Mizumizuのライフスタイル・ブログ

2010/07/28(水)20:17

高橋大輔「アメリ」(ランビエール振付)――創造的誤解釈を誘う異色作

Figure Skating(2010-2011)(71)

テレビでDOI 2010を見た。いまや日本のフィギュアスケートファンは、モダンバレエやコンテンポラリーダンスの新作発表を待ち受けるような期待感をもって、選手の新しいプログラムのお披露目を待っている。こうした傾向は、おそらくフィギュアスケート業界関係者の予想を超えた流れではないだろうか。エキシビションなどというのは、かつては競技会のオマケに過ぎなかった。いまやEXはりっぱなショー。競技会以上に人気があるほどで、選手もそれぞれ趣向を凝らしたナンバーを用意する。日本人選手のEX用プログラムは本当に面白い。フィギュアスケートの舞踏芸術としての可能性、それに最も早く気づき、最も高く評価しているのは日本人ファンかもしれない。逆に昔のマイナースポーツ時代のアマチュアリズムが抜けきらない連盟やISUのお偉方のほうが、見せる芸術としてフィギュアのもっている可能性をわざわざ狭めるようなルールを作り、いたずらにファン離れを加速させている。その冴えたる例が、アイスダンスだろう。Mizumizuは長くアイスダンスのファンだった。それは一言で言えば、「新シーズンの新プログラムを見るときに、モダンバレエの新作発表を見るような期待感があったから」だ。トービル&ディーンの功績についてはよく聞くが、残念ながらリアルタイムで見たことはない。斬新な舞踏芸術として最初にMizumizuに強い印象を残したのは、フランスのデュシネ組の「シクリアダス」(楽曲はこのサイトの3番目)だった。オリンピックでのライバルは正統派のクリモア&ポノマレンコ組。モダンで画期的な振付のフランスと格調高い王道をいくロシアの振付は、アイスダンス芸術の2つの大きな潮流で、彼らの対決は常に見ごたえがあった。舞踏芸術としてのアイスダンスが1つの頂点に達したとMizumizuが思うのは、長野五輪でのグリシュク&プラトフ組。もちろんコーチはタラソワ。彼らの「メモリアルレクイエム」はまるで上質のワインのように年を経るごとに熟成していく。こちらが年齢を重ねれば重ねるほど良さがわかる。まさに競技スポーツの枠を超えた芸術作品だ。それからもう1組、忘れられない鮮烈な印象を残したのが、ロシア人女性とフランス人男性によるアニシナ&ペーゼラ組。かつて2つの対立軸を形成していたアイスダンス強国の2つの才能が、決して1つに融合しないままに大きな花を咲かせたと言っていい。ところが、Mizumizuにとって、舞踏作品としてエキサイティングだと思えるものを見せてくれたのは、アニシナ&ペーゼラが最後になってしまった。ルール改正にともない、アイスダンスはかつての魅力を確かに失った。これについて危機感をもっているフィギュアスケート業界関係者は、Mizumizuの知るところではソニア・ビアンケッティさん。それに「唾を吐きたくなるほど細かい規定がある。アイスダンスは試合をやる前から勝ち負けは決まっているのに」と、ルールとジャッジングを激しく批判しているタラソワだけだ(ちなみに、アイスダンスの順位が最初から決まっていると言っているのは、タラソワだけでない。元ジャッジも証言している)。今、世界で勝っているアイスダンスの演技は、Mizumizuには劣化社交ダンスに見える。もともとアイスダンスは氷上の社交ダンスとして始まったし、アイスダンスという枠のなかでの滑りの技術などはきれいに見せているのだが、こちらの想像力を刺激してくれるほどの作品は、ぱったりとなくなった。だから、Mizumizuは今はもう、アイスダンスをほとんど見ない。だが、アイスダンスで失われてしまった、フィギュアのもつ舞踏芸術としての新しい可能性を模索する動きは、別のところで受け継がれていると思う。かつてアイスダンスの選手だった人たちが、今は振付師として活躍している。彼らの作る、それも日本選手に対して作る、特にEX用のプログラムは、エレメンツ要件の縛りから解き放たれ、選手の良さや振付師の世界観を表現する場として、実に見ごたえがあり、こちらの想像力を刺激し、自由な解釈を加える楽しみを与えてくれる。そしてもう1人、フィギュアスケートの芸術としての側面を何より大切にする振付師の作品を、私たちはDOI 2010で見たと思う。ステファン・ランビエール――彼の「ポエタ」は、まさにフィギュアスケートの芸術としての可能性を新たに開拓しようとする野心的な試みだった。だが、皮肉なことに、「フィギュアはアート。それを観客に伝えたい」と、自身の明確なビジョンを口にするほど精神的に成熟したときには、ランビエールはシングルの競技者としてはピークを過ぎてしまった。彼はむしろ4回転を確実に跳べて、スピンがうまい選手だったころのほうが試合では強かったのだ。難度の高いジャンプを跳ぶ選手の宿命でもある怪我が、ランビエールからもともと不得意だったトリプルアクセルを奪った。オリンピックでメダルが獲れなかったのは、トリプルアクセルを成功させることが極度に難しくなったランビエールが、さらに難度の高い4回転に頼らざるをえなくなった結果だ。「ジャンプこそ男子フィギュアの命」という考えもある。それはそれで、恐らくは正しい。だが、ランビエールはそれよりも「アート」としての側面に重きを置く。恵まれた容姿も含めて、ランビエールは表現芸術としてのフィギュアの魅力をもっともよく氷上で体現できるパフォーマーの1人だ。そのランビールが今回、高橋大輔と組んだ。かつてモロゾフと高橋大輔の組み合わせを、「天上で結ばれた2人」と評した記者がいたが、どっこい高橋大輔という人は、宮本賢ニともパスカーレ・カメレンゴとも天上で結ばれてみせた。その彼とランビエールとのケミストリー(人と人とのもたらす化学反応)がどうなるのか、ファンは期待と不安をもって新プログラムの発表を見守っただろう。今回の「アメリ」を見て、Mizumizuは個人的には、「とても面白い」と思った。最初の感想は、「なんだこりゃ?」。つまり、何かを表現しているのはよくわかるのだが、それが何を表現しているのか、明確にわからないのだ。わからないが、想像することはできる。Mizumizuの想像では、「アメリ」の音楽にのせて切なく舞っているのは、透明な羽をもった、今にも消えてしまいそうな精霊。場所は誰かの部屋の窓の外。精霊は中にに入りたくても入れない。部屋にいるのは精霊が想う相手。彼(あるいは彼女)が知らないところで、羽をもった精霊は彼(あるいは彼女)への想いを情熱を込めて表現する。精霊が舞っているがいるのは氷上ではない。暗い夜の空と大地の間だ。そして、最後に、精霊は誰も知らないところで、1人はかなく息絶えてしまう。これがMizumizuの描いたストーリーだが、振付師ランビエールの描いたイメージと重なっているのか、まったく離れているのか、それはわからない。重なっていたとしても、まったく離れていたとしても、それは問題ではない。重要なのは、このランビエール振付の高橋大輔の「アメリ」は、そうやって観る者の想像力を刺激し、「創造的誤解釈」を誘うものだということだ。「創造的誤解釈」を誘う芸術作品というのは、詩や音楽に多い。作者が必ずしも意図しなかったメッセージを読者が受け取り、自分のなかで拡大解釈(もしくは誤解といってもいい)し、作品に独自の意味を与えていく。考えてみれば、これが芸術のもつ自由さなのだ。「意味不明だけど、なんとなく惹き付けられる」芸術というのは、かつては映画にも多くあった。だが、最近は明快でわかりやすいメッセージ性ばかりが重要視され、何もかもが説明的になりすぎている。ある意味これは、観客をバカにしているのではないだろうか? 作り手が受け手の感性を信頼していないから、なんでもかんでもわかりやすくしてしまう。一度見るなら楽しめるが、何度も繰り返し見ようと思えない。巷にはびこる大衆芸術は、そんなものばかりだ。「アメリ」には、何度も見たくなる魅力がある。シンプルな衣装もいい。先シーズン後半あたりから、高橋選手の「eye」の衣装に、意識的にフェミニンな要素が加えられるようになった。最初「eye」は、黒のすっきりしたシルエットにきらきらしたスパンコールの目立つ、男性的な衣装だったが、オリンピックでは、オープンワークで花びらの輪郭を強調したディテールが多用された、見方によっては非常にフェミニンな衣装になり、華やかな雰囲気が高橋選手によく似合っていた。「アメリ」の衣装は黒のシャツに黒味がかったグレーのスボンで、一見限りなくシンプルだが、よく見ると上着はかなり凝っている。胸元はスクエアカットに見えるが、本当はラウンドカットの襟元に当て布をして、重ね着の雰囲気を出している。後ろにはさりげなくV字のカットが入っている。Mizumizuが一番気になるのは腰のあたりのカッティング。ジャンプやスピンで回転したとき、ここに2重のフリルがあるように見える。「フリル」というのが正確かどうかわからないが、少しイレギュラーにカットして、回転したときにフリル風に広がるようにしたディテールには違いない。フリルになった部分の布は透け素材に見えるのだが、どうだろう(世界のアクオス亀山モデル、フルスペックハイビジョン液晶52型テレビをもってしても、これ以上はわからない)。透け素材のせいか、この2重のフリルが重くなく、非常に軽く見える。このウエストの2重のフリルが、ウエストのラインをやや女性的に見せている。こうしたフェミニンなディテールは、小柄なアジア系の男性によく似合う。飾り気がないようでいて、さりげなくとてもお洒落だ。フィギュアスケートの振付師に要求されるのが、「その選手のもっている長所をできる限り引き出し、短所をできるだけ目立たないものにする」ことだとすれば、ランビエールの振付にはそうした努力が足りないかもしれない。ついこの間まで選手だったランビエールが、高橋大輔を深く理解するには時間がなさすぎる。高橋選手自身も、そういった面での振付師のフォローをランビエールに求めているとは思えない。だが、たとえばバレエの振付では、振付師は基本的に、自分の世界観を表現することをまず第一に考え、個々のダンサーの欠点を補って・・・といったことは、二次的な問題、あるいはダンサー自身が克服すべき問題になるはずだ。だったら、フィギュアの世界でそうした作品を作るのもいいではないか。フィギュアスケートの世界で、振付師の地位はまだまだ低い。作品はあくまで選手個人のためのものであって、振付師の作品として他のフィギュアスケーターが同じ振付で滑るということは、基本的にはない。だが、作品そのものが主役で、それをさまざまなスケーターが独自の解釈で滑るという日が来てもおかしくはない。競技会では無理でも、アイスショーで、そういった「アート」としてのフィギュアスケートの可能性を追求するのも面白いと思う。批判されるたびに場当たり的な改正を行い、ネコの目のようにくるくる変わるルール。点数を恣意的に操作して、メダル配分しているのがいよいよ露骨になってきた理念なきジャッジング。自国の優れた選手をバックアップすることより、自分たちの利益を図ることをまず重要視する組織の人間。「上」のほうで、こうした愚行が行われているのも事実だが、フィギュアスケートのもつ可能性の裾野を広げていこうとする優れた才能もまた、まだまだ健在なのだ。

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