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Mizumizuのライフスタイル・ブログ

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Movie

2009.02.24
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カテゴリ:Movie
若くして亡くなったヒース・レジャーが、いかに素晴らしい役者だったかについては、彼の急死を受けての連載エントリーでしつこいぐらい長々と書いてきた(2008年1月24日からの飛び飛びの連載を参照)。

そのときは、まだ『ダークナイト』(バットマンシリーズ)が公開されておらず、関係者の話として「ジャック・ニコルソン(かつてバットマンでジョーカーを演じた)にまさるともおとらない名演だという」話を伝聞として紹介しただけだった。

ところが、『ダークナイト』が公開されると、「ヒースのジョーカー」の大方の予想をはるかに凌ぐ鬼気迫る名演に、絶賛の嵐が巻き起こった。ジャック・ニコルソンのジョーカーに「まさるともおとらない」どころか、「もはやジョーカー役はヒースの永久欠番とすべき」という声さえ出た。

Mizumizuの関心は、この演技に対してハリウッドがアカデミー賞を与えるかどうかという点にあった。そして、恐らく「与えるだろう」と思っていた。亡くなってしまった役者がアカデミー賞を獲るのは難しい、それは事前によく言われていたことだ。人々はその場で受賞の感激にひたるスターの喜びの表情を見たがるものだし、そもそも役者に与えられるアカデミー賞というのは、その後の飛翔を後押ししようという意味が強いからだという。

だが、ヒース・レジャーにはもともと、『ブロークバック・マウンテン』でのアカデミー主演男優賞が与えられるべきだったのだ。時間がたてばたつほど、Mizumizuはその思いを強くする。

『ブロークバック・マウンテン』でのヒースの名演を監督のアン・リーは「奇跡的」と称えたが、正直最初は、監督の身びいきか宣伝の一種ではないかと思っていた。

『ブロークバック・マウンテン』のイニス役は、『ダークナイト』のジョーカー役のように、わかりやすいインパクトはない。むしろ、素人には、イニス役のヒースにしろ、ジャック役のジェイクにしろ、役の年齢と彼らの実際の年齢のジャップが気になってしまうかもしれない。

「あと数ヶ月先だったら、2人を起用しなかった」とリー監督がいうように、ヒースもジェイクも10代の終わりに出会ったという最初の設定に対しては、少し大人すぎる。そして、物語の後半30代後半に入ったという設定に対しては、若すぎる。最初に見たとき、どうしてもこうした「年齢」に対する違和感が先に立ってしまいがちだ。

だが、何度か観賞するうちに、それは非常に表面的なことにすぎないことがわかってくる。アン・リー監督が、なぜダブルキャストにせず、ヒースとジェイクに20年におよぶ物語の登場人物を演じさせたか。そして、2人がそれをどう演じたか。

つまり、この物語の演技の最大のポイントは、「感情の変遷」を見せることにあったのだ。ジェイクはそれを、「エモーショナル・ジャーニー」と表現したが、この内面的な旅は、感情表現の豊かなジャックだけでなく、自分の感情を表現するのが非常に苦手だったイニスにもあるのだ。

たとえば、台本に「(ここで)イニスは初めて笑う」というト書きがある。実は台本を読むまでは、イニスがどこで初めて笑ったのか気づかなかった。カンニングペーパーを見たあとで初めて、イニス役のヒースが、ジャックをちらりと見て、「初めて笑う」シーンをいかにさりげなく、巧みに演じているかわかった。閉鎖的な人間は、にっこりと素直に笑うことはできない。だが、確かにそこで、イニスは伏目がちの微笑みを一瞬、ほんの一瞬だけ浮かべていたのだ。

そして、初めて笑ったとき――つまり、ジャックに心を開き始めたときから、確かにイニスの表情はそれまでと違っている。

こうした表情の演じ分けは、本当に何度も見なければわからない。もちろん、リー監督のような優れた演出家ならすぐにその素晴らしさを評価できるだろうが、一般人となるとそうはいかない。

だが、この「初めて笑う」シーンはスチール写真になっていて、ヒースが急逝したときに、アメリカの多くのメディアが使っていた。このシーンがヒースの演技の中で重要な意味をもつということがわかっていたのか、あるいは単に偶然なのかわからないが。

『ダークナイト』のジョーカーが発する異様な雰囲気、サイコパスの恐ろしさは、誰に対しても最初から強いインパクトを与えるはずだ。ジョーカー役の演技の凄さは、とても「わかりやすい」のだ。

ジョーカー役でヒース・レジャーという役者を初めて見た人は、彼がそもそもはブロンド巻き毛のイケメン俳優だったということを知って驚くかもしれない。逆に、ヒース=イケメンと思っていたファンは、白塗りメイクの狂気のジョーカーにショックを受けるかもしれない。

そこがヒース・レジャーという役者の凄いところだ。美男俳優には、自分のイメージが変わってしまうことを恐れ、永遠の二枚目でいようとする人も多い。年をとっても美容に気を遣い、ホルマリン漬けのような若さを保っている。自分がすでに年をとってしまったことに気づかない人さえいる。だが、ヒースはまだまだイケメンで稼げる年齢でありながら、自分の美貌に固執しなかった。それどころか、コアなヒース・ファンが悲鳴をあげるような、元来のイメージとは真逆の役にあえて挑んでいる。

ヒース・レジャーとならんで、Mizumizuが熱心に紹介した役者にフランスの往年の美男スター、ジャン・マレーがいるが、彼もむしろ、二枚目役ばかりもってくる周囲にうんざりしていた。役で老けられると知ると、情熱を燃やした。「人々は羽を広げた孔雀のように、私が美貌だと言われて有頂天だと思ったのだ。そして年をとってそれを失うと苦悩したと想像する。どちらも間違いで滑稽な話だ。美しさが要求される役ならば、美しくなろうと努力する。醜い役なら醜くなろうとするのと同じだ」とマレーは言っている。

ヒース・レジャーという役者にも、ジャン・マレーに共通する「演技への情熱」がある。彼らはどちらも、その恵まれたルックスで人々の注目を集めたが、2人とも「バカ」がつくくらい演劇が好きだった。

マレーが老け役に情熱を掻き立てられたように、ヒースもジョーカーという異常な役に情熱を燃やしていた、いや命をかけたのだ。

ヒース・レジャーの心中に偉大な先達であるニコルソンへの対抗意識があったのは、事実だろう。先日20歳そこそこの無名時代のピカソの作品に、すでに当時名声を確立していた先達の作品に対するライバル心があることを指摘したが、ニコルソンのはまり役だとされたジョーカーをあえて引き受けたヒースにも、ピカソと共通する自負心と野心、そして挑戦する意思があったはずだ。

それでなければ、こんなにリスキーな役は受けない。比べられることはわかっている。相手は天下のニコルソン。まるで、一斉射撃をしようと構えている敵陣の中へ乗り込むようなものだ。目的がお金でないことも明らかだ。ヒースはジョーカー役に集中したいという理由で、大作『オーストラリア』への出演要請を断わっている。お金目当てなら、両方受ければそれだけ儲かる。

思えば、ヒース・レジャーという人は、リスキーな役をあえて引き受けるようなところがある。イニス役もアメリカ社会では非常にリスキーだった。事実、ヒースはある種の宗教団体から執拗な嫌がらせを受けていた。また、偉大な先輩俳優がやった役をあえて引き受けるという意味では、『カサノバ』もそうだった。カサノバ役はドナルド・サザーランドもアラン・ドロンもやっている。過去のスターが演じたのとはまったく違うキャラクターを、確かにヒースはハリウッド版『カサノバ』で演じていた。

ジャック・ニコルソンのジョーカーは怖い。気味が悪く、異常で、モラルを超越した悪人だ。こんなキャラはニコルソン以外には考えられない。だが、ヒース・レジャーのジョーカーはもっと怖い。戦慄すべき人の心の闇を、ある種の「謎」とともに、見るものに意識させる。「心の闇」という意味では、ヒースのジョーカーのほうが普遍性があるともいえる。ニコルソンの演技に足りなかったものが、ヒースの演技にはある。まったく違った演技だと言うこともできるが、ニコルソンのジョーカーは、ニコルソン自身のキャラクターに拠っていたという印象が強くなった。ヒースの演技は、まさしく作り上げた虚構のキャラクターの見せる、恐ろしい人間の精神の闇の真実だ。

演劇とは真実を語る虚構なのだ。ヒース・レジャーのジョーカーはそう言っている。

案の定、ハリウッドはヒースのジョーカーにアカデミー助演男優賞を与えた。それはなにかしら、『ブロークバック・マウンテン』で主演男優賞を与えなかったことへの贖罪のようにも見える。

このジョーカー役での受賞によって、まったく違った役を演じた『ブロークバック・マウンテン』でのヒースの演技が、一般にもっと見直されることを期待している。

そして、もう1つ。Mizumizuの関心は、たとえば10年、20年後に、人々がヒースの代表作として、『ダークナイト』のジョーカーをあげるか、『ブロークバック・マウンテン』のイニスをあげるかということにある。

もちろん、ファン個人の嗜好もあるだろう。年齢によっても好みが違ってくるように思う。若い世代なら断然ジョーカーだろうけれど、彼らが年をとって『ブロークバック・マウンテン』を見たとき、もしかしたら、「ジョーカーよりイニスのほうが凄い」と思うかもしれない。少なくとも、「何度も見たい演技」という意味では、Mizumizuはやはり『ブローク・バックマウンテン』のイニス役に軍配をあげる。

個人的な好みは別にして、歴史の審判が楽しみな役者だ。こんなに凄い俳優はめったに出ない。ハリウッドの映画史上でも十指に入るのではないか。とかく映像技術に走りがちで、俳優もその個性に頼りがちだったハリウッド映画界で、役者のナマの演技力という原点で勝負し、これほど円熟した世界をあの若さで見せてくれた俳優は稀有な存在だ。

しかし、日本でのヒース・レジャーの知名度って、そ~と~イマイチ…(苦笑)。

『おくりびと』『つみきのいえ』のダブル受賞という快挙があったとはいえ、テレビではほとんどまったく報道されずじまい。

『ダークナイト』も日本では、それほどヒットしなかったらしい。映画の宣伝CMでも、

「ありがとう、ヒース・レジャー」

と一瞬出ただけだった(再苦笑)。

「ありがとう、ヒース・レジャー」・・・それだけですか?

個人的に大・大・大評価している役者の快挙が、ほとんど日本では注目されたなかったことは残念だが、そうはいっても、『おくりびと』『つみきのいえ』はめでたい。

見てないので、内容については何もいえないのだが、本当におめでとうございます。



















最終更新日  2009.02.26 11:01:11


2008.09.18
カテゴリ:Movie
ルキーノ・ヴィスコンティ『夏の嵐』(1954年)に将校役で出演したハリウッドの美男俳優ファーリー・グレンジャー。彼は2007年に自伝"Include Me Out: My Life from Goldwyn to Broadway"をアメリカで出版している(邦訳はない)のだが、この中にジャン・マレーとの短い出会いが綴られている。

『夏の嵐』の撮影の最中、グレンジャーはヴィスコンティから、気分転換にパリで週末をはさんだ数日間の休暇を取ってはどうかと勧められる。シャンゼリゼ大通りにあるこじんまりとした高級ホテルを紹介されたグレンジャーは、すぐにこの提案に飛びつき、パリへ。

ホテルに着いたグレンジャーは、さっそく自分の友達に電話をするのだが、通じない。
――シマッタ、イタリアからかければよかった。
と後悔するグレンジャー。
――このまま連絡取れなかったら、パリで、1人でどーすりゃいいんだ、オレ?
多少途方に暮れながら、荷解きを始めたところに、ドアをノックする音。

グレンジャーはドアを開けて、驚きのあまり立ち尽くす。そこに立っていたのは、当時フランスでもっとも人気があった俳優、ジャン・マレーだったのだ。

「入ってもいいですか?」
ジェスチャー交じりにマレーに言われて、ドアから飛びのき、
「あ、もちろんです」
と、慌ててマレーを招き入れるグレンジャー。握手をして、グレンジャーが自己紹介をすると、マレーは笑って、
「ファリー、君のことはよく知ってる。ヒッチコックの『見知らぬ乗客』も観たよ。君はすばらしい役者だね」
と10歳以上年下の後輩俳優に、フレンドリーに話しかけた。

おかしいのは、グレンジャーが「彼の英語はひどかったし、私のフランス語も同じようなもの」で、会話は相当ハチャメチャだったと書いていること。このころのマレーはすでにアメリカ人のバレエ・ダンサー、ジョルジュ・ライヒと一緒に暮らしていた。アメリカ人といてもさっぱり英語は上達しなかったようだ。

「ルキーノから連絡もらって、君のパリ滞在が楽しいものになるように手助けすると約束させられたんだ」
と、マレー。
「パリで何かしたいことあるかい?」

――ルキーノが声をかけたのか……!
納得するグレンジャー。ジャン・マレーとルキーノ・ヴィスコンティが知人であることを、彼はこのとき初めて知ったのだ。

だが、同時に、グレンジャーの心に多少の警戒心が芽生えたようでもある。なにしろ相手はグレンジャーとはお仲間のバイセクシャル……否、名うてのヴィスコンティとこれまた名うてのマレー。「どの程度の知人か」をはかりかねたのだろう。それに、
――パリの休暇まで、ルキーノの『演出』で動くわけ?
と思うと、多少ウンザリしないでもなかった。

だが、ジャン・マレーの好意を無にするのも悪い。長いこと沈黙して考えたグレンジャーは、憧れのバレエ・ダンサー「ジジ・ジャンメール」の名前を出す。
ジジ・ジャンメールは、言うまでもなくローラン・プティの妻であり、かつミューズであったバレエ界の大スター。自分はジャンメールのファンで、もしできたら会いたいと言うグレンジャーにマレーは、
「ぼくは個人的には知らないんだけど、連絡先を聞いてくるから、荷解きしながらちょっと待っていて。1時間ぐらいで戻るよ」
と言って出て行く。

残ったグレンジャーはグレンジャーで、
――ルキーノは、どんな魂胆があって俺とジャン・マレーを引き合わせたんだろう?
などと考えている。

マレーは約束どおり戻ってきて、なんとそのまますぐにグレンジャーをジャンメールのアパルトマンに案内してくれた。ジャンメール自身が2人を熱烈に迎え、楽しい午後の時間がスタートした。ジャンメールのヘルプもあり、それにワインも入ったことで、マレーとグレンジャーの言葉の壁はなくなった。

夜はジャンメールが2人を小さなしゃれたクラブに誘い、そこで3人は遅くまで盛り上がった。

そして……

「翌朝、私はコーヒーとクロワッサンの暖かな匂いで眼を覚ました。昼になっていた。ジャン(=マレー)がベッドのわきにコーヒーを置き、カーテンを開けた。それで私は、ここがセーヌ川に浮かんだジャンの豪華なハウスボートだということを思い出した。前の晩のことは詳しくは憶えていない。だが、ジャンが気遣いのあるやさしい人だとわかったのは確かだ。ルキーノの演出に協力したのではない。ジャンと一緒に過ごすと決めたのは私だった」 (ファーリー・グレンジャー自伝”Include Me Out”より)

このあと、グレンジャーはハウスボートのメインキャビンで、コーヒーを片手にマレーと数時間歓談している。

マレーはグレンジャーに、パリの社交界の閉鎖的な雰囲気が嫌いでこうしてハウスボートに住んでいること、ここならプライバシーが守られることなどを話す。

そして、ジャン・マレーといえば、ジャン・コクトー。マレーは後輩の美男俳優に、自分の初期のキャリアについて、尋ねられるままに答えている。コクトーと出会う前の自分に来る仕事は、容姿を見込まれたものばかりで、それが嫌だったこと。コクトーと出会い、私生活でも、また仕事の面でも関わるようになってようやく自分の才能に目覚め、成功できたこと。ルックスのいい役者というのは、往々にして自己防衛本能から、自分で壁を作ってその向こうに隠れがちになるものだが、監督としてのコクトーは、マレーにもあったそうした壁を、苦労のすえに打ち砕いてくれたこと。

こうして、マレーのハウスボートで午後を過ごしたグレンジャーは、その後ようやく電話の通じた友人とその夜会うことにする。ジャン・マレーとランチをした話をすると友人は驚き、
「夜一緒に連れてきて! 『美女と野獣』を見て以来、ジャン・マレーのファンなんだから」
とせがんできた。仕方なくグレンジャーがマレーに打診すると、夜は別の約束があるのでダメだと断わられた。

そのまま、グレンジャーは友人とパリの数日の休暇を満喫し、イタリアでの撮影に戻るべくホテルで荷造りをしていると、そこへジャン・マレーがさよならの挨拶をしにやって来た。
「ルキーノに電話して、君を彼の映画にキャスティングできたのはすごくラッキーなことだと言っておいたよ」
と、グレンジャーにとっては怖い存在であるヴィスコンティとまるっきり対等の口をきいているふうのマレー。2人は連絡を取り合う約束をして別れた。

ヴェネチアに戻ったグレンジャーのすっかりリラックスした様子に、ヴィスコンティも喜ぶ。グレンジャーは素晴らしいホテルを紹介してくれたことに礼を述べ、パリの休暇を大いに楽しんだと話した。

「ジャン(=マレー)のことは、ルキーノが名前を出せば話そうと思った。だが、彼は何も聞かなかったので、私もあえて話すことはしなかった」(”Include Me Out”)

これが、ジャン・マレーによるファーリー・グレンジャーお持ち帰り事件(事件か? そもそも)の全容なのだが、著者とお相手が「名うて」だったせいか、”Include Me Out”出版以降、アメリカではジャン・マレーはファーリー・グレンジャーのmale loverだったという話になってしまった(ちなみにマレーの自伝にグレンジャーの名はない)。このmale lover説は、例によってネットで広まっている。ジャン・マレーのmale loverというなら、お相手は間違いなく、10年も生活を共にしたジョルジュ・ライヒ(ジョージ・レーク)だろうに、彼のことはみんな忘れたようだ。

摩訶不思議也。


名作洋画DVD 「見知らぬ乗客」 日本語吹替&字幕版






最終更新日  2008.09.18 19:56:57
2008.09.17
カテゴリ:Movie
ジャン・マレーの自伝には触れられていなくても、マレーとの出会いについて自らの自伝に書いている著名人も少なくない。

そのうちの1人が『ロミオとジュリエット』『ブラザーサン、シスタームーン』などの映画の監督として、また著名なオペラ演出家――日本では新国立劇場での『アイーダ』やウィーン・フィルの引越公演『ドン・ジョバンニ』(小澤指揮)などの豪華な舞台装置が印象に残っている――としても知られるフランコ・ゼッフィレッリ。

『ゼッフィレッリ自伝』(創元ライブラリ、木村博江訳)によるとゼッフィレッリが初めてマレーに会ったのは1949年の夏。

このときのゼッフィレッリはルキーノ・ヴィスコンティの助手をしていたものの、まったく無名の存在。一方マレーは「当時フランスで最も人気のあった」(『ゼッフィレッリ自伝』より)スター。ヴィスコンティが企画していた仏・伊合作映画『貧しい恋人たち』――結局この企画はお流れとなるのだが――のための若手のフランス人俳優を探しに来たのだ。ヴィスコンティは紹介状を兼ねた手紙を3通書いてゼッフィレッリにわたしたのだが、その相手がココ・シャネル、ジャン・コクトー、ジャン・マレーだった。

ゼッフィレッリはまずジャン・マレーに電話をして、ヴィスコンティの紹介で会いたいと伝える。

「彼は連日の撮影の合い間を縫い、最高の美男子を伴って素晴らしいスポーツカーでやって来た。別れ際に彼は言った。『明日の夜、ぼくらはリドの新しいショーの初日に行く。テーブルの予約はしてあるから、一緒に来ないかい?』 私はパリについてあまり知識はなかったが、リドの初日がそのシーズンの目玉であることは知っていた」(『ゼッフィレッリ自伝』より)

マレーが連れていた「最高の美男子」の名前は書かれていない。拙ブログの読者なら、「ジョルジュ・ライヒ?」と思うかもしれない。だが、おそらくジョルジュではない。マレーの自伝のよれば、彼とジョルジュが出会ったのは、映画『オルフェ』公開(フランスでは1950年の3月)のあと。1950年初めにはまだジョルジュ・ライヒはアメリカにいて、ブロードウェイの舞台に立っている。

さて、マレーに誘われたゼッフィレッリは、タキシードやイブニングドレスで着飾った人々の集うリドに1人でやってくる。20代半ばを過ぎたばかりの「ヴィスコンティの子飼い」の無名青年が身につけていたのは地味な紺の上着にネクタイ。当時はリドが最も格式が高かった時代で、ドアマンは安っぽい服装の若造をぞんざいに扱う。だが、
「ジャン・マレーに招かれた」
と言ったとたん、態度は急変し、すぐに中に招き入れられ、チーフウエイターが出てきて、うやうやしく舞台正面の最上の席に案内された。
「ムッシュー・マレーからお電話がありまして、少し遅くなられるそうです」
とマレーからの伝言を伝えるチーフウエイター。

場違いな服装で場違いな席に1人でいる若造は、周囲の好奇の眼にさらされる。
ショーが始まっても、マレーも彼の友人も現れない。
「あいつはどういう人間だ? どうやってあのテーブルを予約できたんだろう?」
ひそひそ声が聞えてきた。
やがてチーフウエイターが戻ってきて、マレーは仕事が終わらないので今夜は来られないと告げた。
「でも、あなた様は、ムッシュー・マレーのお客様としてゆっくりなさってくださいとのことです。明日お電話をお待ちしているとおっしゃっていました」

そこで、贅沢なショーをたった1人で(ムリヤリ)楽しむゼッフィレッリ。
自伝で本人が書いているのだから間違いないだろうと思うのだが、若いころのゼッフィレッリは金髪・碧眼のイケメンで、それゆえ遠くから憧れていたイタリア演劇界の重鎮ヴィスコンティに気に入られ、その後仕事を手伝ううちに親密になって、ローマのヴィスコンティ邸にいわば「囲われる」ようになったという。若いころのゼッフィレッリの写真は見たことがないので、残念ながら、みずから狙ったヴィスコンティを見事落とした美貌がどんなだったのか、わからない。だが、ハリウッドから役者としてのオファーが来たこともあったというから、それなりだったのだろう。

最上の席にいるそんな若者に、踊り子は身を乗り出して誘うように微笑みかけた。若者のほうもシャンパングラス越しに、応えるような表情を作って見せた。

ところが、このあととんでもない事件が起こる。それについて、興味のある方は、ゼッフィレッリの自伝を読んでいただくとして、ジャン・マレーとのその後についてだけ書くと、後日彼はマレーと再会し、マレーはリドに行けなかったことを丁寧に詫びてきた。

「彼は驚くほどやさしかった」(『ゼッフィレッリ自伝』より)

気取りがなく、非常にやさしいというのは、マレーと出会った多くの人々が異口同音に言っている。

おかしいのはココ・シャネル。ヴィスコンティは隠していた――家に囲っていることがバレないように、ヴィスコンティは同じ仕事場に行くにも、ゼッフィレッリと一緒には出かけなかった――とはいえ、どう見たって愛人であることは一目瞭然のゼッフィレッリに、
「昔愛した人のことはいつまでも忘れられない。たとえ、裏切られても。愛が憎しみに変わるなんて嘘。怨みや怒りに変わるのよ。でも一度愛したら永久にその想いは消えないわ。相手のせいではなく、自分自身の、人生のその瞬間のせいでね。相手が誰だったのかはあまり関係なく、その瞬間はいつまでも残るの」
などと、いかにもヴィスコンティに未練たらたらのような名台詞を吐いては、彼から「ヴィスコンティ情報」をあれこれ引き出そうとする。

一方で、マレーやコクトーについてはケチョンケチョン。
「マレーなんかと付き合っちゃダメ。彼はどうしようもないヤツ」
「相手に才能があるとわかったら、彼(=コクトー)は何も忠告なんかしてくれない。彼に忠告を受けたら、そのときこそ心配すべきね」


あたかもコクトーやマレーにゼッフィレッリを近づけまいとするようなこの口の悪さは、キャロル・ヴェズヴェレールの証言とも一致する。
陰では悪口を言いながら、シャネルはマレーに、
「あなたのハウスボートに行きたい。食事に招待して」
と言って、いわば押しかけ訪問しているし(このハウスボートを「私が高く売ってあげる」とマレーに持ちかけたこともある)、1950年からコクトーが南仏に滞在するようになると、自分も訪ねて行って、フランシーヌ・ヴェズヴェレールというヨーロッパでも有数の富豪夫人をクライアントとしてゲットしている。

ゼッフィレッリに話を戻すと、彼はその後もう一度、今度はヴィスコンティとともにパリを訪れ、ジャン・マレーに会っている。そのときはココ・シャネル、イブ・モンタン、シモーヌ・シニョレも加わって、マルセル・セルダンを飛行機事故で亡くしたばかりのエディット・ピアフのコンサートに行くなど、フランスの有名人との華やかな交流を楽しんだ。

マレーに会ったころのゼッフィレッリは、「ルキーノ(=ヴィスコンティ)の愛を疑っていなかった」ので幸せだったと書いている。だが、その後2人の関係は暗転。ゼッフィレッリの心にヴィスコンティへの不信感が芽生え、それはやがて破滅的なものとなる。そして、とうとう『夏の嵐』の撮影時に、ゼッフィレッリはヴィスコンティとプライベートでの関係を解消することに決め、仕事面でも徐々に離れていき、ついには完全に独立する。そのせいか、ヴィスコンティと親しかったジャン・マレーとゼッフィレッリが仕事をすることはなかったようだ。

ゼッフィレッリとヴィスコンティの愛憎劇は、不思議なことにココ・シャネルの「一度愛したら永久にその想いは消えない」という言葉がすべてを表わしているようでもある。

ゼッフィレッリが耐えられなくなったのは、ヴィスコンティの傲慢な鈍感さだった。それだけではおさまらず、自分のもとを離れようとするゼッフィレッリに、ヴィスコンティはときには非常に汚い手を使って、あれこれと妨害をしかけてきた。ゼッフィレッリは長い間、ヴィスコンティのこうした残酷な仕打ちを苦々しく思ってきた。

だが、自分が仕事で大成功をおさめるにつれ、ゼッフィレッリの心境にも変化が起こる。「大ヴィスコンティがそこまで罰しようとした自分も、たいしたものじゃないか」と、むしろ名誉に思うようになったのだ。演出家として映画監督として、華々しい成功を収めたゼッフィレッリだったが、その礎を築いたのがヴィスコンティのもとであったことはまぎれもない事実だったし、自分が仕事に突っ走ってきたのも、とどのつまりは、「ルキーノのようになりたい。彼のような生活がしたい」という憧れだったことに気づく。

また一方、自身の名声がどれほど高まろうと、ゼッフィレッリはどこかで、「同時代人の中で、ヴィスコンティほど英雄の高みにまで達した演出家はいない」と誰よりもヴィスコンティの偉大さを理解していた。実は私生活での財政だけを見ると、明らかに成功をおさめたのはゼッフィレッリであり、彼は主に映画で巨万の富を築くのだが、ヴィスコンティのほうは逆に、予算を超えた大判振る舞いのために、結果としては祖先から受け継いだ遺産をかなり手放している。収支としてはマイナスだったのだ。

『ルートヴィヒ』で倒れ、車椅子生活に入ったヴィスコンティは、姉にロールスロイスを買ってくれるよう懇願したという。自分自身で買う余力はすでになかったのだ。姉は、
「メルセデスではダメなの?」
と困惑するのだが、結局は「ルキーノ・ヴィスコンティはいまだ健在だ」と世間に印象づけたいという弟の希望をかなえるために、銀のロールスロイスを買い与えている。

この前に、ゼッフィレッリのほうが一度、瀕死の重傷を負う大事故に遭っているのだが、ヴィスコンティはわざわざ見舞いに来た。ゼッフィレッリも車椅子生活に入ったヴィスコンティ邸を、息子として遇していた若い青年をともなって見舞っている。

ヴィスコンティが亡くなったときは、ゼッフィレッリは葬儀にかけつけ、棺のそばで涙にくれた。

だが、もっとも端的なゼッフィレッリの「ヴィスコンティへの愛の証し」となるエピソードは、ヴィスコンティが愛用した香水にまつわるものだろう。

ヴィスコンティはロンドンのペンハリゴンという老舗が特別な客のためだけに調合した「ハマム・ブーケ」という香水を愛用していた。

ヴィスコンティと会ってまだ2度目のとき、この香りに魅せられたゼッフィレッリは、香水の名前をヴィスコンティに聞いている。その思い出はずっとゼッフィレッリの中に残り、ヴィスコンティとの親密な関係を解消したあとも、ロンドンに行くと、ヴィスコンティのためにこの香水をお土産に買って帰っている。

1970年代の初めに「ヴィスコンティの香り」を作っていた職人が引退を決め、ペンハリゴンも一度消えかかったことがあった。それを経済的に支援して存続させたのがゼッフィレッリだったのだ。

ココ・シャネルの言った「いつまでも残るその瞬間」――ゼッフィレッリにとっては、ヴィスコンティのつけたハマム・ブーケの魅惑の香りを嗅いだ瞬間が、それだったのだろう。

そして、ゼッフィレッリは自伝の冒頭にも「人生の最大の師」の1人として、ヴィスコンティの名前を挙げ、その思い出に本を捧げている。







最終更新日  2008.09.17 23:42:54
2008.09.16
カテゴリ:Movie
「カルティエのトリニティリングは、コクトーが制作を依頼してラディゲに贈った」説がいかにアヤシイ話かおわかりいただけたと思うが、この手のネット上の情報のデタラメぶりは枚挙にいとまがない。

だが、プロの著述家の書いたものなら、一般人はごく普通に、正しいと信じてしまうだろう。一般的には、日本ではジャン・コクトー関連の出版物はかなり充実しており、かつ総じて質も高い。

だが、驚くような事実誤認を堂々と垂れ流している「プロ」もいる。
グーグル検索で「ジャン・コクトー ジャン・マレー」と入力したところ、わりあい上の方に出てきた「松岡正剛 千夜千冊『白書』ジャン・コクトー」というエントリー。

フランシーヌ・ヴェズヴェレールやジャン・マレーに関する部分だけ読んでも、間違いのオンパレード、正直ここまでヒドイのは素人のブログでも珍しい。別に著者のメンツをつぶすつもりは毛頭ないのだが、こうしたサイトに限ってコメントもトラックバックも受け付けていない。しかも、どうやらこの千夜千冊という連載は、本にまでなってしまったらしい。印刷物になる時点で誤りが訂正されていればいいのだが、もしそのままだとしたら、これは由々しき問題だろう。

ごく短い文章の中にどれだけ事実誤認があるか、以下に列挙してみよう(青文字が同エントリーからの引用。赤文字が端的な間違い)

ブラジル生まれのフランシーヌ・ヴェスヴェレールは、『恐るべき子供たち』のエリザベート役をあてがわれていたとき、スタジオでコクトーに見染められている。

拙ブログを読んでいる方、もしくは映画『恐るべき子供たち』をご覧になった方ならすぐわかると思うが、フランシーヌがエリザベート役をやってるワケがない。正解はフランシーヌの親戚のニコル・ステファーヌだ。

それが『地獄の機械』舞台化のためにしたオーディションで、ギリシア彫像かとも目の眩むジャン・マレーを“発見”したことだった。
さっそく『円卓の騎士』が書かれ、マレーにはココ・シャネルの金と純白の衣裳があてがわれた。


『地獄の機械』はジャン・ピエール・オーモンが主役を演じた1934年の戯曲。コクトーとマレーの出会いは1937年、『オイディプス王』のオーディションだ。『地獄の機械』もオイディプスの話だし、拙ブログでもさんざん書いたように、マレーは『地獄の機械』を非常に気に入っていて、後年何度も再演したので混同したのかもしれない。

また、『円卓の騎士(たち)』はマレーのためにコクトーが書いたものではない。オーモンが初演する予定だったのだが、映画の契約があってできなくなった。そこでコクトーがジャン・マレーに「君が演ってみないか」と声をかけてきた(新潮社『ジャン・マレー自伝 美しき野獣』P63ページより)。

衣装については、「ココ・シャネル担当」と書かれた資料も確かにある。だが、マレーの自伝によれば、衣装をデザインしたのはジャン・コクトーだった。シャネルは生地を提供したらしいのだが、縫製はどこでやったのかははっきりしない。ハクづけのためにシャネルの名前を借りた可能性はあるが、実際のところシャネルがどれほどかかわったのかは不明。
少なくともハッキリしているのは、マレーにあてがわれた衣装をデザインしたのはコクトーだということ。
ジャン・マレーへの手紙
『円卓の騎士(たち)』のためのコクトーのデッサン。マレーの自伝によれば、コクトーはツーロンで、この衣装デザインを練ったという

円卓の騎士
コクトー原案の衣装をつけた『円卓の騎士(たち)』でのマレーのスチール

これ以降、マレーはコクトーが没するまで恋人でありつづけた。どちらも「ジャン!」と呼び合えばすぐ融ける仲だった。ぼくは『ジャン・マレーへの手紙』と『私のジャン・コクトー』(東京創元社)を読んで、ほとんど蒸しタオルを全身にあてられたような気分になったものである

『ジャン・マレーへの手紙』のどのページでもいい、一瞬でも開いてみれば、コクトーがジャン・マレーを「ジャノ」と読んでいたことは誰でもわかる。ジャンと呼び合っていたのはなく、「ジャン」と「ジャノ」と呼び合っていたのだ。

ここから先のコクトーは、1963年に74歳でパレロワイヤルの寝室で死ぬまで、ジャン・マレーをはじめとする男たちと(最後にジェラール・フィリップが加わった)

コクトーが亡くなったのは、パリ郊外のミリィ(ミイ)・ラ・フォレの家。発作に襲われたのはサロンだということだ。
コクトーがパリのパレロワイヤル庭園に面したアパルトマン(正確に言えば、モンパンシエ通り36番地)を1940年から亡くなるまで借りていたのは事実だが、パレロワイヤルで死んだわけではない。

最後にジェラール・フィリップが加わった――というのも、よくわからない。確かにコクトーはフィリップを評価していたし、ロケを見に行ったりしている。だが、たいした交流はない。フィリップはマレーから申し込まれたコクトーの映画『オルフェ』への出演を断わっている。コクトーとの関わりの深さにおいて、フィリップとマレーとを比べられるものではないし、それにフィリップは別に「最後」ではない。フィリップと知り合ったあとに、もっと若いアラン・ドロンがコクトーのもとにみずから売り込みに来ている。

ラディゲに関してもヘンな記述がある。

1919年、16歳の邪悪な天使、レイモン・ラディゲが登場する。それからコクトーはラディゲを精神嬰児のように体中でもペニスでも偏愛しつづけた。それがどういうものであったかは本書『白書』の中のスケッチを見てもらうのがいい。

本書というのは、求龍堂から出ている『白書』のことだが、訳者である山上晶子氏が書いているように、ここに挿入されたエロティックなスケッチは、『白書』(1928年)のためにコクトーが描いたものではなく、1946年にジュネの『ブレストの乱暴者』たちのためにコクトーが療養先で描いたものやコクトーが1940年にモンパンシエ通りに移って以降に描いた未発表の素描を、コクトー没後に編集者が集めて入れたもの。『白書』執筆時とこのスケッチを描いた時期は相当に離れており、かつ直接的には何の関係もない。
だから、『白書』の挿絵をラディゲと結びつけるのは無理がある。ただし、『白書』に描かれたHと私との関係が、1923年に亡くなったラディゲとコクトーの関係を強く想起させるものであることは確か。

コクトーとマリー=ロール・ド・ノアイユおよびナタリー・パレとの関係にも誤解と混乱がある。

マリー(ロール・ド・ノアイユ)が紹介したナタリー・パレは、そのとき27歳。婦人服デザイナーのリュシアン・ルロンの妻だったが、やはり血が凄かった。父親はロシア皇帝アレクサンドル3世の弟だ。しかも皇帝と弟(ナタリの父)はともにボルシェビキによって暗殺されていた。高貴な家柄が没落して美しい。コクトーはこういう条件には、もう、なにがなんでも目がなかった。マリーは絶世の美女で、肌が透き通っていた。コクトーは夢中になり、たちまち妊娠させ、堕ろさせた。コクトーはナタリーのことを「輝くシャンデリアを必要とする驚くべき植物だ」と書いている。その植物の花芯に灼かれたのだ。

赤文字のマリーはナタリーの単純ミス。コクトーの子を妊娠した(と少なくともコクトーが信じた)のはナタリー・パレのほう。また、コクトーが堕ろさせたのではなく、ナタリーのほうが「(ロシア王朝の)ロマノフとコクトーの血が混ざるのが怖い」と言ってスイスで堕胎してしまった。コクトーはこのことにひどく傷つき、10年後に書いた『占領下日記』でそのときの苦悩を吐露している(詳しくは拙ブログ4/19のエントリー参照)。これを読めばコクトーが堕ろさせたのではないことは明らか。











最終更新日  2008.10.12 18:08:24
2008.09.15
カテゴリ:Movie
信憑性の薄い神話がまことしやかに語られるのは、歴史上の人物になった有名人にはありがちだが、「カルティエのトリニティリングはジャン・コクトーがレイモン・ラディゲに贈るためにデザインした(あるいは、デザインさせた)」という逸話は、その最たるものだろう。

このエピソードがあたかも既成事実のように書かれているサイトがもっとも多いのは実は日本語サイト。フランス語や英語のサイトでは、あまり見ない。

主にカルティエのトリニティリングを扱うショップサイトで、表現に多少の違いはあれど、

「トリニティリングは、ジャン・コクトーがレーモン・ラディゲ(「愛する人」とぼやかしているサイトも多い)に贈るために、『この世に存在しないリングを』と注文を出してカルティエに制作させた」

というように書かれている。ちょっと前までは「コクトーがデザインした」という話が多く流布されていたのだが、それはさすがにありえないとわかってきたらしく、最近では「ラディゲのために、コクトーがカルティエに制作させた」説が幅を利かせている。

さらにそれを見た(のだろう)、素人のブログでも、この逸話は爆発的に広まっている。カルティエのトリニティリングといえば、「コクトーが恋人のラディゲに贈るために作らせたんですって! 知ってました?」「コクトーがラディゲに贈ったもので、若くして亡くなったらラディゲの分も合わせて2つ、晩年まで肌身離さずつけていたのは有名な話ですよね!」などと書いてあるブログもある。

「有名な話ですよね」なんて言われると、よく知らなくてもついつい、「そうそう、知ってる知ってる」などと相槌を打ちたくなってしまうようなものだが、このエピソード自体、Mizumizuはそもそも「ほとんどありえない話」だと思っている。

ブランドにまつわる話は、もちろんそのブランドの公式サイトを読むのがいい。カルティエ社はトリニティリングの誕生についてどう説明しているのだろう?

www.cartier.com/en/Creation,B4038800,,Trinity%20de%20Cartier-Rings

↑ここの英語の説明を読んでみると、プラチナ+レッドゴールド+イエローゴールドからなる3連のリングに関する最初の資料があるのが1924年。3色ゴールド(「3色」としか書いていないが、つまりプラチナのかわりにホワイトゴールドを使ったということだろう)の3連リングについての記録が残っているのが1925年。ジャン・コクトーがはめていたことは書かれている(もちろん、それは事実だからだ)。コクトーという人が1920年代の時代の寵児であったこと、彼がトリニティリングのフォルムを非常に気に入ったこと、そしてコクトーといえばトリニティリングというイメージが広まったこと、それによってこの指輪のカルト的な人気が高まったことなども紹介されている。

だが、「コクトーが制作を依頼した」なんてことは一言も書かれていない。

そもそもラディゲが亡くなったのが1923年。トリニティリングの発表が1924年。もし、日本のネット上にはびこる神話が事実だとしたら、1923年以前にコクトーがカルティエに制作を依頼し、できあがったのがラディゲの死の翌年だったということになる。

ナルホド、まあそれはあるかもしれない。だが、それならば、コクトーは1924年からこのトリニティリングを、贈れなかったラディゲの分も含めて2人分はめていなくてはおかしい。

だが、若いころのコクトーの写真を見ると、トリニティリングと組み合わせて小指にはめているのは、別のリングなのだ。

別のリングをするコクトー
ネットでは見にくいかもしれないが、これが若いころのコクトーのはめていた指輪で、ボリュームのある平べったいリング、その上にトリニティリングを1つ組み合わせてはめている。

若いころはほとんどこのコンビネーションだ。
2つの指輪をはめたコクトーとマレー
これはジャン・マレーと暮らし始めて間もないころの写真だが、上の写真と同じく、平べったいリングの上にトリニティリングを1つ計2つはめている。しかも、この写真では右手の小指。

では、コクトーがいつもいつも指輪をはめていたのかというと、そうではない。
指輪をしていないコクトーとマレー
これは同じくジャン・マレーととったスナップだが、この写真では指輪はなし。

コクトーがいつも指輪をしていたわけではないことは、この写真からも明らかだが、他の動画をみてもコクトーはわりあい「作業をするとき」は指輪をはめていない。指輪をするのは、外出するとき、ある程度構えた写真を撮るときなのだ。

上のマレーとの2つの写真の違いは、指輪をはめたほうは写真の構図の緊張感、くっきりしたライティングから判断して、プロの写真家による撮影、指輪のないほうは、日常のスナップに近いということだろう。

ラゲィゲの分と合わせて2つのトリニティリングを小指にはめていた、という伝説が真実なら、亡くなってからそれほど時間のたっていない若い時期になぜ「別の指輪」をはめているのか説明がつかない。コクトーはトリニティリングを取ったりはずしたりしていたし、つけるのも必ずしも左手ではなく、右手のこともあったのだ。こうしたことから考えると、小指の指輪はあくまでオシャレ用だった、というのが普通の結論だろう。

コクトーが2つのトリニティリングを小指にはめていたのは、髪の毛が白くなってから、つまり晩年なのだ。
最晩年の2つのトリニティリング
これが晩年のコクトーが小指にダブルではめていたトリニティリング。

www.youtube.com/watch?v=tlEcnuvMHiI

この動画のしょっぱなにも最晩年のコクトーがトリニティリングをダブルではめている様子が映っている。

コクトーの素描には、トリニティリングをはめた自身の指を描いたものも確かにあるが、たとえば1924年のドローイングでは…
1924コクトーの絵
このように指には何もない。この絵は「鳥刺しジャックの神秘」という一連の自画像のうちの1枚だが、これをコクトーが描いたのは、1924年の秋、11月ぐらいだ。もし、トリニティリングがラディゲのためにコクトーがわざわざ注文して制作されたものだったのなら、できたてホヤホヤのリングをこの自画像に描き入れたってよさそうなものだ。

ビュッフェの絵
こちらは1955年にベルナール・ビュッフェが描いたコクトー像の部分。これをみると左手の小指に1つだけトリニティリングが描かれているのがわかる。

つまり、コクトーがトリニティリングをはめたのは、1924年のこのリングの発表直後ということは考えにくく、かつはめ始めてからも、相当長い時期「1つだけ」しかつけていなかったということなのだ。

「最晩年のコクトー」がしばしば2つのトリニティリングをはめていたのは事実だが、やはり指輪をしていない写真もある。

晩年のコクトー
この写真や、その他の(YOU TUBEにある)動画からも、2つのトリニティリングをはめ始めた晩年も、作業中ははずしていることが多く、必ずしも「肌身離さず」つけていたわけではないことがわかる。

もう1つ、Mizumizuが「ラディゲのためのリングなわけないでしょ」と思うのは、リングのサイズだ。コクトーは常に小指にトリニティリングをはめており、2つともコクトーの小指にぴったりだ。きついぐらいぴっちりとはまっている。

めったにないぐらいヤセヤセのあのコクトーの、しかも小指ですよ。ラディゲの写真を見ると、コクトーほどには際立った痩身ではない。コクトーの小指にピッタリのリングがラディゲにはまるとは思えないし、そもそも、コクトー自身は小指にはめるのが好きだったにしても、愛する人に贈るのになんで自分の小指用にしかならない、相手にとっては明らかに小さすぎるリングを贈るのだ?

あの極細コクトーの小指にピッタリのリングをはめることのできる男性なんて…… それこそ『ロバと王女』のお姫様探しのごとし、だろう。

指輪を贈ろうとした相手がラディゲではなく、1932年にコクトーと交際し、妊娠した(と少なくともコクトーが信じた)ナタリー・パレのような女性だったとしても、サイズが果たしてあれで合うのか、なぜ上に挙げたマレーと出会って以降(1937年~)の写真で1つしかはめていないのか、といった疑問はやはり解けない。

さらに言えば、もしコクトーがラディゲに指輪のような通俗的なプレゼントをしていたのだとしたら、コクトーは後の最愛の人マレーにも同様のモノを何か贈っていてもおかしくない。ところが、コクトーがマレーに贈ったのは、マレーのために書いた自身のオリジナルの戯曲、自身の詩(これは第三者が読むことを前提としない、マレーのためだけに書いたラブレター的なものもあるし、『火災』のようにマレーに献上するつもりで書いたものもある)、晩年は「君の誕生日に何かプレゼントしたい。『存在困難』の原稿を贈らせてもらえますか」――つまり、コクトーは大量生産が可能な「モノ」ではなく、常に世界中で自分にしか贈れないたった1つのものを愛する人に捧げようとした人だったのだ。

マレーのほうは、初期のころの手袋屋の看板に始まり(このエピソードについてはの3月26日のエントリー参照)、スイス製の時計だとか、あるいは花だとか、とても「男の子らしい」プレゼントをコクトーにしている。

現存している写真から考えても、コクトーの性格から推測しても、トリニティリングはコクトーがラディゲのために作らせた、なんていうのは、とっても眉唾な話なのだ。

それがあたかも事実のように日本語のサイトに大量に書かれている。コクトーが、ルイ・カルティエに「愛する人のために、この世に存在しないリングを」(このフレーズは、Bunkamuraでのコクトー展での晩年の写真に添えられたものだったらしい)と言ったなんて、「講釈師、見てきたような嘘を言い」の典型だろう。

では、なぜ最晩年のコクトーがトリニティリングをダブルでつけていたのだろう?

むろん立証は不可能だが、取ったりはめたりを繰り返していたことを考えると…


ある日のコクトー「あれっ? トリニティリングが見当たらない?」

しばらく捜して「やっぱないな~。失くしたかな。仕方ない、もう1つ買おうっと」

買った後に「あ、見つかった」

それじゃってことで「2つ一緒にはめちゃおうっと」


と、案外この程度の話だったのかもしれない。

ちなみに、コクトーは1955年にアカデミー・フランセーズ会員に選出された際、会員の正装の一部である剣を、自らデザインし、カルティエに制作させている。これは神話や伝説ではない事実。

(追記)コクトー作品は、Bunkamuraザ・ミュージアム発行のカタログ
Le Monde de JEAN COCTEAUから拝借しました。






最終更新日  2020.07.05 00:30:43
2008.09.14
カテゴリ:Movie
(10)ジャン・コクトー 「白書」求龍堂
1928年にコクトーが匿名で秘密裏に出版した、魂の告白。マレーと出会うほぼ10年前の著作だが、コクトーがどんなタイプに致命的に弱く、どんなタイプとは共に生きていけなかったかが手に取るようにわかる。それはすなわち、コクトーがジャン・マレーのような肉体と精神の持ち主をどれほど待ち焦がれていたかの裏返しのようにも読める。常に恋した人とのどろどろの愛憎劇や死別という暗い運命につきまとわれていた「私」は、10年後にマレーという純粋で健康的な青年に会うことで、「白書」に描かれた闇の精神世界から解放されたとも言えるのではなかろうか。また、「鏡」「手袋」などその後のコクトー作品(特に映像作品)で重要な意味をもつアイテムが出てくるのも興味深い。

以上が、この連載を書くにあたって参考とさせていただいた主な資料だが、ジャン・マレーに関する評伝は、本国フランスでは相当の数が出ている。2000年代になって出版されたものも多い。

これは1999年にパリで開催されたジャン・マレー回顧展から。
ロマンチックな人生のミュージアム
ジャン・マレーっておじいさん……と思っていたパリの若者が、若いころのマレーの写真を見て驚愕したという話もある。
確かに…… 『悲恋(永劫回帰)』を見たときは、Mizumizuも驚いた。

晩年のマレーは南仏で陶器制作を始めるのだが、その師匠になったジョー&ニニ・パスカリ夫妻による評伝『素顔のジャン・マレー』。
パスカリのJM
パスカリ夫妻とマレーは本当に(本当に、というのは、実際にはたいして親しくなかった人たちがマレーの評伝を多く書いているからだ)仲がよかったらしく、マレーの『私のジャン・コクトー』にも2人との楽しい食事の思い出などが綴られている。鬼籍に入ってしまった友人が多い中で、ニニ・パスカリは長生きだったこともあって、生前のマレーを知る貴重な友人の1人として、頻繁にマレーに関するインタビューに答えている。

ご存知、マレーの「妹」キャロル・ヴェズベレールその他による『熱愛されしひと、ジャン・マレー』。
キャロルの本
マレーと実際に交流のあった人々の思い出集といったところ。この表紙の写真は、映画『ルイ・ブラス』から。マレーの作品の中では、比較的地味な『ルイ・ブラス』のカットを使っているのは、この映画でのドン・セザール役が本来のマレーがもっていた「おおらかな明るさ」を全面に出したキャラクターだったからかもしれない。マレーのその他のコクトー作品での役柄は、どこか暗く、陰のあるものが多かった。

同じ時期、『ルイ・ブラス』の撮影セットでレイモン・ヴォワンケルが撮ったコクトーの写真がこれ。
ルイ・ブラスのときのコクトー
「ムッシュー・コクトーはとてもおしゃれで、服装はいつもパーフェクトだった」と言っていたキャロルの言葉を裏づけるダンディぶり。
この不思議な扉は『ルイ・ブラス』の王妃の居室に使われた(映画でどう使われたかは、5月23日のエントリー参照)。
『ルイ・ブラス』はヴェネチアで撮影が行われ、コクトーはマレーに同行していたのだが、個人的な関係でいえば、1930年代の後半から1940年代の後半のこのころまでが2人の蜜月時代。
2人で過ごしたヴェネチアをコクトーはいつまでも忘れず、後にマレーが1人でヴェネチアに撮影に行けば、「君と一緒に行きたい」、自分がフランシーヌやドゥードゥーとヴェネチアに旅行すれば、「ぼくは君と一緒にヴァポレットに乗っています」と書き送っている。


いろいろなライターが出してるジャン・マレー関連の本。なぜあなたがジャン・マレーの評伝書いてるの? の代表ジル・ドゥリューの『ジャン・マレー』
ジル・ドゥリーのJM
ドゥリューは俳優でもあり、ライターでもあるのだが、マレーと一緒に仕事をしたことはほとんどないと思う。
とはいえ、俳優ジャン・マレーが好きだったことは間違いないらしく、マレーの最大の魅力は、「ギリシア彫刻のような男性美にあふれた完璧な肉体」だと言っている(一番はカラダですか、フムフム)


この人もよくわからない、ジャン・ジャック・ジュロブラン。
ジャン・マレー評論
俳優でもあり、ライターでもあり、プロデューサーでもある多才な才能の持ち主ジュロブランは、スターの評伝が多い。ダスティン・ホフマンだとか、ブールヴィル(『怪傑キャピタン』などでマレーとも共演した喜劇俳優&歌手)についての著作もある。
内容は……知りません。ジャン・マレーとのプライベートな接点は、それほどはないはず。
「なぜあなたが書いてるの?」本は、マレーの没後に出版されているのが特徴。

2006年にはジャン・マレーのDVDも出ている。
ジャン・マレー DVD
その名も『赤と金の痛み』。


ここに挙げた評伝はごく一部。俳優ジャン・マレーの得意技、かぶりモノによるメタモルフォーゼ(変身)を分析した書籍もあるし、南仏の芸術家としての晩年の暮らしにスポットを当てたものもある。

本国フランスで、ジャン・マレーの映画で今でも人気があるのは、実は必ずしもジャン・コクトー作品ではない。『城塞の決斗』『怪傑キャピタン』『ファントマ』といったお気楽娯楽劇のほうが、今でもリバイバルされてそれなりに客を集めている。
実際、この手のたわいもない話を一緒になって盛り上げるフランス人観客のユーモアセンスはたいしたもの。映画館ではそれこそ『寅さん』映画で盛り上がる東京の下町っ子よろしく、ギャグに大受けして笑い、不当な行為にはブーイングを浴びせ、美女が救出される場面では喝采が起こる。ああいった姿を見ていると、「あ~、ラテンの国や」と思うのだ。

日本ではジャン・コクトー作品と結びついた美青年で時間が止まってしまった感のあるジャン・マレーだが、80歳を超えるまでコンスタントに舞台に立ち続ける一方、80本を超える映画に出た多才な俳優について、それはあまりに無知というものだろう。
ジャン・マレー自身は自伝の中で、「もし美貌が要求される役ならば、美しく見せようと最大限の努力はする。醜い役なら穢く作ろうと努めるのと同じ意味だ」と書いている。つまり彼は、なにより演じることを生業とする職業人であり、自分なりの手法でその道を究めようとしたプロだったのだ。
どうも日本人は、特に欧米の俳優に関しては、顔しか見ない傾向がある。若い美人やハンサムなら夢中になって過剰なほど持ち上げるが、年をとったら見向きもしない。言葉の壁があるとはいえ、ずいぶんと失礼な話だ。自分が年齢や見かけだけで判断されたら、不愉快な思いをするだろうに。






最終更新日  2008.09.14 22:00:32
2008.09.13
カテゴリ:Movie
5)ジャン・コクトー 「ジャン・マレエ」 出帆社
コクトーの公式な俳優ジャン・マレー論なのだが、1950年代初めと、書かれた時期が比較的早いせいか、はたまた翻訳がよくないのか、あんまり面白くない(笑)。『ジャン・マレーへの手紙』を読むと、「友人だからよく書いたと思われないように」客観的に冷静な評論にすべく苦心しながら書いている様子がうかがわれ、そっちのほうがむしろ人間臭くて真に迫ってきたりして……
私たちは最晩年までのジャン・マレーの作品をすでに観ているのに対し、1950年代初めの俳優マレーはまだそれほど、彼の能力のすべてを発揮していなかったというのも、このジャン・マレエ論と私たちの抱くフランスの大俳優ジャン・マレーのイメージとの齟齬につながっているのかもしれない。初期のジャン・マレーは、コクトーの愛人、美貌のスターというイメージだったかもしれないが、長いキャリアを通して、コメディやアクションなどの娯楽作品でも、重厚な歴史大作でも存在感を発揮できる多才な名優になっていったのだ。

6)ジャン・コクトー 「美女と野獣 ある映画の日記」 筑摩書房
こまかく訳注を入れるなど、翻訳者の探究心の深さに感動できる一冊。映画の日記の翻訳なのに、ほとんど研究書レベルの緻密さで作業している訳者には脱帽。ふんだんに入った映画のスチール写真も美しい。
筑摩書房って質の高い翻訳本出していたんだなぁ…… 偉い出版社だ。コクトー関連本では、東京創元社もよいものを出版していると思うが、筑摩書房の本は緻密な作りこみに日本出版社の志の高さを感じることができる(あくまで、コクトー本に関して、ね)。
この本でのマレーとの関係に関して言えば、コクトーが非常にマレーの機嫌を気にしているのがわかる。メイクがうまくいかずに癇癪を起こしたり、思うように撮影が進まず不機嫌になったりしているのを、コクトーは(かなりびくびくしながら)見ていたようだ。
コクトーを含めて、スタッフの健康問題に悩まされた撮影だが、不思議なことに、主演女優のデイはあまり体調の面で問題がなかったよう。贅沢な女性だったので、ロケ先で泊まるホテルには大いに不満だったらしいが、撮影での苦労というのが彼女に関してはほとんど書かれていない。
あの重たげな衣装とエクステンションをつけての凝ったヘアメイクを見ても、準備は大変だっただろうと推測できるが、不満やグチを言っていたようすもない。『美女と野獣』の成功はデイのプロ意識にも大いに助けられたのかもしれない。
あとはコクトーの病気。マレーの自伝とあわせて読むと、いかにこの撮影がコクトーの健康を完膚なきまでに破壊したかが手に取るようにわかる。
またコクトーの病院嫌いも、このときの入院がトラウマになったのかもしれない。友人たちが帰ってしまった夜、他の病人の苦しげな声を聞きながら、コクトーが恐怖心にさいなまされている様子が克明に描かれている。
もともと身体の弱かったコクトーだったが、『ジャン・マレーへの手紙』を読むと、マレーがそばにいてくれることで心身ともに安定し、闘病の勇気がわくことを認めつつも、「君をぼくの看護人にするつもりはない。ぼくの望みは君が幸福でいてくれること」と書き続けた。

7)ジャン・マレー 「私のジャン・コクトー」 東京創元社
マレーが80歳直前に書いたコクトーとの思い出。コクトーが亡くなって30年(!)後の著作ということもあってか、マレーの中ではコクトーという存在は一種の形而上的愛の対象に昇華してしまっているようだ。
若いころのオイタは忘れ、ひたすらコクトーを人生の師として崇めている。同時に、実像を離れて誤解がひろまっているコクトーを徹底的に擁護するという確固たる意思も感じられる。
ただ、自伝で明かしていなかった事実について触れた部分もある。
それは出会う以前のコクトーへの想い。実はマレーはコクトーに強烈に憧れていた。『地獄の機械』を見たときは、コクトーが自分に語りかけているとすら思い、「どんな犠牲を払ってもこの人に接近しなければ」と考えている。つまり、コクトーはマレーが演りたいと思う戯曲を書く作家であり、彼と出会えば自分の役者としての才能が開花するかもしれないことを、マレーはどこかで予感していたのだ。
自伝ではそこまで書いていなかったので、なぜコクトーと聞いて、自発的にオーディションに行く気になったのか、ちょっと曖昧な部分もあった。つまりコクトーとの出会いは完全な偶然ではなく、マレーがある程度、「どうしても会いたい」という意志を持って会ったのだということが、この本で明らかになっている。
最晩年のマレーは、コクトーが自分の演技を認め、賞賛してくれたことに誇りを感じながらも、「いろいろな役を演じたい」という自分の仕事への情熱がときに2人の時間を奪ったことに苦さも感じている。マレー自身によれば、自分はコクトーが言うようなよき天使などではなく、成功のための条件を整えようとする出世主義者だった。晩年のマレーのコクトーに対するほとんど宗教的ともいえる尊敬と愛慕の念は、そんな自分を無償の愛で常にやさしくつつんでくれたコクトーに、本来自分はもっと慎ましく仕えるべきだったという後悔の念ともあいまって、ますます強まっているようにも見える。

8)桜井哲夫 「占領下パリの思想家たち」 平凡社新書
タイトルどおり、占領下のパリの作家の政治的な立場を概観した研究書。コクトーと、彼の愛人としてのマレーにも触れられている。コクトーに関しては、ジュネを擁護したことで、「ジュネはコクトーの愛人(そりゃないって…。コクトーは面食いなのだ)」などと対独協力派新聞から醜聞を書きたてられたこと、それでいながら解放後、自分を攻撃した対独協力派の助命嘆願に尽力するなどコクトーの人道主義的な一面についても触れられている。
このエピソードは、マレーが繰り返し主張した、「憎しみを知らず、愛することを愛した人」というコクトー像を側面から裏づけるものともいえる。

9)キャロル・ヴェズヴェレール 「ムッシュー・コクトー」 東京創元社
13年の長きにわたってコクトーの一大パトロンヌだったフランシーヌ・ヴェズヴェレールの一人娘のキャロルが書いた、思い出の中の父・ジャン・コクトーのプライベートな実像。
キャロルはマレーに寄せるコクトーの真摯な想いを、少女らしい曇りのない眼で常に感動をもって見つめいてた。
コクトーが最初の心筋梗塞で倒れたとき、マレーはアメリカにいたが、すぐに飛んで戻ってきて、コクトーの枕元から離れなかった。それを見てキャロルは初めて大スター、マレーの素顔に触れたと思う。実はキャロルは知らなかったが、コクトーの生命が有限であることをはっきり自覚したこのときから、確かにマレーはコクトーに回帰し始めたのだ。マレーはこれ以前にできていた2人の間の距離を埋めようとした。それが一方では、ジョルジュとの訣別につながっていく。
コクトーの深刻な病気は、キャロルとマレーの距離も近づけた。以来、彼女は母がコクトーと絶交しても、常にコクトーのよき娘、マレーの賢い妹であり続けた。
本業は映画のプロデューサーだが、マレー没後は彼の評伝も書くなど、ライターとしても知られている。
この本の最後には、キャロルへのコクトーの私信も収められているが、泣いてばかりのマレーへの手紙とはうってかわって、ふざけてばかりでおもしろい。
「地理のテストでびりだった君なら知ってるだろうが、ドイツって長靴の形の半島で、その先にコルシカ島という別の小さな島のある国だ」
などとデタラメばっかりを教える見事な教育者ぶり(笑)。


ちなみに、ドゥードゥーことエドゥアール・デルミットが、コクトーについてもマレーについても何も書いていないのが、奇妙な感じを受ける。キャロルの言うように、寝てばかりの怠け者だったせいか、まったく文才というものがなかったのか、控えめな性格ゆえなのか、ドゥードゥーの見たコクトー、あるいはマレーについては何も残っていない。ドゥードゥーは一応画家ということになっているが、今はその作品を見る機会は皆無に近い。
マレーもラディゲについてはよく言及するものの、ドゥードゥーについてはほとんど何も触れていない。自伝には会話1つさえない。
ドゥードゥーはコクトーの死後、すぐに結婚し、あっという間に2児の父となり(そのうちの1人の名づけ親はマレー)、フランシーヌとも和解してサント・ソスピール荘に再び出入りするようになった。
スーパーエゴの持ち主ともいえるコクトーやマレーと違って、彼は平凡な、「色のない」タイプだったのだろう。個性の強いキャラクターのそばに長く留まれるのは、案外こういう人なのだ。
ドゥードゥーは一時、明らかにコクトーとマレーを隔てる原因の1つにもなったが、実のところこの非凡な2人の緩衝材のような役割も果たしていたのかもしれない。
ドゥードゥーは晩年は、マレーとコクトーが買い、のちにコクトーがマレーの持ち分を買い取ったミリィに住み、年上のマレーより早く亡くなっている。

アメリカ人バレエ・ダンサーのジョルジュ・ライヒは、1960年に入る前にマレーとの関係を解消し、その後ベルギーの映画などに端役として出た後にフランスを去り、1960年代の半ばにはカナダやアメリカで振付師として活躍していた。1985年ぐらいまではショービジネスにかかわっていたらしいが、その後の消息は不明。生きているのか死んでいるのかもわからない。生きていれば今年82歳。
映像は、プティ振り付けのバレエ映画『ブラックタイツ』のクリスチャン役ぐらいしか残っていない。

<オマケ>
昨日紹介した、マレー作・画『赤毛のギャバン*6つの愛の物語』(TBSブリタニカ)から
赤毛のギャバン
「ミラ」の物語の挿絵。棹立ちになった馬にまたがる王女。この場面の描写は非常に美しく、そのまま映画のワンシーンになりそうなほど

contes
「猫の王さま」の物語の挿絵。昔(1939年)コクトーとマレーが一緒に過ごしたル・ピゲの町を2人で再訪したときに、「ジャン・コクトーがしてくれた話」だという。再訪したのがいつかは不明


<明日は、意外と多くてビックリ、フランスで出版されたジャン・マレー評伝をご紹介します>






最終更新日  2008.09.13 18:10:56
2008.09.12
カテゴリ:Movie
連載中、読者の方から問い合わせが多かったジャン・コクトー&ジャン・マレー関連の参考文献。日本では、コクトー関連の書籍の翻訳は非常に充実している。ただ、同時期の作品や日記でも、日本で翻訳された時期、出版社、訳者がばらばらなため、「これ1冊を読めば2人のすべてがわかる」というものはない。数冊の本を縦横に読むことで、2人の実生活が見えてくる。Mizumizuが参照したのは、以下。

1) 「ジャン・マレー自伝 美しき野獣」 新潮社
私小説的なおもしろさに富む自伝。総括すれば、コクトー追慕の書なのだが、実はコクトーに出会う前の「何者でもなかったジャンという少年」の逸話に、心理学的なおもしろさがある。
たとえば、天使の顔をしながら、ダルジュロス顔負けの超悪ガキだった少年時代のエピソード。本人は乱暴な粗忽者だったにもかかわらず、その美貌から母の愛人や寄宿舎の監督官から性的な対象と見られていたこと――そして、ときにそうした彼らの行為を逆に利用したこと。一方で異常なほど熱愛していた母の前では本当の天使のようにふるまっていたこと。その母が窃盗狂だと知ったときの衝撃。
恋をした美しい女の子へのおずおずとしたアプローチもある(結果は、不成功)。あるいは、眼が悪いので人の顔がよく見えず、ある夜、「お兄さん遊んでかない」と声をかけてくる街娼にくっついて行って気づいたら、とんでもないオバさんだったという笑い話も(オバさんは、ラッキーだよな、めったにないくらいのイケメンが引っかかって。さぞやハッスルしただろう)
成長してからは、アメリカから来た(どうもアメリカ人好きは生涯変わらないご様子…)ネイティブ・インディアンの青年に対してほとんど一方的に寄せた恋情に近いような友愛。この彼が「自分を捜さないように」とマレーに手紙を残して一方的に去ってしまい、手紙を受け取ったマレーが慌てて夜明けのパリの街を彼のアパートに向かうエピソードは、青春映画のワンシーンのように切ない。
また、マレーに誠心誠意尽くしてくれる職場の先輩の微妙な視線と彼の気持ちを半ば知りながら、それ以上関係を深めようとしない自分自身への葛藤。神経症とルミナール依存症それに女性関係で人生をダメにした兄への献身など。
だが、残念なことに、この本、翻訳のスキルが相当低い。文体がかたく、全体的に非常に読みにくい。何度も読まないと意味がわからない文章も多い(し、読んでもわからない、たぶん誤訳と思われる箇所も散見される)。人名のカタカナ表記は、はっきり言ってハチャメチャ。1977年と古い出版で、今ほど固有名詞の確認が容易ではなかった時代とはいえ、Girardotを「ジェラルド」などと書いてしまっては、フランス語の翻訳者としてはダメダメでしょう。
内容に関して言えば、マレーの自伝は、名前を出した有名人に対して非常に配慮があるのも、他の俳優・女優の自伝にはあまり見られない、心地のよい長所。ゴシップ的な話はほとんどない。
たとえば、マレーがルキーノ・ヴィスコンティと初めて会ったのは、「ヴォーグの写真家の家」としか書いていない。これはホルスト・P・ホルストの家で、マレーはホルストのモデルにもなっているから、当然事情は知っていたと思うが、ヴィスコンティはココ・シャネルと(多分にシャネルの一方的な)恋愛関係にあり、この2人がモメたのはヴィスコンティに魅せられたホルスト・P・ホルストが間に割り込んできたため。
フランコ・ゼッフィレッリの自伝では、このゴシップをあからさまにしている(でもゼッフィリッレは自分とヴィスコンティの関係についてはイマイチあからさまにしていないところがある)。ゼッフィレッリ自身が後年ホルスト・P・ホルストに会ったときに、「やはり魅力的な男で、シャネルが嫉妬したのもわかる」とまで書いている。ホルスト自身も、「ヴィスコンティの態度が曖昧で、自分たちの関係は(自分の希望したようには)発展しなかった」と回想している。
マレーの自伝にはその手の話は一切ない。イヴォンヌ・ド・ブレとヴィオレット、クリスチャン・ベラールとボリス・コクノといった「カップル」も、すべて「XXの友人」で終わり。
また、『ジャン・マレーへの手紙』を読むと、この自伝、エピソードの時系列が事実と違う部分もあるということがわかった。記憶が曖昧だった部分もあるかもしれないが、どうも意図的に「そのことが自分の身に起こった時期」をぼやかしている部分もあるようだ。ことにジョルジュ・ライヒと別れについてそれを感じる。

2)ジャン・コクトー 「ジャン・マレーへの手紙」 東京創元社
おそらく人類の歴史上、もっとも純粋で美しい愛の書簡集の1つ。
とにかくどのページをめくっても「愛しています」「ぼくは泣いています」「手紙をください」のオンパレード。
これだけ読んでいるとコクトーという人は、マレーを思って一生涯泣きっぱなしだったみたいに思えてくる(笑)。だが、よく考えてみれば、ドゥードゥーを息子として遇しはじめたのも、人の奥さんの別荘に入り浸りになったのも、コクトー自身なのだ。多情さと一途さ、華やかな人々との交流と圧倒的な孤独が矛盾なく内在しているのが、コクトーだということだろう。
ただ、この本も、これだけで読むと、何が起こっているのかさっぱりわからない。自伝(および戦争時代のエピソードについては『占領下日記』)と一緒に読んで初めて、その手紙の書かれた背景がわかってくる。その意味では、案外読み解くのが難しい資料。だが、ある意味、自伝ではではぼやかされていたプレイベートな「事件」が、より生々しく露わになった部分もある。
特にジョルジュとの別れがマレーにとってどれほど打撃だったのか、コクトーの狼狽ぶりがそれを如実に示している。一緒に暮らした時間だけで考えれば、戦争や長期ロケをはさんでいたコクトーとの生活よりもジョルジュとのそれのほうが長い。ジャン・マレーが一番長く1つ屋根の下で暮らしたのは、コクトーではなくジョルジュだったのだ。
それでも、この私信を公けにしたのは、自分が死んでしまったあとに、この650通におよぶ膨大な詩人からの私信が「発見」され、勝手な注釈をつけて流布されることをジャン・マレーが恐れたからだ。
自伝から十数年遅れて出版されたこの本のおかげで、自伝の人名表記の誤りがだいぶ確認できた。翻訳者の腕も自伝の訳者よりかなり上で、フランス語がしっかり読めているのがわかる。
訳者も気づいているが、ジャン・マレー自身による注はかなり恣意的。つまり、はっきり読者にわからせたい部分には注を入れているが、曖昧なまま「わからせたくない」部分は明らかに意図的に無視している。
また、『オルフェの遺言』公開より前に書かれた手紙での「ぼくたちの映画」というコクトーの言及について、「これはオルフェの遺言のこと」と書くなど、不備のある(マレーの勘違いか、コクトーの手紙の日付の間違いか)注もある。
さらに、この膨大な手紙は、それが全部でないことも明らか。隠された手紙もあるかもしれないし、紛失したもの、マレーに届かなかったものもだいぶあるようだ。自伝にはあるのに、この本には掲載されていない手紙もある。
『占領下日記』を読むと、イタリアに『カルメン』の長期ロケに出たマレーに、コクトーはさかんに手紙を書いていたことがわかるが、この長期ロケ時代の手紙はわずかしか収録されていない。
特に戦争中と占領下時代は、当時の郵便事情からか、コクトーの手紙がしばしば行方不明になってしまっていたらしいことは、コクトーの手紙の文面からもわかる。また、コクトーは自分の私信が横取りされ、売り飛ばされることを警戒して、封筒に署名はせずに星マークをつけていた。私信とはいえ、誰かに盗み見られる可能性のあることはよく自覚していて、ロケ先や戦地のマレーへ送った手紙には感情の抑制が見られる。対して、2人が一緒に暮らしていたころ、口に出せない気持ちを文章にして同じ屋根の下のマレーに渡した手紙は、ストレートで相当に生々しい。

3)ジャン・コクトー 「占領下日記」 筑摩書房
翻訳の質もよく、詩人の世界観を読み解く意味でも、マレーを始めとする友人たちへの想いを知る意味でも、一級の資料。『ジャン・マレーへの手紙』のようなプライベートな私信と違って、公開されることを前提として書いた日記なので、マレーに対する想いには若干「構えた」部分があるが、それでも、たとえばマレーが志願兵として戦地に赴いた際には、最初のうち冷静に受け止めていたはずが、だんだんに心配がつのり、ついには「ジャノへの心配が肉体的苦痛」にまでなって取り乱していく様子が赤裸々に綴られている。
この本だけを読むと、公開を前提とした「ジャン・マレー論」と「私人としてのジャノへの想い」がときにごちゃごちゃになっており、コクトーにとってのマレー像を曖昧にした恨みもあるのだが、あわせて『ジャン・マレーへの手紙』を読むと、コクトーの公けの顔と私生活の顔がどう違うのかわかって興味深い。
『悲恋(永劫回帰)』の台本執筆から、当時大手の映画製作会社が囲い込もうとしていたマレーの身柄を取り戻すまでの苦労、電力不足と予算不足で難航する撮影の様子、映画が公開されるや「映画館の入り口がこわされるほど」の熱狂的な大成功をおさめるまでがリアルタイムで実況中継されているのも貴重。
一方で、マレーを大スターにするという目論見が達せられたあとに、コクトーとマレーに襲い掛かった誹謗中傷の嵐や嘲りに満ちた好奇の眼にコクトーが次第に追い詰められ、自分の存在が俳優マレーにとっては、害になっているのではないかと思い悩む様子も胸に迫ってくる。
少なくとも、コクトーとマレー、それぞれの著述を読む限り、自分たちの関係により深く悩んでいたのは、明らかにコクトーのほう。マレーの書いたものからは、2人が愛し合うことへの罪悪感や苦悩はほとんど、というかまったく感じられない。マレーがやや後ろめたく思っている部分があったとすれば、それは自分がコクトーの熱烈な想いに十分に応えられない部分があること、コクトーに自己犠牲や忍耐を強いていることを自覚していることだろう。
『占領下日記』は、マレーとの関係をのぞいても、時を越えた読者へのメッセージ性が強く、一読の価値のある日記。コクトーは常に、この本をいつかどこかで読むであろう「未来の若者」に理解してほしいと願いをこめて、自分のモラルや生き方を示した。

4)ジャン・マレー 「6つの愛の物語*赤毛のギャバン」 TBSブリタニカ
なんとジャン・マレー作の児童書。イラストもジャン・マレー。ことに「第一部 ミラ」が興味深い。ミラとはもちろん、マレーが(休暇目当てとはいえ)生涯一度だけプロポーズした女性の名前。ミラという王女に寄せる「歌えない王子」の献身的な愛の物語で、病気のミラの枕元に跪き、「ぼくの力と健康があなたに乗り移りますように。あなたなしではぼくは生きていたくない」とささやく王子の姿は、ジャン・コクトーが病に倒れたときのジャン・マレーの心情が反映されている。
亡き王妃の忘れ形見である美しい王女を熱愛し、一度は王子を王女から遠ざけようとしながら、結局は2人を祝福する王の心情は、「愛は独占することはではく、愛する人の幸福を願うこと」と自分の欲望を犠牲にしたコクトーのマレーに対するそれのようでもある。
ほかにも、「ジャン・コクトーがぼくにしてくれた話を君たちにもしてあげよう」という書き出しで、コクトーと行ったバカンスの思い出を混ぜるなど、天国のコクトーとの共著という色彩も濃いように思う。


<明日も参考資料をご紹介します>










最終更新日  2008.09.13 01:33:48
2008.09.11
カテゴリ:Movie

1933年、19歳のジャン・マレーはルノー工場で見習工として働いていた。棒磁石の検査が仕事で、1日中同じ作業をするのが苦痛でならなかった。工場は嫌いだった。子供のころからの夢は役者になることだった。だが、何からどう始めていいのかもわからないでいた。
ある日、職場の友人に誘われてビストロに行った。店に入るとすぐ、壁に貼ってあるデッサンが目についた。そこには、簡素で生き生きとした、独特のラインで描かれた青年の姿があった。マレーはそのデッサンから――あるいは青年から――眼が離せなくなった。近づいてしげしげと眺めた。
「なんか、お前に似てない?」
仲間の1人がマレーが思ったことをそのまま口に出した。
吊りあがった大きな眼、寄せたような眉と眉間のシワ、横一文字に結んだ薄い唇、しっかりした顎……確かに、奇妙なほど自分に似ていた。
「これって、誰の絵?」
マレーは何も知らなかった。
「ジャン・コクトーだろ、どう見ても」
誰かが答えた。
「画家なのか?」
「画家っていうか――おい、ジャノ、お前ってジャン・コクトーも知らないのかよ」
「知らないけど、有名人?」
工場の仲間たちは顔を見合わせた。
「有名だよなあ」
「普通知ってるよ」
「10代のパリジャンで『恐るべき子供たち』を読んでないヤツがいるとはね」
口々に言われて、マレーは自分の無教養が恥ずかしくなった。
「ジャン・コクトーは詩人よ」
ビストロの女主人が助け舟を出してきた。
「でも、素描も描くし、小説も書くし、評論も書くわ」
「この絵、本物なんですか?」
無知な青年が尋ねると、女主人は笑った。
「まさか、複製よ。でもステキでしょ」
マレーは頷き、仲間たちのテーブルに戻った。
酒と料理を注文し、みんなと飲んだり食べたりしても、この空間にはもう、自分とあの人の描いた青年しか存在しなかった。
マレーは自分の心の声を聞いた。
――いつか、金持ちになったら、あの人のデッサンを自分にプレゼントしよう……


1934年、20歳になったマレーは、シャルル・デュラン座で端役をもらいながら、デュランの演劇レッスンを受けていた。とはいっても、先はまったく見えなかった。コンセンバトワールへの入学試験には落ちていたし、映画製作会社に写真と履歴書を送っても何の連絡ももらえなかった。
4月になったある日、コメディ・デ・シャンゼリゼ劇場の前を通りかかると、再び「あの人」のものに違いないデッサンが眼に入った。劇場で上演される新作戯曲『地獄の機械』のポスターだった。
――ジャン・コクトー
思わず立ち止まり、ポスターの右下に入ったイタリックのサインを指でなぞった。サインの下には星のマークが書き添えてあった。この人のすべてを知りたいという欲求が、抑えがたく湧き上がってきた。
友人に教えてもらった『恐るべき子供たち』をマレーは読んでいた。読み始めると、たちまち熱に浮かされたようになり、何度も読み返す結果となった。天上から放たれた矢が、まっすぐ心臓に命中したようだった。
マレーは劇場の裏にまわった。運命のように、ボックスオフィスの窓口が開いているのが見えた。そのまま引き寄せられるようにして、初日のチケットを買った。4月10日――それは明日だった。


1937年、47歳のジャン・コクトーは、レイモン・ルーローの演劇クラスに通う若い役者の卵たちのために、自作の戯曲『オイディプス王』の演出を引き受けていた。
5月のある日、ヴェーカー・スタジオでオーディションを行った。4時開始の予定だったが、自分が1時間近く遅刻してしまった。役を希望する若者がすでに大勢集まっていた。
1時間半以上かけてひととおり見終わり、役者の名前と演技の印象をメモしたノートを閉じ、帰ろうとすると、1人の若い娘が近寄ってきた。
「コクトー先生、ちょっと待ってください」
「ん?」
確か、ディナ――と名乗った娘だった。
「もう1人、男の子が来るんです。いえ、本当は一度4時に来て待ってたんですけれど、先生が遅れたので……」
とコクトーの顔色を見ながら、
「いったん授業を受けに帰ったんです。ルーロー先生のクラスじゃなくて、デュラン先生のところの生徒なんだけど、今まで一度もサボったことがないからって」
「それは……熱心な生徒さんなんだね」
「そう、とても熱心で、いつも準備は完璧だって私たちの間では有名なんです。感じがよくて、飛び切りハンサムな男の子なの。7時には戻るって言っていました。お願いです。もうちょっとだけ、彼のために待ってあげていただけませんか?」
「君がよそのクラスから引っ張ってきたの?」
「ええ……はい、そうなんです」
コクトーは時計を見た。もうすぐ7時だった。
「かまわないよ。遅れて申し訳なかったのはぼくのほうだ。待させていただくよ」
コクトーの礼儀正しい言い方に、ディナはほっとした表情を浮かべた。
コクトーは窓際の椅子に座った。開け放した窓からは、通りのマロニエの木が、葉の中に白い花をつけているのが見えた。生い茂った緑、開きすぎた花が、窓のすぐそばまで迫っていた。屹立したオシベが花糸を伸ばし、サフラン色の葯をこちらに差し向けている。
あと何度この花が咲くのを見るのだろう――コクトーは外を見ながら、ぼんやりと考えた。彼は人生をすでに半分以上生きたと思っていた。もうこれ以上は、生きたくもなかった。
だが、5月の空はどこまでも澄んだ水色で、夏の予感を不可視のまましたたらせていた。

――ハートのエースが出なければ、君の負けだ!

急にどこからか声が聞えた。確かに声がした。コクトーは周囲を見わたした。いや、それが人の声でないことはコクトーにはよくわかっていた。かつて、ピカソの家を訪ねたときに、エレベータの中で天使ウルトビースの啓示を受けたときと同じ感覚だったのだ。天から霊感が降りてくるのは、しばしばではないにしろ、詩人にとってそれほど珍しいことではなかった。
「君――」
ディナは戸口に立って、「その彼」を今か今かと待ち受けていた。
「はい?」
「これから来る人は、名前は何ていうの?」
「ジャン・マレー君です。名前は先生と同じ。マレーは沼地のmarais……」
「ありがとう」
コクトーはノートにその名を書きつけた。
「あ! 来ました」
ディナが廊下の向こうに手を振って、合図をしている。
「マレー君、早く!」
コクトーは立ち上がった。
一陣の初々しい風が、窓から吹き込んできた。


1985年4月、東京の青山にある草月会館に、フランスから1人の名優がやって来た。「COCTEAU/MARAIS コクトー芸術の化身・ジャン・マレーが独り演ずる ―― 偉大なる詩人の肖像 」(原題:”Cocteau Marais”)と銘打った、2時間に及ぶ1人芝居を上演するためだった。台本の台詞はすべてジャン・コクトーの言葉から取って俳優自身が構成し、詩人の生涯を彼になりかわって辿ろうという試みだった。
俳優の名はジャン・マレー。すでに70歳を越え、主催者は「最後の来日公演」と銘打っていた。
幕が上がったとき、まず観客が見たのは、舞台の右端に置かれた墓石に横たわる彫像のような俳優の姿だった。それは彼が最初に世界的成功を収めた映画『悲恋(永劫回帰)』のラストシーンからの続きのようにも見えた。
彼は――あるいは彼の声を借りた詩人は――語り始めた。
「奇跡――それはこの大きな謎を前にして、2重の生を生きること、しかもひとつでしかないこと。それこそがぼくたちの秘密だ……」
呪術的な響きのある、しわがれ声だった。
「詩人が死んだ。詩人万歳。さらば、ぼくは溶け始める。ぼくたちの顔立ちが織り合わされる……」
やがて彼が身を起こすと、その髪が檸檬色に近い金色であることに観客は気づいた。モノトーンの衣装と舞台装置の中で、一筋のライトに照らされて明るく輝く髪の毛の色の効果は絶大だった。
「もうひとりのジャンが、ぼくにかわって姿を現わす。君はぼくだ。ぼくは君だ。マレーがその魂でぼくを照らし、ジャン・コクトーになりかわる」


2008年、フランスが生んだ世界的名優ジャン・マレーが没してから10年が過ぎた。この年の4月、モンマルトルのテルトル広場とサン・ピエール教会の間にある小さな広場が、「ジャン・マレー広場」と命名された。







最終更新日  2010.05.27 21:49:36
2008.09.10
カテゴリ:Movie
<きのうから続く>
コクトーは、自分の誕生日にミリィに戻ることに決めた。ちょうどそのすぐあとにマレーはちょっとしたイベントでパリを離れる仕事が入っていた。

7月に入ってすぐ、マレーの耳にオテル・ド・カスティーユが大々的な全面改装を行うという話が入ってきた。このホテルは、コクトーがマレーと暮らし始める前に住んでいたホテルで、2人には思い出の場所だった。コクトーにその話をすると、残念がった。

その翌日、コクトーはマレーにマドレーヌ広場19番地に2人で行ってみたいと言い出した。オテル・ド・カスティーユを出て、コクトーとマレーが初めて一緒に暮らしたアパルトマンがある場所だ。マレーはとまどった。サン・クルー公園から自分たちに向けられたカメラを思い出したのだ。だが、結局、コクトーをクルマに乗せてみずからハンドルを握り、パリの中心部に向かった。

マドレーヌ寺院の西にあるその場所は、昔のままだった。道に面して、赤みがかった灰色の石のポータルがあり、そこをくぐると小さな中庭のようなちょっとした空間が開ける。マレーは病み上がりのコクトーを支えるようにしてアーチ型のポータルを抜けた。
アパルトマンは中庭を取り囲むように建っていた。その1室をコクトーとマレーは並んで見上げた。懐かしさでマレーの胸は熱くなった。

「ここのサロンは、モンパンシエよりずっと広かったね」
とマレーが言った。
戦争が始まると、経済的に逼迫したコクトーはこのアパルトマン全体を暖房する費用すら捻出できなくなった。それでもっと狭いモンパンシエ通りのアパルトマンに移らざるをえなくなったのだ。
「そうだね」
「ダイニングもあったけど、結局一度も使わなかった……」
「最初は家具もなかったね」
「初めて2人で買ったのが、ベッド用のスプリングとマットレス2組だったっけ」
「イヴォンヌとガブリエル(=ガブリエル・ドルジア)が掛け布団とシーツと枕を持ってきてくれた」
「イヴォンヌはアンリ・バタイユ(=イヴォンヌ・ド・ブレの最初の夫)の遺した仕事机もくれたよ」
「ああ、そうだった」
そのイヴォンヌ・ド・ブレもすでにこの世を去ってしまった。

「ランプやテーブルは蚤の市で買ったし……」
「君はテーブルを白く塗って、ぼくの彩色デッサンを敷いてガラスをのせたっけ」
「ぼくらには椅子もなくて、君がどっかから見つけてきた椅子はひどかったよね、すわり心地最低」
「そしたら、ジャノ、君がシャンゼリゼ公園に探しに行くと言い張って、公園から鉄製の椅子を2つも頭にかざして運んできた。あのとき巡査が見ていたのに気づいていた?」
「もちろん。街娼もそばにいたよ」
「よく黙って見ていたよな」
「今じゃ、考えられない」
「そう、今では考えられない……」
「椅子におくクッションはぼくが作った――それから少しずつ家具が増えて…… 値の張るものは何もなかったけど、ここは他のどことも似ていない場所だった。本当に独特で、自由な雰囲気で……」

コクトーはマレーの手をきつく握り締めた。マレーは思わず周囲に眼を配ったが、幸い誰もいなかった。石壁の向こうからはひっきりなしに行きかうクルマの音が聞えてくる。道路も駐車場のようになってしまった。昔と大きく変わったといえば、そのことだっただろう。
コクトーは黙ってアパルトマンを見つめたまま、なかなか動こうとしなかった。
確かにこの場所から、2人のすべてが始まったのだ。

「……ジャン、行こうか」
とうとうマレーが言った。コクトーは頷き、なおもアパルトマンから視線をはずさないまま、ほとんど独り言のような小さな声で言った。
「ジャノ、ここは……ここだけは、ぼくたちだけの場所だ」

マレーは不吉な予感がよぎるのを感じた。
コクトーはもう歩き出していた。マレーは慌てて後を追った。

1963年7月5日――コクトーはドゥードゥーに付き添われ、救急車でミリィへ戻った。マレーは並木道の向こうに救急車が見えなくなるまで見送った。

コクトーが行ってしまうと、マレーはマルヌの家の門の壁にもたれ、頭をそらし、眼をつぶって、自分の両腕を抱えた。極限まで痩せてしまったコクトーの身体、蒼白な顔、常に薬と注射を必要とする毎日……

 私は死に、君は生きる、と思うと眼が醒める!
 これほどの恐怖が他にあろうか
 いつの日か、私の耳近くにもはや聞えなくなる
 君の呼吸と君の鼓動が


コクトーの詩が思わず口をついて出た。コクトーが重病に陥って以来、マレーはこの詩を何度となく諳んじて、そこに描かれた恐ろしい情景を自分が体験することのないよう、神に祈り続けてきた。コクトーは快復期にあるのだと、再び強く自分に言い聞かせた。

一方、みずから望んでミリィに戻ったコクトーだったが、いざマレーから離れるとすぐに寂しさが募り、さっそく手紙を書いている。

「1963年7月21日 君は遠く離れているし、永遠と思ってきたフランシーヌとの17年(注:本当はこの時点でほぼ14年)が、あとに廃虚しか残さぬというこの事態は、ぼくの心を、底の底からからっぽにし、ぼくを幽霊のようにしています。戻ったらすぐ電話をください。君にくちづけたい」「ぼくのジャノ、22日に戻るはずでしたね、早く連絡をください。かわいそうな君のジャン」

マレーもできるかぎりミリィに足を運び、コクトーに会っていた。夏になると、コクトーは南仏のフレジュに向かう。壁画制作のためだった。キャロルも南仏で夏を過ごしたが、サント・ソスピール荘に長居する気になれず、カマルグに小さな小屋を借り、そこで乗馬に興じたり、村祭りで騒いだりした。20歳を過ぎたばかりの娘は、母から離れた放埓な夏の休暇を謳歌した。キャロルの小屋はいつも同世代の友人でいっぱいで、朝眼が覚めると、行きずりの友人の誰が土間で雑魚寝をしているかわからない始末だった。

キャロルの小屋には電話がなかった。彼女は郵便局まで行って、フレジュのもう1人の兄、ドゥードゥーに電話をかけ、コクトーの様子を聞いていた。
「発作から完全に回復したとはいえないよ」
と、ドゥードゥー。
「すごく疲れやすいんだ。でも手を使って仕事をしている限り退屈しないんだって言ってるよ」

コクトーは9月に南仏からミリィに戻る。マレーのほうはちょうど9月にカンヌで数日のバカンスをセルジュと過ごした。セルジュは正式にマレーの養子となっていた。たまたまそこで会った知人に、
「息子のセルジュ」
と紹介すると、知人は
「君に息子がいたなんて知らなかったよ!」
と驚く。
その会話を近くで張っていた新聞記者が聞きつけ、取材を申し込まれて受けたところ、「ジャン・マレーの息子」の存在が写真入りで一面トップで伝えられた。初めのうち記者たちは、セルジュをマレーの隠し子だと勘違いしていた。母親は誰かと聞かれ、マレーは、
「彼女は結婚したばかりなので答えられない。いずれ全部わかるよ」
とだけ答えた。

その話を聞いたコクトーが送った手紙が、マレーへの最後の手紙となった。

「ミリィ 1963年9月6日 ぼくのジャノ 君が陽光のもとにいるのを知って嬉しい。君が新聞記者たちにあのように言ったのは正しいと思います」「フレジュの新しい家の間取りは気に入っています。建つまでのあいだ、別の家を借ります。転地して空気を変え、そのあと、雪のあるところに行くのがいいと思っています。こうした大騒ぎもすべて、魂をなくした世界のためというより、はるかに、君のため、ドゥードゥーのためなのです。君の秘書が電話をくれました。気分がよくなって、めまいが消え、両眼のジグザグがなくなったらこちらから連絡します。ぼくはカンヌをよく知っています。ですから、今も君たちと一緒にあそこを歩いています。眼を閉じて、行きたいところへ行って暮らすのが、ぼくは大好きです。息子さんによろしく、ぼくのかわりに君にキスするよう頼んでください。君のジャン」(『ジャン・マレーへの手紙』より)

この手紙からほぼ1ヶ月後の10月11日朝、ミリィのコクトーの家では、電話が鳴り止まなかった。エディット・ピアフの死をうけて、コメントを求める記者たちからだった。家政婦はピアフの死を隠そうとするが、あまりに鳴り続ける電話に疑問をもったコクトーが自ら受話器を取ってしまう。そこで思わぬ訃報に接したコクトーは大きな衝撃を受け、午後のインタビューを記者に約束する。だが、昼過ぎにサロンで急に息切れの発作に襲われ、そのまま帰らぬ人となったのだ。

コクトーがマレーへの最後の手紙で「君たち――つまりマレーと養子のセルジュ――と一緒に歩いている」と書いたカンヌ。奇しくもそのカンヌで、1998年11月8日(その日はアラン・ドロンの誕生日でもある)に、ジャン・マレーは亡くなった。










最終更新日  2008.09.10 11:31:29

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