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影武者 徳川家康 第一部
影武者 徳川家康 第二部
影武者(かげむしゃ)は、権力者や武将などが、敵を欺いたり味方を掌握するため、自分とよく似た風貌や服装の人物を身代わりとさせること。また、その身代わりの人物そのものを言う。日本の戦国時代の武将の事例がよく知られるが、古代メソポタミアの身代わり王のように、古今東西を問わず似た事例が見られる。英語では、political decoy(英語版)と呼ばれる。
歴史と実態中世・近世戦乱の時代では、戦闘に際して部下に武将と同じ衣服や甲冑を着用させて敵方を欺き、陽動作戦を行なったり、武将が自らの戦病死や不在を隠すために用いられた。写真がない時代[1]では、名の知られた武将や権力者であっても人々が顔を知っているとは限らず、有効な手段であった。 平安時代の平将門には6人の影武者がいて、将門を討とうとした藤原秀郷が困惑した[2]とする「七人将門」の話が伝わる。 鎌倉時代末期の元弘の乱では後醍醐天皇の腹心花山院師賢が帝を装い、公家を従え服装と腰輿を整えて、比叡山に登り、緒戦、志賀の唐崎で北条軍を破ることに成功したが、すぐに正体がばれて延暦寺の僧兵に離反された。しかしその隙に、後醍醐天皇は笠置山で挙兵した。また村上義光は、吉野城の戦いにおいて大塔宮護良親王の鎧と錦の直垂を身につけ、宮の名を偽って名のり、身代わりとなって切腹したが、その隙に護良親王は南紀に落ち延びることに成功した。 戦国時代に入ると、「元の木阿弥」という成語の語源となった、筒井順昭の影武者の木阿弥という僧の事例が知られる。川中島の合戦で上杉謙信と渡り合った武田信玄は、実は影武者で信玄の弟(武田信廉)だったとも言われる。大坂夏の陣では、真田信繁(幸村)が穴山小助・根津甚八らを影武者として、徳川勢を混乱させたと伝えられている。 近代・現代近現代でも影武者の存在は取り沙汰されており、特に独裁的権力者は、自分の地位や権力を常に脅かされる可能性が大きいので影武者が必要と考えられ、その存在が話題に上ることが多い。 アドルフ・ヒトラーは、連合国軍(ソ連軍)のベルリン占領直前の1945年4月30日に自決したが、遺体は焼却されて本人確認ができないほど破損し、しかもソ連軍が持ち去ったため、ベルリンで死んだのは替え玉(影武者)で、本人は南アメリカ他に落ち延びた、とする説が現在も一部に残っている[3]。 イギリス軍のモントゴメリー将軍にはM・E・クリフトン・ジェームズ中尉という影武者がいた。ノルマンディー上陸作戦を隠蔽するための欺瞞作戦の一つ「コッパーヘッド作戦(英語版)」の折、モントゴメリーに扮したジェームズは地中海にて高官たちと南フランス侵攻について公の場で語り合い、あえてその情報をドイツ側に漏らすことでドイツ軍の主力を南フランスへ逸そうと試みた。 他にも、ソ連のヨシフ・スターリン、イラクのサダム・フセイン、北朝鮮の金正日、リビアのカダフィ大佐に影武者がいたという説がある。暗殺者がカダフィ大佐を銃撃して暗殺したかに見えたが、殺されたのは影武者だったとの話が伝えられている[4]。 上記の意味が転じて、現代においても著名人がマスメディアの取材、追跡を避けるため、秘書や友人など関係者を身代わりとしてマスメディアの方向をそらす際に「影武者」という表現を用いることがある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年01月16日 19時04分26秒
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