【瑞泉寺】 ずいせんじ 秀吉の身内をも孫の代まで抹殺
聚楽第の落書き事件で秀吉の本心が剥き出しになりました大河ドラマ真田丸放送秀吉刀狩り令を出し方広寺建設に不満を抱いた庶民がたまたまちゃちゃが不自然にも男子出産で風刺した内容で激怒犯人が解らず警備員の番衆17人を耳鼻を剥いで磔処刑 本願寺に匿われて病死した尾藤道林の首を三成が差し出してこれ以上の人を殺めることを言上するも治まらず妻子近所の家の焼き払い60名京都六条河原で磔ねねさんが諌めても治まりませんでした 寧々さん曰く「あのひとは織田信長よりも怖かった」とその後の事件は 本日述べる事態にもなりました 豊臣家の短命と徳川家の長期維持は、身内子孫を邪魔だから排除したか、多く育んだかの形で歴史は変遷して行ったと思います。京都の佳いところばかりでなく、時には歴史上の弱者の悲哀を偲ぶことも、知っておくことが大切とも考えました。 【瑞泉寺】 (ずいせんじ) 山号 慈舟山 浄土宗禅林寺派 前関白豊臣秀次公御一族四十九宝塔菩提寺坂本龍馬の京都木屋町の寓居跡 坂本龍馬寓居の址【酢屋】(すや)と高瀬川を境にほんのそば三條通木屋町下がった位置に、人知れず菩提寺が有りました。太閤秀吉の姉「とも」の子、従弟にあたる 【秀次】 当初近江八幡43石の大名でしたが、秀吉の嫡男鶴松の幼くして死去に実子が恵まれず、秀次を養子に受け入れ後継者として、聚楽第まで建てて、関白の位まで授かってもらった処淀君との間にやや 【秀頼】 が産まれるや否や、難癖をつけて関白職を奪うばかりでなく、高野山に追放の上自刃に追い込まれました。側臣に仕えた石田三成の入れ知恵ともいわれています聚楽第も焼失(僅か8年存続)させるほどに、それだけでは気が済まず、何の罪も無い秀次に仕えた側室・侍女及びその若君4名・姫君1名も三條河原で斬首。その場に、切腹した秀次の首まで晒したという醜業は目にあるものを覚えます。天下人の用心は、肉親をも信頼出来ないで、世にも恐ろしい地獄絵を見せ付けました。後に高瀬川を開削した 【角倉了以】 が、刑場の址地とされる此処に菩提寺を建てたとあります。 記この堂の中央に安置された地蔵菩薩は、秀次公一族の処刑の際、刑場の一隅にその木像を運び込み、次々と打たれる子女達に引導を授けたと伝わる尊像です。 極楽浄土へ死者を導く 【引導地蔵尊】 として京洛の人々に今日なお崇敬されています。 寺伝では「定朝作」大河ドラマ花燃ゆの毛利のお殿様のように 戦の無い民百姓のことを思い遣る天下人であってほしかったです秀次公四十九の供養等四十九の供養等秀次の墓と四十九の供養塔 墓標 鐘の棒の漣のような響きは、悲しみを訴えているようでした。安らかに憩われるようにお祈りしました。 首塚の前に「南無阿弥陀仏」と記された鐘棒五個が鳴らすと、共鳴してカランコロンといとも悲しい音色が境内を奏でていました。堪らなく悲しみを覚えました 殉職した四十九柱絵図 秀次の首塚三條河原の刑場で四十九柱の遺体を地中に埋め,その上に高野山からの秀次の首を西向きに晒し、三條大橋を渡る人々に晒したという、寺伝が残されています。昨日の侵略による野蛮的「耳塚」と共に、一番に訴えたかった京の街の繁華街に近い,「酢屋」と【瑞泉寺】へ写真を撮りにいきました。殆ど人は、存在をご存知有りません。でも歴史で悲しい出来事は、太閤の栄華の蔭で歴然と残されていました。秀次の無念さを考え、四十九の御霊の菩提を祈ってまいりました。難を逃れた武将たちは、のちに関ヶ原の戦には、徳川方に就いたとも言われています。 布団着て寝たる姿や東山 服部 嵐雪七条大橋からの東山右がわ一段と高い山が阿弥陀が峰【頭の形】真ん中清水山【お腹を突き出したような形】左側の低い山は高台山【足元】明日はねねさんの高台寺へ、旦那が高いところなら私は地中深く低いところで、旦那をそっと見守りたいと太閤贔屓の方 少しでも人間らしい人柄も見つけたいです多くの犠牲者を悼みたいです