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ねこログ

ねこログ

2022.07.29
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カテゴリ:カテゴリ未分類

ツマベニチョウ(シロチョウ科)、ブッソウゲ(アオイ科)

タイワンシオカラトンボ(トンボ科)

リュウキュウツバメ(ツバメ科)

メジロ(メジロ科)、ガジュマル(クワ科)

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)


「ねこログ」、総目次(笑)/「スクラップ・ブック」、の、目次。
目次:それは、「航海者の花」、いくつもの異なる起源のものが、多分、はるばるここにたどりついた、それを、「悲しい」歴史、と呼ぶべきなのかどうかは、今は問わない/ブラジルの「スクウォッター運動」の記事とともに、サンパウロの街を歩く/「モウイー」と「ゴーヤー」、それから「優しいマンゴー」とは?・・・合わせて、アルンドゥハティ・ロイ「小さなものたちの神」精読、は、さらに続く/「自分」にとって、「意味」がある、訳でもなく、はたまた、ましてや「世界」にとって「意味」がある、とも思えないのに、ただ「ここ」にいなければならない、と急き立てられる感じ。/そりゃ「周期運動」しているものが相手なのだから、「終わり」があるわけないだろう?ネバー・エンディング「月見」の話/




それは、「航海者の花」、いくつもの異なる起源のものが、多分、はるばるここにたどりついた、それを、「悲しい」歴史、と呼ぶべきなのかどうかは、今は問わない。




ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

クマゼミ(セミ科)、酷暑の昼下がり、樹上を見上げれば、当然、太陽光で目がくらむ、老眼でもあるし、一匹だけセミの姿を確認できた場所へ向けて、ほとんど「手探り」で、シャッターを押しているのだが、あとで見ると、こんな風に、まわりにも、たくさんの同類がいたりするのだ、

インドヨメナ(キク科)

ベニバナボロギク(キク科)、もっぱら「冬場」の花だと思っていた、今年は一度も見ることがなかった、と諦めていたのだが、確か、アフリカ原産で、土地が焼かれたりして、近辺に植物がなくなってしまったところに、真っ先に生えてくるもの、として知られている、とのことだったと思う、ここも、そんな感じ、道路拡張のためとかで、切り開かれたばかりの場所、



カバマダラ(マダラチョウ科)、これは夕刻、この蝶は、こんな風にして、食草でもなければ、蜜の出る花のある植物でもない、イネ科植物のようなものの先端にとまって、これから「眠り」に入るようなのだ、



メジロ(メジロ科)



クマゼミ(セミ科)



リュウキュウツバメ(ツバメ科)

クロマダラソテツシジミ(シジミチョウ科)

アオスジアゲハ(アゲハチョウ科)



クロマダラソテツシジミ(シジミチョウ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)





タイワンシオカラトンボ(トンボ科)、普通のシオカラトンボは、オスが空色で、メスは「麦わらトンボ」の別名があるように、こんな風に茶色っぽい、このタイワンシオカラトンボも、同様に、「雌雄異体」なのかどうかは、調べがつかなかった、羽の付け根がオレンジ色にくすんでいるのが特徴のようだから、そう断定することにした、



ヒヨドリ(ヒヨドリ科)、明け方に昇る月を見ようとして、結局見れなかった日のことだと思う、階段を上がっていくと、給水タンクの天辺で、さかんに「トワイライト・ソング」を歌っているのがいた、歌に「没頭」していたから、こちらが近づくのに気付くのが遅れたんだろう?おかげで、こんな近くから撮れたのだ、







メジロ(メジロ科)、ガジュマル(クワ科)、下から二番目のでは、ガジュマル(クワ科・イチジク属)の実をくわえているぞ、

シロオビアゲハ(アゲハチョウ科)、ブッソウゲ(アオイ科)、当地でもっともしばしば見られる、つまり、「平凡」なアゲハチョウ科の蝶がこれなのだが、羽のデザインには、個体差もあるようだが、胴体にも白い斑点があるのが特徴のよう、



クロアゲハ(アゲハチョウ科)、ブッソウゲ(アオイ科)、後翅の先端に「尾状突起」なるものがあるのが、アゲハチョウ科には多いのだが、それが「ない」のが、このクロアゲハの特徴のようなので、そう断定することにした、ハイビスカス、の蜜腺は、なかなか奥深くに隠されているようで、長い口吻を備えた大型の蝶でなければ、届かないといわれる、そうやって、訪花し、授粉を媒介してくれる「顧客」を選んでいるという説明なのだが、確かに、傍から見ていても、「大型の蝶」である彼らにしてもなお、なかなか手間取っているらしいことがわかる、



ツマベニチョウ(シロチョウ科)、ブッソウゲ(アオイ科)、「沖縄に来てます!」の絵葉書みたい(笑)、確かに白とオレンジの色彩も鮮やか、「フォトジェニック」な蝶だが、シロチョウ科に通有する「性格」と思われるが、めったにじっとしていてくれない、だから、花蜜に「耽溺」しているときのみが撮影チャンス、もう二三時間もねばったら、もっと「いい」のが撮れたかもしれないのだが、またの機会もあろう(笑)、これで満足することにした、

シロオビアゲハ(アゲハチョウ科)、ブッソウゲ(アオイ科)
・・・
熱帯の花といえば、ハイビスカスが写真やテレビにいちばんよく登場する。日本のフヨウやムクゲは同じ属であるが、落葉性の温帯の木である。ハイビスカスは、日本では温室で栽培する常緑の灌木である。ハイビスカスの原種はたくさんあって、それらがハワイで交配されていまのハイビスカスの多様な美しい品種ができたのである。その原種はインド洋上の小島、南太平洋の島などにある。ソコトラ島ザンジバル島セーシェル諸島マスカリン諸島マダガスカル島モーリシャス島ロドリゲス島など、航海者でなければわからないようなインド洋の小島にそれぞれ別種があって、それらが交配親になった。ほかに南太平洋のフィジー島やハワイ群島の野生種も参加している。これらが一か所のハワイに集められた経緯は明らかではないが、大航海時代からの船乗りたちの仕事であろう。ハイビスカスは航海者の花である。
「花と木の文化史」中尾佐助(岩波新書)
当地では、「あかばなー」と呼ぶ、もちろん「赤、花」だ、「うちなー口」は、語尾の母音をのばす傾向があって、たとえば、ツルレイシ(ウリ科ツルレイシ属)、別名ニガウリは、「ゴーヤー」だ、決して「ゴーヤ」ではない(笑)、「内地」の大学に進学した元・教え子、極端な「不人気講師」だったから(笑)、卒業後も連絡をくれたりするのは、ごくまれな奇特な人なんだが、その地のスーパー・マーケットなんかで、近頃は「ゴーヤー」も普通に販売されているそうだが、それに「ゴーヤ」なる商標が付されていたりすると、「ちょっと、イラっとしますね」、と憤懣やるかたない風に語っていたのを思い出す、・・・、「赤い花」だから「あかばなー」とは、なんと、いわゆる「そのまんま」、深みのない命名であろう?、と私も、当初は思っていたに違いない、もちろん、自分たちの「繊細」な文化なるものの優越性を、頭から疑うことを知らない「植民地主義者」の心性であることは言を俟たない、・・・、「慣れ」というものが解決してくれることもあって、今では、そんな名付け方が、「わかりやすくていいじゃないか?」とか思っている、・・・、木質が固いので、三味線(三線)の棹、などにも用いられるんだというリュウキュウコクタン(カキノキ科)という木は、遠目にもわかるくらい樹皮が黒々としていて、だから、「くろきー」、あと、和名を忘れてしまったが、茶色い木だから、「ちゃーぎー」というのもあったな、・・・、その「あかばなー」は、ハイビスカスとは違うんだ、と主張する人は、たくさんいたと思う、「あかばなー」は、こんなんじゃなかった、赤瓦の民家の垣根に植えられていたりするのは、もっと小ぶりで、こんなけばけばしい花じゃなかった、と、・・・、上の中尾佐助の記述を敷衍すれば、南洋の島の一つであるこの島にも、「原種」に近いものが、存在していた可能性は大いにある、もちろん、今、こんなにどこにでも、植栽されていたり、なかば「野生化」したりしているのは、大部分が、「占領時代」に、アメリカ人が持ち込んだものに違いない、・・・、この島がたどってきた歴史に徴すれば、「よからぬものはことごとく『外』から持ち込まれたのだ」とする、ある種の「ゼノフォビア」が、存在するのも、無理からぬことと思う、・・・、上に列挙された数々の「南」の島々、この花を通じて、その砂浜や、隆起珊瑚礁由来の岩肌などを、思い浮かべることができる気がする、・・・、「島」の歴史は、どこでも「奪われた」歴史、だから、「悲しい」花、と呼んでもよいのだが、それは、「他者」に対して「同情」を注ぐことの出来る「特権的」な立場の物言いであるような気もするので(笑)、「当事者」の一人のつもりでいる者としては、そんないい方は、しないことにする。
・・・
ちなみに、「沖縄の方言辞典」風のウェッブサイトで調べてみると、「チャーギ」、おや?これは、語尾をのばさないみたい、は、マキ科イヌマキ、雌雄異株の常緑針葉高木、「沖縄県緑化種苗協同組合」樹木検索、のページで写真を見てみると、確かに、そこらへんで見かけたことがあるな、という程度の記憶しか蘇らなかったけれど、・・・、


「航海者でなければわからないような」ということを強調するためなのであろう、筆者の中尾佐助氏が列挙された島々の名辞には、若干の重複があるようである、・・・、「ソコトラ島Socotra」はイエメンYemenに属し、いわゆる「アフリカの角Horn of Africa」、またの名を「ソマリ半島Somali Peninsula」の先端に浮かんでいる、・・・、「ザンジバル島Zanzibar」はタンザニアTanzaniaの首都ダル・エス・サーラムDar es Salaam、の北方50キロばかりの海上、どちらも、ヨーロッパ人到来以前からの「インド洋交易」に重要な役割を果たした場所で、後者、ザンジバルが、ノーベル文学賞受賞者アブドルラザク・グルナ氏の故郷であることから、古く、イブン・バトゥータまで遡って、調べてみたことがあった、・・・、「セーシェル諸島Seychelles」は、下の図面のヴィクトリアVictoriaというのが、その首都なのだが、1976年に独立を果たした旧イギリス植民地、ちょうど、経度から見るとソコトラ島の真南、緯度でいえば、ザンジバル島の真東、ということになる、・・・、「マダガスカル島」はもちろん、アフリカ大陸東岸、モザンビークMozambique沖の巨大な島国、1960年にフランス植民地下から独立、・・・、「重複がある」と言ったのは次で、「マスカリン諸島Mascarene Islands」というのは、そのマダガスカルの東方に広がる、レウニオン、モーリシャス、ロドリゲスを始めとする島嶼群を指す、このうち「レウニオンRéunion島」は、現在も「フランス海外領Franch Overseas department」、一方、モーリシャス島Mauritius、ロドリゲス島Rodriguesは、1968年にイギリスから独立したモーリシャス共和国に属する、独立に際して、イギリス政府が、チャゴス諸島Chagos Archipelago、を分離、「英領インド洋BIOT/British Indian Ocean Territory」なる植民地を形成、住民を「除去」した上で、その中のディエゴ・ガルシア島Diego Garciaを、アメリカ政府に軍事基地として提供したわけであった、・・・、マダガスカルが「巨大」だと書いたところで、島の広さが気になった、これは以前、フランツ・ファノンの生まれ故郷であり、ナチを逃れてアメリカへ向かうレヴィ=ストロースが立ち寄った島でもあるマルチニックについて書いたときだったか、に調べた、カリブ海の島々の面積、・・・、二十年以上、この島を一歩も(笑)出たことがないのだが、さすがに、この島だけは、その「大きさ」を、今では「体感」出来るような気がしている、高江の「N1ゲート」に朝6時集合なら、一般道を用いる限り、午前3時には出発しなければならない、という風に(笑)、・・・、だから、沖縄本島約1200平方キロ、というのが、その「尺度」となりうるのだ、ここに登場したものを含め、インド洋の島々についても、調べてみた、・・・、その意味では、もう、マダガスカルは、「島」のイメージを越えてしまっているな、・・・、ちなみに、前回触れたか、プエルト・リコのビエケス島Viequesの面積は、135平方キロであった、・・・、
 
「Mahe」は、小さな島々からなる「セーシェル」の、主島、同じく、「Grande Comore/Ngazidja」は、1975年にフランスから独立した「コモロComoros」の、主島である、そのコモロの南東100キロばかりの海上にある「Mayotte」は、「レウニオン」同様、「フランス海外領DROM-COM/départements et régions d'outre-mer et collectivités d'outre-mer」、

左:ソコトラ島、ザンジバル島、セーシェル諸島、マスカリン諸島、マダガスカル島、右:ザンジバル周辺拡大図

BIOTと、ディエゴ・ガルシア
・・・
そんな「浅はかな」ことを思いついた人間は(笑)、「世界」が相手となれば、相当数いたようで、・・・、「ノーベル文学賞」アブドルラザク・グルナと言う作家を、さわりだけでも、読んでみる
ノーベル賞作家の故郷と、インド洋交易、から、話が少し広がって、イブン・バトゥータ「三大陸周遊記」をかじってみることに
「プロスペロ・コンプレックス」から、マダガスカル、モーリシャス、「リンゼイ・コルン」という作家の名前の、おぼろげな記憶へ





「プレステス・マイア」なる名称は、建築家、都市計画家のフランシスコ・プレステス・マイアFrancisco Prestes Maia(1896–1965)にちなむもののようで、同名の街路、プレステス・マイア街Avenida Prestes Maiaの一角に、このビルも建っている
「7月9日会館」という名称の建物を見つけることは出来なかった、wikipedia英語版記事「Squatting in Brazil」にも、触れられていないようである、ただ、「7月9日通り―パウリスタ庭園Av. Nove de Julho - Jardim Paulista」という場所があるので、地図に記入しておいた
「ロード・パレス・ホテルLord Palace Hotel」というのは、wikipediaにもエントリーがない、国際的ホテルチェーンだったのかもしれないが、現在は、キプロスにあるものばかりが、「検索」ではヒットする、サンパウロにかつてあった筈のそのホテルの住所らしきものとして、「パルメイラス街/R. das Palmeiras」というのが浮かび上がってきたようなので、地図に記入しておいた、また、「ホテル・ケンブリッジHotel Cambridge」は、GoogleMapで探すことができ、そこに投稿されている写真から判断すると、占拠後のものと見えなくもないので、これもその場所を記入しておいた
イタクアケセトゥバItaquaquecetubaは、サンパウロの北北東40キロの郊外
・・・
パウロ・フレイレ:Paulo Freire(1921-1997)、ペルナンブコ州Pernambuco生まれのブラジルの教育学者、貧困層に識字運動を実践したかどで、1964年にクーデターで成立した軍事政権から国外退去処分を受ける、主著「被抑圧者の教育学/Pedagogy of the Oppressed/Pedagogia do Oprimido」
アンリ・ルフェーブル:Henri Lefebvre(1901-1991)、「日常生活批判」で知られる、フランスのマルクス主義思想家、「パリ五月革命」に大きな影響を及ぼした、1968年のその著「Le Droit à la ville」は、たしか「都市への権利」という名で、邦訳が出ていた記憶がある
moradia:住居、luta:闘い、sem:~がない(=without)、teto:天井

ブラジル、州区分図

リオデジャネイロ、サンパウロ

サンパウロ広域

サンパウロ
・・・
私事を語れば、ブラジルに関する知見は、バイーア出身の国際的ミュージシャン、カエタノ・ベローソの著書、「トロピカル・トゥルース、ブラジルにおける音楽と革命」、しかも全部読み切ったわけでもない、に、ほぼ、限られている、軍事独裁政権下の1969年、「扇動」容疑で逮捕され、ロンドンへの「自主亡命」を余儀なくされた彼は、もっぱらその活動の中心を、リオデジャネイロに置いていたようで、確か、逮捕され軍の施設に収容されていたのが、サンパウロ近郊だったような記憶もある、互いに300キロほど離れた、東京―名古屋間、といったところか、この二大都市は、やはり相互に「ライバル意識」があるようで、彼の著述の中にも、「パウリスタ/サンパウロ人」という表現がしばしば登場したのを覚えている、だから、そのなじみの薄い街を、この記事を手掛かりに、またしても、地図の上で「散策」してみようと、思い立ったわけだ、・・・
「ロンドン、ロンドン」、カエタノ・ベローソの「self-exile」の足跡

Tropical Truth: A Story Of Music And Revolution In Brazil/Caetano Veloso




方言名「ゴーヤー」、和名ツルレイシ、ウリ科Cucurbitaceaeツルレイシ属Momordica、学名Momordica charantia、英語名bitter melon/bitter gourd、アルンドゥハティ・ロイArundhati Roy「小さなものたちの神The God of Small Things」の主人公たちの祖母は、ケララ州アイエメネムの、「パラダイス・ピクルス」という食品加工企業の創業者なのだが、その取扱品目が、列挙されているところがあって、もちろん、そんなものを列挙しなければならない、のには理由があって、主人公の一人が、とても不快な状況に追い込まれた場面で、「何か他のことを考えて」いなければ堪えられなかったときに、思いだされたもの、なのだが、その中に、ちゃんと「Bitter gourd」が含まれていたから、嬉しくなった(笑)、・・・、この記事、
「ゴーヤー」、鰐の表皮をもったウリ科の果実、子供時代は「天罰」にも思われたその苦味、輪切りにしてマスタード・オイルでかりかりになるまで揚げたのが、今では切なく懐かしい・・・インドから日本へ、苦瓜と故郷の味/プリヤンカ・ボルプジャリ2020年8月31日アル・ジャジーラ
の筆者は、アッサムの出身のようだが、ずっと南のケララ州でも、食されているようなのだな、・・・、それから、同じく、マンゴーも、ピクルスにするらしいのだが、これについては、「Tender Mango」という表現が何度か出てきて、「検索」してみると、wikipediaなどの記事はなく、もっぱら、まさに、ケララ州の企業らしきものの、ほかならぬ「テンダー・マンゴー・ピクルス」のビン詰め製品の、通販の広告ばかりが、ヒットしたので、驚いた、どうも、まだ熟していない青い果実をそのように呼ぶらしいのだが、それもまた、ケララ州独自の呼び方かもしれない、と思われた、・・・、そして、その右側に写っているのが、前回もちょっと触れたが、・・・、
方言名「モウイー」、和名、学名、は不明だが、もっとも、南西諸島でしか栽培されたり食されたりしないようだから、日本語の「通称」がなくても当然だが、「赤瓜」あるいは「赤毛瓜」と呼ばれるものであるらしく、分類は、ウリ科Cucurbitaceaeキュウリ属Cucumis、であるとのこと、まではわかった、・・・、
背後に映っている新聞のテレビ欄、東京の放送局ばかりなのは、・・・、以前、「内地」の新聞は、沖縄には、三日遅れで「空輸」され、しかも運送費が上乗せされるから、とんでもない値段だったのだが、勤め先の予備校では、「○○新聞」の「社説」が「入試」の「現代国語」や「小論文」で取り上げられる、という理由で、誰も読まないのに(笑)、無理してとっていて、私はもっぱら、犬猫のトイレ用にと、それらをもらい受けてきたものであった、いまだに押し入れに山のように残っているそれらを、「小出し」にして使っている(笑)から、こういうことになる、だから、このテレビ欄も、もう、十年近く「遅れて」いることになるのだ(笑)、・・・、

・・・
Abhilash Talkies advertised itself as the first cinema hall in Kerala with a 70mm CinemaScope screen. To drive home the point, its façade had been designed as a cement replica of a curved cinemascope screen. On top (cement writing, neon writing) it said Abhilash Talkies in English and Malayalam.(11)
アブヒラス・トーキーズは、ケララで最初に、70ミリの「シネマスコープ」上映設備を備えた映画館である、というのが謳い文句だった。それをなお強調するかのように、その正面は、あの湾曲した「シネマスコープ」のスクリーンの、セメント製のレプリカで飾ってある。その上部には(セメントでも、また、ネオンサインでも)、「アブヒラス・トーキーズ」と英語とマラヤーラム語の両方で、書かれているのだ。(11)
The God of Small Things/Arundhati Roy(Flamingo)/「小さなものたちの神」アルンドゥハティ・ロイ
(11)前回からの続きになるが、List of motion picture film formats、というリストの中の1953年開発の「Cinemascope」、「A/Rアスペクト比Aspect ratio」というのが縦横比、縦に対する横の比、だから、「横縦比」というべきかも、の意味のようだから、それを見ると、「2.55」、あるいは、「2.35」、また、1958年開発の、「70 mm」、これは、「アスペクト比」、「2.21」、背景は、1960年代末だから、どちらも当てはまるが、後者のような気もする、・・・、いずれにしても、紙の書類における「A系/B系」、これは、裁断時の無駄がなきよう、半分に切れば、相似形になるように設計されているから、アスペクト比でいえば、√2、「1.414」、あるいは、人が見て一番心落ち着くといわれる、神秘の数、「黄金比」(1+√5)/2≒1.618、よりもはるかに大きい、四方田犬彦氏も、「一九五〇年代にはワイドスクリーンと立体映画の開発がなされ、やがてそれは忘れ去られた」と書いているが、なるほど、そういう時代だったのである、・・・、ちなみに、この「ブログ」のページに掲載されている写真のほとんどは、「3:2」つまり「1.5」、YouTube画像は、「16:9」だから、約「1.78」・・・、引用したのは、筆者のアルンドゥハティ・ロイ自身が、脚本家でもあり、映画人であることがうかがわれたからだが、略歴、Arundhati Roy(1961-)、を見る限り、その仕事は、もっぱら英語でなされているようで、特にマラヤーラム映画とのつながりはなさそうに思われる、・・・、その略歴記事の中にこんな部分があって、・・・、
She attracted attention in 1994 when she criticised Shekhar Kapur's film Bandit Queen, which was based on the life of Phoolan Devi. In her film review titled "The Great Indian Rape Trick", she questioned the right to "restage the rape of a living woman without her permission", and charged Kapur with exploiting Devi and misrepresenting both her life and its meaning.
彼女は1994年に、シェクハール・カプールのフィルム「バンディット・クイーン」、これはプーラン・デヴィの生涯を描いたものだが、を批判したことで注目を集めた。「インドにおける大々的なレ●イプをめぐるトリック」と題された映画批評の中で、彼女は、今も生存中の女性について、本人の同意も得ぬままに、レ●イプシーンを、再演するなどと言う権利が、一体誰にあるのか、と疑問を呈し、カプールが、デヴィを単に利用し、彼女の生涯、その意味するものに対して、誤謬に満ちた表象を与えている、と非難したのである。
おりしも、先程、サタジット・レイに関するものが何かないかと、古い映画のパンフレット類を探していたのだが、この「バンディット・クイーン」、同じく1994年、「京都国際フィルム・フェスティバル」というのが開催されて、私はそこで、この作品を見ているのだ、・・・、
Shekhar Kapur(1945-)
Bandit Queen(1994)
Phoolan Devi(1963-2001)、ウッタル・プラデシ生まれ、「Mallah(boatmen)」というカーストの出身、幼少期に婚姻を強要され、夫に暴行を受けて婚家を飛び出す、実家に戻れば、「家名に泥を塗った」と虐待を受ける、の繰り返しから、盗賊の群れに身を投ずることになる、いわば「義賊」として、地元の貧困階層から絶大の支持を受けたといわれる、1983年、インディラ・ガンジー政権との交渉ののち投降、1994年、提訴取り下げにより出獄、1995年仏教徒へと改宗、1996年以降、社会民主主義系の「サマジュワディ党Samajwadi Party」から出馬して政界進出、女性の権利を訴える活動家となる、2001年、暗殺、これは、「義賊」時代、彼女の一隊に殺害された上流カースト所属の人々による、復讐、とも見られている、・・・、上記カプールの映画に関しては、彼女自身が「英雄」として描かれているにもかかわらず、誤解に満ちていることから、上映の差し止めを求めていた、と伝えられている、・・・、

・・・
Equally, it could be argued that it actually began thousands of years ago. Long before the Marxists came. Before the British took Malabar, before the Dutch Ascendency, before Vasco da Gama arrived, before the Zamorin's conquest of Calicut. Before three purple-robed Syrian Bishops murdered by the Portuguese were found floating in the sea, with coiled sea serpents riding on the chests and oysters knotted in their tangled beards. It could be argued that it began long before Christianity arrived in a boat and seeped into Kerala like tea from a teabag.
That it really began in the days when the Love Laws were made. The laws that lay down who should be loved, and how. And how much.(12)
それは、ひょっとしたら同様に、実際には、何千年も前からすでに始まっていたのだ、と論ずることもできるのだ。インド共産党(マルクス主義派)、なんかがやって来るずっと以前。イギリス人がマラバールを領有するよりも前、オランダの興隆よりもずっと前、ヴァスコ・ダ・ガマの到着よりも、ザモーリンカリカット占領よりも。三人の、紫色の法衣をまとったシリア教会の僧が、ポルトガル人によって殺害され、その死骸が海に浮かんだ、胸には海蛇がとぐろを巻いて座り、絡まったあごひげには、牡蠣がこびりついていたという、そんな事件よりはるか昔に。キリスト教というものが船で運ばれてきて、ケララに、まるで、ティーバッグから紅茶が染み出すみたいに、広がっていくことになるはるか以前に、そんなことはすでに始まっていた、と論ずることだって、できるのだ。
本当は、それは、「愛の掟」が定められたその日から、始まっていた。その掟は、誰が愛されるべきかを決定する、そして、どのように愛されるべきか、あるいは、どれくらい愛されるべきかも。(12)
The God of Small Things/Arundhati Roy(Flamingo)/「小さなものたちの神」アルンドゥハティ・ロイ
(12)マラバールMalabar、は、インド亜大陸南西海岸部
ascendency:興隆、オランダ東インド会社によるインド経営は、1605年から1825年、「governorate」としての「オランダ領セイロンDutch Ceylon」、「オランダ領コロマンデルDutch Coromandel」、コロマンデル海岸Coromandel Coast、は、インド亜大陸南東海岸を指す、「commandment」としての「オランダ領マラバールDutch Malabar」、これが、コチンCochin植民地を中心とする、現ケララ州に当たる部分、「directorate」としての「オランダ領ベンガルDutch Bengal」、「オランダ領スーラトDutch Suratte」、現グジャラ州GujaratスーラトSurat、からなっていた、とのこと
ヴァスコ・ダ・ガマVasco da Gama(1460s-1524)、ヨーロッパ人としては、海路経由インドに到着した最初の人物となる、ポルトガルの航海者、1498年にカリカットCalicut、ケララ州北部、コーリコードKozhikode、の英語名、に上陸している、ちなみに同地には、イブン・バットゥータIbn Battuta(1304-1368/1369)も、鄭和Zheng He(1371-1433/1435)も立ち寄っているらしい
ザモーリンZamorin、12世紀から19世紀初頭まで、カリカットを中心に、マラバール海岸を支配したヒンドゥー領主たちを指す言葉
ノーベル賞作家の故郷と、インド洋交易、から、話が少し広がって、イブン・バトゥータ「三大陸周遊記」をかじってみることに

イブン・バットゥータ、鄭和、マルコ・ポーロの旅程
「シリア教会の僧がポルトガル人に殺害された」に当たる史実を探し出すことは出来なかった、トマス派のキリスト教がケララに到達するのは、3世紀、4世紀頃、と言われ、「ポルトガル領インドPortuguese State of India/Estado Português da Índia」が設立されるのが、ヴァスコ・ダ・ガマ到着の6年後、1505年
・・・
For instance, that morning, as they drove out through the gate, shouting their goodbyes to Mammachi in the verandah, Chacko suddenly said: 'Gatsby turned out all right at the end; it is what preyed on Gatsby, what foul dust floated in the wake of his dreames the temporarily closed out my interest in the abortive sorrows and short-winded elations of men.'(13)
一例を挙げるならその朝も、彼らが門に向かって車を走らせ、ヴェランダに立っているママッチに向かって大声で別れのあいさつを送っているときに、チャコは突然詠唱し始めたのだ、「結局、ギャツビーは、あれでよかったのだ、夢が破れてしまうことの悲しみとか、短命に終わらざるを得ない人間の恍惚とか、そういったものに対して私が関心を、一時的にもせよ失ってしまったのは、彼を食い物にしてしまったもの、彼の夢が終った後に降り積もったちり芥、それらすべてが原因だったからなのだ。」(13)
The God of Small Things/Arundhati Roy(Flamingo)/「小さなものたちの神」アルンドゥハティ・ロイ
(13)チャコは、オックスフォード大学のローズ奨学生Rhodes Scholar at Oxford、というエリートで、ときどき、その時代の癖なのか、唐突に「朗読調」の話し方を始める、・・・、そういえば、アザール・ナフィシ「テヘランでロリータを読む」の、肝心な部分「ギャツビー裁判」、について書くつもりが、のばしのばしになっていることがずっと気がかりだったから、「ギャツビー」に過敏になっていたに過ぎない(笑)、Chapter Iの、冒頭に近い部分に、難なく見つかった
「テヘランで『ロリータ』を読む」と、「ロリータ」を、同時に、読む
「Reading Lolita, or more than Lolita in, other than Tehran/テヘラン以外の場所で、『ロリータ』あるいは『ロリータ』以外のものを、読む」
テヘラン以外の場所で、「テヘランで『ロリータ』を読む」、を読み続ける
・・・
There, at someone else's wedding reception, Ammu met her future husband.
He was on vacation from his job in Assam where he worked as an assistant manager of a tea estate. HIs family were once wealthy zamindars who had migrated to Culcutta from East Bengal after Partition.(14)
アミュは、その地で、誰かの結婚式の場で、将来夫となる人と出会ったのだ。
その男は、アッサムで、紅茶農園の経営者の助手として働いていたのだが、そのときは、休暇を取ってやってきていたのだ。彼の家族は、もとは、裕福なザミーンダールで、「インド・パキスタン分割」の際に、東ベンガルからカルカッタへと、移り住んできたのだった。(14)
The God of Small Things/Arundhati Roy(Flamingo)/「小さなものたちの神」アルンドゥハティThere・ロイ
(14)「ザミーンダールzamindar」、ムガール帝国(1526-1539,1555-1858)下の、土地所有者、支配階層、貴族に由来するが、イギリス植民地主義は、この制度を温存したといわれる、英領インド帝国の分割、独立期に、農地改革により、消滅
・・・
Or he would come home from the club and tell Ammu that he saw Meet Me in St Louis when they'd actually screened The Bronze Buckaroo. ...(15)
また、彼は、(紅茶農園の)クラブから帰宅して、今日は「ミート・ミー・イン・セントルイス」を観てきたよ、などと言うのだが、実際にその日そこで上映されていたのは、「ブロンズ・バッカルー」だった、などということもあった。(15)
The God of Small Things/Arundhati Roy(Flamingo)/「小さなものたちの神」アルンドゥハティThere・ロイ
(15)Meet Me in St. Louis(1944)/Vincente Minnelli、日本公開(1951)時のタイトルは「若草の頃」、主演が、「オズの魔法使い」でデビューした、ジュディー・ガーランドなのだね、そして、そのジュディー・ガーランドは、この映画の監督のヴィンセント・ミネリと結婚、彼らの間に生まれた子供が、ライザ・ミネリなんだ、ということを初めて知った、・・・、
The Bronze Buckaroo(1939)/Richard C. Kahn、この映画は、「Race Films」と呼ばれる、黒人監督が、黒人俳優を起用して、もっぱら黒人観衆を対象として制作された一群の作品の一つのようである、監督のリチャード・カーン(1897-1960)という人については、「B級映画」の監督、という以外のことは不明、主演の、Herbert Jeffrey/Herb Jeffries(1913-2014)は、俳優であり、ジャズ・ミュージシャン、彼の出自には、不明な点が多いようで、母はアイルランド系、父は、フランス系カナダ人でイタリア系とムーア人の血を引いている、とある、当時の国勢調査資料には「ムラートmulatto」と記載されているそうで、本人は、父方の祖父がエチオピア人だとも主張していたらしい、・・・、当時、ハリウッドはじめ「芸能界」に進出しようとする黒人たちが、白人社会に「受け入れられる」べく、自分たちが、いかに「肌の色が薄い」かを競いあっていた背景の中で、こんな風に、「アフリカ的遺産」を誇らしく語るのは、とても異例なことであった、と言われているようだ、・・・、

この挿話は、アミュの「アル中」の夫が、病的な「虚言癖」で、ほとんど何の理由も目的もないような嘘をしばしばついた、という例示の一つに過ぎないのだが、こうして、その、故意に「取り違え」られた二作品の性格を瞥見してみれば、さすがは、映画に造詣の深い筆者、なかなか一筋縄ではいかない、何らかの「意図」が隠されているのでは、と読めなくもない、・・・、「Buckaroo」は、「カウボーイ」を指す言葉で、「ブロンズBronze」は「青銅」、銅Cuと錫Snの合金、その色合いは、赤みがかった茶色、と言われるから、ならば、このタイトルは、「茶色いカウボーイ」すなわち「黒人/有色人種のカウボーイ」と、英語を解する人ならば、読まれたであろう、このフィルムが日本で公開されたらしい痕跡がないのに対して、英国人が経営する紅茶農園の従業員クラブとは言え、インドの、アッサムの、いわば「田舎」で鑑賞されていた、という、もちろん小説としての「虚構」であろうが、もまた、興味深い、というべきだろう、・・・、
Duke Ellington - Flamingo (with Herb Jeffries) 1941
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Ammu was eight months pregnant when war broke out with China. It was October of 1962. Planters' wives and children were evacuated from Assam. Ammu, too pregrant to travel, remained on the estate. In November, after a hair-raising, bumpy bus ride to Shillong, amidst rumours of Chinese occupation and India's impending defeat, Esta and Rahel were born. ...(16)
中国との間に戦争が始まったとき、アミュは妊娠八か月だった。1962年の10月だ。農園の従業員の妻たちや子供たちは、アッサムを離れて疎開した。でもアミュは、すでに、妊娠後期に入っていて旅行にも耐えられない状態だったから、農園にとどまることになったのである。11月になって、中国軍が占領しにやって来る、インドは負けるに違いない、とのうわさがはびこる中で、シロングに向かう、ひどく荒っぽい運転の、激しく揺れるバスの旅ののち、エスタとラヘルは、生まれた。(16)
The God of Small Things/Arundhati Roy(Flamingo)/「小さなものたちの神」アルンドゥハティThere・ロイ
(16)「中印戦争」Indo-China War of 1962/Sino-Indian War、ヒマラヤ山中の両国の国境をめぐる紛争で、下のインド州区分図に見る、(D)Jammu and Kashmiru/ジャム・カシミール州の東に隣接する、(E)Ladakh/ラダック、ここは、中国のチベット自治区Tibet Autonomous Regionにも隣接しており、中国、インド、パキスタンの3国が、その主権を主張している、このラダック地方と、さらにその東側、英領インドとチベットの国境を画するとして、1914年に合意されたところの「マクマホン・ラインMcMahon Line」が、主戦場となったようである、この「マクマホン・ライン」の東側部分は、中国のチベットと、インドのアルナチャル・プラデシ州Arunachal Pradeshとの境界をなしているのだから、その南に位置するアッサムは、きわめて最前線に近い場所だったのであろう、・・・、少し話がそれることになるかもしれないが、この戦争では、折から「中ソ論争/中ソ対立」のさなか、インド政府に対して強力な軍事援助を行ったのがソ連だった、「社会民主主義」を看板に掲げる「インド国民会議派Indian Congress」政権が、こうしてあからさまに「親ソ派」路線を採用していたことも、のちに触れられることになるが、「インド共産党(CPI)」が、さまざまな分派を擁するにもかかわらず、ほとんどが、「親中国派/毛沢東派」であるように見えることとも、関係があるかも知れない、

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When his bouts of violence beganto include the children, and the war with Pakistan began, Ammu left her husband and returned, unwelcomed, to her parents in Ayemenem. To everything that she had fled from only a few years ago. Except that now she had two young children. And no more dreams.(17)
夫の暴力の発作が、子供たちに対しても及び始めたとき、それはちょうどパキスタンとの戦争が始まったころだ、アミュは、夫と別れ、まったく歓迎されないままに、アイエメネムの両親の元に戻った。ほんの数年前に、彼女が、全力で逃げ出そうとしたすべてのもののもとに戻ることになったのだ。当時と違っていることと言えば、新たに二人の小さな子供を抱えてしまっていたことぐらいだ。そして、もはや、夢は、かけらもなかった。(17)
The God of Small Things/Arundhati Roy(Flamingo)/「小さなものたちの神」アルンドゥハティThere・ロイ
(17)英領インド帝国の「分割Partition」によって、形成された、インドとパキスタン二国は、Indo-Pakistani wars and conflicts、によれば、少なくとも、1947年、1965年、1971年、1999年、の4回、戦火を交えている、そのほとんどの原因を構成しているのが、カシミールの領有をめぐる争いのようで、唯一の例外が、1971年、これは、当時「東パキスタン」であった部分が、パキスタンからの独立を求めた、「バングラデシュ解放戦争Bangladesh Liberation War」をめぐる両国の敵対関係から派生している、・・・、ここでは、「中印戦争」から程ない時期らしい記述であるから、1965年のものと見ることになろう、この戦争は、パキスタンが、カシミール独立派支援のために、軍事力をジャム・カシミールに浸透させようとしたことがきっかけで、インド側がこれに対して当時の「西パキスタン」に大攻勢をかけた、ことに始まるという、・・・、アミュのいたアッサムは、現バングラデシュ、「東パキスタン」と隣接しているけれども、「中印戦争」のときほど、危機が近くに迫っていたわけではなさそうにも感じられる筆致である、
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On the Plymouth roof rack there was a four-sided tin-lined, plywood billboard that said, on all four sides, in elaborate writing, Paradise Pickles & Preserves. Below the writing there were painted bottles of mixed-fruit jam and hot-lime pickle in edible oil, with labels that said, in elaborate writing, Paradise Pickles & Preserves. Next to the bottles there was a list of all the Paradise products and a kathakali dancer with his face green and skirts swirling. ...
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Ammu said that the kathakali dancer was a Red Herring and had nothing to do with anything. Chacko said that it gave the products a Regional Flavour and would stand them in good stead when they entered the Overseas Market.(18)
プリマスの屋根の荷台には、四方すべてに向いた、ブリキで縁取られた、合板製の看板がしつらえてあって、そのすべての面に、流麗な書体で、「パラダイス・ピクルスおよび保存食品」と書かれている。その文字の下には、ミックス・フルーツのジャムとか、辛いライムのピクルスを食用油に漬けたものとかのビンの絵が描かれていて、そのそれぞれの瓶のラベルにも、これまた流麗な書体で、「パラダイス・ピクルスおよび保存食品」と書かれている。ビンの絵のわきには、「パラダイス社」の取扱商品の一覧と、顔を緑に塗った「カタカリ」の踊り手が、スカートを翻している所が描かれている。・・・
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アミュに言わせると、こんなところに「カタカリ」の踊り手の絵を差し挟むのは、「レッド・ㇸリング」ともいうべき、誤解の種であって、実際この工場や製品と、何の関係もないじゃないか、ということになる。しかしチャコは、いや、この意匠のおかげで、製品に、何か「地域性」が付与され、いずれ海外市場に進出する際には、有利な要素となるだろう、と言うのだ。(18)
The God of Small Things/Arundhati Roy(Flamingo)/「小さなものたちの神」アルンドゥハティThere・ロイ
(18)「プリマスPlymouth」、メイフラワー号が出港したイギリスの港であり、到着したマサチューセッツの港も同じ名が付された、ここでは、それに由来して命名された、1928年製造開始の、米、クライスラー社の、自動車の商標、・・・、チャコとアミュの父親、パパッチは、植民地時代のデリーで、「王立鱗翅学会」の役職についていた官僚、妻であるママッチに対し、「家庭内暴力/ドメスティック・ヴァイオレンス」を行使する、嫉妬深く、残虐で酷薄な人物、と描かれている、引退してアイエメネムに引き下がったのち、妻が、ピクルス工場経営に、予想外の才能を発揮したことに「拗ねて」、この様な高価で馬鹿でかい「米国車」を購入して、一人で乗り回すことで、憂さを晴らしていたらしい、・・・、1950年代末から1960年代初頭のことと思われるから、1956年モデルの写真を、wikipediaから引用しておこう、

「カタカリkathakali」、16世紀から17世紀にかけて成立したといわれる、マラヤーラム語圏の古典舞踊、日本の「歌舞伎」、中国の「京劇」とともに、「世界三大化粧舞劇」とも言われているらしい、wikipediaに添えられた写真を見ると、確かにここに描かれているように、俳優の顔面が、鮮やかな緑色に塗られている、・・・、内容は、ヒンドゥー教の聖典である「ラーマーヤナ」や「マハーバーラタ」を題材にしたものが多く、ヒンドゥー教の寺院で演じられる、という、
「レッド・ㇸリング(燻製ニシンの虚偽)Red Herring」、重要な事柄から聴き手の注意を逸らす修辞上の技法、19世紀初頭のイギリスのジャーナリスト、ウィリアム・コベットWilliam Cobbett(1763-1835)、wikipediaの記事を読む限りは、あまり魅力を感じられない思想の持主のようだが、その人物の造語、燻製にして赤くなったニシンの切り身を、猟犬の訓練に用いるとか用いないとかの例え話から出ているようである、・・・、ここでアミュが、「パラダイス・ピクルス」の商標に「カタカリ」のダンサーを用いることを揶揄したのは、アミュもチャコも、その母である創業者のママッチも、シリア系キリスト教徒コミュニティーの一員なのであって、ヒンドゥー文化に対してさしたる造詣も、敬意も有していない、という事実に根差しているのかもしれない、・・・、ママッチから、工場を引き継いで「社長」然としているチャコは、下の「ローカス・スタンド・アイ/ローカスツ・スタンド・アイ」のところで見るように、アッサムのヒンドゥー教徒の夫と別れて実家に戻ってきた、いわゆる「出戻り」である妹のアミュに対して、工場の経営権については、何らの持ち分もないと言い張るような、「メール・ショーヴィニスト/男権主義者」であるにもかかわらず、「共産党」シンパの、理解ある経営者の如く振舞っている、という、矛盾の多い人物なのである、・・・、ちなみに、「パラダイス・ピクルス」の商標に、「カタカリ」ダンサーの意匠を持込んだ発案者は、ビン詰製品のラベル印刷一切を請け負っている印刷所所長、この人物が、この地域の「共産党/インド共産党(マルクス主義派)CPI(M)」のオルグなのである、ずっと後の方に、ラヘルとエスタが「カタカリ」を見に、おそらくヒンドゥー寺院なのだろう、出かけた場面で、この印刷所所長、「同志ピライComrade Pillai」と出会う場面があるから、彼自身はヒンドゥー教徒で、ヒンドゥー文化に愛着を持つナショナリストなのかもしれない、・・・、
stand a person in good stead:(人)にとって、役に立つ、味方となる、
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Pappachi had been an Imperial Entomologist at the Pusa Institute. After Independence, when the British left, his designation was changed from Imperial Entomologist to Joint Derector, Entomology. ...
His life's greatest setback was not having had the moth that he had discovered named after him.(19)
パパッチは、「プサ研究所」の「帝国昆虫学研究員」であった。「インド独立」後、英国人たちが去ると、彼の肩書は、「帝国昆虫学研究員」から、「共同主任・昆虫学担当」に変わった。・・・
彼の人生における最大の失点は、「彼」が発見した蛾であるのに、彼にちなんで命名されなかった、ということにある。(19)
The God of Small Things/Arundhati Roy(Flamingo)/「小さなものたちの神」アルンドゥハティThere・ロイ
(19)「プサ研究所Pusa Institute」、1911年、イギリス植民地当局が、ビハール州Biharプサ・ビハールPusa Biharに設立した「帝国農業調査機構Imperial Institute of Agricultural Research」、プサに大きな地震が起こり、1936年以降デリーに移転して以降も、「プサ研究所」と呼ばれることが多かった、という、現在も、デリーに、「インド農業調査機構Indian Agricultural Research Institute(IARI)」として存続している、・・・、上の記述、間違えているね、「Entomology」は「昆虫学」、「鱗翅類」なら「Lepidoptera」、「鱗翅類研究家」なら「Lepidopterist」、イギリス本国の機関なら「王立Royal」であることが多いだろうが、英領インドは、「インド帝国」を名乗っていたから、「Imperial」なのだろうかと、想像される、・・・、ビハール州は、ネパールNepalの南、バングラデシュBangladeshの西、サマスティプールSamastipurという町の、北西15キロばかりのところに、プサPusaはある、・・・、博物学者が自分の発見した新種に自分の名が冠されることを望むのは、自然なことでもあろうが、しばしば醜い争いが生じたのも事実なんだろう、パパッチが「発見」したのは、「Lymantriidae」の一種とある、現在は、「Lymantriinae」であるらしく、「和名」としては、「ドクガ科」に当たるようだ、採集旅行先のレスト・ハウスのベランダで、飲み物のコップの中に飛び込んでしまったものをつまみあげて見ると、「dorsal tufts背部の房」が異様に毛深い、といった、これまでにない特徴なので、さっそく標本をつくり、朝一番の汽車でデリーに向かったが、権威者のいわく、すでに発見されている種の一変種にすぎない、とのこと、のちに、「taxonomic reshuffle」、「taxonomy」が「分類学」だから、「分類学上の大改編」によって、確かに新種である、と認定されたときは、すでに、パパッチはもう引退していて、命名の栄誉は、かならずしも彼と仲の良くなかった後継者に奪われてしまった、という話、
・・・
Ammu said that Pappachi was an incurable British CCP, which was short for chhi-chhi poach and in Hindi meant shit-wiper. Chacko said the correct word for people like Pappach was Anglophile. He made Rahel and Estha look up Anglophile in the Reader's Digest Great Encyclopaedic Dictionary. It said Person well disposed to the English. Then Estha and Rahel had to look up disposed.
It said,
(1) Place suitably in particular order.
(2) Bring mind into certain state.
(3) Do what one will with, get off one's hands, stow away, demolish, finish, settle, consume (food), kill, sell..
Chacko said that in Pappachi's case it meant (2) Bring mind into certain state. Which, Chacko said, meant that Pappachi's mind had been brought into a state which made him like the English.
Chacko told the twins that though he hated to admit it, they were all Anglophiles. They were a family of Anglophiles. Pointed in the wrong derection, trapped outside their own history, and unable to retrace their steps because their footprints had been swept away. He explained to them that history was like an old house at night. With all the lamps lit. And ancestors whispering inside.
'To understand history,' Chacko said, 'we have to go inside and listen to what they're saying. And look at the books and the pictures on the wall. And smell the smells.'
(20)
アミュに言わせると、パパッチは、どうしようもない「英国かぶれ/ブリティッシュCCP」ということになる、この言葉は、ヒンディー語の「チ・チ・ポアチ」という言葉を縮めたもので、その意味は「尻ぬぐい」。それに対してチャコは、パパッチの如き人々を名指す正しい用語は、「アングロフィル/英国崇拝者」だと言う。そして彼は、ラヘルとエスタに、「リーダーズ・ダイジェスト大百科事典」で、「アングロフィル」を引かせた。そこにはこう書いてあった、「イギリス的なものに、著しくディスポーズされている人々」。そこでエスタとラヘルは、今度は、「ディポーズされている」を引かなければならなくなった。
それによると、
(1)物事をある特定の秩序の下に置くこと。
(2)ある状態に心を注ぐこと。
(3)あるものをなくしてしまうこと、手を引くこと、置き去りにすること、撤去すること、終了させること、解決すること、(食物を)消費すること、殺害すること、売却すること。
チャコによると、パパッチの場合は(2)の「ある状態に心を注ぐこと」だ、とのこと。チャコ曰く、つまりそれは、パパッチの心が、「ある状態」に「注がれて」しまって、彼はもう、英国人のようになってしまった、ということを意味するのだという。
そしてチャコは、この双子の甥姪にこう語って聞かせるのだ、彼自身、認めたくはないものの、自分たちはみなことごとく「アングロフィル」なのだ、自分たちは、「アングロフィル」の「家族」なんだ、と。誤った方向を指し示されて、揚げ句、自分たち自身の歴史の外側を生きてしまった、そうして、もはや自分たちの足跡をあとづけることさえかなわない、なぜなら、自分たちの足跡は、もはや跡形もなく消し去られてしまっているからだ。歴史というものについて、彼はこんな例え話で説明した、つまり、歴史というのは、古い家で夜を過ごすことみたいなものだ、と。ランプの灯はことごとくともされている。そして、家の中では先祖たちが、小声で囁きあっているのだ。
「歴史を理解するには」、と、チャコは続ける、「僕たちは、その家の中に入っていって、彼らの声に耳を傾けなければならないんだ。その家の書棚にある書物たちや、壁にかかった絵の数々を、ちゃんと見なければならないんだ。そして、その家のにおいをかがなければならないんだ。」
(20)
The God of Small Things/Arundhati Roy(Flamingo)/「小さなものたちの神」アルンドゥハティThere・ロイ
(20)オックスフォード出のエリート、キリスト教徒コミュニティーの一員であるから、ヒンドゥー教的秩序たる「カースト制」の、一応の埒外にあるとは言うものの、「上流階級」出身であることは明らかだ、であり、いまや工場経営者という「資本家」でありながら、「共産党/インド共産党(マルクス主義派)CPI(M)」のシンパサイザーであり、「同志!、同志!」などという言葉を濫発、「理解ある経営者」を装いつつ、していることと言えば、工場従業員の女性に、「組合活動について論じあおう」などと口実を設けて、性●的に接近しようとする、・・・、まさに「軽薄」を絵に描いたようなチャコ氏であるが、ここでは、この書物全体を通してでさえ、特筆すべき、含蓄深いことを語っている、ある程度該当する自伝的事実があるのかも知れないが、筆者の筆致からも、お得意のシニカルな調子が、ここでは、影を潜めているようにも感じられる、・・・、「コロニアル・メンタリティー/植民地的心性」という用語を最初に用いたのは、ナイジェリアの劇作家、ウォレ・ショインカWole Soyinka(1934-)、だと言われていたと思う、その難解な書物、今も押し入れのどこかにあるはずだが、まだ、読めないでいる、同じくナイジェリアの、「アフロ・ビート」のミュージシャン、かの、C.N.アディーチェ「アメリカーナ」の主人公イフェメルとオビンゼの「お気に入り」でもある、フェラ・クーティFela Kuti(1938-1997)にも、同名の曲がある、・・・、南アフリカのアパルトヘイト政権による、1976年の「ソウェト蜂起」の弾圧に際して、発表されたもののようだが、おそらく「クレオール」的な「英語」が多用されているのだろう、ほとんど聞き取ることができなかったけれど、このYouTubeに付されている字幕によれば、ナイジェリア政権エリートの心中に、いまだに巣くっている「西欧」に対する「劣等意識」を、そう呼んでいるのだ、という印象は、正しかったように思う、・・・、
Fela Kuti - Colonial Mentality
「私たちは、ことごとく『○○フィル/○○崇拝者』の家族なんだ」、「○○」には、もちろん、それぞれの、「植民地主義宗主国」を当てはめればよい、という認識に、私のような者まで、心を動かされたとするならば、それは、他でもない、ここ「沖縄」に、それなりに長らく暮らしてきたからだろう、・・・、「植民地主義宗主国」の「人民」が、「植民地主義宗主国」のふるまいを声高に弾劾してみせるときに背負うであろう「葛藤」以上の「葛藤」を、「ここ」の人々は負っているらしいこと、すべての「厄災」に関して、自分たちすべてが、ことごとく「有責」であること、「歴史」や「国家」の文脈を離れて、「諸個人」の「幸不幸」さえ、論ずることが出来ないこと、またしてもイフェメルの言葉を借りるならば、「様々な、『コンスティテューエンシー/選挙区、有権者団体』に気を配らねばならないこと」、・・・、それらが、私が「学んだ」、あるいは多少なりとも、「身に着ける」ことにもなった、「第三世界」性だと考えている、・・・、決して悪口を言うつもりではないが、「辺野古」の支援者の一人と酒の席で、「沖縄は『第三世界』だと思う」と言ったら、言下に否定されたことがある、休日ごとに、安くはない航空運賃を負担して、「沖縄」の「支援」に駆けつける人々の誠意を、いささかも疑うつもりはないけれど、あなたが、そうやって、「自由」に、「政治的立場」を公然と表明しつつ、ここに、や・っ・て・来・る・こ・と・が・で・き・る・こ・と・自・体・が・、「第一世界」的、あれっ?「二」はどこへ行った?、「特権」かも知れないじゃないか、そんなことを口にすることもできないから、私は、またしても沈黙に退行することにしたのだった、・・・、ちなみに、ここで「自分たちの足跡は、もはや跡形もなく消し去られてしまっている」という表現は、ある種の「掛詞/縁語」的用法と思われる、ママッチの工場の従業員でもあり、社長一家の「召使」的仕事も請け負っている、一人の「アンタッチャブル」、下層カースト出身の男性、ヴェルタ、まもなく引用にも登場することになるだろう、の出自を描いた際に、かつては、それらの階層の人々は、つねに箒を持ち歩き、うしろ向きに、自分たちの足跡を消しながら進むことを要求されていた、上層カーストの「貴人」たちが、うっかりその足跡の上に踏み込んでしまい、「穢れ」が「感染」してはいけないから、という趣旨なんだろう、と記されていたからね、・・・、
・・・
Estha and Rahel had no doubt that the house Chacko meant was the house on the other side of the river, in the middle of the abandoned rubber estate where they had never been. Kari Saipu's house. The Black Sahib. The Englishman who had 'gone native'. Who spoke Malayalam and wore mundus. Ayemenem's own Kurtz. Ayemenem his private Heart of Darkness. ...(21)
エスタとラヘルにとっては、チャコがこの話の中で触れた「家」なるもの、それが何を指しているのかは、おのずから明らかだった、それは、川の向こう側、の、今はもう使われていないゴム農園、の真ん中に立っている、彼らはそこに行ったことがあるわけではなかったけれど。カリ・サピウの家、と呼ばれていた。「黒いサヒーブ」。「原住民になってしまった」英国人。マラヤーラム語を話し、ムンドゥをまとう。アイエメネム版「クルツ」だ。アイエメネムこそ、彼にとって、私的な、「闇の奥」だったのだ、という訳だ。・・・(21)
The God of Small Things/Arundhati Roy(Flamingo)/「小さなものたちの神」アルンドゥハティThere・ロイ
(21)下にコッタヤム―アイエメネム周辺の地図を掲げておいたが、アイエメネムAyemenemの街中を、確かに、川が南北に貫いている、それは、「メーナチル川Meenachil River」という川の支流のようで、このメーナチル川は、もう少し東方の「Western Ghats」と呼ばれる山中に発し、コチKochi/コチンCochin南南東の、「ヴェンバナード湖Vembanad Lake」という巨大な湖に注ぐ、とすれば、コッタヤムKottayamの市中は、東から西へと流下していることになろう、ならばその支流は、アイエメネムの街を、北から南へと流れたのち、その南端、コッタヤムで本流に合しているのだ、と、想像される、もちろん、あらすじをバラすことはしないけれど、この「川」は、物語の中ではものすごく重要な意味を担っているのだ、・・・、ここでの「反対側の川岸」が、どちらを指すのかは、突き止められないけれども、
「サヒーブSahib」は、元来はコーランに由来するアラビア語の敬称であったが、のちの時代には、おそらく「旦那」、的なニュアンスを帯びた、呼びかけ語として用いられるようになったらしい、ジョージ・オーウェル「ビルマの日々」にも、登場した、・・・、オーウェルの作品では、植民者自身もこの言葉を用いていたから、必ずしもそうは断定できないが、「原住民」が、「西洋」の支配者たちにおもねって、へりくだって呼びかける表現と思われる、だから、この「Kari Saipu」なる人物、この名辞から国籍を判定するのは困難だが、ヨーロッパ人だったのだろう、それに「ブラック」が付されているのは、まさにここに描かれているように、「原住民」に「同化」した、ということを意味しているのだろう、・・・、もちろん、私は、こう書きながら、ただちに、幾人かの、「島ナイチャー」、つまり「うちなーんちゅ」にな・っ・て・し・ま・っ・た・「日本人」の姿を思い浮かべてしまっているのも、やむを得ないことではある、・・・、ついでながら、これは、イギリス植民地主義者の統治政策によるものかもしれないが、このオーウェルの作品にも、また、会田雄二の回想などにもみられたと思う、英領ビルマに、植民地下層官吏として着任していた人たちには、「マドラッシMadrassi」なる、若干侮蔑的ニュアンスをもったらしい言葉で呼ばれていた、南インド、ドラヴィダ語族系言語の話者が、高い割合で含まれていたようである、
イギリス領インド帝国の、軍人の名前から、またしても、キップリング、それから、タゴール、というつながりを追って、・・・、ジョージ・オーウェル「ビルマの日々」を読む、続編
「ムンドゥmundu」、インド南部のケララ州、タミル・ナドゥ州、ラクシャドウィープ諸島Lakshadweep archipelago、および、モルディヴで用いられる、腰から下に巻き付ける長い布、東南アジアからアフリカにかけての広い範囲で用いられている「サロングSarong」と、歴史的につながりを持つ風俗である、とのこと、・・・、下の記事は、クーデター直後のミャンマーのものだが、「タメインhtamein」と呼ばれる、サロングの一種のことが触れられている、そしてもちろん、古山高麗雄の書物にもしばしば登場する「ロンジーlongyi」も、これに類縁性をもつ衣装なのであろう、
「女の衣類の下を歩くと精気を失う」という迷信で警官や兵士をたじろがせる「サロング(腰巻)革命」には、2007年「サフラン革命」の残響がこだましている・・・デモ参加者の中に、女性が目立つという事実こそが、ミャンマーの民主主義への闘いの過程で、女たちが果たしてきた重要な役割を指し示している/2021年3月11日トムソン・ロイター財団
ジョゼフ・コンラッド「闇の奥」、と、それに対するチヌア・アチェベの批判、については、以下に若干触れてある、・・・、初めにアチェベの批判の方から読んだから、当然にも、愉快ならざる書物に違いない、との「思い込み」のもとに、中野好夫訳の岩波文庫版を、斜め読みし、そして、予想通り愉快ならざる書物、との印象を抱いただけ、ともいえるから、ここで触れられている「クルツ」なる人物について、ほとんど記憶がなかった、wikipedia記事「Heart of Darkness(1899)/Joseph Conrad」のあらすじを瞥見すると、コンゴ川遡行の船の船長であったコンラッド自身を思わせる語り手マーローMarlowは、最上流の基地に根拠地を据えている、クルツなる人物の話を聞く、毀誉褒貶激しく、なかなか像を結ばないが、どうやら、多くの「原住民」の尊敬を勝ち得、彼らをいわば私兵として「手なずけ」、いわば、自分の「王国」をその密林地帯に築いているらしい様子がうかがわれる、・・・、なるほど、どこの植民地にもいたであろう、そのような人物の典型として、「アイエメネム版『クルツ』」なる表現が採用されたのだろう、ところで「手なずける」は、「手懐ける」と書き、なるほど、動物などを「懐く/なつく」ように馴致する、という意味、
そんな的外れな「同情」は、「人間中心主義」的偏見(笑)、と言わねばなるまい。
・・・
今、あまり期待せぬままに、「Kari Saipu」で検索してみると、驚いたことに、「クマラコムKumarakom」、これはアイエメネム西方10キロほど、「ヴェンバナード湖Vembanad Lake」沿いの風光明媚な観光地、らしいのだが、その記事の中に、この人名が登場することがわかった、この小説の中でも、のちにラヘルがふたたびこの町に戻ってきた場面で、記憶の中の「歴史の家History House」が瀟洒なリゾート・ホテルに変わってしまっているのを発見する一節があって、それもまた引用すると思うが、なんでも、ほかならぬこの小説のベストセラー化によって、ケララ州のこの一帯が、観光地として脚光を浴びることになったという事情もあるらしい、・・・、「Kari Saipu」は、実在の人物、イギリス人宣教師アルフレッド・ジョージ・ベイカーAlfred George Baker、おそらく「Baker Sahib」、「ベイカーの旦那」が、縮められて、そのような名辞になったのだろう、と言われている、とのこと、
・・・
Chacko told Rahel and Estha that Ammu had no Locusts Stand I.(22)
チャコは、ラヘルとエスタに向かって、こう言うのだ、アミュには「バッタの足場/当事者適格」がない、と。(22)
(22)繰り返し登場する表現なのだが、辞書を引いても一向要領を得ない、謎だったのだが、どうも、こういうことではないかと想像する、・・・、「locus standi」という、おそらくラテン語の、法律用語がある、発音は、「ローカス・スタンド・アイ/ləʊ.kəs stænd.aɪ」・・・、司法試験6回不合格の「法律のプロ」(笑)がない知識をひけらかすと、司法消極主義の下では、深刻な利害関係を有する当事者のみが、訴訟を提起することができる、それが、「当事者適格」であろう、ケンブリッジ英語辞書では、「the right or ability to bring a legal action to a court of law, or to appear in a court」とあるそうだ、・・・、ここに、「locust」は、バッタ科の昆虫、バッタ、その複数形「ローカスツ/locusts」、・・・、オックスフォード出のインテリ、チャコが、幼い甥姪に向かって、冗談でそう教えた、あるいは、子供たちが、そのように聞き取った、という事情ではなかろうか?
・・・
Near Vaikom they had to stop to buy some rope to secure it more firmly.(23)
ヴァイコムの近くで、彼らは停車して、その、看板をしっかり固定するために、ロープを買わなければならなくなった。(23)
The God of Small Things/Arundhati Roy(Flamingo)/「小さなものたちの神」アルンドゥハティThere・ロイ
(23)今、彼ら、チャコ、アミュ、ラヘル、エスタ、ベイビー・コチャマ、は、スカイブルーの「プリマス」に乗って、アイエメネムから、コチンCochin/Kochiへ向かっている、翌日、コチンの国際空港に客人が到着するのを迎えるためだが、前日は、コチンの、上で見たが、「アブヒラス・トーキーズ」という映画館で、「サウンド・オブ・ミュージック」を観るのだ、・・・、「プリマス」の屋根の上の「パラダイス・ピクルス」の看板が、ずり落ちそうになっているので、ロープで補修する、という場面、「ヴァイコムVaikom」、は、やはり上で見た「クマラコムKumarakom」と同じく、「ヴェンバナード湖Vembanad Lake」東岸の町だが、クマラコムより北になる、もう少し後の記述で、一行は、鉄道の踏切で待たされることになり、そこに、「インド共産党(マルクス主義派)CPI(M)」のデモ隊が通り過ぎる、踏切付近の看板に、「Cochin 23」という表記があったことから、これはコチンまで23キロ、という意味だろう、ならば、そこは、ここヴァイコムより、少しだけ北へ向かったところ、ということになろう、・・・、アッサムの「アルコール依存症」の男と別れ、双子の子供を連れてアミュがアイエメネムに戻ってきたのが、1965年のインド―パキスタン戦争の頃、であった、物語の中のラヘルは、ほぼ忠実に筆者の、アルンドゥハティー・ロイ氏の生い立ちをなぞっているんだとすれば、1961年生まれ、私とほぼ「同世代」、物語のここでの現在は、確か1967年、その段階で、この子供たちは、「サウンド・オブ・ミュージック」をすでに何度も見て、大半の歌を暗唱している、という、・・・、成人するまで、「映画体験」というものを全く欠いている者には想像もできないが、もちろん、この映画のタイトルだけは、聞いたことがあった、1938年、ナチのオーストリア併合「アンシュルスAnschluß」前夜のザルツブルグを舞台としていること、主人公の軍人が、「反ナチス」の愛国者として描かれていて、それ自体は誤りではないものの、モデルとなる人物は、ナチによる併合以前にオーストリア首相の座にあった、イタリア・ファシストとの親和性の強い、エンゲルベルト・ドルフースEngelbert Dollfuß(1892-1934)の支持者であったこと、などを初めて知ることになった、

The Sound of Music(1965)/first part
The Sound of Music(1965)/second part
The Sound of Music(1965)/Robert Wise

Once he even took a group of them to attend Trade Union classes that were held in Alleppey.(24)
一度など、彼(チャコ)は、彼ら(工場の女性従業員たち)を、アレペイで開催されていた「労働組合学校」に参加させたことさえあった。(24)
The God of Small Things/Arundhati Roy(Flamingo)/「小さなものたちの神」アルンドゥハティThere・ロイ
(24)「アレペイAlleppey」は、コッタヤムやアイエメネムの西、インド洋、アラビア海、に面した町、「ヴェンバナード湖」の西側、「アラプーザAlappuzha」の別称であるらしい、ちなみに、この書物にも一度出てきたのだが、インド洋北部の、インド亜大陸西岸と、アフリカの角、の間の海域は、「アラビア海Arabian Sea」と呼ばれるのだね、確かに対岸はアラビア半島なのだから、・・・、自称「マルクス主義者」のチャコが、工場の女子従業員に秋波を送るという話のついでの一節、・・・、
・・・
Though Chacko was not a card-holding member of the Party, he had been converted early and had remained, through all its travails, a committed supporter.
チャコは、党員証をもつような正式な党員ではなかったものの、かなり早い時期から、その思想に共鳴し、その運動のさまざまな紆余曲折の時代を通じて、ずっと、献身的な支持者であり続けた。
He was an undergraduate at Delhi University during the euphoria of 1957, when the Communists won the State Assembly elections and Nehru invited them to form a government. Chacko's Hero, Comrade E. M. S. Nambodiripad, the flamboyant Brahmin high priest of Marxism in Kerala, became Chief Minister of the first ever democratically elected communist government in the world. Suddenly the communists found themselved in the extraordinary - critics said absurd - position of having to govern a people and foment revolution simultaneously. Comrade E. M. S. Nambodiripad evolved his own theory about how he would do this. Chacko studied his treatise on The Peaceful Transition to Communism with an adolescent's obsessive diligence and an ardent fan's unquestioning approval. It set out in detail how Comrade E. M. S. Nambodiripad's government intended to enforce land reforms, neutralize the police, subvert the judiciary and 'Restrain the Hand of the Reactionary Anti-People Congress Government at the Centre'.
1957年の絶頂の時期、というのは、この年、共産党は、州議会選挙で勝利し、ネルーは、共産党に州政府編成をゆだねたのであるが、その時期、チャコは、デリー大学の学部生だった。チャコが心酔するところの、同志E. M. S.ナムボディリパッドは、カーストとしてはバラモンに属するのだが、ケララにおける熱狂的なマルクス主義の伝道者であった、この人物が、州知事(チーフ・ミニスター)となったのだ、民主的選挙によって選出された共産党政権、それは、世界で初めてのことだった。こうして、突然、共産主義者たちは、自分たちが、とんでもない位置、批判者たちによれば、愚かしい位置とも言うが、に立たされていることを知るのである、つまり、人民を統治しながら、かつ、同時に、革命を扇動しなければならないのだから。同志E. M. S.ナムボディリパッドは、彼の独自の理論を、この様な難題を解決すべく、発展させた。チャコは、彼の論文、「共産主義への平和的移行」、を、思春期の青年らしいやや偏執的な生真面目さと、熱烈なファンにありがちな、無条件の礼賛をもって学んだ。その論文は、同志E. M. S.ナムボディリパッドの政府が、いかにして土地改革を実施し、警察を中立化させ、司法部門を改変し、そして、「連邦中央に居座る、反動的、かつ、反人民的な、国民会議派政府の手を縛る」ための施策をとるかが、詳細に記されていたのである。
Unfortunately, before the year was out, the Peaceful part of the Peaceful Transition came to an end.
しかし、不運なことに、その年が暮れるまでもなく、「平和的移行」のうちの、「平和的」部分は、すでに終焉を迎えることになる。
...
Over the next two years the political discord, fuelled by the Congress Party and the Church, slid into anarchy. By the time Chacko finished his BA and left for Oxford to do another one, Kerala was on the brink of civil war. Nelhu dismissed the Commumist Government and announced fresh elections. The Congress Party returned to power.
引き続く二年間、国民会議派との間、あるいは、教会との間に醸し出された政治的齟齬は、次第に押しとどめるべくもなくなり、ほとんど無政府状態へと転落していくことになる。チャコが、(デリー大学での)学位取得を終え、また別の学位取得を目指してオックスフォードへと向かう頃までに、ケララ州は、すでにほとんど内戦前夜の様相を呈していた。ネルーは、共産党州政府を解散させ、新たに選挙を実施すると発表した。こうして、国民会議派が、政権に返り咲いた。
It was only in 1967 - almost exactly then years after they first came to power - that Comrade E. M. S. Nambodiripad's party was re-elected. This time as part of a coalition between what had now become two separate parties - the Commumist Party of India, and the Communist Party of India (Marxist). The CPI and the CPI(M).
ようやく1967年になって、ちょうど、前回初めて政権の座に着いてから、一年後、ということになるが、同志E. M. S.ナムボディリパッドの党は、ふたたび選挙で勝利した。ただし、今回は、今では別々の二つの政党となってしまっている、党派間の連立政権、という形だった、つまり、「インド共産党」と、「インド共産党(マルクス主義派)」との。「CPI」と「CPI(M)」との。
...
Kerala was reeling in the aftermath of famine and a failed monsoon. People were dying. Hunger had to be very high up on any government list of priorities.
ケララは、折からの飢饉と、モンスーンに雨が降らない、という自然災害から、まだ立ち直れない状態にあった。人々が次々と斃れていた。だから、飢餓、という問題が、どんな政府にとっても、政策の最優先順位に位置付けられねばならなかった。
During his second term in office, Comrade E. M. S. went about implementing the Peaceful Transition more soberly. This earned him the wrath of the Chinese Commumist Party. They denounced him for his 'Parliamentary Cretinism' and accused him of 'providing relief to the people and thereby blunting the People's Consciousness and diverting them from the Revolution'.
この第二期の政権運営においては、同志E. M. S.は、かの「平和的移行」理論を、もっと、地道な形で、実施することを選んだ。この方針が、しかし、中国共産党の憤激を買ったのである。彼らは、この同志のことを、「議会主義クレチン病患者」と呼ばわり、「奴らは、人民に一時の安心を与えることで、彼らの意識を曇らせ、そうして、人民を『革命』という目標から逸らしてしまうのだ」と難じた。
Peking swiched its patronage to the newest, most militant faction of the CPI(M) - the Naxalites - who had staged an armed insurrection in Naxalbari, a village in Bengal. They organized peasants into fighting cadres, seized land, expelled the owners and established People's Courts to try Class Enemies. The Naxalite movement spread across the country and struck terror in every bourgeois heart.
北京政府は、その支持の対象を、新たに出現した、「CPI(M)」内でも、最も急進的な党派、すなわち「ナクサリ派」へと切り替えた、同派は、ベンガルナクサルバリという村で、武装蜂起を行ったのである。彼らは、農民を組織して、党上層部と闘わせ、土地を占拠し、地主を放逐、「人民法廷」を開設して、「階級敵」を裁いた。「ナクサリ派」の運動は、全国へと広がり、あらゆるブルジョワを恐怖に陥れ、その心胆を寒からしめたのである。
In Kerala, they breathed a plume of excitement and fear into the already frightened air. Killings had began in the north. ...
同志E. M. S.ナムボディリパッド、いまや彼は、(中国共産党からは)「走狗」、「ソ連の幇間」呼ばわりされていたが、自身の党内から、「ナクサリ派」を除名、そうして、彼らに対する憎悪の感情を、議会主義的な目標達成のために、利用すべく温存する、という態度を採用するに至ったのであった。
Comrade E. M. S. Nambodiripad (Running Dog,Soviet Stooge) expelled the Naxalites from his party and went on with the business of harnessing anger for parliamantary purposes.(25)
The God of Small Things/Arundhati Roy(Flamingo)/「小さなものたちの神」アルンドゥハティThere・ロイ
(25)E. M. S.ナムボディリパッドE. M. S. Namboodiripad(1909-1998)、ケララ州ペリンタルマナPerintalmanna、コーリコードKozhikode/カリカットCalicutの南東50キロの町、生まれ、1957~1959、および、1967~1969、の二度、ケララ州知事(チーフミニスターChief Minister)をつとめる。「インド共産党CPI」のメンバーであったが、1964年、彼が指導者となって、分派「インド共産党(マルクス主義派)CPI(M)」を結成、・・・、コチKochi北方50キロの、トリスールThrissurにある、「聖トマス大学トリスール校St. Thomas College/Thrissur」出身、この大学は、名称から見ても、トマス派のシリア系キリスト教と関係が深いだろうことが想像されるが、ケララ州最初のカトリック系の大学のようである、
・・・
「ナクサリ派/ナクサリット」についての説明は、同じ著者の「同志たちとともに歩くこと」から引くことにする、・・・、
では、「マオイスト」とは、いったい誰なのか?彼らは、非合法のインド共産党毛沢東派CPI(Maoist)である、インド共産党マルクス・レーニン主義派の流れを汲む一派であり、1969年の西ベンガル州における1969年のナクサリット蜂起を牽引した。インド社会に深く根を下ろした構造的不平等は、インド国家の暴力的な転覆によってのみ解消されうる、とマオイストたちは信じている。その先行者となるジャルカンド州ビハール州毛沢東主義共産主義センター(MCC)や、アンドラ・プラデシ州人民戦争派(PWG)の時代には、マオイストは、人民の絶大な支持を享受していた。(非合法措置が、一時的に解除された2004年、アンドラ・プラデシ州ワランガルで開催された集会には、百万人以上が参加した。)
Who are the Maoists? They are members of the banned Communist Party of India (Maoist) - CPI(Maoist) - one of the several descendants of the Communist Party of India (Marxist-Leninist), which led the 1969 Naxalite uprising in West Bengal. The Maoists believe that the innate, structural inequality of Indian society can only be redressed by the violent overthrow of the Indian State. In its earlier avatars as the Maoist Communist Center (MCC) in Jharkhand and Bihar, and the People's War Group (PWG) in Andhra Pradesh, the Maoists had tremendous popular support. (When the ban on them was briefly lifted in 2004, more than a million people attended their rally in Warangal, Andhra Pradesh.)
彼らが、かすかでも、尊厳に似たものを取り返す旅路があり得るとしたら、それは、過去何十年にもわたって、彼らの傍らで、彼らの立場に立ち、活動し、闘ってきた「マオイスト」の戦士たちに、よるところが大なのである/「同志たちとともに歩くこと」アルンドゥハティ・ロイ
「同志たちとともに歩くこと」アルンドゥハティ・ロイ、Walking with the Comrades/Arundhati Roy
筆者のアルンドゥハティ・ロイ氏は、ボーキサイト鉱山建設のために、土地を追われつつある「部族民Tribal People」たちが、「マオイスト」の支援の下に、立て籠って抵抗している深い森の中に、いわば「従軍記者」として入り、司令官や、兵士たちに、インタヴューを行っているのである、おそらく、その場所は、その司令官が「アンドラ・プラデシのゴダヴァリから、州境を越えてダンダカランヤの森」へやって来た、と書かれていることから、・・・、これはちょっと私の訳が間違っていて、「ゴダヴァリGodavari」は、アンドラ・プラデシAndhra Pradeshとその北のチャティスガールChhattisgarh、および、オリッサOrissaとの州境をなす川、それを渡ったことを指すのであろう、・・・、チャティスガール、オリッサ両州の州境地帯の、森林の中なのだと思われる、・・・、ナクサルバリNaxalbariは、西ベンガル州West Bengal、シッキム州Sikkim、ビハール州Bihar、そして、「インド―パキスタン分割」によって、「東パキスタン」、のち「解放戦争」を経てバングラデシュとなった、旧・東ベンガル、さらに、ネパールとの、州境、国境が複雑に交錯する地域の、西ベンガル―ネパール国境に近い町、・・・、ところで、この隣国ネパールもまた、「毛沢東派/ML派」の共産主義者が、選挙によって政権を掌握することがしばしば生じるような、「マオイスト」の強力な根拠地なのである、リービ英雄が「天安門」の中で、その地に、文学者の会合で赴いたときの印象を語っていたので、のちに引用しよう、・・・、

Walking with the Comrades/Arundhati Roy

・・・

アッサム等、バングラデシュ以東諸州を除く全インド

インド州区分図

インド南部、ケララ州、タミル・ナドゥ州

インド東部、バングラデシュ、ミャンマー、ブータン、ネパール国境地帯

ケララ州、アイエメネム、コッタヤム付近

インド東部、バングラデシュ、ミャンマー、ブータン、ネパール国境地帯、拡大図




「自分」にとって、「意味」がある、訳でもなく、はたまた、ましてや「世界」にとって「意味」がある、とも思えないのに、ただ「ここ」にいなければならない、と急き立てられる感じ。




リュウキュウツバメ(ツバメ科)

ショウジョウトンボ(トンボ科)



アオモンイトトンボ(イトトンボ科)

タイワンハネナガイナゴ(バッタ科)



ハシブトガラス(カラス科)



アオタテハモドキ(タテハチョウ科)、夕刻、公園に植栽されたキク科の栽培植物、の花の上にいるけれど、蜜を吸うわけでもなく、カメラを近づけても、少しも慌ても騒ぎもしない、もう、「眠りかかっている」からではなかろうか、と思う、

ホオグロヤモリ(ヤモリ科)



イソヒヨドリ(ツグミ科)・オス、隣家の軒下で、雨宿り中、



リュウキュウツバメ(ツバメ科)

クロアゲハ(アゲハチョウ科)、ブッソウゲ(アオイ科)

シロオビアゲハ(アゲハチョウ科)、ブッソウゲ(アオイ科)











シジュウカラ(シジュウカラ科)、「つつ、ぴー、つつ、・・・、つつ、ぴー、つつ、ぴー、つつ、・・・」、おっ?シジュウカラの声だ、と、カメラをつかんで立ち上がり、そおっと、ドアを開け、・・・、今しも隣家の庭の樹木の、果実、シマグワ(クワ科)はもう、過ぎたかな、ガジュマル(クワ科)かも知れぬ、そんなのを探しにやってきていたのだろう、ちょうど、目の前で、こうして電柱の天辺に飛び移り、しばらく、歌ってくれたのだった、「夫婦」でいたらしいのだが、歌っていない方、つまりメスを撮るチャンスはなかった、ねぐらになっている森を出て、そこらあたりの公園の樹木などを、順々に、「渡り歩く」らしい、他でも、そんな風に出会ったことがあるから、想像できる、・・・、



シロガシラ(ヒヨドリ科)



イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス



ホオグロヤモリ(ヤモリ科)、「家守」の名の如く、部屋の中にも住んでいて、特に、ハエなどの昆虫類を食するから、猫たちの「うんこ」のおかげで、そういう食糧が豊富に存在するからだろう、うちにもたくさん生息しているに違いない、うっかり脅かしてしまうと隠れ家から慌てて出てきてしまうが、そういう様子が猫たちの「狩猟者」としての記憶を呼び覚ましてしまうらしく、酷い結果になってしまわないよう、注意を要するのだ、なんとも「聞きなし」しようのない(笑)鳴き声で鳴く、鳴いているところを見た記憶はないのに、これがヤモリの「声」だと知っているのは、誰かが教えてくれたからだろう、沖縄の子供は、みな、ちゃんと知っているようで、塾の教室なんかでも、隅の方から聞こえてくると、「あ、ヤモリ鳴いてる」と、教えてくれたものだ、方言名は、「やーるー」、「やー」は「家」かも知れないが、確信はない、部屋の中で見るのは、ホオグロヤモリ(ヤモリ科ナキヤモリ属)で、インド、東南アジア原産、とのこと、・・・、他に、多分、これも確信はないが、いつものホオグロヤモリとは様子が異なっているものを、屋外で見たことがあり、オンナダケヤモリ(ヤモリ科フトオヤモリ属)、ではないかと思っている、沖縄本島の恩納岳で発見されたが、南西諸島のほか、中国南部、マダガスカルにも生息する、とのこと、ヤモリ科Gekkonidaeは、英語ではgecko、どうもこれは、ヤモリ科ヤモリ属に属する、やや大型の、薄緑地に赤い斑点、というきわめて「熱帯的」な派手なデザインの、トッケイヤモリTokay gecko、の鳴き声の「聞きなし」に由来しているようだ、wikipediaには音声ファイルが添付されているのだが、確かに、「げっこー」とも「とっけー」、とも聞こえる、古山高麗雄にも、あるいは会田雄次のものにもあったかもしれない、「ビルマ」を描いた文章の中には、しばしば、この「トッケイ」の話題が登場した、ヴェトナム映画、といってももっぱらフランスで撮影されたらしいが、「青いパパイヤの香り」にも、それらしい声が挿入されていた記憶がある、今読んでいる、アルンドゥハティ・ロイ「小さなものたちの神」、にも、geckoの声のことがしばしば触れられていたように思う、・・・、「ゴミ屋敷」化していたベランダを、二月くらいかかったか、なんとか、見られる程度までに(笑)、片づけられたからこそ、それでも、なんだか「汚い」ものは写りこんではいるが(笑)、得意そうに、こんな写真を掲げることができるようになったのだ、プランターの上には、手抜きの「コンポスト」のつもりで、野菜くずや、猫たちに振る舞った魚の骨などが放置されているので、ハエなどの昆虫類が訪れるからなのだろう、ドアを開けて出ていくと、一斉に、何かが走り抜け、何かが隠れた、という「気配」だけが残る、時には、こうして、壁面に「固まって」、生き物ではないようなふり(笑)、をしているものを発見できることもあるのだ、・・・、「北」の国に住んでいた頃には(笑)、ヤモリの姿を一度や二度見たことはあった筈だが、部屋の中でその「声」を聞く、などと言う生活に、自分が「慣れる」とは想像していなかったな、そうそう、名護署の留置施設に一晩お世話になった際も(笑)、厳重な鉄格子のはまった窓枠の隙間に、こいつがいてくれて、それこそ「無聊をかこつ」(笑)、ことが出来たのを覚えている、・・・、そういえば、西加奈子「漁港の肉子ちゃん」(幻冬舎文庫)、その舞台は東北地方なのだが、三人称ではあるが事実上の語り手たる「キクりん」は、生き物の「言葉」を聞き取る人で、トカゲとヤモリの「科白」が記されていたな、また、読み直してみる、





イソヒヨドリ(ツグミ科)・オス、何か「競い合って」いるのか、それとも、単に「じゃれて」いるのか?、この二羽、どちらもオスと思われるものの、特に上の方のは、「派手さ」に欠けるところがあるので、まだ、「子供」なのかもしれない、・・・、
「じゃれる」:「れる」の音が変化したもの、なるほど、・・・、



リュウキュウカジカガエル(アオガエル科)・幼生

ショウジョウトンボ(トンボ科)

ハラボソトンボ(トンボ科)







ベニトンボ(トンボ科)、初めて見た、ショウジョウトンボよりはずっと小さい、言われてみれば「赤」というより「紅」という色合い、羽全体まで、その色が広がっているのが、特徴のように思われる

クロッカス(アヤメ科)

ヒルザキツキミソウ(アカバナ科)



ヒヨドリ(ヒヨドリ科)









メジロ(メジロ科)、さる事情があって(笑)、珍しく、人がいっぱい歩いているような、街中の歩道を歩くことになった、もう夕刻だから、光が赤っぽいが、街路樹の茂みの中から、次々と、まず、ヒヨドリ(ヒヨドリ科)、続いて、メジロ(メジロ科)、飛び出してきて、どちらも「夫婦者」なんだろうか、二羽ずつ、目まぐるしくあちこち飛び移りながらも、なかなか立ち去らずに、歌い続けている、「トワイライト・ソング」の時刻だから、なにかこう、わくわくするような、「衝動」の如きものがあるのかも、などと想像してしまうくらいだ、その「気持ち」は、わからないでもない(笑)気もするが、・・・、

ハシブトガラス(カラス科)
・・・
9月の知事選挙に向けて、はやばやと「オール沖縄」の宣伝カーが、伝えて下さっていたので、玉城デニー知事の街頭演説会、というのに、重い腰をあげて、出かけることにしたのでした、三年前の春に、さらにそれ以前三年間くらいは続けていた、「高江・辺野古」通いを、ぷっつりとやめてしまい、またしても、この人生何度目になるだろう、昔の活動家たちのジャーゴンでは、「召還」と言っていた、前線を退いてしまうという意味だろう、「撤退」、「ひきこもり」、あるいは、それほど深刻なものではないにせよ、ある種の「転向」をしてしまって以来、「集会」の如きものに出ることは、絶えてなかった、だから緊張したけれど、さいわい、というか、実は密かに「期待」していたのかもしれない、誰か知った人に出会うこともなく、また知事も、COVID-19の「濃厚接触者」として、隔離を余儀なくされているとかで、メッセージの代読に終わったから、なんだか、肩すかしのような、一方でほっとしたような、ヒヨドリやメジロは、その帰り道のもの、・・・、リービ英雄「大陸」を通じて、オバマ氏が、合衆国大統領に選出されたことが、いかにとんでもない歴史的事態であったのか、を、改めて追体験することができた上で、考えて見れば、同様に、「私たち」が、玉城デニー氏を、知事に「選んだ」という歴史的事実の重要性は、どれだけ強調しても強調しすぎることはない、などと思えるようになったのだな、・・・、前回の当選直後の、この記事、
私の父の国の民主主義が私を拒絶することは、出来ない筈です」(玉城デニーの選挙運動、知事当選を伝えるNYTimes記事)2018年9月25日
も、何も「ニューヨーク・タイムズ」紙が、特別「リベラル」な見解をもっているから、とかいう訳ではなくて、「駐留米軍の軍人を父に持つ子供が、知事に選ばれた」という事実の衝撃を、「彼ら」は「彼ら」なりに、「『奴隷』の血筋を引く人物を、アメリカ国民は、大統領に選んでしまった」という、自分たち自身の衝撃的経験から、速やかに類推することができたからなのではないか、とも言えるかもしれないじゃないか、・・・、私一人ごときが、演説会の観衆の一人として参加したからとて、それが「運動」にとって何の役に立つのだ、という問いは立てない、それは、「集合」と、その「要素」を混同した「錯誤」である、ならば、その行為は、私・に・と・っ・て・、何の意味があるのか?にも、答えることができないね、私自身に、さして「意味」がある、とも思えない今日この頃(笑)なのでね、・・・、ただその場所に、「群衆」の一人としてであるか、「主体」としてであるか、にかかわらず、存在している、「居合わせている」、ことが、ともかく「必要」であるような事態がありうるのではないか、そのような形で、膨大な数の人々が、「歴史」というものを、体験して、そうして去っていったはずだから、私が、その例にならっていけない、こともないだろう、・・・、というところかな?





旧暦七月四日の月、月の入二時間前

旧暦七月四日の月、月の入一時間前



旧暦七月五日の月、月の入三時間前





旧暦七月五日の月、月の入二時間前

旧暦七月五日の月、月の入一時間前



旧暦七月六日の月、月の入二時間半前

旧暦七月六日の月、月の入二時間前

旧暦七月六日の月、月の入一時間前

旧暦七月七日の月、南中二時間前

旧暦七月七日の月、南中一時間前





旧暦七月七日の月、南中

旧暦七月七日の月、月の入一時間前









旧暦七月八日の月、南中、大洋上の「島」だから、雲の流れが速く、そんなこともしばしばおこる、「天気雨」、子供の頃は「狐の嫁入り」とこれまた風雅な名前で呼んでいた、こちらの言い方では、「かたぶい」、「片/偏・降り」であろうかと思うが、まさに、空の半分が、それこそ「抜けるような」青空で、残りの半分が、急速に、しかし、それほど厚い訳でもない白い雲に覆われて、勢いよく水滴が落ちてくる、見上げても一瞬、どこから降っているのかわからないくらい、十数分も経てば、また、その雲は去ってしまい、からりと晴れあがる、そんなとき、またたちまち消えてしまうのだが、こんな見事な「虹」が立つ、午後いっぱい、そんな繰り返しだったから、「月見」は、無理だろうと諦めていたが、ちょうど、南中の頃、またもや一瞬のことだけれど(笑)、全天これ晴れ渡り、こんな風に、うさぎさんの上半身もくっきり、「上つ弓張」、えっと、英語なら、「First Quarter」、フランス語なら「Premier Quartier」、だったな、を望むことができた、ならば、もう少し西に傾いた頃も撮影しようと決意しつつ、ひと眠り、・・・、見事に寝過ごしてしまった(笑)、時計を見なくても、空が、晴れているのに、すっかり暗くなってしまっているのでわかった、・・・、





旧暦七月九日の月、南中



旧暦七月九日の月、月の入一時間前、今夜は寝過ごさなかった(笑)、軌道はすでに南に偏りつつあって、うちから南南東の方角は、那覇港につながる平野だが、多少は建物もあって、「地平線」という訳にはいかない、ビルのかげに姿を消していくまで、ちゃんと見守った、やはり、地表面近くでは、光の通り抜けてくる大気層が厚いから、夾雑物が多くて鮮明さが劣るのだ、という想像は、当たっている気がする、・・・、

旧暦七月十日の月、月の出三時間後

旧暦七月十日の月、南中二時間前



旧暦七月十日の月、南中一時間前、さる事情(笑)があって、都会の街中を歩いていて、おや?さっき昇った月は、どこだろう、スーパー・マーケットの駐車場、ビルとビルの間の、いわゆる(笑)「四角い空」に、発見、日没の直前で、ちょうど、こんな風に、見る見る色合いが変わっていくから、しばし、ぼーっと立ちつくして眺めていたわけだ、曲がりなりにも、全天ぐるりと眺めわたすことの出来る、うちの「屋上」、ちなみに、勝手に登って「我が物顔」しているだけで、「賃借権」の対象ではないから、私には、そんな「権利」はないのだけれど(笑)、というのは、「月見」にとっては、非常に恵まれた環境であることを知った次第、



旧暦七月十日の月、月の入二時間前、ほぼ中央部に、くっきりと目立つ、「クレーター」と思えるのに、いくつか探してみたが、どのリストにも載っていないのだ、左の端の方に上下に並んでいるのは、「ティコ」と「クラヴィウス」であろう、

旧暦七月十一日の月、月の出二時間後









旧暦七月十一日の月、月の出三時間後

旧暦七月十一日の月、南中一時間後









旧暦七月十二日の月、月の出二時間後

旧暦七月十二日の月、南中一時間後

旧暦七月十二日の月、南中二時間後

旧暦七月十二日の月、南中三時間後



旧暦七月十三日の月、月の出一時間後



旧暦七月十三日の月、月の出三時間後

旧暦七月十三日の月、南中

旧暦七月十三日の月、月の入二時間前



旧暦七月十三日の月、月の入一時間前、一月前の満月のときから、気がかりだったが、ほら、この様に、西の空に沈む直前の月は、画像が鮮明でないだけでなく、形までも、何か上下方向が縮まってしまったように見えるのはなぜか?地表面付近に月があるとき、その光は、大気圏中をより長い距離貫いて、観測者のもとに到達するのであることは、前回、確認した(笑)、だから、その分だけ、空気中に浮遊している微粒子が、夾雑物となってしまう可能性は大いにあるだろう、鮮明でなくなるのはもちろんそのため、と説明できるだろうし、では、それら微粒子の存在によって、大気層の「屈折率」に変化が来される、と仮定して、説明が可能かどうか、確かめてみよう、・・・、「旧盆」は、どの家庭でも、近縁の人たちが寄り添って、儀礼を執り行うのであるから、係累のない、余所者の(笑)、独居老人(笑)にとっては、あまり普段感ずることのない「寂しさ」さえ、醸し出されてしまうから、何か、「没頭」しているふりができる対象が、欲しかった、と言うだけのことなんだが、・・・、以下は、昔取った杵柄、「予備校の先生」時代に作った物理の教科書、からとったもの、「屈折率」の定義、添え字の「1」がついている上半分の層が、たとえば空気、添え字「2」、下半分が、たとえば水、第1層側から第2層側に差し込んだ光が、境界面から離れるように曲げられる、という現象から、何が言えるか?「光の粒子説」は、私には説明できないし(笑)、度外視することにすれば、波動たる光の諸元のうち、屈折率によって影響を受けるのは、波長λおよび、進行速度vで、その比である周期T、その逆数たる振動数fは変化しない、2本の平行光線l,l'を考えたとき、図中のAA'面、B'B面、はそれぞれ同位相であり、その通過にかかる経過時間も等しいから、距離A'BとAB'との差は、それが第1層にあるか、第2層にあるかの違いによって説明されることになり、その比こそが、両層における、進行速度の比、また、波長の比、と等しくなるのである、こうして、入射角i、屈折角rとすれば、媒質2に対する媒質1での、進行速度、また、波長の比は、
sini/sinr
で表現されることになる、


さて、下図で、ABがお月様、そのうち上半分が、浮遊微粒子が少なく、透明度の高い、比較的小さい屈折率n1の空気層、下半分が、浮遊微粒子を多く含む、比較的大きな屈折率n2の空気層の中にある、としよう、月の下端Bを発した光は、境界面のP点で、境界面に近づくように屈折を受け、B→P→O、という風に、観測者Oのもとに到達する、ところが、n1の媒質中から、これを観測すると、観測者の頭脳は、屈折というメカニズムを、組み込んでいないから、つまり「光は直進する」と思い込んでいる(笑)から、この光は、B'→P→O,という経路をたどってきたのだ、と錯覚し、こうして、お月様の下端Bは、B'にあるかのように観測される、つまり上下に縮まったように見える、ことになるのだ、ほら、うまく説明できたじゃないか(笑)?もちろん、観測者が人間でなくとも、カメラという機械であっても、「屈折率を組み込んでいない」事情は同じだから、同様のことが言える、・・・、ずっと昔に日高敏隆氏の書物で読んだ記憶があるが、動物は、この問題をどう処理しているか?サギやシギなどの渉禽類、カワセミやアジサシも、自分はもちろん空気中にいながら、水面下の魚などの獲物を、その嘴の、敏速な動きで捕まえるのだけれど、これが、上のような屈折率による錯覚に悩まされていたのでは、到底おぼつかないであろう、もちろん、眼球の物理的構造は、彼らにあっても、私たちと、そんなに変わらない、とすれば、何か、ソフトウェア的に、いや違う、本物の獲物は、もっと先、深いところだよ、と誘導してくれるようなメカニズムが、獲得されてきたはずではないか?という議論だったと記憶する、サギなどの「過眼線」というデザイン、どうも、その先をたどると、屈折率を加味した、獲物の場所を指し示すことになるらしい、「過眼線」に沿って嘴をまっすぐに動かせ、という風になっているのだ、という仮説もあるそうだ、ということだった、・・・、



旧暦七月十四日の月「待宵」、月の出三時間後、「待宵」はこれだけ、日中ずっと雨だから、これは無理と、内心「ほっとして」(笑)いたところ、屋上に登ってみると、雲の切れ間から煌々と光を放っている、これは大変(笑)、ならば、ひと眠りして、南中とか、西の空にかかったのとかの撮影に備えねば、・・・、夜半、南の窓から、長い月影が、差しこんでいるのに気付きつつも、起き出すことができず、次いで目を覚ました時は、慌ててカメラをつかんでベランダに出るも、西の空もくもくと上り立つ入道雲の中に、今しも、そのオレンジ色の「火の玉」の如く、そう、落ちる寸前の線香花火みたいな、のが沈みつつあるところであった、・・・、
では、ここで改めて「旧盆」について、復習しておこう(笑)、もちろん、私には「友達」がいないから、誰にもこのような事柄を「尋ねる」ことが出来ないので(笑)、そ・う・い・う・人・た・ち・のための配慮なのかどうかは知り得ないが(笑)、スーパーの「旧盆特集」売り場などに、親切に、説明板が立てられたりしているので、それを写し取ってきたものなのである、・・・、旧盆行事は、旧暦七月十三日から十五日までの三日間にわたって執り行われる、
十三日、「うんけー」:「お迎え」→「うむけー」→「うんけー」
十四日、「なかぬひー」:「中の日」
十五日、「うーくい」:「お送り」→「ううくり」→「うーくい」
ということは、私は一日数え間違えていた、「十三日」に、海に入って、すでに禁を破っていたことになる(!)
「旧盆」談義、「私たち」は、「死者」のことを必ず忘却してしまう、忘却しなきゃ生きていけないからだが、そのことへの「罪悪感」を「昇華」すべく組み立てられた制度、なのでしょう



旧暦七月十五日の月、月の出一時間後、今昇りました、毎晩お会いしているのに(笑)、今夜ばかりは、この月明かりを頼りに「死者」たちが、ふたたび海の向こうの「ニライカナイ」へ帰って行かれる、一番潮が引いて、ずっと先まで歩いて行けそうに思えるくらいサンゴ由来の石灰岩の干瀬が露頭するのは、夜半の南中時になります、となれば、心なしかお月様も、何か「よそ行き」な感じで、こちらもそれに合わせて、「威儀を正さ」ねばならない気持ちにさせられるから不思議です、・・・、

旧暦七月十五日の月、南中

旧暦七月十五日の月、南中一時間後









旧暦七月十五日の月、月の入一時間前、余所者でもあるし、「友達いない」(笑)から、地元の人のお住まいを訪問する機会も、数えるほどしかなかったから、たとえば「旧盆」行事にしても、スーパーの売り場に並んでいる各種「お供え物」から、そのありさまを想像するしかなかった、「先生」だった頃は、何度か生徒に尋ねてみたこともあったが、見たことのないものは、うまく像を結んでくれなかった、・・・、南中の月を見に屋上に上がると、あちらこちらから、「香ばしい」というか、「焦げ臭い」というか、においが漂ってくる、ああ、これが、話に聞いていた、「うちかび」なんだな、と気が付いたわけだ、きっと、「うーくい/お送り」の最後、いよいよ客人たる「死者」たちを送り出すにあたって、その「駄賃」を、供する儀礼なんだろう、侯孝賢/ホウ・シャオシェン、の映画には、しばしば、「紙銭」を燃やすシーンが描かれていたが、そんな同じ習俗をもつ文化圏に、住むことになろうとは、そのころは思ってもみなかったけれど、・・・、「うちかび」は「打ち紙」だと言われる、旅に出る?、ならば、お金が必要でしょう?、という発想は、とても自然なものに感じられる、猫のお弔いをする際に、紙に包んだドライフードの小さな「お土産」をもたせてあげるみたいにね、動物病院の先生もそうしていたから、きっと、多くの人に共有されている常識なんだと思う、・・・、燃やす、煙になって、上の方へ昇って行く、それが「死者」のもとに到達するに違いない、という信憑が広く存在するんだ、というのをどこかで読んだ気もするが、知ったかぶりは、この辺までで、・・・、





旧暦七月十六日の月「十六夜(いざよい)」、月の出二時間後

旧暦七月十六日の月「十六夜(いざよい)」、南中











旧暦七月十六日の月「十六夜(いざよい)」、月の入三時間前、「うーくい/お送り」の翌朝は、門口に、「ウージ」、サトウキビ(イネ科)、の茎を、立てかける、「この世」で歓待を受けられなかった「霊」もまた、迷わず、「ニライカナイ」へ帰ることができるように、「杖」として使ってください、ということだと聞いたことがあるが、それは、私のような「無縁者」にとっては(笑)、かたじけない心配りではないか、といつも、感動しているのである、

旧暦七月十七日の月「立待」、月の出二時間後

旧暦七月十七日の月「立待」、南中一時間前

旧暦七月十七日の月「立待」、南中

旧暦七月十七日の月「立待」、月の入三時間前

旧暦七月十八日の月「居待」、月の出二時間後

旧暦七月十八日の月「居待」、南中一時間後



旧暦七月十八日の月「居待」、月の入三時間前「有明」














ツマベニチョウ(シロチョウ科)、ブッソウゲ(アオイ科)

タイワンシオカラトンボ(トンボ科)

リュウキュウツバメ(ツバメ科)

メジロ(メジロ科)、ガジュマル(クワ科)

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)







Last updated  2022.08.16 12:41:00



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