カテゴリ:日々のつぶやき。
今夜は、もうひとつ
ブログにアップしたいことに 出くわしました。 ここから書くことは 私自身の中でも まだ未消化な 答えの無い問いの 部分です。 なので ここから先は ひとつの たとえ話 仮説として 読んでいただけると うれしいです。 ☆ たとえば この世を生きるにあたって 一番大切なことは 「愛」であると 腑に落ちた人が 居たとします。 その人は 今2008年の 日本に生きています。 自分が一番大切だと思うことを 職業として 自分の生き方に統合しようとした時 その人は 「愛」を仕事にする人に なるのでしょうか? それとも それは 崇高なボランティアに するのでしょうか? もしくは 金銭の授受が からまないと認識されている お友達や 家族との間にのみ 発動するものと するのでしょうか? ☆ 先日 このブログに取り上げた 『神話の力』 ジョゼフ・キャンベル+ビル・モイヤーズ 早川書房のP.112に 「宗教とは、実は 第二の子宮みたいなものです。 人間という極めて複雑なものを 成熟させるためにそれはあるのです。」 という言葉が出てきます。 これを読んだ時 私が求めてやまなかったものは これこれ、これですよ、と 思いました。 この必要性を痛感し この第二の子宮を通過して その育んでくれた子宮の役割を 今度は自分が果たそうとする人たちが 占星術師であり ヒーラーであり セラピストであるのではないかな? 芸術というものも 同じような役割を 果たすものかも知れないし。 お金というのは 汚いものという認識で 共感できる人々は たくさんいるのだと思います。 でも よく考えてみたならば 汚いのはお金ではなくて それをどのように使うかという 人間に問題があるのでは。 お金と言うのは 単なる 社会の血液みたいな ものなのでは。 そして もっともっと よく考えたら 結婚や家族という関係性は お金とは 何のしがらみも無い 純粋な関係性なのかどうか? そこのところに 今の人類は 果てしない 夢と妄想を 保持しては 居ないだろうか? 昔シュタイナーのお勉強をしていた時も この問題には直面しました。 シュタイナーの本を たくさん訳しているNさんの講座には 何度か参加したことがあったのですが 仏教のお坊さんでもあるNさんは ある時 講座の参加費を明示しないで 「お布施」としたことがありました。 「お布施」というのは 純粋でとても美しいものだという印象を 人々に与えることは多いかと思いますが 講座参加費を「お布施」にした場合 金額はいくらにするのかは ひとりひとりの参加者に ダイレクトに問うことになってしまいます。 これは 実際は かなりの精神的負担を 講座参加者に余儀なくする 行為でもあったのでしょう。 そのシステムは すぐに「無し」に なったことがありました。 ☆ ここに書いたことは わたし自身が まだ明確な答えが 出せていない 問いでもあります。 この世で一番大切なのは 「愛」であると認識した時 それを金銭の授受が避けられない 「仕事」とすることを 私は自身で 正面切って 受け入れることが できるのかどうか。 そのことについての 自問自答の文章でした。 ☆ 先日読んで その直後に 風邪をひいて寝込んだ (注:もちろん一つの理由で 風邪をひいたわけではありませんが) 二冊の本の著者は 私のベスタの真上に ネイタル太陽を乗せる人らしく ここのところの まだ自分自身 あやふやだった部分に 鋭い問いを 突きつけた感じです。 おそらくその著者は ネイタルで 土星と海王星のスクエアーを 持っている可能性が高く それで 形無き霊の世界=海王星と サラリーマン=土星の 分離傾向を持っているのでしょう。 ☆ 打ち寄せては返す波のように このことに対する問いは くり返しくり返し訪れます。 そして そのたびごとに まだまだ統合し切れていなかった 自分自身の部分について 気づかされたりも しています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.02.02 10:18:09
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