2008/02/01(金)17:28
追悼ヒース・レジャー:「ブロークバックマウンテン」―I swear…のナゾ
ヒースの訃報に関して、現在来日中のアン・リー監督の言葉をネット上のメディアに見つけた。25日付けのSANSPO.comによれば、24日の新作「ラスト、コーション」ジャパンプレミアで、「非常に悲しい思いでいっぱいです」と言葉少なに話したという。
さて、アマゾンで入手した「Brokeback Mountain Story to Screenplay」。
原作(Annie Proulx)と台本(Larry McMurtryとDiana Ossana)が1冊にまとまったスグレモノだ。
映画「ブロークバックマウンテン」は原作に非常に忠実だという話だったが、実際に読んでみると、原作にはないエピソードがかなり追加される一方、原作にははっきり書かれている部分が削除されたり、明らかに意図的に薄められたりしている。
「追加された」エピソードはもっぱら、アルマと離婚した後のイニスの娘(特に長女)との交流、それに離婚後に交際した女性キャッシーとの関係に集中している。映画では、長女が母と離婚したイニスに、「パパと一緒に住んで面倒を見てあげたい」と言ったり、結婚式に出て欲しいと頼みに来たりする。ところが、原作にはこうした場面はいっさいないのだ。定期的に娘と会っているらしいことは間接的に書かれているが、長女がイニスに同居を申し出たり、結婚式に招待したりするエピソードはない。つまり、映画で最後に娘が訪ねてくるシーンは、「追加された」もので、原作にはもともとなかったのだ。
キャッシーにいたっては、名前すら出てこない。映画ではキャッシーとの出会いがあり、交際が進んで娘に会わせ、その後破局に至るまでのエピソードが具体的に描かれているのだが、原作におけるキャッシーらしき女性は、ジャックとイニスの最後の逢瀬で、2人が情事の間に語り合う「嘘と真実」がないまぜになったお互いの近況の話にちらりと出てくるだけ。キャッシーという女性と付き合ったということさえ、「嘘」なのか「本当」なのかわからない。
最後の「I swear…」だが、これは原作どおり。だが、その場面に至るまでの話が違っているのだ。原作では、イニスの頭には、最初から最後までジャックのことしかない。原作はまず、家族もジャックも失い、中年になったイニスが1人で朝目を覚まし、その日の夢にジャックが出てきたことで幸福感を味わっているところから始まる。そして、最後はジャックの実家から戻ったイニスがブロークバック山の絵葉書を買いに行く。そして、それを貼り付けて、1つになった2人のシャツを見つめて、「I swear…」と呟くのだ。
「I swear…」の次に何を言おうとしたのか、という映画を見てのMizumizuの疑問は、原作では疑問にはならかなった。というのは、一番の「つながらない」と感じた、結婚を控えた娘とのエピソードが原作にはないからだ。カットされたシーンがあるからではなく、追加されたエピソードがあったから、うまくつながっていないと感じたというわけだ。思い出のブロークバック山の写真を貼りながら、「I swear…」と呟くだけなら、なんとなく言いたいことはわかる。「ブロークバックでのことは忘れない」とか、あるいは「俺にはお前しかいなかったし、これからもいない」とか、そうした気持ちだろう。ちなみに、映画は「I swear…」で終わるが、原作は以下のようにまだほんの少し続きがある。
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「ジャック、誓って…」と、イニスは呟いた。もっとも、ジャックはイニスに何かを誓わせようとしたことなど一度もなかったし、ジャック自身誓いを立てるようなタイプではなかったのだが。
そのころから、ジャックがイニスの夢に出てくるようなった。それは彼が最初に出会ったころのジャックで…(以下、出会ったころのジャックの容貌の描写とイニスの夢の具体的な記述が続く)
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そして、原作は、次のようなやるせない文章で終わる。「イニスが知ってしまったことと、信じようとしたことの間には少し隔たりがあった。だが、それはどうしようもないことだった。自分でどうにもできないのなら、ただ耐えるしかない」。
ここでいう「イニスが信じようとしたこと」とは、明らかに、(自分にとってそうであったように)ジャックにとって自分が唯一の男性だったということであり、「知ってしまったこと」とは、ジャックは現実には、自分以外の男性と関係を持っていたということだ。
原作のラストシーンでは、イニスは自分の願いと現実の「隔たり」に1人で耐えている。だが、映画ではこうしたイニスの心情は大幅に後退し、「信じようとしたこと」と「知ってしまったこと」について掘り下げることもない。ジャックの死因についても曖昧なまま、同性愛を忌み嫌う近隣住民のリンチで死んだのか、あるいはジャックの妻が主張するように事故で死んだのか、はっきりわからない展開になっており、ただ「ジャックが突然死んでしまった」という深い悲しみと喪失感の中で、彼への愛をイニスが確認するシーンで終わっている。
原作では、ジャックがどんなふうに死んだのかを現実の出来事として書いてはいないのだが、リンチ殺人であることを非常に強くにおわせ、少なくともイニス自身はそれを確信していく展開になっている。伏線は、ジャックとイニスの最後の逢瀬で語られた「嘘と真実のないまぜになったお互いの近況」にある。ジャックはそこでイニスに「自分は牧場主任の妻と不倫関係にある」と告白している。ジャックが自分以外の男性を関係をもったとしたら、ジャックを「殺してしまうかもしれない」と激怒するイニスだが、ジャックが女性と関係をもつことにはまったく嫉妬しない。実はこの「牧場主任の妻」は嘘であり、ジャックが関係をもっていたのは「牧場主任の男」のほうなのだ。
それは、イニスがジャックの死後、実家をたずねていったときに明らかになる。原作では、ジャックの父は明らかにイニスに敵意をもっている。「あんたの名前は、生前ジャックからよく聞いていた」。ジャックとイニスの関係に気づいているのだ。そしてジャックが生前望んでいた「ブロークバックへ遺灰をまく」ことはしないと言う。
イニスもジャックの父に反感をもっている。ジャックがイニスに、子供のころ父から受けた虐待について話していたからだ(この虐待体験は映画ではすっぱり削除されている)。そして、父はイニスに、「だが、最近ジャックは別の男の名前を言った」と教える。それが近所に住む牧場主の男であり、ジャックは長年のぞんでいた「イニスと牧場をやる」という夢を諦め、別の男と牧場を持つという新しい夢を持ち始めていたのだ。父の言葉で、イニスはやはりジャックは同性愛が周囲にバレて、リンチで殺されたのだと確信する。イニスがずっとジャックと一緒に住むことを拒否してきたのは、幼いころ、自分の父親が近隣の同性愛者に凄惨なリンチを加えて殺し、その死体を「教育のために」イニスに見せつけたという重い体験がトラウマとなっていたからだ。
映画でもこのとおりの展開で、このとおりの会話が交わされるが、イニスのジャックの父への反感はまったく表現されず(虐待の話がないのだから反感をもちようがない)、「別の男」の存在を知ったときのイニスの衝撃もほとんど感じられないまま、さらりと流れて、そのあとイニスが1人で2階に行って、「2つの皮膚のように重なった(原作の表現)」ジャックとイニスのシャツを見つけるシーンにつながる。イニスはその自分のシャツをブロークバックに忘れたとばかり思っていた。だが、実はジャックが黙って持ち帰り、「自分のなかにイニスがいつもいるように」1つにして、クローゼットにしまっておいたのだ。映画では、このシーンは、きわめて念入りに、長々と、最大限感動的に描かれている。
リー監督自身も、このシーンの重要さについて語っている。「自己否認ばかりしていたイニスは、重なった2人のシャツを見て初めて、『自分たちは愛し合っていたのだ』ということに気づくのです。自分にとって何が大切なのか、認めようとしなかったイニスが、最後にひとりぽっちで孤独な生活を送っているのは当然の結果。幸せな人生を送ろうと思ったら、イニスのように大切なものを見失ったまま生きてはいけない」。
リー監督はこのことを強く観衆に訴えかけたかったのだ。クローゼットに隠されたシャツをイニスが抱きしめるシーンの直前に、イニスがジャックの死因について確信したり、別の男性の存在を知って衝撃を受けていたりしては、肝心の感動的な場面の印象が弱くなってしまう。だからあえて、その前の部分は淡々と流したのだろう。台本を見ると、父から別の男性の名前を聞いたときのイニスは「真っ青になる」とある。だが実際の映画では、ここでのイニスの表情は明らかに、あまり強調されていない。衝撃を受けた様子を描きたいなら、アップにするとか、もっと目を見開くとか、演出の方法はいくらでもある。
また原作では、ジャックを路上で死なせた彼の妻への怒りや、ジャックを辺鄙な土地に眠らせたくないというイニスの反発も描かれている(つまり、イニスはジャックをブロークバックに連れて行きたかったのだ)のだが、映画にはそうした心情を暗示するような表現はいっさいない。それが最初のMizumizuの「曖昧な印象」につながったのだと思う。だが、リー監督のメッセージを聞くと、演出の意図が納得できた。映画で何をもっとも伝えたいかは、監督の人生観や世界観ともかかわっている。あまりにいろいろな要素をゴチャゴチャと詰め込むと、メッセージ性は弱くなる。
アン・リー監督は「映画は小説のような心理描写ができない。あくまで視覚で表現する世界」とも言っている。確かに、彼は、「説明的な台詞」を好まない監督だ。台本の書き直しを頼むことも多いと聞く。この監督の作品には、ナレーションでつないだり、長々としたモノローグで心情を説明したりということがほとんどない。そのかわり、さりげない台詞に余韻をもたせ、卓越した視覚的な描写で物語を展開させる。色彩や照明効果、風景とセット、人物を撮るときのアングルを含めた映像のロマンティックな美しさは、「ブロークバックマウンテン」だけではなく、リー監督作品に共通している。
何かを美しく見せようとしたとき、どこをどう引き算し、何を強調するかが、表現者の腕の見せ所だ。「シャツを抱きしめて涙するイニス」のシーンは、視覚的にもっとも感動を誘う場面であり、監督はそれを生かすために、台本にはあったニュアンスをそぎ落としたのだろう。
このように監督によって弱められたのであろう要素のほかに、脚本家によって明らかに意図的に曖昧にされたイニスの性向もある。
<明日に続く>