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月のひかり★の部屋

月のひかり★の部屋

小説1 白い月夜

白い月夜


家庭教師センターと言う名前のわりには、ほんの猫の額程のささやかな所なんだなと言うのが、面接を受けるために、入り口の扉の前に立った時の第一印象だった。車が沢山通る道路に面して幾つか店舗が並んでいて、向かって右隣には弁当屋があり、前でちょうど二人ほどお客が待っていたが、左隣の店はシャッターが下ろされて閉まったままになっていた。
 旧式のありふれた質素なすりガラスのはめ込まれた木製の扉を大きな息を一つしてから、ゆっくり開けて中に入ると、部屋の中には、小中学校で使っているような二人ずつ並んで坐るタイプの机と椅子が十組ぐらい所狭しとばかりにぎっちり並べられていて、正面の壁に掛けてある丸い時計の針がちょうどその時、午後の六時を指しているのが目に入った。すでに三組くらいの中年や学生の講師らしき人達と生徒達がそれぞれに勉強を始めていて、頭のてっぺんの禿げた四十歳代ぐらいの塾長らしき人が、細い通路になっているところを、長い棒を持って行ったり来たりしている。涼子は履歴書の入っている封筒をバッグの中から取り出すと、小さな咳払いを一つしてから、出来るだけハキハキと、
 「あの、先日お電話しました芹沢涼子ですが、履歴書を持って参りましたのでよろしくお願いいたします。」と言った。
 「あ、そうですか。じゃあ、ちょっとそこの椅子に座っていて下さい。」
 赤ら顔の丸顔でずんぐりと小柄な体型のその人は、まるでいつか見た映画に登場していた日本の陸軍のあまり位の高くない兵隊さんといった感じがして、どちらかと言えば勉強には不向きのような人に見えた。何故、家庭教師センターなどという種類の仕事をするようになったのか不思議であったが、とても緊張しているのでその経緯を知りたいとまで思う余裕はなかった。
 

「国語の他には何か教えられませんか?小学生ぐらいの算数や理科なんかはどうですか?」相変わらず手に長い棒をもったままの塾長がそう言いながら涼子の前に椅子を持って来て座った。涼子は(困ったな。算数や理科は学校に行っていた時からあまり好きではなく不得意な科目だったので、いくら小学生でも教えるのは無理かもしれない。)と思った。しかしそんな気持とは裏腹に、自分ながら意外な言葉が次の瞬間、唇からすらすらと出て来た。「はい、教えられます。でも、わたしは中学、高校の国語の教師の資格を持っているので、なるべくなら国語をしたいのですが。」
 「それはそうでしょうね。お気持ちはよく判りますよ。国語と言う科目はとても重要で大切だと僕も思っています。勉強したい生徒がいるにはいるんですがね。なかなか国語を教えられる先生が少なくって。数学や英語なら文句なしに生徒も先生も沢山いるんですけどねえ・・・。」塾長のどっちともつかない話を聞いていると(やっぱり国語だけでは採用して貰えないかもしれないな)と早くも心細くなる。
 涼子は自分の希望と言うより、両親の意向で私立の女子ばかりの中学、高校に行った。続いてそこの大学に入る時、国文科を選んだのは幼い時から物語を読むことが好きで、幾つも読んでいる中に、いつのまにか自分自身も物語を書きたいと思うようになり、その希望を実現させる為には、他の科よりもいくらか近道になるかもしれないと思ったからで、その他に大した理由などなかった。


自分は結婚してすでに主婦と言う一つの道を歩いているのだが、毎日の暮らしがあまりにも平凡で単調過ぎるので、いくら物語り(小説)と言うものが作者の空想で書くものだとは言え、もう少し世の中を知り、色んな経験を積んでおかなければ嘘も何も書けるものではないと思っていた。外に出て仕事をしたいと何故思うようになったか、それは一つには物語を書くための材料が欲しいからであり、後一つは少女時代からのそんな個人的な自分の夢の実現の為にまで夫俊介の経済力に頼ってはならないだろうと思うからであった。
 (それにしてもここの学習塾もやっぱり駄目なのかしら?)
 目の前の灰色の壁は所々塗装が剥げて白い傷になっているが、じっと見つめていると、それが何時の間にか男とも女とも区別のつかない得たいの知れない人の顔のように浮かび出して見え、涼子に向かって「駄目、駄目、お前には何も出来ないよ。採用してもらえないに決まっている。また今度も駄目に決まってるよ。」と意地悪く囁きかけてくる。
そして何年か前、駅前の本屋でパートとして半年間働いた時のあの二度と思い出したくもない最も辛くて苦い経験がふとまた甦って来るのだった。
 
二度と思い出したくもない最も辛くて苦い経験とはいったい何なのか?
それについて今から少し話しておきたいと思う。

結婚してからは、主にドストエフスキーやヘルマンヘッセなど外国の小説に惹かれるようになった涼子は、買い物の帰り道などよく本屋に立ち寄っては、文庫本を買って読んだ。
 日本文学よりも何故、外国の作品に心惹かれるようになったのかと言うと,その理由は単純だった。
 日本文学は「滅びの美」を描いている作品が多いと聞いているが、涼子自身も今まで実際に日本の小説を読んだ後、意味不明の哀しみやどうにもならない怖い感情が残ってしまうことが多かったように思う.「幽玄の美」が日本人の感性としては最も伝統的な優れたものの一つであることは良く知っている.しかし,自分のように神経質で怖がりの人間にとってはどちらかと言えば、例え同じ人生の深刻な内容が書かれてあったにしても、最後には必ず希望と言う光の見えて来るハッピーエンドの外国のものの方がふさわしく似つかわしいと思ったからであった.
例えば、アンデルセンの「マッチ売りの少女」と言う童話に出て来る主人公の少女の生活はことの外、貧しく孤独で悲惨そのものである。雪の降るクリスマスの夜、ついに寒さと空腹にこらえ切れなくなった少女がマッチを一本摺る毎に微かな光の中に楽しく美しい幻が現れては消えた。最後の一本のマッチが無くなって,そのまま雪の中で一人息を引き取る時には,天国から大好きなおばあちゃんが天使と一緒に迎えに来てくれて、少女はおばあちゃんに抱かれて天に上って行く。翌朝少女が街角でにっこり笑って死んでいるのを人々は見つける。
 このように外国の文学には死を明るく希望あるものとして描いている作品が多く,涼子がそういう作品に心惹かれるようになったのは、もしかすると、少年少女向けの外国文学を盛んに読んでいた小学生の頃からであったかもしれない。

 
 
本屋という所は、実際に本を買っても買わなくっても,洋服の好きな人が買っても買わなくても洋服屋に入るのが好きと言うのと同じように涼子にとっては好ましい場所だった。学生時代に大学の図書館で暫くアルバイトをしたこともあり、本の沢山集まっている本屋の中は、何故か自分が最も自分らしくなれて落ち着ける場所であった.
 そんな訳で,本屋には足繁く行くものだから、涼子とは一回りほど年齢が上に見える本屋の奥さんともすっかり顔馴染になってしまった. 夫の言う通り、商売人がお客に親切、丁寧にするのは当たり前のことかもしれないが,それにしても奥さんは確かにわたしのことを特別気に入ってくれている.何故なら行けば必ず思いっきり丁寧な心のこもった挨拶ともてなしを受けるのだから・・学校時代ずっと優等生タイプを通して、自分と同じ年頃の生徒達よりかは何故だかいつも先生達に受けが良く気に入られた記憶があるので,きっと今度もまたかなり生真面目そうなタイプの主婦に見られていて、それでまた特別気に入られているに違いないのだと,残念ながらその頃の涼子はまだ,世の中のことも自分のこともそれくらいにしか判っていなかったのである.
 
 それにしても涼子が生真面目なのは今に始まったことではない.実は生真面目過ぎることが原因で心の病になったことさえあるのだ.
 いつの時代にも親や先生は子供には規則正しい生活をして、人にはどんな時にも親切にするものだと教えているが、もし、仮に正しいことばかりして他人に親切ばかりして生きたとしても必ずしも幸せになれるものではなく、むしろ逆に時には親切にした相手からとんでもない目に合わされる事もあるのだということぐらいのことは涼子もすでに経験ずみで百も承知していた。
 「それならば,では一体どう生きれば良いのか?」ということについても長い間,突き詰めに突き詰めて考えて来たのだけれど一向に答えが無く,ついに「自分は一体何の為に生まれて、何に向かって歩いて行けば良いのだろうか?」などと、まるで哲学者,いやそれ以上に深く考え、挙げ句の果てに重い不眠症にまでなった次第なのである.
 それ故,当然心療内科の医師ともいつの間にか長い付き合いになったのであるが,ある時,医師からすすめられた福沢諭吉の(学問のすすめ)を読んだことがきっかけになり,誰でも実際に世の中で役立つ「実学」と言うものを学び、学んだことでお金を貰えるようにならなければならない.お金にもならない勉強をどんなに繰返しても結局は無意味で空しいと言うことも初めて判った.涼子のように深く考え過ぎるのも良くないし,結局は何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」なのだ.
                                          

    或る日のこと、涼子がいつものように駅前のスーパーで夕飯の買い物を済ませた後、本屋の前を通り過ぎようとした時に、ふと店先にあるタバコ売り場の窓の所に珍しく「パート求む」とマジックペン書きの白い貼り紙がしてあるのに気付いた。その晩、涼子は早速、履歴書を書いて翌日の朝、本屋に出向いて行った。手には一冊も買うべき本を持たず、いつもより改まって緊張した表情の涼子がレジの前に立ったので、本屋の奥さんは少しばかり怪訝そうに小さな目を精一杯大きく見開いて涼子の顔をじっと見つめた。
「実は昨日、貼り紙を見たんですが私をここのお店で是非働かせて頂きたいと思いまして、奥さんも御存知のとおり私は本が好きですし一生懸命やりますので・・・」自分ながら切羽詰まった声だなと思いながら早口にそれだけを精一杯に言った。
 小太りでお世辞にも美人とは言えない丸顔の奥さんの東大出のご主人も、その時ちょうどお店に出て来ていて、チラリと涼子の方に視線を向けた。奥さんはいっそう目を丸くして涼子の顔をじっと見つめ、次にほんの少しの間、視線を下にして考えている様子であったが、きっとその時、不採用の理由がすぐに思い浮かばなかったのであろう。意外にあっさりとその場で採用の返事をしてくれたのだった。



と言う次第で早速、その翌日から土、日を除き、お弁当持参で朝の九時半から夕方、学生のアルバイトの人と交替する五時まで、本屋の仕事をすることに決まった。学生の頃に一、ニ度アルバイトをした以外は家の外で仕事をした経験が全く無く、高校生の男の子と小学生の女の子の二人いる平凡な家庭の主婦である涼子にとって、毎日の家事と本屋の仕事との両立は、そう簡単なことではないに違い無かったけれど、何はともあれ願いが叶ってずい分嬉しかった。
夫は涼子がいつになくイキイキと喜んでいるのを見て本屋のパートに行くことを反対しなかった。たぶん、妻が家に引きこもって本ばかり読んでいるよりかは、外に出て何でも良いから働いてくれた方が前向きで明るくて良いと思ったからであるだろう。
何か嬉しいことがあると、惰性になって飽き飽きとしがちだった家事も面白いほど捗って、何だか急に生活全体に張りが出て来た感じまでした。
  
 
 初夏の朝、陽射しの明るい住宅街の道を今朝も本屋に向かって50ccのバイクに乗った涼子がゆっくりと走り出す。
最初の曲がり角から二軒手前の家の門柱の上には、いつものように、こげ茶と灰色の毛がちょうど程良く混じり合い、ほっそりとしなやかな体つきをしたお洒落で上品な感じの猫がまるで置き物の飾りの猫のように行儀良く前脚を立てて坐っている。
 その猫の目と言ったら、まるで誰も行ったことのない深い山の中にある底無しの湖の青色とも緑色とも区別のつかない複雑で神秘的な色をしているので、涼子はいつも買い物に行く途中,思わず立ち止まって暫く見惚れてしまうのだった。
 五、六歳の頃,母親が童話や子供向けの雑誌など時々買って来てくれては読んで聞かせてくれたものだったが、物語りはどれも涼子の全く知らない遠い世界の出来事をイキイキと美しく愉快に描いていた。主人公が人間であったり動物であったり妖精であったりして時には幻想的に時には冒険に満ち満ちて,小さな少女の胸は読むたびに期待と好奇心でワクワクとしたが,門柱の上の猫は或いは久し振りにその頃に感じたあの不思議な感覚をもう一度甦らせてくれるものであったのかもしれない。
 猫は自分の前をバイクに乗って通り過ぎて行く人のことを今朝もその冷たい魅惑的な目で、無表情に見ている。まるで貴族のように誇り高く・・いや、本当は今日の涼子になど何の関心も無く、実際には何も見てはいなかったのかもしれないが・・
 本屋の仕事をする前の涼子なら、もっと時間に余裕があり、もっとお洒落で猫に負けないくらい誇り高くまるで貴婦人のようにゆっくりと猫と見つめ合い、時には猫に話し掛けたりすることさえあったのだけれど、今朝はまるで違う。
 「何しろワタシは毎日お弁当持参で仕事に出かけなければならない労働者・・ いかに誇り高い貴婦人のような生活であっても、あの単調な毎日の退屈さにはワタシとことん閉口したのだから・・でももう今は大丈夫。悪いけれどアンタと付き合っている閑なんか今のワタシには全くないのよ。アンタの方はまだそんな生活が当分続くのだったら大変だと思うけれど、まあ元気にだけはしててね。でも、人間なら閑で退屈過ぎて病気をすることだってあるけど、アンタは猫やからきっとそれほどでもないんでしょう。だからきっと大丈夫ね。」


 一気に大通りを駈けぬけると間もなく駅前の本屋の裏口が見えて来た。
 自転車置き場には自転車やバイクがすでに一杯になっていて、一体どこに自分のを置いたら良いものかと途方に暮れながらも、やっと隙間を見つけて、無理矢理になんとか入れて、時計を見るとすでに九時二十五分をまわっている。(大変!急がなければ。)
 慌てて賭け込むように本屋の店の中に入ると、すでに二人の店員が来ていて、まだシャッターを閉じたままの薄暗い店の床を、それぞれ菷を持って掃いている。
 一人はほっそりと背が高く華やかで、しっかり者の主婦といった感じの一番古くから本屋で仕事をしているというベテランの佐々木さん。「実はわたしこれでも正社員ではなくパートなのよ」と昨日佐々木さん自身から直接聞いたばかりである。
 もう一人はやはり主婦で涼子よりは年上に見える佐々木さんとちょうど同じくらいの年齢で、店員の中では英語をただ一人話せるという優しそうな北野さんである。
「おはようございます。」涼子が挨拶をすると「あ、おはようございます。」と同時に顔を上げた二人からも挨拶が返って来た。
 「そうそう、芹沢さん、トイレの掃除を順番にしてるのだけれど、今日はあなたにも早速お願いしますね。ロッカーの中に掃除道具入ってるのでよろしく。大体一週間に一度くらいトイレの順番廻って来ると思うけれど・・」と早速ベテランの佐々木さんから用事を言いつけられた.
 「はい、判りました。」と涼子がにっこり笑う.(トイレならマカシトイテ!これでも自信あるのよ。教会のトイレのお掃除を何回したか判らないくらいしたんだから・・今度は本屋のトイレもすることになった訳なのね)教会に較べると本屋のトイレは部屋が一つで小さいし,大して汚れてなかったので、すぐに済んでしまった。 
一番年の若いまだ新婚ほやほやの水月笑子もいつ来たのか、本棚の陰から姿を現わして、「おはようございます」と細い綺麗な声で涼子に挨拶をした。「おはようございます。」
 これで今日の夕方の五時までのスタッフが全員揃ったことになる。
 レジの真上に掛けられた丸い時計の針が十時を示すとシャッターは全部開かれて本屋は急に明るくなって活気付く。
 

お客の姿はまだ一人も見えないが、店員達が棚に並んだ本の中で、少しでも乱雑にはみ出しているのを見つけるとすぐに、いかにも慣れた手つきできちんと入れ直したり、並び替えたりしながら整頓しているので、何をしたら良いのか判らず、手持ち無沙汰になりそうな涼子もとりあえず同じような動作をした。
 本は棚別に種類が分けられている。一番入り口に近い棚には週刊誌、月刊誌など、その隣には実用書、もう一つ奥の幾筋かの棚は沢山な小説が作家の名前の頭文字でア、イ、ウ、エ、オ順に並べられている。
 別の棚は涼子の大好きな文庫本、この棚の傍に来るとまだお客として本屋に来ていた頃から、何故かいつも憧れとも羨望とも区別のつかない独特の複雑な気分になるのが常だった。物語を書ける人は最高に素晴らしく、幸せな人だなあと溜息さえ出てくる。そして次に必ず(いつか私も書けるようになりたい!)と思うのだった。
しかし自分がそんな気持を持っていると言うことを涼子は今まで誰にも言ったことが無い。そんな途方も無く大きな夢を持っていることがもし誰かに判れば、きっと笑われて馬鹿にされるに決まっていると思うので黙っていることにしている.
文庫本の奥にはコミックス、それから中高生用のガイドと問題集の棚もある。
 兼倉書店は本の他に文房具とタバコも売っているので店内はかなり広い。              .

本屋には毎朝、問屋からトラックで色んな本が沢山運ばれてくる。
ひょろっと細くて背が高く、白いTシャツにブルージーンズのパンツ姿で、茶色っぽい長目の髪をした林さんと言う若者が裏口に停めてあるトラックから、一つ目のダンボール箱を抱えて、本屋の正面入り口の邪魔にならないいつもの場所まで運んで来て下ろした。
 林さんは黙ったまま誰にも朝の挨拶はせず、ただ淡々と自分のするべき仕事だけをしていると言った風で、それでいて機嫌が悪いと言うのでは決して無い。その証拠に何と言う曲名か知らないけれど、多分今若い人達の間で流行っている曲を口笛で吹いていて、かすかに涼子の耳にも聞こえてくる。本を受け取る店員達も黙って次々と若者の運んで来る箱を受け取っては、女性一人では重過ぎるので二人ずつ両方から抱えて店の中に持って入る。
本屋の午前中の殆どの時間は、本の詰まった幾つものダンボール箱を店員達皆で手分けして開け、本を分類したり棚まで運んだりする仕事で費やされてしまう。雑誌やコミックスは一冊ずつ透明のビニール袋に入れて、セロテープで止めなければならない。幼稚園や小学一年生から六年生まである子供達にお馴染みの小学館の雑誌などはいかにも子供の喜びそうな付録が沢山付いているので、一冊ずつの本の間に挟んで、ゴムバンドを十字にはめ、さらに本をビニール袋に入れるのだが、涼子は本屋でそんな仕事をするなんて全然知らなかった。実は今まで本屋の仕事について深く考えてみたことが無かったから..
本屋の仕事と言うものが、何となく知的で体裁良いものとばかり思っていた自分は実に浅はかであったと,実際に本屋で仕事をするようになって初めて気付いたが、今となってはもう遅い。「郷に入れば郷に従え」で何とか慣れるしかない。それにしても、本はとても重いので本屋では力仕事も多い。雑誌に付録を挟み、ビニール袋に入れてセロテープで止める繰返しの作業は、かなり根気も要りまるで手内職のようで,中途半端にしゃがみ込んで仕事を続けるので、腰痛になっても何の不思議もない。
  


午前十時半ともなると本屋にはそろそろお客が一人、二人と入って来るので、誰かがレジの仕事を受け持つのだが、特別、誰がレジと決まっている訳ではなくお客が本を買おうとしてレジの前に本を持って来たら、その時、手の空いた店員が誰でも良いから即座にレジの仕事をすることになる。涼子はレジの仕事をするのも生まれて初めてなのでレジの前に立つ時は、ベテランの佐々木さんが必ず傍に一緒に立って、色々と親切に説明したり、教えてくれたりした.
 これなら本屋の仕事が自分にも何とか勤まりそうに思えて来たのだったが・・・
ああ、しかし、涼子にとって、世の中は矢張りそんなに甘いものではなかったのである。
 或る時、レジの仕事をしていると一人の初老の男性が店の中に入って来た。レジの前まで来ると何を注文するのでもなく、黙ったまま涼子の顔を見て立っている。
「何かご用でしょうか。」と涼子が言いかけた時、本屋の奥さんがいつの間に傍に来ていたのか
 「あ、大谷さん、おはようございます。毎日お暑いことですね。ハイハイ、いつものでございますね。」
 と、そのお客に思いっきり愛想の良い声で挨拶をしたかと思ったら、今度はやにわに涼子に向かって
 「あんた、何ぼやぼやしてるんや!大谷さんが来られたら何がお入用か、判ってる筈やろ。早う行って持っておいで!早う行きんかいな。のろい!」と、がなりたてる。
「え?でも、いったい何をお持ちしたら良いのか、判らないので・・・」
「わかれへんて?今頃何言うてるのんや!大谷さんは<週刊読売>に決まってるやろ。大谷さん、すみません、失礼致しました。」
 涼子は大急ぎで週刊誌の棚の所まで走って行くと、一冊一冊目で追いながら探し、やっと「週刊読売」を見つけ出した。
(大谷さんかなんか知らないけど、ずいぶん失礼なのはあの人と奥さんの方や。わたしはあんな人、今初めて見たと言うのに、本の名前も言わないで買おうとするお客もお客だし、売ろうとする方も方だし、奥さんは使用人と思ってわたしのことを馬鹿にしてるのかしら?)
 涼子は父親以外の人からこんなにずけずけと言われたことが無かったので、良い年をしているにも拘わらず,思わず涙が出て泣き出しそうになり、すぐにその場を立ち去りたいような衝動に駆られたが、やっとのことで思い直しをしてレジの所に「週刊読売」を持って行った。
 「お待たせしました。」
何食わぬ顔をして大谷さんと言うお客に週刊誌を渡すと、
「大谷さん、お待たせしてすみませんでしたね。」と奥さんは相変わらずの猫撫で声.
「あんた、これからは大谷さんは何がお入用なのかしっかり覚えとかなあかんよ。判った?」と涼子に念を押す。
「はい、判りました。」


大谷さんはお金を支払うと、店員全員に見送られながら、まるで大臣かなんかのように悠々とお店から出て行った。 
そんな事があると、その日は何をしても調子が良くない。レジの仕事も計算間違いをして、300円お客にお金を多く渡し過ぎてしまった。ミスをしたら幾らのミスか金額の多少にかかわらず自分の名前を書いてレジの傍に貼りつけておく決まりになっていたので、涼子はその通りに決まりを守った。大した金額ではないのだから、これから気を付ければ良いと自分で自分を励ましながら、翌朝お店に行くと、奥さんから案の定また,こっぴどく嫌みを言われ、大目玉を頂戴した。まさにこれこそ「弱り目にたたり目、泣きっ面に蜂」であった。(T_T)
 ところが、それから数日もたたない中に、今度は何とベテランの佐々木さんともあろう人が1500円もお客に多く渡し過ぎて誰からみても完全なミスをしたのである。しかし、佐々木さんはその日、全く平気で知らぬ顔を通し、その事をレジの所に書いて貼っておくこともせず、奥さんに知られないので、翌日になってもいつまでも叱られる事が全くなかった.
(こういうのを世渡り上手と言うのか、『正直者は馬鹿を見る』とはこの事なんだわ.神様,わたし,これではやりきれないです.助けて下さい!)
本屋のお客だった時には、あれほど優しく親切に接してくれていた本屋の奥さんは涼子が店員として働くようになった途端、人が変わったように口やかましく、まるで鬼みたいと思うほど意地悪でこわい人になってしまった。
奥さんは涼子を見る度に必ずと言って良いほど、がみがみと何か一言でも言わないと気が済まないみたいなので、傍に来るだけで緊張してしまって、出来ることまで出来なくなってしまうような気持になり、実際にそうなってしまう事もしばしばあった。これでは奥さんは人を指導する人としては落第だと涼子は心の中で思った。
 

お昼ご飯は、交替で店の奥にある薄暗くて狭い物置き兼休憩室に入って食べた。その部屋の中には色んな本が何冊も雑然と積み重ねられたり、縦に並べられたりして,本達はまるで舞台裏で自分の出番を今か今かと待っている踊り子達のようで、中にはもう何年も待ちくたびれた為、すっかり年をとり,薄汚く埃まみれになっているのも混じっていた。
 たった一人、そんな沢山な本に囲まれてお弁当を食べるひと時は孤独ではあったがいちばん寛げる時間でもあった。
 目の前の薄茶色をした木の壁の高い位置には、明り取りの為の小さな窓が一つあり、そこから夏の終りの陽の光が眩しく射し込んでいる。朝、自分で作ったお弁当を食べ終ると、涼子は光の射し込んでいる窓の方を見上げながら天の父に祈りを捧げた。
涼子とほぼ同じ頃から本屋で働くようになった新婚の若い水月笑子と時々一緒に昼食を食べることがあったが、やはり、仕事場では辛いことがあるらしく、お互いに話しを聞き合っては慰めあった。
 水月笑子は小さい頃に母親をすでに亡くしていて、殊更淋しい人のように感じたので、涼子は
 「笑子さん、実はわたし日曜日には教会に行ってるのよ。」と告げた。
「え、本当ですか?不思議ですね。実はわたしもひと月ほど前から教会に行き始めたばかりなんですよ。」と笑子も嬉しそうに言ったので、二人は急に親しさが増しうち溶け合うことが出来るようになった。
 


毎朝、相変わらず林さんと言う若者がトラックに本を沢山積んで運んで来ていた.
通りから店の出入り口まで、慣れているとは言え、一人寡黙に何度も往復している姿が殊更孤独そうに見えて、或る時、大して用事が無いのを見計らって涼子は自分の持てそうな軽い荷物を選んで率先して運び、手伝った。
(人間は自分が辛いことを経験して、初めて人にも優しくなれるものなのかもしれない)と,そんなことを考えながら・・
 でも、そんなことをするあの頃の私って何て世間知らずで自分本意だったのかと思い出す度に恥ずかしくて冷や汗が出る。
秋風がどこからともなく金木犀の仄かな香りを運んで来るようになった月曜日、いつものように午前中本の仕分けの仕事をしていると、奥さんが、つかつかと涼子の傍にやって来て、突如として
 「あんた、昨日はほんまに大変やったよ。呆れたもんや。小学生の子がなあ、本を盗んだんやよ。困ったもんや。わたしが現場を確かに見たもんやから、店を出て行く所を追いかけて行って捕まえて、手下げ鞄の中を調べて見たら、案の定、コミックスが入ってたわ。それがなあ、あんた、その子は今から教会の日曜学校に行く途中やと言うやないの。」
 奥さんは中学生や高校生などが店の中に入って来て本を立ち読みし始めると、その横に自分もじっと立ち続け、立ち読みをしないように注意したり、時には生徒が店から出て行くのを追いかけて行って、「ちょっと、あんた、鞄の中を見せてみ。本を盗ったんと違うか?」と言って無理矢理鞄を開けさせて調べることもあるらしい.盗ってないのに盗ったと勘違いされた人も実際に何人もいると言う噂である.
奥さんはまるで鬼の首でも取ったみたいに、涼子に向かって息つく暇も無く興奮して喋り続けている。もともと声が大きな上に一層大きな声を出すものだから、これでは嫌が上にも他の店員の耳にも入ってしまうし、いや、そればかりか、店の中にはチラホラお客の姿も見えていて、誰の耳にもまる聞こえになっているに相違ない。
 

 「はあ、そうなんですか。それは大変だったんですね。」
 涼子は落ち着いた声で返事をした。
 「芹沢さん、あんたは確かクリスチャンやったよねえ。教会と言う所はそんな悪い者の行く所やったんか?わたしはてっきり、立派な人達ばかり行ってはる所と思うてたんやけどなあ。ほんまに呆れ返るよなあ。あんたはこの事どう思う?」
涼子は今、自分一人が攻撃の的にされていて、当然辛くはあったが、反面何故だか誇らしく嬉しい気持ちでもあった。事実、その気持ちのほうが辛さよりも強かったのだと思う。(自分はキリストに特別に選ばれたのかもしれない。だから、きっと今から大切な使命を果たさなければならないのだ。)すると自分自身でも驚くほど落ち着いた気持ちになれた。不思議な力が体のどこからともなく湧いて来るのを感じた。そして、静かな声で
 「教会は立派な人だけが行く所ではありません。物を盗むような罪深い人間だからこそ神様におすがりする為にも行く所だとわたしは思います。罪の無い人は誰もいないので、誰でも神を信じなければならないのです。信じるなら、どんな罪も許されて永遠の命を頂けるのですから。」
 「ほう、そうやのん。それはまた都合の良い話しやねえ。どんなに悪いことしても信じるだけで、簡単にその罪が許されると言うの?」
 涼子がこっくり頷くと
「ほんならついでにちょっと聞くけど,信じてたらお金も儲かると言うのん?どうやのん?」、
「はい、信じていたらお金も儲けさせて頂けると思います。神様がその人に必要だと思われる分だけは必ず与えて下さいますから。」
 「ふうん、それもまた呑気な話しやなあ。もう、あんたからは二度とそんな話なんか聞きとうないわ.」 
「そうですか。ではわたしも二度と言いません。」
 そうなことがあって、結局、半年ほどで本屋を辞めることになった。
 最後に「あんたは本屋の店員になるよりか、家で本を読んだり勉強したりしてる方が向いてると思うよ。」と奥さんは言った.涼子も(そう言われてみれば、それもそうかもしれない。しかし、家で本ばかり読んでいても一体何の役に立つと言うのか。それではあまりにも空しい・・)と思った。

 

本屋の奥さんには誰が言うともなく「おかねばあ」と言うあだ名が付いていることを涼子も知っている。
 いつだったか停車場で電車を待っている時に小太りで、少し猫背の何処かで見たことのある人が前に並んでいるなと思ったら久々の「おかねばあ」だった。電車がホームに着いてドアが開いたかと思う間もなく、「おかねばあ」は真っ先に誰よりも素早く、前の人を突き飛ばすような勢いで電車に飛び乗った。涼子が乗り込んだ時には、すでに真中の座席に涼しい顔をして座っていた。
 涼子は「おかねばあ」と同じ側の一番端の席が空いていて、そこに気付かれないようにこっそり座ったので顔を合わせないで済んでホッとした。
 時折、道でバッタリ出会うといつも決まったように「あんた、まだキリストさんを信じてるのんか?」と聞くので「はい」と頷くと「ふうん・・」と唸って(呆れた・・)と言う風に顔を何度も横に振りながらスタスタと行ってしまう。  
あれ以来、兼安書店には一度も足を運んだことがない。あんまり辛い思いをしたのでもうこりごりで、二度と思い出したくないし、他のパートの人達とも顔を合わせたくないからだった。
 ただ水月笑子とだけはあれ以来まだ今も交際が続いている。涼子が本屋を辞めるのとほぼ同じ頃に、笑子は笑子で一人のパートの人から意地悪をされるのがあまりにも辛過ぎて辞めたのだそうである。年齢の差も気にならず、お互いの家にも何回か行ったり来たりして、会えばいつでも話しが弾む。
 
 

 ある日、梅田のデパートにお歳暮を贈る用事で出掛けた時、偶然、雑踏の中で、本屋にトラックで本を運んで来ていた林さんと言う青年に出会った.
「芹沢さん」と後ろから声を掛けられて、あの林さんだと判った時,涼子は「あっ」と声が出て思わず笑顔になると林青年も立ちどまり「やあ、お久しぶりですね。この頃、本屋でお見掛けしないものだから、どうしておられるのかと思っていました。」とこれも又、笑顔で応える。 仕事中の林さんは無口で殆ど声を出して話してるのを見たことが無かったが、涼子が芹沢と言う名前であることを知っていて、しかも覚えていてくれたのだと思うと嬉しかった。仕事の時とは全く違って、ずい分、お洒落な雰囲気のする黒っぽいスーツに青い色のネクタイをしていたが相変わらずひょろと背が高くて、どこか気楽そうで好感が持てる感じだった。
 初めて近々と向き合って話してみると、言葉遣いも、顔だちも品があって、育ちの良い人のように見えた。
「わたし、色々あって本屋さんを辞めたものですから・・」
「そうだったんですか。じゃあ、またすぐに新しい仕事を見つけたら良いではありませんか。」
「ええ、そうなんですけれど・・わたしはそんなに器用な方ではないので簡単には見つからないのですよ。つい最近もレストランでお皿洗いとかジャガイモの皮むきでも何でもしますからと言って応募したのですが、結果は不採用で自分ながらがっかりしたばかりなのです。」
 林さんは涼子が真剣に言っているにもかかわらず何故だか愉快そうに頷きながら、たぶん、こんな雑踏の中で長く立ち話しなどしていられないと思ったのか、
「すぐ近くのカフェでちょっとコーヒーでもご一緒に如何ですか。」と涼子を誘った。
「ええ、でもわたし、まだデパートで用事を済ませていないものですから・・」
 涼子がそう言うと林さんは「そうですか。それなら・・」と胸ポケットから名刺入れを取り出して、その中の一枚を即座に差し出した。涼子が受け取ると「じゃあ・・」と爽やかな笑顔を残して,一度だけ振り返り「電話いつでもして下さい。待っていますから」とそのまま去って行った。まるで風のように早く・・
 名刺には「林 明良」と言う名前と携帯電話の番号が記されてあった。
 涼子の財布のポケットには今もその名刺がその時に仕舞ったまま入っている。
 
新しく作った郵便預金通帳の定額預金の欄には兼安書店で働いた6ケ月分のお金がそっくりそのまま積みたてられている。
今の涼子にはお金を引き出してまで買いたいと思う物が幸か不幸か特には無い。
もしも仮にあったとしても、夫が持って帰って来る給料の中から今まで通りに買って支払えば良いのだから、貯金の残高は利子が付いて増えていっても減ることは滅多にない。

何もしないでテレビを観ていても、好きな本を読んでいても音楽を聴いていても、家の中を綺麗に掃除しても、庭いじりをしても、何をしても、本当の心の充実をちっとも得られないのは本屋に行く前とちっとも変わらなかった。
自分のことを、のん気で優雅な人だという人もいるが、果たして本当にそうなのだろうか?と、再び思い悩み始める自分であった。
 
 そう言えば、ここ暫く本屋の奥さんの姿を見掛けない。「兼安書店」は相変わらず繁盛しているようだが・・
 
 

「芹沢さん」ふと、誰かに自分の名前を呼ばれたような気がして、涼子はまるで、たった今、長い夢から覚めたばかりの人のようにゆっくり目を上げるといつの間にか塾長が自分の目の前に立っていた。自分が一体どこにいて目の前にいる人が誰なのか一瞬判らなかった.
 「芹沢さん、大丈夫ですか。気分でも悪いのではありませんか?顔色が少し良くないようですが・・」
 「はい・・いいえ、そんなことありません。大丈夫です。少し考え事していたものですから。」
 「そうですか、それなら良いですが・・もうすぐ一人生徒が来ますので。」
 涼子は自分の耳を疑った。
 「え?生徒が来るのですか?もしかして、わたしと国語を一緒に勉強する生徒ですか?」
「そうですよ。来たらすぐに始めて下さいよ。中三ですから。」
 「え?今からすぐにですか?」
 「そうです。そうです。」
 (そんなん困る。何も予習してないし、第一、心の準備もまだ全然出来てないし・・)
その時、入り口の戸が勢い良く開いて、一人の少年が入って来た。
 日焼けした屈託のない顔に笑えば白い歯のよく似合う背の高いその少年は、家庭教師センターでの涼子の第一番目の生徒だった。
 
 帰り道、夜空には白い月が出ていて道はとても明るかった。
 涼子はバッグから買ったばかりの携帯電話を出すとあの名刺に書かれている番号を押した.
 暫くすると林青年の声がした.
「はい,林ですが・・」
「もしもし,私芹沢涼子です.今日やっと新しい仕事が見つかって今初めてのお仕事が終ったばかりなのでお電話したのです.」
「新しい仕事っていったいどんな仕事ですか?」
「家庭教師センターと言う学習塾での仕事です.」
「そうですか.それは良かった!芹沢さんにぴったりの仕事ですね.」
「ありがとう.それだけ聞いてもらいたかったので,では・・」
「夜道だから気をつけて帰って下さい.」
「ええ,気をつけます.でも今夜は白い月夜でとても明るいですから・・」
「そうですね.白くて丸い月,僕にも見えていますよ」
「え,林さんにも見えているのですか!では,また今夜のような白い月が出ている夜にお電話します」
「待っていますよ.白い月の夜に・・・」   2003年4月3日完 
                      



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