「私」には、「私」の隣人が、「私」と異・な・っ・て・い・る・ことを、喜んだり、また反対に嘆いたりすることができない、ことについて。
サシバ(タカ科)キセキレイ(セキレイ科)ハクセキレイ(セキレイ科)「ねこログ」、総目次(笑)/新・「ねこログ」、総目次(笑)/続・「スクラップ・ブック」、の、目次。目次:人類愛を語ることはたやすいが、隣人を愛することは困難である・・・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を読み直す、岩波文庫版「上」の末尾まで。/「幸せ」、についてお話させていただきます。/「アイルランド人であることの幸運」、とは何か?、イスラエルの在ダブリン大使館閉鎖の記事から、この国の歴史的、集合的とも言うべき、パレスチナへの「共感」の根拠を想像する、1972年の、ジョン・レノン、ヨーコ・オノの歌とともに。/「私」には、「私」の隣人が、「私」と異・な・っ・て・い・る・ことを、喜んだり、また反対に嘆いたりすることができない、「ゼノフォビアXenophobia/異なるものを恐れること」よりも「ゼノフィリアXenophilia/異なるものを愛すること」の方が、どうやら理・に・か・な・っ・て・いるらしいことを、たとえ不承不承であったとしても、認めること、できるのはそれだけなんだから、・・・。「バベルの学校」、を観る。/「同じである」ことは、「異なっている」要素が、ただ一つも存在していない、という欠如の相として、「否定文」によってしか定義できない概念なのだ、・・・、「多様性」に関する補遺として、ルリハコベとアカバナルリハコベ、あるいは、チャールズ・ダーウィン「種の起源」を読み直そうか?、というところ。/新月大潮の、干潮まではまだ間がある、「まどろみ」つつ過ごす水鳥たち、電柱から電柱へと飛び移るサシバ、フヨウの花、「蛇の目傘」、「石突」、にまつわるうんちく、など。/Fyodor Mikhailovich Dostoevsky/Фёдор Миха́йлович Достое́вский(1821-1881)(wikipedia)「カラマーゾフの兄弟」フョードル・ドストエフスキー/The Brothers Karamazov(1880)/Fyodor Dostoyevsky(archive.org)「カラマーゾフの兄弟」フョードル・ドストエフスキー/The Brothers Karamazov(1880)/Fyodor Dostoyevsky(project gutenberg)「ドストエフスキーと父親殺し」ジークムント・フロイト/Dostoevsky and Parricide(1928)/Sigmund Freud・・・もちろん、ロシア文学をもって、本来的な意味における「傾向芸術」的なものとして描き出したり、ロシアの詩人たちがことごとく革命主義者であるか、そうでなくとも何らかの意味で進歩的である、と思い込んだりすることほど、誤謬に満ちたことはない。「革命的」だとか、「進歩的」などという用語は、それ自体、芸術を論ずる際には、きわめてわずかの意味しか持たないものなのである。Nothing, of course, could be more erroneous than to picture Russian literature as a tendentious art in a crude sense, nor to think of all Russian poets as revolutionists, or at least as progressives. Patterns such as “revolutionary’ or “progressive” in themselves mean very little in art.ドストエフスキーは、とりわけその晩年の著述においては、明白な反動家、宗教的神秘主義者、そして、社会主義に対する熱烈な反対者である。彼がロシアの革命派たちを描く筆致は、悪意を含んだ戯画化に満ち溢れている。トルストイの場合、その神秘主義的な教義が、反動的傾向に拍車をかけている、少なくともそれは確かだ。しかしながら、それにもかかわらず二人の作品は、示唆に富み、感情を刺激し、私たちの上に解放という効果を及ぼしうるのである。そして、なぜそのようなことが可能なのか、と言えば、彼らの出発点自体は、決して反動的ではなかった、という点に求めざるを得ないだろう、彼らの思想、彼らの感情は、現状維持を固定化しようなどという欲望に支配されたものでは決してなかったし、社会的な憎悪、狭い心、階級的自己中心主義に根差したものでもなかった。そうではなく、むしろ反対に、彼らのそれ、思想や感情は、人類に対する最も暖かい愛情に満ち、そして、社会的不正義に対する、最も心の奥底からの反発に根差しているのである。だからこそ、反動派に過ぎないドストエフスキーが、彼の作品の一つが、現にそう呼ばれているように、「侮辱され、傷ついた者たち」を代表する、芸術上の使徒、とさえなりうるのだ。彼、そしてトルストイの場合も、それぞれ異なるやり方とはいえ、彼ら自身が発見したと称する社会的な隘路から脱出すべき唯一の方法だとして、そこから引き出された結論が、彼らをして、神秘主義ないし禁欲主義なる迂回路へと導いたに過ぎないのである。しかし、真の芸術家にとっては、彼が推奨するところの社会的処方箋などというものは、二次的な重要性しか有しないのである、彼の芸術の源泉、そこに躍動する精神こそが、決定的なのであるから。Dostoevsky, especially in his later writings, is an outspoken reactionary, a religious mystic and hater of socialists. His depictions of Russian revolutionaries are malicious caricatures. Tolstoy’s mystic doctrines reflect reactionary tendencies, if not more. But the writings of both have, nevertheless, an inspiring, arousing, and liberating effect upon us. And this is because their starting points are not reactionary, their thoughts and emotions are not governed by the desire to hold on to the status quo, nor are they motivated by social hatred, narrow-mindedness, or caste egotism. On the contrary, theirs is the warmest love for mankind and the deepest response to social injustice. And thus the reactionary Dostoevsky becomes the artistic agent of the “insulted and injured,” as one of his works is called. Only the conclusions drawn by him and Tolstoy, each in his own way, only the way out of the social labyrinth which they believe they have found, leads them into the bypaths of mysticism and asceticism. But with the true artist, the social formula that he recommends is a matter of secondary importance; the source of his art, its animating spirit, is decisive....一人の人間が、他の人間を殺害することができる、そのような事柄が、ほぼ連日のごとくに、われわれの身近に、われわれの誇る「文明」のただ中において、われわれの家、愛すべき住居、のすぐ隣で、発生しうる、という事実が、ドストエフスキーをしてその心の底までをも震撼させた。自分の母親の犯した罪を通じて、人間性というものをつなぎとめていた絆が失われ、世界が、ばらばらにほどけてしまった「ハムレット」の場合と同じく、ドストエフスキーは、人が人を殺しうる、という事実に直面したことで、同じ崩壊を経験することになるのである。彼はそこに安住することができなかった、彼は、彼の上にのしかかってきた、この恐るべき事態に対して、われわれ一人一人と同じく、責任を感じた。彼は、殺人者の精神を説明しなければならない、と感じた、彼、殺人者の置かれたみじめな境遇をたどり、彼の苦悩を、その心の最も奥底に秘められたひだの一つ一つの内側までも、見なければならないと感じた。彼は、これらすべての拷問とも呼ぶべき苦痛に満ちた作業を通じて、ほかならぬ殺人者自身こそが、社会におけるもっとも不幸きわまりない被害者であるという理解に達し、その事実に、目もくらむ思いがしたのである。そうして、その力強い声を用いて、警鐘を鳴らすのである。彼は、文明社会なるものの愚かきわまりない自己中心主義が、その無関心のゆえに、殺人者を、警察の尋問の前に、検察官の前に、そして、その処刑人の前へと引き出し、あるいは、刑務所へと送り込むことによって、われわれの前から除去しうると信じ込んでいるわれわれの目を覚まさせるのである。ドストエフスキーは、われわれをして、この殺人者が耐え抜かなければならなかったすべての拷問を、同じく経験させ、ついにはわれわれをことごとく押しつぶしてしまうだろう。彼の描くラスコーリニコフを、あるいは、その父の殺害から一夜明けた日の、ディミトリ・カラマーゾフに対する反対尋問を、あるいはまた、「死の家の記憶」をひとたび経験したならば、われわれ一人一人は、もはや、ふたたび、われわれ自身を守ってくれる「ペリシテ人」的な殻を支えることも、自己満足的な自己中心主義に安住する世界にも、決して戻ることができないだろう。ドストエフスキーの小説の数々は、したがって、ブルジョワ社会に対する怒りに満ちた攻撃なのである、彼は、それに面と向かって、こう叫んでいるのだ、「真の殺人者は、人間の魂に対する真の殺人者は、ほかならぬ、お前だ!」と。The fact that one human being can murder another, that this can happen near us every day, in the midst of our “civilization,” next door to our home, sweet home, moves Dostoyevsky to the very bottom of his soul. As with Hamlet, who through his mother’s crime finds all the bonds of humanity untied and the world out of joint, so it is for Dostoyevsky when he faces the fact that one human being can murder another. He finds no rest, he feels the responsibility for this dreadful-ness weighing upon him, as it does on every one of us. He must elucidate the soul of the murderer, must trace his misery, his afflictions, down to the most hidden folds of his heart. He suffers all his tortures and is blinded by the terrible understanding that the murderer himself is the most unhappy victim of society. With a mighty voice, Dostoyevsky sounds an alarm. He awakens us from the stupid indifference of civilized egotism that delivers the murderer to the police inspector, to the public prosecutor and his henchmen, or to the penitentiary with the hope that thereby we shall all be rid of him. Dostoyevsky forces us to go through all the tortures the murderer goes through and in the end leaves us all crushed. Whoever has experienced his Raskolnikov, or the cross-examination of Dmitri Karamazov the night after the murder of his father, or the Memoirs from a Deathhouse, will never again find his way back to the supporting shell of philistine and self-satisfying egotism. Dostoyevsky’s novels are furious attacks on bourgeois society, in whose face he shouts: The real murderer, the murderer of the human soul, is you!...ロシア文学は、子供の世界を、特別な優しさ、特別な情愛をもってあつかう、それは、トルストイの「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」、あるいは、ドストエフスキーの「カラマーゾフ」、ゴンチャロフの「オブローモフ」、コロレンコの「悪い仲間」、「夜に」、あるいは、ゴーリキーの「彼ら三人」などに明らかである。ゾラもまた、その「ルーゴン・マッカール叢書」に収められた作品、「愛の一ページ」の中で、捨てられた子供の苦しみを描いている。しかし、そこに登場する病的なほど多感な子供は、その自己中心的な母親の愛情生活によって、深く傷つけられているのであり、この実験的な小説においては、「遺伝」の理論を描き出すという主題の、単なる「証拠物件」の一つ、としてしか扱われていない。Russian literature treats the world of the child with exceptional tenderness and affection, as is shown in Tolstoy’s War and Peace and Anna Karenina, in Dostoyevsky’s Karamazov, Goncharov’s Oblomov, Korolenko’s In Bad Company and At Night, and in Gorky’s Three of Them. Zola, in his novel Page d’amour, from the Rougon-Macquart cycle, describes the sufferings of a neglected child. But here the sickly and hypersensitive child, morosely affected by the love affair of an egotistic mother, is only a “means of evidence” in an experimental novel, a subject to illustrate the theory of inheritance.しかしロシアの文学者たちにとっては、子供とその精神は、独立の一体性を有した存在なのであり、大人とまったく同程度の、芸術的関心の対象となるべきものなのだ、ただただ、大人と異なるのは、彼らが、より自然に近く、より損なわれることが少なく、そして、なお重要なことは、より社会悪にさらされることに対して、無力である、ということに過ぎない。「誰であれ、これら小さき者たちを害する者は・・・その首に碾き臼をぶら下げられてしかるべきなのだ」、等々。現下の社会は、これら何百万という小さき者たちを害し、彼らから、その最も貴重で、取り返しのつかないもの、すなわち、幸せで、悲しみのない、調和の取れた子供時代、というものを、奪い去っているのである。To the Russian, however, the child and its soul is an independent entity, the object of artistic interest to the same extent as the adult, only more natural, less spoiled and certainly more helplessly exposed to the evils of society. “Whosoever shall offend one of these little ones ... it were better for him that a millstone were hanged about his neck,” and so on. Present society offends millions of those little ones by robbing them of what is most precious and irretrievable, a happy, sorrowless, harmonious childhood.社会的条件の被害者として、一人の子供の世界は、そのみじめさ、その幸せともども、ロシアの芸術家の心には、特別な近しさを持ってきたのである。彼は、子供に対して、普通の大人が、当然のこととして採用するであろうような、嘘っぽく、冗談めかして、身をかがめて見せるような身振りをとらない、そうではなく、彼、子供を、一人の仲間として、正直で真剣な同志的身振りをもってあつかうのである、そう、これら小さき存在の、まだ触れられたことのない部分に対する、内面的な謙虚さ、敬意さえを伴って。As a victim of social conditions, a child’s world with its misery and happiness is especially near to the Russian artist’s heart. He does not stoop to the child in the false and playful manner which most adults believe necessary, but treats it with honest and sincere comradeship, yes, even with an inner shyness and respect for the untouched little being.「コロレンコの生涯(1918)」ローザ・ルクセンブルク/Life of Korolenko(1918)/Rosa Luxemburg・・・・・・哀れな妻は師範出の教師といっしょにペテルブルグに逃げ、そこでのびのびと完全な解放感にひたっていたのだった。フョードルはとたんに騒ぎだし、ペテルブルグに行く支度にかかった。何のためにかは、もちろん、彼自身にもわからなかった。実際また、そのまま出発しかねぬ勢いだった。だが、そう決心すると、とたんに、門出にあたって元気づけにとことんまで飲む特別の権利が自分にあると考えた。そして、まさにその真最中に、ペテルブルグにいる妻の訃報が実家に入ったのである。・・・フョードルは酔払った状態で妻の死をきき知った。話によると、彼は往来を走りだし、嬉しさのあまり両手を空にかざして、「今こそ去らせて下さいます」と叫びだしたそうだが、また別の噂では、幼い子供のようにおいおいと泣きじゃくり、その様子たるや、みなの鼻つまみ者だったにもかかわらず、見るのもいじらしいほどだったともいう。・・・(1-1)... The poor woman turned out to be in Petersburg, where she had gone with her divinity student, and where she had thrown herself into a life of complete emancipation. Fyodor Pavlovitch at once began bustling about, making preparations to go to Petersburg, with what object he could not himself have said. He would perhaps have really gone; but having determined to do so he felt at once entitled to fortify himself for the journey by another bout of reckless drinking. And just at that time his wife’s family received the news of her death in Petersburg. ... Fyodor Pavlovitch was drunk when he heard of his wife’s death, and the story is that he ran out into the street and began shouting with joy, raising his hands to Heaven: “Lord, now lettest Thou Thy servant depart in peace,” but others say he wept without restraint like a little child, so much so that people were sorry for him, in spite of the repulsion he inspired. ...(1-1)ところが、たまたま、亡くなったアデライーダの従兄にあたるピョートル・アレクサンドロウィッチ・ミウーソフがパリから帰ってきた。これは、その後もひきつづき永年外国暮らしをつづけた人で、当時はまだ非常に若かったが、ミウーソフ家の人々の間では別格で、教養が深く、都会的、外国的であり、しかも終生ヨーロッパ人で通し、晩年には、四、五十年代のリベラリストとなった人物である。立身の道を歩みつづける間ずっと、彼はロシアでも外国でも当代のもっとも自由主義的な多くの人々と交遊を結び、プルードンともバクーニンとも個人的に親しかったし、自己の放浪生活の終わりごろになってからは、一八四八年のパリの二月革命の三日間を回想して物語るのをとりわけ好み、自分ももう少しでバリケード戦に参加するところだったと、仄めかすのだった。・・・(1-2)But a cousin of Mitya’s mother, Pyotr Alexandrovitch Miüsov, happened to return from Paris. He lived for many years afterwards abroad, but was at that time quite a young man, and distinguished among the Miüsovs as a man of enlightened ideas and of European culture, who had been in the capitals and abroad. Towards the end of his life he became a Liberal of the type common in the forties and fifties. In the course of his career he had come into contact with many of the most Liberal men of his epoch, both in Russia and abroad. He had known Proudhon and Bakunin personally, and in his declining years was very fond of describing the three days of the Paris Revolution of February 1848, hinting that he himself had almost taken part in the fighting on the barricades. ...(1-2)その後、ごく幼いころから始終おどおどおしどおしだったこの不幸な若い女性は、下層階級の農村婦人なぞの間でいちばんよく見受ける、女性特有の一種の神経症とも言うべき病気にかかった。この病気にかかった人は、癲狂病みと呼ばれるのである。・・・(1-3)In the end this unhappy young woman, kept in terror from her childhood, fell into that kind of nervous disease which is most frequently found in peasant women who are said to be “possessed by devils.” (1-3)ところが、老婦人の筆頭相続人は、その県の貴族会長をしている、エフィム・ペトローウィチ・ポレノフという、篤実な人だった。・・・この点をわたしは読者に最初から心にとめておいていただきたいと思う。かりに二人の青年が養育と教育に対して一生の間恩義を感ずべき人があるとしたら、それはまさしく、まれに見るほど高潔で慈悲深いポレノフにほかならぬからだ。(1-4)The principal heir, Yefim Petrovitch Polenov, the Marshal of Nobility of the province, turned out, however, to be an honest man. ... I beg the reader to note this from the beginning. And to Yefim Petrovitch, a man of a generosity and humanity rarely to be met with, the young people were more indebted for their education and bringing up than to any one.(1-4)すでに大学を卒業したあと、例の自分の二千ルーブルで外国に行ってくる準備を進めるかたわら、彼は、専門家でない人たちの注意まで集めた。そして何よりも彼は理科を出たのだから明らかにまったく門外漢と思われる問題に関する、風変わりなある論文を大新聞の一つに突然発表したのである。論文は当時いたるところで持ちあがっていた教会裁判をめぐる問題について書かれたものだった。(1-5)When he had just left the university and was preparing to go abroad upon his two thousand roubles, Ivan Fyodorovitch published in one of the more important journals a strange article, which attracted general notice, on a subject of which he might have been supposed to know nothing, as he was a student of natural science. The article dealt with a subject which was being debated everywhere at the time—the position of the ecclesiastical courts. (1-5)ついでにフョードルのことにも触れておこう。彼はこれに先立つ永い間、この町に暮らしていなかった。二度目の妻の死後、三、四年間というもの、彼はロシア南部におもむき、終わりごろオデッサに現れて、そこで数年間ぶっ続けに過ごした。彼自身の言葉によれば、最初は《大勢のち・ん・け・な・ユダヤ人の男女》と知り合いになり、最後にはちんけな連中だけではなく、《れっきとしたユダヤ人の家にも迎えられる》までになったという。彼があくせく金を稼いで貯めこむ独特の才覚に磨きをかけたのは、まさに生涯のこの時期だったと考えねばなるまい。・・・(1-6)Fyodor Pavlovitch, by the way, had for some time previously not been living in our town. Three or four years after his wife’s death he had gone to the south of Russia and finally turned up in Odessa, where he spent several years. He made the acquaintance at first, in his own words, “of a lot of low Jews, Jewesses, and Jewkins,” and ended by being received by “Jews high and low alike.” It may be presumed that at this period he developed a peculiar faculty for making and hoarding money.(1-6)俺が死んでも、悪魔たちが鉤で引き寄せるのを忘れる、というわけにはいかんものだろうか、と思うのさ。それからこう思うんだ。鉤だなんて?どこからそんなものが悪魔の手に入るんだろう?材質は何だ?鉄だろうか?いったいどこで作るんだろう?やつらのところにも、工場か何かがあるのかな?なにしろ修道院の坊主たちは、早い話、地獄に天井があると、どうやら考えているらしいからな。そりゃ俺だって、地獄を信じていいけれど、ただ天井だけはぬきにしてもらいたいよ。でないと、せっかくの地獄が何かこう、垢ぬけた文化的な、つまり、ルーテル派式のものになっちまうからな。(1-7)It’s impossible, I think, for the devils to forget to drag me down to hell with their hooks when I die. Then I wonder—hooks? Where would they get them? What of? Iron hooks? Where do they forge them? Have they a foundry there of some sort? The monks in the monastery probably believe that there’s a ceiling in hell, for instance. Now I’m ready to believe in hell, but without a ceiling. It makes it more refined, more enlightened, more Lutheran that is.(1-7)現実主義者を信仰に導くのは、奇蹟ではない。真の現実主義者は、もし信仰をもっていなければ、奇蹟をも信じない力と能力を自己の内に見いだすであろうし、かりに反駁しえぬ事実として奇蹟が目の前にあらわれたとしても、その事実を認めるくらいなら、むしろ自己の感情を信じないだろう。またもし事実を認めるとしたら、ごく自然な、これまで自分が知らなかったに過ぎぬ事実として認めるにちがいない。現実主義者にあっては、信仰が奇蹟から生まれるのではなく、奇蹟が信仰から生まれるのである。現実主義者がいったん信じたなら、まさしく自己の現実主義によって必ず奇蹟をも認めるはずである。使徒トマスは、自分の目で見るまでは信じないと明言したが、いざ見るに及んで、「わが主よ、わが神よ!」と言った。奇蹟が彼に信仰をいだかせたのだろうか?まず確実なところ、そうではあるまい。彼が信じたのは、もっぱら、信じようと願ったからにすぎないし、ことによると、「自分の目で見るまでは信じない」と述べた、すでにその時から、自己の存在の内奥では全面的に信じていたのかもしれないのだ。(1-8)It is not miracles that dispose realists to belief. The genuine realist, if he is an unbeliever, will always find strength and ability to disbelieve in the miraculous, and if he is confronted with a miracle as an irrefutable fact he would rather disbelieve his own senses than admit the fact. Even if he admits it, he admits it as a fact of nature till then unrecognized by him. Faith does not, in the realist, spring from the miracle but the miracle from faith. If the realist once believes, then he is bound by his very realism to admit the miraculous also. The Apostle Thomas said that he would not believe till he saw, but when he did see he said, “My Lord and my God!” Was it the miracle forced him to believe? Most likely not, but he believed solely because he desired to believe and possibly he fully believed in his secret heart even when he said, “I do not believe till I see.”(1-8)第一に、この方面に詳しい専門家の確言によると、長老とか長老制度とかが、わがロシアの修道院にあらわれたのは、ごく最近のことで、まだ百年にもなっていないほどであるが、一方、正教の東方全体、とくにシナイやアトスには、すでにはるか千年も昔から存在しているという。確かな説によれば、長老制度はごく古代のわがロシアにも存在していた、もしくは必ず存在していたにちがいないのだが、ロシアのさまざまな厄災や、タタールの支配、動乱、コンスタンチノープルの陥落後における、東方とのそれまでの交渉の中断などの結果、この制度が忘れ去られ、長老は途絶えたのだという。それがふたたびわが国で復活されたのは、前世紀の末、偉大な苦行者の一人(とよばれている)バイーシイ・ヴェリチコフスキーと、その弟子たちによってであるが、ほとんど百年近くをへた今日でさえ、存在しているのはまだ、ほんのごく一部の修道院にだけであり、時には、ロシアではかつてきいたこともない新制度として、迫害をこうむりさえしてきた。これがわがロシアで特に栄えたのは、有名なコゼーリスカヤ・オープチナ修道院でだった。(1-9)Authorities on the subject assert that the institution of “elders” is of recent date, not more than a hundred years old in our monasteries, though in the orthodox East, especially in Sinai and Athos, it has existed over a thousand years. It is maintained that it existed in ancient times in Russia also, but through the calamities which overtook Russia—the Tartars, civil war, the interruption of relations with the East after the destruction of Constantinople—this institution fell into oblivion. It was revived among us towards the end of last century by one of the great “ascetics,” as they called him, Païssy Velitchkovsky, and his disciples. But to this day it exists in few monasteries only, and has sometimes been almost persecuted as an innovation in Russia. It flourished especially in the celebrated Kozelski Optin Monastery. (1-9)修道僧たちは長老のことを噂して、長老は罪深い者ほど愛着をおぼえ、いちばん罪深い人間を、だれよりも愛するのだと語っていた。(1-10)The monks used to say that he was more drawn to those who were more sinful, and the greater the sinner the more he loved him.(1-10)帽子を軽くあげて挨拶したあと、彼は甘たるい舌たらずな発音で、トゥーラの地主マクシーモフであると、誰にともなく自己紹介した。(2-1)Lifting his hat, he introduced himself with a honeyed lisp as Maximov, a landowner of Tula.(2-1)いまもハリコフ県の地主さまで、ホフラコワ様とおっしゃるご婦人が、衰弱しきったお嬢様をお連れになって、待っておられます。(2-2)There is a Harkov lady, Madame Hohlakov, waiting there now with her sick daughter.(2-2)庵室はひどく手狭で、なんとなくみすぼらしい感じだった。家具調度は無趣味で、貧弱で、ごく必要なものだけだった。出窓に花瓶が二つ置かれ、一隅にたくさんの聖像画が飾られてあったが、聖母像の一つは巨大なサイズで、おそらく教会分裂のずっと前に書かれたものに違いなかった。その前に燈明がともっていた。そのわきに、被い金の燦然と輝く別の聖像画が二枚、さらにそのまわりに、いかにも作り物めいたケルビム天使像や、陶製の卵、嘆きの聖母に抱かれた象牙製のカトリック十字架、過去何世紀かにわたるイタリアの偉大な画家たちの外国製の版画数枚、なぞが飾ってあった。(2-3)The cell was not very large and had a faded look. It contained nothing but the most necessary furniture, of coarse and poor quality. There were two pots of flowers in the window, and a number of holy pictures in the corner. Before one huge ancient ikon of the Virgin a lamp was burning. Near it were two other holy pictures in shining settings, and, next them, carved cherubims, china eggs, a Catholic cross of ivory, with a Mater Dolorosa embracing it, and several foreign engravings from the great Italian artists of past centuries. Next to these costly and artistic engravings were several of the roughest Russian prints of saints and martyrs, such as are sold for a few farthings at all the fairs. On the other walls were portraits of Russian bishops, past and present.(2-3)・・・(1-1)最初の妻、アデライーダ・イワノヴナAdelaïda Ivanovna、長男ドミートリDmitriの母、の出奔と死、下線部は、「ルカによる福音書第二章」、イエスの誕生に際して、エルサレムの人シメオンSimeon、ヤコブJacobとレアLearの間の子、の言葉、とのこと・・・2-29『主よ、今こそ御言に循ひて、僕を安らかに逝かしめ給ふなれ。2-30わが目は、はや主の救を見たり。「ルカ傳福音書」2-29 Lord, now lettest thou thy servant depart in peace, according to thy word:2-30 For mine eyes have seen thy salvation,Luke旧約聖書の登場人物・・・(1-2)下線部、「the capitals」は「両首都」などとも訳される、モスクワとペテルスブルグを指すのではなかろうかと思うが、日本語訳では、明らかではないな、・・・、この記事と、もう少し後の引用部分から、この物語の「年代」を特定できると思われるので、メモしておこうプルードンProudhon:ピエール・ジョゼフ・プルードンPierre-Joseph Proudhon(1809-1865)、ブザンソンBesançon、スイス国境に近いフランスの町、ベルンBernの西北西150キロ、スイス、地図、生まれ、印刷所の校正係として働きつつ、ラテン語、ヘブライ語等を独学、1840年、「財産とは何かWhat Is Property? Or, an Inquiry into the Principle of Right and Government/Qu'est-ce que la propriété? Recherche sur le principe du droit et du gouvernement」出版、1848年、「二月革命」に参加バクーニンBakunin:ミハイル・アレクサンドロヴィチ・バクーニンMikhail Alexandrovich Bakunin(1814-1876)、モスクワ北西200キロ、プリャムヒノPryamukhino生まれ、モスクワ、ベルリン、パリで学業、ロシア帝国のポーランド占領に反対して、フランスから退去を命ぜられる、1848年のプラハ蜂起、1849年のドレスデン蜂起に参加、ドレスデンで逮捕、ロシアに移送、サンクトペテルスブルグの、「ペトロパブロフスク要塞Peter and Paul Fortress/Петропавловская крепость」に1857年まで収監、のち、シベリア流刑、1861年、脱走、日本、サン・フランシスコ、パナマ、ニューヨーク、ボストン経由でロンドンへ、・・・、ちょうど「南北戦争」期のアメリカに滞在したわけで、彼は北軍に支持を与えたものの、「奴隷解放」との言論の偽善を見抜き、また、「南部」の農村主体の経済システムが、「北部」資本主義より、より自由であるとの考えも持っていた、といわれる、1863年、ポーランドの「一月蜂起」を支援、その後イタリアを経て、スイスへ、1870年、リヨン・コミューンに参加、・・・・・・(1-3)二度目の妻、ソフィア・イワーノヴナSofya Ivanovna・・・(1-4)二番目の妻ソフィアの養育者だった「老婦人/将軍夫人old lady/general’s widow」の「筆頭相続人」・・・(1-5)「訳注」によれば、「一八六四年の裁判制度改革に伴ない、教会裁判の改革も検討され」、とある、これは、アレクサンドル二世Alexander II治下の諸改革の一つと思われる、wikipedia英語版によれば、Under the Russian Empire, Russian Orthodox ecclesiastical courts held jurisdiction over cases of adultery, incest, bestiality, and blasphemy.帝政ロシアでは、ロシア正教会「教会裁判所」が、姦通、近親婚、獣●姦、神への冒涜、に関し裁判権を有していた。(1-6)「(ちんけな)ユダヤ人の男女」と訳されている部分の、「Jews, Jewesses, and Jewkins」のうち、「Jewesses」は、ユダヤ人「Jew」の女性形「Jewess」の複数形、「Jewkin」なる単語を辞書で見つけることはできなかったが、「kin」は親類の意味だから、「ユダヤ人の仲間」的なニュアンスだろうか、・・・、時として「反ユダヤ主義的」表現を用いることで知られる作家であるから、いずれにせよ、多少の侮蔑的ニュアンスが含まれているのだろう、と想像される。(1-8)「十二使徒」の名前については、以下参照↓身勝手な「トラウマ」の「成仏」、としての、オスカー・ワイルド「サロメ」、中勘助「鳥の物語」と「聖書」研究、を兼ねて、パレスチナを歩・い・て・、みる・・・20:24イエス來り給ひしとき、十二弟子の一人デドモと稱ふるトマスともに居らざりしかば、20:25他の弟子これに言ふ『われら主を見たり』トマスいふ『我はその手に釘の痕を見、わが指を釘の痕にさし入れ、わが手をその脅に差入るるにあらずば信ぜじ』20:26八日ののち弟子たちまた家にをり、トマスも偕に居りて戸を閉ぢおきしに、イエス來り、彼らの中に立ちて言ひたまふ『平安なんぢらに在れ』20:27またトマスに言ひ給ふ『なんぢの指をここに伸べて、わが手を見よ、汝の手をのべて、我が脅にさしいれよ、信ぜぬ者とならで信ずる者となれ』20:28トマス答へて言ふ『わが主よ、わが神よ』20:29イエス言ひ給ふ『なんぢ我を見しによりて信じたり、見ずして信ずる者は幸福なり』ヨハネ傳福音書/第20章20:24 But Thomas, one of the twelve, called Didymus, was not with them when Jesus came.20:25 The other disciples therefore said unto him, We have seen the Lord. But he said unto them, Except I shall see in his hands the print of the nails, and put my finger into the print of the nails, and thrust my hand into his side, I will not believe.20:26 And after eight days again his disciples were within, and Thomas with them: then came Jesus, the doors being shut, and stood in the midst, and said, Peace be unto you.20:27 Then saith He to Thomas, Reach hither thy finger, and behold my hands; and reach hither thy hand, and thrust it into my side: and be not faithless, but believing.20:28 And Thomas answered and said unto him, My Lord and my God.20:29 Jesus saith unto him, Thomas, because thou hast seen Me, thou hast believed: blessed are they that have not seen, and yet have believed.John/chapter 20(1-9)アトスAthos:ギリシャ北東部、エーゲ海に突き出したアトス半島の先端にそびえる標高2033mの山。その周辺は正教会の聖地。ギリシア、エーゲ海コンスタンチノープルConstantinopleが、メフメト二世Mehmed II率いるオスマン・トルコ軍の占領を受けたのは、1453年ロシアが、モンゴル系(モンゴル語族Mongolic)、タタール系(テュルク語族キプチャク語群)の支配下にあったのは、13世紀から15世紀、とのこと「コゼーリスカヤ・オープチナ修道院Kozelski Optin Monastery」、を検索すると、「カラマーゾフの兄弟」のこの一節のみが参照される、おそらく、実在の修道院ではなく、ドストエフスキーによる創意と思われる、一方、「バイーシイ・ヴェリチコフスキーPaïssy Velitchkovsky/Paisius Velichkovsky(1722-1794)」は、実在する正教会の、長老制度の推進者であったらしい(2-1)トゥーラTula:モスクワの南200キロ、北欧、ヨーロッパ・ロシア、地図(2-2)ハリコフHarkov、は、現ウクライナのハリコフKharkiv、キエフの東400キロ、ロシア国境近く、を指すと思われる、中央ヨーロッパ、ウクライナ、地図(2-3)ゾシマ長老Father Zossimaの庵室の情景「教会分裂」についての記述は英語版では欠落している、ロマノフ朝ツァーリ・アレクセイ在位の17世紀中葉、モスクワ総主教ニコンPatriarch Nikon of Moscowの改革の影響で、ロシア正教会が分裂したことを指すケルビムcherubim:「智天使」、「創世記第参照」によれば、アダムとイヴの追放後、エデンの東の園に炎の剣とともに、神によって置かれた3:23 ヱホバ神彼をエデンの園よりいだし其取て造られたるところの土を耕さしめたまへり3:24 斯神其人を逐出しエデンの園の東にケルビムと自から旋轉る焔の劍を置て生命の樹の途を保守りたまふ創世記3:23 Therefore the LORD God sent him forth from the garden of Eden, to till the ground from whence he was taken.3:24 So he drove out the man; and he placed at the east of the garden of Eden Cherubims, and a flaming sword which turned every way, to keep the way of the tree of life.・・・Russian Orthodox Cross/Latin cross・・・悲しみの聖母Beata Maria Virgo Perdolens/Our Lady of Sorrows/Our Lady of Dolours、dolor:悲しみ,嘆き・・・わかりますか、リーズ、侮辱されつづけの人間にとって、みんなが恩着せがましい目で自分を見るようになるってのは、おそろしくつらいものなんですよ・・・・・・(5-1)You know, Lise, it’s awfully hard for a man who has been injured, when other people look at him as though they were his benefactors....(5-1)あのね、十八世紀に一人の罪深い老人がいたんだが、その老人が、もし神が存在しないのなら、考えだすべきである、S'il n'existait pas Dieu, il faudrait l'inventer.、と言ったんだ。(5-2)You know, dear boy, there was an old sinner in the eighteenth century who declared that, if there were no God, he would have to be invented. S’il n’existait pas Dieu, il faudrait l’inventer. (5-2)「ついでに、最近モスクワでさるブルガリヤ人からきいた話を披露しておくがね」イワンは弟の言葉など耳に入らぬかのように、つづけた。「ブルガリヤでは、トルコ人やチェルケス人たちがスラブ人の一斉蜂起を恐れて、いたるところで残虐行為を働いているということだ。・・・」(5-3)“By the way, a Bulgarian I met lately in Moscow,” Ivan went on, seeming not to hear his brother’s words, “told me about the crimes committed by Turks and Circassians in all parts of Bulgaria through fear of a general rising of the Slavs. ... ”(5-3)しかし、何によって、いったい何によって償える?はたしてそんなことが可能だろうか?迫害者たちが復讐されることによってか?しかし、、俺にとって復讐が何になる。なぜ迫害者のための地獄なんぞが俺に必要なんだ。子供たちがすでにさんざ苦しめられたあとで、地獄がいったい何を矯正しうるというんだ?それに、地獄があるとしたら、調和もくそもないじゃないか。俺だって許したい、抱擁したい、ただ俺は人々がこれ以上苦しむのはまっぴらだよ。そして、もし子供たちの苦しみが、真理を買うのに必要な苦痛の総額の足し前にされたのだとしたら、俺はあらかじめ断っておくけど、どんな真理だってそんなべらぼうな値段はしないよ。(5-4)But how? How are you going to atone for them? Is it possible? By their being avenged? But what do I care for avenging them? What do I care for a hell for oppressors? What good can hell do, since those children have already been tortured? And what becomes of harmony, if there is hell? I want to forgive. I want to embrace. I don’t want more suffering. And if the sufferings of children go to swell the sum of sufferings which was necessary to pay for truth, then I protest that the truth is not worth such a price.(5-4)地上には三つの力がある。そしてただその三つの力のみが、こんな弱虫の反逆者たちの良心を、彼らの幸福のために永久に征服し、魅了することができるのだ。その力とは、奇蹟と、神秘と、権威にほかならない。お前は第一の力も、第二も、第三もしりぞけ、みずから模範を示した。聡明な恐ろしい悪魔が寺院の頂上にお前を立たせて、《もしお前が神の子なのかどうかを知りたければ、下にとびおりてみるがいい。なぜなら、神の子は天使に受けとめられ、運ばれるので、下に落ちることもないし、怪我もしないと書いてあるのだから。そうしてこそ、お前が神の子かどうか、わかるだろうし、そうしてこそ父なる神へのお前の信仰がどんなものなのかを証明できるのだ》と言ったとき、お前はそれをきき終ってから、提案をしりぞけ、誘いにのらず、下にとびおりたりしなかった。ああ、もちろんあの場合お前は、神として、誇り高く立派に振舞った。だが人間が、この弱虫な反逆者の種族が、いったい神だろうか?そう、あのとき、一歩踏みだしさえすれば、とびおりようと身動きしさえすれば、とたんに神を試みることになり、神への信仰をことごとく失って、お前が救うために来た台地にぶつかって大怪我をしたにちがいないし、お前を試した聡明な悪魔が大喜びしたにちがいないことを、お前はさとったのだが、もう一度言うが、お前のような人間がたくさんいるだろうか?(5-5)There are three powers, three powers alone, able to conquer and to hold captive for ever the conscience of these impotent rebels for their happiness—those forces are miracle, mystery and authority. Thou hast rejected all three and hast set the example for doing so. When the wise and dread spirit set Thee on the pinnacle of the temple and said to Thee, “If Thou wouldst know whether Thou art the Son of God then cast Thyself down, for it is written: the angels shall hold him up lest he fall and bruise himself, and Thou shalt know then whether Thou art the Son of God and shalt prove then how great is Thy faith in Thy Father.” But Thou didst refuse and wouldst not cast Thyself down. Oh, of course, Thou didst proudly and well, like God; but the weak, unruly race of men, are they gods? Oh, Thou didst know then that in taking one step, in making one movement to cast Thyself down, Thou wouldst be tempting God and have lost all Thy faith in Him, and wouldst have been dashed to pieces against that earth which Thou didst come to save. And the wise spirit that tempted Thee would have rejoiced. But I ask again, are there many like Thee? (5-5)・・・(5-1)イリューシェチカIlushaの父、「二等大尉」スネギリョフSnegiryovが、カテリーナ・イワノヴナKaterina Ivanovnaの出捐した二百ルーブルを受け取らなかったことについて、アリョーシャが、リーズに説明している(5-2)訳注によれば、ヴォルテール「三人の偽君子に関する書の著者へあてた手紙」の一節、とのこと・・・「三人の偽君子に関する書」は、おそらく「Traité sur les trois imposteurs」、「三人の偽君子」は「アブラハムの宗教」たる、キリスト教、ユダヤ教、イスラムをそれぞれ代表するイエス、モーゼ、ムハンマドを指す、と言われる(5-3)「スラブ人の一斉蜂起を恐れて、いたるところで残虐行為を働いている」:オスマン帝国支配に対するブルガリア人の、1876年、「四月蜂起April Uprising」、これに対するオスマン側非正規軍による「バタク虐殺Batak massacre」などを指す、バタクBatakは、ソフィアの南東100キロ、ブルガリア付近、地図「チェルケス人Circassians」:チェルケシアCircassia、ロシア南部、黒海のチェルケス海岸からカフカス山脈にそって存在した領域を故地とする、北西コーカサス語族のチェルケス語を母語とする民族北西コーカサス語族Northwest Caucasian languages(5-4)イワンの言葉(5-5)イワンの語る「大審問官Grand Inquisitor」の言葉「幸せ/仕合はせ」、「幸さち」、「幸さいはひ」・・・「幸せ」について、次回までに調べてきなさい、という「宿題」を出されたので(笑)、そんな場合の子供と同じように、まず、辞書を紐解くことにした、・・・、まず、「広辞苑」にあたったのだが、ごく常識的な記述があるばかりだったので、次は「古語辞典」、古書店でたしか200円くらい、という捨て値で手に入れたものだ、「福武書店」のものだから、つまり受験生向けなのであろう、・・・しあはせ【仕合はせ】(1)巡り合わせ。運。「今朝は仕合はせよく侍りて、多く釣り候ふなり」(御伽草子)(2)事のなりゆき。次第。始末。「そなたの純なるゆゑにかかる仕合はせ」(浮世草子)(3)幸福。幸運。「それはまことに仕合はせでござる」(狂言)(4)やりかた。しうち。「言語道断、憎い仕合はせでござる」(狂言)さち【幸】(1)獲物をとる霊力を持つ道具。弓矢や釣り針の類。「おのおの幸を相易あひかへて用ゐむ」(古事記)(2)漁や狩りで獲物が多いこと。また、獲物。「おのおのその幸を得ず」(古事記)(3)さいわい。幸福。さいはひ【幸ひ】(一)名詞・「ナリ」活用形容動詞:「さきはひ」の転。運がよいこと。幸福。「身幸ひあらば、この雨は降らじ」(伊勢物語)(二)副詞:運よく。ちょうど。「幸ひ汝は薬師くすしぢゃというほどに、この腰を直いてくれい」(狂言)・・・福武書店「古語辞典」による「御伽草子」、鎌倉時代末から、江戸時代にかけて成立、「浮世草子」は江戸時代の成立、「狂言」は、室町時代を通じて成立、安土桃山時代にはほぼ完成を見たというから、確言はできないが、「仕合はせ」の(3)の用例は、(1)、(2)よりも後代に付加されたもの、と見ることができる、と思える、・・・、ここまででわかったことは、「しあわせ」は元来「仕合わせ」と表記されていたのであり、かつ、今日的な「幸福」の含意はほとんどなかった、一方、「幸」の漢字の訓読みは、もっぱら、「さいはひ」ないし「さち」であって、前者は、やはり「仕合わせ」同様、「運」的ニュアンス、後者は、「豊穣」を暗示する霊物というさらに遠いとも思える意味、「しあはせ」に対しての「当て字」として使用することになるのも、同じく、ずっと後代のことであっただろう、と想像される、ということ・・・ならば、漢語としての「幸/コウ」はどうだろう?、角川書店「新字源」に登場願うことになる【幸】コウ、カウ、Xing、さいわ(い)、さち、しあわ(せ)会意形声。もと、夭よう(土はその変形。「わかじに」を意味する)と、さかさまの意と音とを示す逆の「しんにゅう」を取り除いた部分)とから成り、「わかじにせずながらえる」ことから、「さいわい」の意を表す。(中略)(1)さいわい(さいはひ)、思いがけないしあわせ。僥倖。しあわせ(しあはせ)「幸福」(2)さいわいに(さいはひに)、運よく。しあわせに。(3)さきわう(さきはふ)。さいわいする。しあわせをあたえる。(4)いつくしむ。かわいがる。(5)めぐみ。「寵幸」(6)ねがう(ねがふ)(7)みゆき。天子のおでまし。「行幸」(「国字」として)さち。海や山でとれた獲物や食物。「さいわい(さいはひ)」の同訓異義【祜】こ:神助の厚いこと。【幸】こう:しあわせ。「福」より軽い。また、思いがけないしあわせにあうのをいう。幸福。【倖】こう:「幸」に通じる。まぐれあたりのさいわい。僥倖【祥】しょう:めでたいしるしの現れるのをいう。不祥。【福】ふく:「禍」の対。果報のよいこと。めでたいこと。また、まつりの供物のおさがり。飲福。・・・角川書店「新字源」によるここから浮かび上がってくるのは、「幸」の字は、たしかに現代語の「幸福」と重なる部分がないではないが、やはり、もっぱら、偶然に左右されたところの、「運のよさ」というニュアンスが強い、ということであろう、さらに注目すべきことは、「新字源」には、この後、「幸」の字を含む熟語の一覧が並ぶのであるが、その中に「幸福」がな・い・のである、ということは、想像をたくましくすれば、これは「幸」と「福」、「和語」としては、おなじく「さいわい」と読まれる二つの意味の近い字を並べて、かなり新しい時代につくられたものではなかろうか?、ということになろう、新しい時代、とはもちろん、ヨーロッパ植民地主義者の到来、「開国」という意味、つまり、ヨーロッパ諸語の「ハピネス」にあたる言葉の訳語として、考案されたのでは、という憶測を言っている・・・では「漢語」の供給源であり続けてきたはずの隣国、中国はどうであったか、ネットの中国語辞典を見ると、以下のような、旧「毛沢東主義者/マオイスト」には、懐かしさを禁じえない用例が並んでいる、もちろん、これだけでは何とも言えないが、この語の使用が、そんなに、ごく新しいものであるとするならば、上の「状況証拠」と絡めれば、中国にとっても、この語が作・ら・れ・た・のは、やはり、十九世紀末から二十世紀初頭、西洋「列強」から「開国」を迫られつつあった時代、だったのかもしれない、と想像することも可能であろう・・・幸福xìngfú用例退休工人都有一个幸福的晚年:退職労働者には、みな幸福な晩年が待っている我幸福地见到了主席:私は幸運にも主席にお目にかかることができた(白水社・中国語辞典)・・・では、「幸福」なる漢語が作・ら・れ・た・ばかりと想像される時代を生きた人々の書き残したものを見てみよう・・・これは、高橋源一郎「日本文学盛衰史」では、刑場に引き立てるべく看守が房を訪れたとき、彼は、この絶筆をまだ書き終えていなかった、という風に描かれている、幸徳秋水の言葉、・・・わたくしは、長寿かならずしも幸福ではなく、幸福はただ自己の満足をもって生死するにありと信じていた。「死刑の前」幸徳秋水 ・・・次は、末端とはいえ、「武士階級」の家に生まれ、幼少の砌みぎりから、漢籍に親しんできたはずの、一葉女史・・・例えば「十三夜」には、「幸福」はもとより一度も登場せず、「仕合わせ/幸」さえも、3か所登場するすべての場面で、その否定語「不仕合わせ/不幸せ」としてなのである・・・「不幸」を描いた物語なのだから、と言えばそれまでだが、はたして「幸福」などという言葉が、人口に膾炙するようになったのは、いったいいつの時代からだったのか?、という、より大きな問題かもしれないものを、これは示唆してくれるかもしれないではないか?・・・吁あゝ、私わし位不仕合の人間はあるまい、御前のやうな妻を持つたのはと言ひ捨てに出て御出で遊ばしました・・・斯く形よく生れたる身の不幸ふしやはせ、不相應の縁につながれて幾らの苦勞をさする事と哀れさの増れども・・・母親は聲たてゝ何といふ此娘は不仕合と又一しきり大泣きの雨「十三夜」樋口一葉・・・もう一つ「明治」文学の代表として、夏目漱石「こころ」を取り上げよう、「仕合しあわせ」は、全部で3回、登場する、そのうち最初の二つは、上の「古語辞典」にみる(1)ないし(2)、「巡り合わせ、運、事のなりゆき、次第、始末」の用例であり、最後のものにしても、例えば「自己実現」、などという濃厚な含意のつまった今日的な用法からは程遠いものに思われる・・・・・・それがどういう仕合しあわせか、今日までこうしている。・・・都合の好い仮面を人が貸してくれたのを、かえって仕合しあわせとして喜びました。・・・私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは仕合しあわせです。「こころ」夏目漱石・・・一方「幸福」は、下を含めて18か所・・・「・・・私たちは最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」・・・先生はなぜ幸福な人間といい切らないで、あるべきはずであると断わったのか。私にはそれだけが不審であった。「こころ」夏目漱石漱石も、また、幸徳秋水も、幼少期から、「四書五経」等の漢籍を、暗記、暗唱することが「学ぶ」ということのほとんど唯一の内容であった時代の「知識人」の最後の世代に属するはずだ、これも勝手な憶測に過ぎないが、あるいは、「幸福」という言葉などは、そうした「知識人」しか決して口にしないような観念性の強い言葉であって、いわゆる市井の人々は、もっぱら「仕合わせ/不仕合わせ」を、しかも、「運」にゆだねられた、ずっと軽・い・ニュアンスで用いていたのではなかろうか?・・・そして最後に、日本語の「幸福」なる言葉の用法について語るならば、避けて通ることのできないもの、「包括的人権規定」と言われ、きわめて抽象的であり、曖昧模糊としているが、そうであるがゆえに、様々な異なる内容の「人権」をも、その中に盛り込むことができたという点で、大いにその力を発揮してきたところの、この憲法条項に触れないわけにはいかないだろう・・・「日本国憲法」第十三条:すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。・・・では、ほかならぬ「幸福」なる中国語なり日本語の言葉が、その訳語として充てられたと想像されるところの英語の、happiness、あるいは、happy、についてはどうだろう?漱石や一様にからはやや時代が下るが、1920年代、フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」まず、「happiness」は2か所、一つ目は冒頭近く、ディジー=トム・ブキャナン邸、二つ目は、ずっと後のギャツビー邸、ようやく、五年ぶりに、ギャツビーとディジーが邂逅する、こればかりは文字通り「しあわせ」と呼ばなければならないだろうシーン・・・「あたし、幸福にあたって、麻―麻痺しちゃった」彼女、はひじょうに気のきいたことでも言ったみたいにまた笑った。そして、ぼくの手をちょっと握って、世界中でぼくほど会いたかった人はいないと言いたげに、下からぼくの顔をのぞきこんだ。“I’m p-paralysed with happiness.”She laughed again, as if she said something very witty, and held my hand for a moment, looking up into my face, promising that there was no one in the world she so much wanted to see. ・・・別れの挨拶をしに近寄って行くと、ギャツビーの顔には、また困惑の色がもどっていた。現在の幸福の本質について、かすかな疑念が湧いたかのように。五年に近い歳月だもの!As I went over to say goodbye I saw that the expression of bewilderment had come back into Gatsby’s face, as though a faint doubt had occurred to him as to the quality of his present happiness.・・・そして「happy」が4か所、「unhappy」が2か所、両者を含んだ1例だけを挙げると、・・・二人は幸福ではなかった。どちらも、チキンにもビールにも、手を出さなかった――さりとてまた、不幸でもなかった。その場の情景には、自然の親しみが、まがうかたなくただよっていて、だれしも二人で何か陰謀をたくらんでいるのだと思いかねなかったろう。They weren’t happy, and neither of them had touched the chicken or the ale—and yet they weren’t unhappy either. There was an unmistakable air of natural intimacy about the picture, and anybody would have said that they were conspiring together.・・・もとより「幸福」であるはずのない場面、トムと言い争いをしたのち、ディジーがギャツビーの車を運転、トムの「不倫」相手である、マートルをひき殺してしまったすぐ後の場面、トムとディジーは、この後、その罪をギャツビーに擦り付け、彼を死に追いやってしまうのだから、「何か陰謀をたくらんでいる」ように見える、というのは、ほとんどブラック・ジョークになっているわけだ・・・「ガザ―素顔の日常」の映画を見せていただいた「海辺の映画館」のカフェで、毎週その映画にちなんだ料理を囲みつつ「哲学対話」を交わす、という企画があって、先週は、パレスチナ―レパント地方の料理「マクルーバ」、トマト、ナス、カリフラワー、チキン、を鍋の底から順にていねいに並べ、米を加えて火にかける、炊き上がると大皿でふたをして一気にひっくり返す、アラビア語「マクルーバ」مَقْلُوبَةは、この、ひっくり返すの意、すると、今度は逆順にご飯の上に、チキン、カリフラワー、ナス、トマトが、まるで丁寧にデコレーションされたケーキのように並んでいる、というわけだ、・・・、水加減と炊き上げるまでの時間の判断が、難しそうだが、素人にもできそうだから、まもなく、豊見城産トマトが安く出回るようになった頃合いを見計らって、ひそかに作ってみようと心づもりしている、・・・、その次の企画の「お題」が、「幸せ」、行きがかり上の社交辞令に過ぎないかもしれないが、誘ってくださった以上、断ったりしたら、もう二度と誘ってくれないかもしれない(笑)などという文字通り「さちうすい」(笑)人間がもちかねない強迫観念から、課されてもいない「宿題」に没頭することになった、・・・、自慢するわけではないが、私自身は、一生を通じて「幸せ」だ、と感じたことが、たぶん、一度もない、ルールを教えられていないゲームにいきなり参加させられて、右往左往しているうちに、終わってしまった、ような人生だったから、「それどころじゃなかった」というべきかも、でも今では、例えば、電線の上でおかしげな表情で歌っている鳥たちを眺めているとき、例えば、枝状サンゴの周りで、信じられないほどの数のスズメダイに取り囲まれたとき、あるいは、ごろごろのどを鳴らしてくれる猫の声が、ぴったりくっつけたおでこを伝って聞こえて来るとき、ごくつつましい、言いたければ、「小文字で書かれた幸せ/happiness in small letter」を実感することができる、もちろん、それができるようになったのは、通常の意味での「幸せ」、つまり「大文字で書かれた幸せ/Happiness in Capital Letter」、を諦めたからにほかならない、もちろん、「諦める」ことを余儀なくさせてくれたのは、たぶん、「病気」のせいだろう、だから、私は、この「病気」にかかることができたことを、ほんとうに、よ・か・っ・た・、と思っている、・・・、もう何年にもわたって、年に一二度しか「人」と言葉を交わすことのないような者が、毎週、立て続けに会合に出席し、あまつさえ「議論」に参加する、などというのは、あまりにも危険(笑)だから、やめた方がいい、と身体のどこかがささやいている、でもこれが「社会復帰」の「最後のチャンス」(笑)かも知れないじゃないか?とも思えるから、お断りしてしまう決断もできないでいるのだ、願わくば、調子に乗って、躁的に高揚して、喋りすぎないように、・・・、思うに、相変わらず長い話に、最初から決めていた結論として言うならば、「幸せ」とか「幸福」とかいうのは、もとより一つの「イデオロギー」、前世紀の初頭、ヨーロッパが戦火に疲弊して、ただただアメリカ合衆国のみが、「覇者」となったとき、様々な事情で、その地に流れ着いた人々が、自らの背負う「トラウマ」、自らの背負う「罪責感」を昇華すべく編み出した文字通り「躁的防衛」としての「アメリカン・ドリーム」に由来しているのではなかろうか?この時以来、人は、「幸せ/幸福」にな・ら・な・け・れ・ば・な・ら・な・く・な・っ・た・、「ニューディール」期のケインズ主義的社会主義は、国民が「幸せ/幸福」であることを政府の責任として引き受けようとしたかもしれないが、その幻想が去ったのちは、もっぱら、なに?君は「幸せ」ではない?それは、君に落ち度が、至らないところがあったからじゃないか?と責められることになる、だからこれは一つの「強迫神経症」類似の症状なのだ、付け焼刃フロイト主義を開陳するならば、・・・、それはどこか「健康/病気」の二項対立に似ている、ほんとうは、「病気」でな・い・ことが「健康」の定義なのだ、だが、「病気」かもしれない兆候は、ほとんど無数に存在するから、あなたは「病気1」ではない、あなたは「病気2」ではない・・・あなたは「病気n」ではない、と数え上げて行っても、終わることがない、つまり「帰納的」には、立証不可能なのである、ある「無理数」、例えば√2が、「無理数であること」、つまり、「いかなる自然数2個の比によっても、表現できないこと」を、数え上げることでは証明できないのと同じだ、証明するには、命題論理の力を借りて、つまり「A→B」が「A∧B¬=φ」、「Aかつ『Bの否定』が空集合」と読みます、と同値であることから、√2が、二つの自然数の比、m/nで表されるとの仮定から、矛盾を導く、「背理法」なる手法をとる以外にない、・・・、だったら簡単なことじゃないか?君は、「健康」であることを諦めた、「病気」であってもよい、と受け入れることで、その「小文字で書かれた」なんとやら、を手にすることができたんだろう?今度もまた、「幸せじゃなくてもいい」、と言ってみれば、すむことじゃないか(笑)。「ラック・オブ・ジ・アイリッシュ」ヘンリー・コスタ―The Luck of the Irish (1948)/Henry Kosterヘンリー・コスタ―Henry Koster/Hermann Kosterlitz(1905-1988)、ベルリン生まれのユダヤ人、1932年、映画業界で仕事を始めたが、ナチ台頭とともに仕事も、ドイツ市民権をも失い、1934年、フランスを経てブタペストへ、その地でユニヴァーサル社ヨーロッパ代表のハンガリー系アメリカ人プロデューサー、ジョー・パステルナークJoe Pasternakに会い、1936年、ハリウッド、ユニヴァーサル社と契約、1941年、パステルナークが、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー社Metro-Goldwyn-Mayerに移籍するとともに、彼と行動を共にする、合衆国が、第二次世界大戦に参戦するや、彼は、「敵性外国人」として、夜間の自宅監禁など、監視下に置かれる、・・・。ニューヨーク在住の新聞記者、ジェラルド・フィッツジェラルド、という名前だ、そう言えば、「ギャツビー」の、スコット・フィッツジェラルドも、たしか「四分の三」アイリッシュ、だったのではなかったかな?「アイリッシュ風」に響くファミリー・ネームとして、選ばれたのだろう、出張先のアイルランドの田舎町で、まず、レプレコンLeprechaunに、そして、アナ、という女性に出会う、・・・、下の記事にも書いたが、アイルランドの民話では、妖精レプレコンは、虹の橋を渡ることができ、その橋のたもとに、金貨の一ぱいつまった壺を隠している、というのだが、この映画でも、彼は、翌日にはすっかり見えなくなってしまった滝の下に暮らしているらしく、やはり、リンゴの形をした壺の中に、大量の金貨を蓄えていた、そう、それに、レプレコンは、めっぽうお酒に強くて、ウィスキー、ちなみに「アイリッシュ・ウィスキー」の原料は大麦またはトウモロコシ、彼がニューヨークのフィッツジェラルドの部屋でがぶ飲みするのは「スコッチ」で、これは大麦が原料、を、トールグラスになみなみとついで、飲み干して平気な顔をしている、柳田国男や宮沢賢治が描く「山男」も、一升入るといわれる巨大な瓢箪を持参していて、非常な酒好きであったことを思い出された、・・・、ニューヨークに着いたアナが、自分の親戚筋の事柄について延々と説明する言葉の中に、ゴールウェイGalway、リムリックLimerick、という地名がちりばめられていたようだし、フィッツジェラルドが、ニューヨークに戻るとき、沖合に停泊している外洋汽船まで、砂浜から小さなボートで向かうシーン、というところから想像して、舞台は、アイルランドの西海岸だったのだろう、と想像される。アイルランド、ブリテン島・・・「ラック・オブ・ジ・アイリッシュ/アイルランド人であるという幸運」ジョン・レノンThe Luck Of The Irish(1972)/John Lennon & Plastic Ono Band「ラック・オブ・ジ・アイリッシュ/アイルランド人であるという幸運」ジョン・レノンThe Luck Of The Irish(1972)/John Lennon & Yoko Ono歌詞とその「拙訳」は、以下の記事にあります↓妖精レプレコンみたいに、虹の上を歩こう、・・・、「アイルランド人」ジョン・レノンを、聴く・・・この歌は、1971年頃から準備されていた、とのことだが、発表されたのは、翌1972年の夏だった、その年の初め、北アイルランドのデリーDerry、正式名称はロンドンデリーLondonderry、だが、そのように呼ぶのは多くは親英派プロテスタント「ユニオニスト」、独立派/共和派カトリックは、もっぱらデリーと呼ぶようである、・・・、で、「北アイルランド公民権協会Northern Ireland Civil Rights Association (NICRA)」主催の、「裁判なしの無期限拘禁措置」、これは、英国側のコードネームでは「デミトリウス作戦Operation Demetrius」と呼ばれるもので、「IRA/アイルランド共和軍」と関係があると疑われた者たちに対し、大量逮捕、「インターンメントinternment/裁判なしの拘禁」の措置が取られたものを指すが、に反対する平和的デモ隊に対し、英国軍兵士による実弾射撃で、26人が死亡した事件、「血の日曜日事件/ブラディ・サンデーBloody Sunday」が発生、ジョン・レノンも、この事件に対する抗議集会に参加したと言われている。・・・Power to the People(1971)/John Lennon・・・1971年、と言えば、私は中学生だ、「よど号」も「連合赤軍」も、「リッダ闘争/テルアビブ空港乱射事件」も、くっきりと覚えている、その方面に関してだ・け・は、「早熟」な子供だったから、この写真、ジョン・レノンが「叛」という文字が書かれた白ヘルメットをかぶり、右手を握りしてめて突き上げる、いわゆる「クレンチト・フィストclenched fist」のポーズをとっている、も知っていて、赤ヘルメットに「叛」の文字なら「共産主義者同盟叛旗派」、白ヘルメットなら「中核派」で書かれるべき文字は「中核」とか「全学連」とかだろう?、などという余計な知識さえ持っていたかもしれない、この「Power To The People」のシングル・レコードも持っていたはずで、当時1枚500円もしたものが、たしか、日々の昼食代も含めて月々1500円くらいじゃなかったかな、私の「お小遣い」で買えるわけもない、きっと「万引き」したんだろう、その日本語版のタイトルが、「人々に勇気を」だって?なめてんのか?そんなのほとんど「検閲」じゃないか?「パワー・トゥー・ザ・ピープル」は、全世界共通、学生叛乱、植民地解放闘争のスローガン、「権力を人民へ!」に決まってるだろう?、くらいの悪態もつけたはずなのだが、・・・、不覚にも、この歌「ラック・オブ・ジ・アイリッシュ」のことは知らなかったのだ、同じころ、ポール・マッカットニーも「アイルランドに平和を」というシングル盤を出していて、これもひどい日本語訳と言えよう、原題は、「Give Ireland Back to the Irish/アイルランドをアイルランド人に返せ」、のことは知っていて、彼のファミリーネームの接頭辞「Mc」が、スコットランド系の由来を持つ、ということも、英語の授業で聞いていたが、実のところ、「ビートルズ」の四人のメンバーのうち、ジョージ・ハリスンを除く三人が、「アイルランド系」であるということを知ったのも、ごく最近、何年か前に読んだ司馬遼太郎「愛蘭土紀行」だったのだ、彼らがリバプールの「労働者街区」の出身であることは、もちろん知っていた、地図を見ればわかるが、いまでも、ダブリンに船で向かおうと思えば、リバプールが出港地となるのだろう、「占領」によって土地と生活を奪われた人たちの末裔が、ほかならぬ「占領者」の国の都市に職を求めて住み着く、という事情は、あるいは、日本による占領下の、朝鮮半島、とりわけ済州島の出身者が、大阪猪飼野を、あるいは、「琉球処分」後の明治政府任命の「県令=知事」の苛斂誅求に苦しんだ沖縄の人たちが、やはり大阪、大正や四貫島を、選んだ事情と類比的であるかもしれない、「類比」などというのは、ずいぶん、当事者性を欠いた、高飛車な言い方ではあるけれども、・・・、もう三年前になるか、サリー・ルーニーというアイルランドの、とても若い作家が、イスラエルの出版社に対して、自作のヘブライ語への翻訳権授与を、「パレスチナ連帯/BDS運動支持」を根拠として拒否した、というアル・ジャジーラ記事を読み、しばらくの間、サリー・ルーニーはもとより、ジェイムス・ジョイスから、オスカー・ワイルド、ラフカディオ・ハーンから、果てはスウィフトにいたるまで、およそ、「アイルランド」的なものに没頭していた時期があって、その時書いたものの一覧を、下に掲げておくが、・・・、いままた、在ダブリン、イスラエル大使館閉鎖、の記事を読んで、改めて、この歌を思い出し、とりわけ、その一節、Why the hell are the English there anyway?As they kill with God on their sideBlame it all on the kids of the IRAAs the bastards commit genocide! Aye! Aye! Genocide!そもそも、いったい、どうして、そこにイギリス人がいるんだ?「神」さえ自分の味方につけて、殺害を行い、その責任を全部、「IRA」の子供たちになすりつけるとは、やつらは、「ジェノサイド」をおかしているんだよ!そうだよ!「ジェノサイド」だよ!に、この国の人々がパレスチナに対して、揺るがぬ「共感/エンパシー」を保ち続けている「理由」が、もちろん、錯覚に過ぎないかもしれないが、少し、理解できた気がしたものだから、改めて、書きとどめておくことにした、・・・、その時から疑問だったのだが、この、ジョン・レノンの歌のタイトル「ラック・オブ・ジ・アイリッシュ/アイルランド人であるという幸運」、が、どういうニュアンスなのか?、植民地主義的占領を受け、土地を奪われ、飢餓に見舞われ、移民を余儀なくされ、その先では、差別的言辞を投げつけられかねない、・・・、それを「幸運」という言葉で表示するのは、アイルランド人自身によるある種「自嘲」的なものなのだろうか?などと考えてみたりもした、このタイトルの映画が、「無声/サイレント」時代を皮切りに、何度も制作されているようで、同じ原作でもないらしいようなので、この言い回しが、すでに、英語の語彙の中で、定着していたらしいことがうかがわれる、ジョン・レノンが、この言葉をタイトルに選んだのは、そのような状況のなかでの、まさに「自嘲」、「自虐」的身振り、かと思われるが、直接の参照、いわば「本歌」は、上記、1948年の大ヒット作にあるらしい、主演男優には、アイリッシュ系が選ばれているが、監督は、上で見たようにユダヤ系である、・・・、ネット上を逍遥してみると、おそらく、アイルランドの「観光協会」的なサイトと思しき所に、アイルランド人側から見た、その表現の由来を説明してくれているものが見つかったので、以下に掲げる、・・・、「ラック・オブ・ジ・アイリッシュ」という言い回しは、19世紀のどの時期かにアメリカで、発生したもので、当初は、もっぱら侮蔑的な作法で用いられたものと考えられている。The Luck of the Irish saying is believed to have originated in America at some time during the 19th century and it’s thought to have been used in a derogatory manner at first.物語は、アメリカが、いわゆる「ゴールド・ラッシュ」を経験していた時代に始まる。19世紀には、世界中で、大きな「ゴールド・ラッシュ」ブームが巻き起こっていた、主要なものとしては、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、そして合衆国である。The story begins at a time when America was experiencing what is known as its ‘gold rush years’. A number of major gold rushes took place throughout the 19th century across the world, but most notably in Australia, New Zealand, South Africa and the US.アイルランドからの貧しい移民たちが、私たちの祖国であるこの小さな島が、「大飢饉」に見舞われてしまったことから、アメリカへとその活路をを求め、多くが、いまや興隆しつつある鉱山産業へと、流れ込んだのである。When poor immigrants from Ireland started to make their way across to America at a time when the Great Famine was ravaging our little island, many took up jobs in the bustling mining industry.(訳注)「大飢饉(1845-1852)」、「ジャガイモ飢饉Irish Potato Famine」とも呼ばれる、もともと岩盤が露頭し、被覆土層が薄いため農業生産に難点があったこの島に、救荒作物として移入されたジャガイモに蔓延した病気が原因と言われるが、その他の穀類等農産物が、英本国の消費へと回されていたことが被害を拡大した要因の一つであったとも言われる・・・さて、みなさん、まさにこの時期に合衆国に到着したばかりのアイルランド人の気持ちになって想像してみてください、彼らは、食糧不足、飢餓と疫病、に襲われることになってしまったアイルランドを後にしてきたばかりなのだ。Now, put yourselves in the shoes of the Irish that would have arrived in the US at this point in time – they were leaving an Ireland that was crippled with food shortages, starvation and disease.合衆国へと旅をしなければならなかった人たちには、次の二つのうちのいずれかの理由を持っていたはずだ:Many that travelled to the US were doing so for one of two reasons:(1)仕事を得て、その給金を祖国へ送金し、待ち焦がれている家族が食べられるようにすること、あるいは、(2)新たな生活を切りひらくこと(1)To find a job so that they could send money back home to feed their families(2)To start a new life鉱山で働き始めたアイルランド移民たちは、早速、その真面目さ、勤勉な仕事ぶりを発揮し始め、ときには、アメリカ人の同僚たちに比べて、より大きな成果を上げることもあったらしい。Those that worked in the mines were quickly recognised as hard workers and diligent labourers that sometimes delivered better results than their American colleagues.こうして、アイルランド人は、なにやら、幸運を掘り当てるべき「コツ」のようなものを心得ているらしい、なる物語が、「ゴールド・ラッシュ」期を通じて、広められるようになったのである。しかし、これを「幸運」と呼ぶべきなんだろうか?!The story goes that the Irish had a knack of digging up mining fortunes during the gold rush. Was this luck?!成功することへの、断乎たる決断の故、というべきではないのか?!大規模な貧困と飢餓におおわれてしまった土地を、後にしてきたばかりの人たちが、彼らにできることすべてをかけて、仕事の上でも、人に先んじようと、全力で、努力を傾注した結果ではなかったのか。Or was it pure determination to succeed?! After all, these people had just left a land rife with mass poverty and starvation and were surely just doing everything in their power to find, keep and excel at a job.彼らには、古郷アイルランドに置いてきた家族たち、彼らの働きにのみ希望を託している家族たちがいたのである。ところが、これらアイルランド人労働者の傍らで働く同僚たちは、彼らがより良い成果を挙げるのを、忍耐や勤勉ではなく、単なる「幸運」に過ぎない、とみなしたがったのだ。The chances are that they had people back in Ireland who’s lives relied on them. The miners that were working alongside Irish colleagues put their ability to source these mining fortunes down to sheer luck, rather than perseverance and diligence.こんなわけで、「ラック・オブ・ジ・アイリッシュ/アイルランド人であるという幸運」という言い回しは、「ゴールド・ラッシュ」期全期間のアメリカで、より良い成果を挙げたアイルランド人鉱夫たちに、つきまとうことになってしまったのだ。The Luck of the Irish saying is said to have followed successful miners from Ireland for the duration of the gold rush in America.・・・(1):犬が西向きゃ・・・、と申しますが、サリー・ルーニーという、1991年生まれの作家の、「ファン」になってみる(笑)(2):逆に、愛着を示され過ぎると、今度は、こっちの方が、後ずさりして縮こまらなければならなかった、まるでヤマアラシみたいに・・・「サリー・ルーニー」読み、は、続き、ダブリンの街角に「イースターの月曜日」の残響を聴くことになる(3):少しばかり、ダブリンの地理に「明るく」なった気がしたので、今度は、調子に乗って、ジョイス、に手を出す、さらに、シニアド・オコナーから「対話の不可能性」まで(4):「資本主義的原初的蓄積」、またしても、「紅茶」と「砂糖」、・・・、「ユリシーズ」の買い物メモ(5):「サリー・ルーニーさんへ」、ガザからの手紙、そして、ガッサン・カナファーニ、をたどる(6):「デレヴォーン セローン」、一世紀にわたって、人々の探求の対象となってきたのだから、私の如き者の出番はない(笑)ことに早く気付くべきであった・・・ジョイス「ダブリン市民」読み、は続く、「トリニティー・カレッジ」から、アーウィン・シュレディンガーに関する追想、など(7):「ネルソン・ピラー」、司馬遼太郎、「ペンテコステ」再論、「鉄道路線図」への偏執とか、・・・、「19世紀社会主義」の「豪華絢爛、波瀾万丈」をたどるのが胸苦しいのは、すでにエンディングがわかっている映画を逆回しに観る感じ?ジェイムス・コノリー(8):/ロディとノラ、ジェイムズ・コノリーの二人の子供に、「分割承継」されて「体現」されてしまったかもしれない、「社会主義」と「民族主義」、堺利彦、ウィリアム・モリス、そして、ジョイスとオスカー・ワイルドの「社会主義」(9):17世紀のスウィフトまで遡る?、「聖パトリックの日」パレードについて知りたかったこと、ふたたび、倫敦の漱石、「クレイグ先生」とオーウェル(10):やりきれない感覚が、非常に生々しく伝わってくる、「蔦の葉」記念日・・・ジェイムズ・ジョイス「ダブリン市民」読み、は続く(11):身勝手な「トラウマ」の「成仏」、としての、オスカー・ワイルド「サロメ」、中勘助「鳥の物語」と「聖書」研究、を兼ねて、パレスチナを歩・い・て・、みる(12):続スウィフト、アイルランドからバルバドスへ、ここでもまた、砂糖キビ、そして中野好夫「スウィフト考」、「心にもない愛国者」(13):妖精レプレコンみたいに、虹の上を歩こう、・・・、「アイルランド人」ジョン・レノンを、聴く(14):「クレオール」であること、「島」に住むこと、へのこだわり、だったかも知れないじゃないか、・・・、もう一人の「アイリッシュ」、小泉八雲=ラフカディオ・ハーン(15):「ボイコット」という言葉の由来、「バルフォア宣言」、「ハンガーストライキ」、・・・、アイルランドとパレスチナの、もういくつもの、つながり、について(16):ジョン・フォード、「静かなる男」を観る、「イニスフリー村」から「イニシュモア島」へ、「アラン諸島」への船旅、津村記久子「浮遊霊ブラジル」の旅程表、など(17):クリスマスのなごやかなはずの食卓で、激越な、政治的議論が交わされる、それが何をめぐるものなのか知らなくても、この小説を「読めた」ことになるんだろうか?という疑問、など、・・・、ジェイムズ・ジョイス読みは続く、「若い芸術家の肖像」第一章、第二章(18):ジェイムズ・ジョイス読みは続く、「若い芸術家の肖像」第二章続きから、きわめて「キリスト教」色濃厚な、第三章へ前回、「ガザ―素顔の日常」を見せていただいた「海辺の映画館」、・・・私たちは、鋼鉄でできているわけではないのです・・・息をする者すべて、パレスチナ人以外のすべてに、怒りを感じます・・・映画「ガザ」を観る、付:「土地の日」、「帰還のための大行進」・・・新たな作品の上映会にも誘っていただいたのはかたじけないのだけれど、何度も言うが、年に一二度、スーパーのレジで、「マイ・バッグお持ちですか?」、「はい」くらいしか人・間・と・言葉を交わさないような暮らしをしている「ひきこもり」が、いきなり、立てつづけに何人もの人とお会いしたり喋ったりすれば、「病気」が再発するのは目に見えていた、・・・、ほぼ予定通りのなかなか重篤な「鬱症状」のリバウンド、トイレに行くのがめんどくさい、ご飯食べるのがめんどくさい、食べ始めたら、食べや・め・る・のがめんどくさい、布団に入るのがめんどくさい、一旦入れば出るのがめんどくさい、・・・、一週間ばかり、そんな日々を過ごしていた、不思議なことに読書だけはできて、これも、読み出したら読み終・わ・る・のがめんどくさいだけなのだが、「カラマーゾフ」も上巻のなかほど、ドーミトリーがアリョーシャに、「婚約者」との関係をめぐる秘密を明かすところ、あたりまで進んだ、・・・、ごめんなさい、やっぱり「人間」とやっていくの、私には無理です(笑)、と、お断りしようと何度思ったことか!それでも、もし、上映会におよばれするのなら、ちゃんと「予習」して、きっと訊かれもしないだろうけれど、もし訊かれたら、何か気・の・利・い・た・ことを答えられる用意をしておかねば、などという助平根性さえ頭をもたげだす始末、・・・、「予告編」と、いくつかの映画批評サイトをあたってみると、どれもこれも、非常に好意的な評価で、内容もとても興味深いものに思えてきた、ただ、そこが、私のきわめていじけた、ひねくれたところなのだが、そう誰もがほめている、というのを目の当たりにしてしまうと、是が非でも何かあらを探して、ケチをつけたくなる、という「悪意」さえ立ち上ってしまうらしいのだ、・・・、だって考えてもみたまえ、前回の「ガザ」の映画であるならば、絶対にそういう扱いはされないのだ、エドワード・サイードが、「ペンと剣」に書いていたように、例えば合衆国のどこかで、パレスチナ映画祭、演劇祭などを企画でもしようものなら、たちまち「イスラエル・ロビー」から横槍が入って、「双・方・の意見、立場を反映するようなパネルを構成しない限り上映上演は認めない」などと言われてしまうのだ、・・・、実際、憂慮すべきかもしれないポイントは、ないわけではなく、例えば、もろもろの映画評のサイトには、「さすがフランス、『自由主義』の本場!」というような、きわめて危うい、見当はずれな賞賛が見られるわけで、もしそんな批評がまかり通ってしまっても仕方のないような内容だったならば、むしろ、断乎として(!)ケ・チ・を・つ・け・て・、おかねばならないはずだから、・・・、結論からいうと、それらは、すべて杞憂に終わった、文句なく、圧倒的にい・い・映画だった、今回は、私の外にお二人もお客さんがおられたにもかかわらず、恥も外聞もなくぼろぼろ涙を流した、そのお客さんたちも鼻をぐずつかせておられるのが聞こえてきたけれど、・・・、まずは、ネット上で見つけたいくつかの「予告編」、監督、ジュリー・ベルトゥッチェリJulie Bertuccelli(1968-)紙のインタビュー番組を、ご紹介しておく、・・・、「バベルの学校(2014)」ジュリー・ベルトゥッチェリLa Cour de Babel/Julie Bertuccelli・・・Julie Bertuccelli : docu "La cour de Babel" - Entrée libreこれは、フランスのテレビ番組による映画紹介のようで、監督に対するインタヴューを中心としているが、もちろん全然聞きとれない、・・・、4つの段落に分かれているようで、それぞれの表題が、以下のとおり、Ne Pas Avoir Peur de S'engager:「s'engager」は「engager=engage」の再帰動詞「engage onself」と思われるから、「自ら関与することを恐れてはいけない」の意味かな?Se Faire Toute Petite:「ちょっと目立つこと」か?Suivre Son Instinct:「自分の直感に従うこと」Avoir L'esprit de Groupe:「集団である、という気持ちを持つこと」Rencontre avec Julie Bertucelli, réalisatrice de La Cour de Babelこれもまた別の監督へのインタヴューを中心としたもの・・・上から順に、「サバハバイ」、「ドブルデン」、「アーユーボーバン」、下の記事参照↓、リビアからエジプト経由でパリにやって来たマリアム、それから、名前忘れてしまった、ウクライナの歌の上手い女の子、そして、こちらも名前覚えてない、スリランカ出身の男の子、ホワイトボードに彼らが書き記した、それぞれの「ボンジュール」、そして、それをネット辞書で探索してみた結果。・・・La cour de Babelこれは、フランス語の「Premiere」という映画紹介サイト、予告編の短いヴィデオが埋め込まれている・・・映画の冒頭は、生徒たちが、それぞれ自分の出身国の言葉で「こんにちは」、フランス語の「ボンジュールBonjour」にあたる言葉を披露する場面、リビア出身で、その後エジプトに暮らしていた、というマリアムがホワイトボードに記したアラビア語綴りを、ネットの辞書で探してみると、おお、感激!、見つかったصباح الخيرそのローマ字音訳は、「sbah alkhyr/スバー・アルカイル」というところか?これは、後の別のシーンとの関係で重要になるからまた触れる、・・・、名前を思い出せないが、ウクライナ出身の歌のうまい女の子、「ドブルデン」と答える、クラスのみんなが、「ドーブレイーデン」と、少しな・ま・っ・て・答える、全編中、最も微笑ましいシーンの一つ、これもネット、ウクライナ語辞書に尋ねると、добрий день が見つかった、・・・、次は、中国から来たシン、という女の子、ホワイトボードに書く文字は、もちろん、你好 この子は、まだフランス語があまり得意でない、「你」は、えっと、「toi」、「好」は、うーん、「bien」、「bon」かな?、などとたどたどしく説明している、・・・、そして、スリランカから来たと言う男の子、ホワイトボードに記す文字は、ආයුබෝවන්これは、やはりネット辞書で、シンハラ語であることがわかった、彼は、この国の「多数派」民族集団に属することまで判明したことになる、読んでみて、と言われて、彼は、「アーユーボーバン」、残念ながら、ネットのシンハラ語辞書には、音声ファイルがついていない、・・・、ちなみにタミル語なら、வணக்கம்こちらには音声ファイルがついていて、「ワナカム」と聞こえる、もちろん、こちらには文字の違いすら分からないけどね、・・・、そして最後が、やっぱり名前を忘れてしまったのだが、セネガルから来た女の子、父親方の親類の家では、学校に行かせてもらえないばかりか、虐待をも受けるので母親とともにフランスへ、医者になりたいという希望を持っているが、クラスの他の子供たちと何かと対立する「問題児」、もちろん、映画の「物語」構造としては、ちゃんと、「ハッピーエンド」が用意されているのだが、それは、あらすじをバラしてしまうことになるので、そんな品のないことはしない(笑)、「問題児」であるだけに、一番印象に残るキャラクターで、他の予告編にも取り上げられているシーン、・・・、同じように、指名されて、ホワイトボードの前に出ていく、「ウォロフ語では書けないよ、先生」、「いいわよ、ウォロフ語で『こんにちは』はなんていうの?」、・・・、セネガルでは、36の言語が話されているそうだが、その中でウォロフ語Wolof、ニジェール―コンゴ語族Niger–Congoアトランティック―コンゴ語派Atlantic–Congoセネガンビア諸語Senegambianに属する、は、最も多数によって話されている、という、そのような多言語国家であるから、アフリカ諸国の多くがそうであるように、植民地主義遺制を濃厚に残した、旧宗主国の言語を「共通語」として採用している、ついでながら、近年は、そのようなヨーロッパ語依存を脱し、例えばスワヒリ語Swahili、ニジェール―コンゴ語族Niger–Congoアトランティック―コンゴ語派Atlantic–Congoバンツー諸語Bantuを、アフリカ共通語として採用しようという機運が起こっている、という記事を読んだことがあることなども付け加えておこう、セネガル、および近隣諸国言語民族分布話を、ホワイト・ボードの前の彼女に戻すと、つまり、母国では、「話し言葉」ではウォロフ語を用いていたが、学校教育、その他「公的」文書などの上での「書き言葉」はフランス語であったということなんだろう、移住して来て間もない子供たちのための「移行クラス」にいるのだから、まだ訓練が必要なのだろうが、他の子供たちに比べると、素人の耳には、流暢なフランス語のように聞こえるし、・・・、そして、先生に向かって、小声で、「『サーラム・アレイコム』って言います」と答える、その瞬間、彼女の言葉に重なるように、教室の後ろの方から、「『アッサーラム・アレイコム』って言うんでしょ?」という声が聞こえる、と、それを耳にしたこの「問題児」の表情がみるみる硬くなり、はっきり「キレた」ことがわかる、右手を振り上げて指さした先には、おそらく、マリアム、・・・、私のつたない聞き取りでは、こう叫んでいる、Mais c'est pas ton pays, c'est mon pays!別の「予告編」に付された英語字幕でも、No, Miss! It's not your country. It's my country!とあるから、多分合っているだろう、「あんたの国じゃないんだ、私の国なんだから、黙っててくれるかな!」、・・・、これに続く部分、記憶では、マリアムが、いわば、この「弾劾」に対する「反論」として、こう語ったはずだ、「イスラム教徒の人たちは、『アッサーラム・アレイコム』って言うけど、私は、キリスト教徒だからそうは言わない」、つまり、上で紹介したように、彼女は、リビアでは「こんにちは」を、読み方が正しいかどうかわからないが、「スバー・アルカイル」だと答えた、もっともマリアムの発音は「サバハバイ」みたいに聞こえる、のだが、たしかに、ネットのアラビア語辞書では、通常「こんにちは」にあたる挨拶言葉は、「アッサーラム・アレイコム」、السَّلَامُ عَلَيْكُمْその意味は、「あなた方に平和がもたらされますように」、السَّلَامُ:平和、عَلَيْكُمْ:あなた方にであって、マリアムが紹介した表現は、あ・ま・り・用・い・ら・れ・な・い・、とされていた、どこにも「神/アッラー」という言葉は含まれていないが、「平和」をもたらしてくれるものの含意として、あるいはイスラム的色彩が感じられるということで、キリスト教徒の間では、忌避されているという事情かと憶測されるが、・・・、英語版の著名な映画紹介サイト、アマゾン関係のようだが、「IMDB」の紹介文には、この映画の撮影時期は、2011年から2012年の学期、と書かれている、、・・・、2011年、「アラブの春」が直ちにもたらした、数少ない「成功」の一つ、ああ、シリアが、それに続くのに、13年かかったのだからね!、・・・、リビアでは、あいまいな記憶だけに頼って書くと、「東日本大震災」と「福島第一原発」のニュースから、ことさらに私が目を逸らしていた頃、すでにカダフィー政権は打倒され、残存勢力が立てこもるトリポリに、「NATO」軍の空爆が行われていたはずだ、カダフィーは、他のアラブの諸独裁政権同様、時として国民の人気をとるためにそれを利用する以外には、「イスラム」に対してさしたる敬意を払ってはいなかった、むしろ、彼独自の「社会主義」ドクトリン下で、キリスト教をはじめとする宗教的少数派が迫害を受けることが少なかったのに対して、彼の打倒後の「内戦」状況下では、「イスラム国IS」等の「ジハード派」が各所で台頭、すると、マリアムの家族は、その混乱の中で、この国を脱出したという事情が浮かび上がってくる、・・・、この国は、1911年から1951年、イタリアの植民地下にあり、同年王国として独立、1969年、カダフィーのクーデターにより「共和国」となるのだが、独立以前には、イタリアおよびマルタ系のキリスト教コミュニティーが、相当広く存在していたようで、宗派的には、エジプトにも少数派として存在する東方教会系の一宗派「コプト正教会Coptic Orthodox Church」が中心だった、とのこと、ならば、これは、あいまいな記憶だが、マリアムが「私は『アラブ』でもないし」と字幕にあったような気もするし、あるいは、この独立以前から残っていたコミュニティーの一員で、まず、エジプトへ向かったのは、その地の「コプト教」コミュニティーに、避難場所を求めた、ということだったかもしれない、・・・補遺:このセネガル出身の女生徒は、「ウォロフ語で、『こんにちは』はどう言うの?」と問われて、「サーラム・アレイコム」と答えるのだが、もちろん、あるいは冠詞的なもののあるなし、とかで、若干語形は変わるのかもしれないが、この言葉はもとよりアラビア語起源なのである、私も知らなかったのだから、偉そうに言うのは気が引けるが、「クルアーン/コーラン」は、預言者ムハンマドの言葉をそ・の・ま・ま・、すなわちアラビア語で、記したものであり、「クルアーン」を読む、ということは、まさに、それを書かれたとおりに、すなわちアラビア語で読まなければならない、他の言語に「翻訳」されたものを読んでも、「クルアーン」を読んだことにはならない、というのが、「イスラム」の原理的な立場のようで、したがって、「クルアーン」を読んで「ムスリム」になる、ということは、その前提として、当然に、アラビア語を学ぶ、ということが含まれていることになるのである、そして、イスラム帝国が領土的に拡大するにつれて、アラビア語使用の範囲もまた広がっていったのであろう、・・・、エドワード・サイード「ペンと剣」に書かれていたが、フランスは、下でも若干触れることになるが、その「フランス語中心主義」の一つの表れでもあるが、植民地化、なかんずく「入植者植民地主義/セトラー・コロニアリズム」として、アルジェリアを「直轄地」化していた際、「原住民」に対しても、アラビア語使用を禁止、フランス語を強要していたらしい、だから、独立戦争を戦い、後の建国英雄となるべき世代の人たちが、アラビア語を学んだのは、もっぱら「モスク」でであって、すると、彼らのなかには、「クルアーン」は読めるが、日常会話としてのアラビア語はフランス語に比べて、得意でない、というような例もあり得た、という、・・・、セネガルもまたフランスの植民地であったわけだが、こちらはフランス領西アフリカという植民地連合体の一構成部分、フランス人の入植を目的とする「直轄地」とは異なって、「原住民」へのフランス語強要は、それほど強力ではなかったかもしれない、いずれにせよ、この国の人口の97パーセントが「ムスリム」と言われるから、やはりここでも、アラビア語の挨拶の言葉、「アッサーラム・アレイコム」、あるいはそれに似た言葉が、ウォロフ語等、人々の日常言語の語彙の中に入り、定着していたのであろう、だから、彼女は、「ウォロフ語では書けないよ」と言っている、この言葉がアラビア語由来であることは知っているかもしれないが、あくまでも、自分の「母語」の語彙の一つ、と認識しているのだ、あるいは、それが、アラブ系ではないかもしれないが、リビア生まれで、アラビア語を「母語」としているマリアムの、「知ったかぶり」に、彼女が「キレて」しまった原因かもしれない、と想像する・・・。フランス植民地主義下のアフリカ(1)フランス領北アフリカAfrique du Nord française(フランス領アルジェリアAlgérie française、フランス保護国モロッコProtectorat français au Maroc等)(2)フランス領西アフリカAfrique-Occidentale française(モーリタニアMauritanie、セネガルSenegal、フランス領スーダンSoudan français/現・マリMali、フランス領ギニアGuinée française/現・ギニアGuinea、コートジボワールCôte d'Ivoire、オートボルタHaute-Volta/現・ブルキナ・ファソBurkina Faso、ダホメイDahomey/現・ベナンBenin、ニジェールNiger)(3)フランス領赤道アフリカAfrique-Équatoriale française(ガボンGabon、フランス領コンゴCongo français/現・コンゴ共和国Republic of the Congo、ウバンギ・シャリOubangui-Chari/現・中央アフリカ共和国Central African Republic、チャド植民地Colonie du Tchad/現・チャドChad)・・・School of Babel(2013)School of Babel/IMDBそして、これが、英語版の「予告編」と、「IMDB」の紹介サイトLa cour de Babel (2013)こちらは非常に短い「予告編」ヴィデオだが、たいへん白熱した、重要な部分が収録されている、記憶では、それぞれの子供が、自分の宗教上の「聖典」、もっぱら問題となるのは、「クルアーン」と「聖書」であるわけだが、最初に少し激して喋っているのは、アフリカ人の女の子が4人ほどいて、出身国として、字幕に国名が出てきたもの、私のつたない耳で聞きとれたものとして、セネガル、ギニア、モーリタニア、いずれも「旧フランス植民地」だ、は、この3国、残念なことに、人の顔をあまり覚えられない私は、区別がつかなくなってしまったが、おそらく、「クルアーン」は、預言者ムハンマドの言葉をそのまま保存するというイスラムの立場、つまり、「クルアーン」を学ぶということ、「ムスリム」になるということは、すなわちアラビア語を学ぶ、ということにほかならない、という主張に対する不満を漏らしているのではなかったかと記憶する、「だったら訳してよ!」と字幕に書かれていた記憶があるから、・・・、次に出てくる黙って聖書らしき書物を繰っているのは、後の「三者面談」のシーンでは、両親とはアラビア語で話す、と言っていたから、アラブ系、映画紹介のサマリーに列挙されている出身国の例示にあてはめてみると、あるいはチュニジア出身かも知れない、・・・、次のシーン、まん中のアフリカ人の女の子が手にしているオレンジ色の本は、おそらくポルトガル語辞書、すると、憶測をたくましくすると、字幕にギニア、とあったのは、あるいは、旧フランス領ギニア、現ギニア共和国、ではなく、旧ポルトガル領ギニア、現ギニア・ビサウ、だったのかもしれない、右側の男の子は、たしか、セルビア出身のユダヤ人、両親がネオナチの襲撃の標的となったため、逃れてきた、この物語の中で唯一、政治的迫害に基づく「難民申請」を経てフランスにやって来た生徒だったと思う、左側の女の子は、ウクライナ出身、とても歌がうまくて、歌手になりたいといっている、会話の中でフランス語の単語が思い出せなくなると、たしかもう一人ベラルス出身の女の子がいたから、彼女とであろう、囁き声で、教えあったりしていた、ともに東スラブ系の言葉で、相当語彙も共通しているそうだから、そういうこともあり得るだろうと思う、・・・、もう一人、残念ながら映像は見つからないが、記憶に残る一人の男の子、「三者面談」では、数学の成績に問題がある、と言われて、お母さんが、この子は小さい頃、軽い「アスペルガー」の診断を受けたことがあるのです、と説明していた、・・・、クラス全体で、おそらく、上のシーンに続く部分だったと記憶する、どうして、異なる宗教間の対立が生じるのか?、という議論の中で、そう、地球を描いた画用紙の真ん中に大きな「クエスチョン・マーク?」を描いて、壁に貼り出したりしていたな、そのとき、彼は、ぼくの国では、「IRA」と「UDA」がお互いに爆弾を投げあってるんだぜ、と、クラスのみんなに語りかけるのだ、・・・、また、些末な、やや偏執的なこだわりではあるが、日本語版字幕も、それから、英語、フランス語の紹介ページでも、この子の出身国を「アイルランド」と表記しているのが気になった、「IRA」はもちろん、「アイルランド共和軍」、北アイルランドの英国からの離脱、アイルランド共和国との統一を求める、カトリック系共和派、「UDA」は「アルスター防衛協会Ulster Defence Association」、「アルスター」は、北アイルランドを指す、主に「親英派/ユニオニスト」側の呼び方で、北アイルランドの英国残留を求めるプロテスタント/英国国教会系の純軍事組織、お母さんは、フランスでの雇用を求めて移住したようで、政治的問題には触れていないが、出身地は、「アイルランド共和国」ではなく、「北アイルランド」、映画の最後のクレジット部分では、もちろん、「Irlande du Nord/北アイルランド」と表記されていた、・・・・、そのほかにも、魅力的な子供たちがたくさん登場して、ここに書ききれないのが、申し訳なく感じられる(笑)くらいだが、このくらいにしておこう、・・・。・・・冒頭で触れた「杞憂」について、せっかくだから触れておこう、論点は二つあって、一つは、フランスのいわゆる「ライシテlaïcité」と呼ばれる、「世俗主義/政教分離原則」のおそらく病的と呼んでもよいだろう変容、・・・、「シャルリ・エブドCharlie Hebdo」、「hebdo」は「hepto-/7」に連なる言葉、だから「週刊チャーリー」とでも言うべきタイトル、この「左翼」風刺雑誌が、イスラムの預言者ムハンマドを「テロリスト」として描き出す漫画を執拗に掲載、これに激昂した、いわゆる「イスラム過激派」による暴行事件が、この映画との関係でいえば、撮影はもとより公開以降のことになるのだが、2015年1月に発生した、イスラムが偶像崇拝、預言者の絵姿を描くこと自体を厳禁していることにかんがみれば、この雑誌の行為は度を過ごした「挑発」にほかならない、どうして「テロリズム」犯罪を批判すると同時に、そのような危険極まりない挑発行為を諫める言論があり得なかったのか?フランスの「世論」は、これに対して、政界、言論界の要人を先頭に、大規模なデモ隊が街々に繰り出し、「私はシャルリ」なる合言葉のもとに、いわゆる「言論の自由」の擁護、の・み・を訴えるにとどまったのだった、・・・、このような形を変えた「イスラモフォビア」の勃興に警鐘を鳴らすべく、エマニュエル・トッドは、ほとんど孤軍奮闘のごとくに、叫んでいたのを、くっきりと覚えている・・・、・・・数百万のフランス人が大急ぎで街に出て、自分たちの社会に優先的に必要なこととして、弱者たちの宗教に唾を吐きかける権利を明確化しようとした。彼らはその折に、本人たちの主張にもかかわらず、フランス史の中心軸から逸脱した。かのヴォルテールの名が、しばしばシャルリによって、ドクトリン上のリファレンスとして挙げられた。その点は、一七八九年の革命家たちが、あるいは一九〇五年の政教分離賛成派の面々が、正しくもそうしたのと同じだ。しかし『哲学辞典』を改めて繙いてみたまえ。そこに見いだされるのは何よりもまず、著者の父祖の宗教であるカトリシズムと、カトリシズムの唯一の源泉であるユダヤ教に対する見事なからかいだ。同『哲学辞典』は、イスラム教やプロテスタンティズムにはほとんど関知していない。実際、アブラハム、ダビデ、イエス、ヨセフ、ユリアヌス、モーゼ、パウロ、ペトロ、ソロモンについての記事はあるが、ムハンマド、ルター、カルヴァンについては記事が一つもない。シャルリの場合とは反対で、ヴォルテールが糾弾したのは他者たちの宗教ではなかった。彼は自分の宗教と、自分の宗教の源である宗教を冒涜したのである。「シャルリとは誰か?」エマニュエル・トッド(文春新書)もはや、この「時代」を、「理解」したり、そこに「共感」を得たりすることは、二・度・と・、不可能なのではないか、などと、改めて、「うつ病患者」らしく(笑)、「絶望」していたものだから・・・「シャルリとは誰か?」エマニュエル・トッド、を読む自由の名において支配を正当化するなら、自由の中には、守られるべきものと、そうでないものがある、ということを確認することになるではないか・・・シャルリ・エブドの漫画を再掲載することは、言論の自由とは何の関係もない/アスマ・バルラス2020年9月11日アル・ジャジーラ・・・もう一つは、フランスという国に深く根付いている、「フランス語中心主義」、・・・、広く流布しているかもしれない常識とは異なって、フランスは「多言語国家」だ・っ・た・、これはダンテの説にまで遡りうるそうなのだが、インド―ヨーロッパ語族ロマンス諸語、つまり「ラテン系」と呼ばれる言語は、「はい/yes」にあたる言葉に何を用いるかで、「oui」地域、「oc」地域、「si」地域におおむね分けることができる、という、3番目のものは、イタリア語、スペイン語であるから別として、南フランスの広大な領域に、「オック語/ラングドックLangue d'oc地帯」が広がっている、それ以外にも、ブルターニュのケルト系のブルトン語、アルザス地方の、ほぼドイツ語に近いといわれるアルザス語など、周辺地域の少数言語の存在を、黙殺することを通じて、この国は、言語的「中央集権化」を図ってきたようなのである、だから、「正しいフランス語を学びなさい」という言葉は、移民たちに対してのみならず、フランス国内の少数言語使用者たちにとってさえも、威圧的なものでありえたのだな、・・・、フランス、少数派言語地域図・・・エドゥアール・ドリュモンから、アルフォンス・ドーデへ・・・「ことばと国家」田中克彦、を読む・・・もちろん、喜ばしいことに、この映画に関して、これらは完全に杞憂であった、上の「予告編」にも描かれているように、子供たちが、各々の宗教に関して、時として過熱しかねないまでに議論が交わされても、先生も、撮影する監督も、決して介入しようというそぶりは見せない、「子供たちの間でだけで、ちゃんと解決できるはずだ」という信頼が、読み取れるくらいだし、また、それぞれの母語を、忘・れ・な・い・よ・う・に・、誇りをもって用い得る機会も、十分に与えられているらしいことも、画面から伝わってきたし、・・・、ちょっと柄にもなくほめ過ぎるのは気恥ずかしいからこのくらいにしておこう。・・・ところで、何十もの言語を話す子供たちが、一つの教室で学ぶこの教室が、どうして「バベルの学校」と呼ばれるか?典故は、「創世記第11章」、「神」というものは往々にして気まぐれなものと相場が決まっているが、ここでも、人々が同じ言葉を話し、協力して「塔」を建て、ついには「天」に至りかねないのを嫌い、彼らの言葉を「淆亂」、つまり、混ぜ合わせて混乱させ、互いに通じ合わず、したがって、協力して「塔」を建てることもできず、「天」に至ることもできず、むしろ「地」に広く、ばらばらに散在させることにした、・・・、ということであるらしい、言葉が一つである方がよかったのか?それとも「淆亂」されてしまった方がよかったのか?を問うことは無意味だね、「多様性」を寿ぐことは、ほかならぬ「多様」であるところの「個々」の個体にはなしえない、越権行為であろう、「私」には、「私」の隣人が、「私」と異・な・っ・て・い・る・ことを、喜んだり、また反対に嘆いたりすることができない、その利益もまた不利益も、なんら立証できないからだ、ただただ、「私」の所属する「集合」が、異・な・る・ものを多く含み、「多様」であることの方が、どうやら「私たち」全体が、生き延びる確率を高めているらしいこと、つまり、「ゼノフォビアXenophobia/異なるものを恐れること」よりも「ゼノフィリアXenophilia/異なるものを愛すること」の方が、どうやら理・に・か・な・っ・て・いるらしいことを、たとえ不承不承であったとしても、認めること、できるのはそれだけなんだから、・・・。・・・11-1 全地は一の言語一の音のみなりき11-2 茲に人衆東に移りてシナルの地に平野を得て其處に居住り11-3 彼等互に言けるは去來甎石を作り之を善く爇んと遂に石の代に甎石を獲灰沙の代に石漆を獲たり11-4 又曰けるは去來邑と塔とを建て其塔の頂を天にいたらしめん斯して我等名を揚て全地の表面に散ることを免れんと11-5 ヱホバ降臨りて彼人衆の建る邑と塔とを觀たまへり11-6 ヱホバ言たまひけるは視よ民は一にして皆一の言語を用ふ今既に此を爲し始めたり然ば凡て其爲んと圖維る事は禁止め得られざるべし11-7 去來我等降り彼處にて彼等の言語を淆し互に言語を通ずることを得ざらしめんと11-8 ヱホバ遂に彼等を彼處より全地の表面に散したまひければ彼等邑を建ることを罷たり11-9 是故に其名はバベル(淆亂)と呼ばる是はヱホバ彼處に全地の言語を淆したまひしに由てなり彼處よりヱホバ彼等を全地の表に散したまへり創世記11-1 And the whole earth was of one language, and of one speech.11-2 And it came to pass, as they journeyed from the east, that they found a plain in the land of Shinar; and they dwelt there.11-3 And they said one to another, Go to, let us make brick, and burn them throughly. And they had brick for stone, and slime had they for morter.11-4 And they said, Go to, let us build us a city and a tower, whose top may reach unto heaven; and let us make us a name, lest we be scattered abroad upon the face of the whole earth.11-5 And the LORD came down to see the city and the tower, which the children of men builded.11-6 And the LORD said, Behold, the people is one, and they have all one language; and this they begin to do: and now nothing will be restrained from them, which they have imagined to do.11-7 Go to, let us go down, and there confound their language, that they may not understand one another's speech.11-8 So the LORD scattered them abroad from thence upon the face of all the earth: and they left off to build the city.11-9 Therefore is the name of it called Babel; because the LORD did there confound the language of all the earth: and from thence did the LORD scatter them abroad upon the face of all the earth.Genesis・・・もう一つ、「バベルの学校」の場所、パリ10区、「グランジュ・オー・ベル通りRue de la Grange aux Belles」、「美しい『納屋』」みたいな意味?、とのこと、「東駅Gare de l'Est」の東300メートル、「サン・マルタン運河Canal Saint-Martin」を渡ったところ、・・・、そういえば、映画の終わりごろ、「学生映画祭」が開催されるのはどこの町だったっけな?そこへ向かう列車に乗って、みんなで旅をする、その駅は、どこだったんだろう?近くのビルの屋上からだろうか、斜め上方から空撮されていたそれ、「東駅」の写真に似ているようでもあり、似ていないようでもあり(笑)。パリ・・・この「海辺の映画館/カフェ」では、上映最終日にその映画にちなんだ料理を囲んで歓談する習わしであるらしく、別に映画に登場したわけではないのだが、「Epiphany/Epiphania Domini公現祭」、キリストの生誕、「東方の三博士」到来を記念する祝祭、ほぼ「クリスマス」と一致する、に食されるといわれる「ギャレット・デ・ロワ/王様のお菓子Galette des rois」が時節柄選ばれたようで、私も、懐かしい(笑)、かつて「お菓子作り」が趣味、などと豪語していた頃を思い出し、パイ生地を麺棒で押し広げるなどの、お手伝いをさせていただいた、・・・、そののちの談話の席では、もちろん、完全に「躁転」してしまっている私は、またしてもしゃべりすぎた、・・・、「70年代過激派」は、「われわれ」、一人称複数を主語とする話型、つまり、「個」としての自分を隠蔽するに過ぎない話型、から長らく脱出することができず、「自分」について、語ってもよ・い・のだ、と、生まれて初めて思えるようになったのは、ようやく「うつ病」罹患後、精神科の先生の前に座ったときだったこと、・・・、一晩のうちに、倉田百三「出家とその弟子」とサリンジャー「フラニーとズーイー」を立て続けに読み、「太っちょのおばさまを愛すること≒悪人正機」といういわば宗・教・的・啓・示・を受けた経験のこと、等々、それらは、前も言ったように、すでに繰り返し繰り返し、私自身の「内話」の中で「リハーサル」が積まれた、出来上がった話だから、私は、ただそれを、人前に恥ずかしげもなく噴出させているだけで、なんら「対話」でも「会話」でもない、・・・、相変わらずしゃべりすぎることに対して、正しくも、ご批判も受けたけれど(笑)、私は、この日、異様なまでに「幸せ」で、その夜、眠れなかったくらいなのだ、目の前の「他者」が、ひょっとしたら自分の話を聞いてくれているのかもしれない、という、もう何年も忘れてしまっていた感覚が、取り戻されたような錯覚が生じたからだね、・・・、結局のところ、私の「病」は、フロイト理論上の正確な定義に合致するかどうかわからないが、いわゆる、患者が、自分の延々と続く「愁訴」を黙って聞き続けてくれる精神分析医に対して抱きかねない疑似的「愛情」、すなわち「転位症状」以上のものではないのであって、「他者」との関係にことごとく失敗してしまうのは、そうやって、話をきいてくれた「他者」に対して、ただただ限りなく「依存」し、相手に分析医の地位を押しつけてしまうという一方的な関係をつくるしか、レパートリーがないということにあるのだな、今さら気づいても遅く(笑)、もう、ほどなく終わるのだし、このまま、心静かに諦めることとしよう。ケンジさん、「カラマーゾフ」談義を吹っ掛けてくれた方だ、の淹れてくださるコーヒーは、すこぶるおいしい、私のばかな昔話に合わせてくださって、1971年、「全共闘」の白ヘルメットで三里塚に赴かれた経験を語ってくださった、私は、お返しに、これもまた同じ話だけれど、1975年の7月、大阪駅前の歩道橋で、「ひめゆりの塔」前の、皇●太子に対する火炎びん投擲を伝えるビラを受け取った日の衝撃、長らく忘れていたが、それこそが、私が今、ここにいることの原点であったかもしれないこと、などを語った。・・・シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もどこにもおらんのだ。それがきみには分からんかね?この秘密がまだきみには分からんのか?それから―よく聞いてくれよーこの『太っちょのオバサマ』というのは本当は誰なのか、そいつがきみに分からんだろうか?・・・・・・ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人にほかならないんだよ、きみ」嬉しさのあまりであろう、フラニーは、受話器を、両手まで使って、握りしめているよりほかに仕方なかった。「フラニーとゾーイー」J.D.サリンジャー(新潮文庫)There isn't anyone anywhere that isn't Seymour's Fat Lady. Don't you know that? Don't you know that goddam secret yet? And don't you know--listen to me, now--don't you know who that Fat Lady really is?... Ah, buddy. Ah, buddy. It's Christ Himself. Christ Himself, buddy."For joy, apparently, it was all Franny could do to hold the phone, even with both hands.Franny and Zooey(1961)/J. D. Salinger「尊厳」という言葉を、私は好まないが、もし無理にでも(笑)定義するなら、「生」を、従って、「死」を、個体毎に、別様に取り扱うべきことだ、と、言おう。J.D.サリンジャー「フラニーとゾーイ―」、を読み直す。・・・善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なお往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善じりきさぜんの人は、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土しんじつほうどの往生をとぐるなり。煩悩具足ぼんのうぐそくのわれらはいずれの行にても生死しょうじをはなるることあるべからざるをあはれみたまひて願をおこしたまふ本意ほんい、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因しょういんなり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰おほせ候そうらいき。「歎異抄」(本願寺出版)・第三条「死ぬのは穢れではねぇがら」、・・・、柳美里「JR上野駅公園口」、を読む、高橋貞樹と、「転向者」に向けられる言葉たち、さらに「悪人正機」からサリンジャーまで飛び出して。「異なったところが、ただ一つもない」のが「同じである」ことの定義だとすれば、「異なりうる」要素が「無限個」ある場合、それを列挙することによって証明するのは、不可能なのだ。「交配によって『不稔』を生ぜざ・る・者」をば、「同種」である、と認定する、つまり、「同じ」であることは、否定文によってしか、しかも、遡及的にしか、定義できないことになる:何年も前の「資料映像」(笑)・・・「私」には、「私」の隣人が、「私」と異・な・っ・て・い・る・ことを、喜んだり、また反対に嘆いたりすることができない、と書いたのも、それに近い意味だ・・・。・・・ルリハコベ(サクラソウ科)、ユーラシア大陸原産だが、全世界に「帰化植物」として広がった、といわれる、ただし、暖地にしか生育せず、日本では、紀伊半島、四国、南九州、そして南西諸島にのみ産す、とのことだから、私は、当地に来てから始めて見た、ということになるだろう、もちろん、私が「野草観察家」(笑)になったのは、「うつ病」発症、人間の顔を見るのが恐怖に耐えず、何かそ・れ・以外のものでつねに視野を埋めておかなければならない、というある種切羽詰まった理由からだから、そんな病気にかかるなど夢にも思っていなかったあの頃、つまりまだ「本土」にいた頃、こんな植物がたとえあたりに生えていたとしても、決して目にとめることはなかっただろうが、・・・、一般に「野草」などというものは、地上から高さ数センチくらいの空間に花をつけるものなのだから、普通に(笑)、目的をもって、確固たる足取りで歩んでいる人間の目になど、入るはずもない、また、入る必・要・もないものなのである、「人生」に、目的も「やる気」も、失ってしまった怠惰な人間のみが、そこに足をとどめ、しゃがみこんで、初めて発見する、だから、あえて誇らしげに言わせてもらえば(笑)、私は「発病」することで、初めて地上高10センチの「環世界」を発・見・できたのだ。綺麗な対称形を描いた5弁の離弁花、同じ数の雄蕊の先端の葯の黄色が、花弁の、文字通りの(笑)「瑠璃色」と際立った対照をなす、正直、なんて美しいんだろう!と、驚嘆した、「花」を美しいと感じるなどという習慣が、自分と関係あるとは、到底思ってもいなかった「人生」だったから、まず、そのことに驚嘆したのかもしれない(笑)、・・・、同じ頃読み始めた、チャールズ・ダーウィン「種の起源」、もちろん、こんな書物を手にした理由も、同じく、なるべく「人間」が登場しなさそうなものを、ということに違いないが(笑)、に、この植物の名が登場する、イングランド北部に生まれ、もっと北のスコットランドで学業を積んだ著者が、その地でこの野生の植物を目にした可能性はないと思うが、当時すでに、栽培植物として持ち込まれていたのかもしれない、彼自身が、「種」の「定義」として記述したわけではない、その頃、育種家たちの間で、常識とされていた判断基準について引用する、という文脈、交配によって「不稔」を生じないならば、それは「同種」であるの例示として、このルリハコベと、その赤花変種、アカバナルリハコベとは、交配によってまったく問題なく生育するから、ちなみに「不稔」とは、交配させた植物体自体が種子をつけないこと、および、種子をつけたとしても、それが成長した「子」の世代の生殖器官に問題が生じ、種子を実らせないこと、を含む、といわれる、・・・、これら2種は、「同種」であり、同じルリハコベという種の中の、「変種」、「亜種」に過ぎない、という結論だったと思う、こんな著名な博物学者の書物に、自分の知っている生き物の名称が登場するなどということ自体が、大変珍しいことだったからだろう、長く記憶に残っているのだ。その、アカバナルリハコベ、「野草観察家」歴、すでにして「四半世紀」(笑)であるが、見つけることが出来たのは、まだ、わずか数回に過ぎない、発見できた場所もわずか2か所、一つは、「やんばる」とは呼ばないかもしれないが、この島の生物相の重要な分界線をなす、マングローブ植生豊かな河よりは北側、海岸沿いに延々と広がるサトウキビ畑の畔、もう一つは、うちの近所の「新都心」の公園、後者は、おそらく、その地の開発のために盛り土として持ち込まれた土砂の中に、「シード・バンク」としてその赤花品種の種子が眠っていたのだろうから、「原産地」は、別の所だったに違いないと想像している、実に鮮やかな、橙色で、これら二つの「変種」が並んで咲き誇っている光景は、圧巻といわざるを得ない、だが、それに感嘆している自分自身を診・断・してみると、「自然」の妙に対する驚き、というよりは、もっと下世話な(笑)、例えば、「新左翼各派」のヘルメットの色、とか、あるいは、京浜東北線が「空色」、山手線が「鶯色」、中央線快速が「柿色」とか、正確に同じ形をしているのに、色だけ異なるもののリスト、といった事柄に対する、ある種偏執的な、病的なこだわり、なのかもしれない、とは思う。ダーウィンのこの記述が、とても気になったのは、ほかでもない、「同じ」であることが、「否定文」によって定義されているからだった、私は、超・絶・「不人気」で、無能な数学教師だったが(笑)、それでも、その十年間の「キャリア」の間(笑)、それなりの「研鑽」を積んだわけで、とりわけ、「命題論理学/述語論理学」の分野に関心を抱き、読めもしないヴィトゲンシュタインなどにさえ、手を出しかねなかったのは、実に、あるいはヴィトゲンシュタインその人も、そうだったに違いない、と僭越にも思っているのだが(笑)、ひとえに、自分は、どうして、こんな「病気」になってしまったのか?、という探究のためだったと思う、「世界」には、「否定文」でしか定義しえないものが存在する、例えば「無理数」、それらの間の比が、その値に等しくなるような、一組の自然数を、決して探し出すことが出・来・な・い・こと、が、その定義となる、例えば√2が、「無理数」であることを証明せよ、といわれても、3/2ではだめだ、7/5でも、10/7でも、13/9でもだめ、と延々続けていっても、自然数が「無限」に存在する以上、それは終わることがない、つまり「帰納」的手段では、証明できないわけで、「背理法」、もしそのような一組の自然数が存在すると仮定したならば、矛盾が帰結してしまう、といった形で証明内容の転換がはかられなければならないのだ、・・・、それは、「健康/病気」という対語の関係に似ている、これは、やはり同時期に読んだ、計見一雄という高名な精神医学者の著書で知ったのだが、何でも、現代の最先端の医学的知見をもってしても、人間の腎臓にどれだけの機能があるかを、決して列挙しつくすことはできないのだという、ならば、あなたが例えば「人間ドック」を受診したとしよう、膨大な数の検査を受け、そのことごとくが、良好な数値を示していた、医師は、問題なく、あなたは「健康」です、と太鼓判を押すことになるだろう、だが、それは、√2と等しくなるべき自然数の組を、次々列挙して、あれも違う、これも違う、と言い立てているのと、なんら変わらないのだ、どこかに、その検査方法さえ未知な、「疾患」が隠れているかもしれない、という疑念を決して払拭することが出来ない、という意味において、その「健康」なる断定は、越・権・なのである、「病んでいる」ことこそが、常態であって、「健康」とは、その欠如の相、「有限」な時間を生きるしかない私たちにとっては、決して「証明」することが出来ない「仮想的」な状態、手短にいえば(笑)「イデオロギー」でしかない、・・・、自分が「病んでいる」ことと折り合いをつけ、どうして「病む」に至ったかの「原因」を突き止めるべく、自分自身の「落ち度」を探し続けなければならない、と急き立てられていた者にとって、これは、鮮やかすぎる「逆転」だった、・・・、爾来、「『否定文』でしか定義できない概念」は、私の得意分野、「持ちネタ」となった、「センターテスト直前講座」などでは、「必要条件/十分条件」を論ずる際には、誰も聞いていない生徒さんたちを前に、滔々とまくし立てることとなった(笑)、勤務先の予備校が倒産するにせよ、馘首になるにせよ(笑)、そんなときには、ささやかな「最終講義」の場を設けてもらい、この話をしたい、など腹案さえ練っていたものだが、残念なことに、三か月分の未払い賃金を残して、経営者が「雲隠れ」、自分から彼に電話をかけて、すでに「クビ」になってい・た・、事実を知らされた次第で、この「夢」も潰えたけれど(笑)、・・・、「私」には、「私」の隣人が、「私」と異・な・っ・て・い・る・ことを、喜んだり、また反対に嘆いたりすることができない、と書いたのも、それに近い意味だ、「多様性」をめぐる議論の中で、「『多様』であることは、すばらしいことではないですか?」などと、したり顔で語られたりすることに、何かいかがわしいものを感じてきた、そんなものを、「良い」か「悪い」かを判断できると思い込むこと自体が「越権」であろう、「集合」の「要素」の一つに、その「集合」の有すべき「性質」を書き込むことはできない、それは、「うま、さる、ひつじ、・・・」等々、の「集合」に、「動物」なる要素が紛れ込んでしまっているがごとき「階層侵犯」なのである、むしろ、「健康/病気」の対概念同様、「均一であること/多様であること」においても、か・な・ら・ず・後者が常態であって、その欠如によって、「否定文」によってしか、前者は定義できないことを、いわば、肝に銘じるべきではないのか?、と思ったのだね、では、なぜ、「多様であること」、「異なっていること」が、望ましいこと、「良い」ことであるのか?、もちろん、それを断言することも、現に「多様性」として存在している「集合」の「要素」の一つにすぎない私たちにとっては、越権行為である、できることはただ一つ、これも、奇しくも、かのチャールズ・ダーウィンの偉大な発見に帰すべき事柄なのだが、私たちが、それぞれに「異なっている」こと、「変異」をいくつも宿していることが、どうやら「有利」であったらしい、予期せぬ災難によって、全滅することを免れ得たのは、私たちの中に、「異なる」ものが、多少なりとも存在していたからだ、・・・、そういうことが、ほかならぬ私たちが、今日まで生き延びることが出来たという事実によって、すでにして証明されている、ということを、あるいは、そこら辺に咲いているスミレの花が、現実にはもっぱら「自家受粉」によって繁殖しているにもかかわらず、それでも一定期間の「開花」の期間を設けているのは、それ自身、「他家受粉」によって「多様性」を持ち込むことを、優・先・しているからに違いない、ということを、「良い/悪い」を論・ず・る・以前に、たとえ不承不承であってもかまわない、ただただ、「受け入れる」ことだけなのだ。・・・チャールズ・ダーウィンCharles Darwin(1809-1882)、英国イングランド北部、シュルーズベリShrewsbury、マンチェスター、リヴァプールの南70キロ当たりの町、に生まれる、両親は、おおむね、「三位一体」を否定する「ユニテリアン主義Unitarian」的なキリスト教徒であったらしい、両親の祖先は、いずれも、著名な「アボリッショニスト/奴隷解放論者」として知られていた、とのこと、父が地域の医者であったため、すでに1825年頃から、父の下で医業の見習、のち、エディンバラ大学医学部入学、エディンバラEdinburghは、スコットランドの首都、講義は退屈だったが、英領ギアナ、現・ガイアナ生まれの「解放奴隷」ジョン・エドモンストーンJohn Edmonstone、1817年に、奴隷所有者であり、プランテーション・オーナーであった人物とともにスコットランドにやって来たこと以外、生没年は不明、の「剥製技術」だけは、熱心に学んだ、といわれる、そういえば、「ビーグル号航海記」のなかには、ダーウィン自身が、自らの剥製技術を自慢している、とも取れる記述があった、・・・、同大学では、「プリニアン・ソサエティPlinian Society」なる、急進的民主主義者の学生たちによる、唯物論的自然科学を論ずる、グループに参加、これは、古代ローマの博物学者、軍人、ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)Gaius Plinius Secundus(23-79)、に因む命名と思われる、この人物は、ヴェスヴィオ山の噴火の調査の際に死亡している、・・・、彼が医学に不真面目であるのを憂慮して、父は彼をケンブリッジのクライスト・カレッジに入学させる、そこで、同じ学校で学んでいた「また従兄」の、ウィリアム・ダーウィン・フォックスWilliam Darwin Fox(1805-1880)の影響を受けて、蝶や、甲虫類の収集に没頭したらしい。フォックスを通じて、国教会牧師であり、かつ、著名な植物学者であるジョン・スティーヴンス・ヘンスローJohn Stevens Henslow(1796-1861)の知見を得る、1831年までケンブリッジに在学、「個別創造説」的なものを学んだが、アレクサンダー・フォン・フンボルトAlexander von Humboldt(1769-1859)の旅行記などにも感銘を受けた、といわれる、1831年夏、ヘンスローの紹介で、ビーグル号HMS(His Majesty's Ship) Beagleに、費用自己負担の「ナチュラリスト」として、補助要員としての地位を得る、ビーグル号は、1831年12月27日、プリマスPlymouthを出航、同船は、南米大陸海岸線の測量を主目的としていたが、ダーウィンは、寄港地ごとに上陸して、地質、植生調査にあたった。1836年10月2日にファルマス港Falmouthに帰着。・・・1859年「種の起源On the Origin of Species」発表。・・・The Voyage of the Beagle(1843)/Charles Darwin(Project Gutenberg)The Voyage of the Beagle(1843)/Charles Darwin(Internet Archive)On the Origin of Species(1859)/Charles Darwin(Project Gutenberg)On the Origin of Species(1859)/Charles Darwin(Internet Archive)・・・マンチェスター、リヴァプール、シュルーズベリ大ブリテン島、アイルランド島ビーグル号航海の経路/The round-the-world voyage of the Beagle, 1831–1836こちらの冬は、憂鬱そうな、曇り空がずっと続く、だからこんなふうに、時たまお日さまが射してくれると、それだけで、やや心が弾む。キセキレイ(セキレイ科)キセキレイ(セキレイ科)間(あわい)の季節、というものがほとんどなくて、真夏のような陽気から、ある日突然冷え込んで、いきなり冬になる、川面をながめても、気のせいか(笑)、なんか、寒々としているではないか?イソシギ(シギ科)トックリキワタ(パンヤ科)・白花品種滞在期間が長くなると「慣れる」なんてことがあるんだろうか?、なんだか、写真に収まってくれやすくなった気がする、もちろん、慣れたのは、こっちなのかもしれないけど(笑)。キセキレイ(セキレイ科)・・・何年ぶりかで人と会う、いや、その人と会うのが何年ぶりかであるのみならず、およそ「人間」と会うのが。だから早朝から緊張の極み、十分歩いただけでこんなに「鳥影」、「縁起がいい」んだと思うことにした(笑)。イソシギ(シギ科)シロガシラ(ヒヨドリ科)キセキレイ(セキレイ科)ハクセキレイ(セキレイ科)新月大潮、正午ごろの干潮まではまだ少し間がある、だから、「まどろみ」の時間。シロチドリ(チドリ科)こちらは、ま・ど・ろ・ん・だ・り・はしないようで、あっという間に通り過ぎてしまった。ハクセキレイ(セキレイ科)コンクリートの肌触りが、お好きなんですね。イソヒヨドリ(ツグミ科)あなたもまた、そこで、なにかを「待って」おられるのですね?イソシギ(シギ科)サトウキビ畑の農道のまん中で、なにかと「格闘」している、だから、じゃまだてしないように、どうせこちらは閑人なんだし(笑)、「見守る」ことにしたのだ。イソシギ(シギ科)電柱から電柱へ、向こうは「ひとっ飛び」かもしれないが、地上の生物であるこちらは、角を曲がったり、行きつ戻りつしたり、上ったり下ったり、しなければならないのである(ロング・バージョン)。電柱から電柱へ、向こうは「ひとっ飛び」かもしれないが、地上の生物であるこちらは、角を曲がったり、行きつ戻りつしたり、上ったり下ったり、しなければならないのである(ショート・バージョン)。 サシバ(タカ科)イソヒヨドリ(ツグミ科)・オス「農協スーパー」で野菜を買いましょう、なにかお安いものがあればいいのだけれど(笑)、と、見上げるとすぐ目の前の屋根に、こいつが。 イソヒヨドリ(ツグミ科)・オスダイサギ(サギ科)これこそまさに、「飛び石」だ。「夕陽」は、万物を美しく演出してくれるのですね、そんな、「万物」だなんて、大げさな!夕刻、近所の遊水地、池を挟んで対岸の堤、ずいぶんリラックスしているのか、こいつは、長々と同じ場所にとどまってくれている、私は、向かいの道路わきにしゃがみこんで、手すりの隙間から、覗き見をしている。キセキレイ(セキレイ科)・・・この島では、毎年12月の初旬に、一日か二日、とんでもなく暖かい「夏日」がやって来る、すると「春花」たちが、「出番」を間違えて(笑)、うっかり、咲いてしまったりするようなのだ。ルリハコベ(サクラソウ科)、12月の初旬には、かならず、一日くらい、とんでもなく暖かい「夏日」があって、春花たちも、間・違・え・て・(笑)、咲いてしまうのだ。コケセンボンキクモドキ(キク科)カタバミ(カタバミ科)・・・ハクセキレイ(セキレイ科)ミサゴ(タカ科)オオハマボウ(アオイ科)白き鷺なるに、黒鷺とは、これまた異なことを承る(笑)。クロサギ(サギ科)・白色型イソヒヨドリ(ツグミ科)こいつは、いつも、面白い表情をして、見るものを楽しませてくれる、ありがたいことだ(笑)。ハクセキレイ(セキレイ科)シマツユクサ(ツユクサ科)時代劇、ででもない限り、「蛇の目傘」というものを見たことがなかったはずなのに、今日の今日まで、あの「雨々、降れ降れ」の歌詞に、なんらの違和感も持ってこなかったとは、これまた、異なことではある。蛇の目傘、「石突(いしづき)」を中心に、中を白く周辺を黒・紺・赤などで太く輪状に塗って、蛇の目模様を表した紙製の雨傘、江戸時代から広く用いられた、とのこと、・・・、「石突」というのは、棒状の道具の、地面に突き刺す部位のことを呼ぶ用語で、これが転じて、キノコの軸の下端もそう呼ばれるようになったとのこと、・・・、いくつになっても学ぶことはあるものですな、・・・、幼稚園か小学校の頃、にわか雨が降って、母親が傘を持って迎えに来てくれた、という経験が、きっと一度や二度あったに違いない、と思うのだが、少しも記憶がない、あるいは、母親との関係での「トラウマ的」な部分が影響して、記憶に検閲がかかっているのだろうか?、・・・、もっとも、そんなときでも、傘は、決して「蛇の目」なんかじゃなくて、黒い、ナイロン製、あるいは、子供用の、黄色いビニール製、とかだったに違いないのだけれど、・・・、海のすぐそば、隆起サンゴ礁からなる丘の上の、しゃれたカフェと映画館、庭には、鳥見台のようなものがしつらえてあって、そこから撮った、そんなに珍しい蝶ではないけれども、やはり、山深い場所でないと見つからない、リュウキュウヒメジャノメ(ジャノメチョウ科)、「蛇の目」模様は、魚類の幼魚にもよく見られるが、こちらが目ですよ!とばかりに、捕食者を欺く仕掛けだ、といわれる。リュウキュウヒメジャノメ(ジャノメチョウ科)・・・ムラサキカタバミ(カタバミ科)年を経るごとに、ここ、つまり「常夏の国」(笑)、の「冬」が身に応えるようになってきた、かの「京」の「底冷え」に比べたら、こんなの冬じゃない、などと、なめたことを言った罰が当たったに違いない(笑)。セイヨウミツバチ(ミツバチ科)、彼らが、蜜や花粉を集めるのに「没頭」している、この花の名前は、わからず仕舞いだが・・・セイヨウミツバチ(ミツバチ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)この花が、冬に咲くことを知ってからも、すでに八年が過ぎてしまったのだね。フヨウ(アオイ科)、もう三年ばかりも前になるだろうか、ここは近所の公園なのだが、毎年冬になると花を咲かせて楽しませてくれた芙蓉の木が、強い台風のせいで、倒されてしまったのだった、これは、同じ株のものかはどうかわからないけれど、近くに新たに伸び始め、ようやく花をつけるまでに成長してくれたらしい。・・・平日の午前中の公園、貧しい独居老人が、「不審者」の疑惑を受けずに、ゆっくりできる稀有な時間だ(笑)。イソヒヨドリ(ツグミ科)・オスキセキレイ(セキレイ科)滞在が長くなって、なじんでこられた、ということかな、前みたいに、こちらの気配にそそくさと逃げ出す、ということが少なくなったようにも思える、いや、気のせいにすぎないかもしれないが(笑)。イソシギ(シギ科)サシバ(タカ科)キセキレイ(セキレイ科)ハクセキレイ(セキレイ科)