♪アトリエえんどうまめ 今季洋の日記。

2019/01/27(日)14:07

十牛図のこと その16

十牛図(41)

ここで取り上げているテキストは 『たましいのこと 十牛図で考える人生』 松村潔・著 ユビキタ・スタジオ です。 『あらためて十牛図の絵を描く講座』にむけて 自分自身の認識を深めるために テキストの読み直しをしています。 ここにアップしているのは そのための覚書です。 <この表記>は 本からの 写し書き部分です。 ☆ 第十図 入てん垂手 にってんすいしゅ 山から里に下りる <町中の名士は、町中でのみ作られる。なので、真に悟りを得た人が尊敬されることはそう多くはない。> P.125 ・マレ人 時を定めて訪れて来る客神。 ・トコヨ人 永遠の世界からやってきた神的な存在。 <また日本ではこの山の力を持ち込んでくる、エニアグラムの9の数字にふさわしい存在を「翁」と呼ぶ。> P.126 ・芸道はそもそも、儀式的な意義を持ったもの。 <聖徳太子は、物部守屋の反乱の時、六十六番の猿楽の面を彫り、側近の秦河勝に舞わせた。それで政情は安定したという話がある。> P.127 老人の意識や霊性は新しすぎるくらい新しい <そもそもここで若者が老人を発見することはない。牧人が牛を見つけることはなく、牛が牧人を引き寄せたように、老人もまた若者を捕まえる。> P.127 <奇妙に聞こえるかもしれないが、意識や霊性という点では若い人は保守的で、老人は先進的なのだ。> P.128 <山から下りてきた容貌魁偉な老人は新しすぎるくらい新しいのだ。そして若者はすぐに影響をうけてしまう。> P.128 老人の帰還は山の神の動きと同じ <日本のカミサマは、旅する神であることが基本だという。マレビトとしての神は固定した建物ではなく、十牛図の第九図で粗末な庵に住むということとも似て、用事が終わると撤去するカリヤに住む。> P.129 ・嵐で折れた花を水にさして季節を感じるという日本人の感覚 人の一生と四季の変遷は同一視される <春分点と秋分点で陰陽帳消しになるというのは、活動力に一瞬の空白ができることで、つまり能動と受動という区別がなくなると、フッサールのいうように意識活動はできなくなる。その瞬間に、より大きな上位のコスモスの影響を受け入れる隙間ができる。> P.131 ・ゼロポイントとなる春分と秋分は、開かれた扉

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