びたーあんどすうぃーと☆介護編

2004/11/08(月)13:42

昨日の続きです

家族(4)

そうまで言われて黙っている私ではありません。 その日、元ダンが仕事に出る頃を見計らって 妹を連れアパートを訪れ自分の物を一切合財持ち出しました。 帰ってきてさぞ驚いたことでしょう。 母はこの1年前に亡くなりました。 今から思うとうつ病を抱えていたのに知識が無い私は 的確に支える事ができず・・・。 最後に話をしたのはおそらく亡くなるほんの少し前。 「なんか言う事あったのに忘れちゃったぁ」 「じゃあ、思い出したら電話して」 この時、引き止めて欲しかったのではないか。 私が気付いて引き止めてあげられていたら。 後悔ばかりです。 あんなに仲が良かったのに。 大切な事は独りで決めてしまいました。 母に離婚した事を伝えないで済んだのは最後の親孝行だったのかもしれません。 家を出た私は10年ぶりに実家に戻りました。 そう、父の住む実家に。 ここでのトラブルは・・・ 父の会社が倒産しました。 そして金銭トラブルで父は暴行を受け 肋骨3本の骨折、顔面は2倍にも腫れあがり 脳震盪を起こし記憶もはっきりせず一ヶ月以上の入院をしました。 「警察沙汰にするな」と脅されたらしく「通報するな」と 父から言われました。 私たちは3人姉妹、自分の身を守るために警察に行き 犯人である何人かが逮捕されました。 しかし、この時警察にパトロールの強化をお願いした所 返事は「自己防衛してください」というものでした。 さすがにこの時は犯人たちを同じ目に合わせてやりたいと そう思いました。 今でも後遺症として声がしゃがれ、上手く出せないようです。 それから2年して私はダーリンと結婚しました。 その年の秋にはモカモカも生まれ 父は初孫をずいぶんかわいがってくれました。 でも、どこか偽善的で・・・ それは父の私に対する良心の呵責だったのかもしれないし 私が父に対して嫌な思いを持っているからそう映ったのかも知れません。 次の年の春、妹が結婚しました。 この頃から父のリウマチは進み方に加速がついていて 夏前に私の住む所から程近い大学病院に専門医がいるという事で 通院する事になりました。 最初は一月に一度、それが二週間に一度になり 秋には入院をする事になりました。 病名は「悪性リウマチ」です。 脱走騒ぎを起こしました。 看護婦さんに謝りに行きました。 出口で警備員と言い合いをしていました。 後から謝りに行きました。 全て尻拭いは私でした。 年を越して3月、1度目の流産。 見舞いには行かなければならない。 この時は父には隠して通いました。 毎日どうにか無事でいて欲しいと泣いて過ごしました。 流産が決定したのは私の誕生日でした。 6月、父が手術をしました。 首の骨が変形してずれている。 放っておくと神経を圧迫しているので 呼吸器系に影響し最悪の場合死に至る。 それを削って戻して固定する。 6時間半に及ぶ手術でした。 固定されたのは首だけ。 手は2本の指が動かせずブランブランな状態。 足は外反母趾がひどく、膝も弱っていて歩行困難。 ベッドから立ち上がるにも手に力が入らないため 介助が必要です。 7月、2度目の流産。 似たようなパターンの出血に半ば嫌気がさしていました。 体のほうが先に諦めてしまったのか 胸の張りが消え、つわりがなくなり・・・ 七夕の短冊にかけた願いはかないませんでした。 7月8日の事でした。 10月。 妊娠が発覚。 同時に父がうちへやってきました。 妊娠している事 出血があり散歩も禁止されている事など 今回は絶対無理したくないときちんと伝えました。 そして口だけは達者な父。 冷たい私をののしったりはしないので感謝しなくてはいけないかもしれませんが 次から次へと用を言いつけます。 思い立ったらすぐやらないと気が済まないのです。 出かけようとアパートの階段を下りかけると 窓から呼ばれ今でなくてもいい用を聞きに部屋へ戻らなければなりません。 そして父にとっては今やらなければならない用なのです。 どちらかというと私の半生の話になってしまいましたね。 長々と文章を並べてしまいました。 後日、フリーページの方にまとめたいと思います。

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