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カテゴリ:旅の重さ
京都には西本願寺(浄土真宗本願寺派)と東本願寺(真宗大谷派)のふたつの本願寺があります。築地本願寺はどちらなんでしょう。築地本願寺は「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」というそうなので、いわゆる西本願寺系の系統ということですね。
![]() 築地本願寺 しかし、どうして二つの系統に分かれているのかというと、例えば、このブログ→「本願寺の東西分裂」なんていうのにも書かれているようですが、 織田信長と対立した石山本願寺、つまり戦国時代、一向一揆として、暴れまわった武装宗教集団の本願寺第十一世宗主(平たく言えば、親分でしょうか)顕如の跡を継いだ嫡男教如に対して、顕如の未亡人であった如春院が、顕如の末っ子である准如こそ、正当な後継者であるという遺言書を持ち出してきたそうです。 今では当たり前ですが、当時、妻を持っていた僧侶ということで、顕如は時代の先端を行っていたんですね。さて、如春院は、真相はわかりませんが、教如と准如の実母であるはずなので、我が子可愛さで言ったわけでもないでしょうに一体とういう理由なのかは不明です。 とにかく、林家正蔵の名跡は林家いっ平が継ぐべきだと海老名香世子さんが言い出したようなものでしょう。 それで、この如春院は時の支配者豊臣秀吉に裁定を求めたわけです。でその裁定は、准如が宗主(門跡)であるということで、教如は宗主の座を降りたのです。 しかし、その豊臣政権が終わり、徳川家康の天下になると、この教如に家康は寺地を与え、そこが今の東本願寺になりました。 そして、これ以降、本願寺派、つまり戦闘的宗教集団は分断されたわけで、一種の内部抗争状態になったようですね。そして、未だに東と西にわかれて統一されていないようです。 考えてみれば、家康としては若い頃に悩まされた三河一向一揆の元凶であった本願寺を分断するとこによって、本願寺に対して一種の支配体制を確立できたということでしょう。 今まで介入できなかった宗教団体に政治介入できたという点で、興味深い出来事です。 そのあと寺院諸法度を徳川幕府が定め、宗教勢力はかってのように、僧兵とかを抱えることもなく、宗教イコール武装集団から脱却していったわけですね。
最終更新日
2008年08月20日 01時20分46秒
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