のばされて握られる手の感触。
実家でのお正月。もう伯母たちも孫が出来、それぞれの家で集まるようになったのと、妹夫婦とその息子(2歳半)は今年もイギリスから帰国しないので、ここ数年は本当に静かな年末年始を過ごしています。昨年、実家での火災現場から救出され、その後3ヶ月ほど入院生活を送った祖母も元気です。火傷のせいで、新しい皮膚が再生したのか顔の皺も伸び、黒い髪もどんどん生えて、入院生活のお陰で糖尿気味だった体質と体型もすっきりとしています。それは昨年から見た目の変化としては認識していたのですが、今年の正月一緒に過ごして変わったなあと思ったのは、歩くとき、立ち上がるとき、まあ手を貸しますよね。手を貸すと、貸さなくても(介添えしてるだけでも)、ものすごく自然というか、当たり前のように、あるべきところにあるもののように手を出して、わたしの手をぎゅっと握って来るのです。2歳になる少し前の甥も当然のようにわたしの(普段会うこともない・言葉も通じない)手を握って歩きだすのでびっくりしたのですが、そういう庇護されるべき存在になったんだなあ、介護され慣れたんだなあとしみじみ感じたのでした。そして昨晩、また同じ経験をしました。22時過ぎに家のチャイムが鳴り、母が応対をしたようでしたが、しばらくして家に母がいないことに気づきました。なんとなく悪い予感がして、わたしも表に出てみると、消防車が目の前にすうっと現れました。火事かと思ったけれど、降りてきたのは消防士さんではなく。と、隣のおばさんが「おとうさんが息をしてないんだよ、おとうさんが死んじゃったよ」とわたしに走りより、手をぎゅっと握ってきたのでした。やはりたじろぎましたが、手を握られたまま「おばさん、大丈夫、救急の人が来てくれたんだから大丈夫だよ」と家の中に救急隊員の方と一緒に入りました。おじさんは寝室に寝かされており、間もなく救急救命士が到着し、救命処置が行われた後、地元のわたしも手術を受けた専門の先生のいる大きな病院に搬送されました。わたしは近所の人達とおばさんに付いて、息子さんやご親戚の方に電話をしたりしていました。わたしはもう嫁に行って東京に住み、ご近所と最近言葉を交わす機会もほとんどないわけですが、そこにある手をぎゅっと握るように握られるように、その場所に集まって、感情に寄り添うように過ごす時間がとても不思議に感じられました。自分がいくら閉じこもりがちでも、社交的ではなくても、きちんと表現しなければいけなかったり、受けとめてあげなければいけない瞬間というのはあるのだなあと思います。表現に慣れていたり長けていたりすればもっと豊かなのかもしれないけれど、逆にその瞬間さえ逃すことがなければ、それほど気に病むことではないようにも思えてきました。数時間後、おじさんは病院で息を引き取りました。子ども頃は一緒にお風呂にも入ったし、地域の行事で活躍されたり、最近ではびわこをよく可愛がってくれました。心よりご冥福をお祈りします。そして年の始まりに、人が亡くなっていくところに立ち会ったことが、自分にとって何か意味を持つように感じてもいます。