MoMo太郎日記

2021/07/05(月)00:10

「青天を衝け」慶喜と栄一の墓

芸能スポーツ(198)

NHKの大河ドラマ「青天を衝け」の主要な登場人物である徳川慶喜と渋沢栄一のお墓が谷中霊園にあると聞いたので、見に行ってきました。こちらが言問通り側から入った谷中霊園の入口です。 徳川慶喜公のお墓へは案内標識がこのようにあるので、迷わず、いや意外と目的の墓地に行くって難しいです、慶喜公のお墓に行くことはできました。 やはり、最後の征夷大将軍、立派なお墓で敷地も柵で囲まれています。 こちらがお墓の正面門扉についた葵の紋が徳川家ですね。 ちなみに、歴代徳川将軍のお墓は、初代の家康は日光東照宮と久能山東照宮ですが(神様なので)、二代目以降十四代目までは上野の寛永寺又は芝の増上寺になっています(なお、三代将軍家光は日光の輪王寺にも墓所があるそうです)。 慶喜は亡くなった時は将軍ではなかったので、民間人として谷中霊園に神道形式で葬られたということのようです。 こちらは東京都教育委員会が設置した説明板です。 徳川慶喜(1837-1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第7子で、はじめは一橋徳川家を継いで、後見職として将軍家茂を補佐しました。慶応2年(1866)、第15代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し慶応4年正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。以後、幕府制度や征夷大将軍の官職は新政府によって廃止され、復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。  駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31年(1898)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治35年には公爵を受爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2年(1913)11月22日に77歳で没しました。  お墓は台東区谷中の寛永寺墓地内に所在します。5600㎡余りの墓域の中央からやや西南寄り、東面して立地しています。間口3.6m、奥行き4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1.7m、高さ0.72mの玉石畳の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。 なお、慶喜公の葬儀は、幕末に慶喜に仕えていた渋沢栄一が委員長を務めて執り行われそうです。 正面には慶喜公の事蹟を記した墓石があり、二基あるお墓は石を敷き詰めた古墳のような形をしています。さらにその背後にも墓石があるようです。 左側にあるのは慶喜公のお墓です。 右側にあるのは、正室だった美賀子の墓です。慶喜公と美賀子の後ろにあるお墓は、慶喜公の側室だった人のお墓だそうです。さすが最後の将軍ですね。あの世でも大奥が必要だったんですね。 墓石に刻まれた文章です。 さて、こちらが渋沢栄一のお墓です。乙11号という区画にあります。 大きな墓石が三基並んでいました。 真ん中が、「青淵渋沢栄一之墓」つまり渋沢栄一のお墓ですね。 孺人(じゅじん)とは、中国で、大夫の妻を敬っていう語ですが、一般に妻のことを指す意味でも使われます。「渋沢孺人尾高氏之墓」と刻まれているので、実家の尾高の名前を用いている理由はわかりませんが、こちらは橋本愛さんが演じている最初の妻の千代さんのお墓でしょうね。渋沢栄一、すでに夫婦別姓を取り入れていたのかもしれませんね。 千代さんがコレラでなくなったので後添いとしてもらった兼子さんのお墓ですね。こちらも実家の伊藤家の名前が刻まれていました。 ところで、この役は大河ドラマでは誰が演じるのでしょうか。実家の伊藤家が没落して芸妓をしていたということですから、橋本愛さんと並ぶくらい美人の女優さんなんでしょうね。 谷中霊園は東京都の管理する霊園なので都に霊園管理料を支払わないといけません。霊園管理料は墓所の面積に応じて決まるそうですが、徳川慶喜公のお墓も渋沢栄一氏のお墓も子孫の誰かが結構な霊園管理料を支払っているんでしょうね。 人気ブログランキング 「青天を衝け」慶喜と栄一の墓孺

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