【検証】三原魔術と生き様
又、若年層読者を蔑ろにする記事を書きますどんどん若い読者が減っていくなぁ・・・西鉄で3年連続日本一、前年度最下位の大洋に移籍し、ここでも日本一に導いた三原氏をファンは『魔術師』と形容した。その三原氏が昭和42年、18年間で13度の最下位という近鉄バファローズのユニフォームを着るというのだ。経緯は三原側からの売り込みだった。当時の球団社長の芥田武夫氏と三原氏は早稲田の先輩・後輩の間柄。スムーズに内定が決まると思いきや、三原氏の持ち出した条件は当時、前例のない『インセンティブ(出来高払い)』だった。優勝すればボーナスとして5000万、2位なら3000万、3位なら1000万という当時としては法外な金額だったのだ。当時の上場企業の平均ボーナスが大体1万円くらいの時代である。近鉄側はこの条件を承諾。晴れて三原氏は近鉄のユニフォームを着る事となる。こうして昭和43年のシーズンがスタートするも、後半に失速して4位に終わり、結局三原氏はインセンティブを1円も手に入れれなかった。これに対し三原氏は、シーズン終了と同時に退団を申し入れる。三原氏の言い分は、年棒のアップと2年目以降の契約金の支払いだった。近鉄側と三原氏との契約はこじれたが、東京オリオンズのオーナー、永田雅一氏が仲介に入り、三原氏は続投となる。この辺りも今では考えられない出来事である。他球団の揉め事に別の球団のオーナーが、仲介に入るのだから。それでも昭和44年のシーズンは、優勝まで後一歩の所まで迫る快進撃。日本球界初のインセンティブを手にしたと言われる。昭和45年は甲子園のアイドル、太田幸司の入団に沸くも3位に終わり、娘婿の中西太氏とサンケイ・アトムズに移籍して行った。人気blogランキング♪三原脩1911年生。香川県出身。高松中~早稲田を経て昭和36年、巨人入り。巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトの監督を歴任。監督通算成績1687勝1453敗103分勝率 .537