Mizumizuのライフスタイル・ブログ

2008/10/12(日)18:15

ついに悪運尽きた三浦和義

Essay(137)

10月11日はジャン・コクトーの命日。エディット・ピアフの公式の命日でもある(実際には、ピアフが亡くなったのは10月10日)。土曜日で休日だったので、昼間から『エディット・ピアフ シャンソンの誕生』というDVDを見ていた。ピアフが亡くなった4年後の1967年に制作された追悼番組で、俳優のジャン・マレーもピアフの生前の友人としてインタビューに応じ、ピアフとコクトーの関係についても詳しく話していた。 夜8時からNHKのアメリカの金融危機についての番組を見た。要するに、普通のよくある休日だった。 そのあとのNHKのニュースを見て、驚愕することになる。 三浦和義元社長、ロスで自殺 ニュースの冒頭では、「自殺を図った」と言っていたので、最初は死んだのか未遂だったのかわからなかった。最後のほうで、「死亡が確認された」とアナウンサーが言うのを聞いた。 彼について個人的には何も知らないし、神様ではないので、事件の真相など知るよしもないが、ごくごく直感的なセンサー、本能のようなもので、 「うさんくさい人間」 だとずっと思ってきた。こういう、ごく平凡な市井の人間としてのMizumizuのカンはわりあいよく当たる。近づきたくない人間、友達になってはいけない人間――そうした人間を避けることで、自分は人生を踏み外さずに来れたと思っている。偏見と言われればそれまでだが、三浦という男には常に強烈な負のオーラがつきまとっていた。 そういう人が何をどう偉そうに言おうが、いかにそれを支援するグループ――というよりも、Mizumizuから見れば、こういう人に群がって発言をし、それで商売する人たちだ――が声高に人権や正義を主張しようが、やってることを見れば到底シンパシーはもてない。 このうさんくさい人は、少年時代はヒーローになりたくて放火をした。ロス疑惑で無罪となったあとは、万引きを繰り返した。 今回の共謀罪での逮捕は、アメリカが日本の司法制度を「後進的で信頼に足らないもの」と苦々しく、というより馬鹿にして見ていたことの表われのようでもあった。 ロスで疑惑をもたれたのは日本人、彼をクロだと確信して追及したのは日系人。日系3世のジミー佐古田(Jimmy Sakoda)という警察官には、日本に住む日本人がかつては強烈にもっていたものの、経済的に豊かになるにつれて徐々にないがしろにした「悪を憎む正義感」があると感じた。 戦争で敵国になった国から来た外国人の子孫が周囲から信頼を得るためには、曲がったものに染まらない強烈な正義感、社会秩序に対する確固たる忠誠心が必要なのだろうと思う。決して多数派ではないアメリカの日系人の多くが現在、高い社会的地位を得て活躍しているのは、勤勉さ、実直さ、地道な努力、高い倫理観といった日本人の美徳を親から叩き込まれたからだろう。 翻って日本に住む日本人はそれを忘れ、やれ人権だ、個人の自由だと、擁護する必要もない人間まで擁護し、罪を憎む潔癖さを時代遅れの迷信か何かだと思っている。「人が犯罪を犯すのは、周囲のせい。社会に問題があるからだ」「犯罪者にも尊重すべき人権がある(でも被害者やその家族はないがしろ)」「先進国では死刑制度は廃止の流れ」などと叫べば先進的なのだ。 最後まで芝居がかった三浦和義自殺の報道に接して思ったのは、 「天網恢恢疎にして漏らさず」 という故事成語だ。 それがなされたのが日本でなくアメリカであったことに、歯がゆさも残る一方、そのアメリカで、執念で三浦を追い詰めたのが日系人だということに、神の摂理のようなものも感じる。多少物語的な脚色をするならば、この事件は佐古田という男と三浦という男の死闘だったのだ。聞けば今回の逮捕も、三浦のブログを監視していた佐古田氏から当局へ情報提供があったからだという。もしロス市警にジミー佐古田という1人の日系人警官がいなければ、この事件はとっくに迷宮入りだった。3世ともなれば、日本語ができない日系人も多い。だが、佐古田氏は日本語が堪能だった。これぞ神の摂理でなくて、なんだろう。 結局、もう三浦和義がアメリカの刑務所から出てくる可能性はなかった。それを思い知った時点で彼は逃げたのだ。自殺となれば当局の管理体制を批判する声が必ず出る。それも狙いだったのだろう。 嘘と虚飾で塗り固めた、派手だけれど空虚な人生を送ってきた男が、悪運が尽きたときに選びそうな実に姑息な、自己顕示欲にまみれた幕切れだ。 アメリカでの死亡日は10月10日。日本時間では10月11日。人の大好きなピアフとコクトーと同じ日に自殺なんかすんなよ――せいぜい、言ってやるとすれば、そんなところ。

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