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というアントニオ・ネグリ著の本が新聞に紹介されていた。「個人原則と言う常識へ異議」と注釈がついている。
内容は近代人の骨の髄までしみこんだ常識の一つは「一人一人が社会を作っている」ということで、今はそんな常識は通用しない世の中になっていると言うのだ。 著作権の問題が個人が通用しなくなっている現代社会の裏っ返しだと言う。 確かに世の中は大量生産された物質で溢れている。 最近中国の農薬事件など、食の安全からも「地産地消」が言われている。その先には「賞味期限問題」でも浮き彫りになった現代の一種の社会の病『大量の無駄』を無くすこと!現在の消費電力を供給するために化石燃料に頼っていられない世界各国は原子力発電所の開発を進め、核廃棄物の処理場を自国での開発を進めている。日本はそれに遅れをとっているが、その大きな理由は核への不安で、国民の廃棄物などもってのほかという考えが根強いからだ。政府はその考えを払拭っしようと躍起になっているが汚染物が危険なのには変りはない。それも社会の大量の電気消費が引き起こしている大きな人間の無駄である。危険物の無駄。地球の癌細胞だ。そんな大きくて人類規模で危険な癌細胞を抱え込むような生存に関わる無駄も無くしたい。ちょっと話が大きくなってしまったが、普通に考えたらどうしたらいいか。理想に立ち返ることだ。 その無駄のない社会を作るにはかつてかの有名な作家の宮沢賢治が唱えた自給自足で必要なものを必要なだけ作っていく「ユートピア」?の実現が理想となってくる。 ただ、その時問題として立ちふさがる大きな壁となるのは、先に言った産業革命以来、民主主義の元に発達した資本主義社会における大量生産によって生み出される数々の製品であると思う。(もちろんそれによって生じる電力消費量や、それによる大変危険な廃棄物の問題もあるが) 宮沢賢治の言うことが全て正しいわけでも、資本主義社会にどっぷり浸かった企業が私利私欲のために語る自己擁護の詭弁も全て間違っているわけでもない。もちろん私たちはもう、悲しいかな!原始時代に戻るわけには行かないのだ。 大量生産物の中には有益な物もあるし、大量生産あってこそ私たちが恩恵を受けている数々の科学の発展もある。それがこの世から無くなってしまう事は考えられないのだ。少なくとも、この先の科学的発展無しには逆に私たち人類の存続さえ危うくなってしまう。それは、私たちが生きていく上で必要不可欠な恵みを与えてくれるこの地球が危ないのと同じくらい大切な事なのだ!なぜなら、神の恵み?が私たちの罪深い過去の行いによって途絶えようとしている今、頼れるのは人に残された英知と、思いやりの心だけだから。 いずれにしても人類の未来は危機的状況にあると思う。 しかし、私たちが確実に生きていくために必要なのは「この二つの問題の間でバランス良く生きていくこと」なのだ。要するに科学と、自然の。自然のための科学といっても差し支えない。 この本の内容に立ち戻ると、著者は”現代人は個人が社会を作り上げていると思っているが、現代は「共(コモン)」の時代であると、「共」(分かりやすいのは会社)から個へ所得として利益を変換して「部分」であるある階級に帰属させるため発達してきた社会だ”と言う。 分かりにくいが・・・つまり、社会を作っているのは個(一人一人ですよ)と言いながら型にはめて帰属させようとしている。またまたつまり、国や民主主義という(資本主義)社会は搾取の(利益を得る)システムを上手く作っていて大なり少なり国民は常識と言うものの前で騙されて操られていますよという意味だと捉えた。 それをストレートに言うと問題があるといけないので評者は、あるいは著者?は、こういうクドイ言い回しをしたのではないかと思う。 評者はさらに『現代社会は個人的な「利」によって生産を刺激しようとしてきたがそれはもう端的な自己矛盾でしかない。「共」が生産したものは「共」へ。だから「さらば近代民主主義」なわけである』としている。 バブル崩壊以後、小泉によって唱えられた個人の能力によって生産を高める。つまり、職にあぶれた人は起業しましょう!というかつてのメッセージは一部のラッキーな人間だけが享受しただけで、ワーキングプアーや就職漂流民のように極貧からは個人の力だけではなかなか抜けられないことや、貧乏はますます貧乏に金持ちはますます金持ちになると言う法則からは抜けられないことは未だに不況が続いて格差社会が広がっている事実から分かるだろう。起業理想主義が機能しないことが今はっきりしてきた。 現実は「共」から「共」へなのだ。 実質社会主義的時代に入っているとまで著者は言いたいのだろうか?それは分からない。しかし考えさせられる部分はある。社会主義の理想のように当然この現代の「共」は国民全体では決してないのだ!人類全てでは決してない!今ではごく一部の人間なのだ。彼らが帰属するある階級なのだ!そこから落ちこぼれる人も溢れ出てしまう人も実際いるのだ。では、彼らだけが生き残るためにそれでもいいというのか?もっとモアベターな(良い)方法があるはずなのだ。皆が上手く生きていける方法があるはずなのだ! 今回、この本の評から先に記した「ユートピアにおける大量生産(資本主義の置き土産)の問題」を連想したが、この本の言う「近代的な民主主義」を卒業して、皆で生き残っていく良い方法を本気で見つけないといけない! え?皆で生き残らなくてもある階級の人間が生き残ればいいって?なぜなら私はある階級の人間だから? このような人は歴史が繰り返した過ちを知らない。人間として成長したことがない未熟な人なのだ。その行いや考え方は自分に返ってくることを知らないのだ。ナチスのヒットラーがなぜいけなかったか分かっていないのだ。スタンリー・キューブリックの映画「博士の異常な愛情」を観ていないのだ。 とにかく、私たちは変革を起こさなければいけない。それは急務で、物を生産することよりも明日会社に行くことよりも、世界で最も大切なことなのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.03.02 15:26:00
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