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Mizumizuのライフスタイル・ブログ

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Travel(ハワイ・NY)

2015.10.26
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旅好きのMizumizuが、アメリカ旅行(含むハワイ)でやたら噛みついてきたトピックがある。それは「チップ」。

ネットの日本語情報サイトでは、アメリカのチップの相場を既成事実化して解説したものが多く出回っている。

例えば、コレ
http://top.his-usa.com/city/kihon_list.php?tc=LAS&tgt=209

日本にチップの習慣がない為に、戸惑う方も多いかもしれませんが、アメリカでは半ば強制の習慣、に近いほど、チップは払うのが当たり前となっています。

レストラン

伝票を受け取ったら必ずオーダーに間違いがないかチェックして、税金(TAX)が含まれる前の総額に、朝食、ランチなら15%程度、ディナーなら20%程度を置いておくのが目安です。といってもこれはあくまで目安なので、電卓を使ってきっちりと15%を計算する必要はありません。

簡単な計算方法としては、ラスベガスのTAXは8.1%(2015年現在)なので、伝票に書かれたTAXを単純に2倍にすると16%になります。それを目安に、良いサービスであれば、いくらかプラスする、という方法もお薦めです。



あのねぇ…

Tipは、あくまで「心づけ」なのだ。地域社会でお金回していた昔むかしの、レストランもさほど高くなく互助意識の強かった古き良き時代のアメリカならともかく、観光地値段で何でもかんでもやたら高く設定している場所で、「16%にいくらかプラスがお薦め」なんて、一体全体いくらぼったくったら気がすむんですか?

支払料金の15%・20%なんて、それが「心づけ」と言えますか。それは立派なサービス料金だ。「半ば強制」だというなら、「チップ」なんて言わず、正規のサービス料金として最初から設定し、それで納得した客だけが入るようにすればいい。

さらに、この「チップ制度(もはや習慣ではない)」の最大の問題点は、クレジットカード支払が主流の外国人観光客の場合、チップは実際にサービスしてくれた労働者ではなく、店側に入ってしまうということ。この不透明性にも、何度となくこのブログで噛みついてきた。

本当に「チップ」が必要な低賃金労働者にダイレクトに入らない。店側に入ったらそれがどう分配されるか、客には分からない。

このおかしな制度(表向きは「習慣」)に、アメリカの特にNYで、「廃止」の気運が出てきているという。

http://www.iza.ne.jp/topics/world/world-8523-m.html

日本人旅行者を煩わせるチップ制度…米国内で「廃止論」高まる

NYの人気レストラン、チップ廃止へ

運営会社USHGが発表。11月から来年にかけてグループ内の店で順次廃止する

「廃止することで1800人の従業員の報酬が均等化される」(USHG・マイヤーCEO)

一部メニューは値上がりするが「客が支払う金額は、今とそれほど変わらない」(同CEO)

名店「スシ・ヤスダ」などNYの日本料理店では廃止の動きが顕著に

米オンライン雑誌も「20%も心づけを支払うのは『悪しき慣行』」との記事を掲載

「働きぶりへの適切な対価を得ることができれば、接客態度も改善するはず」(NY在住者)

クレジットカード払いが増え、チップの額が店の収入になる場合が多くなっている

さらに、オバマ政権が打ち出した最低賃金引き上げ論議が廃止論に脚光をあてた



アメリカのやることは筋のとおっていないことも多いが、おかしな風習に内部からこういう声がちゃんと出てくるところを見ると、やはりデモクラシーは機能しているな、と思う。

翻って日本人はどうだろう。今はもう中国人にその座を奪われたかもしれないが、アメリカ観光の最上級の「外国人のお客様」であり続けた時代、「アメリカのチップおかしいだろ」と声をあげていた人が、どれくらいいただろうか?

観光業界の人間は、現地での軋轢を嫌がるし、そりゃ、言いなりに「チップ(という名の上乗せサービス料金)」を、なんならもっと上乗せして払ってくれればその方がいいに決まっている。

だが、たいした根拠もなく、どう考えたって元来の目的通りに分配されなくなっているモノを唯々諾々と払い続けるのはおかしいのではないだろうか?

最低賃金をきちんと引き上げる。曖昧で、ともするとぼったくりの「チップ」を客に強要するのではなく、上乗せするなら明解な数字を示したサービス料をあらかじめ客に提示する。

商売の基本だと思う。

ともすると「ぼったくり」と書いたのは、アメリカのボストンで不快な経験があるからだ。中国人が経営するさびれたレストランで、チップを他の客と同様にテーブルに置いて会計を済ませたら、そのあとで中国系のボーイが肩をたたいてきて、「チップが少ない。20%寄越せ」と脅すような口調で言ってきた。ちょうど他の客もいない時間帯で、閉鎖空間になってしまった店でMizumizu母と女性2人だけ。「あぶない雰囲気」を感じたので、多めに手渡してさっさと出てきたが、はっきり言って路上で因縁つけて小銭を巻き上げる輩と変わりなかった。

別にMizumizuはチップを払いたくないと言っているわけではない。日本円で100円から200円程度の「心づけ」なら、ヨーロッパやアジアの観光地では、ベルボーイなどに気軽にわたしている。この程度の金額ならチップとしては常識の範囲だと思っている。

ともあれ、アメリカの法外チップという悪しき習慣が、悪しき習慣として徐々に認識され、廃止の方向に向かうなら、喜ばしいことだ。







最終更新日  2015.10.26 15:49:21


2009.07.01
JFK空港とNY市内のタクシー料金は45ドルの固定料金にモーターウェイの通行料(通常は5ドル。タクシー運転手は割引料金になってる場合が多い)、それにチップなので、トータルで払う金額は、55ドルから60ドルの間ぐらい。

フロントでチェックアウトすると、最初に部屋に案内してくれた「顔立ちメキシカン」のポーターが寄ってきて荷物に手をかけ、「今すぐタクシー?」と聞いてきた。「そう」と答えて、荷物をポーター君に渡し(なにせパソコンもあるから結構重い)、手ぶらでホテルのエントランスを出て、階段を降り、歩道に立った……ところでいきなり、ポーター君、Mizumizuの前に立ちふさがるようにして、

「あのタクシーなら、JFK空港まで65ドルで行く」

と売り込みを始めた。見ると歩道のそばに、黒塗りのハイヤーが何台か停まっている。それなりの高級車だ。

しかし、ホテル専属のハイヤーではない。それは明らか。

だって、さっきフロントで、「空港まで45ドルにtoll(通行料のこと)、それにチップよね?」と聞いたら、そうだと頷いて、別に「当ホテルのハイヤーもございます」風の話はしてなかったもん。

イロコイ・ホテルのある通りには、何軒かホテルが並んでいる。そこのポーターとハイヤーの運ちゃんが結託して売り込みしてるんだろうとアタリをつける。で、65ドルからポーターに少しキックバックが入るとか、そういうことじゃないかと。

「65ドルねぇ…」

黒塗りのハイヤーは確かに、イエローキャブとは高級感が違う。しかし…

「普通は45ドルにtollが5ドルでしょ。そうなるとチップが15ドルということ?」

と聞くと、

「イエローキャブはそう。こっちは全部で65ドル。どうします? 普通のタクシーにしますか?」

と一応こちらに選択を委ねてる台詞。

ホテルと直接契約ではないにしろ、こうやって4つ星や5つ星のホテルの前にたむろしてるということは、ヤバイ仕事をしてるヤツラではないと判断した。

今回はJFK空港からとNY市内に来るのに、ナメたタクシー運転手に当たってしまい、モーターウェイは使わず(モーターウェイを左下に見て)、有料道路は川底トンネルだけ、おまけにホテルの前にクルマをつけず、5番街で降ろされるという気分の悪い目に遭った(詳しくは、6月8日のエントリー参照)。

このときのふざけたインド人もそうだったし、他の運ちゃんも3人に1人ぐらいはそうだったのだが、NYのタクシードライバーって、ハンズフリーの携帯電話でどこやらとおしゃべりしてるのが多い。

ある意味、犯罪防止になるのかもしれないが、乗ってるマトモな客としては、1人でブツブツしゃべりっぱなしの運ちゃんの後ろにずっと座ってるのは、気分のいいものではない。運転中にあんなに外としゃべるのは、そもそも危険だろう。インド人なんて、空港から市内までずっと念仏でも唱えてるみたいで、かなり不気味だった。

いちいち「モーターウェイで行って」と言うのも面倒だし、だいたい空港まで45ドルという固定料金は、NYのタクシードライバーの間では不評だと聞く。普通のタクシードライバーにとって「空港まで」は、あまり嬉しい客ではないのだ。ヘンなのに当たって不愉快な思いをするのにも懲りた。なにせ、一口に運転手と言っても、あまりにいろんな人間がいすぎる。アジア女2人の個人旅行は、ナメられることも多い。

などなど考えて、最終的にメキシカンのポーター君に、65ドルのハイヤーを選ぶと答えた。この彼、人相はあまりよくないのだが(笑)、部屋の案内をしてくれたときも、あれこれ説明してくれて、わりあいマジメだったのだ。

じゃ… とハイヤーのトランクに荷物を入れてくれるポーター君。1ドルチップをあげて、さよならする。あとでまたキックバックもらってネ。

ハイヤーのドライバーは、モーガン・フリーマンを少し崩したような、穏やかな表情の黒人のおじさんで、もちろん何も言わなくてもモーターウェイを使い、誰かとおしゃべりをすることもなく、運転に集中している。

車内で清潔で、音も静か。皮のシートも上質で座り心地もよかった。

くつろいだ気分で空港に着いた。予想より早かった。

65ドルのトータル料金に、残りの細かい硬貨を封筒に入れたものを、「これも使ってくれる?。1ドルぐらいしかないけど」とわたしたら、ニッコリ愛想良く微笑んでお礼を言うドライバー。「とても快適だった。あなたはいい運転手ね。ありがとう」とMizumizuもニッコリ。

荷物を降ろすのも手伝ってくれたし(あ、でもあのインド人もそれはやってくれたかな?苦笑)、最後までとても感じがよかった。

まさに何でもカネ次第のアメリカ。5~10ドルの違いで、これだけ差があるとは…

日本人は、ある程度のサービスは追加料金なしで公平に受けられるのが当たり前だと思っているが、日本を出たら、そうではない。日本人は明らかに軽んじられてるのに抗議もしない一方で、きちんとしたサービスを受けても、お礼も言わずに無表情でいることが多い気がする。

そんな態度じゃ、理解されません。誤解されるばっかりです。アナタの気持ちは、声に出してキチンと伝えなければいけません。

さてさて…

当初の目的どおり、Mizumizu弟が日本に持ち帰った大量のコインも使いきった(一部は寄付)。ただ、ブログを読んだ弟からメールが来て、

「裏に州の名前の入っているクォーター(25セント硬貨)は、珍しいものだから、使わないで」

と言われた。

へ~、硬貨に珍しいのなんて、あるんだ。

ホテルでチェックしたら、確かにコネチカットだの、デラウエアだの書いてあって、ちょっと変わった絵柄になっているのがあった。

知らないアタシには、まさに猫に小判だったワ。メールが来る前に、使ってしまったのもあったと思うが、そういえば、妙に喜んで、「ありがとう、ありがとう」と言っていたタクシーの運ちゃんがいたっけ。

珍しいものだって、わかっていたのかな?

追記:NYのJFK空港の免税店はショボいです。











最終更新日  2009.07.02 16:35:37
2009.06.30
成田空港での両替は、銀行によって為替レートが微妙に違い、一番いいのは三菱東京UFJなのだが、カードレートも会社によって差がある。

Mizumizuはダイナース、ビザ(VISA)、JCBの3種類を持っている。JCBは、楽天の2000ポイント・キャンペーンに釣られて、作った楽天カードにつけたもの。

で、ダイナースは非常にレートが悪い。海外で使うといつも損した気分になる。VISAとJCBはどうだろう? ということで今回実験してみた。

同じ日に使ったVISAとJCBで為替換算レートを計算してみたら…

6月8日 VISA 1ドル=99.92円、JCB 1ドル=99.38円
6月12日 VISA 1ドル=99.76円、JCB 1ドル=98.08円

とJCBのほうがレートがよかった。特に12日のレートは1.68円も違う。これは大きな買い物だとかなりの差になると思う。

使い勝手はVISAのがいい。JCBは使えない店もあったから、JCBだけだと「まさか」の場合に不便かもしれない。VISAのが汎用性が高いのでメインカード、JCBは補助カードといった位置づけで持つか、あるはJCBだけなら使えない店があっても困らないだけの現金を持ち歩くように気をつけて、できるだけJCBを使ったほうが有利という結論(あくまでアメリカの場合)。

楽天カードは、年会費永年無料なので、JCBカードのない方でアメリカに行く予定のある方は、JCB付き楽天カードを作ってみてはいかがかと。しかし、もしかしたら、Master Cardのほうがさらにレートがよかったりして(苦笑)。

7月はタイに行くので、VISAとJCBで実験してみます。

楽天の回し者のようだが、楽天カードはかなり便利。カードを使うと付与されるポイントも、普通のカード会社だと向こうが用意したプレゼントから選ばなければならず、欲しいものがなくて案外困ったりするのだが、楽天カードなら、ポイントが貯まれば楽天のモールに入っているすべてのショップから通販でモノが買える。

送料が案外高いので(700円以上はかかる)、モノがあふれている東京に住んでいると、普通の店で買うより高くつくのをわざわざ通販で買うのもバカバカしい気もするのだが、それはそれ、手に入りにくいものを買えばいい。

それともうひとつ、欠点を挙げれば、楽天のモールに入っているショップの売ってるモノは、通販最安値ではない場合が多い。量産品だと、同じモノでも楽天以外のショップのほうが安い場合が多い。

ただ、楽天モールに入っている店は一応安心感があると思う。それに、やはりポイントの使い道。普通の信販会社のポイント制より、ずっと使い勝手が広く、お薦め。

カードの使用状況の確認もネットでいつでもできる。金額が大きいものを買えば、メールでお知らせも来て、不正使用監視にも便利。

楽天カードの申し込みはこちら

2000ポイントが付与されるというのはつまり、2000円分の買い物(送料を除いたら、1300円分ぐらいかな)ができるということ。その後のポイント付与は10%。1000円買ったら100円分のポイントが付くということ。

そうそう、カードを複数持つときに特に注意すべきなのは…

キャッシング(つまり借金)。

カードにはショッピング枠とキャッシング枠がある。カードが盗難にあい、かつ暗証番号も知られてしまった場合、キャッシングに関しては保証がまったくない。万が一お金を下ろされてしまったら、全額パー。なので、キャッシング枠に関しては必要最低限にして(特に何枚もカードを持つ人)おくべきではないかと、これは個人的な自己防衛手段。

リボ払い(平たく言えば月賦)も、とんでもない高利なので、Mizumizuはゼッタイに利用しない。それこそまとまったカネのない人間を狙った「貧困ビジネス」だと思っている。

自分の手持ちのカネだけで払えないようなモノを、買っちゃいけません。それが、基本でしょ。

月賦払いにして、「月々いくらなら払えるな」と考えるのは、貧乏人がますます貧乏になる思考回路。高利貸しのセールストークでもある。月賦で買うというのは、もともと10万のものを(たとえば)13万で買わされるということだ。モノの値段は常にトータルで払う金額の大小で考えるべき。










最終更新日  2009.07.01 16:30:25
2009.06.29
ニューヨーク近代美術館(MoMA)に以前行ったときには、ゴッホの『星月夜』との、文字通りの「感動的な出会い」があった。
星月夜

隣の部屋からゴッホ作品が展示されている部屋に入ろうとした瞬間に、ゴッホの強烈な色彩が目に入って、未体験の感動を味わった。絵を見た瞬間に、この作品に取り組んでいるときのゴッホの内面にあったであろう、ある種の激しい渇望、不安に彩られた鋭利な狂気が、こちらにストレートに乗り移ってきたのだ。たかが絵を見て、こういう体験をするのは珍しいが、やはり絵画には芸術家のエネルギーが――本人はとっくに死んでしまっても――宿っている。

ある作品を見て、画家がこの絵を描かなければならなかった理由(わけ)が、ふいに聞こえることがある。間違いなく、それは「聞こえてくる」ものだ。そして、その理由(わけ)というのは多分にやむにやまれぬもので、しかも、必ずしも幸福なものではない。表現とか創作といったものは、呪われた行為なのだ。何も表現せず、何も創作せずに生きていけるのは、ある意味で幸せなこと。

今回はその『星月夜』との再会を楽しみにしていた。最初に見たときのようなインパクトはないかもしれない。以前なぜそれほど感動したのか、逆にいぶかしく思うかもしれない。今回は何も「聞こえない」かもしれない。だが、それはまたそれでいい。絵という触媒に触れて、自分の心にどういう反応が起こるのか、楽しみにしていたのだ。

だが…!

ない…!

捜しても捜しても見つからない。職員に聞いたら、なんと「ツアー中」だとのこと。

がっくり…!

案外こういうことは多い。その美術館の目玉作品を目当てに遠路はるばるやってきたら、貸出中でなかった、ということ。

これも運なので仕方がない。

そのかわり、すでに見たことのある作品から別の感慨を得ることができた。これもまた面白い体験。以前はそれほどいいと思わなかったものが、今はよく見える。明日はそれほどよくは見えないかもしれない。そうやって、自分の心境とともに、感動する絵画も変化する。

マルグリット
今回、奇妙なほど吸引力を感じたのは、このマルグリット作品の中にある「灯り」。青い空と白い雲は、まさしくマルグリット・ワールドにしか存在しない空だ。そしてその下は漆黒の夜の世界。空は真昼間なのに、地上は夜。現実にはありえない。これぞまさしく、不条理の世界。そしてその不条理な闇を人工の灯りがぼんやりと照らし出す。灯りに照らされた空間の描き方に、視覚的に惹かれた。

もちろん、不条理な闇の世界を照らすほんの少しの希望を、その灯りに見ることもできる。誰もいない夜を灯りは照らし続ける。この作品に漂う奇妙な不安感と灯りの暖かさが象徴するわずかな希望――それは、現代人の抱える心の問題とどこかでつながっているようでもある。

図版で見たほうがいいんじゃない? と思う画家もいる。
ルソー
Mizumizuにとって、それはルソー。この人の色彩は実物を見ると、もうひとつ冴えない。いつも実物を見て、「あれ? こんなもの?」というある種の落胆を覚えるのだ。それはオルセーでも同じ。ただ、ルソーの発想は素晴らしいと思う。

色彩といえば、マティス。
マティス
だが、実のところ、マティスだと思ってみるからいいと暗示をかけてるだけかも? と思うこともある。

この朱の世界も…
マティスの赤
最初見たときは、海のような深さを色彩に感じる。そして、形態から解放されて自由に主張する色に、自分の心の何かも解放されたような歓びを味わう。何かしらの悦楽に触れて、「人生っていいものだよな」と思う瞬間に、この体験は似ている。

だが、見てるうちに、実はその色彩の海は、案外、遠浅なんじゃないかと思い始める。そして歓びも一瞬のものではないのかと。要するに、マティスの絵は、「飽きる」のだ。

ピカソは違う。
ピカソ
最初、名高いこの作品を図版で見たときは、ご多分に漏れず、「何じゃ、これ?」と思った。今回は別の感想を持った。この作品のもつ革新性とか、絵画史上の歴史的意義よりも、この絵の色は単純に、「美しい」と思う。そしてヌードの女性の身体のフォルムもまた、「美しい」と思うのだ。

色彩感覚も形態感覚も図抜けている、それがピカソ。
ピカソのヤギ君
このブロンズのヤギ君に会うと、「ああ、MoMAに来たんだ」と思う。いいよねぇ、この脚、この胴体、この首、この頭… どこからどう見ても生命力のあるヤギであり、しかもピカソという芸術家のフィルターを通したユーモラスなヤギであり、思わず撫でてあげたくなる(ちなみに、触ると怒られます)。

しかし、MoMAで「カネ払っても見たい」と思えるのは、時代的にはピカソまで。そのほかのモダンアートは、Mizumizuにはガラクタにしか見えない。

MoMAの新館が増築されて展示スペースが広がり、それにともなって入館料が一挙に8ドルも値上げされたのは、2005年のことらしい(ウィキペディアからの情報)。

展示スペースが増えたおかげで、否応なしに見せられるMoMAの(Mizumizuにとっては)ガラクタ・コレクションが増殖してしまった。集めてるほうはいいと思って集めてるんだろうから、それには文句はいわないが、だったら、すでに世界的に評価の確立した人気の絵画作品とは分けて入場料を設定し、あんたらの選んだ価値あるモダンアートにどんだけ人がカネ払って見るか、やってみるといい。

そのほうが、実力主義のアメリカらしいやり方だと思うけど?

オブジェだかインスタレーションだか知らないが、こんなものをヨーロッパ近代の天才画家の作品と抱き合わせで見せて20ドルも取るのは、詐欺だと思う。人気映画に不人気映画を組み合わせて、高く売るDVDセットみたい。たいがいは人気作品が見たくて買うのだが、不人気作品は別に見たくないのに、買わないといけなくなるってヤツね。

MoMAに来る人だって、恐らくほとんどゴッホとかセザンヌとかピカソなんかを目当てに来るのであって、手間と時間と素材の無駄にしか思えないモダンアートのガラクタなんて、その間を歩かされるだけ労力の無駄。

今回MoMAで見た、Mizumizu特選「ベスト・オブ・ガラクタ」がコレ↓。

変な展示

あまりに呆れ果てて、詳しく書くのも面倒なのだが、要は、倉庫の上のほうにダンボールか何かが雑然と置いてあるってフンイキ。この四角の物置きにはご丁寧にもその周囲を一回りできる細い通路が作ってあり、「何だろう?」と思った見学者が入ってきて、「うん? 上に何があるのかな?」と思いながら、四角にそった通路を歩く、というような目論見で作られたモノらしい。

一瞥して呆れるのか、素通りする人が多いのだが、たまに好奇心をもって迷い込む見学者もいる。だが単に四角にそって歩くだけだと気づいたとたん、きびすを返して出て行ってしまう。

こんなつまらない出し物に、どんだけ人件費をかけてるんでしょうか。四角い物置もきれいに塗装されているし、上に詰まれたダンボール(か何か知らないし、別に関心もないけど)の量も相当なもの。

この作品(?)の前に立っていた黒人の守衛さんが、太ったプロレスラーのような怖そうな人だったのだが、片耳にダイヤ風の光モノを散りばめたひし形のピアスをしていて、その輝きが黒い肌に映えて、非常に美しかった。およそお洒落とは関係なさそうなゴツい黒人のおじさんの片耳に輝いていたピアス――こっちのほうがMizumizuにとってはよっぽどアート。

MoMAの入館料の値上げのキッカケになった新館のオープン。その新館を設計したのは日本人。
MOMA新館
当然、建築作品としても価値はあると思うのだ。

思うけどね…

この新館建築…

法隆寺宝物館
上野の国立博物館の法隆寺宝物館とおんなじに見えるワケ。設計者が同じだから、当然と言えば当然だけど。

でもって、MizumizuはMoMAの新館より法隆寺宝物館のほうが、建築作品としては、より優美で魅力的だと思っている。噴水越しに見る法隆寺宝物館の細い柱は、神秘的ですらある。MoMAの新館のほうが、「箱」感が強いし、もっと言えば、法隆寺宝物館の焼き直しバージョンのよう。横長の箱を正方形に近くして、ガラス面を増やして、多少屋根の位置を変えたかな、程度の焼き直し。

もちろん、こうした批判はすべて、個人的な価値観にもとづく印象論に過ぎないし、Mizumizuにとってはガラクタにしか見えないモダンアートに深く感動してる人も、もしかしたら100人に1人ぐらいはいるのかもれない。

だが、世界中の人が見たがる『星月夜』のような「玉」に交ぜて、内輪のプロだけで「玉」だと主張してる、多くの人にとっては「石」に過ぎないモノを一緒に展示し、古今東西の圧倒的コレクションを誇るメトロポリタン並みの入館料を取るなんて、商売として汚いと思うのだ。

上野の国立博物館のように、別々の入館料を設定して、見学者に「(アメリカ人の大好きな)選択の自由」を与えるか、全部抱き合わせで見せるなら、やはり12ドルぐらいの常識的な範囲に入館料を抑えるべき。

MoMAがこうやって吹っかけて、それでも人が入っているとなると、世界中の美術館の入館料の相場を押し上げることにもなりかねない。というか、実際、もうそうなっている。美術館はこのごろ、どこでもここでもやたら高い。

美術館というのは、基本的にはその土地の人たちのためのものなのに、あんまり入館料が高いと、おいそれと来れなくなる。そうすると見学者はいきおい、「せっかくここまで来たんだから、多少高くても一度ぐらい見るか」というおのぼりさん観光客に頼ることになる。

そもそもMoMAの理事会なんて浮世離れした大富豪の集まりのくせに、ビンボーなおのぼりさんから20ドルもふんだくるなんて、美術品を使った「貧困ビジネス」に近い。

金曜日の午後4時から8時までたった4時間だけ無料開放するいうのも、いかにも高すぎる入館料への批判をかわそうというビジネス上の戦略がミエミエ。無料だと人が殺到して、とても落ち着いて美術鑑賞などできない、丸1日無料でも人気美術館はそうだ。それが金曜日の夜たったの4時間となると? 行って確認するまでもないだろう。

作品と向き合うためには静かな時間が必要なのだ。あまりに混んだ美術館では、単に作品を確認することしかできない。確認と鑑賞は違うのだ。


















最終更新日  2009.06.30 12:55:33
2009.06.28
フリック・コレクション美術館は、鉄鋼王ヘンリー・クレイ・フリック氏(1849-1919)の邸宅を改築し、同氏が生前に収集した美術品・工芸品を展示しているプライベート美術館。メトロポリタン美術館からさほど遠くない、NYの一等地に建つ(住所:1 East 70th Street)。

日本人には、フェルメールを3点所蔵していることで知られているのだが(フェルメールの絵の画像はこちらから引用)、
フリックコレションのフェルメール
行ってみて驚愕。個人のコレクションとしては、その質、幅広さともに空前絶後。世界でも指折りだと言って過言ではないだろう。

クリック氏の財力はもちろん、その審美眼の確かさに感服した。ヌードや戦争をモチーフにした作品がないことにも、コレクターとしての一定のこだわりを感じる。

そして、この邸宅そのものがもつ美的価値も見逃せない。豪華な調度品や細部まで意匠を凝らした部屋の内装は、それだけで高価な芸術品なのだが、ガーデンコートと呼ばれる噴水つきの池のある中庭空間が特に素晴らしい。心地よい水の音がマンハッタンのど真ん中だということを忘れさせてくれる。半透明のガラスで覆われた天井から間接的に採りこまれる外光が不思議に暖かい。

邸宅内には、ルードヴィッヒ2世の作ったリンダーホフ城内の居室を思い起こさせるような、白と黄色を基調にしたロココ風の内装を施した部屋もあった。こうした趣味は、ヨーロッパの絶対君主に対する憧れの表われだろうが、クリック氏の作ったロココ風居室は、ハッキリ言って、かのバイエルンの狂王に負けてない。さすがにアメリカ、個人実業家の身で、ここまでの富を蓄えられるとは。

そして、フリック氏が過ぎ去った昔の貴族文化全盛期の美術様式に非常に強い思い入れをもっていたことに、ルードヴィッヒ2世にも通じる人間の業を感じた。

収蔵品の中で特に名高いのは、ブロンズ小像のコレクションということなのだが、残念ながらこの分野の知識がないMizumizuには猫に小判(苦笑)。それよりも、絵画コレクションを重点的に見た。

ヨーロッパの絵画史に燦然と輝くビッグネームがずらりで、さながらプチ・メトロポリタンという様相。中には、メトロポリタン所蔵作品をしのぐ傑作もある。

中でも最も心惹かれたのが、ティツィアーノの『赤い帽子の男の肖像』。
フリックコレクション
写真では見たことがあったが、実物は写真からは想像できないぐらい素晴らしいもの。展示の仕方にも工夫があり、個々の作品に、近距離からスポットライトを直接当てている。絵画の保存という観点では、もしかしたら危険な照明手法かもしれないが、実際目の当たりにすると、このスポットライトが実に効いている。

ティツィアーノのこの作品には、ちょうどモデルの男性の顔にスポットライトが一番強くあたり、ヴェネツィア派画家の宝石のような色彩を輝かせていた。

写真ではわからないが、遠くを見つめる、半ば夢見るような彼のまなざしが実にロマンチックなのだ。

ちょうど同年代に描かれたフィレンツェ派のレオナルドの『白テンを抱く貴婦人』(1485-1490年、所蔵はポーランド、クラクフのツァルトリスキー美術館)と比較してみると…
レオナルド
何かに驚いて身を起こした白テンを貴婦人がぎゅっと押さえていることから考えても、この女性はふいに部屋に入ってきた「誰か」に目をやっているよう。

対して、ティツィアーノが描いた青年は、どこか遠く――おそらくは、光の入ってくる窓の外――を見つめているように思える。視線の先にあるのは、「誰か」ではなく、「どこか」。

ヴェネツィアの裕福な青年だろうから、その邸宅の窓の向こうには、眺めのいいラグーナ(潟)が広がっているのかもしれない。そこには遠くへ行く船が浮かんでいるのかもしれない。痩せ気味の青年は、それほど若くはない。といって、年でもない。青春を終えかけた男性が心に秘めた「ここではないどこか」への消せない憧憬。そんなものを秘めた視線のように見える。青年が屈強でないがゆえに、その印象はなおさら強まる。

ふわふわした豪華な毛皮、硬い剣の柄、ざらっとした皮革の手袋の質感も実にリアル。

メトロポリタンにもティツィアーノの類似の肖像画がある。
ティツィアーノ肖像画
だが、フリック・コレクションの肖像画のほうが、より視線が何かを物語り、肌や毛皮や剣といった異なるモチーフの質感もより生き生きとしている。

フリック・コレクションは故人の遺言により門外不出。実物を見たいと思ったら、NYのこの邸宅に足を運ぶしかない。

その価値は十分にある。

例によって、日本人はとても少なく、邸宅内では1人も会わなかった。そもそもアジア系の観光客が来ていない。知る人ぞ知る美術館なのだろうか。だが、白人の見学者は非常に多かった。


ティツィアーノと言えば、『ウルビーノのヴィーナス』(16世紀。所蔵はフィレンツェのウフィッツィ美術館)のように豊穣な女性美のイメージが強かった。
ティツィアーノヴィーナス

このウルビーノのヴィーナスはゴヤの『裸のマハ』(1797-1800年。所蔵はマドリッドのプラド美術館)の源流とも言われている。
裸のマハ

ティツィアーノの肖像画に関しては、レンブラントに影響を与えたということぐらいしか知識としてなかったのだが、『赤い帽子の男の肖像』で、これまでに見たティツィアーノ作品の中で最高の感動を味わった。

こうした思いがけない感動との出会いこそ、美術館見学の醍醐味。見る側にも心の余裕がないと、こうした出会いは起こらない。だがら、あまり1日にいくつも見て回らないことが、感動するための秘訣かもしれない。

そこにあるとあらかじめ知っているお目当ての有名作品を、ただ確認しに行くだけではつまらない。予想もしなかった新たな出会いがあってこそ、美術鑑賞の歓びは高まる。そういう意味でも、行ってよかった、フリック・コレクション!

フリック・コレクション一の美女
こんな美女もいた。フリック・コレクション一の美女と認定(笑)。

ティツィアーノの肖像画にある精神的深みは感じられなかったが、肌のつややかな美しさなど、後のルノワールに通じる魅力があった。










最終更新日  2009.06.29 12:28:12
2009.06.27
メトロポリタン歌劇場でバレエ『ジゼル』を見た。

NYのこのオペラハウスはとにかく、劇場自体も大味で、オケも大味という印象が強いのだが、今回はダンサーの超絶技巧ぶり+信じられないほど卓越した感情表現に度肝を抜かれた。

主役のジゼルを踊ったのは、ロシア出身のディアナ・ヴィシニョーワ(Diana Vishneva)。数々のスターダンサーを輩出してきた「世界最高のバレエ学校」ワガノワ・バレエ・アカデミーに学び、アカデミーの長い歴史の中でも最高峰の才能と賞賛された天才バレリーナで、現在はキーロフ・バレエとアメリカン・バレエ・シアターの両方でプリマを務める。

相手役のアルブレヒトにはアンヘル・コレーラ(Angel Corella)。こちらの動画からもわかるように、非常にたくましく、男性的で、しかも技術のしっかりしたダンサー。しばしばヴィシニョーワのパートナーを務めているそうで、息もぴったり。最後に百合の花を抱いて、ジゼルの墓を詣でるところは、ただ歩いているだけで、雰囲気があり、美しかった。

しかし、今回の公演は、何と言ってもディアナ・ヴィシニョーワのもの。日本では、たとえばシルヴィ・ギエムほどのネームバリューはないと思うが、いやはや、すごいバレリーナですよ。ギエムの「脚上げ」のようにバーンと目立つ技巧はないが、伝統的・統合的な意味でバレリーナに要求されるすべてをもった人。

第一幕の最後、村娘のジゼルが髪を振り乱して狂乱し、息絶える場面は、このバレエの最大の見せ場の1つ(ちなみに、この音楽はフィギュアスケートの楽曲としてもよく使われる有名なもの)だが、この場面のヴィシニョーワの表現力はもはや、人間業とは思えない。目が釘付けになって、まばたきさえ惜しく感じられた。身体の動きの流麗さや、しなやかな手足の動作、バランスの取れたポーズといった身体全体の表現に加え、腕を伸ばして、ちょっと手首を折るだけの小さな表現に至るまで、隅から隅までがすべて輝いている。

そのテクニックの上に花開く、奇跡としか思えない感情表現。狂気というのが死に至る病であるということをまざまざと見せつける。ヴィシニョーワって人は、本当は狂ってる人なんじゃないの? でなくて、なんであんなにまで真に迫った狂気を演じられるの? と全身総毛立ち、たたただ見つめるしか術がなかった。

そして、第二幕。村娘のジゼルは精霊ジゼルになって再登場する。氷のように冷たい美しさは、まさにこの世のものとは思えない。第一幕の村娘と同じ人間が演じているということを、にわかには信じがたいほど。微動だにしないポーズのまま、ふわりとリフトされたときは体重さえないように見えた。そして、その怜悧な肉体のどこかに残っている人間的な恋情。第二幕の解釈はいくつかあるが、ヴィシニョーワ版ジゼルは間違いなく、アルブレヒトを守っていた。

身体を使って表現する芸術の最高峰というのがどういうものか、改めて確認した。

このところバレエ鑑賞から遠ざかっていて、フィギュアスケートばかり見ていた。パリに行ったときは、オペラ・ガルニエで、ベジャールとプティのバレエが上演されていたのだが、疲労に負けて直アタックしなかった(チケットがなくても、当日開演前に現場に行けば、案外なんとかなってしまうものなのだ)。今から考えれば、やはり見るべきだった。

フィギュアスケートの世界は、振付の劣化がはなはだしい。最近はすっかりチャンチャン拍手の「大衆芸能化」し、ちょっと上半身や腕を小器用に動かしたり、切なげに目を閉じたりニヤニヤ笑いを浮かべたりすると、「表現力バツグン」だとか「バレエ的で芸術性が高い」などと囃し立てられる。全然違いますよ、超一流のバレリーナの表現は。

そして意味不明の点数を出すジャッジ。あまりのデタラメぶりにとうとう荒川静香も苦言を呈した(こちらの記事参照)。ここでの批判は主にGOE(エレメンツの実行に対する加点・減点)だが、Mizumizuに言わせれば、演技構成点(PCS)もハチャメチャ。さらに付け加えると、ヨーロッパのコーチからは技術審判(テクニカル・パネル)の判定するレベル認定にも疑いの目が向けられている(今季ルール改正で、演技審判の裁量権が拡大されたのも、こうした背景がある)。

フィギュアスケートの演技構成点の「振付」「音楽の解釈」と言ったジャッジに、バレエ関係者など、フィギュア以外の専門家を入れるべきだという声もあるが、どのみち、お金がなくて困ってるISUにそんなことができるワケがない。それよりまず、ジャッジがこうした身体全体で表現する、「表現芸術の真骨頂」を理解すべきじゃないだろうか。

あ、フィギュアのジャッジはあまりにビンボーで、チケット代の高い超一流のバレエなんか見に行けないって? そうかもしれませんね。有名コーチや振付師との収入の格差は、どれほどなんでしょうね?

唯一、バレエ芸術に共通する格調高い世界を氷上で作り上げてくれるのが、やはりロシアのタラソワだが、彼女の濃密な振付にジャッジは点を出さない。完全に間違ってますね。北米とロシアの対立はフィギュアの世界では根深いが、こうやって多分に政治的思惑で、フィギュアの芸術としての可能性を抹殺してしまうつもりなのだろうか。プルシェンコはさかんにラブコールしているが、ランビエール――おそらく今、最も格調高く芸術性の高い世界を表現できるフィギュアスケーター――はやはり、オリンピックの舞台には戻ってこない気がする。

ロシア出身のフィギュアスケーターはアメリカに移住することが多いが、ロシア出身の一流のバレリーナの多くも、依然として、活動拠点にアメリカを選んでいる。アメリカはバレリーナの育成に関しては、ロシアの足元にも及ばない。ロシアで育った世界最高の果実を、世界最高の財力でもぎ取っていくというのが実情。

アメリカン・バレエ・シアターも、コールドバレエに関しては、全盛期のキーロフの足元にも及ばないと、ソ連時代にバレエ鑑賞旅行で「鉄のカーテン」の向こうに行ってた、筋金入りバレエファンのMizumizu母はややおかんむり。

『ジゼル』は主役のダンサーが日によって違うのだが、それによってチケット代が変わるというのも、いかにも実力主義のアメリカらしい。

ヴィシニョーワ&コレーラ組以上のチケット代を取るダンサーもいて、比べてみたら、また面白かったと思うのだが、短い日程で、そんなにジゼルづくしというのも… というので、今回はヴィシニョーワの世界の余韻を大切にすることにした。

席はParterreと呼ばれる2階席にしたのだが、ここは3列(3人+3人+2人)の桟敷席になっている。Mizumizuたちは最後の2人の席。一番前の列の客は早くから座っていたのだが、開演時間が近づいても、中央の席が空いたままだった。だが、チケットが売れているのはわかっているので、誰も来ないということはない。

またオペラ座の怪人のときのように、日本では想像もできないようなデカい人が来たら嫌だなあ~と思っていたのだが、「グッイ~ブニン~」と、上品に挨拶して入ってきた老紳士が、また…!

日本では両国国技館の土俵の上でしか見ないような体形のお方…

ど、どうしよう、この方が目の前に座ったら…?

と思った瞬間、連れの人が入ってきた。

老紳士の連れはアジア系(多分フィリピンだと勝手に思ってる)の青年。それほど背が高くない。

ホッ。

結局2列目の3席には、この2人しか座らなかったので、視覚がさえぎられることなく助かった。

しかし、このアジア系の青年、明らかにダンサー体型。逆三角形のたくましい上半身にピタッと吸い付くようなスケスケのシャツを着ている。胸の筋肉も盛り上がって、なんと乳首までくっきり見える。

そ、そんなにカラダのディテールをひけらかしたいのデスカ…?

下半身もジェレミー・アボットと張れるくらいの見事なライン(←この意味がスンナリ理解できたアナタは、相当のフィギュアオタ)。

きれいに筋肉をつけた褐色の腕なんか、まったく毛がなくて、オイルでも塗ったようにつやつやで(いや、マジで塗っていたのかも)、思わず、「ちょっとさわらせていただけませんか?」と言いたくなった(←ヘンタイ)。

これでイケメンだったら、バレエなどそっちのけで彼を鑑賞したかも(←ヘンタイ)。有り難いことに、というべきか、残念ながら、というべきか、天は二物を与えなかったようで…

「なんで男同士でバレエなんて見に来るのぉ? しかもジゼルなんか…」
と素直すぎるMizumizu母の疑問。

確かに。これが、スパルタカスならわかる気もするけど。
ま、カラスの勝手だわな。






最終更新日  2009.06.27 21:24:15
2009.06.26
今、ブロードウェイでもっともチケット入手が難しいと言われているのがWicked(ウィキッド)。

偶然にもMizumizuは、この(アメリカ人には)大人気のミュージカルのディスカウント・チケットを入手できた。

ブロードウェイのディスカウント・チケットといえば、タイムズスクエア広場にあるTKTSブースが有名。しかし、「シカゴ」のように長くやってる作品なら、わりあいここでチケット入手できるのだが、旬の人気ミュージカルはほとんど無理。

Mizumizuもブース(タイムズスクエア広場に設置された大きな階段の裏なので、すぐわかる)に行ってみたが、窓口が増えたせいか行列はたいしたことなく、15分ほど並べば順番が来た。だが、案外お目当てのチケットがないらしく、買わないで窓口を離れる人も多い。Mizumizuもそうだった。

TKTSでチケットがなくても、もちろん正規の値段を出せば劇場の窓口(ボックスオフィス)で買える。

Wicked(ウィキッド)は、できれば見たいな、ぐらいで公演開始1時間ぐらい前にガーシュウィン劇場(Gershwin Theatre)に行ってみた。当日券を求めて待ってる人が10人ほどいたが、窓口はまだ開いていなかった。

ガーシュウィン劇場は、ブロードウェイの劇場の中ではりっぱな部類に入る。映画『ベンジャミン・バトン』でベンジャミン役のブラッド・ピットが、ケイト・ブランシェット演じるデイジーの公演に花束持ってやってくるのがこの劇場。

行列の整理をしてる黒人のおじさんによると、Wickedの当日券は、公演開始40分ぐらい前から窓口販売が始まるという話だった。「当日券、このぐらいの人数なら買えるの?」と、聞いてみたのだが、「たぶん」と、やや曖昧な表情。

それで公演20分前ぐらいにMizumizu母と再び来てみると、行列がのびている。すぐ前にいたテキサスから来たという気さくなブロンド美人が、

「もしかしたら、買えないかもね~」
と話しかけてきた。
「当日券って何枚ぐらいあるか、知ってる?」
「わからない。彼(←行列の整理をしてる黒人のおじさん)に聞いたら、とにかくトライしてみろって」

Mizumizuがさっき聞いたときと同様、やや曖昧な返答だったよう。

テキサス美人は、さっき買ったというWickedのジグソーパズル風のポスターを取り出して、
「見て見て、これたった25ドルよぉ。安いでしょ」
などと自慢する。

「日本から来たの? 何時間ぐらいかかるの? NYでは何を見た? 自由の女神には行った?」
と、完全におのぼりさん同士の会話に花が咲いた。

当日券販売はなかなか始まらず、やっと始まったかと思ったら、みんなノンビリ席を選んだり、クレジットカードで支払ったりしていて、1人が買うのに時間がかかるのなんのって。

しかし、イライラしてるのは日本人のMizumizuだけ。みんな、とってもお行儀よく、辛抱強く前の人が買い終わるのを待っている。

とうとう開演10分前を切った。

なのに窓口のお兄さんは、なんだかますますノンビリして、すぐに次を呼ばず、客を待たせてる。

どういうこっちゃね?

実は、あとから考えると、ここで時間調整をしていたらしい。

で、呼ばれたと思ったら、

「席はXXとXX。合わせてXXドル。キャッシュだけ」
と宣言された。

ちょっと前まで席は選べて、クレジットカードでみんな買ってたのに、なぜ?

変に思ったのだが、もう開演まで5分を切っている。慌ててなけなしのキャッシュを支払い(あまり現金は持ち歩かないようにしていたのだ。おかげでギリギリだったが、なんとか足りた)、席についてみて、なぞが解けた。

後ろとはいえ、1階席なのに、50ドルちょっと。この値段は「ありえない」。

ウワサは聞いていた。開演10分前になると、劇場窓口でもディスカウント・チケットを売ると。

だから、現金のみだったというわけだ。
だから、行列整理のおじさんは、曖昧なことしか言わなかったわけだ。

Mizumizuの後ろにもまだ10人ぐらい待っていて、当然開演にちょっと間に合わない人もでたが、だいたいはめでたくディスカウント・チケットをゲットしたのではないだろうか。

この方法、案外お奨めかも。

ただ、順番が早いと、正規料金で当日券を買わなければいけなくなるし、あまり遅く来たら、今度は完全にソールドアウトになってしまうかもしれず、ディスカウント・チケットを入手できるという保証はない。

運次第ということだ。
もちろん、確実に日本でチケットを押さえておこうと思ったら、Ticketmasterというネット販売がある。このネット販売、入力するのに時間制限があって、けっこうせわしない。ここで買ったチケットは、公演当日の30分前でないと引き換えてくれないという話。ただ、信頼性は高いよう。トラブった(買ったはずなのに引き換えてくれなかったとか)という話は聞かない。アメリカはその点は、しっかりしている。


さてさて、ブロードウェイで今人気ナンバーワン(?)のWickedは…

とにかく、客席の盛り上がり方が凄い。
音楽が始まると、幕が上がる前から、ヤンヤの喝采に口笛。

そして、とにかく、最初から最後まで、バカ受け

みんな、何がそんなにおかしいの? ってぐらい、受けまくりの笑いまくり。単純なアメリカン・ギャグなのだが、観客が一緒になって盛り上げるの何のって…

信じられませんでした、この反応。

ギャグのセンスって、国によってこうも違うのかと、呆然。

日本で劇団四季のウィキッドは、わりあい、マジメに宣伝されていたと思うのだが…

大阪公演のプロモーションビデオはこちら

公演の取材をしたテレビ番組はこちら

コアな四季版ウィケッドのファンの方のブログはこちら

テレビ番組でもちょっと紹介しているが、機械仕掛けの大掛かりな装置は、いかにもアメリカ的で、見ていて楽しめた。歌唱も演技もうまかった。

けど…

劇団四季のウィキッドには行ってないので、推測の域を出ないが、日本でブロードウェイのようにいちいち大爆笑の大受けになってるとは思えない。みんなところどころでクスッと笑いながら、マジメに見てるのではなかろうか。アメリカ人みたいにゲラゲラ笑いまくるのはでなく、どちらかというとじ~んと感動してるんじゃないかと思う。

結論:Wickedはアメリカ人には、徹底的に受けまくる、基本、アメリカ人向けの作品。

何の予備知識もなしに見るなら、ふつーの日本人には「オペラ座の怪人」のほうが入りやすいと思います。











最終更新日  2009.06.26 18:07:28
2009.06.25
今日NHKのBSで21時から、映画『オペラ座の怪人』(2004年、アンドリュー・ロイド=ウェバー版)があるらしい。

この映画については6月5日のエントリーで書いたが、飽きもせず、またもブロードウェイで舞台を見てきた。

ブロードウェイでは、『オペラ座の怪人』の怪人が最長ロングラン作品になったらしく、マジェスティック劇場(Majestic Theatre)には、誇らしげにBroadway's Longest Running Musical という看板が掲げられていた。

もちろん、客席もほぼ満員。開場前には、隣の劇場にまで観客の列が伸びていて驚いた。みんなチケットをもっているのだが、小さな劇場で入り口も狭いので、開場時に行列になってしまうのだ。もっと早く劇場を開けて座らせればいいと思うのだが、ああやって行列を作るのも、1つの宣伝かもしれない。

ブロードウェイのマジェスティック劇場では、1階席(オーケストラ)、2階席(メゾネット)、それに「とにかく上のほうの席」で見たことになるが、座る席によっても、印象が違い、面白い。何度見ても飽きることがなく、また見てもいいなと思わせる、いろいろな意味で素晴らしいミュージカルだ。

席は、今回は1階席の前のほうだったので、舞台の臨場感がたっぷりと味わえた。目の前でシャンデリアが浮上したり、落下したりするので、迫力も満点。だが、その分、舞台の「仕掛け」もよく見えてしまい、幻想的な雰囲気には少し欠ける。それと、1階の前のほうだと、案外音が割れる。

もともとあまり音響のいい劇場ではないのだが、2階席のほうが音はまとまって、きれいに聞こえるかもしれない。

それに、これは運不運もあるが、今回前の席に座った男性が、ものすごい「大男」だった。マジェスティックは、前と後ろの席の間隔が非常に狭い、観客詰め込み型の劇場で、1階席の客席の高低差もあまりないから、大きな人が前に座ってしまうと、舞台の一部が盲点のように欠けてしまう。

これはとってもストレス。だが、こういう場合は運が悪かったと諦めるしかない。2階席の一番前なら、この不運がないので、総合的に考えると、2階席一番前の中央がベストの席かもしれない(値段は、1階席のほうが高い)。もちろん、2階のこの席は人気があるので、かなり前からでないと取れないと思う。

上の方の安い席も、案外いい。というのは、舞台から遠いので、たとえば、ファントムがクリスティーヌの楽屋の鏡に現れる場面など、「クリスティーヌが鏡に映っているのに、どうしてファントムの顔も見えるんだろう?」と不思議に思える。1階席の近くから見ると、何のことはない、鏡の一部に穴があいていて、その向こうにファントムが立っているという仕掛けだとタネがわかってしまう。

舞台にスモークが流れ、そこに舟が浮いている水面の演出も、本当に水の上を進んでいくように見えるのは、遠くの席のほう。近い席だと、舞台の床が見えてしまい、「ああ、スモーク流してるのね」と思ってしまう。幻想的な雰囲気を味わうなら、逆に舞台から遠い席のほうがいい。

だが、舞台に近い席は、人の細かい動きや衣装の細部が手に取るようにわかる。その生の魅力は時間を忘れさせてくれるもの。やはり値段が高いだけのことはある。このように見る場所によって違う味わいが生まれるのも、舞台の面白いところだ。

もう何度も見ているので、今回は物語に入り込むというより、「どうしてこのミュージカルが、ここまで受けるのか」という視点で見た。

ここまでヒットした理由をまとめると、「ウェバーの音楽が飛びぬけている」「演じるミュージカル俳優が素晴らしい」「舞台装置を含めた、演出が実にうまい」「物語がわかりやすい(大衆が感情移入しやすい)」ということだろうと思う。

音楽の素晴らしさは、いまさら言うまでもないと思う。インパクトのあるファントムのテーマThe Phantom of the Opera に始まり、ロマンティックなThink of Me、幻想的で妖しげなThe Music of the Night、誘惑の二重唱The Point of No Return… どれもこれも名曲ぞろい。

ミュージカル俳優の素晴らしさは、見るたびに感嘆する。最初に見たときは、ファントム役の歌唱が飛びぬけていた印象があったのだが、時を重ねて熟成するうち、すべての役者のレベルが上がってきたようだ。

もちろん、クリスティーヌ(Jennifer Hope Wills)とファントム(Howard McGillin)は声の表現力も文句なし。クリスティーヌが、カルロッタの代役に抜擢され、テストで恐る恐る歌い出すところから、舞台に立って歌っているところまでは、途切れなく続くのだが、最初はかなり緊張し、ヘタだったのが、見る見る自信に満ちてうまくなっていく。それを1つの歌の中で表現するのだが、もう圧巻としかいいようがない。

今回は普通はあまり話題にならない脇役、たとえば劇場支配人役の、年齢から言えば初老といえる俳優の声の素晴らしさ、動きの軽やかさに感動した。カネ勘定しなければいけない経営者特有の世俗的な「欲」を、ユーモラスに嫌味なく表現している。

デブなオペラ男性歌手ピアンジ氏が、実際に飛び切り美声のテノールだったりする(Evan Harrington氏)。いかにもオペラチックな、ちょっと浮世離れしたイタリア人キャラクターを非常にうまく演じていて、笑えた。

脇役の誰もかれもが素晴らしく(ただ、ラウル役のGeoff Packardだけがちょっと… ルックス優先の人選かな、と… 母音の発音がモロにアメリカ人なのも、もちろんワザとやってるんだろうけど、好みに合わず)、その役の性格をうまく表現してるのには、本当に驚く。日本では名古屋で劇団四季の舞台公演が始まるということだが、こうした点ではどうだろうか。

大掛かりな舞台演出――たとえば、シャンデリアの落下――は、最初に観客にこのミュージカルを「見たい」と思わせる目玉だが、それだけではなく、あらゆる場面で、この作品は演出が実によく考えられている。

マジェスティック劇場自体は、それほど大きな舞台ではない。それがオペラ座の舞台になったり、屋上になったり、地下になったりする。舞台という制限を逆手に取った、見事な演出。これは映画版と比べてみると、また面白いのだ。

映画では、「舞台ではできないことをやろう」としてる。たとえば、オープニングのオークションの場面。ちょうどこちらに映画のオープニングがあるが、見ていただくとわかるとおり、シャンデリアの浮上とともに、蜘蛛の巣の張った、モノクロームの劇場内部が華やかな色を取り戻し、時間が過去に戻っていく。

こうした演出は舞台ではできない。だが、シャンデリアが浮上して、暗いオークションの場面から、きらびやかな出し物を演じている明るい舞台へと転換するだけで、劇場では十分なのだ。

また、クリスティーヌが鏡を通過して、ファントムにオペラ座の地下へ導かれるシーン。映画では、「鏡の向こうの世界」がつぶさに映し出されるが(動画はこちら)、舞台では、ファントムとクリスティーヌが、まず楽屋のある舞台の床を横切り、すぐに舞台の上部から出てきて通路を横切り(まるで瞬間移動したように見えるが、つまりは別人が同じ衣装で出てきている)、またすぐにやや下のほうの通路を横切り、最後に舞台の床を横切って、床にあいた穴からさらに下に下りて姿を消す。

そうやって、「オペラ座の地下の空間へ移動している」2人を演出するのだ。映画のような人の手の燭台も、石の階段も、馬も出てこないが、別の意味で、スピーディな息詰まる展開になっている。

映画での「仮面舞踏会」のシーン(動画はこちら)が、扇子を印象的に使い、パントマイムの動きを取り入れた、謎めいたダンスシーンになっているのは、すでに過去のエントリーで述べたが、舞台のこのシーンでの主役は、やはり大階段。舞台の大半を占領している大階段ですべてが展開する。映画のような目まぐるしい動きはないが、舞台ならではの、どっしりした、迫力ある演出が実に壮大。

一番違うのは、やはり最大の見せ場の1つである、Point of No Returnかもしれない(映画の動画はこちら)。

映画では、動画でおわかりのように、ファントムは最初から仮面をつけて、つまり半分顔を見せて現れ、男の色気ムンムンでクリスティーヌに迫る。クリスティーヌもそれに呼応するように、挑発的なモーションをファントムにかけて歌う。

2人のただならぬ雰囲気を見守る人々、脇で踊るダンサー、そしてラウルの涙と、細かくもテンコ盛りの演出になっているのだが、舞台では、この場面にはファントムとクリスティーヌしか出てこない。非常にシンプルだ。

ファントムは顔まですっぽり黒頭巾で覆って舞台に現れ、謎めいた陰鬱な雰囲気で中央のベンチに腰掛け、全身黒づくめのまま、じっとうつむいている。そして、最初のうちクリスティーヌは完全に「舞台での自分の役」を、それも自信をもって演じているのだが、途中で頭巾の下の仮面に触れて、それがファントムであると気づき、戸惑い、怯え始める。このクリスティーヌの感情の変化は、映画でのこの場面の解釈と相当違って面白い。

そして、ラスト。映画はかなり冗長で、ファントムが姿を消すのは鏡の向こうという設定(このあたりにも、ジャン・コクトーの影響を強く感じる)だが、舞台では、ちょっとしたマジックショーのように、椅子に腰掛けて布をかぶったファントムが、追っ手が来て、布を剥ぐと姿を消して仮面だけになっているという演出。斜めに当たったライトが、くっきりとファントムの仮面を浮かび上がらせる、舞台ならではの印象的な終わりになっている。

前回ブロードウェイで『オペラ座の怪人』を見たときは、『レ・ミゼラブル』もやっていた。個人的には後者のほうが好みだったのだが、結局『オペラ座の怪人』のほうに人気という面では軍配があがったようだ。ミュージカルはやはり、大衆のためのエンターテイメントだから、続いてナンボのところがある。

『オペラ座の怪人』のほうが『レ・ミゼラブル』より通俗的だが、その通俗性ゆえに、多くの人々の感動を誘うのだろうと思う。1人の女性に2人の男性、しかも最後にヒロインは、善良な美男と結ばれるという甘ったるい筋書き。だが、そこがいいのだ。だからこそ、選ばれなかった醜い罪人ファントムの孤独と悲しみが、人々の胸にストレートに迫ってくる。

しかも映画と舞台と、違った魅力があり、どちらも映画は映画として、舞台は舞台として非常によくできている。劇団四季の舞台公演が、名古屋で始まるらしい。予告の動画はこちら

映画を見てから舞台を見てもいいし、舞台を見てから映画を見てもいい。

『オペラ座の怪人』は間違いなく、20世紀を代表するミュージカルの大傑作。
















最終更新日  2009.06.25 23:34:46
2009.06.22
芸術というのは所詮は嗜好品なので、奇妙なほど偏愛する作品もあるし、どれほど世間が評価しようとサッパリ興味のわかない作品もある。たとえて言えば、ドリアンが好きで好きでたまらないとか、ドリアンだけはどうしても食べる気になれないとか、そういった嗜好と同じことだろう。

こうした好き嫌いたぶんに生理的なもので、ドリアンという果物自体がもっている価値とはかかわりがない。受け付けない人に向かって、無理に素晴らしい素晴らしいと押し付けるのもおかしいし、といって、こんなもののどこがいいのかと愛好する人を白眼視するのも愚かなことだ。

Mizumizuの場合は、どうにもダメなのがエゴン・シーレ。逆に偏愛しているのがギュスターヴ・モロー。

生まれて初めて行ったパリで、まず足を運んだのはルーブルではなく、ギュスターヴ・モロー美術館だった。モローを愛好するきっかけになったのが、中学生ぐらのときに図版で見た「オイディプスとスフィンクス」。

オイディプスとスフィンクス

NYのメトロポリタン美術館所蔵だということを、長いこと忘れていて、パリのギュスターヴ・モロー美術館に行ったとき、習作らしきものがあるのに、なぜ図版で見た完成品がないのかと、いぶかしく思った。

それだけに、メトロポリタン美術館で、ふいにこの作品に出くわしたときは、長いながい空白のあと、初恋の人に思いがけず出会ったような衝撃を覚えた。

モローは、このきわめて古典的に整った構図の作品を完成させるまでに、何度も習作を繰り返している。モロー美術館には、全体のデッサンや、細部のディテール、それにほとんど完成に近い油絵などが展示されていた。

完成作品だけが、海を越えてアメリカに行ってしまったということだ。このように芸術作品が世界中に散らばるのは、当然と言えば当然のことなのだが、ある意味でとても残念なこと。

というのは、まず第一に、大きな美術館でモローの作品がたった1つ、他の作品に交じって展示されていると、インパクトが弱くなってしまうからだ。

澁澤龍彦は、「モローのスフィンクスは猛々しい『宿命の女』のヴァリエーション、青年オイディプスはむしろ『美しい無力』を代表する者でしかない」と書いたが、つまりは、男性が女性という異なった性に抱く、根源的な畏怖の念、いやむしろ得体の知れない恐怖感に近い感情が反映されているように思う。

そもそも「宿命の女」自体、男性が作り上げた空想上の女性なのだから。

物理的な意味では至近距離から、見詰め合う男女の間には、親密さや調和を求める柔らかな感情ではなく、対立から来る緊張感とある種の「遠さ」がある。ギリシア神話をモチーフにしつつ、男と女という異なった性の間に普遍的に横たわる、縮めることのできない心理的な距離感を表しているように思う。

スフィンクスはオイディプスに謎を掛け、オイディプスがそれを解いたことで自死を遂げるが、その実彼女は、彼がその後辿る悲劇的な運命を知っているようでもある。肉食獣の身体に猛禽類の羽。オイディプスの身体に爪を立ててはりついたケモノのスフィンクスは、顔だけが美貌の若い女性で、大きく見開いた目と舌を出しかけているような唇は、猛々しいというだけでなく、青年を嘲っているようでもある。

対してオイディプスは、彫刻のように均整の取れた肉体に、人形のように端整な顔立ちをもつが、小さなスフィンクスの全身から漂うまがまがしさと対比したとき、この背の高い半裸の青年は、存在そのものがあまりにも脆弱なのだ。

「オイディプスとスフィンクス」と近似したテーマをもつモローの作品に、オルセー所蔵の「オルフェウス(死せるオルフェウスの首を抱くトラキアの娘)」がある。
オルフェウスとトラキアの娘
ここに描かれているのも、男と女の間にある埋まることのない隔たりだ。オルフェウスは、妻エウリュディケを永遠に失ったあと、言い寄る女性たちに見向きもせず、それを恨まれて祭りの狂乱騒ぎの中、八つ裂きにされ、ヘブロス川に投げ捨てられてしまう。

竪琴とともに流れ着いた彼の首をトラキアの若い娘が拾い上げる。モローの描いた青白いオルフェウスは、無言のまま接吻を待っているかのよう。目を伏せたトラキアの娘の静やかな優美さは、身の毛がよだつほど。そこにあるのは、悼みなのか、哀切なのか、はたまた充足なのか――まるで能面のように見る者によってその感情を幾重にも映し出す。

この2つが並べて展示されれば、双方のもつ根源的なテーマが共鳴しあい、より大きな衝撃となって見る者に響くはずだ。

ギリシア神話に想を得た、極めて古典的でリアルな描写でありながら、描かれているのは、ありうべからざる幻想。それでいて根底にあるテーマは、男と女が存在する限り不変のものなのだ。

それがパリとニューヨークに遠く隔てられて展示されている。他の作品にまぎれて、ヘタをしたら見逃してしまいそう。

もう1つ残念だと思う理由は、たとえば「オイディプスとスフィンクス」をモロー美術館に飾り、作品の楽屋裏とも言えるエチュード群と一緒に見ることができれば、芸術家が1つの作品を仕上げるまでに、いかに試行錯誤を繰り返したかが手に取るようにわかるだろうと思うからだ。

こうした課程を知る必要はないと思う人もいるかもしれないが、1つの名作が出来るまでに、1人の人間がいかに苦心し、紆余曲折を経たかを知るということは、単なる鑑賞者にとっても、表現を志す人間にとっても、意義深いことではなかろうか。

モローはまるで憑かれたように、「オイディプスとスフィンクス」に取り組んでいる。だが、エチュード群だけが残され、完成した作品が海の向こうに行ってしまったことで、ギュスターブ・モロー美術館を訪れた見学者は、謎解きの途中で終わってしまったミステリーを読まされているような気分になるのだ。

閑話休題。

美術館の楽しみは、単にお目当ての作品を実際に見ることだけではない。これまで知らなかった作品に、いきなり魂を鷲づかみにされたようになるのも、たとえようもなく楽しい体験だ。

今回のMizumizuの場合は、これ。

眠るエロス

ヘレニズム期のブロンズ像「眠るエロス(キューピッド)」。小デブなキューピッド君の、リラックスしすぎのあんまりな寝姿。日本語の「エロス」の語感と離れすぎでしょ。

お腹の贅肉の流れ方や、太ももの肉の張り具合。デブいから足が開いちゃってる。そしてなぜかきゅっと立った、短く太い足の親指のかわいらしさ。警戒心ゼロのあどけない顔の表情。いかにも、「あ~、疲れちゃったな。ちょっと休もうっと」と横になり、そのまま眠り込んでしまったといわんばかりポーズ。

あまりによくできていて、思わず、

「もしもしキューピッド君、何百年寝てれば気が済むの? そろそろ起きなよ」

と話しかけたくなった。














最終更新日  2009.06.25 17:10:43
2009.06.21
メトロポリタン美術館は、とにかくデカい。開館と同時に行って、「さ~、今日は1日かけてゆっくり見るぞ~」と意気込んでいたMizumizuも、入館して10分でいきなり疲労困憊。

大きな美術館は、どうしてこんなに疲れるのだろう?

美術品それぞれにエネルギーがあり、そのエネルギーが大きければ大きいほど、つまり作り手の魂が込められている作品数が膨大なほど、こちらのエネルギーが吸い取られるような気がする。

メトロポリタン美術館に行くなら、やはり絶対に見たいものを事前にピックアップして、エントランスのインフォメーションで(日本人がいます)、どこにあるのかしっかり聞いてから見学を開始すべき。

メトロポリタンの見取り図はこちら

もっとも人気の高い2階のヨーロッパ絵画コーナーについては、展示されている画家の名前と部屋番号が明記された、さらに詳しい見取り図がインフォメーションでもらえるから、これは絶対に入手しよう。

見学者の最大の関心は、やはり印象派を中心とするヨーロッパ絵画にあると思うのだが、あまり日本人になじみがなくても、美術史上重要な作品というのがあるので、今日はそれをご紹介。

まずは、1階のエジプト美術から。
エジプト
デントゥール神殿(紀元前15世紀)。運河開通にともない、水底に沈むところだった遺跡を移送・修復・再現したもの。

これは誰でも見るでしょうが、この神殿の間に至る前の展示室にあるのが、
イエロー・ジャスパー
「女王の頭部断片」(紀元前1417-1379)

制作年代の古さもさることながら、この素材が貴重。イエロー・ジャスパーでできている。ジャスパーとは碧玉と訳されるが、要は石英(クオーツ)の集合体。

表面がまるで鏡のように磨き上げられている。まるっきり現代のピアノラッカー仕上げ。きらきらと照明を反射する、つややかな肌の質感、肉感的な厚い唇。3400年前のモノってマジですか? 不思議な魔力が宿っているよう。

小さな作品なので、見逃さないように。わからなくなったら、「イエロー・ジャスパー、クイーン・ヘッド」などの単語を並べれば、そこらに立ってる守衛のおじさんたちが教えてくれるでしょう。

1階の奥にある「ロバート・リーマン・コレクション」。ここは隠れた書斎のような雰囲気で、非常に落ち着ける。ふかふかのソファが置いてあるのも、メトロポリタン美術館では珍しい。
アングル
その中でもイチオシなのが、アングル作「ブロイ公妃」。

これまた布の質感が圧巻。もちろん、まるで陶器のような肌の美しさも。最近は図版の写真技術が素晴らしいので、古い絵だと、実物と図版がそれほど違わないという印象を受けることも多いが、この作品に関しては、「やっぱり写真とは違う」と驚くこと間違いなし。

メトロポリタン美術館はフラッシュをたかなければ、写真はOKです。もちろん、うまくは撮れませんが。

2階のヨーロッパ絵画コーナーで、日本人には人気がないけれど、是非見て欲しいもの。それは、ヤン・ファン・エイク(Jan Van Eyck)の「キリストの磔刑および最後の審判」(15世紀)。
磔刑と最後の審判

ファン・エイクはフランドルの天才画家。ちょうどイタリアでレオナルド・ダ・ヴィンチが生まれる数年前に亡くなっている。

ファン・エイクを初めとするこのころの北方画家は、イタリアのルネサンス画家にも影響を与えている。立場が明確に逆転したのは、16世紀に入ってから。

ファン・エイクの他の作品については、こちらのサイトが詳しい。

メトロポリタンのこの作品は、左がキリスト磔刑図、右が最後の審判図になっている。

まず注目すべきは、そのリアリズム。画に登場する人物すべてが、ほとんど同じ緻密さで描きこまれている。事実、ファン・エイクは「リアリズムの先駆者」とも言われている。

左側の磔刑図は現実感のある舞台設定。遠景にある高い山は、フランドル地方にはないもの。つまり、ファン・エイクは遠方のアルプス(恐らく)の景色を、作品に忍び込ませているということ。これは後のフランドル画家ブリューゲル(父)の作品にも見られるアプローチ。

スリムなキリストの顔は土気色で、まさに人間の死そのもの。嘆き悲しむマグダラのマリアのポーズも真に迫っている。聖母マリアのほうは、青い衣につつまれて、キリストと同じように土気色の顔は、ほとんど見えない。まるでキリストとともに死んでしまったかのよう。

風景画の要素を取り入れた磔刑図に対して、右の最後の審判の図は、イマドキのCGを使った映像のようにファンタスティック。特に地獄に落ちた罪人と怪物の描写は恐怖映画のよう。中世末期の画家の卓越した想像力を感じさせる。

リアリズムとファンタジーが織り成す、硬直した一瞬――ヒエロニムス・ボッシュ(ボス)もピーター・ブリューゲルも、いやフェルメールだって、ヤン・ファン・エイクの存在なしには考えられない。まさしく、ネーデルランド絵画の創始者の名にふさわしい。

日本人に特に大人気の17世紀のオランダ画家フェルメール。
フェルメール
フェルメールの間には、日本人がいっぱい。今回のNYで一番日本人に会ったのが、メトロポリタン美術館のフェルメール展示室ではなかろうか。

こうした風俗画のほかに、「信仰の寓意」などもあるが、フェルメールの寓意画は、あからさますぎて、あまり面白くない。中世末期の画家がもっていた自由な想像力・発想力がフェルメールの絵からは感じられない。

一般には、教会の権威に縛られ、自由がなかったかのように思われている、職人としての中世画家が、現代のファンタジー映画に出てくるようなキャラクターを奔放に登場させているのは、本当に興味深い。そして、彼らは必ず、人間のダークな精神――妄想とか、妄執とか、迷信とか、悪習といった――に繋がっている。

たとえば、中世末期、ルネサンス初期の画家ヒエロニムス・ボッシュ(ボス)は、レオナルド・ダ・ヴィンチとほとんど生きた時代が同じ。にもかかわらず、まったく違った精神世界に生きている。

ボッシュの描く怪奇な世界は、今、さまざまな心の病にとらわれて先に進めなくなっている多くの現代人の精神の内面世界を映したようにも見えるのだ。

ボッシュ
怪奇なキャラクターが跳ね回るボッシュ作品の一部。こうした描写を中世的な迷信と決め付けるのは早計だと思う。実体のない恐怖や不安に絡め取られて身動きができないでいるという意味では、多くの現代人も同じなのだ。

哲学や科学よりも宗教に多くの人が救いを求めている現代――やはり人間というのは、それほど合理的・理知的には生きられない。ピーター・ブリューゲルもそうだが、この時代の北方画家は、イタリアルネサンスの画家とは違った、宗教観にもとづく伝統的なアプローチで、人間の本質に迫っている。

その先達は、間違いなくヤン・ファン・エイク。メトロポリタンにある小さな祭壇画は、その証明なのだ。


追記:Mizumizuが行ったときは、日本館が全日クローズだった。メトロポリタンにはこれで3度行ったことになるが、日本館は1度しか見たことがない(もう1度は、確か午前中だけなどの時間制限があって、見ることができなかった)。偶然かもしれないが、インフォメーションで日本館のオープン時間を確認してから見学を始めたほうがいいかもしれない。







最終更新日  2009.06.24 13:35:44

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