カテゴリ:95❜1.17 被災後の話。
私は、何時、隣家の2階が我が家を押しつぶすかもしれない。という状況の家で寝ておりました。
熱は40度を越して意識は半分飛んでおり、昨晩よりも朦朧としておりました。 しかし・・・何故か目が覚めました。 頭は冷たくて気持ちが良かったのですが、 臭うのです。 枕が。 メッチャ臭い! サビキ釣り用の撒き餌独特の、あの何とも言えない臭いで目が覚めたのです。 私:『臭・・・、この枕、臭うで・・・豪い硬いし・・・』と言うと、 親父:『臭いか?冷凍庫に入れたままにしてあった餌を氷枕の代わりにしたさかいな。再冷凍したものは、もう使われへんけど、とりあえずお前の頭を冷やす氷枕の代わりには使えるさかいな。』 私:『何や、エサかいな・・・』と、またいつの間にか寝ておりました。 次に兄が私を起こしにきました。 兄:『陸上自衛隊の野営テントに行って薬を貰うて来たったで。』と言っておりました。 兄は自衛隊の医師に私の症状を説明すると、 『普通の解熱剤では効かないだろうから座薬を出しておきます。たぶん、これで熱は下がると思います。もし、それでも熱が下がらないようなら、直ぐに来てください。』と言っていたそうです。 1日目は何の変化もなく寝ておりました。 2日目に、ようやく熱が下がり始めました。 3日目の明け方になると、だいぶ楽になってきました。 4日目には全身の痛みと激しい咳は止まらないけれど、ようやく熱も下がり動けるようになりました。 兄は、母が言っていたように、よく気が付くのかな・・・・と思っておりました。 その時は。 でもね、その後しばらく恩に着せられ続けておりました。 事あるごとに、 兄が、『あの時、俺が自衛隊のテントに薬を貰いに行ったらんかったら、お前も此処には居らんかったかも知れへんかったんやで。よかったなぁ。俺が薬を貰いに行ったってなぁ。俺が薬を貰いに行ったったから、モモンちゃんは生きてられるんやでぇ。(・∀・)ニヤニヤ』 と、しきりに言い続け、面倒くさい事は、全部、私に押し付けておりました。 あまりの、しつこさに、 私は晩ご飯代わりの菓子パンをかじりながら親父に、 『こないに、しんどい目に遭わされるのやったら熱冷ましなんか貰うてきてくれんかて良かったわ!』 と苦情をいうと・・・ 親父は、 『何でや? 熱が下がらへんから、あいつに、「俺は家を留守にするわけにいかんから、代わりに熱冷ましを貰うてきたってくれへんか。お前かて体があいとんのやさかい。」いうて頼んだんが何でいかんのんや?』と言っていました。 私は、これまでの経緯を親父に説明しました。 親父は、『明日の朝、避難所へ行ってくるから留守をたのんだで。』と言って、、、、 その日は寝ていました。 あくる朝。 朝ご飯の代わりは、やっぱり菓子パンでした。 親父は、菓子パンと水っぽいジュースで朝食を済ませると避難所へ向かいました。 私も、もしもの時にブレーカを落とす以外に何もする事はなかったので家の中でゴロゴロしておりました。 で・・・・昼前くらいに親父と母が帰ってきました。 親父:『今度、兄貴が恩着せがましいことを言うたら、「父ちゃんが言うてたことを、もう忘れたんか?」と言うたらええさかいな。』と言っていました。 その後、兄は恩着せがましいことを言わなくなりました。 母は家に帰りたくなかったのですが・・・・親父が連れて帰ってきました。 親父が、 『娘が豪い熱出して寝てるのに、家ごと潰されるのが怖いからいうて様子を見に来ん母親が何所ぞの世界におるんや? 1~2時間くらい家に居って、また避難所へ帰ってらええやないか?』と言って連れて帰ってきました。 呆けナスの兄貴が自発的に私の解熱剤を貰いに行ったのではなく、全て、親父の指示によるものだったのでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.09.25 15:18:42
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