、つまり「上空」から見て「時計回り」、に測った角度、と定義されている、「東」が90度、「南東」が135度、「東南東」が、その間をとった、112.5度、だから、それよりもさらに「南」に寄っている、昨日の「待宵」、今日の「望」が、その角度において最大値を記録しているようである、・・・、地図の上で、うちからおおよそその方角をたどってみると、すでに陽が落ち、全天が暗くなってしまってから、東の小高い丘の稜線の、ここかしこに高層マンションの明かりが、「邪魔」をしてくれるが(笑)、おかげで、それらマンションの特徴的な形状から、方角もわかるのだが、そう、その、稜線の一角が、最初はほのかに、やがて、見紛いようもなくはっきりと、そう、「もうすぐ、出ますよ!」といやが上にも期待をかきたてるように(笑)、明るく輝きだす、もっと古い時代、電気の明かりのない時代ならば、それはほとんど「まばゆい」ばかりのものに感じられたであろう、「月待」の「心躍る」ような感覚を、それでも多少は「追体験」出来たような気もする、・・・、そんなことを詳しく書くと、「うち」の場所、という「個人情報」がバレてしまうことにもなるが(笑)、首里城の建つ丘、「城」というものは、「権力」の象徴なのだから、「四囲を睥睨」する場所に立てられるものだ、隆起珊瑚礁由来の「低島地形」だから、せいぜい二百ないし三百メートルくらいの高度だが、その北側になだらかに下っていく部分が、この、顔を出したばかりの月に影として写りこんでいる樹木の所在地だろうと思われる、同じ方角をたどれば、首里城の東側の「弁が岳」、さらにそのもう少し高い山並みの向こうには、毎年冬にはカワウ(ウ科)が渡ってくる貯水池があることにもなるのだが、この樹影のくっきりさから見て、そんなに遠いわけはないからね、・・・、ハリエット・アン・ジェイコブス「ある奴隷少女に起こった出来事」や、コルソン・ホワイトヘッド「地下鉄道」を読んでいると、奴隷たちが、「北部」の「自由州」めざして、「南部」の農園からの逃亡を企てるのは、決まって「月夜」だった、と書かれている、あるいは、アグネス・スメドレー「中国の歌ごえ」には、日本軍占領地帯へ向けて深夜に渡河する八路軍に同行した場面、「月が昇ってしまうまでに、作戦を完了させなければならない」と、書かれていた、月明かりというものが、それがなければ夜道を進むことができない、という肯定的な意味でも、その明かりのおかげで「敵」に発見されてしまう、という否定的な意味でも、いかに重要な関心事であったかが偲ばれるわけである、ちなみにスメドレーの描くその日の月は、夜半過ぎに昇るのだから、「下弦」かそれ以降のはず、その程度の「明るさ」にも、なお、警戒が必要だったのだね、・・・、

旧暦六月十五日の月、南中

旧暦六月十五日の月、南中一時間後



旧暦六月十五日の月、月の入一時間前、「十五夜」もまた、月の入を撮影しようと、ちゃんと目を覚ましたのだが、西の空には、もくもくと黒雲が湧き上がって、あっという間に覆い隠されてしまい、辛うじて、少しぼけたこんな写真が数枚残されるにとどまった、

旧暦六月十六日の月「十六夜(いざよい)」、月の出一時間後、今夜は、あいにく、月の出る山稜付近を、薄雲が蔽っている、

旧暦六月十六日の月「十六夜(いざよい)」、月の出一時間半後

旧暦六月十六日の月「十六夜(いざよい)」、月の出二時間後

旧暦六月十六日の月「十六夜(いざよい)」、月の出三時間後

旧暦六月十六日の月「十六夜(いざよい)」、月の出四時間後

旧暦六月十六日の月「十六夜(いざよい)」、南中三時間後





旧暦六月十六日の月「十六夜(いざよい)」、月の入二時間前



旧暦六月十六日の月「十六夜(いざよい)」、月の入二時間前「有明」、たった一日の違いなのに、単純化すれば、24時間を「平均朔望月」で除した、約50分弱、ずつ、月の出/月の入は遅れていくことになるのだが、ほら、こんな風に、「十六夜(いざよい)」となれば、たちまち、夏場だから、それが沈むより先に太陽が顔を出してくれるからでもあるが、「有明」を見ることができるようになるのだね、やはり西の地平線付近は曇っていて、沈むところまでは追跡できなかったが、



旧暦六月十七日の月「立待」、月の入二時間前「有明」、・・・、この日は、月の出の頃合いから、どこからともなく(笑)雲が流れ来たって、たちまち全天を覆い、やがて雨も降り始め、やはり何度も何度も屋上に上がっては「確認」怠らなかったのだが(笑)、ほとんど少しも、顔を出して下さらなかった、ようやく明け方、少しは雲の切れ間も出来て、あまりはっきりしないけれども、下を向いたうさぎさんがかすかに見える、「有明」だけは、なんとかつかまえることができた、

旧暦六月十八日の月「居待」、月の出二時間後、この日は、一晩中、薄い雲が全天を覆っていて、ああ、これでは、とても、「月見」はだめだ、と思うと、むしろ「安心」して(笑)、熟睡した、・・・、

旧暦六月十九日の月「臥待」、南中、月の出を目撃しようと、なかなか長い時間、屋上に「待機」していたのだが、台風が来ているのでもない、風がとても強くて、台風がここより南の海上にいるのなら、その「低気圧」に吹き込む風は、南を指す、「北風」のはずだが、今は、南から北に向かって、かなり速く雲が飛ばされていく、思えばこの島を初めて訪れた頃、大洋に「浮かんだ」島だから当然とはいえ、雲が、凄い速度で流されていくのに驚かされたものだった、今は、もう慣れたが、その「常識」から見ても、かなりの速度、そんなだから、全天にかかっていた薄雲がたちまち吹き飛ばされ、美しい月の出に、期待がいや増したのだが、逆もまた真なりvice versaであって、今度は、またしてもたちまちのうちに、この「たちまち」は、「立待」ではなく、「忽ち」と書くのだね、厚い雲が現れ、雨さえ降りはじめた、諦めて退散、目を覚ますたび空を見上げたが、一度だけ、姿を捉えられたのが、これ、

旧暦六月二十日の月「更待」、月の出二時間半後

旧暦六月二十日の月「更待」、月の出三時間後

旧暦六月二十日の月「更待」、月の出四時間後

旧暦六月二十日の月「更待」、南中









旧暦六月二十日の月「更待」、南中「有明」

旧暦六月二十日の月「更待」、南中一時間後「有明」

旧暦六月二十日の月「更待」、南中三時間後「有明」、三日間ばかり、雨に降られて、ご無沙汰している間に、うさぎさんのお耳がすでに隠れてしまった、「コペルニクス」、「ケプラー」、「アリスタルコス」を見つけることは出来るが、満月のときにあれほど目立った「ティコ」や、その先の「クラヴィウス」も、これは、すぐそばに光と影の境目があって、そこは明暗がくっきりしているのに、その対照で、のっぺりと明るく感じられてしまうからなのか、探さないとわからないくらいになっているね、・・・、「上つ弓張」で検討した同じことを、ここでもやってみると、「平均朔望月」の4分の3倍は、
29.5×(3/4)=22.125
「1」を加えて「順序数」化すると、23と24の間、のどこかに、「下弦/下つ弓張」がやって来ることになる、この月の月の出がほぼ夜半、これより遅い「月待」は、しかし、なかなか大変ではある(笑)、

旧暦六月二十一日の月、月の出一時間後

旧暦六月二十一日の月、南中





旧暦六月二十一日の月、南中「有明」、そうか、「上弦/上つ弓張」は、うさぎさんの上半身、頭から胸にかけて、のみ、「下弦/下つ弓張」は、うさぎさんの下半身、おなかと後ろ足、そして、臼と杵、しか映っていないのだ、つまり、頭の悪そうな説明だが(笑)、「満月/望」を起点にして、うさぎさんの頭の方から順次欠けていき、「新月/朔」直前には、お尻あるいは後ろ足、だけが残っている状態になり、そして、今度は、お耳から順に登場、顔が現れ、胸が現れ、という風に進んでいく訳です、・・・、天空を仰ぎ見るとき、固定された「座標」を想定することはとても難しい、だから航海者たちにとって、北極星や南十字星を発見することが枢要だったわけだが、すると、「月見」においても、どっちが「上」でどっちが「下」なんか、決められないじゃないか、というのが、「上弦/下弦」をめぐる議論を聞いていて、つねに疑問であったのだが、おや?何か腑に落ちた気がするぞ!やはり人は、自然の事物を、たとえ、相手が、「生き物」でない場合であってさえも、「擬人化」、「擬・生き物・化」といってもいい、ここが頭でここがお尻、というより、肝心なのはおそらく顔で、ここが目でここが鼻、口、といった「なぞらえ方」をしないではいられなかったのだ、と想像すれば、確かにまんまるのお月様の、どっちが上かは決められない、一晩の間に、反転するのだしね、でも、そこにちゃんと、うさぎさんという「生き物」がいて、しかも、おあつらえ向きに、「満ち欠け」の「境界線」が、ちゃんと、そのうさぎさんの、頭からはじまって、顔、胸、おなか、お尻、後ろ足、という風に、「上」から「下」へと、移動していくのである、うさぎさんの「上半身」だけが見えている月を、天空のどこにあるかとは無関係に、「上弦」と呼び、同じく「下半身」だけのものを、「下弦」と呼んだのにも、十分に根拠があるといわねばならないじゃないか?

ところで、たとえば英語には、この様な「発想」は生まれなかったのかもしれない、月にはうさぎが住んでいる、という「神話」が生じなかった場所では、したがって、「上下」の別も有り得なかった、という傍証になるかもね、
Full Moon→Last Quarter→New Moon→First Quarter
という、もちろん、味もそっけもない(笑)、夢のない(笑)、命名なのである、・・・、ただ、月の周期運動を、4相に分けて、0→1→2→3→4、としているのは、「新月」をもって、月の始めとする、多分、洋の東西を問わない、「陰暦」の発想と同じだね、「無い」ところ、最小値を起点として、まず、「増加/上昇」の相を見る、
y=-cosx

の型だな、満月、「満ちている」、最大値、から、「減少/下降」をたどる、
y=cosx

の型と解釈しなかったのは、「進歩史観」同様の、ウンベルト・エーコにならって「黙示録的」、世界は凋落の相にある、ではなく、「千年王国的」、未来に至福を留保する、と呼んでもいい(笑)、ある種「縁起かつぎ」だったのか?


「擬人化」することで初めて、頭が上、お尻が下、と、「分節化」、「位相空間化」が生じたのだ、でどうだ?すごい発見の喜びに(笑)拙い絵まで描いてみた。


マトフエフキ(フエフキダイ科)、これは去年の写真だ、防水デジタルカメラが壊れてしまい、まだ「服喪」中だから、もちろん貧乏だからでもあるが、新しいのは、まだ、買わない、だから、カメラを携えずに、海に潜ってみる、「下弦」だから、夕刻の「干潮」、「酸っぱい葡萄」、であることはもちろんだが、カメラを介さずに対象を「見る」、ことにも、それなりのメリットがあることに、気付かされるわけだ、・・・、あ、めずらしい魚だ、写真撮らなくちゃ、と思った瞬間、カメラの方に目を向け、気をとられてしまうごくわずかの時間の間に、当然にも対象たる「生き物」は、位置を変え、すでに去ってしまっている場合もしばしば、「写真を撮ろうと焦らなくてもよい」という「安心感」があれば、ずっと、それこそ腕組みでもしながら(笑)、相手を眺めていればよいわけで、すると、そこに様々な発見がありうる、この、マトフエフキ、方言名「くさむるー」、草、海藻、の間に「群れている」の意と思われる、あるいは、同じフエフキダイ科の、もう少し大型種、ハマフエフキ、こちらの方言名は「たまん」、意味は知らないが、沖縄を代表する高級魚であるらしい、も、似た「性格」らしく、「人間」を目撃しても、それほど焦って逃げようとしない、ちらりとこちらに視線を向けて、その「拙い」泳ぎぶりを「憫笑」するかのように(笑)、しばらくじっとしていたりさえする、そうして、水の中の屈折率のいたずらではあろうが、ほとんど手を伸ばせば触れられるような気のする距離を保ちつつ、「一緒に泳ぐ」、「併泳する」ことになる、透明度が高くて、岸に近い浅い場所でもあるから、うろこがきらきら光り、時々刻々色彩を変える様子さえ、ちゃんと「見る」ことができる、・・・、

旧暦六月二十二日の月、月の出一時間後





旧暦六月二十二日の月、南中一時間前「有明」

旧暦六月二十二日の月、南中「有明」、なるほど、「上弦」では、何やら二本の「突起物」を有した「頭」の如きもの、が、初めてそれを見たものの目にも、識別しうるかもしれないのに反して、こちら「下弦」では、ああ、これは、うさぎさんの下半身と、臼が写っているのですよ、と、すでに「満月」を知っている者の目にとっても、余り、感興の湧かない絵面ではなかろうか、どこに違いがあるのか、といえば、やはり、それは、「顔」に見立てるべきものがあるかないか、なのであろうね、・・・、私たちは自動車の前面さえ、「顔」に見立てることができるが、くれぐれも、それは、横に並んだ二つのヘッドライトを「目」に擬えることができるからなのである、・・・、ところで、「二十一日月」と、「二十二日月」とで、明け方、ほとんど同じ時刻、どちらも、ほぼ「中天」に見えた「有明」、どうして向きが互いに逆になっているのか?24時間を「平均朔望月」29.5で除すると、約50分弱、単純化すると、日々、月の動きは「遅れて」行くわけで、だから、これらは、同じく「南中」といっても、ごくわずか、これも単純化すると、
360÷29.5≒12.2
互いに、この角度分だけ、隔たっている訳で、だから、おそらく前者は、も・う・、「西の空」にかかっていたのに対して、後者では、ま・だ・、「東の空」にあった、ということなのだろう、「生き物」として当然の習性だが、人もまた、空高くを見上げるとき、首が痛くならぬよう、もっとも「仰角」が小さくなるような方向を、「無意識」に探すらしい、ということが、これで、わかることになるのだろう、・・・、

旧暦六月二十三日の月、月の出二時間後



旧暦六月二十三日の月、南中二時間前「有明」

旧暦六月二十三日の月、南中二時間後「有明」、「一点の曇りもない」、なんて表現、「比喩」以外で用いられたためしがあったんだろうか(笑)?そんな感じの空なんだが、それでも、これほどか細い、爪の先っぽみたいなの、見つけるのに手間取ったし、また、見つけられても、今度は、カメラをほとんど真上の空に向けるんだが、液晶画面に映っているのはただただ「青」、であって、どこを探せばよいかすら見当がつかない、・・・、それでも、なんとか撮れたわけだけど、・・・、

旧暦六月二十四日の月、月の出二時間後

旧暦六月二十四日の月、月の出四時間後、この日は、この後、曇り時々雨、という感じで、「有明」の頃には、晴れ間も見えたものの、見つけることができなかった、

旧暦六月二十五日の月、月の出一時間後、あとは、数時間後、空が明るくなったのを見計らって「有明」を期待したが、たちまち全天を雲がおおってしまったみたいで、この日は、これ限り、



旧暦六月二十六日の月、月の出一時間後

旧暦六月二十六日の月、月の出二時間後

旧暦六月二十六日の月、月の出三時間後「有明」

旧暦六月二十六日の月、月の出三時間半後「有明」、こんな幽けきものを、広い天空で見つけ出せたこと自体が嬉しい、「停車場」の人混みで、懐かしい友達に再会したみたい?嘘つけ!「友達」ってどんなだか知らないくせに(笑)、・・・、
・・・
wikipedia英語版「Lunar phase」、によれば、「月の満ち欠け/月相」を表す英語表現は、

New Moon→Waxing Crescent→First Quarter→Waxing Gibbous→Full Moon→Waning Gibbous→Last Quarter→Waning Crescent→New Moon
新月(朔)→三日月→上弦(上つ弓張)→・・・→満月(望)→・・・→下弦(下つ弓張)→二十六日月→新月(朔)
とのこと、「Wax」は、もちろん「蠟」の意味もあるが、動詞としては、これまたもちろん「蠟を塗る」の意以外に、「月が満ちる」、なのだそうだ、「Wane」は「衰える」、そして「月が欠けていく」、「Gibbous」は、「半円より膨らんだ、凸円の」の意味らしい、・・・、「全円」を「全体集合」とすれば、いわば、「Crescent」の「補集合」となるべき「Gibbous」なる用語があるのは、便利、というか「論理的」ではあるが、一方、「論理的」過ぎて、味も素っ気もない(笑)、との印象を、「東洋的」アニミスムの徒は、抱いてしまうね、・・・、ちなみに「Crescent」という用語自体には、満ちつつあるのか欠けつつあるのか、区別する指標は含まれていないのだから、例えば、「Fertile Crescent」を「肥沃三日月地帯」と訳すのも「不正確」と言えることにもなる、・・・、さらに(笑)、フランス語ならどうなんだろう、と思ったのは、もちろん「クロワッサン」という言葉に、あくまでパンの名称として、なじみがあるからだ、以下の通りで、英語で言うところの「Waxing満ちつつある/Waning欠けつつある」の区別はなくて、二つの「クロワッサン」については、「初めの三日月Premier Croissant/最後の三日月Dernier Croissant」、「上弦/下弦」は「Premier Quartier/Dernier Quartier」と処理されており、「太った半月Gibbeuse」という言葉は用いられているが、これも「満ちつつある/欠けつつある」の区別はない、ということが、わかった(笑)、・・・、パリの「北駅」のカフェで、料金支払い後に、テーブルの上に山と積まれていたクロワッサンを一つつまんで立ち去ったら、てっきり「食べ放題」なんだ、と思っていたのだ、ウェイターさんが追いかけてきて、「エクスキューズ・ミー・サー」と、ものすごく丁寧な英語で、諭され、大変恥ずかしい思いをした、「クロワッサン」という言葉を聞くと、いつまでたっても、そればかり思いだす(笑)、・・・、










旧暦六月二十八日の月、月の出二時間後「有明」、昨日も、朝まだきから、準備万端、屋上に三脚まで据え付けて(笑)、「満を持して」(笑)、待ち構えていたのだが、方角は、おそらく最も北側にはずれたところ、だから、あのビルの上から昇るだろう、との予測さえついていたのに、一向に昇ってくれず、おやおや、ついに太陽が顔を出して、もう、空がまぶしくてその東の方向を見ていられなくなってしまうまで、「待って」いたのに、ついに目撃することがかなわなかった、・・・、「出るはずのものが「出ない」?東の空は、空気中の埃だろう、やや白茶けてはいたが雲一つなかったのである、どういうことだ?「憤懣やるかたない」、と言ってみても(笑)誰に文句を付けたらよいのやら、「狐につままれた」とはこのこと、全然理由がわからなかったが、わからないままの「宙づり」はしんどいので(笑)、忘れることに、なかったこと(笑)にした、・・・、夕方から、久しぶりに、すごい雨が降って、車のワイパーを最速にしても、何も見えないくらい、駐車場からうちまで100メートルばかりを歩くだけでも「濡れねずみ」になるくらいの勢い、おかげで、二十四節気「大暑」の、クーラーのないうちでは、猫たちも板の間でぐったりしているし、人間も、椅子に座っているだけで、お尻のまわりに水溜りができる(笑)ほどの、暑気もひと時和らいだ、・・・、そうして、激しい雨が、空気中の浮遊微粒子を、ことごとく洗い流してくれたのだろう、台風のあとの海が透明度が勢い高くなるように、今朝は見事に透き通るような青空だったので、そう、「なかったこと」にしたんだったから、もう月のことなんか知りません、みたいな風情で、しかし東の空を仰いでみると、ほら、ちゃんと、いた、肉眼での印象から言えば、もっと「太い」気さえしたのだがな、確かに、昨日よりは、少し早い刻限で、まだ、全天が暗かったから、目立ったのである、慌ててカメラの準備をして、そう、見る見る、空は明るくなって、それにつれて、月の方は、見る見るかすれていく、この一連の写真全部で、経過した時間は20分足らず、・・・、なるほど、昨日の場合は、す・で・に・、遅かったのである、背景の空が明るくなり過ぎると、こんなか細い光の帯は、簡単に「埋没」してしまうようで、だから、昨日も、お月様は、ちゃんと、そこに「居られた」のだ!そうして、この月もそうだけれど、夕刻、太陽よりも少し前に沈むまで、ずっと天空に「居られる」はずなのだ、「存在」しているが「認識」出来ない、その「認識」出来ない、も、不注意で出来ない、というより、原理的に無理、ということであることが、「わかった」、「出来ない」ことが「わかった」ことが、「出来る」ことと少しも等価ではないことを(笑)、知る、・・・、今月の初めごろ、海外ニュースには「メッカ巡礼」の話題が出ていたはずだから、「巡礼月」は、厳格な太陰暦であるイスラム暦の最終月、ならば、このまもなく訪れる「新月」は、「新年」を告げるものになるのだろう、「ラマダン」開始の場合もそうなのだというが、「新月」の「目視」をもって、月の始まりを決める、それがいかに難しいことかの一端が、納得できた気がする、・・・、「ラマダン/断食月」は第九月、それが今年の場合、グレゴリオ暦2022年4月2日、旧暦三月二日、からはじまった、というから、その四か月後として、グレゴリオ暦2022年8月初め、あたりが、「イスラム暦」新年、となることになろう、一応確かめてみると、昨日、グレゴリオ暦2022年7月26日、ユリウス日2459787、旧暦六月二十八日、が、イスラム暦「第十二月・巡礼月/Dhu al-Hijjah」の26日、に当たる、とのこと、・・・、ちなみに「まだき」とは?「だし」に由来する語とも言われているようで、だとすれば、その連体形が名詞化された、ということか、ただし、もっぱら副詞的に用いられる、とのこと、・・・、

だから私たちは、いつも身体という袋の中に、後生大事に、忘れないように、大量の「水」を持ち歩かなければ生きていけない生き物になったのです。
この記事にあるように、2016年、12月26日(月曜日)、・・・、高江の「ヘリパッド」工事が完了してほどなく、今度は、中断していた辺野古の工事再開、ということで、その日の早朝、午前6時半結集、ということが申し合わされたようで、過去数か月間にわたって、機動隊とやり合う場面では、ことさら前面に出て(笑)、いかにも「慣れてます」風情を装っていた私は、実は、17年間の「ブランク」をもつ、元「活動家」、元「転向者」、なのであるから、「工事用ゲート」と言われてもどこなのかわからず、・・・、私がま・だ・「ネット・平和・運動家」だった頃は、漁港の方にある、今は、「カヌー隊」の「基地」になっている小屋が、座り込みの場所だったのだ、内心不安で、・・・、その朝、「朝まだき」の国道329号線を北上しつつ、そう、東を望めば、そこは海、昇ったばかりの「月」、今日のと同じくらいの、が見えた、・・・、その日は一眼レフカメラなどもって行かなかったのだろう、スマホで写したらしい、キャンプ・シュワブのフェンス越しの、それ、確かに、同日は、旧暦十一月二十八日、この「月」を見て思い出したのも、いわくがあった訳である、・・・、



こんな幽けきものを、広い天空で見つけ出せたこと自体が嬉しい、「停車場」の人混みで、懐かしい友達に再会したみたい?嘘つけ!「友達」ってどんなだか知らないくせに(笑)、・・・。















虹の「橋」の「向こう」に、渡っていく、などという夢想は、ついぞしたことがなかったんだけどな。










Somewhere Over the Rainbow

これもあるいは、ほとんど読んだこともない(笑)メルロ・ポンティの言うところの、私たち人間の視覚における、水平方向と鉛直方向の、差異、前者の方が、かなり「優遇される」みたいな形で「進化」してきたらしいこと、つまり、上下方向の「目測」は、水平方向のそれよりも、さらにはるかに、「当てにならない」こと、と関係があるかも知れない、・・・、うっかり、綺麗に「橋のように」かかる虹を目撃して感動したものだから、「中心角120度ぐらい」などと言ってしまって心配になり(笑)、確か、どこか引き出しの奥に、「分度器」あったよな?でもそれ以前に、与えられた円弧の「中心」を探さなければならない、というわけで、上に掲げたのと同じ写真に、「円」をあてがってみた、結局「分度器」は探さなかったけれど(笑)、どう見ても、95度、100度くらいしかないね、・・・、ジョン・レノン「アイルランド人に生まれるという幸運/The Luck of the Irish」に、こんな一節があったのを思い出した、・・・、
妖精レプレコンみたいに、虹の上を歩こう、
Let's walk over rainbows like leprechauns
そのアイルランドの「妖精」は、虹の橋のたもとに、黄金の入った壺を隠し持っているのだそうである、・・・、
妖精レプレコンみたいに、虹の上を歩こう、・・・、「アイルランド人」ジョン・レノンを、聴く
・・・
私は、自分が、まるで、「心身を捧げたcommitted」、「極左」派の、「活動家」であったかの如くに、描いてしまうのだが、客観的には「笑止千万」(笑)、「活動」に身を入れていた期間は、一生分足し合わせても、ようやく二三年くらいにしかならない、「身の丈に合っていない」ことをするから、すぐ「潰れて」しまうんだ、というのが、同じことを何度も何度も繰り返した上で、「発狂」(笑)に至ったのちにようやく達した、「解釈」、「悟り」であった、・・・、沖縄に「移住」してきたのが、1999年、「名護市民投票」から二年、当時はまだ、ずっと小規模な「ヘリ基地」と目されていた「辺野古新基地」が、ようやく、抜き差しならない問題として提示され、文字通り「押しつけられ」て、と言ってよかろう、来つつある時期、おりしも、「先進国サミット」が、それ自体、沖縄人に対する、基地と引き換えの「振興策」のショーケースとして、名護のブセナ・テラスを主会場に、開催されたのが、その翌2000年の夏だ、まだ、それほど人口に膾炙していたとは言えない「インターネット」なるもの、元「プログラマ」の矜持もあり、多少の心得もあったから、私は、たちまち、「ネット・平和・運動家」として、地元紙のインタヴューを受けるくらいの、プチ「有名人」に躍り出た、訳である、・・・、17年後、「高江」の「N1裏テント」、司会のヤマシロヒロジさんが、見かけない顔だったからだろう、マイクを向けてくださったときも、「実は、『ヘリ基地反対協』のウェッブサイト、最初に作ったのは私だったんですよ!」と、自虐的な笑いをとりつつ自己紹介したものだが、もとより、それは、本当のことだ、・・・、深夜、職場の予備校の、コンピュータを勝手に使って、拙い英語版のサイトをとりあえずアップロードし、ヨーロッパや北米の、「左翼系」とおぼしきサイトに片っ端から「リンク」を付けた、すると、ほんの二三時間も経たないうちに、「Dear Friends」、とか、「Dear Commrades」、とかで始まるメールが、舞い込み始めたときには、思わず、その、職員室のデスクの上に泣き伏して、嗚咽が止まらなくなったくらいだ(笑)、それから、ずっと、「病」の中で、ほとんど「シニカル・ヒステリー」のような日々を生きることになったが、それでも、あの記憶だけは、いや、ほかにもいくつかあるな、依然として、「珠玉のような」光を放っている、・・・、真っ先にそんなメールをくださった人々の一人に、ハワイ大学の大学院生の、ハーフ・オキナワン、P君がいて、その縁で、通訳も出来ないのに、名護在住の二人の女性の、偉そうな「引率者」として、ハワイまで、「講演旅行」に随行することにもなった、・・・、
ハワイアン・チルダイ
ハワイの「基地反対運動」は、当然にも「先住民」の自立、解放の運動と切り離せないみたいで、それらの団体や個人のメールが、当時はまだ、「ソーシャル・メディア」などというものはないから、もっぱら「メーリング・リスト」を通じて舞い込んでくる、おりしも、カリブ海、「アメリカ合衆国自治領/Commonwealth」プエルト・リコ、の東の沖合、ビエケス島Viequesでは、マナティの回遊する美しいサンゴ礁の海が、合衆国海軍の「劣化ウラン弾」を含む、「射爆演習場」とされていて、カトリック教会、プエルト・リコ独立派、その他もろもろの統一戦線だったのだと思われる、基地のフェンスを、ペンチかな、いわゆる「番線切り」かな、で、切り裂いて中に入り、無抵抗で逮捕される、ということを繰り返す、「非暴力不服従直接行動」の教科書のような運動が展開されていることを、初めて知った、・・・、へたくそな英文のメールを何度も書いて、きっと相手はいらいらしていただろう、それに、今のようにネットで予約というわけにはいかない、旅行代理店の店舗に赴いて慣れないチケット予約などもした記憶があるから、きっと、その、「サミット」を機に、地元の住民運動のメンバーを沖縄に招く、という企画に、私も関与していたに違いないのだが、あるいは記憶に「検閲」がかかっているのか、病的な「健忘」なのか、どういうきっかけだったか、少しも思い出せない、嘉手納文化センターでの集会は、大盛況だったし、7月20日の嘉手納基地包囲のときも、「Vieques Si! Marina No!/ビエケスにイエス、アメリカ海軍にノー」と人々が唱和している様が、地元紙にも掲載されたから、それらささやかな「貢献」を、もっと「自慢」してもよい気もするが、ここで喋り出したのは、つまり、「サムホエア・オーバー・ザ・レインボー」という言葉が浮かび上がるたびに、今でも私が思いだしてしまう、これまた「珠玉」のような記憶の一つは、そんなのとは、ちょっと趣を異にしている、・・・、ちなみに、その後の長い長い「ひきこもり」の期間、ことさら避けていたわけでもなかろうが、プエルト・リコからの新聞記事なども、眼にした記憶もなかったけれど、その、歴史的な運動は、ちゃんと「勝利」を獲得したらしい、あとから訳してみるが、今年の二月の記事、これは、サン・フアンを始め、プエルト・リコ各地のデモを報ずるものだが、「人々は、ビエケス島からアメリカ軍を叩き出すことができたんだ」とあるからね、・・・、
Island Cousins' Networkアイランド・カズンズ・ネットワーク
南の島だより/オールタナティブ"・サミット・インサイダー・レポート
人々は、ビエケス島からアメリカ軍を叩き出すことができたんだThe people kicked the US military out of Vieques/2022年2月18日アル・ジャジーラ

カリブ海、小アンティーユ諸島、プエルト・リコ本島と、英領ヴァージン諸島、米領ヴァージン諸島、との間に、ビエケス島は、ある、・・・、上の小アンティーユ諸島、この発音自体フランス語だが、の地図は、フランス語版、下の、プエルト・リコの拡大図は、スペイン語版、英領ヴァージン諸島、米領ヴァージン諸島、の表記がちょっと気になった、
英領ヴァージン諸島British Virgin Islands/Îles Vierges britanniques/Islas Vírgenes Británicas
米領ヴァージン諸島United States Virgin Islands/Îles Vierges des États-Unis/Islas Vírgenes de los Estados Unidos
virgin(英)、virgen(西)、vierge(仏)、vergine(伊) 、なのだね、ガリレオの娘、修道女としての名前が、マリア・セレステ、「天空のマリア」の意味だ、ブレヒトの作品にもウィルジーニアとして登場するが、Virginiaという名前だったらしい、・・・、

プエルト・リコ
その人の名前は、マリアさん、だったかな、いや、ラテン系の女性のファースト・ネームとしては極めてありふれたものだろうから、「偽名」ということにしておいてもいい、嘉手納のイベントに来沖した住民運動のメンバーとは別のルートで、・・・、メールのやりとりを傍観していても、どこの運動体にもありうることだが、プエルト・リコの「運動」にもまた、とりわけ「Commonwealth」という地位、アメリカ合衆国との関係、をめぐっては、「独立派」、「『州』としての地位を求めるグループ」、「現状維持派」等、様々な流れがあって、相互に必ずしも友好的でもないこともうかがわれたが、・・・、それらいずれの「系列」の人だったかはわからないし、関心もない、おそらく、サミットよりもう少し後、日本共産党系かな、「平和会議」だったか何だったか、やはり名護で国際的な集会があったらしく、そこに招待された代表の一人だったらしい、「お前、ビエケスのことならよく知ってるだろう」、と、やはり通訳も出来ないのに、声をかけられ、すでに、半分「ひきこもり」かけていた頃だが、一日、那覇の名所旧跡を案内する、というツアーに運転手として、同行させてもらったのだった、・・・、その人は、どんないきさつだったかまでは話されなかったけど、ちっとも「活動家」なんかになろうとしてなった訳ではない、「畑違い」の人で、「クラブ」なんかで歌うのを仕事にしている「歌手」だった、なるほど、押し出しは堂々としていて、声にも、いわゆる「パンチ」があった、・・・、「明日は、何時から○○公園で集会、夜は、△△会館で講演をお願いします」、みたいな予定を聞き流しつつ、確か、「Always Rally, Rally, .../集会、集会、って、もう、うんざりよ」、と、心底「うんざり」という表情を、それこそ「ラテン的」に(笑)、大げさにして見せてくれたのを覚えているな、・・・、どこを回ったのか、もう覚えていないが、後に、もう5年前になるのか、名護署に一晩お世話になった際(笑)、「身元引受人」になっていただくことにもなる、沖縄の復帰運動以来の重鎮Mさんが、壺屋の窯元、紅型工房、などを手際よく案内してくださったんだと思う、私は、ただ、運転しつつ、会話に耳を傾けていればよかった、龍潭池近くの、沖縄料理の食堂で、昼食、有線放送だろう、小さな音だったが、「サムホエア・オーバー・ザ・レインボー」が流れてきたとき、彼女は、なかなか器用に「いなむどぅち定食」、「いなむどぅち=猪・もどき」なんだと思う、こんにゃく、野菜、豚肉、などの味噌煮込み、何か、重要な節目の際に親族一同が集まって食べるものだ、と聞いた記憶がある、をつまんでいた箸を止めて、低く、ハミングを始めた、・・・、記憶というのは不思議なものだ、彼女はすでに片言の日本語を習得していたものの、その台詞は英語だったはずなのに、私の頭の中では、もう日本語に「吹き替え」られてしまっているから、正確に、彼女が何と言ったのかは、もう、思い出せない、ただ、「ああ、これ、この曲、初めて歌ったボサノヴァの曲だったのよ」、・・・、その曲が、元来、ボサノヴァの曲、ではないことくらいは、私も知っていたけれど、その、私にさえなじみのあるメロディが、何に由来するのかは、ずっと後年になるまで、知らないままでいた、・・・、映画「オズの魔法使い」を見ることにしたのは、何がきっかけだったか、単に、スーパーの催事場で、DVDが200円とかで売られていたから、というだけの理由だったかも知れないが、末尾の場面、無能であることがばれてしまったオズが、さまざまな委曲を尽くした演説をする、
Wizard of Oz: Well, you force me into a cataclysmic decision.
オズの魔法使い:おお、君は、私に、きわめて破局的な決断を強いることになるのだよ。
「カタクリズミック」なんて英単語を知ったのも初めてだったが、その一節には、実は、素直に、「感動」した、・・・、主演のジュディー・ガーランドは、いわば「子役」としてのこの作品がデヴュー作だった、47歳で、薬物過剰摂取で亡くなるこの俳優は、「鬱病」を病んでいたらしい、ベトナム反戦、公民権運動支持といった「政治的立場」のみならず、私は、どうしても「同病」の人に、過大な好意を抱いてしまうので(笑)、以来、「ファン」なのだ、と言ってもいい、・・・、
イスラエル・カミカウィウオーレIsrael "IZ" Kamakawiwoʻoleの、「サムホエア・オーバー・ザ・レインボー」の入ったアルバムは、その、ハワイに行った時の、P君が渡してくれたお土産の一品だった、この歌手、ウクレレ奏者は、ハワイ「先住民」権利運動にとっても、アイコン的存在だったことを、やはり初めて知った、私がハワイを訪れる少し前に亡くなったのだったと思う、・・・、
「サムホェア・オーバー・ザ・レインボー」、再々論
・・・
ああ、もう一つ、その2000年7月、「沖縄サミット」最終日、全国の何十という都道府県から動員された、と言われる機動隊の部隊が、それぞれ宿舎にしていた恩納村から名護市にかけての海岸沿いの「リゾート・ホテル」群、・・・、そんなところは、十六年後の「高江」のときとおんなじだけどね、・・・、を「撤収」し始める、英語に「under siege/包囲下にある」という表現があるけれど、そんな感じの息が詰まるような数日間だったから、掛け値なしの「解放感」があった、・・・、その日私は、那覇から名護まで、久しぶりに一般道、58号線を走った、サミット期間中は、数キロごとの検問に止められるから、やむなく、お金はかかるけれど、高速道路を使わざるを得なかったのでね、名護の東海岸に到着する直前に、南国の夏らしい激しいにわか雨が降って、そうして、大浦湾に、そう、やはり、見事な虹がかかったのだった、助手席のP君が、「It's a good sign/なかなか縁起がいいよ」、と言ったのを思い出す、・・・、だから、今でも、ほら、こうして、虹を見ると、それを渡って向こうに行ける、なんて、麗しい想像は、どうしたって働かないものの(笑)、ボサノヴァ風にアレンジされたあの曲が聞こえてくるし、そして、やっぱり、ああ「グッド・サイン」なんだ、って思ってしまうのだ。
・・・

Judy Garland Somewhere Over The Rainbow 1939

Somewhere over the Rainbow - Israel "IZ" Kamakawiwoʻole





ベジャ語は、アフロ―アジア語族Afroasiaticクシ語派Cushiticに属する言語


スーダンの首都ハルツームは、大湖沼地帯から南スーダンを経て北行する「白ナイル」と、エチオピア北部タナ湖付近に発し、アムハラ、オロミヤ州境を画しつつ、大きく迂回しながら、西へ向かってきた「青ナイル」とが出会う町、両河川にはさまれた南部が、政治的中心部となっているハルツーム、バシール打倒の座り込みが行なわれた「総司令部」なども、そこにある、そこから、「青ナイル」を距てた北が、「北ハルツーム」もしくは、「バフリ地区」、「白ナイル」を距てた西が、「オムドゥルマン」、これらがいずれも住宅地区となっているように思われる、したがって、記事にあるように、デモ隊などが、ハルツームに入ろうとする経路は、橋によって限定されているのであろう、「三本の橋」がいずれを指すのかはわからないが、いくつか著名な橋の名称を記入しておいた
・・・
記事の中に登場した曲は、みな、ユーチューブで聴くことができる

Qwal/Noori & His Dorpa Band—Beja Power! Electric Soul & Brass from Sudan's Red Sea Coast
Saagama/Noori & His Dorpa Band—Beja Power! Electric Soul & Brass from Sudan's Red Sea Coast
Jabana/Noori & His Dorpa Band—Beja Power! Electric Soul & Brass from Sudan's Red Sea Coast
Al Amal/Noori & His Dorpa Band—Beja Power! Electric Soul & Brass from Sudan's Red Sea Coast

記事の中にあったように、若きヌーリ氏が、粗大ゴミ捨て場で発見した無傷のギターのネックは、この写真で見る限り、おそらく、フェンダーのストラトキャスター型のものだったのだろう、その先から橋をかけるようにして、「四弦琴」の弦が張られている、ちょっと目を見張らされたのは、中央に張られているステッカー、アフリカ大陸の形をして、三色に塗り分けられている、緑、黄色、赤、順序は逆にも思えるけれど、「ラスタファーライRastafari」のシンボルではなかろうか?それから、楽器を縁取るようにちりばめられているのが、当地でもおなじみの、タカラガイ科に属する貝類の貝殻、その名の通り、東洋においても、おそらくアフリカにおいても、古代の、「貨幣」として流通したのだろう、「海南小記」の柳田国男も、注目している
・・・
「ハルツームの町のどんな一角にも、かならず、音楽があった」/ヴィク・ソホニエ(アル・ジャジーラ2018/09/23)
ハルツームの座り込みは、確かに、失われてしまった。しかし民主的なスーダン、という、その夢はそこに、あり続ける/ヒバ・モーガン(2019/06/13、アル・ジャジーラ)
いや、スーダンの革命は、まだ、終わっていないよ/カリド・アルバイ(アル・ジャジーラ2019/06/07)
そんな「浅はかな」ことを思いついた人間は(笑)、「世界」が相手となれば、相当数いたようで、・・・、「ノーベル文学賞」アブドルラザク・グルナと言う作家を、さわりだけでも、読んでみる・・・著者は、1948年、現タンザニアの、ザンジバル島に生まれている、1963年の独立の後、「ザンジバル革命」の混乱を逃れて、1967年、18歳の時、「難民」として、イギリスに向け出国した、と言われる。インド洋交易の要衝であったザンジバルの略史、などをたどってみた記事

カイロの中心をなす、ナイル川の中州である、「ゲジーラ島Gezira」を、北西から南東に斜めに横切る大通りが、「7月26日大通り26th of July Corridor」、それを東岸へ渡り切って、さらに南に向かえば、「タハリール広場Tahrir Square」となる、その大通りが、ナイル川を渡る橋が、島の西側も東側もともに、「5月15日橋」と呼ばれているようである、一方、「インババ橋」は、「ゲジーラ島」より下流側、すなわち北側、となると、これら船上住居の係留されている「西岸」なる場所が、島よりも西なのか、あるいは島の東側なのか、判断が難しくなるが、グーグル・マップの航空写真モードで見ると、島の西側に、点々と、船のような形が見えるので、こちらなのであろうと思われる

ナギーブ・マフフーズNaguib Mahfouz(1911-2006)
The Cairo Trilogy/Palace Walk(1956), Palace of Desire(1957),Sugar Street(1957)
Adrift on the Nile(1966)
・・・
私事を語れば、もとより、カイロを訪れたことなど一度もないけれど、西加奈子の、なかば自伝的な小説、「サラバ」では、1980年代の前半、ムバラク政権の初期、日本企業の駐在員であった父とともに、このケジーラ島の北半、ザマレク地区Zamalek、おそらく高級住宅地と思われる、に住んでいた家族の中で育った少年が、主人公なのである、日本に帰って成人し、諸般の事情があって、自堕落極まりない生活を送っていたが、2011年、「アラブの春」のニュースを聞き、たった一人のエジプト人の友達、コプト教会のキリスト教徒、の安否を気遣い、革命と、その後の弾圧の余燼冷めやらぬエジプトを訪れる、・・・、「7月26日大通り」から、橋を渡って南下すれば、「タハリール広場」に出る、などということを知ることが出来たのは、この小説のおかげだった、・・・、ナギーブ・マフフーズという作家は、京都にいる頃に、まだ、「バブル」の余韻で多少金回りがよかったのだろう、かなり高い本だったが、購入したことがあるはずで、最後まで読んだかどうか、とんと記憶にないのが無念である、今、アマゾンなどの古本市場を探っても、翻訳版は、いずれもとんでもない値段の貴重本扱いで、とても手が出ない、今なら、そこに描かれたカイロの街角の様子を、少しは、生き生きと想像できたかもしれないのだが、悔やんでも仕方がない、人生は、そういうものだからね(笑)
「軽蔑されるのって、楽だから」、「涅槃図」、カイロのタハリール広場、ふたたびニーナ・シモン、西加奈子「サラバ」を読む

「驚くべき連帯感、『アメイジング・トゥギャザネス』、がありますね」・・・大統領官邸前の、抗議キャンプで新年を迎えるスリランカの人々/2022年4月14日アル・ジャジーラ・・・あわせて、昨年のクーデター直後のミャンマーの「新年祭」を振り返りつつ、「仏教暦」研究
・・・
「人民解放戦線Janatha Vimukthi Peramuna (JVP)」、1965年創立のマルクス・レーニン主義政党、1971年、英国女王を主権者とする英連邦下の独立国である「セイロン・ドミニオンDominion of Ceylon」政府に対する武装闘争を開始、1972年の、スリランカの、やはり英連邦下ではあるが共和国としての独立以降は、議会政治に参加、しかし、1987年、スリランカの、主にタミル分離派との内戦状態の調停策として、インドのラジブ・ガンジーとジャエワルデネJ. R. Jayewardene大統領間に交わされた「インド―スリランカ協定」調印後、ふたたび、武装闘争に決起、1989年から1990年にかけての、「共同作戦Operation Combine」というスリランカ国軍、警察による大弾圧の後、議会政治に復帰するなど、紆余曲折を繰り返してきたようである
「社会主義戦線党Frontline Socialist Party」、2012年に、「JVP」はもはや連立政権内の利権に左右され、当初の社会主義革命への熱情を失ってしまったと批判する、同党内の反対派によって結成
私事にわたるがもう何十年も前に読んだ書物の中で、確か「JVP」が「トロツキスト系」と記述されていた記憶があったのだが、これらいずれの党も、そのエンブレムとして、共産主義者のシンボル、「Hammer and sickle/鎌トンカチ」を採用していて(「第4インターナショナル」派のような逆向きではなく)、「第4インター」系とのつながりはなさそうである、この党がかつて参加していた国際組織「国際共産主義セミナーInternational Communist Seminar (ICS)」は、1990年代にベルギー労働党の呼びかけたもので、親ソ派、親中国派、親アルバニア派、親キューバ派、四潮流の再統一を目指すものであったようである
List of political parties in Sri Lanka
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スリランカの宗教構成:仏教(70.3%)、ヒンドゥー教(12.6%)、イスラム(9.7%)、キリスト教(6.1%)
・・・
また「私事を語る」ことになるが、記事の中に頻出した政党名に、おぼろげながら記憶があるような気がするので、気になったのだ、またしても20年前の話になるが、「沖縄サミット」が近づくにつれ、さまざまな運動体、政治潮流が、にわかに、この島に注目し始め、いわば「蝟集して」くるのは当然の成り行きで、当時、まさに同じ「熱狂」の中で、身の丈に合わない「活動家」風を装っていた私などのまわりにも、多分に「怪しげ」なものも含め、さまざまな人々が、通り過ぎていくことが多くなった、・・・、そんな中の一つに、おそらく「関東ブント」系の、諸党派の残存部分の連合体のような人たちがあって、何でも、スリランカから、「極左」系の活動家を招請するので、移動のための運転手、兼、島のガイドをせよとの任務を仰せつかったのだった、多分、その時聞いた組織の名称が、「JVP」だったような気がするのだが、今ではもとより確かめようもない、今調べてみると、当時スリランカは、「スリランカ自由党Sri Lanka Freedom Party (SLFP)」という社会民主主義系の政党の政権下、同党創立者の一人であるシリマヴォ・バンダラナイケSirimavo Bandaranaike(1916-2000)を首相、その娘であるチャンドリカ・クマラトゥンガChandrika Kumaratunga(1945-)を、大統領、としており、「SLFP」はほかならぬ「JVP」の議会内での同盟者のようであるから、比較的安定期にあったのかもしれない、だからこそ、それなりに自由に海外渡航なども出来たのかもしれないが、当時その党派の名称は、おそらく70年代の武装闘争の余燼であろう、タミル分離派の「LTTEタミル・イーラム解放の虎」ともども、この国の、錯綜とした「内戦」状態の一方の立役者として、外電などに頻繁に登場したのであろう、私のようなものの記憶にもはっきり残っていたのである、・・・、その招請者たる「関東ブント」系の人々の意図は、想像するに、「プロレタリア国際主義」を標榜するにあたっての「看板」に利用することに尽きる、と私はもちろん高をくくっていたのだが、それでも招請される側は、それなりの危険を負担して、沖縄くんだりまでやって来るのは、サミット会場で何らかのプロテストを行うなど、かれらなりの目的を携えていたのであろうし、それは、それこそ「プロレタリア国際主義」的に、尊重すべきであろうから、私としては、一介の運転手として、「任務」に忠実たろうと決めた、・・・、サミット期日が近づくにつれ、例えば那覇空港のロビーなども、雰囲気が激変してきた、「基地反対運動」どころではない、「国際テロリスト」の潜入を警戒する、とでも言うのであろう、明らかに「私服警官」と分かる、いや、「明らかに」わかってしまっては困るのだろうけれど、よく言えば「鋭い」眼差し、ありていに言えば、とてつもなく「目つきが悪い」から目立ってしまうのである、あるいは、彼らは、「陽動作戦」を形成し、それとは別に、本当の「私服警官」たちが潜んでいるのでは、と想像してしまうくらいだった、その客人たちは、有効なパスポートを所持した「善良」な市民であるから、ただちに逮捕、強制送還、などと言う事態はあり得ないとしても、なんといっても、少なくともかつては「武闘派」であった組織のメンバーなのである、運転手も極めて緊張した、なにせ、全島の国道は、数百メートルおきに、全国動員の警察官たちによって検問が布かれている状況なのだから、何らかのトラブルが生じて、捜索などを受けることになれば、その後部座席に「外国人」がいる、などと、彼ら警察官たちをして、色めき立たせることだけは、なんとしても避けなければならなかったから、高速道路を経て二時間ばかりの道のり、エンジンの調子やガソリン残量に気を配り、尾行する車両はないかとバックミラーを頻繁に覗きこみ、等々、運転は慎重をきわめた、・・・、結果から言って、無事に送り届けることができ、その招請者の団体のいわば「子分」みたいな形で、同行してくれた、今どき「黒ヘルメット」を携えてデモに参加するような「アナクロ・左翼」学生たちとも、道中の緊張を共有することで、幾分仲良くなれたりしたから、今から思えば、悪くない記憶なのである、当時の私は、度し難い「アルコール依存症」患者だったから、「任務」を終えるや、すぐにでも一杯ひっかけなければならなかった、「交流会」と称して、私自身を筆頭として、おバカなこの国の「左翼」風たちは、あるいは、「本物の・革命家」だったかも知れない人たちを前にして、酔払って赤い顔をして、「大言壮語」することになった訳だ、そのありさまを、この客人たちは、頑として一滴もアルコールを口にすることもなく、きっとかなり冷めた眼差して、見つめていたであろうと思うと、しかし、私の中の「プロレタリア国際主義」が、急速に凋んでいく、身が縮むばかりの「恥ずかしさ」を感じたものだった、いや、ただ、それだけの記憶なんだけどな、・・・、



サラトフSaratovは、モスクワ南東700キロあたりの町

「ブカ虐殺Bucha massacre」、キエフ西郊ブカにおけるロシア軍における、ウクライナ民間人への虐殺行為、2022年4月、ロシア軍の同市からの撤収後に発覚

マリオポルは、アゾフ海沿岸の町

モンゴル、ザバイカル、ブリヤート、周辺
スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチの言葉、ブレヒトの歌、田中克彦「ノモンハン戦争」




「子供」はどうして「可愛い」のか?いや、話が逆、「子供」を「可愛い」と感じるようになった「変異群」が、生き延びた、でも、両義性の痕跡は残っているね、「攻撃誘発性」という形の。






ヒヨドリ(ヒヨドリ科)
















ヒヨドリ(ヒヨドリ科)、これは、上の、「夫婦」者らしきのを目撃した日の夕刻、同じ隣家の電線に、「ぽつねんと」(笑)、とまっているので、どうしようかな、部屋の中までカメラを取りにいくかな?でも、きっと、戻ってきたら、戻ってきた瞬間を狙いすましたように、飛び去ってしまうんだ、などと躊躇しつつ眺めていたら、おや?なかなか、飛び去らない、どころか、結局、忍び足でカメラを取りに戻り、それから、よくわからないけれど、15分くらいも経ったかも知れない、同じ電線の上に、とまったまま、羽繕いをしたりしているのである、だから、あまり変わり映えしないものの、現に被写体がそこにいる以上やめるわけにはいかないので(笑)、百枚ばかりも写真撮ることになった、・・・、見たところ、「嘴の黄色い奴」、でもなさそうだが、この無防備な振る舞いは、やはり「子供」特有のものかもしれない、と思う、そういう季節だからね。

シノビハゼ(ハゼ科)、モンツキテッポウエビ(テッポウエビ科)、本日、旧暦六月一日、だから、もちろん、「新月」大潮だ、「海開き」、することにした(笑)、防水性のデジタルカメラは、あまりにも酷使しすぎるからかもしれないが、そんなに長持ちしないものなのだが、三年ほども、けなげに頑張ってくれたのが、そろそろ無理だろうな、と思っていたら、やはり、予定通り、この初日、この写真を撮った直後に、寿命が来てしまった、・・・、そういう時に限って、この後、デバスズメダイ(スズメダイ科)とか、スミツキトノサマダイ(チョウチョウウオ科)、とかが、次々、悠々と現れてくれるのだが、それは「文句」を言う筋合いではないね、ただ、しばらく、失われてしまった「モノ」に対して、「服喪」の期間を持つことにはなろう、・・・、

ナガサキアゲハ(アゲハチョウ科)・メス、サンタンカ(サンタンカ科)、海からの帰り道、ショッピング・モールの駐車場、ランタナ(クマツヅラ科)、ハイビスカス(アオイ科)も植栽されている生け垣が、「蝶の宝庫」であることは、以前から気づいていた、「性淘汰」では、通常オスの方が「派手」なのだが、この蝶は、メスにのみ地域偏差があり、何でも、南へ行くほど白っぽくなるそうなのである、「派手」のつ・も・り・ではないのかもしれないが、元来黒い蝶が白っぽくなると、しかし、目立つことは、確かだ、

シロチドリ(チドリ科)

コアジサシ(カモメ科)・幼鳥、そうなのだ、何年か前の夏にも目撃したことがあった、何か、翼の色も、くちばしや頭の模様も、はっきりしない、でも、同じコアジサシ、としか思えない個体が、そこかしこにいる、ああ、この「南の島」は、もっぱら「冬鳥」の「越冬地」であるから、そういう想像の仕方をしていなかっただけのことで、このコアジサシ(カモメ科)を始めとする、「夏鳥」たちにとって、当地は「繁殖地」、当然にも、もう、渡ってきてしばらく時間がたっているから、「子供」がいても、不思議はなかったのだ、シギだかチドリだかよくわからない小さな鳥に、手探りでシャッターを押して、拡大してみると、こんな、「子供」然とした顔が大写しになって仰天したわけだ(笑)、この場所は、波打ち際に近く、あるいは、満潮時には冠水してしまう、とも思えるから、ここで生まれたわけではなく、おぼつかない足取りで歩くことも出来そうだし、羽を伸ばして見せたりもしてくれているから、多少の距離なら、もう、飛べるのかもしれない、アジサシ類は、「巣」と言えるようなものをとくにつくらず、砂浜のくぼみのようなところに直接卵を産み付けるのだ、と聞いた、そういえば、カメラをぶらさげて、この浜辺に歩いて近づくと、親鳥たちが、頭上すれすれにやってきて、甲高い声をあげていたのは、あれは、「子供たちに近づくんじゃない!」、と、威嚇していたんだね、きっと、



コアジサシ(カモメ科)、この成鳥のすぐ近くに、下に映っている「子供」がいて、口移しで給餌していたようにも思えるから、あるいは「親子」かも、





コアジサシ(カモメ科)・幼鳥、つばさの色合いが、ぼんやりしていて、頭の黒も、嘴のオレンジ色も、はっきりしない、それが、「子供」のしるし、

ヒバリシギ(シギ科)

コアジサシ(カモメ科)

キョウジョシギ(シギ科)

キョウジョシギ(シギ科)、シロチドリ(チドリ科)、前回に引き続き、「渡り」に「遅刻」した、かとも思えるシギ類も見かけたが、このキョウジョシギ(シギ科)は、毎年「冬鳥」の一番乗り、として、7月末にはもうやってきている、という種であるから、これは「遅い」のか「早すぎる」のかも、判断できないね、

コアジサシ(カモメ科)

シロチドリ(チドリ科)、ヒバリシギ(シギ科)



シロチドリ(チドリ科)、コアジサシ(カモメ科)・幼鳥

シロチドリ(チドリ科)

シロチドリ(チドリ科)、ヒバリシギ(シギ科)

コアジサシ(カモメ科)

















コアジサシ(カモメ科)・幼鳥、これら一連の写真は、長らく岩の間に隠れていた二羽の「子供」が、ああ、じっとしているのにもくたびれた、とばかりに、羽を伸ばしてみたりした後、立ち上がって、そこいらを歩き回り始め、そうして、ほら、こんなにくっきりと、全身をあらわにしてくれたところ、そろそろ日没が近くなってきたから、ねぐらへ移動する、という準備かもしれない、とも思う、

リュウキュウツバメ(ツバメ科)
これは、哺乳類のみならず、鳥類、爬虫類、両生類、魚類、はたまた、節足動物の昆虫あたりでも、ある程度言えることかもしれない、・・・、受精卵の「卵割」の過程で、生存のために必須の器官は、早々と、「優先的」に形成される、つまり、その部位では集中的に細胞分裂が生じ、細胞の大きさ自体は同じでも、数が増えるから、という仕組みで、大・き・く・な・る・、「必須の器官」の筆頭は、何といっても「頭」だろうから、「子供」は、必然的に、「頭でっかち」になるのだ、さらに成長の段階を経て、胴体、手足、など、「後回し」にされた部分も、やはり細胞分裂によって、大きくなってきて、そうして、「バランスのとれた」、「大人」らしい体型、に感じられる姿になっていく、だから、私たちは、「頭でっかち」の生き物が、まだ伸び切らない脚で、「おぼつかなく」歩いていたりするのを見ると、・・・、魚の場合、泳ぎ方が、そんなに拙劣、とも思えないが、身体が小さい分、やはり、動きはごく小さい、・・・、たちどころに、あ、「子供」だ!、とわかることになるのだ、そう、猫でも、ヒヨドリ(ヒヨドリ科)でも、ハマフエフキ(フエフキダイ科)・方言名「たまん」でも、ハラビロカマキリ(カマキリ科)であってさえも、・・・、おっと、昆虫の場合、蝶のような「完全変態」を行うグループでは、「子供」と「親」の姿が全然異なるから、これはにわかには当てはまらないね、・・・、で、そんな「子供」らしい姿を目の当たりにすると、ある「感情」が喚起される、いやいや、そんなことが起こるのは、「意識」や「想像力」のある「人間」だけでしょう?、などとは言わない方がいい、私たち「人間」に生じた事態は、遺伝子組成の、いくつだっけ、確か9割をはるかに越えるんだったと思う、を共有している他の「動物」にも、同じ、とまではいわないまでも、何か対応する、パラレルなものがすでに存在していたはずだ、と想像する方が理にかなっている、私たちが、「子供」の姿を見て、例えば、ほら、この、コアジサシ(カモメ科)の、雛、というよりは、もう、歩けるし、ひょっとしたら少しは飛べそうだ、の写真を見せれば、今、私には「友達」がいないので(笑)、残念だが、「うわーっ!可愛い、これ、ちょっと、やばいっすね?」なんて声が聞こえてきそうだ、・・・、数年前、よく飲みに連れて行って下さった元「教え子」の数学の先生、彼女もまた「鬱病」患者だった(笑)、に、うちで生まれた子猫たちの写真を見せると、「若者」らしい語彙の乏しさ(笑)で、そんな風に反応してくれたのを思い出す、今は、「音信不通」になってしまったけれど、・・・、だとすれば、同様に、少なくとも、コアジサシの成鳥たちもまた、それらを見て、「うわーっ!可愛い、これ、ちょっと、やばいっすね?」(笑)、とささやき合っているに違いない、と想像しても、そう的ははずれていない、と思う、・・・、これは生物学上、有名な話なのかもしれないが、日高敏隆氏やコンラート・ローレンツがそんな風なことを言っていたから、覚えているのかもしれないが、「子供はどうして『可愛い』か?」、という議論があって、そんな「可愛い」ものを目にすると、思わず、世話をしたくなる、守ってやりたくなる、「大人」の側にそんな感情が喚起されるからこそ、「子供」は、無事に生き延びることができるのだ、そうして、「子供」は、「可愛く」な・っ・た・のだ、子供が生き延びることができ、ひいては「種」が保存される、それが、「子供」が「可愛く」なった、動機、目的、だ、と言ってしまうと、そのような「動機」、「目的」をも・っ・た・主体として、何らかの「超越者」、「世界」の「設計者」を想定してしまわないといけなくなる感じがするから、それは「不穏当」で「非科学的」ということになるのだが、多分、現に生じた「確率論的」な過程を記述するのにふさわしいように、私たちの「言語」は出来ていないのだ、と、大目に見るほうがよかろうかと思う、少しだけ正確さに近づけて見るならば、・・・、1)「子供」に対して「可愛い」という感情を喚起されやすい「変異群」とそうでもない「変異群」が存在していた、2)長い長い時間がたち、何世代もが、生まれては死んでいった、3)その結果、ごくわずかではあるが、前者の「変異群」の方が、生存確率が高かったために、4)さらに長い時間と世代を経て、5)「子供」を「可愛い」と感じる個体群ばかりが、種の大半を占めるに至った、・・・、ここで当然生じる疑問は、しかし、果たしてそうか?、「私たち」は、「子供」を、「可愛い」と感じているだけではなかろう?、正直に告白すれば(笑)、私は、人間の「子供」が、「苦手」だ、その昔「いじめられた」記憶がまだ尾を引いているのかもしれない(笑)、特に、健康そうで、「元気いっぱい」、の子供を目の当たりにすると、本質的な「恐怖」を感じている、と言ってもいいくらいだ、私が塾の先生として、とびぬけて「人気がなかった」(笑)のも、そのような「恐怖心」、「逃げ腰」な姿勢が、炯眼な子供たちには、はやばやと見抜かれてしまっていたからかもしれない、・・・、英語には、「バルネラビリティーVulnerability」という言葉があって、どうも、「弱い」、「保護が必要」、というニュアンスと同時に、「攻撃誘発性を有する」、という用い方がされているような気がする、素人判断だけれど、・・・、「弱い」ものを目の当たりにしたときに、「守ってあげたい」、と感じるばかりではなかろう、その「弱さ」に乗じて、いじめてやろう、とか、よからぬ感情をもつことだって、ごく普通にありうる、・・・、捕食者は、防御力の弱い「子供」を選択的に狙うだろう、と言いだすと、待て、それは、「弱肉強食」を「資本主義的収奪」の正当化のために用いるような、比喩の濫用、元来、同一種内で生ずる事態を、種間関係に拡大解釈しているではないか、ということになるが、一方で、「同一種であること」、が、それほど決定的ではないかもしれない、という例を、いくつも挙げることもまた、できるのだ、狼や虎に育てられた人間について語る神話は、洋の東西を問わずあまねく存在しているようだし、小犬に授乳する母猫の写真を見たことがあるが、「見ず知らず」の紛れ込んできた子猫を、追い払いもせず授乳する母猫の姿は、うちのベランダでも何度も何度も目撃したことがあるから、そこから類推すると、「血のつながった」関係、などというものは、それこそ「人間」固有の「イデオロギー」であって、現実には、「血がつながっているか否か」を、「知る」こと自体が、原理的に、不可能なのだ、ということに思いいたせば、その「知り得なさ」を、種間関係にまで拡張するのも、そう荒唐無稽とも思えない、鳥類にあっては、「授乳」という関係を欠いているだけに、一層「母子」関係が希薄、という事情もあずかってだろう、「托卵」というような奇妙な習性が生じるのも、「異種」のものを、育てる、「可愛い」と「感じて」、慈しむ、こと自体には、それほど抵抗がないことの、例証かもしれない、とも思う、・・・、で、例によって論旨が乱れつつあるが(笑)、元に戻すと、そのような「両義性/アンビバレンツ」は、先程の「確率論的過程」の説明での例のように、そもそもの初めから、併存していたのだ、と考えるべきなんだろう、・・・、「子供」を「可愛い」と感じるのが「正常」で、「良い人」で、「いじめたい」などと感じるのは、「異常」な、「悪い奴」に違いない、という「二元論」は、自分が好ましいと思う片面だけに、「正常/良い」というラベルを貼っただけのことで、「良いものは良い」という「同義反復/トートロジー」に帰着することになろう、もとより「同義反復/トートロジー」は、少しも誤ってはいないのだから、言っても全然かまわない、ただ、言う「意味」がない、情報論的「価値」が「ゼロ」だ、というに過ぎない、・・・、ところで、私は(笑)、何で、こんな議論を、ほとんどむきになって、好んで吹っ掛けているのか?、という「診断」を付け加えなければ、この話を終わらせるわけにはいくまい、もちろん、私には、私なりの、「動機」、「理由」があるのであって、何が何でも、「母性」という概念を、少なくとも、「血のつながった」、二個体にのみ生ずる関係という意味でのそれを、否認しなければならないのである、それは、「母に愛されなかった子/『母に愛されなかった』と思っている子」たる、そして、生涯を通じて、自らの遺伝子組成を分け持つ別の個体をもつことがなかった、にもかかわらず、これまで「育てた」数十匹の犬猫に対し自分が抱いた感情に、「母性」に似たなにものか、という地位をちゃんと与えてやらなければ、「浮かばれない」と感じている私自身の、「存在」をかけた闘い(笑)なのだ、・・・、





黒とオレンジのまだら、それ、「警戒色」じゃないか?でも、「照葉樹林」の濃い緑に映えると、たちまち「亜熱帯」的なものを醸し出してしまうから、不思議だ。


ガジュマル(クワ科・イチジク属)、わが「農園」の(笑)、外壁の隙間のわずかの土に着床していたのを、「撤去せよ」と命ぜられ(笑)、切られた枝をプランターに「挿し木」、ちゃんと根付いてくれたようである

ハマイヌビワ(クワ科・イチジク属)、わが「農園」の(笑)、葉脈の中心線が少し曲がっているのが特徴、これは、前にも述べたが、クワズイモ(サトイモ科)、ゲットウ(ショウガ科)ともども、そこらへんに(笑)放置されていたプランターに、勝・手・に・にょきにょき生えてきたもの、ここは、コンクリート製の二階建て住居の二階なのだ、植物がその生存、いや、次世代の個体を、という意味だが、をかけて種子を撒布する、という「執念」のごときものを感じさせるエピソードだが、クワズイモとゲットウについては、どうやって運ばれてきたものか、とんと見当がつかない、このハマイヌビワ(クワ科・イチジク属)、に関しては、その種子が果実食の鳥たちの好物であることが知られているから、食べた鳥たちが、この狭いベランダの上空にやってきて、使われていない水道管が突出したのとか、「ソングポスト」になりそうな構造物は多々あるから、あるいは歌を歌いながら、糞を垂れ、その中にまぎれていた種子を、置いて行ってくれたものであろう、と、想像することも、一応は出来るのである、

ゴーヤー/ニガウリ(ウリ科)、わが「農園」の(笑)、当地の「ホームセンター」などではどこでも、「ゴーヤー」の種が販売されているのは知っているが、そんなことはしない「ポリシー」が一応はあって(笑)、これは、あくまで「食糧」として購入した「ゴーヤー」の果実、その種子を取り囲むワタの部分は、世間では「生ごみ」として廃棄するものであろうが、その都度、ここ、長年にわたって猫たちの糞尿等で、十分な窒素分を蓄えている「豊かな」土壌かもしれないプランターの上に、放置しておくのである、ほとんどかならず発芽してくれるが、なかなか巻きひげを出して何かに絡みついて高く高く伸び、それこそ「緑のカーテン」となってくれるほどまで育ってくれることはなかった、今回は、なかなか元気そうなので、また、期待して、こまめに水やりなど、閑人らしい世話を焼いているのだが、・・・、

ゲットウ(ショウガ科)、わが「農園」の(笑)

クワズイモ(サトイモ科)、わが「農園」の(笑)





ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

虹の「かけら」

夕焼け

ウスキシロチョウ(シロチョウ科)

ヒメジョオン(キク科)

オキナワチョウトンボ(トンボ科)

ショウジョウトンボ(トンボ科)

オキナワチョウトンボ(トンボ科)

ハラボソトンボ(トンボ科)

オキナワチョウトンボ(トンボ科)

ショウジョウトンボ(トンボ科)





オキナワチョウトンボ(トンボ科)

ハラボソトンボ(トンボ科)

オキナワチョウトンボ(トンボ科)

ショウジョウトンボ(トンボ科)

ショウジョウトンボ、ハラボソトンボ(トンボ科)

トウワタ(ガガイモ科)

センナリホオズキ(ナス科)

カバマダラ(マダラチョウ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)











カバマダラ(マダラチョウ科)、トウワタ(ガガイモ科)

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

ホオグロヤモリ(ヤモリ科)
・・・
1)トウワタ(ガガイモ科)という植物は、昆虫などからの食害を受けないた・め・に・、体内で「Asclepin」という毒物を産生す・る・ようになった、
2)ところが、この防御を「出・し・抜・く・」かのように、カバマダラ(マダラチョウ科)という昆虫は、この「Asclepin」という毒物に耐性を獲得、
3)以降、カバマダラ側には、この植物を「独占的」に食草とし得る、トウワタ側には、食害昆虫を一種に限ることができる、という「利益」が生じ、こうして「双利共生」関係が成立した、

「強心配糖体Cardiac glycoside」の一種、「Asclepin」
「意識」というものをもち、「環境」を自らの「目的」に従って改変しうるのは、高度に発達した「頭脳」を獲得した「人間」にのみ可能なのである、・・・、と自慢した舌先も乾かぬうちに(笑)、この様な「論」が公然と飛び出してくるのは、いや、くれぐれも誰かを「非難」している訳ではないからね、やはり、私たちの用いることになった「言語」というものに、本質的な「欠陥」、とまではいわないまでも、何か、表現するのがとても困難な、「不得意分野」があるらしい、ことを想像させるに足りる、と思える、・・・、1)「意識」をもたない植物が、いかにして、「毒」を産生しよう、と、2)同じく「意識」をもたない昆虫が、その「毒」を、回避する機構を自らの身体内に開発しよう、と、決・断・できたのか?自らの身体内で生じている、膨大な数の化学反応からなる機序を、「阻害」するからこそ「毒」と呼ばれたのであろう?ならば、1)自ら「産生」することができるようになった化学物質はもはや「毒」ではなく、同じく、2)すでにそれに「耐性」を獲得してしまった化学物質も、もはや「毒」と呼ぶべきではなかろう?やや冷静に(笑)、おそらく実際に生じたのであろう事態を、記述してみよう、と試みるならば、・・・、1)植物は、二酸化炭素と水という極めて単純な構造の化合物から、糖という非常に複雑な構造物を組み立てる、という「同化」という過程、「エントロピー減少」過程を、「熱力学第二法則」の示すところに従い、太陽エネルギーという「外部」からのエネルギー供給によって、成し遂げることができるようになった唯一の生き物であって、おそらくその膨大な諸化学反応群の機序の中で、さまざまな種類の、有機化合物/炭素化合物を生じさせることになった、あるとき何か、その「システム」の「過誤」により、予定外の化合物が生じてしまい、それが、他の反応機構を阻害することになった、おそらくそれが、「毒」発生の由来、というか、そのようにして発生したものを「毒」と呼ぶようになったのであろう、なぜなら、そのような「過誤」を生じた個体は、「正常」な「同化」が阻害されたために、いわば、ばたばたと斃れていったであろうから、・・・、おなじような「過誤」を生じた膨大な個体群、いや、「過誤」を生ずるのはもちろん稀有な例外的事態であったが、ものすごい数の個体数、ものすごい長い時間にわたる「世代交代」の間を通算すれば、膨大な個体数にもなるだろう、の中に、これまた、確率論的には、非常にまれな、例外的事態が生じ、その「毒」によるシステムの阻害を、回避しうるような仕組みを、うまく獲得できた変異群が、やはり生じたのであろう、これが、後・に・、「『毒』に対する『耐性』を獲得した」、と記述されるにいたる事態となるわけだ、そうして例えば、トウワタが絶滅せずに今日まで生き延びることを得たのは、その「『毒』に対する『耐性』を獲得した」変異群の方が、わずかであっても「生存確率」が高かったために、「優占的」な地位を占めることができたからだろう、2)緑色植物以外のあらゆる生き物、「動物」は、自ら有機栄養分を合成することができず、これをことごとく、「他者」の身体を、「食べる」という形で「取り入れる」ことで、獲得するほかはない、もっぱら自らの身体を組み立てていくタンパク質合成が、こうして、やはり「外部」=「他者」からのエネルギー供給によってのみ、可能であるという形で、やはり「熱力学第二法則」は、守られているのである、トウワタの「産生」した、いや、偶然にも「産生」してしまうこととなった、「Asclepin」なる物質が、やはり、今度は、その多くの「食害」昆虫にとっては、自らの身体内部の化学反応系にとって、「異物」、「阻害物」であったからこそ、これまた「毒」と呼ばれることになった、当のカバマダラを含め、当・初・トウワタを食した多くの昆虫も、また、ばたばたと斃れた、はずなのである、そして、冗長な記述であることは了解しているが(笑)、やはり同じく、「偶然」にも、きわめて低い確率の下で、そのような物質を体内に取り入れても、「大丈夫」であるような仕組みを作りあげることを得た個体群が生じた、やはり、それらの変異群が、長い長い世代交代を経て、「優占」化して、こうして、カバマダラもまた、生き延びることができた、・・・、こんな「頭わるそう」(笑)な文章を書く人物の言葉を信ずべき理由は何もないとも言えるが、しかし、例えば、「毒」という言葉を、「毒」という用語を用いずに(笑)、記述しようとすれば、これほどまでに「冗長」なものになってしまう、ということに鑑みれば、私たちの「言語」もまた、「進化」の「賜物」として現存しているのだ、とすれば、どこかで、「毒」などといういわば「怪しい」用語を導入することで、いかにも表現をすっきりさせることができる、という「経済性」との「取引」が行なわれたのだ、と想像しても悪くない気がする、私たちが、きわめてしばしば、公然と「神」の視点を、導入して恥じないのもまた、この様な事情だったかも知れない、ということは、さらに進んで、これは、あるいは、「神」そのものの「発生機序」であるかも知れない、と妄想することさえできるではないか?
さて、もちろん、ここで話を終わるわけにはいかない、筆者は、なにゆえに、この様なくだらないことを、「口角泡を飛ばして」(笑)、論じなければ止まなかったのか、という「自己言及的」な、「診断」がなければ、平たく言えば(笑)、自分を自分で「笑い」、「(笑)」、などと付け加えておかなければ、恥ずかしくて仕方がない、あるいはそれ自体「症状」なのだけれど(笑)、からであろう、・・・、これも何度も同じ話をすることになるが、例えば「無理数」という用語は、「否定文」でしか定義できない、すなわち、「いかなる二つの整数を選んでも、決してそれらの比としては表現できな・い・実数」、つまり、先・に・「その比として表示しうる二つの整数の組が存・在・す・る・ような実数」、という「有理数」の定義が、所与のものとして存在していて、それを「否定」することによってしか、その「欠如」の態様としてしか、自らの存在を表現できない事物、というものが、この世には存在するのだ、・・・、みなさんは、「『病気』の定義?そんなもん、『健康』でないことが『病気』に決まってんだろ?」とおっしゃるかもしれませんね、でも、現代医学はその反対のことを示しているそうですよ、例えば、腎臓という器官の果たしている機能を、ことごとく列挙することが、最先端の知見をもってしても不可能である、といわれている、つまり、腎臓が何をしてくれているのか、私たちには、わかっていない、ことになる、したがって、完全にまっとうに機能している腎臓、なるものを想定することもまた、できない訳であります、・・・、この二十年間、飼い猫に薬を飲ませようとして、機嫌を損ね(笑)、思いっきり手のひらを噛まれて血が止まらなくなった時、幸いにもうちから歩いて行ける公立病院に、文字通り「駆け込んだ」のが一度と、ああ、そうだ、「精神病院」にだけは、二年間ほど、通っていたな、以外には、医療機関を訪れることがなく、国民健康保険証さえ、保険料支払いを怠ったために(笑)、持っていないから、「検査」などというものを受けたことはありませんが、みなさんがたとえば腎臓に関してさまざまな「検査」を受け、「大丈夫、『健康』です」と「太鼓判」を押されるのは、たくさん、ではあっても、決して「無限」ではない(笑)、限られた数の「検査」項目の結果から、これまで、「病変」の兆候である、と知られているような異常値が、一つも見出されていな・い・、という場面に限られている訳です、おわかりですね、「肯定文」で定義されうるのは「病気」の方であって、それを所与のものとしたうえで、その「欠如」として、「否定文」でしか定義され得ないのが、「健康」の方だったことがわかったのであります、・・・、こうして、「心を病んでいる」という診断を、もちろん「肯定文」によるという意味で、「ポジティヴ」な(笑)診断を受けた私は、この様な議論の転倒に、快哉を叫び、留飲を下げている、という訳なのでした(笑)、・・・、だからこそ、「毒」などと憎々しげに表示される言葉にも、「同情」の心が湧いてしまうのです、・・・、
C.N.アディーチェ「アメリカーナ」、にはこんな挿話があります、・・・、ウジュおばさん、は、成績優秀な医学生で、将来を嘱望されていたが、政情不安なナイジェリアでは、それしか方法がなかったとも言える、軍事独裁政権の要人の「愛人」となることで、「コネ」の力を借りて、医療機関に職を得ることができた、やがてクーデターで政権が倒れ、旧政権関係者への迫害を恐れて、彼女は息子を連れて米国へ渡る、・・・、後にその息子、ダイク、が、薬物による自殺を図ったとき、イフェメルは、その仲のよいおばさんを、こう、詰るのだ、「おばさんは、ダイクに、彼が『何者ではな・い・』かは教えたかもしれないけれど、『何者である』かは、決して伝えなかったのよ!」、・・・、「アイデンティティー」というものは、たとえその「内容」が「ネガティヴ」とされ得るものであったときでさえ、・・・、例えば、この場合なら、合衆国の学校の中で、「黒人」の「アフリカ移民」であること、・・・、「ポジティヴ」に「定義」されなければならないのだ、と、私は、やはり、そう「読み込んで」しまったものですが、もちろん、それが「正しい」読み方であったかどうかは、わからない、・・・、
・・・
トンボ目Odonata

  • 均翅亜目(イトトンボ亜目)Zygoptera

    • イトトンボ科Agrionidae・・・アオモンイトトンボ
    • モノサシトンボ科Platycnemididae
    • カワトンボ科Calopterygidae・・・リュウキュウハグロトンボ

  • 均翅不均翅亜目(ムカシトンボ亜目)Anisozygoptera

    • ムカシトンボ科Epiophlebiidae

  • 不均翅亜目(トンボ亜目)Anisoptera

    • ヤンマ科Aeshnidae・・・ギンヤンマ
    • オニヤンマ科Cordulegastridae
    • サナエトンボ科Gomphidae
    • トンボ科Libellulidae

      • コシブトトンボ属Acisoma
      • アオビタイトンボ属Brachydiplax
      • ショウジョウトンボ属Crocothemis・・・ショウジョウトンボ
      • コフキトンボ属Deielia
      • ヒメトンボ属Diplacodes・・・ヒメトンボ
      • ヨツボシトンボ属Libellula
      • ハラビロトンボ属Lyriothemis
      • ハッチョウトンボ属Nnnophya
      • シオカラトンボ属Orthetrum・・・ハラボソトンボタイワンシオカラトンボオオシオカラトンボ
      • ウスバキトンボ属Pantala
      • チョウトンボ属Rhyothemis・・・オキナワチョウトンボ
      • アカネ属Sympetrum
      • ハネビロトンボ属Tramea・・・ハネビロトンボ
      • ベニトンボ属Trithemis


「世界」には「知り得ないことがある」ことを知る、それを「知性」と呼ぶんだぜ。20160914 #高江 の森さんぽ
・・・リュウキュウハグロトンボ(カワトンボ科)、が写っている、オオシオカラトンボ(トンボ科)も
・・・
「夕焼け小焼けの赤とんぼ」の「赤とんぼ」は、ナツアカネ、アキアカネ、等、トンボ科アカネ属のものに比定されている、それは「昆虫少年」だった子供の頃から知っていたし、その二種の区別のポイントなんかも、図鑑の上での「ブッキッシュ」な知識とはいえ、わきまえていたかも知れない、・・・、当地南西諸島には、これら二種とも、分布していないのである、だから、ここでは、「赤とんぼ」といえば、このショウジョウトンボ属のショウジョウトンボを指すことになる、かつては見慣れていたはずの、今では思いだすこともできない、「アカネ属」のことを思うと(笑)、例によって、少し、胸が痛む(笑)、・・・、



床板の上に、べったりと横になると、多少は涼しいんだろう、それはわかるよ、それにしても「無防備」過ぎやせんかね?それも「信頼」と「友好」の証、ということで?

歳をとったせいか、時間の流れが、またまた、ますます早くなったみたいで、ここに写っているやせっぽちの茶とら、まだまだ子猫だと思っていたら、もう、二歳以上にはなっているようなのね、おかあさんが、それこそ「公園デヴュー」みたいに、うちのベランダに連れて来てくれた、多分、一匹ずつ首根っこをくわえて、階段を登って、・・・、台風を生き延びれた二匹を、うちに迎え入れ、もう一匹の女の子は、昨年の冬に亡くなってしまった、よく似たデザインで、女の子の方は、「ほとんど真っ白茶とら」、こいつ、これは男の子、は「ほとんど茶色の茶とら」、と「区別」していたものだ、ちなみに、おかあさんは、「ほとんど真っ白三毛」、今も時々ベランダに遊びに来て下さる、・・・、もう二年も経っている、と改めて驚くのは、この子は、うちに来てからほとんど一度も、「よいうんち」だったためしがないのだ、ビオフェルミンの錠剤をスプーンの背で砕いてウェット・フードに混ぜて投与、というずっと昔に動物病院で教えてもらった方法を、ずっと実践しているのだが、だから、「薬剤費」も多少はかかった(笑)、一向に治ってくれない、おなかの調子がひどく悪けば当然そうなるだろう、食欲が落ちることもたびたびで、そのたびにはらはらさせられる、うちで施せる唯一の「治療」ともいうべき、皮下点滴も「小心者」だから(笑)小刻みに暴れるので、できそうにない、・・・、もう何年も、かつては「なじみ客」だった動物病院にも、すっかり貧乏になってしまってからは、ご無沙汰していたのだが、思い余って、連れて行くことにした、・・・、血液検査をしてもらって、特に内臓に顕著な異状はなさそう、との診断を聞いて、ちょっとほっとし、ちょっとほっとするだけでも、お医者様に見ていただいてよかった、と改めて思った、こちらの懐事情をちゃんとわきまえてくださっている先生だから、それでも痛手ではあったが、最小限の費用で済ませていただけたよう、・・・、おなかの調子が悪い原因は寄生虫かも、ということで、駆虫薬を飲ませてもらい、ともかく、少しは安心してうちに帰ると、驚いたことに、翌日から、それほど完璧(笑)、という訳ではないけれど、見る見る「よいうんこ」になっていくではないか?とは言いうものの、その後も、一進一退、という状態だが、まずまず、細々と食欲もあり、細々と生きてくれている、・・・、今では、猫たちが細々と生きていてくれている、こと以外に、私には何にも(笑)「楽しい」ことがないのだが、その「それ以外に『楽しい』ことがない」状態も恒常化してしまうと、「楽しい」と感じることも、「楽しい」と感じられることを味わうことも、おろそかになってしまっているのに気付いて(笑)、「反省」するのだ!




The God of Small Things/Arundhati Roy(Flamingo)
・・・
Other than the fact that it was (at the time) the name of the world's biggest diamond, Reverand E. John Ipe knew of no other Koh-i-noor. He wondered how a girl with a Muslim name had ended up in a Catholic Convent.(7)
(当時では)世界最大のダイヤモンドの名前、「コーヒ・ヌール」と聞いても、E.ジョン・イペ師は、それしか思いつかなかった。なんでムスリム風の名前を持つ少女が、カトリックの修道院に住み着くことになったのか、彼にはとんとわからなかった。(7)
The God of Small Things/Arundhati Roy(Flamingo)/「小さなものたちの神」アルンドゥハティ・ロイ
(7)「コーヒ・ヌールKoh-i-noor」、インドで産出されたと伝えられる、というのは、19世紀以前は、インド亜大陸が世界で唯一のダイヤモンド産出地だったからだというが、世界最大のダイヤモンド、ムガール帝国、イラン、アフガニスタンの諸王朝をへて、インドの植民地化に伴い、ヴィクトリア女王の手に帰した、現在も、イギリス政府は、インドの返還要求を拒否しているとのこと、・・・、これは、その、アイルランド人カトリック神父に「一目惚れ」してしまったベイビー・コチャマが、シリア系キリスト教、マール・トマ教会の聖職者の娘であるにもかかわらず、家出してマドラスのカトリックの修道院に入るものの、年長の修道女たちにその「恋」は妨害され、「ホームシック」から、父に助けを求める手紙を書いた場面、・・・、手紙は間違いなく「検閲」を受けることを考慮して、「かわいそうな『コーヒ・ヌール』ちゃんは、ご飯もろくろく食べられません」、などと縷々書き送ったのである、・・・、「コーヒ・ヌールKoh-i-noor」は、ペルシャ語の「光の山」を意味する言葉に由来する命名と言われ、それが、「ムスリム風の名前」という判断になったのだと思われる、
The flower she loved the most was the anthurium. Anthurium andraeanum. She had a collection of them, the 'Rubrum', the 'Honeymoon' and a host of Japanese varieties. Their single succulent spathes ranged from shades of mottled black to blood red and glistening orange. ...(8)
彼女が一番好んだ花は、アンスリウム(ベニウチワ)だ。とりわけ、オオベニウチワ。いくつものコレクションを持っていた、「ルブラム」とか「ハネムーン」とか、日本でつくられた一連の変種群とか。そのたった一枚の、多肉質の「仏炎苞」の色合いは、黒い斑点におおわれたものから、血のような赤、輝くようなオレンジ色、とさまざまだった。・・・(8)
The God of Small Things/Arundhati Roy(Flamingo)/「小さなものたちの神」アルンドゥハティ・ロイ
(8)アンスリウムanthurium(サトイモ科Araceaeアンスリウム属Anthurium)、「spath」という単語の意味は、はっきりとはつかめなかったのだが、同じくサトイモ科の観葉植物の属名にも似た綴りが見られるし、この種の植物に特有の構造、つぼみを包む一枚の葉の変形したもの、その形から「仏炎苞」と呼ばれる、ものを指しているのだ、と想像できる、アンスリウムの仲間が、観葉植物として好まれるのは、もっぱら、この「仏炎苞」が、ここに描かれているように、とんでもなく、それこそ「熱帯的」な、ちなみにこの植物群の原産地は熱帯アメリカ、鮮やかな色合いを示すことにあるようである、・・・、なるほど、「内地」からの客人を、やんばるの山などにご案内した際、そこらへんいたるところに繁殖している、クワズイモ(サトイモ科Araceaeクワズイモ属 Alocasia)を目にして、「えー、これ東京じゃ、観葉植物としていい値段で売られてるよ!」などと言う声があがったのは、クワズイモ自体が、販売されているのかどうかはいざ知らず、そのハート形の多肉質の葉とか、「温帯」の、「第一世界」の(笑)、住民には、好まれる要素があるのだろう、そういえば、津村記久子「ポトスライムの船」、の表題にもなっているポトス、は、オウゴンカズラ(サトイモ科Araceaeハブカズラ属Epipremnum)、こちらは東南アジア原産、であった、・・・、うちのベランダのプランターに、どこからとも知らずやってきて着床して、ちゃんと繁殖してくれているクワズイモも、何度か、その「仏炎苞」を、見せてくれたが、真っ赤に色づくはずのそのつぼみは、いつの間にか萎れてしまっている、ということを繰りかえしている、・・・、これは、そうやってカトリック修道院から、逃げ出して家に戻ったベイビー・コチャマだが、ケララ州のシリア系キリスト教のコミュニティーという閉鎖社会での、「改宗」だとか、家出だとかにまつわる「スキャンダル」を冷ますべく、父、イペ師は、娘を、アメリカの大学に入学させるのだ、どうせ「婚期」を逃したのだから、「教育」をつけても、もはや、妨げにはなるまい、ということで、・・・、彼女が学んできたのが、園芸学、だったわけだ、

クワズイモ(サトイモ科)、「仏炎苞」、と葉
Recently, after enduring more than half a century of relentless, pernickety attention, the ornamental garden had been abandoned. Left to its own devices, it had grown knotted and wild, like a circus whose animals had forgotten their tricks. The weed that people call communist patcha (because it flourished in Kerala like communism) smothered the more exotic plants.(9)
最近では、過去半世紀以上にわたる、執拗で小心翼々たる丁寧な手入れにもかかわらず、その園芸庭園は、打ち捨てられた。伸びるがままに任されたのである、植物は荒々しく絡み合って成長した、まるで、芸を忘れてしまったサーカス団の動物たちみたいだった。地元の人たちが「共産党草」と呼ぶ雑草(というのは、ここケララ州では、どこでも、まるで共産党みたいに勢いよく繁茂しているからだが)、が、どんどん生えてきて、もっとエキゾチックな植物たちを、窒息させてしまっている有様なのだ。(9)
The God of Small Things/Arundhati Roy(Flamingo)/「小さなものたちの神」アルンドゥハティ・ロイ
(9)relentless:情け容赦のない
pernickety:小心翼々とした
smother:窒息させる
「patcha」は、突き止められなかった、あるいはマラヤーラム語の語彙なのかも、・・・、のちに、多分に「不釣り合いなほど」詳細に、ケララ州の、のみならず、インド全体の、「共産党」の歴史について語られることになるのだが、もちろん、それは、物語の展開にとっても、おそらく、「鍵」の、少なくとも一つではあるからだが、いわばその伏線みたいに、冗談めかしてこんなことが書かれている、・・・、前回も述べたが、このインド最南端の州は、長らく共産党、「インド共産党(マルクス主義派)/CPI(M)」が、州政府の政権を掌握してきた、という点でも、また、シリア系を始めとするキリスト教人口の比率が非常に高く、ムスリムを合わせると、ヒンドゥー教を圧倒する形であることで、その特異性を発揮しているようなのである、ケララにキリスト教が広がった由来については、筆者は、「まるでティーバッグの紅茶が、お湯の中にしみ出すみたいに」と形容していたと思う、また引用するかもしれないが、・・・、ケララ州はまた、「モリウッドMollywood」、マラヤーラム語で制作されるからそう呼ばれるのだろう、で知られる「映画の都」でもある、四方田犬彦の「映画史への招待」(岩波書店)も、「モリウッド」の巨匠、アドゥール・ゴーパーラクリシュナンAdoor Gopalakrishnan(1941-)、から説き起こされていたはずだ、また、読み返してみよう、・・・、

以下のアル・ジャジーラ記事は、そのモリウッド・フィルムの一つ「ウィルス」についてのもの、コロナウィルス蔓延を予言するかのように、2018年にケララ州で発生した「ニパ・ウィルス」について、連邦政府のBJP政権が、ムスリムが持ち込んだ、なる陰謀めいた風聞を流す一方で、同州の共産党政権が、医療関係者、地方政府職員、住民、一体となった迅速な対応を指導して、被害を最小限に食い止め得た、という、目覚ましい事跡を描いているもののようだ、
黙示録時代において、何をなさざるべきか、の語りと、いや、それを避けるために、何をなすべきか、の語り・・・「ウィルス」、モリウッド・フィルムから、コロナウィルスにどう対処するか、の一つの教訓/アナ・MM・ヴェティカド2020年5月2日アル・ジャジーラ
・・・
After it was all over, Baby Kochamma said, 'As ye sow, so shall ye reap.' As though she had had nothing to do with the Sowing and the Reaping. ...(10)
すべてが終ってしまったあとになって、ベイビー・コチャマは、こう言ったのだ、「自分で蒔いた種は、自分で刈り取るものよ。」まるで、「彼女」自身は、「蒔いた」ことにも、また、「刈り取る」ことにも、一切無関係であるかのように。(10)
The God of Small Things/Arundhati Roy(Flamingo)/「小さなものたちの神」アルンドゥハティ・ロイ
(10)sow:原因を作る、種をまく、reap:刈り入れる、収穫する
6:7 Be not deceived; God is not mocked: for whatsoever a man soweth, that shall he also reap.
Bible/Epistle to the Galatians(King James)
6:7まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる
「口語 新約聖書/ガラテヤ人への手紙」日本聖書協会
「すべてが終って」とは、何が終ったのか、この小説の核心点だから、あらすじをバラすようなことは控えよう、・・・、「蒔く」ことにも、「刈り取る」ことにも、誰一人として「無関係」には存在できない、誰もが「有責」であらざるを得ない、それが、「大いなる神」のつかさどる場所ではない場所、「小さなものたちの神」の住む場所、言ってしまえば、「第一/第二世界」ならざる「第三世界」のありようなのだ、と、「曲解」かも知れないが、そう「理解」することにしている、
・・・
一九九五年十一月、わたしは南インドの最先端にあるトリヴァンドラムから車で四時間山地を登ったところにあるアドゥール村にいた。・・・
われわれの一行は、アドゥール・ゴーパーラクリシュナンが最新作を撮りあげたというので、その試写に立ち会うために、数日前に東京からトリヴァンドラムへ駆け付けたのだった。・・・
・・・ゴーパーラクリシュナンは、先に物故したアラヴィンダンとともに、一九七〇年代から現在に至るまで、南インドのマラヤーラム語による映画を支え続けてきた監督である。インドの監督としては恐るべく寡作で、二十年間にわずか六本の劇映画作品しか発表されていないが、いずれもが社会的矛盾に満ちたケララ州で生き死にする人たちの苦悶を描いた、きわめて作家主義的な傾向の強いものである。共産党の大立者でありながら、政治闘争で手酷い裏切りを受けて下獄し、長い歳月ののちに故郷に戻るとそのまま酒ばかり呑んで絶望を紛らわせて死んでしまう元革命家の物語や、村の大地主の前に奴隷のように諂い、妻を主人に犯されても抵抗一つできない男が、あるとき思い切って主人を殺してしまい、精神の自由を獲得するという物語を、きわめて禁欲的なスタイルで描いている。本人は苦笑するのだが、サタジット・レイの後継者であると海外の新聞に書かれたこともあり、商業主義との妥協を拒んで作家としての良心を貫くとみずから主張する姿勢は、国際映画祭でも高く評価されている。その意味で一九七〇年代以降、急速に発展してきたマラヤーラム映画の中心人物であるといってもよい。
・・・日本にはまったくといっていいほど紹介されていないのだが、トリヴァンドラムは九〇年代には年平均で九〇本ほどのマラヤーラム語フィルムを制作し、その大部分はケララ州の内側で消費されている(若干のプリントがアフリカ東海岸に渡るらしい)。この数は、日本の劇映画が、一九九五年の時点で二八九本であることを考えて見るならば、人口比から見て決して少ない数のものではない。というより、かくも狭い地域であるにもかかわらず、映画制作が異常なまでの高まりをみせているといってよい。ちなみにインド全体は、九〇年代にはコンスタントに年間八百から九百本台のフィルムを生産し、これは全世界が平均して年間に制作する四千五百本ほどのうちの、およそ五分の一に匹敵している。マラヤーラム語映画はそのうちで、ヒンディー語タミール語テルグ語に次いで第四位の生産本数を誇り、レイで有名となったカルカッタベンガル語映画を軽々と凌駕している。
・・・
ボリウッドの見学ののち、わたしはボンベイのヴィデオショップに入り、何十本ものヴィデオを買い求めた。店頭に並べられていたのはヒンディー語とわずかのマラティー語のテープである。・・・
店員は若くて愛想がよかったが、ゴーパーラクリシュナンの名前も、レイの名前も知らないといった。彼らはまず言語が違っていた。だがそれを別にしても、同じインド映画でありながら、まったく別の映画を撮っていたのだった。・・・
「映画史への招待」四方田犬彦(岩波書店)
・・・
「アドゥール村」、は、Adoor、ケララ州の州都トリヴァンドラムThiruvananthapuram、の北北西70キロあたりに位置する、ゴーパーラクリシュナン氏は、この生まれ故郷の地名を、のちに、ファーストネームに用いるようになったらしい、
「アラヴィンダン」、Govindan Aravindan(1935-1991)
Mollywood movie/Malayalam cinema
「サタジット・レイ」、Satyajit Ray(1921-1992)
ちなみに、ケララ州の人口は約3千5百万、

インドの言語、「マラティー語Marathi」は、「ヒンディー語Hindi」と同じインド―ヨーロッパ語族Indo-Europeanインド―イラン語派Indo-Iranianの言語で、ムンバイMumbai、・・・、四方田氏は、「ボンベイBombay」と書いているが、名称の変更が行われたのは、1995年のことのようだから、当然とは言える、・・・、を州都とするマハラシュートラ州Maharashtraの主要言語、・・・、「ベンガル語Bengali」もインド―ヨーロッパ語族Indo-Europeanインド―イラン語派Indo-Iranian、これを国語とするバングラデシュに隣接する、西ベンガル州West Bengal、等で、主要言語となっている、・・・、Tripuraテルグ語Telugu、は、タミル語Tamil、マラヤーラム語Malayalam、とともに、ドラヴィダ語族Dravidanに属する言語、タミル・ナドゥ州Tamil Naduの北方、アーンドラ・プラデシ州、さらにその北の、テランガナ州Telangana、の主要言語、・・・、言語学上の「語族」の概念が、どれほど「普遍性」をもつのかにも、議論があるだろうが、こうしてみると、ヒンディー語とマラヤーラム語の間の「距離」は、たとえば、上海語と広東語との違い、ロシア語とウクライナ語との違い、とは、少なくとも桁外れのものであろうことだけは、想像できよう、まさに、「まったく別の映画を撮っていたのだった」と言ってもおかしくはなかったのだ、・・・、

インドの州ごとの主要言語

インド、州区分
・・・
マラヤーラム映画の「若干のプリントがアフリカ東海岸に渡る」というのは、その地にマラヤーラム語話者のコミュニティーが存在することを示唆するのだろう、・・・、思い起こされるのは、ザンジバル出身の、英国籍の作家、アブドルラザク・グルナAbdulrazak Gurnahの「死後の世界Afterlives」、自伝的作品といわれるが、インドのグジャラ州出身のムスリムたちが、同じくアフリカ東海岸、タンザニアに、古くから住み着いているさまが描かれている、作家自身も、その末裔であることもうかがわれる、・・・、インド洋を距てた文物、のみならず人の移動は、古来から盛んであったようで、マダガスカル、マスカリン諸島の「先住民」を形成する、オーストロネシア語族Austronesian Languages、の故地は、東南アジア、南太平洋、であるが、のちの時代に、インド亜大陸から渡って来た人々がすでに人口の上では、これを凌駕している様子も、たとえば、モーリシャスの作家、リンゼイ・コルンLindsey Collen「レイプ・オブ・シータThe Rape of Sita」の登場人物の多くが、作家自身は、少数派のヨーロッパ系だが、インド系とおぼしき名前をもっていることからもうかがわれた、・・・、

オーストロネシア語族、分布図
そんな「浅はかな」ことを思いついた人間は(笑)、「世界」が相手となれば、相当数いたようで、・・・、「ノーベル文学賞」アブドルラザク・グルナと言う作家を、さわりだけでも、読んでみる
Afterlives(2020)/Abdulrazak Gurnah・・・「死後の世界」アブドルラザク・グルナ(2020)
「プロスペロ・コンプレックス」から、マダガスカル、モーリシャス、「リンゼイ・コルン」という作家の名前の、おぼろげな記憶へ
テン、へつら(う)、へつら(い)





コアジサシ(カモメ科)・幼鳥

ナガサキアゲハ(アゲハチョウ科)・メス、サンタンカ(サンタンカ科)

リュウキュウツバメ(ツバメ科)

シロチドリ(チドリ科)、ヒバリシギ(シギ科)

コアジサシ(カモメ科)

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)





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Last updated  2022.08.03 16:17:15



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