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<きのうから続く>
コクトー版『オルフェ』での重要な女性役は、妻のユリディースではなく死神。死神のキャストについては、コクトーはガルボ、ディートリッヒ、マリア・カザレスの順番で考えており、最終的にカザレスに決まった。 そして、同年のメルヴィル監督『恐るべき子供たち』で主役にポール役を務めるエドゥアール・デルミットもセジェスト役で出ている。どうも、この役はコクトーが『恐るべき子供たち』の映画化をにらんで、演劇経験のないデルミットを映画に慣れさせるために与えたようだ。 映画冒頭で、オルフェとカフェですれ違うセジェスト(右・デルミット) 『オルフェ』の撮影は1949年8月、『恐るべき子供たち』は1949年12月なのだが、同年の3月から5月にかけて、マレーは「ジャン・マレー劇団」を組織し、中近東へ演劇巡業に出かけて、大成功をおさめている。コクトーも随行し、各地で講演をしては観客動員に一役買った。その講演は非常に熱っぽく、聞いていたマレーが恥ずかしくなるほどだったという。巡業の成功は、たぶんに「ジャンの演説のおかげ」だとマレーは深い感謝の言葉を自伝に綴っている。この公演には、イヴォンヌ・ド・ブレのようなベテランの名女優も参加したのだが、役者名簿のなかにエドゥアール・デルミットの名前もある。もちろん、コクトーがマレーに頼んだのだ。 しかし、このデルミットという青年、もともとが役者志望ではなかったし、演技の才能もなかった。『恐るべき子供たち』の監督メルヴィルものちに、ポール役をデルミットにしたのは失敗だったと告白している。メルヴィル自身は最初からわかっていたことだが、コクトーが映画化の条件はデルミット=ポールだとゴリ押ししたために仕方なかったのだ。 デルミットは『オルフェ』以降、コクトーの映画には多く出演したが、彼を使おうとする映画監督・舞台演出は他には皆無だった。コクトーにとっても、デルミットはマレーにかわる演劇の詩神(ミューズ)にはなりえなかった。コクトーは、マレーのために何本もオリジナルの戯曲を書いたが、ポールにあてたのは、昔の自分の作品が映画化された際、もしくは『オルフェの遺言』のような別テーマの作品の中の一役だ。 ジャン・マレー自身は、デルミットについて、自伝でこんなふうに書いている。 「ジャンのこの友達(=デルミット)を私も大層好いてはいたが、芝居には向かなかった。中近東巡業の際、彼も一役を演じていたが、私には不十分に思えた。この先、稽古にはげむ彼に対し、私の思うところを言わざるをえないと考えていた。私はそうなることを避けたかったのだ」 『オルフェ』でマレーとデルミットが共演したことで、当然「コクトーは前の愛人と今の愛人を共演させた」と書いたメディアもあった(今もある)。Mizumizu的には、オーラのあるスター俳優(=マレー)とタダの若者(=デルミット)のそもそもの存在感の違いが、共演したことでくっきり顕在化してしまったと思っている。演技どうこうより、単に立っていたり座っていたり、「そこにいるだけ」で違う何かがこの2人にはある。ルックスがいい悪いの前に、もっている雰囲気が違うのだ。 コクトー自身はマレーへの手紙で「ドゥードゥー(=デルミットの愛称)は君を崇拝している」「ドゥードゥーも君に会いたがっている」と何度も書き、特にマレーがアパルトマンから出て行ってしまった最初のころは、自分の手紙にデルミットが書いたマレーへの丁寧なメッセージを添えることもしばしばで、なんとか2人の距離を近づけようと心を砕いている様子が見える。また、デルミットに会う前は、マレーに対して、「君のために生きていきたい」と書いていたコクトーが、デルミットをそばに置くようになってからは、「君とドゥードゥーのために生きていきたい」に変わっている。それだけコクトーにとってデルミットは大切な存在だったということだ。 では、マレーのほうはというと、デルミットを「大層好いていた」と言いながら、彼の自伝の中には、コクトーと長く一緒にいたハズのこの彼の息子(デルミットは正式にコクトーの養子となった)との会話が1つもないのだ。ただの1つも。 コクトーは『オルフェ』以降しばしば(そしてほとんど死ぬまで)、マレーに自分の戯曲を再演して、デルミットを使ってくれるよう頼み続けるが、マレーは一切応じていない。といって、マレーとデルミットが不仲だったわけではない。のちにデルミットが結婚し、子供をもうけたときには、デルミットに請われてマレーが名づけ親にもなっている。また2人はコクトーの死後、共同でコクトーの遺産や著作の管理にも当たっている。 さて、話を『オルフェ』に戻そう。 この作品には、まだコクトーの心にマレーしかいなかったころの2人の思い出も映像になっているように思う。 たとえば、夜眠るオルフェを死神がこっそり見に訪れるシーン。ベッドのオルフェは、なぜかまるでもだえているよう(笑)。 こちら↓は、オルフェの心変わりを知った妻が、覚悟を決めて眠るオルフェを起こそうとやってくるシーン。このときも、オルフェは不自然なくらい何度も寝返りをうつ。さすが、ジャン・マレー。1人で寝てるだけなのに、妙にセクシー。 夜型のコクトーは、しばしば熟睡するマレーの寝顔を見ながら詩を書いたり、マレーのための戯曲を書いたりしていた。マレーは夜遅くまで起きていることのできないタイプだった。ある朝、コクトーが働いているのに、自分だけ眠りこけてしまったことをマレーが謝ると、 「君の眠りがぼくを刺激してくれる。創作の助けになるんだよ」 と答えてマレーを安心させている。また、 「君は眠る。ぼくは眠らない。そこが素敵」 という詩もマレーに贈っている。 ほかに、眠ってるマレーのそばで書いたとおぼしきこんな詩もある。 眠れるわが恋人の傍でこの詩を書く かの金髪は眠り、かの黄金の「ピー(自主規制音)」は眠る ぼくらは沈黙しよう、微笑もう、お互いに気高く愛し合おう ぼくはわが恋人の心の近くでこの詩を書く こんなイラストも描いてる。↓ いかにコクトーが、眠るマレーを見つめるのを好んでいたのかがよくわかる。 『ジャン・マレーへの手紙』(三好郁朗訳 東京創元社)の一頁からだが、この横にある戦場のマレーへの手紙(1940年)が熱い。 「(君に)もうすぐ再会できる、キスができる、その確信、その夢に、ぼくはすがりついています。ひまさえあれば両目を閉じ、今の君の姿を想像しています」 この、ほとんど一方的に強い想いは、許されない恋情に身を焼く死神が夜毎オルフェの寝室に現れ、禁を犯してオルフェの妻を死の世界へ連れ去ってしまうという行動に投影されている気がしてならない。 また、オルフェが死神に連れて行かれる家で、背の低い2人のアジア系の少年がオルフェに飲み物をサービスする場面があるが、これとそっくりな思い出がマレーの自伝に書かれている。2人の最初のバカンス、コクトーがマレーを連れて行ったツーロンの滞在先での思い出だ。 「私たちの世話をしたのは、このアパート(=コクトーとマレーが滞在したコクトーの女友達の家)の奇妙さに色をそえたインドシナ人のボーイだった」(マレー自伝より) <明日へ続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.06.01 12:09:05
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